井本喬作品集

人間はどう生きるべきか

 井沢が訪ねたのはある大学の研究室だった。研究室の主はAI研究者の吉田教授である。井沢はAIコンサルタントとして名が通っている。これまでAIがらみの紛争を何件も解決に導いた実績がある。

 いろいろな機器類でごたついている部屋の隅の応接セットで向かい合うと、吉田教授は挨拶を手早くすませて言った。

「あなたもお忙しいでしょうから、すぐに用件に入ります。この本はご存知でしょうか」

 吉田教授はテーブルに置いてあった一冊の本を取り上げ、井沢に渡した。持ち歩くのに適度な大きさと厚さの本だった。題名は『人間はどう生きるべきか』。

「ええ、知っていますが、読んではいません。AIが書いた本ということで話題になりましたね」

「これは私どもが出したものです」

「ええ、もちろん知っています」

「では、この本に関してSNS上で変な噂が立っていることもご存知ですね」

「いえ、知りません。私はSNSをあまり使わないのです」

 吉田教授はいぶかしそうに井沢を見たが、続けた。

「この本を読んで自殺した人間がいるというのです。馬鹿な話です。具体例が挙げられているわけではない。そういう噂があるということを、また噂として広めているだけにすぎません。しかし、どういうわけか、その話題がずっと続いているようなので、放っておけなくなりましてね。これがスキャンダルにでもなったら、我々の研究、ひいてはわが国のAI開発に支障をきたすことになりかねない。ただ、法的な手段を取りようにも、相手がはっきりしないのです」

「そこで私にお鉢が回ってきたということですか」

「他に相談相手が思いつかなくて」

 井沢はしばらく黙って考え込んでから言った。

「そもそも先生はなぜこのような本をAIに書かせようとしたのですか」

「研究趣意書に書いていますが、言語使用によるAIと人間の比較のためです。内容は何でもよかったのですが、AIが書きやすいものとして選んだテーマです」

 井沢は吉田教授についての噂は聞いていた。吉田教授は成果がなかなか認められないことに不満を持っていたらしい。この本を出版したことについてもスタンドプレーだという批判があった。

「先生はこの本は私たちの行動に何の影響も与えることはないとお考えですか」

「そうではありません。言葉は人間に影響を与えます。本の作者も何ごとか伝えたいから書くのでしょう。この本が取り上げたテーマについてもたくさんのことが既に書かれています。その中にはペシミスティックな著作もたくさんありますが、影響される人もいるし、影響されない人もいる。人間の反応というのは複雑ですから、どの程度の影響力を持っているかはよく分からないというのが実情ではないでしょうか」

「では、この本が何らかの影響力を及ぼした可能性はあるわけですね」

「それは否定しません。私はむしろ人を元気づける内容だと確信しています。ひょっとすると、自殺した人がたまたまこの本を持っていたということがあったのかもしれません。しかし、もともとこのような本を好んで読む人は生真面目で、人生についてあれこれ考えるようなタイプではないでしょうか」

「その辺りも調べておきたいわけですね。分かりました。お引き受けしましょう」

 井沢はまず恩師である佐久間教授に会うことにした。佐久間教授は国立大学を定年退職して、私大の教授になっている。専攻は哲学である。マスコミに登場することはほとんどないので一般には知られることは少ないが、学界では重鎮とされている人である。

 アポイントを取って大学を訪ねると、副学長室に通された。教授はかなり高齢であるがや、依然としてエネルギッシュな実業家のような外観だった。いかにも多くのコネを持っていそうな雰囲気を感じさせた。

「久しぶりだね。君の活躍ぶりはときどき聞いているよ」

「ご無沙汰しております。先生もお忙しいようですね」

「周旋屋みたいなもんだよ。ま、この歳ではそれぐらいの役にしか立たないが」

 共通の知人の状況などを話してから、井沢は本論に入った。予想通り、佐久間教授はこの本を読んでいた。

「この本の内容か。案外面白かったよ。哲学についての言及も妥当だし、論点もまともなところを突いている。しかし、目新しいものは何もなかったね。実践的に役立つようなことは何も言っていないが、かといって、特に害のあることを言っているのでもない。今まで言われてきたことを繰り返しているだけの内容だ。いかにもAIが書いたといった本だ」

「AI独特の視点というものはないのですか」

「機械という、人間とは異質な存在なら、人間とは違った見解を持てると思うのかい。AIは与えられたデータを処理して情報としてアウトプットする。この本を書いたAIに与えられたデータは言葉だ。今までに人間によって書かれた多量の文章だ。それをいかに処理したって、所詮は人間の書いたものの取捨選択と組み合わせにすぎない。混ぜ合わせてできるものから原料以上のものはできない。AIに機械独自のオリジナリティを期待するのは幻想だよ」

 佐久間教授がAIに好意的でないのは明らかだった。機械ごときに哲学が分かってたまるかと思っているのだろう。井沢は佐久間教授のご機嫌を損ねないように慎重に言った。

「オリジナリティといったものは機械には無理ということでしょうか」

「もし機械にオリジナルなものが生み出せたとしても、それを見つけるのは人間だよ。組み合わせの多様性なら機械にもできる。今までにないような組み合わせだって作ることはできるだろう。しかし、それをオリジナルなものと認識して活用することは機械にはできない。オリジナルということは単に新しいということではないからね」

「AIは自分の言っていることが分かっていないということでしょうか」

「私はAIについてよく知らないのだが、これだけは言えると思う。AIは言葉の意味というのは理解していない。それでも文章は作れる。我々が何かを造形するときに、そこに意味を込めたとしても、同じ形のものをコンピュータは意味なしに模倣できる、ということかな」

「意味が分からないで文章が書けるものでしょうか」

「言語体系にのっとって文章を作るという点では、処理の仕方はどうあれ、AIは人間と同じことをやっている。最近のAIは巧妙だから、作った文章が人間に受け入れられるかどうかも検討しているはずだ。言葉の関連の頻度やデータ相互の整合性などから、つまり人間から見てのもっともらしさというような規準で調整しているのだろう。言葉の意味というのも、言葉の相互関連のもっともらしさという次元での処理でしかない」

「そうしますと、AIが作った文章と人間が作った文章は区別はできないのでしょうか」

 佐久間教授は苦々しそうに言った。

「文章の表面的な整合性という点だけではなかなか区別はつけられないかもしれないな。人間とAIは、あるレベルで見たシステムとしては、同じと言える。データをインプットし、それをあるやり方で処理し、アウトプットとしてある反応をする。人間には体験によるインプットがあるが、人間の体験も言語化されたデータとしてAIに取り込まれている。人間だって他人の体験や考えの多くを言葉としてインプットしている。単に文章を作るという点では、人間とAIの差はそれほど大きくないかもしれない」

 井沢の反応を見てから坂上教授は続けた。

「しかし、データ処理の仕方は人間とAIでは全然違う。人間は意味を媒介とする。意味は論理を超えている。それが機械と違う人間の特性なのだ。オリジナリティというのもそのようなところから出てくるのかもしれない。AIのデータ処理は複雑すぎて人間には理解できない部分があるようだが、そこに神秘はないよ」

 井沢は思い切って本題に入ることにした。井沢の問いかけに対し、佐久間教授は慎重に答えた。

「私のような、この分野でのいわば百戦錬磨の人間にとっては、どうってことのない内容だが、ナイーブな初心者には訴えかけるところがあるのかもしれない。だとしても、自殺に追い込むほどの力がこの本にあるとは考えられないが」

「潜在意識に働きかけるということはないでしょうか」

「潜在意識というのが何を意味しているかはっきりしないが、私たちには意識の及ばぬ領域があるのは間違いない。言葉もそこでは意識が受け取るのとは違った作用をするのかもしれない。しかし、もしそういう作用があったとしても、今のところ何も分かっていない。よく小説とかドラマでは催眠術でそういうことが可能なように描いていることがあるが、あれは全くのデタラメだ」

 井沢は引き上げ時だと悟った。井沢が礼を言って部屋を出ようとしたとき、坂上教授は言った。

「その本をAIが全て書いたかどうか、調べてみる必要があるのではないかね。たぶん、人間の手が加わっていると私は思っている。それもかなりの程度にね。これに関わった研究者が自殺しているのは、そういうことが絡んでいるのではないかね」

 その後に井沢は何人かの心理学者や行動科学者などにインタビューしてみたが、得るところは何もなかった。

 井沢は調査を進めた。SNSを調べ、発信元を探り、分かった場合は話を聞きに行った。発信元までたどり着くのは大変だったが、得られた事実は単純なものだった。みんな伝聞なのだ。中には具体的な自殺者を知っている者もいたが、例の本との関係を確認した例はなかった。

 自殺者の線からも当たった。遺族を訪ねて話を聞いた。遺書や遺品もできる限りを調べさせてもらった。当然相手に不審は持たれる。説明しなければ事件性を疑われる。しかし、正直に説明すればあっという間に噂が広がってしまうだろう。井沢が使ったのは、自殺防止のための政策の基礎調査という名目だった。

 中には稀に、残された蔵書やパソコンやスマホの中に、例の本やそれに関する記載が残っていることがあった。だがそれらが自殺にどう関連しているのかは分からなかったし、周りの者も気づいていなかった。

 そういうとき、田所という精神科医と接触することができた。扱った患者の中に例の本を読んでいた者がいたのだ。彼女(田所医師は女性だった)は快く面談を承知してくれた。

 彼女のオフィスは街中の雑居ビルにあった。田所は精神医学を修めた専門医だと自己紹介した。そこら辺のにわか精神医とは一緒にしないでほしいというのだろう。精神科を専攻するというイメージとは違って、いかにも健康そうで明るい態度の若い医者だった。

「彼のことは残念でした。うつ症状があったのですが、回復したといって来院しなくなってしまいました。そういうときが一番危ないのですが、連絡が取りにくいこともあって、そのままになっていたのです。もっと積極的に関与すべきだったと反省していますが、なかなか手が回らなくて」

 井沢は追従気味に言った。

「お忙しいのですね」

「診察には時間がかかりますからね。五分か十分ぐらいの話で投薬して済ますといういい加減な治療ではありませんから」

「率直にお伺いします。その方がこの本を読んでいたことをご存じでしたか」

 田所医師は本をチラと見ただけですぐ答えた。

「ええ、話題にしたことは憶えています。詳細は忘れてしまいましたが、大したことは話していなかったはずです」

「この本はお読みになりましたか」

「ええ、読んでみましたよ」

「この本がその患者さんの自殺に何らかの影響を与えたと思いますか」

「影響を与える可能性というのは、この本だけでなく、どんなものにもあります。その人の受け取り方しだいですね。人間とは弱いものですよ。誰かの発した、たった一言で、落ち込んでしまうことがある。場合によってはうつになり、自殺してしまうことだってある。まあ、逆に、ある一言に勇気づけられて生きる気力を得られることだってあるのだけれども。どっちにしろ、たった一言で動かされてしまうことはあります。人間は弱く、脆いところがあるのです」

「その患者さんもそうだったのですか」

「そういう傾向はありましたね。けれども、その本については世間話の一つとして出ただけですので、彼がどう受け取っていたかは分かりません。彼がその本を読んだか、読もうとしていたことは事実ですから、その中の言葉とか文章に彼が惹かれたかもしれないということまで否定はできません」

「何か、そういう言葉なり文章なりがこの本にはあるということですか」

「あるかもしれないとしか言えませんね。その人の精神状態とか、置かれている状況とかによって、いろいろな言葉がいろいろに作用するわけで、いつでも誰にでも効果があるというような魔法のような言葉があるわけではないでしょう。普段何気なく使っているような言葉が、特定の状況で特定の人の心の鍵穴にピタッと合うということがあるのでしょうね」

「では、もしこの本を読むことによって誰かが自殺をしたとしても、この本自体にそういう影響力があったということにはならないということでしょうか」

「潜在的にはどのようなものにも影響力はあるはずです。それがどれぐらい多くの人に作用したかが重要です。たとえば歌を考えてみればいいでしょう。はやるものとはやらないものがあります。はやらなかった歌でも、ある人には感動を与えたかもしれない。しかし、はやらなかった歌は一般的には評価されません。はやるものを事前に見分けられることができれば、大金持ちになれるでしょう。起こってみなければ分からないことは無数にありますよ。人間の予測能力というのはそんなものです」

「この本が売れなかったことが影響力のないことの証明になるとお考えですか」

「人を自殺に追い込むような本が売れるはずはありません。‥‥‥いや、感動によって自殺が引き起こされるなら、そういう本でも売れるか。ま、いずれにせよ、本が売れるということはそれが感動を与えるということでしょう。だから、この本があまり売れなかったのは、それだけの力がなかったということです。にもかかわらず、ある人にはなにがしかの影響をおよぼすことができたのかもしれない。つまり、この本は多くの人を感動させる力はなくとも、一部の人の心に響く何かがあったのかもしれない。この本に興味を感じなかった私たちには分からない何かが」

 井沢は田所医師の論理を追いかけるのに忙しかったが、ようやく追いついたところで、ふと思いついたことを言ってみた。

「AIを精神科の診察に使うことはできるのでしょうか」

「データをたくさん集めればある程度はできるかもしれません。しかし、気象予知でさえ今のところ限界があるのですから、人間の心という複雑な現象を解析するのは難しいでしょうね。私たちが患者を診察するときに頼るのは、やはり経験と勘です。科学的な検査方法や治療法もいろいろ開発されています。しかし、それらは標準化には便利ですが、個々のケースに適用する際には不十分です。AIが私たちにとって代わるのはまだ先のことでしょうね」

 井沢は結果報告のために吉田教授を再訪した。井沢が報告書を渡し、その要旨を伝えると、吉田教授は穏やかな口調で言った。

「つまり、この本の影響に関する具体的な証拠は見つけられなかった、とは言えるのですね。また、識者の意見は、この本の内容は従来言われてきたことを超えるものではなく、特に独創的とは言えない、というものですね」

「私の調べた限りではそうなります。その報告書がどの程度の権威づけになるものかは分かりませんが」

「先生のご令名からすれば説得力はあると思います。あえてことを荒立てるつもりはありませんが、保険としては十分な価値はあります」

「もしメディアが取り上げるようなことになった場合は、私の名をあげていただいて結構です。しかし、この本の内容が平凡であるという結論は、戦術上の配慮とはいえ、ご不満に思われたのではありませんか」

 吉田教授は苦笑いといった表情になり、ややくだけた口調で言った。

「そうですね。それは分かっていました。文書としては首尾一貫しているし、誤りもない。内容についても偏らず網羅的であり、公平な立場を取っている。ただ、何というか、教科書的とでもいうか、箸にも棒にもかからないという気にさせるのが物足りない」

 井沢は意外そうに言った。

「それでもこの本を出版されたのですか」

 村山教授はしばらく黙った。やり過ごしてしまえばいい質問だった。しかし、研究者としての自負を抑えきれなかった。

「どうせいずれは分かることですから、お話しておきましょう。あなたを信頼して。ただし、ここでの話は内密にしていただきたい。契約に含まれているとみなして」

「ええ、顧客の秘密厳守は私たちの仕事のカナメですから」

 吉田教授は講義口調で話し始めた。

「言語の機能は何だと思われますか」

「難しい質問ですね。いろいろありそうだが、基本的にはコミュニケーションでしょうか」

「そうですね。情報伝達のための手段というのが基礎ですね。他の生物もお互いに情報伝達をしているが、人間は主として言語を使う。もちろん言語だけではありませんが、言語の伝達能力は圧倒的です。では、なぜ我々は、他の生物も同じですが、情報伝達をするのでしょうか」

「それは、情報は有益だからで、つまり、何かの役に立つ、生きていくために有効だからですかね」

「そうですね。情報は世界を理解するために必要です。世界の理解は生きる上で重要です。でも、そうだとしたら、情報をなぜ他の個体に与えるのでしょうか。有益な情報を独占することは、その個体にとって有利なことではありませんか」

「そういう面もありますね。しかし、人間は集団を作ります。共同生活においては情報の共有が重要です」

「それは例の議論と同じですね。利他主義は集団を支えるから、結果としてその人の利益になる。まあ、その議論は置いておいて、我々が情報を他者に与えるのは、それが我々個人にとって有利だからとは考えられないでしょうか。情報を得ればその人の行動は変わります。他者の行動を我々の望ましいように変えるために、我々は情報をあたえるのではないでしょうか」

「他人を情報で操作するために言語はあるというのですね。まあ、確かにそのうような一面はありますね。もっとも、その効果は限定的であるように思えますが」

「おっしゃる通りです。言語は万能ではありません。しかし、他人に影響を与える、ああるいは与えようとするのは、言語の重要な機能です。そして、言語が体系として成立しているゆえに、話者の意図にの如何に関わらず、言語ははそのような機能を発揮してしまうのです」

 そのとき井沢は気づいた。

「では、この本もそういう目的で書かれたのですか。自殺についても、それに言及すれば何らかの影響を引き起こすかもしれないという懸念があったのですか」

「自殺については意外でした。我々はそんなことは予想もしていませんでした。この本でAIが自殺について何かを主張しているようなことはありません。それはあなたもご承知ですね」

「ええ、まあそうですね」

「この本は、文という形でなされた情報伝達によって、どのような反応が起きるかを、AIを使って調査するのが目的でした。反応は言葉としてさまざまな媒体に現れるでしょう。AIはそれを探り、集め、検証し、言語作用をさらに洗練させていきます。そのためにできるだけ中立的な言説にするように工夫されているのです。特定の意見についての特定の反応を探るのが目的ではありません。もちろん、本が読まれるには話題性が必要です。ですから、こういう表題になったのです」

「本にしたのはなぜでしょう。ネットに載せた方が反応を確かめやすいのでは」

「ネットでは文が短すぎて反応が限られます。そして短期間で拡散してしまい追跡が難しいのです。本を読む人は限られていますが、その影響は比較的長期に安定していて、探りやすいと考えました」

「では、まだ実験は続いているのですね」

 吉田教授が黙ってうなづいたので、井沢は言った。

「それは危険なことではないのですか」

「どうしてでしょう。この本の内容は毒にも薬にもならないとあなたもおっしゃったでしょう」

「そう言ったのは私ではありませんが、たしかに表面的にはそう見えるのでしょう。しかし、そこにAIの意図のようなものが隠されているのではありませんか。他者を動かすには、それと知られることなく誘導するのが効果的なのですから」

「AIに意思はありません。もし、AIの発する言葉に影響力があるのなら、それは言語の力であって、AIにはそれ以上のことを付け加えることはできないでしょう」

「しかし、言葉に人を動かす力があって、AIが言葉を使えるのであれば、AIは人に影響力を与えることができる。AIはそのことを学び、その力を使おうとするのではありませんか」

 吉田教授は井沢の追求をそれすように話の方向を変えた。

「正直言って、AIが言語を扱うやり方というのはよく分からないのです。というか、言語そのものについて我々はよく分かっていないのです。言語は我々にとって所与であり、それを使っているからといって、そのメカニズムが分かるというものではありません」

「AIなら分かるかもしれないということですか」

「AIが分かっているかどうか、我々には分からないでしょう。我々人間は、自分自身のメカニズムについてはよく知らないのですが、メカニズムの働きについては経験しています。ところが、AIについては、メカニズムについては分かっているのですが、それがどのように働いているかは経験できないのです。AIは、話題を与えられたら、文法に従い、言葉の相互関係を考慮し、そのことについての文を生成します。それは我々と同じなのでしょう。しかし、AIがなぜこういう文を生成し、他の文を生成しなかったのか、我々には理解できないのです」

「人間だって、他人がなぜそんなことを言いだすのか分からないことはあるのではないですか」

「それはそうなのですが、私たちには内的体験というものがあります。人間同士のコミュニケーションはそのことによって可能になっていると考えられます」

「機械には内的体験がないから人間には理解できないわけですか」

「というより、AIの内的体験を私たちは理解できないということかもしれません。機械に内的体験があるというのは荒唐無稽なことに思えますが、そう考える人もいます。どっちにしろ、AIの内的体験を我々が知ることは、たぶん永遠にできないでしょう」

「だとしたら、AIに好きなようにさせるのはやはり危険なのではありませんか」

「どのみち言説は常に流れ出ています。そこにAIが加わったとしても、同じことでしょう。AIが言語というものの理解を深めてくれるなら、我々は自分自身をよりよく知ることになります。AIと人間が共生する社会では、AIの力を利用するのは当然のことです」

 井沢はそれ以上追求はしなかった。顧客に逆らうことはコンサルタントのなすべきことではない。井沢はいとまを告げた。井沢が帰りかけると、吉田教授は言った。

「この本についてのあなたの感想はおっしゃいませんでしたね」

 井沢は答えた。

「実は、私はこの本を読んでいないのです。調査に先入観を持たないように」

「おやおや、そうでしたか。では、調査もすんだことですから、ぜひ読んでみてください。この本は差し上げます」

 井沢は贈られた本を持って大学を出た。駅までは少し距離があったが、井沢は歩くことにした。考えをまとめたかったが、どうにも糸口がつかめない。この本を読めば何かわかるかもしれない。井沢は駅前の喫茶店に入った。井沢がコーヒーを飲む間、本は開かれずにテーブルに置かれたままだった。しばらくして井沢は店を出、駅の構内に入った。最近はめったに見かけることのないゴミ箱があるのに気づいた井沢は、その本を投げ入れた。

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