井本喬作品集

市場だけでは物足りない

 市場が極致にいたれば、人は人間関係に気を遣う(感情的に関わる)必要はなくなるであろう。人生に必要なものは全て市場で手に入る。完全市場では、人々は信用に応じて自由に借金ができ、他人に頼らずとも人生の波を乗り切っていける。遺伝子は私たちに生存と繁殖を命じた。生存と繁殖のためには、カネが一番有効だ。カネがあれば、良好な衣食住も、よい配偶者も、優秀な子どもも手に入るだろう(使い方を合理的にする必要はある)。むろん、カネを得るには市場の競争に勝たねばならず、そこでは各種の情動や感情を利用しなければならない。しかし、それを有効に行うのは合理性だ。情動や感情などという不器用な道具は使う必要はない。合理性とそれが有効に働く環境を作り上げたことで、遺伝子のもくろみはみごと達成された。

 そうであって悪いわけはない。だが、それだけでは物足りない。

 なぜだろう。遺伝子は、個体が生殖できるときまで生き延びて、子孫の中に複製を残してくれればそれでいいのではないか。それ以上何を望もうというのか。

 遺伝子は市場という便利なものを予想していなかった。というより、遺伝子は理性というものを信用していなかったと言うべきかもしれない。例えば、遺伝子の複製を残すためには子供を作らねばならない、子供を作るには異性と性交しなければならない、そう考えて行動するような種類の人間は生き延びてこなかった。現に存在するのはただ単に性欲のある人間である。人間を動かすのは論理的な判断ではなく、欲求や情動や感情などである。遺伝子はそういう風に人間を作った(正確には、そのように人間に行動させる遺伝子が複製を作り続けるのに成功した)。

 人間は欲求や情動や感情に従っていればよかった。そうすれば「自動的」に遺伝子を複製することに高い確率で成功する。人間にとっての報酬は遺伝子をのこすことではなく、欲求や情動や感情のもたらす報酬であった。そして、欲求や情動や感情自体もそれらと一体化して報酬となっているのだ(この辺りは複雑な議論が必要)。ただし、報酬は常に単一であるわけではない。複数の報酬の中から最適なものを選択する必要があった。そこに理性が必要とされたのだ。理性にしても遺伝子の目的を報酬とみなすのではない。欲求や情動や感情の与えてくれる報酬を選ぶのである。先の例では、性欲を満たす行動を選ぶ場合は、妊娠を目標とするわけではない(理性は長期な判断を可能にするから、子育てのコストを忌避したい場合は、避妊をするようにさえなる)。遺伝子は、理性に遺伝子の複製をさせるような役割を与えなかった。あくまで、報酬の最大化を判断させるだけである。なぜなら、遺伝子は報酬によって人間を行動させるようにしていたからだ。

 つまり、人間は自分の遺伝子を複製することを望んでいるのではなく、自分が得られる報酬を望んでいる。だから、市場に人間の生存と生殖を確かにしてくれる便利さ(合理性)があっても、それだけでは満足できない。では理性の発明品である市場は、不完全な道具でしかないのか。

 そうとは言えない。市場においては、欲求や感情や情動がもたらすであろう報酬の等価物を買うことができる。音楽、絵画、小説、映画、演劇、舞踏、スポーツ、ゲーム、旅行、会話、そしてその他の様々な肉体的精神的快楽。

 報酬の最大化のために(むろんそれにはコストの削減も含まれる)、理性は新たな行動様式を開発するようになる。報酬がどんな形で得られようとも、理性は気にしない。遺伝子が理性に与えた役割を、理性は徹底的に追求することで、遺伝子の思惑から逸脱してしまう。理性は欲求なり情動なり感情なりを自ら操作することにより報酬を得ることができるということを知れば、そうするだろう。オナニーで性的な報酬が得られるのであれば、そしてコストと報酬の関係が有利であるならば、理性はオナニーを選択するだろう。他の欲求や情動や感情でも、オナニー的な方法で報酬を得られるならば、それが生存や繁殖にプラスになろうとなるまいと、理性は選択するであろう。

 だが、市場で得られるそれらの報酬は大なり小なり仮構の要素がある。それらは真に欲求や情動や感情がもたらすものにはなりきれないのではないか、という疑問が当然起こる。カネでは買えないものがある、と言われるとき、市場で得られるものは仮象であり、実質的な満足を与えるものではないという意味合いがあると思われる。

 こういう心情の強さに、私はある論争で直面させられたことがある。私が福祉施設に勤めていたとき、ボランティアの導入について同僚と話し合った。天の邪鬼的なところのある私は、ボランティアはあくまで安価な労働力として捕らえるべきだと主張した。他の人々は私に反対して、ボランティアの特質は、職業的立場から離れているところに、つまり報酬を求めているのではないところにあると主張した。報酬に関しては、彼等が金銭的、物質的なそれを求めていないとしても、活動の与える喜び、誇り、充実感などを、つまり精神的なそれを求めているのであれば、同じことではないかと私は反論した。しかし、同僚たちは、対人サービスの提供においては、金銭や物質を目標とする場合と、精神的なものを求める場合には違いがあると主張した。技術的な面では劣るかもしれないが、心からの奉仕という点でボランティアは優っているはずだ、というのである。私の反論は、もしボランティアの提供するサービスが心からのものであるという理由で優れているとされるのであれば、サービス提供のプロが素人のするサービスを真似られないわけはないはずだ、というものであった。

 仮象のものと真実のものとは区別がつく、人々はそう信じて、市場の与える仮象だけでは満足しないようなのである。なぜだろうか。仮象であれ真実であれ、報酬さえあればいいのであり、その大きさだけが選択の対象となるはずだ。仮象と真実を見分けようとするのにもコストがかかるはずだから、そんな苦労をするよりも、報酬の大きさにだけ敏感であるだけで十分ではないか。

 欲求や情動や感情などによる報酬を求めることで行動が支配されているならば、他者にそういう反応を起こすことで他者の行動を操作できるであろう。市場において行われているのはまさにそれなのだ。モノやサービスの提供者は受取手の報酬を操作してカネを得る。報酬が実物からのものであろうと仮象からのものであろうと、効果があればどうでもいいことなのだが、

 偽りの情報は操作の効率的な手段になる。少ないコストで大きな利益を得られるのであれば、そのような操作が選択されるであろう。逆に、そのような操作を防ごうとするならば、情報の真偽を疑ってかかる必要がある。対抗措置としての猜疑心が発達することになるであろう。人間が欲求や情動や感情を引き起こすコトなりモノの真偽に敏感なのは、本来生存や生殖に有利に働くはずの作用が、他者に利用されて無効になってしまうことを防ぐために、遺伝子が進化させてきた機能なのではないか。

 人々は騙されることを嫌がるのである。騙されていると承知で仮象が与えてくれる報酬を楽しんでも、警戒心を捨てきれず、心からの満足ではないと感じるのだ。だからこそ、市場だけでは物足りない。市場の外にもっと大きな報酬があるのではないかという期待を捨て切れないのである。

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