誰が給食課長を殺したのか
1
「中本が家に帰ってないらしい」
広瀬が電話してきてそう言ったとき、和田は自分達の友情を保とうとする彼の努力をうらやましく思った。中本、広瀬と、もう一人北原を加えた三人とは、十数年前に和田が転職してきたときに親しくなった。同じ年頃のせいもあって、周りから四人組として認められる付き合いになった。それが今ではバラバラになってしまっている。友情の名残は今でもあるが、一緒に行動することはほとんどない。仕事の後飲みに行くのもお互い違うメンバーになっている。
人間関係の中でそれぞれの思いにずれが生じてきたことが原因の一つだろう。しかし、そういうことがなかったとしても、いずれは関係は薄くなっただろう。仕事の場所が異なり、地位が異なり、仕事に対する考え方も違ってきて、何から何まで一緒にできた最初のようではなくなってきたからだった。年を取り中年になったということかもしれない。だから、中本が何をしようが、和田は気にならなかった。たとえ彼が穴に落ち込んだからといって、助け上げようとは思わない。それはお節介というものではないか。
広瀬は言った。今日、中本の奥さんと会った。中本は昨日から家に帰っていない。仕事の関係だと言って二、三日外泊することが最近しばしばある。奥さんは中本の服のポケットからホテルの領収書を見つけた。二名の宿泊になっている。ラブホのようないいかげんなところではなく名の通ったホテルだ。広瀬はさらに言った。中本は部下の湯川という女性と関係が出来ている。その女性とホテルに泊まって、職場へもホテルから通っているらしい。中本を見つけて家へ帰るように一緒に説得してくれないか。
広瀬の言うことを聞いているうちに、和田はおかしいなと思い始めた。広瀬はなぜそこまで熱心なんだろう。友情にしては異常すぎないか。中本と部下の湯川という女性の間をどうやって知ったのか。それに、湯川についてどうしてそんなにこだわるのか。和田は男女関係の乱れというものを職場の中でいくつも見てきた。男と女がいかに結びつき易いか、既婚、未婚、年齢、立場などがどんなに簡単に無視されてしまうか。それでもまさかとは思いつつ、和田は疑問を口に出した。
「中本と君の争いに、オレを巻き込むつもりじゃないだろうな」
広瀬はあいまいな返事をした。はっきり否定しないのは認めたということなのだろう。湯川は若い独身の女で、和田も知っていた。そういうことのために出かけるのはおっくうだったが、そこまで聞いて無視するわけにはいかなかった。待ち合わせ場所と時間を決め、和田は家を出た。
二人が待ち合わせたのはJR大阪駅のコンコースだった。二人はあまり話さず、広瀬が確認した領収書のホテルに向かった。ホテルは駅の近くにあった。階段を登ったところにロビーがあり、その左手にフロントがある。二人はフロントへ行き、従業員の一人に広瀬が話しかけた。
「人を探しているので、泊まっているかどうか聞きたいんですが。家に帰っていないんで奥さんが心配しているんです。女性と一緒だと思うんですが」
カウンターの向こうの男は無表情で言った。
「お名前は」
「ナカモト。ナカモトジュンジ。ナカは真ん中の中、モトはホン、ジュンは順番の順、ジは数字の二」
男はキーボードを操作してディスプレイを見た。
「そういうお客様は泊まってらっしゃいません」
和田は男に「ありがとう」と声をかけて、広瀬をカウンターから離した。
「あんなこと言わないでも、名前だけで聞けばよかったんだ」
「そうか」
二人はロビーの空いている席にすわった。広瀬は辺りを見回した。まだチェックインの多くなる時間帯ではないらしく、客はまばらだった。ロビーもすいていた。中本と女の姿を求めて目を漂わせている広瀬に和田は言った。
「一体どうしたんだ」
広瀬は目を和田に向けた。フロントでの態度に表れたように、広瀬は冷静な判断力をなくしているようだった。ポーカーフェイスと日頃揶揄されている変化に乏しい顔が、困惑と焦りでとがったようになっている。広瀬は詳しい事情を話し始めた。今朝、中本の妻から電話で相談を受けた。最近中本が仕事だと言って外泊を繰り返すようになったが、今日も日曜なのに帰って来ない。少し前に彼の服のポケットからホテルの領収書が出て来たので問いつめたが、仕事の関係だとの一点張りで要領を得ない。本当に仕事で泊まっているのだろうか。そういう内容だった。広瀬は中本の家に行き、彼女から直接話を聞き、領収書も見た。それで和田に連絡したのだと言う。
彼らは福祉施設に勤めていたので、週に一度ぐらいの泊まり勤務はある。しかし、中本は給食課長という変な地位に「左遷」されていて、仕事で職場に泊まることは今はない。彼が妻に嘘をついているのは分かる。
「しかし、なぜ湯川と一緒だと言えるんだ」
「湯川も家には帰っていない」
「確かめたのか」
「家に電話してみた」
湯川は栄養士で中本の部下である。しかし、栄養士は他に三名いるし、彼らの職場に女性は山ほどいる。それなのに、広瀬は中本の相手を湯川と決めつけ、彼女の家の電話番号を知っていて、大胆にも電話した。和田は確信した。
「湯川と何かあったのか」
広瀬は悪びれることなく率直に話し出した。
「子供がアレルギーの気があったので、食事のことで相談したことがある。そしたらわざわざ調べて紙に書いてきてくれたんだ。それがきっかけで親しくなった。ずっとうまくいってたんだ。ところが最近になって、中本の野郎が邪魔をするようになった。湯川に近づくなと言うんだ。湯川がオレのことで中本に相談してきたと言うんだ。おかしいと思った。そしたら案の定」
「中本が君から湯川を奪ったと言うのか。信じられんな」
和田にしてみれば、一人の女をめぐって広瀬と中本が争うこと自体が不可解だった。
独身の気楽さもあって和田がいろんな女性に色気を示すことを広瀬は冷ややかに見ていて、対象になった女性の欠点をあげつらい、ことごとくけなした。広瀬の家庭生活は安定していて、妻以外の女性に興味を示すことはないと思えた。職場の女性などとは気さくに話し、むしろ遠慮のなさが目立つぐらいなのだが、それは彼の辛辣さに裏付けられていると和田は思っていた。広瀬が妻以外の女性に執心を持つとは思ってもみなかった。
一方、中本は飲みに行くときなど女性をまじえるのを嫌った。彼は女性嫌いあるいは女性蔑視を標榜し、飲んだときに女性が話題になると「スベタ」「ドクサレマンコ」などと口汚くののしった。たまに女性が混じった酒席で直接そういう言葉を投げつけることもあった。中本が職場などで女性に接するとき、眉間にたてじわをよせて強圧的になるか、おどけた口調でおだてるかの両極端になり、その中間の自然な態度が取れないようだった。それは彼の態度全般に言えることで、男性に対してもそういう傾向はあったが、女性に対してはひどくなる。女性に対して個人的に親しくなるとは考えにくい男なのだ。
広瀬にしても中本にしても、和田が女性に興味を持つことをからかい、あざけるような態度を取っていた。それは彼らが家庭を持っていることで性的情緒的に安定しているからだろうと和田は思っていたのだ。
2
「二人を見つけたならどうする」
和田は広瀬に問いかけた。今まで見通しのない森の中を訳も分からずに歩かされてきたようなものだったが、見晴らしのきく高台に出て、これから先の進路を決めなければならなくなった。
「中本を家に帰す」
広瀬はそう答えた。和田は思った。湯川を中本から引き離すことが広瀬の目的なのだろう。湯川と一緒のところを第三者に見つかったならば、中本は恥じるに違いない。少なくとも当面は取り繕って、湯川とは離れようとするだろう。それが和田を巻き込んだ広瀬のねらいなのだろう。
「とりあえずはそれでいいだろうが、それだけでは解決にならないだろうな」
「湯川に言い聞かせる」
「ちょっと待ってくれ。もし君が湯川とのヨリを戻そうというのなら、オレはごめんだぜ。中本にも君に加担したと見られてしまう。湯川は一人で帰せ」
「分かった」
「オレが入ることで、中本が分別を取り戻してくれるといいんだが。君もそうだ。二人とも湯川にはもう近づかないようにする。そうでないとオレは手を引かせてもらう」
「あいつがそうするなら」
男と女の関係は思慮分別の働くようなものではない。それは和田自身の経験で分かっていた。しかし、中本も広瀬も家庭持ちだった。和田よりも抑制をきかせるはずの条件があった。和田はそのことを頼りにしていた。和田は時計を見て言った。
「来そうにないな。今日は帰ったのかもしれない」
「ホテルは他にもあるからな」
「ここは結構高いんだろう。何でこんなとこに泊まったんだろう。連れ込みならいっぱいあるのに」
「見栄を張ってるんだ」
和田は辺りを見回した。自分たちがひどく場違いなところにいる気がした。和田はもう一度時計を見て言った。
「いつまでもここにいても仕方がない。いったん引き上げよう。中本のところに電話をかけてみよう」
二人は立ち上がってロビーから降りる階段の所へ来た。そのとき上がってくるエスカレーターに湯川と中本の姿を見つけた。偶然とは何という作用をするのだろう。引き上げるのがもう二、三分早ければ、入れ違いになって会うことはなかったろう。エスカレーターを降りたとたんに二人の姿を見て、湯川は崩れ落ちそうになった。広瀬が腕を取って支え、和田と二人でロビーのソファまで連れて行った。中本が後からついてきた。すわった湯川を立たせてようとする中本を止めて、和田は言った。
「まあ、すわれよ」
四人はテーブルを囲んですわった。中本は怖い形相で広瀬をにらんでいた。湯川はうなだれていた。和田が中本に言った。
「家へ帰ってないんだって。奥さんが心配しているぞ」
中本は和田を見て言った。
「オレのうちのことはほっといてくれ。指図は受けん」
「恥ずかしくないのか。こんなことをしていて」
「恥ずかしいことなんか、していない」
広瀬が口をはさんだ。
「湯川のことを考えてやれ」
中本は声を荒げた。
「お前にそんなことは言えん」
和田は周りを気にして言った。
「大きな声を出すな。ここでは話はできない。とりあえず帰ってくれないか。オレがついて行く。君の家で話そう」
「駄目だ。今日は帰らない」
中本は立ち上がって湯川に行こうとうながした。湯川はすわったままだった。中本は一人でフロントへ行った。残った湯川に広瀬が話しかけた。
「大丈夫か」
湯川はうなずいた。
「どういうつもりだ」
「どういうって」
「なんであんな男と一緒にいるんだ」
「だって」
和田も湯川に言った。
「とにかく君は帰れ。お家の方も心配しておられるだろう」
湯川は答えなかった。和田はさらに言った。
「中本の奥さんも心配しているんだ。君が帰れば中本も帰るだろう。今日のところは帰ってくれないか」
湯川は黙ったままだった。フロントでチェックインの手続きをしてきたらしく、中本が戻ってきて湯川に言った。
「行くぞ」
エレベーターの方に歩き出した中本を見て、湯川は立ち上がった。和田と広瀬も立ち上がって湯川を止めようとした。
「やめておけ。言うことをきいてくれないのか」
湯川はためらわなかった。
「放っておけない」
そう言って、湯川は中本の後を追った。和田と広瀬はそれを見送った。この場所で人目を引くようなことはできなかった。二人は腰をかけた。和田はため息をついた。
「一筋縄ではいかないな。もっと簡単に別れさせられると思ったけど」
広瀬は何も言わなかった。湯川の行動がショックだったのかもしれない。和田は思い出して言った。
「みっちゃんには連絡しないでいいのか」
みっちゃんというのは中本の妻の美津子の愛称だった。広瀬も和田も中本の家には何度も行っているし、美津子とも親しかった。広瀬は割と冷静に答えた。
「中本を連れて帰ると言っておいたけど」
「状況を報告しておいた方がいいな。電話よりも、直接話した方がいいだろう。これから行ってみるか」
「オレはやめとくよ。君がしといてくれ」
「そうだな。その方がいいか」
3
中本の家は衛星都市にあった。ターミナルから私鉄に乗って二十分ほどかかる。駅前の繁華街を抜けるとすぐ小さな木造住宅が密集している地域に入る。車一台がやっと通れる道路をはさんで長屋のように並んでいる中の一軒を和田は探した。同じような間口の狭い二階建てが続いているので表札を見ないと区別できない。中本の家の前には子供用の自転車が置いてあった。彼には二人の小学生の男の子がいる。家は建売をローンで購入したらしい。
玄関の戸を開けて声をかけると美津子が出て来た。豊かな肉付きの女性だが太っている感じはしない。大振りの目鼻立ちの美人で、性格もおっとりしていた。和田が小学校で担当だった教師に似ているので、最初会ったときから親しみ以上の感情を持った。その教師は和田を特別に目にかけてくれたのである。美津子は中本には出来すぎの妻だというのが二人を知る人間全ての評価である。和田が中本の今度の行動を信じられなかったのも、彼女の存在があったからだ。彼女に満足できないで、他の女に何を求めるというのだろう。和田は酒の席の冗談として、お前が死んだらみっちゃんをもらうからなと中本によく言っていた。
事情はある程度察しているはずなのに、にこやかな表情の美津子はやつれたところは見えない。外見で損をしているのか、それともしんからおおらかなのだろうか、と和田はいぶかった。
「まあ、和田さんが来て下さったの」
「お久しぶりです」
「広瀬さんは」
「彼は帰りました」
「また来ると言っていたのに。さあ、上がって下さい」
和田は美津子の態度にかすかな失望が現れたのを感じた。美津子が広瀬を信頼しているところがあるのは和田には分かっていた。和田が美津子と知り合う以前から広瀬は彼女と親しくしていた。広瀬の遠慮のない態度は反感を買うことが多いが、一部の女性は逆に親しみを感じるようだった。美津子もそうだった。無骨な中本とは違って広瀬の才気煥発な辛辣さが快いのかもしれない。人に無色透明のように思わせている消極的な和田は、美津子とっては単に夫の友人というだけである。
そのとき和田は、広瀬は自分自身と湯川の関係を美津子に話しているのだろうかと疑問を持った。もし広瀬が隠していたなら、自分はそれを暴いていいのか和田は迷った。美津子に対して夫と広瀬の二人の男を誹謗する立場になっていることを、和田は初めて意識した。
右は便所と風呂と台所、左は二階への階段になっている狭い廊下を抜けると居間になっている畳の部屋がある。和田はテレビとタンスにはさまれたテーブルを前に、美津子の勧めてくれた座布団を敷いてすわった。お茶を入れる支度をしている美津子に和田は言った。
「子供たちは」
「遊びに行ったようよ。二階にはいないわ」
子供たちがいないというのは都合がよかった。和田は美津子がお茶の用意をしてすわるのを待った。本来ここにこうしてすわっているのは中本であるべきなのだが。和田は主人のいない家でその妻と二人きりでいることを奇妙に感じた。しかも、主人が別の女性といることについて話をしなければならないとは。美津子がお茶の入った湯飲みとまんじゅうらしきものを和田の前に置いた。
「ありがとう」
「そのお菓子は頂き物。どこかのおみやげらしいけど」
和田は包装紙を調べてみたが、製造場所がわかるようなことは書いてなかった。和田はそれが重大事でもあるかのようにまんじゅうをいじくりまわした。美津子が言った。
「和田さんにもご迷惑をかけたようね」
「あまり事情が分かっていないんだが、君はどこまで知っているの」
「広瀬さんから聞いているだけ。うちの人が部下の女と一緒だって」
「それだけ」
「そうよ。和田さんも知ってたの」
「オレは今日広瀬から聞かされるまで知らなかった」
「変ね。誰も知らなかったのね。うちの人ってそんな器用なことできるかしら。広瀬さんの思い違いじゃない」
「でも、ご主人は家に帰ってないんだろう」
「そうだけど。それで、うちの人は見つからなかったの」
和田は言い淀んだ。美津子にあまり衝撃を与えないように話したかったが、嘘をつくわけにはいかなかった。
「見つけた。彼が持っていたという領収書のホテルにいた」
「うちの人はまだそこにいるの」
「そう」
「なぜ帰ってこないの」
「女と一緒なんだ」
「女って、広瀬さんの言っていたあの部下の女」
「そう」
美津子は困ったような顔をしたが、和田が予想したほど驚かなかった。広瀬からの連絡を待っている間に覚悟はしていたのかもしれない。
「どういうつもりなのでしょうね、その人。人の夫と一緒にいて」
「少し話してみたけど、よく分からなかったな」
「その人、若いの」
「二十歳台半ばかな」
「その子の家の人はどう思っているのかしら」
「さあ」
「広瀬さんはその子の家の人と話したんでしょう」
「そこまでは聞かなかった」
「どんな子なの」
「オレはよく知らないんだ」
美津子が和田のことを相談相手としては頼りないと思っているに違いない。なぜのこのこ一人で来てしまったのかと和田は後悔した。和田は話題を展開するために美津子に聞いた。
「君は気づかなかったのかい」
「全然分からなかったわ」
「でも、そんなに泊まりがあるのはおかしいだろう。それにあんなホテルに何回も泊まるのはカネがいる」
「聞いても、仕事だの一点張り。おカネもいるからと取っていくだけ。何も教えてくれないのよ。いつもそう」
「言われるままなのかい」
「だって、仕方がないでしょう。言うこときかないと殴るんだから」
「えっ、ご主人は君を殴ったりするの」
「しょっちゅうよ。子供が私をかばおうとすると、子供にも手をあげるのよ」
和田には驚きだった。妻子に乱暴する男が彼の周りにいるとは思っていなかった。何だか江戸時代の職人とか戦前の職工のイメージだ。融和的な家庭が標準のこの時代にそんなアナクロニズムが身近に存在していたとは。しかし、ドメスティック・バイオレンスという表現にすればいかにも現代的になる。いつの世にもそういうことは絶えないのか。
「ひどい奴だな。そんなことをしてるなんて知らなかった」
ただ、和田は中本が酒を飲んだ際に人に手を出すことがあるのは知っていた。酒を飲むと潜めていた不満を噴出させ、彼に異を挿む人間には時に頭を叩いた。和田も、保守的な考えの中本をからかう気持ちもあって急進的な考えを主張したときに同じ目にあった。中本はひょっとするとアルコール依存になっているのかもしれない。美津子が、母親の役割をしてしまうというアルコール依存症者の妻のタイプにぴったりなのに、和田はそのとき気がついた。
「でも、まさか女のことで問題を起こすとは思わなかった。何でそんなことをするのだろうね。君みたいな理想的な奥さんがいるのに」
「若い方がいいんでしょ」
美津子は嫉妬を感じている風ではなかった。三角関係というより家庭の危機と受け取っているのだろう。愛だの恋だのというより、夫として父親としての責任を果たさないことを責めているのだ。甲斐性があるなら他の女と何をしようとかまわない気持ちなのかもしれない。年月がたつと夫婦というのはそうなってしまうのだろうと和田は思った。
「ご主人は、広瀬やオレに知れたことで少しは頭を冷やしているだろう。オレたちが知っているということは、当然君も知っていると分かったはずだ。女とすぐには別れないかもしれないが、泊まり歩くようなことは控えるのではないか」
「そうなるといいけど」
「今の状態ではオレたちの説得など聞きそうにない。しばらく様子をみるしかないな。いざとなったら勤務先で公にして、上司にでも割って入ってもらうという方法もあるけど」
「そうねえ」
「何か他にもできることがないか考えてみるよ」
「お願いするわ。私、相談できる人いないから、皆さんが頼りなの」
4
月曜日には中本は出勤していた。和田と中本は所属が違うので話をする機会を見つけるのは難しく、廊下で偶然出会っても中本は露骨に顔をそむけて和田を避けた。和田は広瀬と立ち話で美津子との会話の内容を報告した。広瀬もこれ以上打つ手は思い浮かばなかった。
彼らの職場は成人男子の生活困難者を入所させる複合施設だった。運営費用は公費から出ていた。入所者は定員をはるかにオーバーしていて5階建ての建物に満ちていた。職員も多くて、総務、会計、人事などの部署も備わっていた。和田や広瀬は相談員という、ケースワーカーと施設管理人を兼ねたような職種についていた。中本も以前は相談員だったのだが、今は給食課長というポストにいる。
給食課長というのは新しく設けられたポストだった。食事の提供というのはこの種の施設では重要なサービスである。調理員の他に栄養士の配置が法律で義務づけられていて、施設が複数あるので栄養士は四人おり、全員が女性で湯川もその一人だった。メニューや調理方法は栄養士の指示に従って行われるが、調理員には彼らなりの言い分があり、両者の間に対立が生じることもある。調理師と栄養士の双方に主任がおり、同格の争いでは決着がつきにくい。従来は上司は総務課長になるが、給食という専門分野は敬遠しがちであった。
給食については理事長直々の指示が多く、指揮命令系統をすっきりさせるために給食課長が新設された。配属は相談員としては古手の中本が指名された。昇格ではあるが、施設の顔である相談員から裏方の給食に回されるのを皆は左遷と取った。中本の意固地なところが上司や同僚に嫌がられていたからである。そもそも給食課長というような職種が必要なのかという疑問があり、中本のために作られたという説もささやかれていた。
理事長のつもりはそうではなかったろう。彼は給食を重視していろいろな思いつきを実践していた。早くからバイキング方式を導入して注目された。郷土料理を食べる「ふるさと会」を実施させたり、食のありがたさを感じるために「一日食」と名付けて毎月の初日の昼食を粗末なものにしたりした。一日食については不評で、外部へ食事を食べに出る職員もいた。一日食はかなり続いたが、食事代をケチっているという利用者の苦情がたまたま理事長の耳に入ったことがきっかけで中止された。最近は家庭での食事に近づけるために食器をセラミックから陶器に変えようと試みている。
この理事長はアイデアマンで、専制者にこういう人間がいると下の人間が迷惑する。その例をあげてみると、まず細かいことでは、言葉の使用がある。例えば、「一生懸命」は間違いで「一所懸命」が正しいという知識を厳格に適用し、書かれる全ての書類はそれを守ることを義務づけた。この熟語は案外出てくるので注意しなければならないが、気をつけていればさほど苦にならない。やっかいなのはもう一つで、「より」は比較に使うものであり、出発点を示す言葉は「から」でなければならないというものだ。この間違いは頻出し、その度ごとに和田たちは部下に書き直させなければならない。
だが、これはまだ被害の少ない方である。もっと深刻な打撃は、たとえば理事長がSSTと名づけた制度がもたらしている。SSTとは、スーパー・ソニック・トランスポートの略でも、ソーシャル・スキル・トレーニングの略でもなく、シックス・セブン・トレーニングという造語の略称である。ある福祉事務所の所長がケースワーカーの訓練について述べていた文章を理事長が読んで、思いついた制度である。その文章は、新任のケースワーカーが配置されたとき、すぐに担当を持たさず、しばらく先輩のケースワーカーと一緒に行動することで、ケースワーカーの技量が格段に進歩するという報告であった。理事長はその方式を取り入れ、新任職員は六か月間先輩と一緒に行動して仕事の内容を理解させるという制度にした。一か月ごとにつく先輩がかわるので六人、その間一人のスーパーバイザーが先輩の指導ぶりを監督するので七人目、それでシックス・セブンとなる。六か月間は戦力にはならず、しかし配置の人員には数えられ、現場は大いに困る。長期間なので新任職員達もだれてしまい、先輩を気の毒がって単独で仕事をしようとするが、そんなところをたまたま理事長に見つかったりすれば大目玉である。新任職員が先輩と離れて一人で立っているだけでもとがめられるのだ。先輩とは決して離れるな、便所も一緒に行けと言ってあるだろうが、と理事長は叱る。この制度は理事長以外は全員反対で(理事長の思いつきのほとんどに関してそうなのだが)、廃止は出来ないまでも何とか骨抜きにしようと制度をいじくるのだが、理事長は時々思い出したように実態を調べ、原則が守られていないと怒って元通りにしてしまう。あるとき本家本元の福祉事務所に問い合わせると、そんなことはとっくにやらなくなっているらしく、理事長はこんないい制度をなぜやめてしまったのかと怒っていた。
何か新しい知識を仕入れると、異常にこだわるのである。「うつ」のときに励ましてはいけないということを聞き込んでいた理事長は、ある研修で講師がそれと違うようなことを言ったのを後で騒ぎ立て、研修の企画を主導した他の法人の長と組織的な対立にまで及んだこともある。
和田にもこんな経験がある。法人が特別擁護老人ホームを建設することになり、その参考のために施設を見学してくるようにとの理事長の指示を受けた。何でも、ある講演で、弄便対策として便器を黒くして成功したというのを聞いたので、確かめて来いというのだった。白い便器だから便が目立つので、黒い便器なら便が分かりにくくて弄便を防げるのだそうだ。和田がその施設に行ってみると、講演者はもはや退職し、現にいる責任者は、普通の生活とは違ったそんな特殊な便器を使うのはおかしいという意見で、黒い便器は設置されていなかった。和田が帰ってその報告をすると、理事長は不機嫌だった。
だから、中本の給食課長就任というのは、理事長にしてみれば意気込みのあるもくろみであるが、周りの者にとっては理事長の思いつきに乗って中本をやっかい払いしただけのことだ。和田は中本に同情はしたけれども、一緒に仕事はしにくいという声も理解できた。中本がどれだけ打撃を受けていたかは分かってやろうとはしなかった。酒席で、あんたは相談員ではないからと冗談に差別的な扱いをしたこともあった。そういう周りの冷たい態度が中本を追い込んでしまったのかとも和田は考えた。
何ごともなかったように日は過ぎていった。和田は依然として中本と話はできなかったし、広瀬と相談することもなくなった。広瀬と中本が湯川をはさんで対立しているのだから、広瀬と協力することは中本の不信感を煽ることになってしまう。広瀬の目的が湯川を取り戻すことであるならば、和田はそれに加担する気はなかった。中本が湯川と付き合うことについては和田はどうでもよかった。ただ、中本が自分の家族に対する責任を放棄しないようにさせたかった。美津子に対する同情が和田を動機づけていた。
5
中本の件は和田一人では手に負えそうにないので、誰かに助力を求めたかった。相談できそうな信頼できる人間は上司や同僚にはいなかった。唯一思いつくのは北原だった。かつては中本、広瀬、北原、和田の四人はしょっちゅうつるんでいた。一緒に飲みに行き、旅行もし、仕事の上でも助け合った。中本の家にもよく行って、北原も美津子と親しかった。以前のような関係であったなら、広瀬、北原、和田の三人で中本を諫めることができたのだ。広瀬には頼れないのであるから、せめて北原だけにでも協力を求めることができればと和田は思った。
しかし、和田は北原に声をかけるつもりはなかった。彼との友情は回復不可能なまでに破綻していた。それも女のせいだ。
話は過去に遡る。発端は彼らの職場に三崎という派手な感じの若い女性が入ってきたことだ。父親の関係の縁故採用らしい。三崎は総務に配属されたので和田とは接触する機会はなかったのだが、ある日、書庫となっている狭い部屋で二人は話をした。和田が福祉法の解説本を探しに行ったとき、本棚の整理を命じられた三崎がそこにいたのだ。福祉に関する知識のまるでない三崎は困っていた。そんな仕事を新人にまかせきりにするのは無茶だが、やらせる仕事がなかったので、ちょうどいい片付けぐらいに思って押し付けたのだろう。
「どういう指示をされたの」
「特には‥‥。きれいに並べてくれって」
「本棚がいっぱいになって、詰め込み状態になっているからなあ。本来ならちゃんと分類しなくちゃいけないんだけど、面倒だから」
「いらない本は処分してもいいらしいのだけれど。古い本は棄ててもいいのかしら」
「古いからといって捨てちゃだめだよ。貴重な資料もあるからね。そうだな。とりあえず、雑誌から片付けるといい。バックナンバーをそろえて、二年以上前の分は処分してもいいだろう。もう誰も読みはしないから」
「はい」
「それと、福祉とは関係ない本もあるね、小説とか。あれもいらないんじゃないかな。総務課長に聞いといてやるよ」
「あの、どの本か教えてくれませんか」
事務的な話なのに、和田は話しているのが楽しくなっていた。
「一時間ほどしてまた来てやるよ。それまで君なりにやってみてごらん」
それから会えばときどき立ち話をするようになった。三崎は若く開放的で人あしらいがうまかった。和田とは世代が違うがそんなことは気にしていないようだった。接触が深まるにつれて和田は彼女を好きになった。目も鼻も唇も大きめで南方系を思わせる顔立ちで、背は高くはないが胸が大きかった。短大は出ているが、新聞の一面を話題にするような会話は期待できない。和田が理想とする女性のタイプではない。しかし彼女と一緒にいられる喜びは彼女の欠点を気にならなくさせた。
三崎は北原とも親しくなった。北原は理事長秘書をしていて(秘書というのも理事長のこだわりの一つで、見込みのある若手を育てる有効な方法だとどこかで仕込んだのだ)、総務課とのつながりが濃かった。やがて和田と北原はみなで一緒に飲みにいくときに三崎を誘うようになったようになった。中本は例のごとく女性を嫌がり、広瀬は三崎のことを安っぽい女だと皮肉を浴びせるので、四人でまとまることは減った。
年齢差もあったので和田は慎重になり、それとなく好意を示すのだが、三崎はそれを察したような素振りは見せなかった。三崎は和田と二人きりになるような機会は巧みに避けていたので、和田が冷静であれば自分が彼女にどう思われているかが分かったろう。恋に落ちた人間が冷静になれるわけはないのだが。
三崎が北原に惹かれているのは和田にも分かっていた。北原は整った容貌と如才のない応対で女性に持てた。ただ、北原が既婚者であるのと、三崎に対する和田の気持ちを彼は承知しているはずなので、二人の間を取り持つか、せめて邪魔はしないだろうと和田は考えていた。しかし、そうではなかった。
皆で飲みに行ったあるとき、トイレに行ったはずの二人がなかなか帰ってこず、他の者は気がついていないようだったが、気になった和田は彼らの飲んでいた部屋から探しに出た。そこは小部屋がいくつかある飲み屋で、トイレに行っても北原を見つけることができなかった和田は、帰りにその中の一つからかすかな話し声を聞いた。廊下との仕切りになっているふすまをあけると、灯りのついてない暗い部屋の隅ですわって抱き合っている二人を見た。和田に気づいても二人はそのままで、北原は三崎の背中に回した腕を振って向こうへ行けと合図をした。三崎は泣いているようで、北原が慰めているようでもあった。そのことの意味を十分には解しかねたが和田はふすまを閉めて席に戻った。やがて二人は何ごともなかったように戻ってきた。
たぶん北原は三崎に対して保護者的な役割を果たしているのだろうと和田は思おうとした。見つかっても二人がうろたえもせず悪びれた様子も示さなかったのがその証拠だ。それでも疑いは残った。話を聞いてあげていたにせよ、暗がりで抱き合うまでというのはどうだろうか。
北原に和田は嫉妬したが、それでも二人の仲はそれ以上進まないだろう思った。何の当てもなかったが、和田は機会を待つことにした。和田はグループとして三崎と付き合うことでつながりを保とうとした。しかし、それさえも許されなくなってしまったのだ。
施設外で集会があった帰り、和田は北原や三崎などを誘ったが、彼らは用事があると断った。和田は一人で帰りかけたが、三崎がいつものグループの一人に何かささやいているのを見かけ、何かおかしいのに気づいた。和田は気づかれぬようにしてその男の後をつけた。男は地下鉄に乗って繁華街まで出て、和田の知らない店に入っていった。和田が続けて入ると、北原、三崎を含めた数名が集まっていた。彼らのぎこちない態度を無視して和田は宴会に加わった。まともな時の和田なら、捨て台詞を残して立ち去っただろう。みじめなことに、そうまでしてまでも三崎の傍にいたかったのだ。
その後、三崎の意向を受けてかどうかは分からないが、北原は飲みに行くとき和田に声をかけないようにして彼を仲間から外すような行動を続けた。中本や広瀬は三崎に夢中になる和田には冷淡だったから、和田は孤立させられたような気持ちになっていった。それ以前から四人の関係は薄れがちであったのが、そのことを契機にばらばらになっていった。和田は一人で中本に立ち向かわねばならなかった。
6
自分の経験からして、中本や広瀬が湯川のような若い女に惹かれる気持ちは和田には理解できた。理解できなかったのは、妻子がありながらそういう気持ちになることだった。和田のような独身者と違って、彼らには何らかの抑制が働くはずではないのか。隠れてするちょっとしたアバンチュールなら考えられなくもない。人間は誘惑には弱いものだ。人に知られないのなら、多少は道に外れたこともやってしまうだろう。しかし、妻をないがしろにしてまでのめり込むのはどうなのか。
広瀬は少なくとも家庭に波風を立てるようなことはしていない。しかし、彼の行動も正常とは言えなかった。妻に対する裏切り方は中本と変わりはなく、中本よりは巧妙に立ち回っているだけに過ぎない。和田は広瀬から彼の結婚について聞いたことがある。和田がこの歳まで独身でいることを憐れんでいるような調子で広瀬は言った。彼が彼の妻と最初に出会ったとき、この女性と結婚することになるだろうと確信した。男女の出会いというのはそういうものだ、と言っていた広瀬が湯川を追いかけ回している。和田はかつてのようには結婚について幻想を抱いてはいなかったが、改めてその絆のもろさを思ってしまう。
中本については意外だった。彼は和田たちに女は嫌いだと公言していた。もっともセックスが嫌いだというのではない。女を即物的に扱うのはいいけれど、情緒的なからみを毛嫌いしていた。彼が女性に対応せざるを得なくなったとき、攻撃するか道化た態度をとるかのどっちかになってしまい、まともな態度を取ることができない。和田から見るとどちらも中本の不安からくる防御的な行動のように思えた。中本はむしろ女を恐れていたのだ。精神分析的な深読みをすれば、その恐れは彼の意識の闇にある欲望が動き出すことによって引き起こされるのだろう。もし彼がその欲望に気づいたならば、そして過去の自分の言動を反省してみるなら、今まで信じていた自分自身の人格が崩壊するほどの衝撃があったはずだ。しかし中本は既に彼自身の人格の統一など投げ出してしまっているようである。
和田にとってもっと意外なのは湯川が中本を好ましく思っているらしいことだ。和田の目から見て、中本には若い女性を惹きつけるような要素はどこにもなかった。唯一考えられるのは、中本が湯川を庇護したというようなことだろう。給食課には古手の栄養士がいて、若い彼女をいじめたかもしれない。中本は親分肌を出して目下の者を取り込もうとする性癖があるから、職場の円滑な運営などは考えずに古手の栄養士を攻撃して湯川を守ろうとしたのかもしれない。そうであったならば、今までそういうことをしてくれた人はいないであろうから、湯川が中本を信頼することになったのではないか。和田にはそうとしか考えられなかった。
それにしても、なぜ湯川は彼女相応な若い男を相手にせずに、広瀬や中本という年上の男と関係するのか。彼女が功利的な動機でそうするのではないのは明らかだ。広瀬や中本が湯浅に与えることができるものは何もない、恋慕の気持ち以外には。彼女は父親コンプレックスのようなものがあって、年上の男でないと相手にできないのかもしれない。また、彼女の性格は暗いというのではないのだけれど、消極的ではっきりしないところがあり、年上の男にとってはそれが可愛く思えても、若い男にはその反応では物足りないだろう。
若い女性に慕われて、中本は狂ってしまったのだ。和田は自分が女性に惹かれやすいのは、固定的な性交相手を持っていないからだと思っていた。妻帯者にはそういう意味でも抵抗力があるのだろうと、幾分うらやましかった。情緒の安定のためには定期的な性交が必要とされるのであろうから。中本には美津子がいるのだから、和田と違って女に超然とした振りができるのだ。しかし、そうではなかった。機会がなければ誘惑に耐えるのは簡単なのである。機会を手にしたときそれを断念しなければ、誘惑に強いとはいえない。そしてその機会が人生においてほんのわずかなものであるならば、それを手放すにはよほどの意志が必要とされるだろう。
たぶん、中本には初めての経験ではなかったか。妻や商売女以外の女性を抱くことは。しかも彼が相手にできた女性に対しては遠慮や引け目のようなものがあって、欲望を思いっきり解放できない。自由に、好きなように、おもちゃのように取り扱える肉体に彼は狂喜した。今の彼に、冷静さを求めても無駄だ。彼から湯川を取り上げたら、刃物を振り回しかねないだろう。そういう感情に支配されて何人の男が人生をしくじったことか。地位も、収入も失い、家族にも去られて、残りの人生を悔やんで生きていくことになるのだ。
そういう事例は和田たちの職場でも起こっていた。和田が就職した頃、同世代で中本たちと親しかった男がもう一人いた。彼は新しく採用された女性職員と駆け落ちしてしまった。家族を棄て、職を棄てて消えてしまったのである。その後の彼らがどうなったかは分からなかった。最近では、部下の若い女性を施設内の面接室で殴って退職した男もいた。彼は和田たちよりは若干若いが上司の受けがよかったので、和田たちは自分たちの地位がおびやかされるように感じていた。彼はむろん妻帯者だが、独身であるその女性と別れ話がこじれて暴力をふるってしまったのだ。その他にも表沙汰にはならなくともいわゆる不倫関係の噂は絶えなかった。結婚している男性だけでなく、結婚している女性についてもそういう噂がされていた。
和田は自分を含めて男女関係には寛容であったけれど、これほどのモラルの乱れが現実に起こっていることには驚いていた。彼がうかつで、世の中はそういうものであり、表面的なきれいごとの下の現実に気がついていなかったのだろうか。それとも、彼の世代の特に女性たちはモラルに忠実に、あるいは縛られて、欲望を自制することを当然のことと考えていたのに対し、時代は変化し、若い世代は当たり前のようにそれに対応しているだけなのだろうか。
和田は階層の違いということも考えざるを得なかった。彼の父は地方の農家出身で、彼の母は都会の下町の職人の娘で、二人が戦後の経済発展の中で築いた家庭は中層の下という辺に位置した。和田が学校で知り合った友達も、中層に属する家庭の息子や娘たちだった。彼らの階層はモラル的に一番厳しい態度を取りがちであり、上層や下層のようにそれぞれ理由は違うけれど平気で無視することはできないのだ。和田は最初の就職先から脱落してここへ再就職したことにより、階層を落としたと思った。同僚は学歴は低く、収入も低かった。和田は彼らを軽蔑するようなことはなかったが、文化の違いというようなことは確かに感じていた。
7
和田が退勤しようとロッカー室へ入ると、若い職員が数人、着替えをすませカバンなどを持ったまま、外の様子をうかがっている。
「何をしているんだ」
和田の問いかけに中の一人が答えた。
「中本さんはもう帰りましたか」
「いや、知らない。中本がどうかしたのか」
「タイムカードのところで待っているんですよ」
「飲みに誘われているのか」
「断るんですけど、捕まると無理矢理引っ張っていかれるんです」
「それでいなくなるのを待っているのか。あきれたな」
「笑い事じゃないですよ。何とかしてくださいよ」
和田は冗談にしたまま放っておこうとして、思い直した。中本と酒を飲むのは和田も最近は敬遠していたし、今は中本は和田を避けているので誘っても乗ってこないかもしれないが、チャンスではある。中本が執拗に人を誘うのは、一人で飲むのは寂しいのもあるが、手元不如意のせいだろう。中本が若い連中にまでたかるようになったのは聞いていた。湯川のことでカネを使ってしまっているからだ。酒の席で話が出来るか疑問だけれども、誘ってみる価値はある。和田は着替えをすませてロッカー室の外へ出るとき、入口付近にたむろしている連中に言った。
「中本は、今日はオレが何とかしよう」
「本当ですか。ありがとうございます」
和田は中庭を通って玄関口に行った。タイムレコーダーの傍に中本が立っていて、和田の姿を見ると顔をそむけた。和田はタイムカードの打刻をすませてから、中本に声をかけた。
「どう、久し振りに飲みにいかないか」
中本は答えなかった。
「他の連中はまだ時間がかかるようだぜ。古い付き合いじゃないか。オレのこと怒っているなら謝る。おわびに今日は、オレがおごるよ」
中本は振り向いて和田の顔を見た。中本の表情は険しかった。和田は笑い顔を作った。
「さあ、行こう」
和田は中本の体を押して外へ出た。中本は逆らわなかった。和田は今日あった仕事のことを話した。若手の職員の失敗、施設利用者のこっけいな行動、上司の悪口など。最初は黙って聞いていた中本も、かつては彼の職場であり事情は分かるので、相づちを打ちしゃべり出した。二人は地下鉄で難波へ出た。
以前に何度か利用している居酒屋風の店に入り、隅の席に向かい合わせにすわって飲み出した頃には、中本も以前のような打ち解けた様子になっていた。むしろ和田の方が、もはやわだかまりなどないように振る舞う中本に違和感を棄てきれないでいた。二人はいつものように主に職場のことを話した。このゴタゴタに巻き込まれる前ならば、和田は給食課長という中本の立場を揶揄するような口調になるのだが、今日は真面目に調理のことなどを聞いた。とりあえずは湯川や広瀬や美津子のことは触れないようにしていた。
和田は自分をコントロールするよう努力していた。彼も、はしくれかもしれないが、ソーシャルワーカーであり、カウンセラーである。施設利用者に働きかけて彼らの考えなり行動に影響を与えることを仕事としているのだ。その技法を使えば中本を変化させることが出来るのではないか。そのためには、まず受容から始めなければならない。相手を性急に批判したり判断しようとはせずに、まるごと受け入れること。
とはいえ、和田はソーシャルワークやカウンセリングの効果を全面的に信用しているわけではなかった。彼の実践は失敗続きだった。外来の技法を無批判に受け入れてしまう福祉分野の底の浅さを痛感していた。少なくとも、言葉の果たす役割についての文化の違いは無視できないはずなのに、その辺りの考慮は誰もしていないのだ。むしろ態度の変容に関しては行動療法的な考えの方が有効なように思っていた。ただ、行動療法の問題点は、コントロールできる資源があまりにもちゃちなのだ。もっと実質的な効果を求めるなら、政治の分野に入ってしまう。安上がりなのは、やはり言葉なのだ。
中本の酔いが回ってきたので、和田は湯川のことを話題に上げた。中本は、湯川がいかにいい子であるかということ、その彼女にひどいことをした広瀬はゆるせないこと、だから広瀬から湯川を守っていることを強調した。湯川は職場でも弱い立場であり、中本が援護してやる必要があるとも言った。和田は反論しなかった。中本の真の動機が湯川への執着であることも、それを自覚してかしないでか誤魔化そうとしていることも、中本のやっていることが広瀬と変わりがないことも言わなかった。さらに、女性に興味を示すことで和田や北原を軽蔑していた以前の中本と、湯川にこだわる今の彼が矛盾していることも指摘しなかった。そういうことで中本を非難してみても、彼が反省して態度を変えるはずもなく、ただ非難する和田自身の正義感のようなものを満足させるだけにすぎないことを、和田は心得ていた。中本を変えようとするなら、彼自身が気づき変わろうとするようになるまで、時間をかけて働きかけねばならないことは分かっていた。しかし、そうしている間にも、美津子や子どもたちは苦しんでいる。こんな身勝手な男の更生のために、弱いものたちを犠牲にしていいとは和田には思えない。
「これからどうするつもりなんだ」
「どうするって」
「このままでいるというわけにはいかんだろう。どっちにしろ、湯川のことはけりをつけないと」
「あの子は守ってやらにゃいかんのだ。放っておいたら広瀬がまた手を出してくるし、給食課でもいじめられる」
「広瀬についてはオレが何とかする。職場のことについては湯川自身にまかせておけばいいことじゃないか。彼女も子どもじゃないのだから自分で判断するだろう」
「そうはいかん」
「みっちゃんはどう思っているだろう」
「あいつは関係ない」
和田は無力感に捕らわれた。確かにこんな短時間で中本を変えることはできないのは分かっている。しかし、時間をかけたからといって、よい方に中本が変わることを期待できるだろうか。むしろ事態は悪化していって、誰もが不幸になってしまうに違いない。そうなるのを手をつかねたまま見ていなければならないのだろうか。それよりも、何か思い切った手を打った方がいいのではないか。誰かを切り捨てねばならなくなったとしても、それによって他の誰かが助かるならば。
それとも、そんなことを和田がするのはお節介というものなのだろうか。
和田は中本が酔いつぶれていくのを冷ややかな気持ちで見ていた。家まで送っていくことは覚悟していた。
8
「寝てしまったようだな」
布団の中に寝かしつけた中本の姿を見ながら、和田は美津子に言った。二人は立ったままだった。美津子は和田の方を向いて答えた。
「お世話をかけました」
「オレにできることと言ったら、こんな風にしてご主人を家に連れて帰ることぐらいだから。あまり力になれなくてごめん」
「いいえ、ありがたいですわ」
話している二人の体が近すぎる気がして、和田は辺りを見回す動作をした。
「子どもたちはもう寝たの」
「ええ。二階で」
和田はもう一度中本の寝姿を見て、声を低めた。
「ここで話すのはまずいね。聞こえるかもしれない」
美津子も小さな声で答えた。
「事務所に行きましょうか。あそこなら誰もいないから」
この近所の民家を買ったか借りたかして、地元の政治家が事務所の一つとして使っていた。美津子はそこの電話番のアルバイトしていた。政治家はめったに顔を出さず、用事があるとき秘書らしい人間が来るが、常駐しているのは美津子だけだったので、彼女が鍵を持っていた。和田と美津子は音をたてないようにして外へ出た。事務所というのは中本の家の並びの数軒先だった。美津子は扉を開けて中へ入り灯りをつけた。
「どうぞ」
和田は美津子の声に従い、中へ入って扉を閉めた。中の構造は中本の家とほぼ同じだった。玄関を上がって短い廊下の先の部屋に、畳には不似合いの事務机と応接セットが置かれている。
「すわってらして。お茶をいれるわ」
和田はソファにすわって部屋の中を見渡した。事務机の上に電話と、数冊の本が斜めに立てかけてある本立てがある。他には隅に段ボールの箱が積んであるだけの殺風景な部屋だった。お茶を入れた茶碗を二つ、盆からテーブルの上に移し、そのまま美津子は和田の向かいにすわった。
「ここで仕事をしてるの?」
「そう。仕事と言ってもたまにかかってくる電話に出るだけ。あとは頼まれた書き物をしたり」
「そんなので事務所を作る必要があるのだろうか」
「選挙になったら忙しくなるらしいのだけれど」
和田は茶碗を取り上げて茶を飲んだ。さて、どこから話したらいいものだろうか。美津子の期待するような伝えるべき何も和田にはなかった。
「給料の振り込みの通帳は君が持っているの?」
「そう」
「中本の小遣いの額は決めているの?」
「決めているけど、足りなくなったら取っていくから」
「渡さなければいいのに」
「あるだけ無理矢理取ってしまうの。逆らったら乱暴するから。だから、あまり持たないようにしているの。ないものは仕方がないでしょうって言うんだけど」
中本にカネがないときには湯川が支払っているのだろうと和田は思った。女にカネを出させることなど和田にはできないが、今の中本ならそれも甘える喜びになっているのだろう。しかし、それにも限度がある。
「サラ金に手を出しはしないかな」
「私もそれを心配してるの」
「カネが続かなくなれば、外で泊まることもできないからいいんだろうけど」
「この間、連れてきたわ」
「連れてきたって、湯川をかい」
「うちの人が酔って心配だから付いて来たらしいんだけど」
和田は驚いて顔をしかめた。美津子は淡々としている。
「どういうつもりなんだろう」
「それで、もう遅いから帰せない、泊めるんだって言って」
「馬鹿にしてる」
「そうよ。駄目だと言ったけど、聞かなくて」
「泊めたのかい」
「嫌だけど仕方なかった。私と子どもは二階に寝て、下で二人で寝ると言ったから、それだけはゆるせないと、下で一人で寝かせたの」
和田は言葉を失った。中本のやりようがあまりにひどすぎると思った。それまで和田は、中本には同情できるところもあり、彼を憎むまでの気持ちにはなれないでいた。しかし、美津子をそこまで踏みつけにしていい理由などあろうはずはなかった。美津子は動揺の気持ちを現わすことなく、まるで他人がひどい目にあったような口調だった。泣き出したっていいくらいであるのに。もう中本のことはどうでもいい気持ちなのかもしれないと和田は思った。
「ひどいやつだね。そこまでするようでは離婚を考えた方がいいのかな」
「私は別れたっていいと思っているのよ。あの女がほしいと言うなら、のしをつけてあげたいくらいだわ。でも、子どもと私をどうしてくれるのよ。そこをちゃんとしてくれないと」
中本にはそんな甲斐性はないだろうなと和田は思ったが、口には出さなかった。ここで離婚してしまえば、損をするのは美津子の方だ。
「私だってこんな状態は我慢できないわ。でも、私が子どもを連れて出ていけば、あの人はあの女を家へ連れ込んで、二人で楽しく暮らすつもりでしょう。そんなことはさせないわ。出て行くならあの人の方よ。あの家は渡さないわ」
「中本はそこまで考えているのだろうか」
「きっとそうよ」
中本が湯川との結婚を本気で考えているなら、彼の無茶苦茶な行動が和田に理解できそうだった。中本は案外ずるいのかもしれない。美津子にはっきり離婚を切り出せないために、彼女が愛想をつかして自分から離れて行くように仕向けているのではないか。だとすれば、湯川が広瀬を棄てて中本に頼ったのも理解できそうだ。考えにくいことだけれども、湯川が結婚を望んだとして、広瀬は消極的だったから彼女の気持ちが冷めた。一方、中本は結婚を承知した。もし、そういうことだったら、湯川の行動も分かる。
彼らの思い通りにはさせたくないという美津子の気持ち和田も同感だった。中本を湯川と一緒に破滅させてやることはできる。しかし、それでは彼らに優しすぎる扱いになってしまう。中本を湯川から引き離し、家族を養う責任を負わせ続けることが一番の仕打ちになる。
「ことを公にして、上司から言ってもらうことも考えてみた。でもそうすると、中本はヤケになって仕事を辞めてしまうかもしれない。それはまずいだろう」
「そうね」
「一度、湯川と話してみようと思ってる。彼女が何を考えているのかが分かったら、何か手が打てるかもしれない」
「ごめんなさいね。こんなことに巻き込んでしまって」
その言葉に和田は美津子の彼に対する信頼を感じた。夫は信じられない。広瀬がこの件に果たしている役割についてはもう美津子は知ったはずだ。北原は寄りつかない。美津子に残されたのは和田に頼ることだけだ。
目の前の美津子と二人きりで隔離されたこの場所にいることを急に和田は意識した。ここで美津子を抱いたとしても誰にも分からない。もしそうしても美津子は抵抗しないだろうと和田には思えた。もしかすると美津子はそれを望んでいるかもしれない。気丈夫に見せているけれども、彼女も心細い思いをしているのだ。誰かに身を投げかけたい気持ちはあるに違いない。
そのとき、和田の脳裏に三崎と北原が抱き合っている姿が浮かんだ。あれは本当に北原が三崎をなぐさめていたのではないか。そして、中本が湯原のなれそめも、そういうことだったのではないか。悩みを聞いてくれ慰めてくれる男に対して、女が信頼するのは当然なのだ。男の本心がどうあれ、そこから愛が生まれてくるのも不思議なことではない。
いま真に美津子のことを考えてやっているのは和田だけだった。その気持ちから美津子を抱くのは自然なことだった。功利的な意味も、好色的な気分もなかった。
だが、第三者から見れば、夫婦の亀裂に割り込んで、妻に取り入り、夫を疎外して、自分の欲望を満足させる卑しい行為になってしまう。美津子の思いに答える気持ちはあっても、こんなどさくさでは適当ではない。魔に魅入られた行為へと凝縮していく空気を裂くように、和田は言った。
「さあ、もう戻ろうか」
9
舞い上がりのぼせ上がった中本を説得するのは無理なので、和田は湯川と話してみることにした。彼女を説得してみることで展望が開けるかもしれない。職場では話すことはできないし、会う約束などしそうもないので、和田は待ち伏せることにした。湯川は帰宅の際、ターミナルで地下鉄から私鉄に乗り換える。和田は時間を見計らって連絡の地下通路で見張った。
同じ方向に歩いていく人の流れの中に湯川を見つけて和田が声をかけたとき、彼女は驚いて逃げ出した。小走りに離れようとする湯川に追いついた和田は並んで歩きながら言った。
「逃げなくてもいい。話すだけだ」
湯川は和田を無視しようとした。和田は湯川の腕をつかんで引き留めた。
「こんなところで騒ぐのはみっともないだろう。少しの間、話を聞いてくれるだけでいい」
湯川は腕を引き離そうとしたが、和田は放さなかった。周りの人々は立ち止まっている二人に特に関心を示すことなくよけて通って行く。和田は湯川を引っ張って壁際まで移動した。
「少しの時間でいいから付き合ってくれ。何もしやしないから。君と中本のためを思ってのことだ。このままだと中本は辞めることになるぞ。君は中本を破滅させたいのか」
湯川は無言のままだったが、体から力を抜いた。和田は手を放した。
「そこに喫茶店がある。そこで話そう」
和田は先に立って歩き出した。湯川はついてきた。喫茶店は混んでいたが空いている席があった。二人ともコーヒーを注文してから和田は湯川に話しかけた。
「オレが乱暴するとでも思ったのかい。オレは別に広瀬の味方というわけじゃない。中本のことを心配しているんだ。友だちなんだから」
湯川は何も言わない。
「君だってこのままの状態でいることはまずいのは分かっているだろう。何とかしなければならないと思っているのだろう。誰か相談する人はいないのかい。ご両親には話していないのだろうな」
和田は湯川が何か言い出すかと待ったが、彼女は黙ったままだった。かたくなに黙り続ける湯川に和田はいらついてきた。信頼関係を築いてからなんて悠長なことは言ってられない。こんな小娘に手を焼かされるのはまっぴらだ。
「君たちが別れれば、問題は解決する。それは君にも分かるだろう。君だって、こんなになってまで、続けたいとは思っていないだろう。傍にいるから別れづらいのだろうから、離れるようにしてはどうかな。君の方が別れようとしても、中本が放そうとはしないだろうから、それが一番いいと思うんだが」
和田は湯川の反応をうかがったが、彼女が何を考えているのか判断はつかなかった。和田の言葉を検討しているようでもあるし、ただ我慢しているだけのようでもある。和田はさらに言葉を加えた。
「君が仕事を辞めてくれるといいんだが」
それまで和田の顔を見ないようにしてうつむいて黙っていた湯川が顔をあげて和田をにらんだ。
「どうして私が辞めなくてはいけないんですか」
思いがけない湯川の反抗にむっとした和田は、きつくなりそうな口調を抑えて言った。
「それが一番いいのじゃないか。このまま行けば、いずれは君たちのことが皆に知れて、中本は辞めざるを得なくなるだろう。そうすれば、君だって残るわけにはいかなくなる。二人とも辞めることになってしまったらどうする気だ」
「別に辞める必要はないと思います」
「そうはいかない。このまま君たちの好きにはさせない。他の連中ができなくても、オレが君らを辞めさせてみせる」
興奮してしまったことに気づいて、和田は気持ちを抑えようとした。
「君は中本の奥さんや子どものことはどうも思わないのか。親子三人を不幸にしても、君たちだけが幸せになればいいのか。いや、たとえ君たちが一緒になれても幸せにはなれないぞ。中本には君を幸せにする力はない。一緒になれたとしても、どうせ長くは続かない。それは君にも分かるはずだ。君は将来のことを考えないのか」
「そういうことを考えていたら人を好きにはなれないでしょうね」
和田は湯川に嘲笑されていた。和田は湯川の気持ちが分かっていなかった。いかに考えにくくとも、彼女は中本を好きなのだ。脅したりすかしたりすれば、彼女は中本から離れていくに違いないと和田が考えていたのは間違っていた。湯川の側にあるのも他人の介入で変わってしまう程度の感情ではなかった。
「もうお話することはないですね。失礼します」
湯川はそう言って席を立った。和田は引き留めなかった。「人の恋路を邪魔する者は」とか「水をかけても離れない」というような言葉が和田に浮かんできた。古今東西、色恋沙汰で他人の忠告が有効だったことなどあった試しがないではないか。いっそのこと、行くところまで行って、後悔するがいいんだ。
自分に関わることだから広瀬はできないだろうが、和田は上司に訴えることができる。逆上している中本は、湯川と別れるより辞職することを選び、湯川にもそれを強制するだろう。そして二人で駆け落ちしてしまうだろう。
和田にとってはそうなることはむしろ好ましい気がする。美津子は困るだろうが、収入の面だけのことだ。夫として父親としての中本に期待することは何もないだろう。
問題は、中本のことだから、仕事を辞めても自分の家を動かない可能性があることだ。そうなれば美津子の負担は一層大きくなる。破れかぶれになった中本は湯川を家に引っ張り込むかもしれない。美津子は自分の方が家を出ることなど承知しないだろうから、中本の家は修羅場になってしまう。それは避けなければならない。
一体自分は何をやっているのだろうと和田は思った。いろいろ動いてみても、誰のためにも、何の役にも立っていない。彼がどうあがこうと、物事はそれ自体のあり方で進んでいくのだ。結局は出来てきたものを受け取るしかない。和田には待つだけのことしかできないのだ。
そのときふと和田は思ったのだが、待っているのは自分だけではないのではないか。事態がこのままずっと保持されるはずはなく、どこか終局に向かって進んで行かざるを得ないことは、関係する皆が感じているのだ。それがどういう結果になるか分からないが、そしてそれに期待を持つか恐れを抱くか、いずれにせよ、何か決定的なことが起こるのを、中本も、湯川も、広瀬も、美津子も待っているのではないか。
10
和田は自分自身の問題を抱えていた。三崎のことが忘れられないのだ。三崎とは会話することもできない関係になってしまったが、それでも彼女を憎むことはできなかった。三崎が彼女と同年代の職員と付き合っているという噂を聞いた。その男とは仕事上の接触はあった。好感の持てる青年だった。彼をライバルとみなそうとは思わなかった。自分が太刀打ちできる相手ではないのだ。和田は三崎に嫌われているし、歳も違い過ぎる。その男が三崎と結ばれるのは当然だと和田にも思える。彼女のことはあきらめざるを得ない。もともと、彼女とは特別なつながりなど何もなかった。彼女に執着する理由など何もないのだ。
三崎の態度は、冷淡というより悪意あるものになっているように和田には感じられた。冷静に考えれば、三崎にしても和田を避けようとするあまり自然な態度がとれなかっただけかもしれない。例えば、書類を配るときに、他の人間には手渡しをするのに、和田だけはそこにいてもレターケースに入れるとか、そういった差別的な態度が和田には耐えられなかった。
第三者から見れば滑稽であろう。そんな姿を他人に見ることがある。利用者が女性職員に恋心を抱くということはときどきあった。差別的な見方になるが、彼らの分際で女性と交際しようとすること自体が滑稽であるのに、そのことを自覚できないのが一層滑稽であった。自分が同じことをしているのは分かっていた。それでも、やめられない。他人を笑ったのは浅はかだった。無様だからと言って、やめることはできないのだ。そのことを実感して初めて、そういうことをする他人を理解できた。
だが、滑稽だけで済めばいいのだが、失望が怒りに変わって悲劇を生むこともある。かわいさ余って憎さ百倍、色恋からの刃傷沙汰。昔から変わらぬ痴態だ。和田の施設でもそのような事件が起こったことがある。女性職員が付きまとわれたり、ケガをさせられたりすることがあった。
和田も時々妄想するのである。三崎の小麦色の肌にナイフを振るう情景を。彼女の胸を、腹を、切り裂き、突き刺すのだ。何度も、何度も。大きく見開かれた目を見返し、苦痛の声を聞きながら。実行までに至らなかったのはやはり機会がなかったからにすぎない。彼女と刃物がそろっていれば、抑制できなかったろう。
和田の理想の標準からすれば、三崎など配偶者としては対象外だった。趣味も違えば生活態度も違う。学校時代に色分けされるグループが全然違っているのだ。和田が接してきたのは真面目でおとなしくて多少とも頭のいい男女たちだった。三崎たちのように、派手で遊びなれていてズルをしそうな男女たちとは交わったことはないのだった。容貌にしても、和田の標準からすれば三崎は美人とは言い難く、造作が派手で目立っているだけなのだ。ただ、肉体的な魅力はあった。和田がひきつけられた大きな胸。小柄ながらはじけるような体の動き。そしてコケテッシュな態度。和田のようなうぶな中年男に抗すべきすべはなかった。
タイプは違うけれども、中本や広瀬が湯川に執着する気持ちは和田には理解できる。和田は三崎の体を直接に見たこともないのにこれほど悩まされている。ましてや、彼らは湯川の裸の体を触り、抱くことができたのだ。夢中になるのは当たり前だろう。
三崎にこだわる和田に対して、忠告したりからかったりする者もいた。中本や広瀬もそうだった。あんな女のどこがいい、と彼らは言った。しかし彼らも、和田から見ればさほど魅力あるとは思えない湯川を奪い合っている。
要は機会にすぎないのかもしれない。三崎だろうと湯川だろうと、若い女性から何か期待が持てる反応を得ることができたなら、中年男は夢中になってしまうのだ。何かのきっかけでロックインされてしまう。肉体関係を持つまでもない。特別のつながりを感じてしまうだけで、もうその虜になってしまうのだ。
和田が中本や広瀬と違うのは、彼が独身であるということだ。だからこそ、中本や広瀬に対してもの言う権利のようなものをどうにか確保している。それにしても、お前が口をはさむことでもないし、そうしたところでどうにもならないだろうという思いが強くなってくる。自分のことでも精一杯なのだから。
そういう日々、態度には現わさなかったが、いつも心の中で愛着と憎悪が荒れ狂っていた日々も、虚しい思いが積み重なっていくうちに、日常に負けていくのだ。和田に何ができたろう。あきらめる他なかった。そのうえ、和田は離れた場所の別の施設に移動になった。
もといた施設は法人本部になっていたので、和田は連絡のために出向くことがあった。三崎を見かけることはめったになく、和田も期待はしていなかった。その日、廊下で三崎が声をかけてきたのは意外だった。出会ったのは偶然であり、本来なら三崎が和田を避けるはずだった。三崎は事務的な報告でもするように言った。
「私、辞めるのよ」
和田はとっさに言った。
「そう。結婚するの」
三崎はその問いを宙に浮かしたまま離れていった。
和田はそれで自分の心にも決着がつくだろうと思った。かすかな望みさえ断ち切られたのだから。和田の行動圏から三崎が消えてしまうのだから。
ところが、奇妙な噂が流れてきた。北原の妻が施設に乗り込んできて、北原と三崎の関係を幹部に訴えたというのだ。二人がそういう関係になっていたのは意外だったが、その時点から振り返ってみれば、納得することも多かった。北原が和田を敬遠したのは、彼と三崎の関係に邪魔だったからだ。和田が三崎につきまとえば、いつかは二人の関係を知ることになりかねない。それを防ぐために彼を排除したのだ。また、三崎と若い男の関係というのはカモフラージュだったのだ。
妻にそんなことをさせてしまったのは北原の大失策だが、夫の裏切りを知ったならばそういうことをしでかす女性であるのは、和田にも納得できるところはあった。北原の妻は家付き娘なのである。
北原は妻に謝り、反省の証拠に坊主になったと聞いた。坊主頭の北原を和田は見なかったが、そんな芝居がかったことをしなければならないほど追いつめられた北原に同情はできなかった。三崎が辞めたのは、彼女の方が申し出たのか、何らかの圧力がかかったのか、和田には知ることはできなかった。
そういう形で三崎が北原と別れたことを、和田はどう受け取っていいのか分からなかった。和田が三崎を想うように、三崎が北原のことを想っていたのであれば、三崎の気持ちは和田に通ずるものがある。北原にすれば半分遊びのようなものだったろうけど、三崎は真剣だった。二人は愛し合うといってもいい関係だった。それを無理やり裂かれたのだ。もはや顔を見ることさえできない。北原は妻に隠れて会うようなことはもうできないだろう。三崎がいくら望もうと。
彼らの悲劇に和田の入る余地はなかった。北原が三崎を失ったことで、付随的に和田は三崎を失ったのだ。三崎が和田のことをどう思おうと、和田は三崎の姿を見かけるだけで心躍ったのだ。それがどんなに苦しいことであろうとも、平凡な日常とは違う次元に三崎は導いてくれていたのだ。
三崎のことは忘れなければならない。しかし、忘れられるかどうか、和田には先が見えなかった。
11
和田が絡むようになってから一か月もたたないうちに、中本は死んだ。
彼の死の連絡が施設に入ったのは朝だった。美津子が電話してきたのだ。美津子が朝起きると、布団の中で中本が死んでいた。和田は上司に呼ばれ、総務課の人間とともに中本の家に行くように言われた。彼が中本と親しいとみなされていたので、何かと事情に通じていると思われたからだ。
総務係長の東田とともに電車で中本の家に向かった。ことの意外さに皆が驚き、東田もそう口に出した。和田は適当に答えていたが、最初の衝撃が過ぎると、こうなることは分かっていたような気がしていた。こういう所へ来ることになっていたんだな、和田はそう思って、運命の奸計という言葉を心の中で繰り返していた。
中本の家に着くと、彼の遺体は検死のために運ばれてしまっていた。遺体が戻って来るまで、彼らのすることはなかった。葬儀の手配にしろ、死体検案書がなければ、動くことができなかった。美津子も子どもたちも突然の事態を受け入れるのに戸惑っているようで、悲しみはまだそれほど感じていないようだった。まだ小さいけれど子どもたちは中本の行動をある程度理解していた。中本が湯川を家へ連れて行ったときに顔を見ているのだ。美津子によれば、子どもたちが中本を非難するとき、「あの女」と結びつけているという。家族にとって、中本は夫として父親としては既に死んでいたのだ。肉体的な死がそれに追いついただけのことにすぎないのかもしれない。
親族には連絡をしているけれど、遠いところばかりなのでまだ来ていない。和田と東田は美津子の出してくれたお茶を飲みながら、中本の死の状況を聞いた。美津子と子どもたちは二階で寝ていて、中本は一人で一階に寝ていたので、夜中に何があったのか美津子は気がつかなかった。だから彼がいつ頃死んだのかは分からない。朝になって美津子が二階から下りて来て、様子が変なので救急車を呼んだが、既に死んでいた。
「何か病気があったのですか」
東田が美津子に聞いた。
「分からないのですけれど、病院には行ってなくて。病院に行くのは嫌がってました」
和田が口をはさんだ。
「糖尿の気味はあったね。それに肝臓が悪かったんじゃないかな。いっとき黄疸みたいに少し黄色い顔をしていたときがあったから」
東田は和田の言葉を受けて言った。
「よく飲まれていましたからね」
「前からでしたけど、最近はまた多くなって」
「給食課へ行ってストレスがあったんでしょうかね」
「そうですね。夜、寝られなくて、睡眠薬をのんでいるみたいでしたから」
美津子と東田の会話を断ち切るように和田が言った。
「そんなに体が弱っていたんだろうか」
「少しやせたようでしたけど」
「体調が悪いのは自覚していたはずだから、少し休めばよかったのに」
「休むのは嫌がってました。意地になっても出勤していたみたいで」
東田の前では話せないこともあった。遺体はなかなか帰ってこなかった。親族の一人が来たのをきっかけに、和田と東田はいったん施設に引き上げることにした。通夜と葬式の日程が決まったら手伝いを出すから施設に連絡するように美津子に頼んだ。
後で見た中本の死体検案書には、死因は急性心不全となっていた。それが意味しているのは、原因が何であれ心臓が止まれば死ぬということにすぎないけれど、彼の死が病死であることは間違いない。変死であるにせよ、そして原因が不明であるにせよ。
その夜、和田の家に湯川から電話があった。事情が分からないので困り切って、何とか情報を得たいと思い切ってかけてきたのだろう。和田は知りうる限りのことを教えてやった。
「君は葬儀には出ない方がいいんじゃないか」
「そうでしょうか」
「奥さんや家族のことを考えてやれ」
「でも、どうしても出たいんです。それに、直属の部下なんですから、出ないとおかしく思われるでしょう」
「君のことがどう思われようと関係ない。オレが君に頼んだとき、君は人のことなどどうでもいいと言ってなかったか」
「すいませんでした」
和田は湯川が哀れになった。こうなってみると湯川を排除する意味はなくなってしまっている。また、湯川を葬儀に出席させないと決める権利や権限などが和田にあるわけではなかった。
「君の気持ちも分からんでもない。じゃあ、通夜だけにしとけよ。奥さんにはオレが声をかけておいてやる」
通夜は翌日になった。場所は中本の家の近くの葬儀会場だった。現役の職員が死んだということで同僚が大勢出席した。湯川も来ていた。少し早い目に来ていた和田は、湯川のことを美津子に耳打ちしておいた。
通夜の式典が終わった後、十数人ほど一緒に駅前の飲み屋に行った。悲しむというより中本の思い出で盛り上がったが、和田は乗っていけなかった。二時間ほどして帰ることになった。彼らがいたのは靴をぬいであがる座敷だったので、入口の下足箱から靴を出さねばならなかった。ちょうど別のグループとかち合って混み合った。飲んだ連中の中に北原もいた。彼が靴を出そうとしたとき、学生らしいそのグループの一人と体がぶつかった。北原が怒った声を出し、相手が怒鳴り返して、二人はもみあった。とたんに、酔った勢いもあって、二つのグループはにらみ合った。
和田たちの職場の人間はこういう酒の上のケンカをときどき起こしていた。和田自身も乱闘騒ぎに巻き込まれたこともある。難波で飲み会が終わって引き上げるとき、エレベーターの中でどっちが押したかで、別のグループと言い合いになり、エレベーターを降りたところで殴り合いになった。一荒れしたところでおさまり、一人が鼻血を出したぐらいで済んだが、新聞沙汰にでもなったら大変だった。何しろ、彼らは福祉職に従事しているのだから。
和田は挑発するような言葉を投げ合っている仲間を抑えようとした。
「中本の通夜の日だぞ。やめておけ」
二つのグループは動き始めたが、両方とも駅へ向かったので、小競り合いのようなことが起こり始めた。北原が最初にもみあった男に向かって行こうとしたので、和田は別の方向へ彼を引っ張って行った。集団と離れて和田と北原は二人きりになった。和田は言った。
「まったく、お前は何を考えているんだ。中本のことを思ってやれ」
「あいつが死んでしまったから、むしゃくしゃしてたんだ。悲しいよ」
「気持ちは分かるが、八つ当たりはするな。さあ、もういいだろう、帰ろうか。駅はこっちかな」
北原は誘導しようとする和田の腕をはらって立ち止まった。
「おい」
「何だよ」
「中本のところへ行こう。最後にもう一度顔を見ておきたいんだ」
和田は北原の提案は感傷に過ぎないと思った。彼らの友情はもうとっくに終わっていた。今さら残っている感情をかき集めてみても、涙の一滴にもならない。しかし、和田もこのまま帰ってしまうのは心残りな気がした。明日の葬儀にも出るつもりだが、中本に対して私的な振る舞いができるのはこれが最後だろう。
「そうするか」
二人は会場に戻った。美津子に声をかけて、三人で安置してある棺の前に立った。北原は棺のふたを空けて中本の死に顔をのぞき込んだ。
「中本、何で死んでしまったんだ」
演技っぽい感じがしないでもないが、北原にはそういうところがあった。和田も中本の顔を見た。眉間にシワを寄せたいつも見せる顔ではなかった。穏やかというより頼りなさそうな顔つきだった。寝ている間にうかうかと死んでしまったことに困惑しているようだった。和田は思わず言った。
「いろいろ心残りだったんだろうなあ」
棺のふたを閉めると美津子がお辞儀をして言った。
「ありがとうございました」
二人は美津子と少し話をした後、引き上げた。
翌日の葬儀にも和田は参列した。中本は灰になった。
12
もし、誰が中本を殺したかと問うたなら、私だわ、と湯川は言うだろう。私を愛したために給食課長は死んだのよ。
中本の死体検案書(死亡診断書ではなく)には、死因は急性心不全となっている。それが意味しているのは、原因が何であれ心臓が止まれば死ぬということにすぎないけれど、彼の死が病死であることは間違いない。変死であるにせよ、そして原因が不明であるにせよ。殺人ではない。自殺でもない。肝硬変になりかけたことがあり、糖尿にかかり、不眠に苦しみながら、なおかつ酒を飲み続けたとしても、死を覚悟していたとは考えられない。もっとも、アルコール依存は一種の自殺であると言われているのは、和田は知っていた。和田たちはアルコール依存症者の社会復帰のプログラムに関わったことがあるので、アルコール依存症についての知識は幾分か得ていた。中本がアルコール依存症であったかどうかは判断の難しいところだが、精神的依存状態であったのは間違いない。
中本の死後しばらくして、和田は湯川と会った。中本が湯川から借りていた調理関係の本を返すように、美津子に頼まれたのだ。中本は調理師の資格を取るために勉強し、湯川がその手助けをした。資格を取った後も中本は湯川から借りた本を手元に置き続けた。仕事上の必要からかもしれないし、別の理由からかもしれない。何にせよ、美津子にとっては処分に困るものだった。
量が多いので車で運ぶことにした。日曜日に中本の家に寄って美津子から二つの紙袋に入れた本を受け取った。湯川と待ち合わせたのは彼女の家の近くの駅だった。和田は本を渡すだけでは物足りない気がし、ちょうど昼時でもあったので、湯川を食事に誘った。湯川は素直に応じた。近くに新しくできたショッピングセンターがあると湯川に教えられて、そこのレストランで食事をした後、同じ建物の中の喫茶店に入った。湯川は以前会ったときとは打って変わっておとなしかった。中本の死にショックを受けているのだから沈んだ様子なのは当たり前かもしれない。しかし、彼女は落ち込んでいるというのではなかった。静かな落ち着きとでもいうか、ちょうど憑きものが落ちて正常に戻ったような状態なのかもしれなかった。
疲れたような表情はしているが、若い湯川につけられた傷は浅いようだった。中本にとっては命をかけたものも、彼女にとっては青春のエピソードにすぎなかったのだ。たとえ中本が死ななかったにしても、いずれは過ぎ去って行くものだった。むしろ中本が生き延びなくてよかったのかもしれない。青春の残酷さは用がなくなれば中本をやっかいものとしていともたやすく捨て去ってしまっただろう。そうなれば中本は唯一の救いを失って悲惨のただ中に放り出されることになった。あるいはその悲惨さの中へ、他の人間を引きずり込むことになったかもしれない。湯川か、美津子か、広瀬か、あるいは和田を。中本はちょうどいいときに死んだのだ。
中本の死はカタストロフィーとして皆を正常な軌道に戻す役割を果たしたことになる。彼は死なねばならなかった。彼の死は当然視された。彼が死んでみると、彼の死が期待されていたことにみなが気づいた。彼自身、死に向かってまっしぐらに突進していった。
和田は思いにふけることから目の前の湯川に戻って言った。
「それにしても君はどうして中本にあんなに忠実につくしたんだ」
「好きだったから」
「分からないな。こう言ってはなんだが、あんなさえない中年男のどこがよかったんだ。周りには若くてかっこいい男がたくさんいるだろう」
「好きになるということは、そういうこととは関係ないでしょう」
和田はやりこめられたように黙った。そんな風に言われてしまえば、反論するこちらが卑しくなってしまう。
「まあ、今さら何を言っても仕方がないが。中本が君の傍にいるようなことがなければ、彼も死ななかったのにな」
突然、湯川の目から涙が流れ出した。
「そうね。私が中本課長を殺してしまったのね。私が好きになったりしなければ課長は死ぬことはなかったのに」
和田は彼女の悲しみを過小評価していたのに気づいた。和田は彼女を非難するつもりはなかった。彼にそんな資格はないのだ。
「それは違うよ。そんなこと言えば、オレだって彼を責め立てたことで責任がある。上の連中は彼を給食課長なんて変な役職につけたことで彼を腐らせた。他の連中だって無視したりあざ笑ったりした。みんなでよってたかって殺してしまったとも言えるし、そういう環境に耐えられないほど彼が弱かったのだとも言える。もとはと言えば、彼の性格が引き起こしたことなので、身から出た錆と言うこともできるんだよ。だから、中本が死んだのは誰の責任でもない。むしろ君は中本に安らぎを与えたんだ。死ぬ前に君を知ったことで、中本は救われた。彼は幸せに死んだんだ。あれ以上生き延びたとしても、彼にとっても、周りの者にとっても、事態は悪くなる一方だったに違いない。彼は死ぬことで解決をつけたんだ。ああなる以外にはどうしようもなかったろう」
「でも」
湯川の「でも」の言葉に和田は黙ってしまった。彼女は悔恨に浸りたがっていて、和田の慰めなどお節介に過ぎないのを悟ったからだった。罪を引き受けようというその意図がどんなに善良であろうとも、彼女は心底では自分を肯定しているのだ。和田は少し意地悪い気持ちになって聞いた。
「一緒にいて、中本の体の調子が悪い事に気がつかなかったかい」
「少しやせたのは分かっていたけど。そんなに弱っているようではなかったのに」
「君の前では無理していたんだろう」
ひょっとしたら、湯川の思っているのとは違う意味で、もっと低次元で、本当に湯川が原因だったのかもしれないと和田は思ったが、言わなかった。
湯川が弁解するように言った。
「いつもお酒を飲んでいたから。止めたのだけど、飲まずにはいられなかったみたい」
「体のことなど考えていられなかったのかな」
湯川が自分の役割を大きく見ようとするのは、罪を引き受けようという善良なる意図があろうとも、主観的すぎる。物事には一つの原因しか見つからないわけではなく、多くの要因が絡み合い、お互いに結びつき、あるいは排斥しながら、複雑な経路を形成している。それらを解きほぐすのは容易ではない。そういう作業の不毛さにあきれて、そもそも物事に原因などというものがあるのかと問うてみることもできるのだ。だからこの一つの死についてどこから語るべきかは実は分らない。分っているのは知り得ないことは語れないということだけだ。
要は勝手な男の自己崩壊にすぎないと断定しさって、忘れてしまうのが一番いいのだろう。彼の死に幾分かの責任を感じて、その原因を探ろうなんていうのは悪趣味だ。一体、肉体的な現象である死に、精神的な原因を付与など出来るのだろうか。明らかな自殺であっても、その原因は本人にもよく分からないのではないか。
酒乱に代表される陰気な酔っ払いに対して私たちは苦しみから逃れようとする姿を見てしまう。苦しみの原因は自分の弱さであり、それを知っているゆえにどうしようもなくて酒に逃げ、さらに一層弱さをさらけ出す。自分勝手であり、近くにいたら迷惑だが、遠目に窺うだけなら、こだわりの極端な誇張に純粋さを感じてしまう。世渡りという簡単な生活技術を習得できないたくさんの山頭火たち。実は世渡りというのは簡単なことではないのだ。それは、自分から目をひき離し、他人との共感を経験するという、資質ないし能力を意味するのだ。
和田は湯川を慰めているうちに、彼女は誰かに頼りたがる女なのかもしれないと思った。そもそも彼女の家庭環境はどうなっているのだろうか。たびたび外泊しても不審がられなかったのだろうか。あるいは、両親は離婚でもして、父親が不在なのだろうか。それで年上の男に頼ろうとするのだろうか。
しかし、広瀬から中本へ乗り換えたということは、案外浮気性なのかもしれない。中本が死んで、いわば彼女は空き家になっている。広瀬、中本に続いて、自分がその家に入ることだってできるかもしれない。
和田はちょっとそんなことを考えた。それは不健全な考えだった。しかし、まったく拒否してしまうことはできなかった。男というのはあらゆる機会を捕えようとするのだから。
後日譚的に付け加えれば、湯川は職場の男(彼も年上だ)と結婚し、子供もできた。栄養士として勤務を続けている。彼女と中本との間に何があったのかを知っているのは広瀬と和田だけである。湯川にそんなことがあったとは誰も思うまい。湯川自身もすっかり忘れてしまったように、和田には見える。
13
中本の死後しばらくして、中本の葬儀の際に助力してくれた東田の父親が亡くなったので、和田はその通夜に美津子を誘った。美津子には連絡しておいた方がいいと思ったのである。美津子は出席を望んだ。通夜は自宅で営まれるが、郊外の辺鄙な場所なので和田は車で行くことにし、美津子のところに寄った。
黒いスーツ姿の美津子を乗せて、大阪、京都、奈良の三府県が境を接する辺りを目指した。この辺りも開発は進んでいるが、東田の家のあるのは農家の並んでいる昔ながらの集落の中だった。地元の人や親族の他に、日中の葬儀には出席できにくい職場の同僚が来ていた。僧侶の読経が済んでから引き上げた。
中本の葬儀の後、和田が美津子に会うのは二回目だった。一度目は湯川の本を引き取ったときだ。一人で心細い思いをしているであろう美津子に対し、励ましたり何かと相談に乗ってあげたいとは思っていたのだが、和田にははばかられるものがあった。
中本が生きているときに、お前が死んだらみっちゃんを引き受けると言っていたことが、冗談ではなくなっていた。美津子のもとへしげしげと通うと下心があると思われそうだった。美津子も和田の言葉を覚えているだろう。そして、ひょっとしたら期待をしているのかもしれない。和田が美津子に会うことはその期待をふくらますことになるだろう。だから和田は会うのを控えていたのだ。
帰りの車の中で、二人は黙りがちだった。何か決定的なことが二人の間に起こるという予感がともにあった。だが、それは不透明な外皮をふくらませるだけでなかなかはじけなかった。美津子の家が近くなって和田は言った。
「これからどうするつもり」
「まだ何も考えられないわ」
「遺族年金が出るね。家のローンは中本の生命保険で払える。とりあえずは大丈夫か」
「そうね。でも、心細いわ」
「やはり中本がいないと寂しいね」
「あの人とは幸せではなかったわ」
苦しみということでは、美津子が一番苦しんだのだ。おっとりとした外見に隠されてはいるけれども、美津子の心の中でどのような思いが錯綜していたか。妻子を顧みず若い女とうつつをぬかしながら、さも自分だけが苦しんでいるかのような中本の姿を見て、この男さえいなければと思うことがあったとしても当然だろう。
中本の死んだ晩に、布団の中でじっとしている彼の傍に立っている美津子のイメージを、和田は思い浮かべた。部屋の中は暗くて美津子の表情は分からない。なぜか夜明けよりずっと早い時間である。美津子の姿は動かない。そのまま時間がたっていく。「やっと解放された」という美津子の声が聞こえる。
「もっと早くに離婚していた方がよかったのかな」
「離婚してもどうにもならなかったし」
「そうだね。でもいまは否応なしに一人になっちゃたね」
「一人の方が気楽だけれど、一人になったことなんかなかったから」
「まだ早いけれど、再婚を考えてもいいのじゃないか」
「こんな子持ちのおばさんをもらってくれるひとはいないわ」
「そんなことはないよ。キミはきれいだよ。気立てもいいし。本当に、中本にはもったいないくらいだった」
「じゃあ、和田さん、もらってくれる?」
和田は言い淀んだ。それが微妙な居心地悪さを作った。冗談か本気か分からぬような「いいよ」が言えなかった自分の不器用さを和田は悔やんだ。美津子もバツが悪いのか、黙ったままだった。
美津子がどこまで本気なのか和田には分からなかった。彼女が全くそのことを期待していないとは言えないだろう。和田なら気心が分かっているし、愛とか夢とかを言うような歳でもなく、ただ安定した生活を与えてくれそうなら、それでいいのではないか。和田が積極的に出れば美津子は拒否しまい。
和田は彼女を救おうとすることもできた。彼女の弱みに付け込むことだってできただろう。和田にしたって落ち着いた家庭生活を望まないわけではない。女性としての美津子に魅力がないわけでもない。
和田は車を国道から枝道に入れた。美津子の家はすぐだ。和田は暗く細い道を注意深く進んだ。和田は車を停めた。美津子の家の前に来ていた。美津子は車のドアを開けて降りた。美津子はかがみ込み和田は体をひねって、車の中と外でお互いの顔を見た。二人は何かを待った。
「さようなら」
そう言って美津子はドアを閉めた。和田は車を出し、自分の家に帰るために夜の道を走った。
和田はそれ以来美津子に会っていない。
14
和田はその後一度三崎に会いに行った。特に目的があったわけでもなく、三崎が望んだのでもない。いわば文章に句点をつけるような気持だった。そんないい加減なことを考えてしまうのが自分の弱さだと分かっていたのだけれど。
三崎の住所は知っていたが、彼女の家には行ったこともなく、彼女に連絡もしていなかったので、はたして会えるかどうかは分からなかった。会えなければそれでいい、いや、むしろ会えない方がいいのにと思いながらも、行かずにはいられなかったのである。
ターミナルから電車で郊外に行き、降りた駅は田舎の風景だった。道路沿いには商売をしているような家もあったが、もはや閉めてしまったような閑散さだ。駅からしばらく歩き、農家風の家が立ち並んだ中の一軒が三崎の家だった。旧家らしく、門があって、庭の向こうに建物がある。和田が門の前でためらっていると、三崎が庭を通った。
「やあ」
和田に気づいた三崎は驚いた顔をしたが、迷惑そうではなかった。むしろ懐かしい素振りだった。
「わざわざ来てくれたの」
「どうしているかと思って。送別会にも出てないし」
「送別会なんてなかったわ」
「そうか」
「辞めた事情は知っているんでしょう」
「噂で聞いたけど。詳しいことは知らない」
二人はそこで黙った。和田は何か予定をしていたわけでなかった。
「ちょっと出れないか。どこかで話したい」
三崎はわずかな間の後に「いいわよ」と答えた。
「この辺に喫茶店でもあるかな」
「待ってて、支度してくるから」
考えてみれば、和田は職場以外で三崎と二人きりで話したことはなかった。結局、初めてのデイトが送別になるというのが、和田の役柄だったのだ。
三崎に導かれ狭い道を通り抜けて国道まで出ると、意外にも小さな一軒家のカフェがあった。数台はとまれる駐車場があり、ドライバー目当ての店らしい。木を主体にした簡素な作りで、テーブルが五つほどある。他に客はいなかった。席について飲み物の注文をしてから、二人は顔を見合わせた。和田は言った。
「変わりはないね」
「ずっと家にいるから、ちょっと太ったかしら」
「また勤めるのかい」
「分からないわ。たぶん、そうなるだろうけど」
三崎は目を伏せてコーヒーカップを見た。和田は思い切って聞いてみた。
「北原とはもう会っていないのかい」
三崎は素直に答えた。
「ええ、会ってないわ」
「それでいいのかい」
「仕方ないでしょ」
「北原はどう思っているのかな」
「あなた、北原さんとは話してないの」
和田は自分のうかつさに気がついた。三崎が北原のことを知りたがるのは当然なのだから、北原についての情報を持っておくべきだった。北原の言葉を伝える役割を三崎が和田に期待したとしても当然なのだから。
「彼とは最近あまり話をしていないんだ」
「それも、私のせい?」
「違うよ。場所が離れたので、機会がないんだ。でも、君が北原に何か伝えたいことがあるなら、伝えておくよ」
「そうね。でも、いいわ」
以前の癖で三崎の機嫌を取るような態度を取ってしまったが、北原への未練をあおるようなことをしてはいけないと和田は気づいた。和田は三崎の意外な一面を見た気がした。彼女はそんなに深く傷つくような人間ではないと思い込んでいたのだ。もっと享楽的で、もっと無慈悲な女だと。彼女もただの若い女に過ぎないのだ。
「そうだな。もう忘れることだな」
そのおざなりな言葉には二人ともうんざりしたので、和田は遠慮を捨てた。
「北原と結婚するつもりだったのかい。彼には奥さんがいるのに」
「離婚するようなことを言っていた」
「北原は離婚などしやしないと思うよ。彼の奥さんは彼に夢中で、結婚できなければ死ぬと騒ぐことまでした仲なんだ」
「でも、近頃は冷たくなって、ちゃんと相手してもらえないと言ってたわ」
和田は北原の妻には一度だけ会ったことがある。中本、広瀬と一緒に彼の家へ遊びに行った。正確には彼の家ではない。妻の家は地方の名家で、北原は養子に入ったのだ。
北原の妻は愛想がいいとは言えなかった。北原が気を使って、妻を引っ込ませておくようにしていた。中本と広瀬は以前にも来ていて、その時に北原の妻に与えた印象が悪かったらしい。悪友だと思われたようだ。
北原が養子の立場に不満があるのは知っていた。彼の所有となるものは養家には何もなかった。相続するのは子供たちだった。土地持ちの家でありながら、北原は小遣いの不足を嘆いていた。和田がカネを貸してやったこともある。
「しかし、結局は離婚はできなかった。子供もいるし」
「そうね」
「北原のこと、恨んでいないのかい」
「北原さんも、かわいそうなのよ」
それは和田には肯うことはできなかったが、黙って聞いた。和田が沈黙したので、三崎は言った。
「私のことを憐れんでる?それとも、いい気味だと思っているかしら。そう思われても仕方ないけど」
「そんなことはない。いまでも君のことは好きだ。でも、ずっと君の後を追いかけてきたけど、どっかで迷ってしまったのかもしれない。もうあきらめようと思う。だけど、君を知って幸せだったとだけは言えるよ。後悔はしていない」
三崎は黙っていた。和田にはもう言うべきことなかった。
「行こうか」
店の前で、三崎は駅へ行く道を教えた。和田は言った。
「今日は会えてよかった。ちゃんとお別れができて。元気でね」
「ありがとう」
二人は別の道へ分かれていった。