義理と人情のこの世界
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義理と人情というのは封建的な概念とされている。つまり古臭い心情であり慣行であるとみなされている。近代社会においては余計なものか邪魔なもの、あるいは逆に失われていく貴重なものという扱いを受けている。
私はここでそういう見解とは違った見方が出来ることを示してみる。それは、義理と人情が人間にとって普遍的な感情・行動であるというものである。義理と人情という言葉が特定の社会に限定的であると思われるのは、普遍的なものの時代的・地域的な現れであるからだ。
まず、義理について検討してみよう。義理というのは負債であり、返済が求められる。かつての財・サービスの提供に対し、対価が未納になっている状態において義理が生じる。つまり、義理が発生するのは一方的な恩恵関係にではなく、双務的な関係においてである。たとえ身分的な上下があったとしても、責務は双方に発生する。贈与は、真に対価が求められない場合は、義理を生じない。しかし、その時点では贈与のようであっても(財・サービスが一方的に移転していても)、将来においてお返しが期待され、その期待に応えることが当然視されているのであれば、義理という形で債務が生じていることになる。義理とはお返しの義務であると言えよう。
義務化されるということは、義理は社会的な慣行であるのだろうか。社会的な慣行とみなされると、義理は評判が悪い。義理を果たすことが後払いであるならば、事前の報酬がないと義務(義理)が生じてこないことになる。つまり、利益目当ての行動が人間関係を律していることになる。これは二重に批判される。それが私的行為とされるならば、道徳行為や社交に必須の無報酬性を欠いているゆえに、卑しい行為とされる。あるいは、公的行為がそのようなものに汚染されるならば、公平や公正への重大な脅威となるであろう。つまり、義理が一種の取引から生じるのであるならば、それは商行為に似たものであり、そういうものが純粋に経済的な関係以外の分野に(場合によっては経済行為そのものにも)浸透することを人々は嫌うのである。義理を商行為に似たものと捕らえれば、義理の横行する伝統的社会は、愛情や正義や公共性といった要素を欠いている、利己性に捕らわれた社会とみなされる。
一方、義理を返済の義務と捕らえれば、(たとえ請求されなくとも)自発的になされる返済として、誠実性や非利己性(献身性)を強調することもできるであろう。ただし、自発性は文字通り他から求められるものではないから、強制的な要素が入り込むとその強調も空しくなる。私たちは「義理があるから」とか「義理に縛られて」とか言って、自己の本来の希望や欲求を抑えなければならないと感じる。封建的(身分的)人間関係から発生するのであれば、義理はそのような関係に必然的に付随するものと思えるであろう。そのような関係を嫌うようになれば、その付属品のような義理もまた嫌われるようになる。
しかし、義理は制度的に要求される義務ではなく、むしろインフォーマルな関係によって生ずるものではないだろうか。義理という債務(逆には債権)が発生するには恩という投資が先行する。恩が投資になるのは、制度上当然に与えられる財・サービスの範囲を逸脱しているからのように思える。そういう観点からは、義理というものと封建的人間関係の結びつきは偶然的(歴史的)なものにすぎなくて、他の社会形態においても現象するのではないかと期待できる。
事実、義理のような、時間を置いた交換というのは、人類に普遍的に見られる現象のようである。それは互恵的利他主義と呼ばれるものでもある。互恵的利他主義という概念は、一見すると利他的に見える行動も、実は時間を置いた交換の片方の要素でしかないとみなすものである。これは、義理をもたらす恩が一面では献身的(利他的)行動と見られ、他面では商行為と同じ取引と見られることに、よく当てはまる。
互恵的利他主義が普通考えられている利他行為と違うのは、見返りを期待している点と、行為の対象者が特定されている点であろう。道徳行為に期待されているのは、見返りを求めないこと、えこひいきをしないことであるので、互恵的利他主義が道徳行動を構成するとは考えにくいが、自己欺瞞などを媒介にすれば可能であると考える論者もいる。ここではその妥当性は保留して、義理は時間をずらした交換における債務であり、このような交換は特定の社会にだけ見られるのではなく、人類に普遍的な現象である、ということだけを主張しよう(社会的交換と経済的交換の差異を重視する見解が一般的のようだが、私はその違いにはあまりこだわらない。)
互恵的利他主義は市場や福祉制度の発達した社会でも見られる。だから、義理やそれに類するものが意識されるとしても、封建制度の残滓というわけではなく、人間関係においては普遍的なことなのである。むしろ、社会を支えている重要な柱の一つと言えよう。債務を忠実に履行するという意識がなければ、経済行為ですら成り立たないであろう。
ところで、互恵的利他主義は一種の助け合いとみなされるが、集団を基礎にした助け合いとは区別されるべきであろう。互恵的利他主義はやり取りの相手を特定している。恩を受けていない人のために献身することはない。集団を基礎にした助け合いは、集団全体としては相互的に恩恵をやりとりするものかもしれないが、特定の人間の結びつきを必要とはしない。ただし、この辺りは微妙であり、集団の成員であるということが助け合いの前提とされるのであれば、複数であっても相手を限定することになる。また、貸し借りに伴う債権・債務は保険のような形で担保されていることになるのかもしれない。だが、集団の範囲が拡大すると、相手を特定することが難しくなり、また債権債務の保証も怪しくなる。このように、互恵的利他主義はその要素を段々に薄めつつ、贈与や一方的献身に連続的につながっていて、はっきりした区別をどこにつけるかは難しいのかもしれない。しかしながら、一方の極として、相手を特定し、債権債務が明確な互恵的利他主義があることは否定できない。
そして、他の一方の極に人情がある。
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では、次に人情について考えてみよう。人情とはどのようなものかを厳密に考えるとややこしくなるので、ここでは単純化して、「かわいそう」という思いないし感情としよう。人情にはもっと広い意味を入れる余地はあるであろうが(文字通り人間の感情・情動)、義理とセットにされた言葉としてはこのように狭めてしまっても差し支えあるまい。
人情が義理とひとまとめにして封建的だとされてお払い箱にされてしまうのはなぜだろうか。第一には、合理的でない点。かわいそうな人々がそうなった所以を追求して改善の努力をすることなしに、単にかわいそうという感情だけですましてしまう、現状維持的な姿勢。第二に、平等的でない点。かわいそうな人々と自分の間にある差を当然のこととして前提し、その差別に自分がかかわっている(かもしれない)ことに無自覚な優越的な姿勢。第三に、恩恵的な点。かわいそうな人々を助けるのは、余裕のある人の慈悲心からであって、かわいそうな人々にはそれを求める権利があるとは思いもよらぬ姿勢。このように、民主政治とか、平等とか、基本的人権などとは相容れぬものとみなされてしまうのだろう。
義理に対比した人情の特徴として、貸借関係とは無縁であること、したがって特定の相手を対象とするのではないことがあげられよう。人情は誰に対してでも適用されるものであり、人情による行動はお返しを期待するものではない。これは道徳の基本と同じである。ただし、人情が徳から外れると指摘されることがしばしばあるが、それはその濫用が徳の他の部分、例えば自立とか刻苦勉励とかを蝕むのではないかと危ぶまれるからだ。道徳は形式的に体系づけられると内部矛盾に苦しむのである。
ところで人情のこの無人格性、無償性については、不思議な反論がある。「情けは人のためならず」という、諺というか教えがある。これは、人情による無償の行為が、いつかは報われるということを主張している。無償性ということでちゅうちょしている人々を人情的行為に導こうという善意の意図があるのであろうが、危険な企てでもある。人々が応酬を期待して善行を行うようになれば、応酬が期待できないところでは善行は起こらなくなるからだ。「損して得取れ」という商売上の教えと変わらなくなる。むろん、応酬へのあからさまな期待は、めぐりめぐるというあいまいな未来の中で和らげられはするのだが、その期待に頼るという点では無償性を放棄している。
このことは、無償行為ということの難しさを表しているのだろう。人情の無償性を否定しているわけではなく、それを強化するために、応報の柱を付け加えようとしているのだが、かえって人情そのものを弱めてしまうという矛盾に陥ってしまっているのだ。
人情は博愛と呼び変えてもいいのだが、なぜか古臭いというイメージがつきまとう。それは前記の理由によるものだろうが、つまりはそれだけでよしとして結果に対する配慮を欠如してしまうという感情としての特性が批判されるのだろう。しかし、そもそも感情としての内実がなければ、博愛の行為は起こらないのである。人情は、利害関係のない人々でも援助をし、しかも相手がお返しができないと分かっていても援助することで、社会の連帯を支える。それは、義理による互恵的な関係ではおおいきれない人間関係を拾い上げるものだ。そういう意味では義理と人情は相補的とみなしうるかもしれない。
それでは、人情は義理と相互排除的な関係にあると思われているのはなぜなのだろうか。人間関係は網の目状になっているので、一人の人間が持つ諸関係の間に相克が起こることは当然ありうる。例えば、人情には、友情とか愛情といった他人との感情的な結びつきという意味も含まれているとすれば(人情を「かわいそう」という思いにまで狭めたときには排除した意味だが)、ある人が、一方に義理的な結びつきの人がいて、他方には人情的な結びつきの人がいて、二つの結びつきのどちらか一方を選択しなければならないという状況では、義理と人情の板挟みになる。もちろん、「かわいそう」に限定した人情でも、義理と相反するような状況はありうる。義理からしなければならない行為において、第三者をかわいそうな目にあわせることはある。商行為において、それが正当な行為であっても、誰かを不利にしてしまうことがあるのと同じである。義理のないところでは人情は単純に反応するが、義理の引き起こした状況に人情が反応すれば、義理に対立するわけである。
単に選択の問題にすぎないのであれば、義理と人情が同じ場で争う必然性はない。しかし、義理と人情には原理的な対立がある。人情が道徳感情であるならば、その普遍性を義理は蚕食することになる。道徳はえこひいきを排するであろう。しかし、義理という互恵的利他主義は、特定の相手と結びつくことによって、その他の人々との利害関係を軽視させてしまう。それが組織的になされれば、集団内に分派を作り、対立を生み出してしまう。義理による人々の結びつきは利己的な動機が背景にあり、人情によるそれは利他的な動機が基礎になっている。二つの結びつきが住み分けていればよいが、往々にして世の中はそうなっていない。義理と人情は潜在的な対立を含みながら、それぞれの得意とする分野で働いているのである。
組織や制度(これらは、原理的には、えこひいきはせず同情もしないのでフォーマルと形容される。もちろん運用においては原理がゆがめられることはある)が発達して、互恵的利他主義が商品市場や金融市場によって、私的援助が保険制度や福祉制度によって代替されるようになると、義理や人情はその活動の範囲をせばめることになる。あるいは、従来の義理・人情でカバー仕切れていた範囲を超えて、個人の関わる世界が広がっていると言うべきなのかもしれない。しかし、義理・人情は組織や制度の隙間に、あるいは組織や制度の隠れた基礎として、作用し続けている。