井本喬作品集

怒りと道徳

 かなり以前のことなのではっきりしないが、たぶん電車の中でのことだったと思う。傍若無人に騒ぎまわっている子供に向かって母親らしき女性がこう言って注意した。「おじさん(私のことらしい)に怒られますよ」。私は「怒ったりなんかしませんよ。怒る(べきな)のはあんただろう」と言いたかったが、むろん黙っていた。

 子供のしつけに他人を巻き込もうとする日本女性について文化論をぶつこともできようが、私の興味はそこにはない。「怒る」ということが「叱る」と同じように使われていることの不思議に最近になって気づき、このエピソードを思い出したのである。「怒り」という感情がどうして道徳的な叱責になるのだろうか。ここで、本来理性的であるべきはずの道徳に感情を混入させている日本語について文化論をぶつこともできるかもしれないが、私はそのことが文化的差異よりも普遍的な現象を意味していると受け取る。こういう使い方は日本語だけかどうなのか分からないが、たとえ他の言語に見られないとしても、道徳的叱責に感情が混じるのは普遍的であると主張したい。

「叱る」には「怒る」に似たニュアンスがあり、感情的に全く中立というわけではなさそうだが、少なくとも「優しく叱る」というような言い方はできる。ただ、この区別はあまり厳密ではない。言葉の定義から言語外の現象を説明するには慎重さが必要なので、このことにはあまりこだわらない方がいいだろう。

 ところで、私は子供の頃、自分が正しい行いをするのは、それが正しいゆえなのか、そうしないと怒られるのが恐いからなのか、よく分からずに悩んだ。このカント的な悩みは自分の道徳性を疑わせる方向へではなく、道徳そのものを疑う方へ私を向かわせた。しかし、そのときは、怒ることが道徳的叱責になることの不思議には気づかなかった。

 そもそも怒りとは何なのだろうか。進化論関係の本によれば、怒りという感情は身を守るために発達したらしい(ここからは私の勝手な解釈で、学問的に正しいかどうかは保証しない)。あなたがネズミだったとしよう。あなたはネコに追いつめられて後はもう食われるだけだ。あなたが合理的なネズミならば、抵抗してもかなうわけはないし、いたずらに苦しみを長引かせるだけだから、おとなしく食われてしまおうと判断するだろう。ところがあなたに怒りの感情があれば(ネズミにそういう感情があるかどうかは分からないが)、かなうかどうかの判断にはおかまいなしに猫に飛びかかるだろう。むろんネコは暴れるネズミをなんなく取り押さえて食べてしまう。だとすれば、怒りはネズミにとって何の役にも立たず、かえってネコを怒らせて(ネコが怒るかどうか分からないが)残虐な仕打ちをさせるだけではないか。しかし、確率は低いものの、中には油断したネコの不意をついて逃げのびるネズミがいるかもしれない。ネコにしてみても暴れるネズミを捕まえるのは手間がかかるし、場合によっては傷つけられるので、他にネズミがたくさんいるのであれば、そういうネズミを(区別がつけば)敬遠するかもしれない。

 たとえ話はここまでにして、怒りは威嚇になるのである。もちろん、それが分かっていれば、怒りを装うことでその効果を得ようとする者が現れる。そうすると、怒りが本物ではないことを見破ろうとする者が出てくる。見破れなくとも疑うことはできる。本当に怒っていた場合でもそれが装っているものだとみなされてしまうと、怒りの効果はなくなってしまう。だから、怒りだけではなく、感情は装うことが難しいようになっている。

 感情は感情の主体にも自由にはならない。なぜ、感情を自由にできるように進化しなかったのか。たぶん、そうであったならば、感情は乱用されて効果を失ってしまうからだろう。状況と感情の強いつながりが失われてしまうと表示の意味がなくなる。怒りについて言えば、乱用は身を危険にさらし過ぎることになるだろう(怒っているときは、身の安全を考慮しなくなる。そうでなければ威嚇にならない)。怒りは特定の状況にのみ起こることでバランスを取っているのだ。

 では、道徳と怒りの関係はどうなのか。私たちは自分が不当に扱われていると感じたときに、怒りを覚える。怒りは相手に公平性を迫るのだ。たとえ相手が自分より強くても、怒りは争うことをためらわせない。相手が自分の不正を悟っているのであれば、争うことは控えて私たちの怒りを鎮めるためにそれを是正しようとするだろう。もし、私たちが理性的にその不当さを訴えても、相手は見くびって無視するかもしれない。怒りは実力行使をちらつかせることで、力の差のある人間の間に公平性をもたらすのだ。

 怒りは自分に関わることだけに感じるのではない。他人が不当に扱われているときにも起こる。これが進化論的にどう説明されるべきかは分からない。私怨と公憤という区別もあいまいであり、怒りが広い範囲をカバーしているのか、もっと細かく区別されるべきメカニズムがあるのか、今のところ私には不明である。

 もちろん、怒りは道徳的なものだけではない。恋人に心変わりされたときにも怒りは起こるが、恋人の態度が不当とは主張しにくいだろう。不平や不満は怒りに結びつくが、それがわがままではないとは言い切れない。つまり、本来自分に有利にさせようというメカニズムなのだから、怒りに自分勝手なところがあるのは当然だろう。

 しつけも含めて、怒りが道徳に関与するのは、それが効果を持っているからである。違反者には制裁を加えるという脅しが、怒りに裏打ちされることで信用されるからだ。単に理性的な説得ではあなどられるのがおちなのだ。このような道徳的にぺシミスティックな考えは評判がよくないだろうが、あなた方だって不道徳者には怒るのだし、あるいは誰かに怒ってほしいと思うのだ。確かに「怒る」という言葉の用法は現在では単に口頭で注意するだけという意味に限られているかもしれない。しかし、怒りの感情なしに「怒って」みたとて、みすかされるだけなのだ。

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