井本喬作品集

お伽の家

 全ての発端は真田大海(「おおみ」と読ませていた)を友人にしていたことだ。彼について第一に言うべきは、美青年であったということだ。彼の整った容貌は、要素が制限された人間の顔という形象において、これ以上はどうしようもないほどの完成度を達成していた、としか言いようがない。だから、それは嫉妬を超越したものだった。あるいはどこか行き過ぎたところがあって、性的魅力においては、彼ほど美貌でない男に劣ってしまっていたかもしれない。広い額、やや細めの目、適度な大きさの適度な配置の鼻と唇、上品にとがった顎。彼を女にしてみても、美女にはならない。それは典型ともいえる青年の顔だった。僕は彼の顔を見ながら、彼が年老いていくとどうなるかを考えてみることがあったが、塑像が変形しないように、彼は不変に思えた。変わるとしたら、破壊と呼ぶようなものでしかないのかもしれない。

 僕が大海に引かれたのは、その美貌によるのではない。同性愛的感情を持たない男にとっては、彼の容貌を羨望しはすれ、親しみを覚えることはない。大海とは大学で知り合ったのだが、仲良くなったのは偶然にすぎなかった。僕の姓もSで始まっていたので、学生名簿で二人は隣り合わせだったのだ。もちろん、性格が合わなければ友達になることはなかったろう。二人の仲は親友と呼べるほどのものとなり、卒業してもその付き合いは続いていた。

 大海ほどの美貌と知能があれば、成功はいともたやすく、世の中は自分の才能を発揮する舞台くらいに考えておけば済むであろうに。だが、彼の容貌も才能もあまり実用的ではなかったのだ。どちらも完璧に緻密すぎて、鑑賞には最適だが、壊れてしまうことを恐れて手を出しにくい。まるで高価なおもちゃのように、使うのがためらわれるのだ。大海の方も、自己完結していて他人を必要としないようなところがあった。世俗的な成功は大海にとって不完全すぎた。求めるに足るものではなかったのである。

 彼のような男を友人としていたことが僕の不幸の原因だとして、彼を責めることはできない。原因は僕にあるのだから。あえて他に原因を求めるとすれば、三人の娘と知り合ったことだろう。彼女らと出会ったのは春だった。大海と二人で、彼の車で桜を見に行ったときのことだった。それまで桜を見るなんてことは僕の生活の範囲の中には入れていなかった。伝統に縛られた美の受容は権威への屈服のように思え、若い僕らにはふさわしくないと思っていた。

「桜なんて、色が白っぽくあせたようで、個性もなく群がっているだけの花じゃないか」

 僕のこだわりに対して大海はこう答えた。

「僕だって以前はそんな風に思っていたよ。ところが去年の春のことだった。満開の桜並木の道で前を歩いている高齢の女性を追い越しかけたとき、彼女が頭上の花を見て『まあ、きれい』と言ったんだ。わざとらしくなく、自然で、思わずというか、勝手に出てしまったようだった。僕も誘われるように見上げて、きれいだなと思った。それ以来、素直な気持ちで桜を見られるようになった。だから、まあ、付き合えよ」

 名所といわれるところを何か所か見て、最後に山の中の寺に寄った。ここに大昔の天皇だか上皇だかのゆかりの桜があるということだった。駐車場から長い階段を登って、門を入ると中途半端な感じの庭になっていた。そこに彼女らがいた。そのときはただお互いを認め合っただけで、大海と僕はさらに短い階段を上がって建物の中に入った。土間の正面が一段高い板敷きになり、左手に受付のような台がある。誰もいなくて、喜捨を求める箱が置いてある。僕たちは適当と思われる金額を箱の中に入れ、靴を脱いで上がり、右手に続いている廊下を進んだ。廊下の向こうに、手ぬぐいを頭に巻き、箒のようなものを持った、ねずみ色の僧衣を着た人が立っていて、僕たちを見て言った。

「いま、何時だ」

 その居丈高な声音に、僕たちはうろたえつつ時計を見た。僕たちの狼狽振りに事情を察したのか、僧は幾分態度を和らげて言った。

「もう時間を過ぎている」

 僕たちは自分たちのうかつさを謝罪して、入口に戻った。受付の台の隅に、黒ずんだ小さな木の札が立ててあり、読みにくくなった墨で拝観は四時半までと書いてあった。僧も入口まで来た。僕たちは再び謝罪しながら、靴をはいた。僧は喜捨を入れる箱をのぞいた。

「おカネは払ったのか。では、庭だけ見ていきなさい。いま、警報機を切るから。文化庁がうるさくてな。切ったら声をかけるから、そこから入りなさい。それで勘弁だ」

 土間の右端に潜り戸があり、庭に通じているらしい。奥に引っ込んだ僧がいいぞと声を出したので、僕たちは見えない僧に礼を言ってから、戸を抜けて庭へ出た。庭は建物にそって延びていて右側は塀が区切っていた。桜は奥まった隅に立っていた。かなりの老木で、太い幹は朽ちてうつろになりかけており、枝はほとんど失われ、突き刺したように細く数本ついているだけ。それでも花は咲かせていた。

 姿の見えない僧に再び礼の声をかけて、僕たちは建物を出た。駐車場には普通のソメイヨシノが満開に咲いていた。桜の傍に先程の三人の娘がいた。僕たちの姿を見ると、そのうちの一人が近寄ってきた(後になって、それが葵であったことを知った)。

「あのう、お願いがあるんですが」

 大海が答えた。

「何でしょうか」

「図々しいお願いなんですが、ご迷惑でなければ、近くの駅まで車に乗せていっていただけないでしょうか。もう、バスがなくて」

 大海が僕を見たので、僕はうなずいた。大海が承知の返事をすると、彼女は礼を言いながら両腕で丸を作って残った二人に合図をした。二人が駆け寄って来て、やかましく礼を言った。大海は車のドアを解錠し、女性たちを後部座席に乗せた。

「どうやって、あそこから帰るつもりだったんです」

 走り出した車の中で、当然の疑問を僕は言った。葵が答えた。

「タクシーを呼ぶつもりだったんです。この辺りはケータイが通じなかったから、あそこの茶店の公衆電話で。でも、駐車場であなた方の車を見て、もしかしたら、乗せてもらえるかもしれないと思って」

「それで待っていたんですか」

「そう」

 運転しながら大海が問いかけた。

「あなた方もここの桜を見に来たのですか。じゃあ、さっき門のところで会ったとき、四時半で閉まることを教えてくれればよかったのに」

  答えたのはやはり葵だった。三人の中でリーダーシップをとっているのは彼女らしい。

「やっぱりダメだったんですか。お教えしようかとも思ったんですが、お寺の関係者かもしれないし、余計なお世話かと思い直して」

「桜だけは見せてくれましたよ。寺の関係者なら、すぐには出てこないかも知れないのに、待っていたんですか」

「車のナンバーを見て、近所の人ではないのが分かって、一応待ってみようと」

 最初の会話から、僕と大海の理屈っぽさが現れてしまっていた。僕たちは会話の中で、どこから来たとか、何をしているとかの簡単な身上調査をした。彼女たちは学生時代からの友人ということだった。三人の名は、葵、麗佳、沙貴といった。

 最初は、少し離れた鉄道の駅まで送ることにしていたが、同じ方向に帰ることが分かって、そのまま一緒に乗って行き、夕食も一緒にした。そこから付き合いが始まったのだ。

 こんな危険な世の中で、女性から声をかけて車に乗るのは軽率な行為だ。そのことも聞いてみたのだが、三人と二人だから何かあっても数で対抗できるし、それに見た目が信用できそうだったから、と彼女らは言った。大海の容貌も彼女らを引きつけたのは間違いないだろうが、僕の存在が無意識的にでも彼女らの安心の根拠になったのだろうと思う。皮肉な言葉で言うならば、僕は「人畜無害」な印象を人に与えるようなのだ。

 僕らが彼女らを乗せたのは、もちろん若い女性ということがあったのだけれど、中でも麗佳の強い印象のせいだった。大海には確かめはしなかったが、少なくとも僕はそうだった。最初すれ違ったときから僕は彼女の美しさに捕らわれていたのだ。ある程度の数の女性がいる集団――例えば地域の住民とか学校のクラスとか勤務先の職場とかには、美人と呼ばれるにふさわしい容貌の人間が一人か二人はいるものだ。たとえ特別に近づきにならなくても、そういう女性と常にともにいる経験を男はしている。親しくはなれないゆえに、男はそういう女性に憧れ、彼女の美が外観だけではなくその存在の全てに浸透していると思い込んでしまう。美しい姿に美しい心。僕にとって麗佳はそういう種類の女性だった。

 知り合ってからしばらくは、僕たちは五人で集まって遊んだ。彼女たちのお目当ては大海で、僕は付属品のように見られていたに違いない。三人の女性のうちの誰かが大海と特別な関係になれば、やがてはこの結束は壊れてバラバラになるだろうと僕は予想していた。

 葵から相談したいことがあるというメールをもらったとき、後から考えると滑稽なことだったが、僕はてっきり僕たち二人の仲が親密になるのだと思い込んでしまった。だが、僕の期待は空振りだった。

 葵の顔立ちは、目、鼻、口がやや大き過ぎて、特徴はあるが、美人という範疇に入れるにはちゅうちょする。派手で明確な輪郭を望む人には好まれるかもしれない。彼女の最大の武器はその愛嬌だ。物おじしない態度、あいまいさのない口振り、表面的な人当たりの良さ、それらが、特に男に、いい印象を与える。彼女は喋ったり動いたりしている方がよく見える。美人だと錯覚させられるほどだ。背はあまり高くはないが、スタイルはよかった。ウェストは細く、しっかりとしたふくらはぎとすぼんだ足首は敏捷さを予想させる(運動のセンスはよいとは言えないのだが)。

 それは八月初めの土曜日だった。本格的な夏になったというのに、はっきりしない天気が続き、その日も梅雨のような雨が降っていた。葵と僕が話をしたのは川沿いのビルの一階にあるチェーン店のカフェだった。その店は長時間いても邪険にされることはないので、本を読んだり、レポートのようなものを書いたりしている人もいた。僕たちは目の前の窓からすぐ下の川が見えるカウンターに並んですわった。今日は薄着ではむしろ肌寒いと思えるくらいだったのだが、葵はブルーのTシャツと白いスラックスという服装だった。たったそれっぽっちの布きれで肉体を隠している気になれるのだ。たしかにその薄い遮蔽物は僕の視線をはね返すけれど、その下にあるものは特に想像しなくても形になって現れていた。

 どうでもいいような話題で会話を始めたが、すぐに種切れになったので、葵は本題を切り出した。

「あなた、麗佳のことが好きなんでしょ」

 そう露骨に言われて、僕は戸惑った。どう答えるべきか。微妙なニュアンスを伝えることができるかどうか。

「彼女はきれいだから。ああ、君だってきれいだけど」

「気を遣わなくてもいいわよ。麗佳は美人よ。並ではなく、トップクラスのね。男の人が惹かれるのは当然でしょ」

「そうだね。だけど、それと好きになるのは別のことだよ」

「あなたは麗佳と付き合いたくないの?」

 僕はひるんだ。そういう気持ちはあっても、他人に言うのははばかられた。自信がないというのがその主たる理由だった。葵はそういうことへの思いやりはできないのか、さらに突っ込んでくる。

「どうなの」

「彼女がどう思うか」

「それは別のことでしょ。あなたの気持ちはどうなの」

「彼女さえよければ」

「消極的ね。そんなことではなるものもならないわ」

 ほっといてくれと言いたかったが、なぜ葵がこんなこと言い出したのかの説明がありそうな気がして黙っていた。

「もし、あなたが麗佳のことが好きなら、話をしてあげてもいいわよ」

 葵にからかわれているのではないかという疑念はあった。葵の愛想のよさは口先だけのところもあり、その場限りの約束をしても平気だった。一貫性のなさを指摘されても決して認めず誤魔化そうとする。誠実さを期待できるとは言えないのだ。むしろ、小粒な陰謀家という雰囲気があった。葵には何らかの魂胆があるのかもしれない。

 五人で行動するとき、レストランや乗り物の席でどういう組み合わせですわるのか迷うときがあった。たいていは男性と女性に分かれるのだが、ときたま葵が指図して、僕と麗佳か沙貴を一緒にさせた。結果的に葵は大海と並ぶことになる。

 葵は、僕から見れば、麗佳よりも一段序列の下のクラスに属している。そのことを彼女が自覚していれば、大海について麗佳と張り合う気にはなれなかったろう。しかし、男たちと親しくなることの容易さの経験から、葵には自分の魅力に対してかなりの自信があったのだろう。麗佳と僕を結び付ければ、大海を手にするのに邪魔がなくなる。沙貴のことは考えなくていい。

 僕が半信半疑でいるのをじれったがって、葵は言った。

「女の子は二種類いるの。自分に自信を持てる子と、持てない子。美人だろうとなんだろうとそれは関係ないこと。麗佳は自分が美人だということは分かっているわ。でも、そのことが男の子に対してどれほどの力を及ぼすかについては分かっていない。麗佳ぐらいのレベルになると、男の子はかえって敬遠してしまうものよ。それに麗佳は慎重派だから、男の子との付き合いはあまり経験ないの。だから、自分がモテると思うことができないでいる。麗佳だって男の子には興味あるのだけれど、なかなか踏み出せないのよ。今まで私はそういう麗佳を見てきて、そろそろ、そういう麗佳の殻を破ってあげるべきだと思うの。あなたとなら、いいチャンスよ」

 僕は度胸のなさを暴露するようなことを言ってしまった。

「麗佳さんなら、大海の方がいいんじゃないか」

「そんなことを言っているとチャンスを逃がしてしまうわよ。真田さんのことなんか放っておけばいいのよ。問題はあなた、あなた自身のことよ。さあ、どうするの」

「僕には異存はないよ」

「じゃ、まかせて。段取りするから」

 僕が希望を持ったのは間違いない。葵の保証がどの程度のものか不確かだったが、何の目途もなく持ちかけてきた話ではあるまい。麗佳自身の勝手な都合はあるのだろうが、それが僕のためにもなるならかまわない。

 麗佳が僕に興味を持つのが奇跡ということでもあるまい。確かに麗佳の容貌は目立つ。麗佳に野心と強い意志と、そして幸運があれば、女優、モデル、タレント、女子アナといった特殊な職業につけたかもしれない。だが彼女には希少な機会の争奪戦に飛び込んで汚れをかぶるほどの覚悟はなかったようだ。葵の言うように、麗佳自身は自分の容貌に確信を持てずにいるのだろうか。葵と大海を争うようなことになるのを麗佳が嫌がったということも考えられる。麗佳が葵ほど男性の外観にはこだわらないとすれば、大海を葵に譲ってもおかしくない。大海を諦めれば、僕がいる。

 僕は葵に頼る気になった。そう思うと、葵の努力に対して何かお返しをすべきかもしれないと気がついた。彼女もそれを望んでいるのではないか。もちろん、金銭や品物ではないだろう。僕のできることとして葵が望んでいるのは、大海への僕の影響力を発揮して、彼と葵を取り持つことではないか。しかし、もしそうなら、それは見当外れだ。大海の考えや行動を変える力は僕にはないので、そういうことをする気にはなれない。むしろ僕が変なことをして彼に軽蔑されてしまうことを僕は恐れる。

 だから、僕は黙っていた。大海に関して葵の力にはなれないと弁解をすることは見苦しいだろう。葵がそのことを交換条件にしてきたなら、僕は困っただろうが、さすがに彼女はそんな露骨な取引はしてこなかった。でも、期待はしているのかもしれない。

 もし、成功したなら、麗佳と恋人関係になれたなら、葵に何かしてあげられることを考えよう。麗佳に何かいいアイデアがあるかもしれない。

 まるで、商取引か、陰謀ごとのようだ。僕は急に恥ずかしくなって、辺りを見回した。心配するほどには誰も僕らに注意をしてはいなかった。みな自分や自分たちのことに気を取られ、他人のことに関心を持つことなどないようだった。

 雨はやんで日が射してきた。カフェの薄暗がりから外へ出ると、光がまぶしかった。店の前で葵と別れた。何か楽しいことが起こるかもしれないという期待と謀めいた不自然さの不安が入り混じった奇妙な非現実感にくるまれて、漂うように僕は歩きだした。

 葵が約束を守って、麗佳を連れて会う段取りをメールで連絡してきたので、郊外の公園で会うことにした。待ち合わせたのは公園の近くの駅の改札口の前で、道路をはさんだ向こうに公園の入口の一つがあった。僕が先に来て、葵と麗佳は後で一緒に来た。葵がどういう口実で誘い出したかは分からないが、麗佳は戸惑っているようだった。

 ヒマワリが咲いているのを見に行くことになっていた。公園には噴水や花壇や林や池や芝生の広場などがあり、道が入り乱れるようについている。葵の先導でヒマワリ畑の方向に適当に歩いて行った。差し障りのない話題を交わしながら、広葉樹の林の中に入っていく道をたどった。日陰に入ると日光の熱さからはのがれられたが、風がないので涼しいとまでは感じなかった。林を抜けると、丘状になった斜面にヒマワリが咲いていた。ヒマワリの中の小径は日差しがまともだった。登りきらないうちに葵が止まって言った。

「暑くて気分が悪いわ。先に帰るから」

 葵は僕らの返事も待たずに来た方へ下って行った。麗佳はすぐに小走りに後を追い、二人は立ち止まって話し始めたが、何を話しているかは聞こえなかった。主に話しているのは葵の方で、麗佳は短く答えたりうなずいたりしていた。やがて葵は林の中に入ってしまい、麗佳だけが戻ってきた。

「葵は休憩所で待っているって」

 麗佳と僕は丘の頂上まで登った。丘一面のヒマワリは、数としては多いのだろうけれど、それでも圧倒的な広がりというには欠けていた。鑑賞用としてはこの程度で精一杯なのだろう。ヒマワリの花の黄色と茎の緑色は何だか毒々しいように感じた。ヒマワリの花はみな同じ方向を向いていた。花の正面に回ると、花の中の丸い部分が顔のようになってまるで集団で見られているようだ。集団特有のよそよそしさで。丘の上に四阿があり、日差しを避けようと僕らはそこに入ってすわった。林の中の蝉の声がやかましかった。

「今日はひどく蒸し暑いね。何か飲んだ方がよそさそうだ。自販機か何かあるかな」

「この辺りにはなさそうね」

 麗佳は帽子を脱いだ。日焼けを防ぐためだろう、長袖の白いシャツとベージュのパンツで手足を隠している。僕はファッションには疎いが、麗佳にはそれ似合っていると思った。もっとも、どんな服を着ようが麗佳なら似合うのだ。僕らが着ればぶさいくな代物も、大海や麗佳のような容姿の人間には自分を優雅に見せる障害にはならない。どんな不格好な衣装でも、彼らを醜くすることはできないのだ。

「真田さん、今日は都合悪かったの?」

「そうだね。何か用事ができたみたいだ」

「沙貴も急に都合が悪いって。そんなんだったら、無理して集まることもなかったのにね」

 麗佳が沙貴や大海に問い合わせれば嘘はすぐにばれてしまう。こんな杜撰な計画を立てた葵に僕はあきれた。

「そろそろ葵のところへ行きましょうか。一人で放っておかれては不安でしょうから」

 僕らは丘を下りて、葵のいる建物の方に歩いて行った。途中、スズカケの並木道があった。スズカケの木は太く、葉は青く茂っていた。まっすぐな並木道を並んで歩く二人は恋人同士に見えるだろうかと僕は思った。葵が待っていたのは池の畔に建てられた休憩所だった。売店があり、池に面してベンチが並べられ、狭いベランダとの境のガラス戸は開けられていた。葵はそこにはいなかった。

「どうしたのかしら」

 僕には分かっていた。

「帰ってしまったのじゃないかな」

 麗佳は戸惑い、言った。

「私たちも帰りましょうか」

「せっかくだから、食事だけでもしないか」

 麗佳はそれを断るほどには冷淡ではなかった。五人で一緒に過ごした時間は僕らを親しくはしていた。休憩所には軽食喫茶があったので、僕らはそこに入り、ランチ定食を注文した。

 麗佳と二人きりで食事をするのも、もちろん初めてだった。僕は彼女の食べ方の、上品な巧みさとでもいった動作に、見ほれた。それに比べて僕自身のがさつさはどうだろう。緊張してぎこちなくなったせいもあるが、まるで使い慣れていない食器を扱っているような感じだった。何を食べているか、味なんて全然分からない。

 食後にコーヒーを取った。僕らは無理して話題を見つけて会話を途切れさせないように努力した。まるで義務のように時間を潰したのだ。麗佳は退屈していたようだ。彼女があくびを隠そうとしたのを僕は見逃さなかった。それでも、僕は麗佳と二人きりでいられることがうれしかった。

 麗佳の美しさをどう表現したらいいのだろう。僕にしても、彼女の容姿について分析したことはないし、彼女の美が何によって構成されているかなどと考えたこともない。第一、彼女をまじまじと見ることさえできないのだ。たとえ彼女の顔や体の部分部分を分類して検討し、最上の部品であることを確認した後それらを寄せ集めてみたところで、麗佳という存在が理解出来はしまい。麗佳の美は、ブラックホールが重力の場によって知られるように、僕のおののきによって把握されるのだ。

 幸福だったとは言えない。むしろ、みなの前で発表するために舞台に上がるときとか、試験の開始を待つ時のように、目の前で何が起こっているのか頭の中に入ってこない。つまり、あがっていたのだ。二人の仲を新しい段階に持って行く言葉なり態度なりがあるはずなのだが、思い切ってやる決心がつかない。早くしなければとあせるのだが、一方で次の機会まで先延ばしにしてもいいという気持ちがある。

 続けられそうな話題として、麗佳は職場のことを持ち出した。彼女は直属の上司(女性)との人間関係に悩んでいると言った。そういうことは僕にも分かるから気軽に会話ができた。

「まるで私を目の敵にしてるみたいに、ちょっとしたことでも怒るの。その怒り方が普通ではないのよ。いまどき怒鳴ったり、人格攻撃みたいなことをする上司なんて、他にいるのかしら」

「パワハラってやつだね」

「そりゃあ、私だってミスをするわ。でも、それだけじゃないのよ。自分のミスを人のせいにしたり、どうでもいいようなことでも難癖をつけるの」

「君にだけかい。他の人にはどうなの」

 麗佳ほどの容姿なら、他の女性から嫉妬されるのは当然だろうと僕は思った。男性たちからはチヤホヤされるだろうから、余計に女性たちの反感を買うだろう。

「他の人も文句を言ってるわ。他人のことなどどうとも思っていないよう」

「よくそんなことで責任者がつとまるな」

「職場では浮いているけど、上の人にはおべんちゃら使って、誤魔化しているの」

「もっと上の人に訴えたらどうなの」

「それも、どうかと思うし。考えちゃうわ、辞めようかと」

「誰かに相談したの」

「親にはわがまま言ってるようで、話せないし、相談できるような先輩や同僚もいないし。同じ職場の人とは話し合っているのだけれど、どうにもならないことだし」

「君にも悩みがあるんだなあ」

 思わず僕はそんなことを言ってしまった。

「あら、どうして。私にだっていろいろ悩むこともあるわ。あなたの職場はどう」

「僕は満足してる。周りはみないい人だし、仕事もまあまあ面白いし。ただ、残業がきついけど」

「いいわね。そういう職場で働きたいわ」

「転職は難しいのかい」

「新卒と違ってね。それは男子と同じよ」

「いずれ人事異動があるだろ。それまで我慢したら」

「そうね。辞めたからといって、いいところに再就職できる保証はないわけだし」

 君なら誰かと結婚して専業主婦になる手もあると言うのは控えた。彼女もキャリアを積んでいきたいのかもしれないのだから。思いがけず彼女の身に立ち入った話ができたのを僕は喜んだ。これは親しくなっていく兆候ではないのか。

 公園を出るとそのまま二人は別れて帰った。

 その後、二度麗佳にデートを申し込んで、二度とも婉曲に断られた。麗佳が僕のことを迷惑がっているのに気づくのにはそれで十分だった。あるいはそれでも鈍すぎたくらいだろう。麗佳に会うことができるのは五人で会うときだけだった。二人とも、二人の間にはなにもなかったかのように振舞った。

 葵には何も言わなかったが、僕がしくじったのを葵はちゃんと承知していた。葵は僕のことを甲斐性なしと思っているだろう。だから、葵はもはや僕には関わってこないだろう。そう僕が予想した通り、葵は僕を無視していた。

 秋が深まった頃、葵が泊りがけのパーティーの提案をした。郊外にある彼女の知り合いの家を借りることができるというのだ。土曜日の午後に集合して、大海の車で四人で出かけた(葵は準備があるのでと先に行っていた)。車は山の中の小さな川に沿った細い道を走り、いくつかの小さな集落を過ぎる。紅葉といっても茶色っぽい黄色が主だが、それなりにきれいな林が続く。ときおり鮮やかな赤が混じっている。川が曲がってやや谷が開けたところにその家が突然現れた。川と道路にはさまれた細長い場所に、二棟の建物と庭園が配置されていた。駐車スペースになっているらしい空き地に一台の車があり、その横に車を停めた。

 車を出た僕たちに、一段高くなった庭から、頭にスカーフを巻き、大きなエプロンをスカートの上につけた中年の女性が声をかけた。豊かな体つきで化粧っけのないにこやかな顔つきは、僕にロシアの農婦を思わせた(そういうイメージが正しいのかどうかは分からないが)。

「いらっしゃい。お待ちしてたわ。こちらへどうぞ」

 二本の柱に飾り板のアーチをつけた門から僕たちは庭園に入った。庭園は英国風で、僕には名前の分からない草花が茂っている。

「まず、荷物を置きましょうね。男の子はこっちへ」

 女性は庭園の奥へ歩き、僕たちは従った。そこにミニチュアのような家があった。石をはめ込んだ壁に切り妻の赤い屋根。大きさからは倉庫ぐらいの用途しかおもいつかないが、倉庫にしては実用的な作りではない。童話の家を再現して庭に置いたようだ。女性はドアを開けて大海と僕を中へ入れた。ベッド二つと机一つが狭い空間に器用に収められている。木の床には小さな絨毯。白い窓枠の窓。天井はなく屋根裏が頭のすぐ上だ。部屋は緑や紺や赤などの原色の色で彩られている。

「ここは客用のベッドルームよ。トイレや風呂は別のところになるけど」

 僕たちはびっくりして、人形遊びのような部屋を見回した。大海が言った。

「素敵な部屋ですね」

 女性は藪の陰にある同じようなもう一軒の家を指さした。

「あそこが女の子たちの部屋。荷物を置いたら、こっちへ行ってちょうだい」

 今度は女性は庭園の端の棟を示した。麗佳と沙貴を別の小屋へ案内すると、女性は葵と一緒に庭園を抜けてもう一つの棟の方へ去って行った。僕らはもってきた荷物を小屋の中に置いた後、小屋の中にかけてあった鍵で扉を閉めて、指定された棟へ向かった。棟の中は大きな一つの部屋だった。簡素な造りで、白い壁、大きな窓、フローリングの床以外には付属物はない。家具は中央にテーブルと何脚かの椅子だけ。一面の壁にキャンバスやイーゼルやその他の画材らしきものが立てかけられ積まれてある。本物の暖炉があり、まきが置かれてあったが今はたかれていない。

 葵が入ってきたので、大海が言った。

「驚いたな、ここはどういうとこ」

「恵さんの別荘なの」

「親戚なのかい」

「いいえ、小さい頃、恵さんに絵を習ったことがあって、私は絵はもうやめちゃったけど、ずっとお付き合いさせていただいてるの」

「あの人は画家なのか」

「そう。家にもアトリエがあるのだけれど、ここへはときどき来て、絵を描いたり、庭の手入れをしたりしている」

「有名なんだろうな、よく知らないけど」

「絵で食べているわけじゃないの。もともと財産家なのよ。ここが気に入って、自分の趣味にあった家や庭を造って、親しい人を呼んで、楽しんでいるの。私も何回か来たことがあるので、使わしてもらえるか頼んでみたのよ」

 僕は余計な感想を洩らした。

「世間は不況だと大騒ぎだけれど、豊かな人には関係なさそうだな」

 葵が黙ってという身振りをした。恵さんという女性が戻ってきて、コーヒーカップとクッキーの入った皿を乗せたトレーを葵に渡した。葵は礼を言って受け取った。恵さんが引き返して行くと葵が言った。

「夕食は恵さんが作って下さるわ。台所は向こうの棟にあるの。とりあえず、お茶を頂きましょう」

 僕たちはテーブルを囲んで、女性と男性に分かれてすわった。コーヒーに各自砂糖やミルクを入れた。葵はコーヒーをそそくさと飲んでしまうと言った。

「私は恵さんを手伝って、夕食の準備をするわ。食事までまだ間があるから、ここで時間を潰していてちょうだい。二階には恵さんの絵が展示してあるわ。そうそう、お風呂にも入って。ここのお風呂はなかなかのものよ」

 二階も一階と同じように大きな一部屋だけの構造だった。ぐるりの壁には十枚ぐらいの絵がかけてある。絵は人物や風景だったが、写実的ではなかった。僕はどう評価していいか分からなかった。大海は感心した風ではなかったが、感想は述べなかった。ここの主人に礼を失することになると判断したのかもしれない。

 風呂は独立した建物になっていた。木張りの脱衣室の奥が、二人がゆっくり入れる広さの浴槽のある浴室になっている。川に面したガラス戸を開け放つと露天風呂のような雰囲気になる。川には澄んで青みがかった水が流れている。浴槽につかっていると流れ込む冷気が心地よい。

「葵の言う通り、こいつは、いいなあ」

 暗くなりだしてきた外を見ながら大海は言った。川の向こうの林の上にわずかに見える空が濃い紺色になっている。

 夕食はステーキとパンと豊富なサラダだった。若い人にはこういうのがいいでしょうと給仕をしながら恵さんは言った。部屋は暖炉がたかれて暖かかった。恵さんも加わって、ビールやワインを飲みながら山中の暗闇の中にいる雰囲気に影響された会話をした。恵さんは言った。

「ここは冬もいいのよ。山に雪が降った日には、車を走らせてここへ来るの。雪が積もって何もかもが真っ白な世界になっている。最高の気分ね」

 雪道を車で飛ばす恵さんの姿を思い浮かべるのは滑稽だったが、好き勝手に生きることに満足しているらしい彼女をうらやましくなくもなかった。

 デザートとコーヒーになると、恵さんは片付けがあるからと引っ込み、手伝おうとする葵にはいいからと言ってその場に残した。会話は穏やかに続き、寝たのは夜遅くなってからだった。外へ出ると真っ暗で、渡された懐中電灯で足元を照らさねばならなかった。

「星がきれい」

 沙貴がそう言ったので、みなが見上げた。空は山の陰に限られていたが、冴えた光の星が散らばっていた。都会で見るよりも数は多そうだった。オリオンだけが分かった。葵が傍でささやいた。

「来て」

 葵は彼女の泊る棟の方へ歩いていった。僕は大海にトイレに行くと言ってから、その後を追った。みなから離れて建物の陰に入ると、葵は立ち止った。

「午前一時に小屋の外へ出てきて。真田さんには内緒よ。ケータイを持って来てね」

「どういうこと」

「詳しいことはそのときのお楽しみ。いい?分かった?」

 酔っていたせいもあるのだろう。何かまともでないとは感じたが、余興のようなものがあるのかもしれないと僕は承諾した。小屋のベッドに横になり、灯りを消した暗闇の中で、大海は話しかけてきたが、僕は眠たい振りをしてまともに返事をしなかった。やがて大海は眠ったようだった。もちろん僕は眠ったりはしなかった。

 一時になって、ぼくはそっと起きた。大海は眠り続けているようだった。外へでるとコートをはおった葵が立っていた。彼女は持っていた懐中電灯を私に渡した。

「あっちの小屋には麗佳だけがいるわ。薬で眠っている。ケータイは持ってきたわね。写真だって撮れるわよ」

 僕はとっさに返事ができなかった。というより、そういう卑劣なことはすべきではないと言うべきだったのに、それが言えなかった。僕が黙っているのを葵は了承と解釈した(そう解釈してくれることを僕は願っていたのだろうか)。それでも僕が動こうとしないので、葵は僕の腕を取ってもう一つの小屋まで引っ張っていった。僕はされるがままになった。

「朝になったら迎えに来るから。それまで出ちゃだめよ」

 葵は僕を小屋の中に押し込み、扉を閉めた。灯りはついていなかったが、電気ストーブの放つ乏しい光で中の様子は判別できた。二つあるベッドの一つに人が寝ていた。僕はしばらくじっとしていたが、寝ている人が気づいた気配はなかった。僕はにじり寄った。もちろん、それは麗佳だった。僕はゆっくりと扉まで戻り、ドアノブの鍵をかけた。

 明るくなる前に葵が来たので、僕は自分の小屋に戻った。大海は寝ていた(僕にはそう見えた)。

 翌朝、僕はみなと顔を合わせるのが恐かった。洗面を済ませて、昨日夕食を食べた棟に朝食のために集まった。僕はなるべく麗佳と目を合わさないようにしたが、彼女の顔は盗み見た。僕以外の四人に変わったところはなかった。昨日の夜に何があったにしろ、誰にも何の影響も与えていないようだった。少なくともみながそう装っていた。

 朝食の後、大海、麗佳、沙貴と私の四人は恵さんの別荘を去った。葵は恵さんと一緒に帰るからと、一人残った。

 それからは、五人一緒に行動することがなくなった。それで、大海と二人で出かけることが復活した。

 その日は、保存されている洋館を見に行った。それはいくつかある彼の趣味の一つだった。それまでも大海の趣味に従って僕らは一緒に主に古い建物をいろいろ見た。地方の本陣跡やヴォーリズ設計の建物を訪ねたこともある。

 山の麓の住宅街の一画に、かつて酒造家の別荘として使われ、今は所有者の企業が管理している洋館が建っている。門を入って坂道を登ると石造りの車寄せがあり、その横に狭い入口がある。そこの受付で料金を払い説明のリーフレットをもらう。洋館だが靴は脱いでスリッパに履き替えるようになっていた。一階は玄関とクロークだけですぐ階段がある。二階に応接室、三階に和室の居間や寝室、四階に食堂と屋上バルコニーがある。斜面に立地しているので上階の方が広くなっている。有名なアメリカの建築家が設計したとのことだが、こぢんまりした造りだった。もちろん標準の家に比べれば面積は大きく部屋数も多い。暖炉や厨房もあって並みの住宅ではない。しかし、その種の欧米の住宅に比べればせせこましいのではないか。当時の日本人の体格や趣味に合わせたということもあるだろうが、敷地の広さよる制限や、何と言っても予算の問題もあったろう。資産家といっても日本では知れている。

 一通り見て回って、最上階の食堂まで行ったとき、大海は解説めいたことを言った。

「この建物はモダニズム建築とされているんだが、モダニズムの特徴とされる機能的簡素さ、悪くいえば無味乾燥の四角い箱という感じではないね。確かに派手さはないが、全く装飾が排されているのではない。柱、窓、天井、棚、和室の欄間、照明などに凝った工夫がされている。建築家がいかに自重しようとしても、飾り立てることへの誘惑には勝てないということが面白いと思う。桂離宮にしてもあまり目立たぬ形ではあるが装飾へのこだわりがあって、ブルーノ・タウトの強調するような簡潔さだけが目指されたわけではないらしい」

 僕には古い建物の美しさなど何の興味もわかなかった。こんな干からびたようなものに感嘆する連中には共感できなかった。大海に対してもそうだ。彼の隠居じみた趣味に反発を感じるようになっていた。彼の観照的な態度は若さを裏切っているように思えた。もっと積極的に、必死になって何かを得ようとすることに若さの本質があるのではないか。既存の秩序の中に安住するには早過ぎはしないか。大海にはそれでも得るものは十分すぎるのかもしれないが、僕には足りない。

 食堂から三階の屋上部分のテラスへ出た。高台にあるので見晴らしがいい。低地の街並みの向こうに海も見える。手すりに肘をついて景色を眺めながら、僕は言った。

「もはや使われていない住宅というのは脱け殻のようなものだね。住んでいる人がいないとか所帯道具がないのはもちろんだとして、それ以外にも何かが欠けてしまっている気がする」

「確かに人を住まわせるという本来の機能を失ってしまっているのだけれど、かつてそこで営まれた生活が凍結されているように感じないかい。いわば生活のデスマスクかな。もっとも、こういう風に残されている建物というのは住宅の中でも上質な部分だということは心得ておく必要はあるだろう。文化的な上澄みのなごりみたいなものだけど、時間で醇化されて嫌味はなくなっている」

「君はこういう建物に美を感じるのか」

「美しいとは思わないか?」

「美というのとは違うような気がするな。美というのは、何か他の目的があって作られたものに付随するのではない、純粋にそれ自身として感じられるものじゃないか」

「何かを作るときに、どうせなら美しいものにするということはあるだろう?それは不純な美だろうか。それに、美は必ずしも意図して作られるものではないよ。機械のような機能に徹したものの形態にも美はある。むしろ、美は機能から発生したということも考えられる。自然の美はそうじゃないかな」

「そうだろうか。美とは一体何だろう。それは人を惹きつけるものだ。しかし、人を惹きつけるものは他にもたくさんある。それらのものと区別される美の特質とは何だろう。多くの場合、惹きつけられるのは、確かに君の言う通り、それらが実利的であるからだ。けれども、美にはそのような実利性はなく、それ自体で完結しているのではないか」

 大海は僕の言ったことを理解しようとしてしばらく考えていたが、論争する気はないらしく一言言っただけで切り上げた。

「難しいな」

 そこで屋上から引き上げるのかと僕は思ったが、大海は動かなかった。彼は言った。

「あの夜、君は麗佳と一緒だったのか」

 僕は大海がいつのことを言っているのかは分かっていたが、とぼけた。

「何のことだ」

「葵の知り合いのところでパーティーをした、あの夜のことだ」

 僕は適当な返事を思いつかずに黙っていた。大海は続けた。

「正直に話そう。あの晩、葵が小屋に来た。君はいなかった。葵は君と麗佳に小屋を追い出されたのでいさせてくれと言った」

 葵の行動については、僕もあとから気づいた。葵の悪意の底深さを予想しておくべきだった。

「君はそれを信じたのか」

「意外に思ったよ。でも、疑う理由はなかった」

「それで君は葵とずっと一緒だったのか」

「そうだ」

「じゃあ、君は葵と付き合っているのか」

「いや。僕は麗佳と付き合っている」

 大海が麗佳に対する僕の気持ちを察してくれて、僕のために何かしてくれることを、何となく期待していたこともあった。積極的にではなくとも、自分が身を引くことで僕にチャンスを与えてくれるのではないかと。その期待は不合理なものだった。僕は大海に麗佳への恋心を話さなかったし、そういう素振りを露骨に示したこともないので、大海には分からなかったはずだからだ。僕にしても大海に告白するのは気が引けた。けれども、大海は分かってくれるべきだという気持ちはあった。僕が何も言わなくても、僕の気持ちを分かってくれて、僕を助けてくれるべきではないか。それが友達ではないのか。そういう甘えた気持ちがあった。しかしそのような根拠のない期待は当然のことながら空しかった。

 大海に対して、今まで感じたことのないような、何か苦い、痛みのような気持ちが僕の中に生れていた。それを態度に出すまいとしたが、素直な反応ができない自分をどうすることも出来なかった。あるいは、僕の不満を大海に気づいてもらいたかったのかもしれない。まるで駄々っ子のように。

「あの晩のことを麗佳に聞いたのか」

「そんなこと、聞けるかよ」

「じゃあ、分からないままにしておけよ。知ったところで、どうにもなるわけではない」

 私の高ぶった気持ちを鎮めようとして、大海はしばらく間をあけてから静かに言った。

「君が麗佳にアプローチして、彼女がそれを拒否したのは聞いている」

「それで僕が無理やり襲ったと思っているわけか。もしそうなら、僕がそのことを利用しないはずはないだろ。そのことをタネに関係を続けることを迫っているはずだ」

「君はそんな卑劣な人間ではないよ」

 大海は僕のことを思ってくれているのだろうか。彼自身の懸念より、僕が事態を収拾しかねていることを気にしているのだろうか。

「じゃあ、僕も正直に言おう。確かにあの夜僕は麗佳と一緒だった。一晩中二人きりだった。でもそれは葵の仕組んだことだ。麗佳は何も知らずに眠っていた。僕は麗佳に何もしていない。触りもしていない。どうだ、信じられるか」

「信じるよ」

 大海はそう言った。僕の疑問を封じるように大海は続けた。

「君には僕と共通するものがある。だから分かるんだ。よく言えば理性的、悪く言えば臆病。僕らが親しくしているのも、そういう性格がうまくかみ合っているからだろう。お互いの行動を予測できるのさ。ところが、僕らは他人の行動の予測には失敗する。彼等は僕らのようには行動しない。僕らにはなぜそうなるのか分からない。彼等に共感できないから理解ができないんだ。僕らと彼らでは重要なファクターが違っている。僕らはうまく駆け引きしたつもりでも、彼らにはその意味が伝わっていないから、空振りに終わってしまう。いわば僕らのやっていることは机上の空論なんだ。僕らはアスペルガー的なのかもしれない。そう思ったことはないかい」

「つまり、僕らは感情に欠けた冷たい人間ということか」

「感情や情動はあるのさ。ただ、それを感じられないのだ」

「どう違うんだ」

「感情や情動を自我に含みきれていないというか、自分の中にあるよそもののように思えるとか、つまり、乗れないということかな」

 大海の言うことを僕は信じられなかった。僕が麗佳に惹かれるのは、そういう感情や情動を感じているからだ。僕の麗佳に対する気持ちは、そんなに複雑なものではなく、ただの恋心だ。大海はそれとなく僕に麗佳を諦めさせようとしているのだろうか。親切心からかどうかは分からないけれど。僕は大海の言うような冷たい人間ではない。人間が他人を本当に理解できないというのは普通のことだろう。誰だって他人の気持ちなど分かりはしない。お互いに手探りしているのが人間ではないか。大海だって、僕の気持ちを本当に分かっていやしない。僕だけじゃない、どんな人間だって他人を理解などできないのだ。そうじゃないのか、大海よ。

 沙貴から誘いのメールが来たのは、大海との会話の数日後だった。展覧会の入場券があるので行かないかというものだった。僕に声をかけた沙貴の意図は分からなかったが、むげに断らないだけの礼儀はまだ残っていた。承諾の返事をして、日時と待ち合わせの場所を決めた。

 展覧会はヨーロッパのある美術館の主要作品を借りて展示したもので、ルネサンスから印象派までの絵が主体だった。動員をもくろむ主催者にとっては印象派までというのが肝心で、観客が受け入れられる限度ぎりぎりの具象を保っているから、こういう展覧会には人が押し寄せる。既に権威づけられていて自分で評価せずにすむから安心して見られるということもある。

 休日なので美術館は入口から混雑しており、並んだ絵の前を人が行列をなしてわずかずつ進んでいる。列の中にいては時間がかかり過ぎるので、観客たちの後ろから頭越しに絵を見ながら先に進んでいるうちに、沙貴とはぐれてしまった。そういうときは出口で待ち合わせることにしてあったので、僕は一人で絵を見て行った。

 絵の中の女性はもちろんきれいだった。僕はそれらの絵をいくつも見ているうちに、絵の中だけではなく実際においても、美しい女たちは自身の美を制御できていないのではないかという奇妙な思いに捕らわれた。彼女たちはその美を特定の相手にのみ見せるのではなく、いわばみんなにばらまいている。彼女たちの意図とは関係なくその美は周りの人々に何らかの衝撃を与えてしまっているのだ。そのことで他人がどうなろうと彼女たちの知ったことではないかもしれない。だが、彼女たちの美の影響について彼女たちに責任はないとしたら、それについての権限もまたないのではないか。彼女たちの美は彼女たちのものではないのではないか。現に彼女たちは自分の美を直接享有することはできず、周りの者の反応によってのみその価値を知ることができるのだから。彼女たちの存在は彼女たちの美に単に付属しているにすぎず、それを支配しているなどと思い込むのは僭越なのではないだろうか。

 ヌードの写実的な絵もあった。毛も割れ目もないのっぺりとした股間が写実的ではないことは誰でもが知っている。そういう風に描いたのは、性という要素を除外して女性の体を純粋に美的に取り扱うためなのだろう。しかし、女性の体に惹かれるのは色や形が単に美しいだけだからだろうか。純粋に美的な観点から見れば、色も形もむしろ貧弱に思える。少なくとも僕たち男がそれを好ましく思うのは、性的な要素があるからではないか。女性の体の美と性は切り離せない。いかに美に集中しているように見せようとしていても、描く者も見る者も、根底に性を感じているのは確かなのだ。

 僕たち男は女性の美を愛するのだろうか。それとも、これらの絵が暗示しているように、美は性への入り口なのだろうか。僕のわずかな経験からは、性欲は愛のことなど気にはしないように思える。愛というのは性行為の前と後に関わることで、その最中には欲望だけがあって、愛の主体たる僕自身は消えているのだ。終わった後に気がついてみれば、欲望は勝手にどこかへ去ってしまっていて、取り残された僕が砕け散った愛を拾い集めなければならない。

 女性の側がどういう気持ちなのか、僕にはよく分からない。ドラマなどでは女性も男性と同じように満足しているように描かれている。女性も愛とは関係なくその最中は欲望に捕らわれているのだろうか。それとも、女性は愛と性との分裂に悩まされることはないのだろうか。それについて答えを得られるほど僕には経験がない。

 会場から関連グッズを扱っている売店のあるロビーに出ると、沙貴がそこにいた。近くにイタリア料理店があるので、そこで食事をする予定を立てていた。店に入って二人ともパスタを注文した。黙り込んでしまいがちな僕に、沙貴は積極的に話しかけてきて、いつもとは違う印象だった。

 沙貴の外観から魅力を感じることはできなかった。平凡で特徴のない容姿。そっけなく見えてしまうほどの控え目な態度。ちょっとした会話では何だか突き放されるような感じがする。沙貴は麗佳や葵の前では積極的に話すことはなかった。二人の陰に隠れるようにしていた。容貌の序列が、会話でも適用されているかのように。

 話すことのなかには、麗佳や葵や大海のことが出てこざるを得なかった。男性との付き合いについて女性どうしで話し合うことがどの程度あるのか僕にはよく分からない。男の間では自慢話としてひけらかすことはあるのだろうが、そんな風に吹聴される関係は深いものではなく、真剣であれば隠そうとするのではないか。けれども、女性は違うようだ。彼女たちにも相互の競争心はあり、自慢するような要素もあるだろうが、一方で、恋の悩みを打ち明け合って相談することがよくあるらしい。麗佳や葵が沙貴にどこまで喋っているのか見当がつかない

「あのときのパーティは楽しかったわね」

 沙貴がその話題を出したので、僕はつい言ってしまった。

「あの晩、君はどこに泊っていたの」

 僕は言ってからしまったと思ったが、沙貴は聞き流すだろうと思い返した。しかし、僕は沙貴を見くびっていたようだ。

「別棟よ。葵が代わってほしいと言ったから。でも、私が麗佳と一緒でなかったことを、どうしてあなたが知っているの」

 僕はつまった。いいかげんな答えをしてはぐらかすのも面倒に思われた。ふと、沙貴に全て話してしまおうかと思った。彼女だけが何も知らずにいるのは、不公平というか、かわいそうな気もしたからだ。

 しかし、沙貴は全くの部外者ではなかった。あの夜はみんながあの異様な件に関与していたのだ。

「私、知ってるのよ。一晩中一人でいると、不安になってきた。葵と麗佳がどんな話をしているのか、けんかでもしたのではないかと。明け方になった頃、二人のところへ行ってみようと思った。それで見たのよ。葵とあなたが交代するのを」

 衝撃を受けたのは僕の方だった。

「それで、君、そのことを黙っていたの」

「そうよ」

「その後もずっと知らない振りをしたのか」

「そう。いままで誰にも言ってないわ」

「そうなのか」

 みなが知っていたのだ。

 沙貴は言った。

「最初は麗佳とあなたが示し合わせていたのかと思ったのよ。葵がそれに協力して。でも、麗佳がそんなことをするはずないし、おかしいなとは感じていた。もちろん、麗佳はそのことについて何も言わない。そしたら、麗佳が真田さんと付き合い始めたでしょ。わけが分からなかったわ」

 僕は沙貴が何を言いたいのか見当がつかなかった。好奇心から真相を話させようとするのか。僕は特に反応を示さないようにして沙貴が話すのを聞いていた。

「先日、たまたま葵の都合が悪くて、麗佳と二人きりで会ったの。そのとき聞いてみたの。あのパーティの日、夜中に何もなかったか、と。麗佳は一晩中眠っていて何も気づかなかったと言った。逆に、何かあったのと聞かれてあわてたわ」

 僕がなお黙っていたので、沙貴は言った。

「あなたは麗佳に何をしたの」

「何もしていない」

「一晩中一緒にいて?」

「彼女は寝ていた」

「じゃあ、あなたはなぜあそこにいたの」

 僕は答えなかった。貴意は言った。

「葵にそそのかされたのじゃない?彼女のやりそうなことだわ」

「葵さんには聞いたのか」

「そんなこと聞けないわ」

「じゃあ、僕にも聞くな」

 沙貴は僕が怒ったことに驚いたようだった。僕が素直に話すとでも思っていたのか。機嫌を取るように沙貴は言った。

「でも、結局、麗佳と真田さんが付き合うことになったのだから、落ち着くべき所に落ち着いたのではないかしら。だったら、私たち五人が元のように一緒に過ごせるようにできないかしら」

「誰もそんなこと望んでないのじゃないか」

「あなたは、どうなの」

「僕は‥‥どうでもいい」

「じゃあ、やってみましょうよ。このままバラバラになってしまうのは寂しいわ」

 僕は沙貴の楽天的な、あるいはそれを装っている態度に違和感を覚えてきた。怒りとまではいかなくとも、反感といってもいいようなものだった。僕は膨らむ気持ちを抑えて、これだけを言った。

「君には人の気持ちが分からないようだな」

 僕の言葉は沙貴を傷つけたようだった。僕らはこういう風にしか生きていけないのだろうか。沙貴は意外に明るく言った。

「やはり私は甘いのかしら。人の心なんて誰にも分からないのね。もうあなたは私に会おうとは思わないでしょうから、思い切って私の秘密を話してしまうわ。私はあなたが好きだった。あなたが麗佳を好きなのは分かっていた。でも、麗佳にはその気はないから、いずれ私に気づいてくれるのではないかと期待していたの。馬鹿よね。こんな小細工などせずに、あなたに正直に気持ちを打ち明けるべきだったのね。でも、あなたには私程度がお似合いと受け取られるのが怖かったの。ごめんなさい。あなたまで侮辱することはないのよね」

 僕は黙っていた。そうすることが一番賢明なのだと、愚かな私の頭が告げていた。もはや僕らのすることは、店を出て別れることしかなかった。

 出会いというのは偶然だろうか。僕と大海が麗佳たちに会ったのは偶然だった。偶然というのは期待されたものではないが(そもそも期待していないからこそ偶然なのだ)、それがもたらす影響の大きさには驚かされることがある。起こること全てが偶然といってもいいのだが(どんなことにだって違った起こり方があり得たはずだ)、予期しない未来がそこから派生してくるとき、偶然が行路を変えてしまったと僕らは思う。そのとき葵に会うことになってしまったのもそういう種類の偶然だったのだろうか。

 僕は勤めの帰りで、ターミナルのコンコースを歩いていた。たぶん彼女も同じだったろう。一日二回、週に五日はそこを通っているのだから、同じようなことをしている知人に会うことはそんなに稀なことではないはずだが、実際にはほとんどない。めったにないことを、一番避けたい人間との間に発生させるとは、都会の雑踏は気まぐれだ。

 先に見つけたのは僕で、彼女が気がついていないのを幸いに、やり過ごしてしまおうとした。僕が自然な動作を続けるようにして方向を変えようとしたとき、突然葵は僕の方を向いた。視線を感じるということがあるが、あれは実は視野の端で自分を見ている目を捕えているらしいので、葵もそうだったのかもしれない。目があったら仕方がないので、僕は挨拶のうなずきをした。そのまま別れてしまうこともできたはずだが、葵はこっちへ近づいてきた。スキニーをはいた派手な格好だ。職場では着替えているのだろうか。僕は立ち止って待った。

 葵と会うのは楽しいことではなかった。僕が葵に感謝までしないとしても、全く無視していることに、彼女はいい感情は持っていまい。僕にしてみれば、葵の介入によって得たのは苦悩だけなのに、そのことに彼女が気が付いていないであろうことが癪だった。面と向かってそのこと非難したい気持ちもあった。

 儀礼的な内容の立ち話をちょっとして、例のごとくお茶でも飲もうということになった。葵もやはり寂しい思いをしていて、僕とでもいいから話をしたいのだろうと、甘い気になったのだ。セルフのカフェがあったのでそこへ入り、できるだけたくさん並べようとしたようなテーブルの一つに席を取り、二人ともコーヒーを注文した。僕らと同じように勤め帰りの男女で一杯だった。

 所詮、葵に殊勝な態度を期待することなどできなかった。彼女は露骨に聞いてきた。

「あなた、麗佳とはうまくやれなかったようね」

 同情されるのも嫌だったが、馬鹿にされるのはもっと嫌だった。僕はずっと抱えていた恨みごとを吐き出した。

「君が余計なことさえしなければ、それでみんなよかったのに」

「私はただ、あなたが麗佳のことを好きだから、仲を取り持ってあげただけじゃない。麗佳とのことがうまくいかなかったのは、あなたにそれだけの力がなかったからじゃない。私が責められる理由はないわ」

 大海のことで皮肉を言ってやろうとも思ったが、僕の反撃など彼女は何の痛痒も感じないだろう。彼女と同じレベルに堕ちてやりあうのはごめんだ。だが、葵は僕の慎みなど知らぬげに、さらに突っ込んでくる。

「あなた、まだ麗佳に未練があるの?」

「麗佳さんは大海と付き合っているよ」

「そんなことは知っているわ。あなたが知らなければ、教えてあげようと思ったのよ」

「それは御親切に」

 葵は黙って私の顔を見ていたが、とうとう我慢しきれなくなったように言った。

「あのとき、あなたは麗佳をどうしたの」

「何もしないよ」

「嘘。何もしなければ、一晩中一緒にいる?」

「信じなくともいいよ」

「あなた、インポなの」

 隣の客がこっちを見たようだが、僕も葵も気にしなかった。僕は気の利いた返事を思いついた。

「あの晩、君と一緒なら、そうでないことを証明できたよ」

 葵はその意味をすぐには捕えかねたのか、間を置いて顔をしかめた。

「そういうのがいるのね。女には聖女と娼婦の二種類があるって思い込んでる男が。女だけのときに麗佳がどういう風か見せてあげたいわ。それで、あなたは麗佳の寝顔を馬鹿面下げて一晩中見ていたというわけね」

「そう言われても平気だよ」

 葵は手ごたえのなさに閉口したようにうすら笑ったが、またずるそうな顔つきになった。

「いえ、違うわね。あなた、麗佳の写真は撮ったでしょ。もちろん、顔だけじゃないわね」

 僕はどう答えようか迷った。そんな風に思われても仕方なかったし、そうではないという証拠はないのだから。

「もし、僕がそんな写真を持っていたら、それを利用しないでいるだろうか」

「意気地がないからよ。麗佳に嫌われたくないから。夜中にこっそりと見て、マスでもかいているのでしょうよ」

 この不愉快な会話を切り上げて早々に分かれてしまうか、会話をもっと健全なものに変える努力をするか、僕は迷った。沈黙した葵は横を向いて隣の席にいるアベックを見ていた。結局、彼女も失恋したわけだ。僕に八つ当たりしたくなっても仕方がないだろう。僕は話題を変えた。

「君と麗佳さんの間はどうなってるの」

「あなたが真田さんからどんな風に聞いているか知らないけど、麗佳のことを悪くなんか思っていないわよ」

「本当かい。僕はてっきり話もしなくなっていると思っていたよ」

「たかが男のことでけんかなんかしてもしょうがないでしょ。よくあることだし」

 葵が正直に言っているのか、強がりなのか、見当がつきかねた。僕は意地悪な気持ちに戻って言った。

「大海のことも気にならないのかい」

「真田さんは、以前に私が思っていたような人ではなかったわ。私の気持は、失望というところかしら」

 僕は葵の言葉など信じていなかった。そんな僕の気持ちを察したのだろうか、彼女は僕の目をのぞき込むようにして言った。

「あなたはまだ恋人募集中なわけね。どう、私でよかったら、なってあげてもいいわよ」

 僕はどんな顔付きをしたんだろう。期待のひらめきでも目から発したのだろうか。間髪を入れずに当意即妙の返事をして、鼻でせせら笑ってやることができなかったことを悔いた。というのは、すぐに葵が言ったからだ。

「冗談よ」

 葵は僕の浅ましい根性を見抜いたのだ。麗佳が駄目なら、葵でもいいとでも顔に書いてあるのだろうか。彼女のような人間にとっては、僕などはどうにでも扱える子供のような相手なのだ。僕は自分が嫌になった。カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干してから僕は言った。

「帰ろうか。」

「そうね」

 だが、葵は動かなかった。

「あなた、私のことを嫌な女だと思ってるでしょう。あなたの好意を得たいわけじゃないから、どうでもいいんだけど、そういう風にしか私のことを見られないから、ダメなのよ。なぜ私があなたにこういう態度を取るか、分かる?それはあなたの態度の反映だからよ。あなたは表には出さないようにしているつもりでしょうけど、私のことを馬鹿にしていることはミエミエよ。人を不愉快にさせておいて、自分は楽しませてもらおうと期待するのは無理よ」

「君に楽しませてもらおうとは思っていないさ」

「じゃあ、なぜ私を誘ったの」

 誘ったのはそっちの方だろうと言いたかったが、抑えた。

「友人としての務めさ。元友人かもしれないけど」

「憐れんでくれて、ありがと。そう言ってほしいのね」

「君はひねくれた見方しかできないんだな」

 葵は言い返しかかったようだが、やめて、静かに言った。

「もう二度と会うことはないでしょうから、最後にあなたに忠告しておくことがあるわ。人生でカッコつけていてもしょうがないのよ。あなたから見れば、私のやっていることは図々しく思えるでしょうけど、やったもん勝ちよ。人を傷つけることを恐れていては、何もできないのよ。そんなことでは一生パッとしないままで終わるわよ」

「僕の人生だ、放っておいてくれ」

 二人は容器をのせたトレーを持って立ち上がった。

 あの夜のことはそこにいた皆が知っていた、麗佳を除いては。大海や沙貴は麗佳には黙っている。葵が言うはずはない。僕は当事者である麗佳が何も知らないままでいいのだろうかと思いはした。しかし、知らないままならその方がいいのだろうと自分を納得させていた。

 だから、麗佳から話があると連絡を受けたとき、僕は迷った。今ごろになっての突然の接触は、葵が絡んでいるに違いないと僕は察しをつけた。僕に出会ったことが葵を再び策動させることになったに違いない。葵がどんなことを麗佳に吹き込んだか見当もつかないが、正しい情報でないことだけは確かだ。

 僕の言うことを彼女に信じてもらえるとは思えなかった。しかし、麗佳から逃げ回るようなこともしたくなかった。一度は彼女に会って、彼女の知るべきことを伝えなければならないのだろう。

 二人が交わすであろう話題が話題だけに、他人のいるところでは話せないのは、麗佳も承知していた。メールのやり取りで、皆で行ったことのある城址公園で会うことにした。約束の日時に待ち合わせ場所に行くと、既に麗佳は来ていた。麗佳は仏頂面をして、僕のあいさつにも首をわずかに動かして応じただけで、言葉は出さなかった。彼女がいかに不愛想であったとしても、僕は彼女に会えたことはうれしかった。彼女の美しい姿を見るのは快かった。二人は少し間を空けて並んで歩き、人気のない場所を探した。寂しげな堀際のベンチがあったので、そこに座った。口火は僕が切った。

「用って何」

「葵から聞いたのだけど、私の写真を持っているというのは、本当なの」

 やはりそんなことだったか。とりあえず僕は空とぼけた。

「それはあるよ。みんなでたくさん撮ったじゃないか」

「そういうのじゃなくて、もっと違ったの」

「どういうことかな」

「分かっているくせに。葵の知り合いの家に泊まったときの写真よ」

 麗佳が怒るのは当然だ。でも、その怒りを僕にぶつけてどうしようというのだろう。僕を問い詰めれば正直に話すと思っているのか。そして、僕が謝って、麗佳に対して罪を償うことを申し出るとでも思っているのか。僕も甘く見られたものだ。それならば、こっちは悪者になってやろうか。写真を持っている振りをして麗佳を不安に陥れる。しかし、そういうのは僕の性に合わない。

 彼女のやり方は下手だ。探りを入れてから、徐々に核心に迫るようにしなければならない。僕の手の内を見定めて、僕が何を望んでいるかを聞き出し、有効な手を打つ。僕が彼女に惹かれていることを最大限利用すればいい。僕に優しくして、僕の機嫌を取り、僕に幻想を抱かせるようにすれば、僕は彼女の言うことを聞くようになるだろう。

 しかし、そのような世慣れた手管を麗佳は使えない。僕にしてもそうだ。真面目だけれども不毛な話し合いをして、少なくとも共通認識を持つように努力するしかない。

「ちょっと待って。君の用事というのはそれなのか。葵から何か聞いたんだな」

「そうよ。葵が教えてくれたわ」

「あいつからどんなことを聞いたのかしらないけれど、君の気にするような写真など持っていないよ」

「葵は見たと言っていたわ。あなたに見せられたと言っていたわ」

「葵の言うことを信じちゃいけない。あいつは嘘つきだ」

「嘘つきはあなたよ」

 僕はまず麗佳の興奮を抑えることにした。

「そんな写真なんかないことを証明するよ。僕のスマホの中をみてごらん。そんなものはどこにもないから」

 僕はスマホを取り出して麗佳に渡した。麗佳は受け取って調べ出した。

「もちろん、スマホにはなくても、別のSDカードとかパソコンに保存しているということも考えられる。けれども、僕が葵に見せたというならスマホにあるということだろ」

 麗佳はスマホをいじりながらイラついて言った。

「中を全部は調べるのは私には無理。どこかに隠しているはずよ」

「隠す必要がどこにある。もし僕が君を支配するつもりなら、写真を見せた方が手っ取り早いじゃないか」

 麗佳は黙ってスマホを見ていたが、やがて僕に返した。

「落ち着いてくれ。まず事実を話すから聞いてくれ。あの夜、君が寝ている間に小屋に入ったのは本当だ。しかし、そうさせたのは葵だよ。本来なら沙貴さんが君と一緒に寝るはずだった。沙貴さんは葵に頼まれて寝る場所を彼女と替えた。そして、葵が僕と代わったんだ」

「葵はそんなこと言っていなかった。私が眠ったあと、葵は沙貴のところへ行って少し話をして、小屋へ戻ってみたら中から鍵がかかっていて、戸を叩いたり声をかけても返事がなかったので、私が眠り込んでしまったと思って、沙貴と一緒に寝ることにした。だから、あの晩は私が小屋に一人きりでいたものとずっと思い込んでいた。ところが、この前あなたに偶然会ったとき、あなたから本当のことを聞かされた。葵が私を一人にしていた間に、あなたが小屋に入り込み、あなたは私と二人きりで一晩中小屋にいた」

「違う。何度も言うけど、あれは葵がたくらんだことだ。それに乗ってしまったのは悪かったけれど、仕組んだのは葵だよ」

「何で葵がそんなことをするの。おかしいでしょ」

 沙貴に聞けば葵が嘘を言っていることが分かるはずだ。葵は沙貴とは一緒でなかったのだから。しかし、僕はそのことを言い出せなかった。沙貴と一緒でなければ、葵がどこにいたか麗佳が疑問に思うかもしれない。葵はそこまでは喋ってはいないはずだ。彼女にもプライドはあるはずだから。葵が大海と一緒だったことを麗佳に知られてはならない。少なくとも、僕がそれを知らせるようなことはしたくない。

「じゃあ、言おう。君は朝まで一度も起きなかった。おかしいと思わないか。実は君は睡眠薬で眠らされていたのだ。それができたのは葵だけだ。思い当たるだろ」

 麗佳は言い返さなかった。そのことは疑問に思っていたはずだ。朝起きてからも影響は残っていて気分もよくなかったはずだ。

「葵のことはどっちでもいいわ。あなたが私と二人きりで小屋にいたことは間違いないのね。そっちの方が重大なことでしょ。あなたは私に何をしたの。何かしたでしょう」

「違う。葵はそうさせようとしたのだが、僕はしなかった。何もしなかった。君だって、目が覚めたときに自分の身に何が起こったかぐらいは分かるはずだろう」

「そんなこと気にしていなかったから」

「気がつかなかったというのは、何もなかったからだよ」

 麗佳は納得できないようだった。

「葵は違うことを言っていた」

「それは葵の嘘だ」

「何で葵がそんな嘘をつくの」

「分からない。何か思惑があるのだろうけど、どうせロクでもないことだろう」

「逆に私には分からないわ。一晩中二人きりでいて、しかも私が眠っていて無抵抗なのに、あなたは何もしなかったと言うの」

「信じられないかもしれないけど、そうだ」

「じゃあ、なぜ一晩中二人きりでいたの」

「正直に言うなら、君を抱きたかった。そういう気があったことは認める。じゃなきゃ、葵の言うことにおめおめと従ったりしない。でも、それはレイプだ。知られれば君に憎まれる。君は告訴するかもしれない。そんなリスクは取れなかった」

「バレるのが怖くてしなかったと言うの。道徳心からじゃなくて。だったら、私が起きるおそれはないのだから、したかもしれないわね」

「まだ疑っているのか。君を抱いたからといって、どうなるものでもない。君の心は僕にはない。いっとき君を僕のものにできても、結局は虚しいだけだ」

「あなたは私のことを恨んでいるのでしょ。だから、私を辱めようと思った」

「君を辱めようとしているのは葵だよ。葵のような奴はいるんだ。人を貶めることに喜びを感じて、やたらに悪意をまき散らす奴が。葵のような卑劣な奴に対抗するためには、僕らがお互いを信頼し合わなければだめだ。疑心暗鬼に捕らわれてしまえば、奴らの思う壺だ。奴らの狙いはそこにあるのだから。嘘をつき騙すことで僕らをバラバラにし、奴らの思い通りにさせようとするのだ」

「あなたを信じろと言うの」

「大海は僕を信じてくれた。大海を信じるのなら、僕のことをも信じてくれ」

 結局、麗佳を十分には説得できなかったかもしれないが、少なくとも僕の言い分は受け止めたはずだ。葵と僕のどちらを信じるか、麗佳には難しい判断かもしれない。だが、僕にはもうどうでもいいことだ。

 葵のたくらみからではあったけれど、麗佳に会えたことはよかった。麗佳にはすまないけれど、僕の方は一つのけりがついた。麗佳と別れて一人で街を歩いていくと、自分が変わっていくのを感じた。ずっと僕を覆っていた暗い幕のようなものが消え去っていった。

 あの夜の麗佳に対する抑制を僕は誇ってもいいはずだった。しかし、僕はずっと後悔していた。葵の仕立てた誘惑に乗ってしまったことを、ではなく、葵の与えてくれた機会を利用しなかったことを。麗佳に何かをしたら後悔することになるとは思っていた。しかし、何もしないでも後悔するのは分かっていた。どうせ後悔するなら、しないでするよりも、やって後悔するほうがましではないのか。そうも思った。結局、僕は決断を下せず、迷ったまま朝を迎えたのだ。そして、遅すぎるときになって、僕はしなかったことの後悔の大きさに驚いたのだ(後悔とはそういうものなのだろうけれど)。

 葵の言ったように、僕はダメな人間なのだ。けれども、そうでない僕にはなれないし、そうであることを引き受けるしかないのだ。僕は麗佳の横を通り過ぎただけだった。それでも、麗佳を知ることがなかったのとは全然違うのだ。

 僕はこんな生き方しかできないけれど、こんな風にでも生きていけるのかもしれない。

 ふと、沙貴に連絡してみようかと思った。

[ 一覧に戻る ]