井本喬作品集

道徳感情論

 柘植尚則の二つの著書、『良心の興亡 近代イギリス道徳哲学研究』(ナカニシヤ出版2003年)および『イギリスのモラリストたち』(研究社2009年)を読んで、シャフツベリ、ハチスン、ヒューム、スミスなどの道徳感情学派のことを知った。原典(私の場合にはいずれにせよ翻訳だが)に当たらずに彼らの言説を評するのは無謀であるが、これらの本によって得た知識の範囲内で感想を述べてみたい。

 そもそも、道徳を感情によって基礎づけるという、一見すると道徳に恣意性を導き入れるような考えが生まれたのはなぜだろうか。伝統的な道徳観では感情というようなうつろい易い心的作用は、むしろ道徳によって抑制さるべきとされていたはずだ。道徳とは知的な、あるいは意志的な心の作用とみなすべきものだった。

 十八世紀のイギリスでこのことの逆転が行われたのは、社会経済状況の影響が大きかったのは間違いないであろう。現象として、経済的には資本主義、社会的には市民社会、思潮として、経済的には自由主義、社会的には民主主義、という構造変化が起こった。従来の階級的・宗教的な道徳観では対応しきれなくなったため、新しい道徳理念が求められた。その基礎にすえられるべきは自我の開放であった。それゆえ次の問いが立てられる。束縛から脱した自我は自己を律することができるだろうか。

 この時期、科学技術の発達に伴い、知性の作用についてはより一層評価が大きくなっていたと思われる。ただし、知性が道徳的行為だけではなく反道徳的行為にも使われる機会が増加し、知性的であることが道徳的であることを保証しないことが痛烈に認識されたのではないか。知性に道徳の基礎を担う力がないとすれば、他の心的作用に注目せざるを得ない。

 むろん知性ないし理性への不信は宗教においてもあった。理知的な冷たい宗教観には満足できずに、感情的な高揚を希求する動きが常に対抗し、時には暴発した。ただし、宗教では神をめぐっての論争であり、人間だけの力で道徳を形成するという課題は現れようがなかった。

 神を介在させることのない説明の試みにおいて、自己愛そのものが道徳を形成したという考えも出て来た。ホッブス(『リバイアサン』)やマンデヴィル(『蜂の寓話』)は、社会という便利な機構において、利己的な人間がお互いの利害調整を行うための手段として道徳を捕らえた。道徳は個人にとって有利であるからこそ、人為的に作られた。人為的であるからには、幾分なりとも知性的である。自己愛と知性の結びつきが道徳を形成しうるのである。しかし、そのような道徳は、自己に有利である限り守られるのであり、一時的にせよ不利をもたらすのであれば、守られる保証はなくなる。そこで、強力な支配や巧みな管理が求められる。

 道徳というものが社会の効用を知的に評価した結果でしかないのであれば、知性の暴走を防ぐための策が必要になる。それが知的な操作であるならば、その道徳性を保障する策がまた必要になり、かくして無限後退に陥ってしまうであろう。それゆえ、知性とは別の要素が検討されることになる。例えば、知性によらない自然的な結合が人間社会において見られるのであれば、その事実を基にして道徳を解釈する試みがなされることになる。

シャフツベリ

 シャフツベリは感情論の創始者とみなされている。彼は人間の情愛を、自然的な情愛、自己情愛、反自然的な情愛の三つに分け、自然的情愛によって社会は自然に(人為的、知的にではなく)形成されるものとした。自然的情愛とは他人と一緒にいたいと思う気持ちであり、これが公共の善を導く(自己情愛は個人の善だけを導くものであり、反自然的な情愛は悪に向かうものである)。社会は、孤立していては得られなかった様々の利益を個人にもたらすから、自己情愛をも満たすことになる(自己情愛を満たすから社会が形成されるのではなく、社会の付随的な効用として自己情愛が満たされるのである)。それゆえ、「徳と利益は一致する」。

 シャフツベリも「良心と自己愛」という十八世紀的問題に答えようとしたのである。彼は自己愛(自己情愛)を否定せず、自己保存のためには必要であるとした。しかし、自己情愛が社会形成の原動力になったとはしない。自己情愛は社会によって満足させられるが、社会はそのために作られたのではない。社会は自然的情愛によって形成され、存続する。したがって自然的情愛があれば、社会を媒介として自己情愛も満たされることになり、知性がこの関係を認識すれば(それが「道徳算術」である)、自然的情愛から生じる徳に逆らう必要はない。

 シャフツベリは利己心(自己情愛)を社会の効用の追認者にはするが、社会の形成そのものには関わらせない。社会の形成は自然であり、社会の実利的効用は間接的、反射的なものである。それゆえ、社会の構成枠である徳は強圧的である必要はなく、説得的なものとなる。説得は理性を通じて利己心に訴えかけ、利己心は社会の効用のゆえに徳に従う。社会の形成を自然的なものとみなすことによって、ホッブスやマンデヴィルのように社会を単なる利益の追求の道具とすることからくる不安定さを回避することができる。

 しかし、自然的情愛から公共の善が導き出されることについては不確かなところがある。他人と一緒にいるためには、相手から嫌われないようにお互いに尊重しあうというのが唯一の方法ではないだろう。強制や誘導や献身や服従などでも、人々は結びつく。また、好き嫌いの感情は分派的行動を引き起こすかもしれない。ただ単に集まるというだけでは徳の形成は保証されないのではないか。自然的情愛のような感情を無視できないとしても、徳の発生の過程のより詳しい分析が求められよう。

ハチスン

 シャフツベリに続くハチスンは道徳感覚学派と呼ばれ、その系譜はヒューム、スミスに至る。ハチスンは道徳的感情を、シャフツベリのように他人と共にあることの喜びに還元して起源づけるのではなく、道徳感覚として直接的に徳そのものを知覚できるものであるとする。道徳感覚は、人間が徳や悪徳を知覚し、徳を愛し悪徳を憎むように規定するものである。美と同じように、徳は理性とは関係なく単独で判断を引き起こすことができる。色の観念が理性に先立って視覚によって与えられるのと同じである。

 では、その徳はどこから由来するのか。ハチスンは徳の起源を仁愛に求めている。人間は他人を愛するようにできているのであるから、その人の善について配慮するのは当然なのである。それゆえ、他人が幸福であることの観察が人間の喜びとなる。徳の成立には理性による社会の効用の認識を介在させる必要はなく、利己心が効用の有無によって関与することもない。

 ハチスンの批判者は、仁愛が快いものであるならば、人はその快さを求めて徳を実践しているのであるから、利己的に行動しているのではないか、と疑問を投げかけた。ハチスンの答えは、仁愛によるものであってもその行為そのものは快ではないというものだった。この答えでは納得は得られないだろう。確かに愛する者は愛の行為によって苦しむことはある。だが、その苦しみは愛あってのことであり、愛によって相殺されるべきものだ。だから、行為に直接的な快がないことが利己性を否定することにはならないだろう。

 感情論への批判者は、義務的な行為を想定しているに違いない。いやいやであっても、それどころかいやいやであるのを克服するからこそ、道徳的行為は尊いのである、と。ところで、いやいやなされる道徳行為というものに価値があるのだろうか。目指されているのはその行為によって達成されるものであり、その行為自体は苦痛であっても、それによって達成されることは満足をもたらすはずだ。そういう道徳行為に伴う苦痛は手段としての苦痛であり、苦痛がなければそれにこしたことはないだろう。

 道徳行為は、直接的にせよ間接的にせよ、行為主体に満足を与える。そのことを利己的というなら、道徳行為が利己的であるというのは、感情論者にも、その対立者にも妥当することだ。むしろ違いは、感情論の批判者が道徳(の名目)から満足(誇り)を得られると暗黙裡に前提しているのに対し、ハチスンは他人のよい状態を見る喜びに徳の支えを見出そうとすることなのである。道徳的であることに喜びを見ているのは、むしろハチスンの批判者の方なのだ。

 一方で、他人の善を求めることから徳が自動的に発生するかどうかは自明ではない。他人によかれと思ってしたことがはたして他人のためになったかどうかは結果を見て判断しなければならないからだ。個々の判断に基づく徳というものは個人的であることを免れず、公共的になるためには他人との調整が必要となるであろう。そうでなければ、自己満足に終わるかもしれない。

 愛から徳を導き出すのは、徳を直接感得するのとは違うように思われる。ハチスンが徳を仁愛から説明しようとするのは、シャフツベリが群集原理といったものを持ち出したのと同じように、やはり迂回的な説明ではないだろうか。

ヒューム

 ヒュームは「理性は情念の奴隷である」と言う。ヒュームにとっては理性単独の満足などというものは考えられないから、理性による徳の基礎づけは排除される。徳といった抽象的な概念が情念の対象とはなるはずもないから、なんらかの媒介によって情念(感情)が徳と結びつけられねばならない。

 ヒュームは他人との関係に理性を介在させるすき間を徹底的に排除しようとする。徳に関しては、他人を引き付けるための条件とか、他人の善についての判断とか、そういうものなしに、他人の感情が直接自分の感情につながるということを考える。そこでヒュームが提示する媒介は共感である。人の喜びが自分の喜びになり、人の苦しみが自分の苦しみになる。それゆえ、他人を思いやるという徳が、感情的な反応の結果として生み出されてくる。

 これはハチスンの考えと同じようであるが、ハチスンの仁愛では他人にとって何が善かを見極めるのが重要であり、他人の喜びや苦しみは他人の状態を判断する材料なのである。だから、他人の喜びは必ずしも主体の喜びとはならないかもしれない。そのような他人は仁愛の行為の対象となる必要はないからだ。また、他人の苦しみは主体にとって苦しみではないかもしれない。そのような他人に仁愛の行為を及ぼすことは主体にとっては喜びとなるからだ。さらに、主体の行為が思い通りの結果をもたらさない場合、例えば悲しみを喜びに変えられなかったような場合、仁愛の行為は無駄となるが、少なくともそういう行為をなしたことで主体の感情は(被行為者の感情とは異なって)肯定的なものであるのではないだろうか。仁愛の行為者の感情と被行為者の感情が一致するとは限らない。特に、被行為者が自らの状態を誤解するということは大いにありうることなのだから。

 ヒュームの場合は、そのような葛藤は除外される。主体は自らの感情と判断とに引き裂かれることはないからだ。あくまで他人の感情が基準となる。しかし、そうなると、徳の個人性や個別性が一層強くなってしまう。人が何に喜びや悲しみを感じるかについては多様性があり、またそのような感情はうつろい易い。そのような弱点を補うものとして、ヒュームは「一般的な観点」というものを持ち出してくる。徳というものを感情という個人的で状況依存的なものに還元しようとしればするほど、普遍性を保証するものが必要とされるようになるのだ。だが、これはヒュームが動機としては軽視した理性の介入をゆるすものではないだろうか。

 ところで、ヒュームは、共感からくる「自然な徳」の他に、「人為的な徳」があると言う。それは、共同体が個人にもたらす利益を考慮して、約束事としての正義に従うことに同意することである。しかし、このような義務の感覚は、人を道徳的に振る舞わせるだけで、真に道徳的にするのではない。また、人は有徳に振る舞うことで他人からの是認を得る。この是認が感情的な満足を与えるならば、それを求めること(是認の欲求)は徳の源泉となりうるだろうか。

 この辺りは微妙で、行為の動機が情動であるならば、その意味で全ての動機は情動という点で同等となり、その徳性は行為の目的なり結果で判断せざるを得なくなって、理性の関与を許すことになる。徳性についての理性の判断を排除するならば、情動に区別をつけて、よい情動と悪い情動という動機面で判断せざるを得ない。したがって行為の徳性は、理性的判断に導かれた目的や、なされた結果の評価によってではなく、動機としての情動の種類によって見出される必要があることになる。人は道徳的に振る舞うだけでは道徳的とみなされるわけにはいかなくなってしまうだろう。人々がそのような判断の必要性を感じているのは事実ではあるが、それを実践しようとするのは実用的とは言えない。

アダム・スミス

 アダム・スミスは、意識的であったかどうかは明確ではないが、このような厳しい判断を緩和しようとした。彼も徳の源泉を共感に求めたのであるが、実践的な基準を「適宜性」に置いた。スミスもヒュームと同様、感情の個人的偏りやうつろい易さを補正する必要のために、「公正な観察者」というものが心の中に想定されるとし、ヒュームより一歩進んで、それを良心とみなした。スミスの特徴的なのは、そのような良心は誰にでも期待できるものではなく、一部の優れた人以外は、「道徳の一般規則」というものが必要とされ、その規則への顧慮を「義務感」と規定して、その重要性を指摘したことである。また、スミスは是認への欲求を肯定するけれども、実際の「称賛への愛」と理想的な「称賛に値することへの愛」を区別し、賢者が感じるのは後者であるとした。スミスは、一般の人には「普通の程度の道徳」で十分であり、必要とされるのは義務感だけであり、良心が問題となるときでも、他人の称賛を求める程度でいいとした。

 スミスが重視するのは、他者からの侵害に対する憤慨への共感であり、それによってそのような侵害が禁止されることになる。「慈善はなくとも社会は存続するが、不正義は社会を破壊する。慈善は社会という建物の装飾であり、正義はその支柱である」というのが、スミスの考えである。

 つまりスミスは道徳感情の存在は認めるけれども、それを高い程度に持ち上げようとすることは現実的ではなく、ほどほどに維持することで社会の運行にはさしつかえないと主張するのである。人を陥れたり傷つけたりすることがなければ、自分の利益のみを目指す行為(商行為)は社会の害にはならず、かえって利益と繁栄をもたらすことになる。

 スミスの道徳感情論は、道徳感情で世界を構成しようというのではなく、道徳は感情によって解釈できるが、社会の運行はそれをさほど必要としないというものであった。だから、スミスの社会観は、道徳感情論を外してしまえば成り立たなくなるものではなく、事実それなしで引き継がれて行くのだ。

 スミス後、道徳感情論は見捨てられていったようである。その原因を私なりに考えてみる。

 道徳の基礎を感情という主観的で変化し易いものに置くと、公平性なり安定性の確保のため、理性を補強として使わざるを得なくなる。そうすると、何もわざわざ感情を持ち出さなくとも、理性によって道徳を構築すればいいとことになってしまう。

 また、道徳というものが社会と切り離すことはできないのだから、社会の成立という後天的な現象と親和的であるには、感情のような先天的なものは不適当だと考えられもする。当時の進化論的な見方からすれば、人間は進化、進歩して理知的になり、その過程で社会を作り道徳を定めたのだろうから、理性が関与して当然と思えるだろう。感情という本源的な要素を使おうとすれば、情緒的関係という原初的なものから始めなくてはならないので、体系化された道徳に直接結びつけることはできない。そこで両者をつなぐ因果の鎖をいろいろ考慮せねばならず、そうしていく間に感情の持つ躍動感を失ってしまい、何のために感情を扱うのか分らなくなってしまう。

 小さな共同体では大きな役割を果たした感情は、都市化、合理化された社会では有効性を失っていったのであろう。そういう社会では理性が大きな働きをする。しかし、理性に全面的に信頼を置くわけにはいかない。ヒュームが指摘しているように、理性はあくまで手段であり、徳性と結びつけばいいが、利己性とも容易に結びつく。むしろそういう理性の不節操に対抗するものとして、感情などの非合理性が期待されるのではなかろうか。とはいえ、理性が社会の構成に不可避とされるならば、道徳感情の役割はあくまで補助的なものでしかない。

 ところで、感情は理性と対立し、また利己性とも相反するように見える(だからこそ、道徳感情という考えが出てきた)。しかし、本当にそうなのだろうか。

 理性による徳は、ある種の感情や欲望を抑えることを求める。強制という性質を帯びているのだ。義務の観念は、嫌でもなされねばならないということを意味する。嫌々なされることに喜びはないだろう。しかし、単に嫌々なされることに意義があるのだろうか。そうではあるまい。特定の行為が望まれるのは、その行為自体から満足が得られなくても、その行為によって達成されるあることなりものなりが満足を与えるからである。それはある状態であったり理念であったり何でもいいのであるが、そういうものなくして義務の観念は成り立ち得ない。主体に満足を与えるということでは、理性の要請も、感情も、変わることはないのである。

 満足という言葉はあまり適当ではないかもしれないが、言葉の定義で寄り道はしたくないので、やむをえず使っている。主体に満足を与えるということは、利己的と言えなくもない。利己的という言葉に、他人によくない影響を与えるという意味が含まれてしまうなら、自愛的と言い換えてもよい。

 つまり、感情も理性も自愛的であることで共通する。これは進化の産物としての人間には当然のことであろう。生存に有利な行為が自愛的な行為、即ち満足を与えてくれる行為となっているのである。感情と理性の違いは、行為がなされるプロセスにおける違いなのである。

 行為のうち、他人に有利な影響を与える行為が道徳的行為だとすれば、感情も理性もそういう行為は可能である。なぜなら、そういう行為は、主体に犠牲をしいるとは限らないからだ。他者とっても主体にとっても有利な結果をもたらす行為というものはある。たとえ見かけは主体に一方的に負担を負わせるような行為であっても、実は主体にも有利であると解釈できるものもある。

 理性による行為は、合理的計算(意識的にせよ無意識的にせよ)が関与するであろう。合理的計算は損得の判断に有効である。したがって、理性的な道徳行為は行為主体が一方的に不利であることを避けさせるものであろう。

 ところで、感情による道徳的行為は、いかなる意味で主体に有利になるのだろうか(二次的考慮による行為の模倣は除外して)。問題はそこにある。なぜなら、感情はしばしば自滅的な行為を引き起こすように思われるからだ。それゆえ、感情的にならずに冷静(理性的)であることが、自己の保全や企ての成功や人間関係の維持に有利であるとされている。そうだとすれば、感情は自己満足は与えてくれるかもしれないが、生存を確かなものにはしてくれないのではないか。道徳感情というものも、それを持っている者を不利にしこそすれ、利益を与えてくれはしないのではないか。たとえば、正義感の強い人間は、敬遠され、迫害され、場合によっては殺害されてしまう。ただし、そういう帰結を恐れずに自分の感情(信念と呼ぶこともできよう)に従うことこそ道徳的であるとも言えそうだが。

 感情というものが主体の内面的充足にのみ関わるものであるならば、道徳感情は自己満足でしかなく、他人のためを思うという気持ちが満たされれば、実際他人のためになったかどうかはどうでもいいことになる。そればかりではなく、行為の結果に無頓着であるならば、自己自身の(その場限りの満足ではない)長期的利益を損なうことにもなるだろう。

 だが、もしそうであるなら、道徳感情というようなやっかいものはとっくに消滅してしまっているだろう。より広く言えば、感情がそれを有する主体にとって不利であるならば、感情を担う主体は淘汰されてしまって感情自体が存在しなくなっているだろう。しかし、感情は存在する。クジャクの羽根のごとく、一見生存において無価値なように。そして、クジャクの羽根と同じく、それが実は生存ないしは生殖に有利であるという違った解釈が可能であるものとして。

 それゆえ、道徳感情論は、感情は進化論的にどういう機能を持っているかという考察の一部であると考えられる。

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