井本喬作品集

後悔は合理的か

 後悔は不合理だとカントは言っている。

 ずっと前に犯した行為を想い出す度ごとに後悔するのはこのようなことに基づいている。それは道徳的心情によってひき起こされた苦い感情であるが、既に起こったことを起こらないとするのに役立たない限り、実践的には空しいものである。それのみならず不合理であろう(中略)けれども苦しみとしては全く正しい。(『実践理性批判』樫山欽四郎訳、河出書房新社、1965年、86ページ)

 まず、カントに異論を言うならば、後悔は道徳的なものに関するとは限らないのだから、「苦しみとしては全く正しい」とは言えないだろう。犯罪の機会を逃してしまったことへの後悔というのもあるのだから。だとすると、後悔の謎は深まる。諺にも言うように、覆水盆に返らず、こぼれたミルクを嘆いてみても仕方がないのであるから。

 後悔は教訓になるという仮説が立てられるかもしれない。同じ失敗を繰り返さないための警告であるというわけだ。しかし、それだけであるなら、感情的なものでなくてもいいはずである。知的な認識だけであれば、余計な苦痛を感じなくてもよいのだから。その意味では確かに不合理であるように思える。

 ここで、私たちは痛みについて思いいたる。身体に傷なりその他の異変があることを、私たちは痛みによって気づかされる。そのような異変を知らせるだけであるなら、痛みを伴う必要はないはずである。痛みは私たちを必要以上に(傷や異変への対応の契機である以上に)苦しめることが多いのだから。しかし、痛みがなければ私たちはそのような異変への対応を怠ることになるだろう。その結果、異変に気づくことが出来たにもかかわらず、それのもたらす損害(場合によっては死)を防ぐことが出来ないことになるだろう。痛みは防ぐことのできない異変にも起こるし、異変の重大さに比例しているとも限らず、また異変の全てをカバーしているわけでもないので、警告としては不完全かもしれないが、それを備えている生物の方がそうでない生物よりも自己の保全に優れているはずだ。

 後悔は心の痛みである。しかし、身体的な痛みと違って、それを感じるときにはそれをもたらした状況は済んでしまっているのだから、当面の対処には役立たない。後悔先に立たず、である。しかし、カントも言っているように、後悔は記憶に付随するのである。その記憶を思い起こす度に後悔の感情がよみがえる。したがって、同じような状況を迎えたときその記憶が連想されれば、失敗したときの痛みを感じて、今度はそれを避けようとすることが出来るであろう。むろん、これは後悔を感じる主体にとって必ずしも有効であるとは限らない。例えば、プロポーズに失敗した青年は、その記憶にさいなまれてその後のプロポーズの機会の度にちゅうちょしてしまうかもしれない。羹に懲りて膾を吹く、である。にもかかわらず、身体的な痛みと同様、後悔は生存に有利であったに違いない。

 さらに、記憶に後悔が結びつくことは、記憶を保存することに有効であるだろう。いわば記憶に印をつけるようなものだからだ。痛みに限らず、強い感情を伴う記憶は残りやすい。しかし、思い出す度に痛みを伴うような記憶を、人は思い出すことを望まない。人はそれを忘れようとするだろう。ところが、忘れようとするためにその記憶を識別しなければならず、その作用は矛盾する。忘れようとして思い出せない、ということにはならないのである。

 つまり、後悔という感情があるのは、そういうことをもたらす機能を備えた生物が生き残ってきたということだ。そうであるなら、人間以外の生物にも後悔という感情があることを想定させるが、意識的な記憶に随伴する作用であるとするならその範囲は限られるのかもしれない。

 私たちが何度も後悔に悩まされるのは、起こった事態とは違う事態を想像できるからだろう。あのときああしなければ、あるいはああしていれば、こういうことにはならなかったと想定することができるのだ。しかし、因果関係は複雑である。

 例えば、交通事故のことを考えてみよう。私たちが事故の当事者となってしまったことの原因として、不注意であったこと、急いでいたこと、事故が起きやすい場所や時間であったこと、相手が無謀であったことなどと主要なものをあげ、避けられたことと避けられないこと(自分がコントロールできる要素と出来ない要素)を判別することは出来るだろう。しかし、実にたわいもない要素が大きな影響をもたらすことも見逃せないのだ。わずか十秒でもそこを通るのが早いか遅いかしていたら、事故は起こらなかったろう。そして因果の鎖ははるか先まで延びているのだから、そもそも車を運転することさえなければとか、自分が生まれてきさえしなければといったことさえ、言い得るのである。

 となると、何が主要な原因であり、何をすれば避け得たのかということが判然としなくなってしまう。そして、もし事故を起こさない別の経過が選べたとしても、それがいいのかどうかも疑問である。その事故を避け得た代わりにもっと重大な事故にあったかもしれないのだから。ここから私たちは運命論者になってしまう。現実に起こったことは、様々の可能性のなかから偶然によって選ばれたように見えるけれども、実はそうなることは必然であったのであり、私たちがその経過において別のことをすることで結果を変えられるように思うのは、歴史に介入してそれを変えようとすることと同じように、幻想でしかない。そういう諦念を得られれば、後悔することはよほど少なくなるであろう。

 また、私たちの生活は多様であり、同じような結果をもたらす状況が繰り返されることがあまりないとすれば、後悔は教訓としては役立たないだろう。千年に一度の大津波に対して、防備しなかったことを後悔しても仕方がないのではないか。たとえその必要を感じたとしても、そういうことを防備するために膨大なコストをかけることがはたして効果的か(そのコストを別のことに費やした方が適切ではないか)という問題がある。

 だとすれば、後悔は何の役に立つのだろう。その負担の大きさにもかかわらずそれが現にあるということは、やはり有効だからだろう。私たちの生活は、めったにないこととともに、繰り返すことでも成り立っている。そこで起きるミスを防ぐことができれば、生活は改善されるのだ。まれな事故に対してもその確率を下げようとすることはできる。個々の交通事故が起こることを未然に防ぐことはできないが、全体の事故が起こる確率を下げることはできるのだ。個人にしても、事故にあうことを予測することはできないが、その確率を下げることはできる。例えば、運転を控えることや慎重にすることで自分が事故を起こす確率は下げることができる。もちろん、それだけでは他人が運転する車の事故に巻き込まれることや、他のもろもろの事故や災害にあう確率を下げることはできない(車の運転を控えることで災害から逃げ損ねるという危険が増えるかもしれない)。しかし、ある程度の見通しはつくであろう。

 後悔は結果の悪さを嘆くのではない。現状の結果とあり得た結果とを比べて嘆くのである。そのことの証拠に、後悔は機会を逃したときにも起こる。現状は悪化しているわけではないが、機会を利用したときに得られた結果と比べると悪いのである。さらに、現状とは違うことを想定できても、それだけで後悔が起きるわけではない。後悔は行為によって結果を変更できる可能性がなければ生じない。結果がいかに悪いものでも、自分の行為がそれを変えられなかったと分かっていれば、少なくとも後悔は起きない。例えば、自分の容貌がぱっとしないことを嘆くことはあっても、後悔をするわけではない。自分ではどうしようもないからだ(むろん、整形を考慮に入れれば話は違ってくる)。

 また、後悔は過去にのみ関係するのではない。私たちが失敗を恐れるのは、失敗の結果そのものよりも、失敗によって後悔することを恐れることが多い。損害を恐れる気持ちと機会を逃すまいという気持ちは、いずれも後悔を避けようとするところからも来るのだ。アメリカ映画などで、決断をしかねている人に向かって、「いまこれをしなければ、一生後悔することになるぞ」と促す場面がよくある。後悔するかもしれないという恐れはそれほど大きいものなのだ。

 それゆえ、私たちが後悔を問題にすべきなのは、決断をするときである。「我事において後悔せず」という信念があっても(あればこそ)、選択の際に予測し得る結果を考慮しなければならない。むろん、諸結果が必然的であれば、選択には迷うかもしれないが、悔いは少ないはずである。そうなることは分かっていたのだから。しかし、結果が不確かであったり、未来の自分の心が想定しかねたりする場合など、後悔への懸念は常にある。

 つまり、後悔とは私たちの自由の代償なのだ。私たちの選択が結果に影響を与えるということの認識が、その結果に対する私たちの責任を負わせるのである。私たちが何をしようが結果に変わりがないとみなしていたり、私たちのすることは所詮決まっていて選択など見せかけにすぎないと信じているのであれば、そこに自由は感じられず、結果への責任も生じず、後悔も起こらない。

 後悔することへの恐れは人を委縮させてしまい、安全策を選びがちにさせるかもしれないが、必ずしもそうではない。機会を逃したことを後悔することへの恐れは人を大胆にもするのである。人が思いのほか詐欺にひっかかりやすいのも、その作用が大きいからだろう。また、まさに「性懲りもなく」失敗を繰り返すことがあるのは、必ずしも後悔が同じ失敗を防ぐとは限らないことを示している。ギャンブルで損をしたにもかかわらずギャンブルを繰り返すのは、むしろ後悔がそうさせているのかもしれない。後悔を消すには、期待した結果を次の機会に実現すればいいのだから。運はめぐり、状況は常に変わり、前回とは違った(と思われる)方法を思いついたのだから、違う結果を期待してもよい理由はあるわけだ。一つのことにこだわって大局的な視野を持てないのは、後悔が引き留めて離そうとしないからということもある。

 私たちは後悔とそれを恐れる気持ちから免れない。私たちは後悔に悩まされ、それから逃れたいと願う。過去はどうしようもないのだから、嘆いてみたところで仕方がないと分かっていても、後悔は起きるのである。ではどうするべきか。起きたことは他に起こりようがなかったと達観できれば後悔は起こらない。宿命論者は後悔しないのだ。

 事態に巻き込まれてしまったようなことの結果を後悔することにはあまり意味がないように思える。確かに、どんなささいなことであっても、そのときあることをすれば(あるいはしなければ)よい結果になったかもしれないが、その結果を予測できないときにそうしてしまった(あるいはしなかった)ことをいくら悔やんでも詮ないことであろう。ただし、自分が結果に影響を及ぼすことができたという可能性(自由)は私たちを離してはくれないのである。

 後悔というのは総体的に見て効果はあるものの、効率の悪い機能ではある。後悔によるマイナス感情を価値づけてみれば、後悔を教訓とした事後の改善の効果があっても、個人としては採算が取れていないかもしれない。しかし、それは遺伝子とってはどうでもいいことなのである。遺伝子は人間が苦しもうが悲しもうが、そのことで遺伝子の継承が確保されるのであれば、喜んで(擬人化した言い方だが)人間に押しつけるのだ。後悔は私たちにとって半ば合理的であるのだが、遺伝子にとっては(他の代替的な方法と比較すれば)一番合理的なのである。

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