井本喬作品集

カントの場合

 『道徳形而上学原論』(篠田英雄訳、岩波文庫、1960年)におけるカントの道徳論の特徴は次の文章に象徴されよう。

 (前略)理性の真の本分は、他の目的を達成するための手段として善であるような意志ではなくて、それ自体が善である意志を生ぜしめるところになければならない、(中略)つまり理性は、善意志を生ぜしめるという第一の無条件的な意図を達成するために必須であるが、この理性を醇化することは、条件付きの第二の意図、即ち幸福の達成に、少なくともこの世ではさまざまな仕方で制限を加えるばかりか幸福を無以下にすら引下げることもあるが、自然はその場合でも自分の本来の目的に反しているのではない。善意志の確立をみずから最高の実践的本分と認めている理性は、この意図を達成すれば自分なりの満足を得ることだけはできるからである、(後略)(22-3ページ)

 つまり、皮肉な言い方をすれば、善は何の役にも立たないが、自己満足だけはできるということである。こういう極端な見解をカントが持つのは、道徳が絶対的なものであるためには、現実の世界(状況)と特別の関係をもたずに中立的であるべきだと考えるからである。カントの言い方では、仮言的ではなく定言的であれ、ということである。

 では、状況依存的でない道徳の内容とはどのようなものであろうか。カントの解答は巧妙である。彼の定言的命法は次のように表現されている。

 君の格律が同時に普遍的法則となることを、君がそれによって欲し得るところの格律に従ってのみ行為せよ。(64ページ)

 ロールズの「無知のヴェール」はこれと似たような状態を作り出そうとしている。ロールズはカントよりも寛容で主体に利己心を持たせるが、自分の状況については知らせない(どのような状況にもなりうる)という厳しい条件をつけて、自分もそうであるかもしれない他人の立場を配慮するように工夫した。一方、カントは利己心はおろか、慈悲心や行為の帰結への配慮も排除してしまっているので、次の文を追加することが可能である。

 たとえその行為が君や他者にどんな意味を持ち、またどんな益や害をもたらそうとも、そのことに関わりなく。

 しかし、カント自身でさえこの「普遍的法則」の空虚さに不安を感じ、ときおりこっそりと功利主義的な見方を導き入れている。例えば、次の引用箇所ではカントは馬脚を現している。

 更にまた第四の人は、自分が仕合わせなところから、他人が非常な困難と戦わねばならない気の毒な様子を見ても(彼はこの人を助けることができるのに)、『それが私になんのかかわりがあるのか。何びとにせよ天意のままに或いは自力で、思うぞんぶん幸福になろうとも、私は彼から一物をもとりあげはしない、それどころか彼を羨みもしないだろう。ただ私には、彼の安泰に力を致したり、或いは困難に際して彼を援助する気持はない』と考えるのである。このような考方が普遍的自然法則となっても、確かに人類は恙なく存続していけるだろう。(中略)しかしこういう格律に従っても、普遍的自然法則が支障なく存続し得ることは可能であるにせよ、かかる原理が自然法則として普遍的に妥当することをとうてい欲し得るものでない。実際にもこういうことを決心する意志は、自己矛盾に陥るだろう。彼が他人の愛や同情を必要とする場合に、彼自身の意志から生じたかかる自然法則によって、彼が望んでいる援助はすべて当て外れになるようなことがしばしば起こり得るからである。(67-8ページ)

 他者への援助はいわば保険として有効だから(社会的には相互援助になり、個人的には見返りが期待できるから)「普遍的法則」になるとカントは言っているようである。だとすれば、やはり結果が考慮されねばならないということではないか。

 「普遍的法則」とは、個人が彼自身の格律によって行為をなすとき、同じ格律に基づく行為を他の全ての人がなそうとすれば矛盾を生じてしまうようなことがないという形式的な条件を課すものであるようだ。形式的であって内容は伴わない条件であるから、それがどのようなものを許容するのかは内容だけでは分からない。逆に言えば、普遍的法則であることが形式的に確認されれば内容はどんなものでもよいことになり、全く恣意的であっていいことになる。

 カントがこの形式的条件を普遍的であるとするのは、論理的に無矛盾であることの判定が普遍的であるゆえであろう。しかし、論理的な普遍性が道徳としての普遍性を意味するというカントの主張を、皆が納得する(普遍的である)かどうかは分からない。論理的な能力を皆が持っていることのゆえに普遍性を言えるのは、論理的法則に関してだけなのだから。そういう意味からは、道徳的な判断力を皆が持っていることを前提に、道徳の普遍的法則と皆がみなすものが普遍的法則であると言った方が適切ではないだろうか。その内容はどうでもよく、形式的な一致のみを扱うという点では、カントと同じことであるのだから。

 もしそうならば、カントの定言的命法は次のように書き換えられることが可能になるであろう。

 君の格律が同時に皆が認める普遍的法則となることを、君がそれによって欲し得るところの格律に従ってのみ行為せよ。たとえその行為が君や他者にどんな意味を持ち、またどんな益や害をもたらそうとも、そのことに関わりなく。

 奇妙なことだが、この表現は現実に道徳と言われているものによく当てはまるのである。その内容がいかに恣意的に思えようともいったん道徳とみなされれば、それがどんな帰結をもたらそうがおかまいなしに強制的な力を発揮する。カントはそのような道徳の実態の一面を把握していたのだ。もちろん、現実の道徳がそのまま是認されるものとカントはみなしてはいないが。

 それゆえ、カントの定言的命法の妥当性は「普遍的法則」というものの妥当性にかかっている。ところが、形式的・論理的な普遍的法則と称されるものは、彼の例示を検討してみればすぐ分かることだが、状況依存的であらざるを得ないものなのだ。できるだけ状況依存的でない例を選ぼうとしたせいか、そもそも例示の数は少ない。約束に忠実であること、原則にもとづく(本能によるのではなく)好意、正直な意図、善なる格律を守り抜く堅固な精神、同情やまた広く及ぼす親切心、などである。ちょっと考えれば、状況依存的でないことがこれらを普遍のものにするのか疑問が湧く。約束を実行することがあなたに予想外の不利な結果をもたらすことが判明したからといって、あなたは約束を破るべきではないだろう。しかし、約束を実行することが相手に予想外の不利益をもたらすのが分かったら、あなたは約束を守ることに固執すべきだろうか。もちろん、不利な結果が約束を無効にするようになれば、そもそも約束など成立しないから、約束という慣行を守るためにはあなたは泣き泣き約束を守らねばならないだろうとも考えられる。しかし、それは普遍的法則として妥当なことなのだろうか。むろん、当事者が合意すれば約束は破棄されるという規定を付け加えればいいかもしれないが、それは約束の遵守が状況依存的であることを認めることになる。

 普遍的ということにこだわれば、どんどん抽象的になってしまい、現実適応性を失ってしまうことになる。格律が有効であるためには状況依存性を容認せねばならず、行為が主体に対して持つ意味や、行為が及ぼす影響(帰結)を配慮せざるを得ないのである。

 カントがこのような特殊な道徳観を持ったのは、抽象的な思考によるのではなく、現に現象している道徳行為を参考にしたからに違いない。道徳行為は二つの形で状況依存的となっている。一つは理知(カントの怜悧)的行為として、その行為の帰結が目的とされる。もう一つは感情的行為として、行為そのものが欲せられる。このような状況依存性は道徳の絶対性を損ねるものである。つまり、行為主体の都合によって、実行されたりされなかったりするであろう。状況依存性をそぎ落とすためには、理知的道徳行為から帰結への関心を、感情的道徳行為から行為への嗜好を取り去る必要がある。逆に言えば、理知的道徳行為からは行為そのものへの無関心さを、感情的道徳行為からは帰結への無関心さを取り入れようとするのである。

 しかし、道徳の絶対性を求めて状況依存性(偶然性・他律性)を排してしまうと、そもそもなぜ道徳行為がなされるかという疑問が生じる。なぜなら、道徳が状況に無関係であるなら、状況関連の出来事である行為に関わる必要はないからである。カントは回りくどい言い方で次のように言う。

 しかしこの純粋理性は、何処か別のところから得てきたかもしれないような動機をもたないのに、ただそれ自身だけでどうして実践的になり得るのか、換言すれば一切の格律が理性の法則として普遍妥当性を有するという単なる原理が(確かにこの原理こそ純粋実践理性の形式だと言えよう)、意志の実質(対象)、つまり私達が前もってなんらかの関心をもつかも知れないような実質を何ひとつもたないのに、どうして自分だけで動機を与え、また純粋に道徳的と呼ばれるような関心を生じせしめるのか、別言すれば純粋理性はどうして実践的になり得るのかということを説明するのは、人間の理性にとってはまったく不可能であり、これを説明しようとした一切の努力と労苦とはすべて失敗に帰したのである。(128ページ)

 つまりは、なぜかは分からないが、そうなっている、というのだ。繰り返すが、カントのこのような見方は道徳の実体にせまっているように思える。私達の道徳感は与えられたものという性格が強い。そして、帰結にはこだわらず、行為そのものに満足するのである。つまり、道徳は感情と言ってもいいようなものであるのだ。カントはその点が道徳の絶対性を侵すとして嫌った。しかし、感情が生得的であるという意味で、道徳感情は絶対的(普遍的)であるとも言えよう。

 道徳感情は感情であるゆえに状況依存的である。それゆえ、その妥当性はやはり状況判断によらねばならない。カントとは逆に、行為に対する感情の嗜好(それは帰結目当ての行為ではなく、行為そのものを選ぶ)に、理性による帰結の配慮を加えることが、道徳を妥当であり実際的なものとするのではないだろうか。むろん、カントは次のように批判するであろう。

 しかし幸福の概念が甚だ明確を欠く概念であるところから、誰ひとり幸福を望まぬ人は無いにも拘わらず、彼が真に望みまた欲するところのものがなんであるかをはっきりまた矛盾なく言現し得ないのは、まことに不幸なことである。その理由の第一は、幸福の概念を構成している要素がすべて経験的であり、従ってまた経験に求めざるを得なかったということである。またその第二は、幸福の理念が成立するには、私の現在の境遇のみならず将来のいかなる境遇においても幸福の絶対的全体、即ち最大限の幸福が必要だということである。ところでいかにすぐれた明知と豊かな才能とを兼備した人でも、彼が有限的な存在者であるかぎり、自分が真に欲するところのものについて明確な概念を作ることはできない。(中略)要するにかかる人でさえ将来にかけて彼を真に幸福にするものがなんであるかを十分確実にきめることはできないのである。実際それには全知を必要とするだろう。(58-9ページ)

 確かに情報の不完全性は判断の適切性を損なうであろう。しかしながら、私たちは生きていくために判断をせまられるのだ。私たちは乏しい情報とさえない能力とを使って、何とか決断するのである。逆に言えば、将来を確実に見通せるのであれば、私たちのすることは決まってしまい、そこに広がるのは必然的な世界でしかない。選択の重荷を背負わざるを得ないということは、選択の機会があるということであり、カントは気づいていないが、そこに私たちの自由を見出すことができるのだ。

 ただ、カントによる問題はまだ残されている。道徳行為が望まれる(欲するWollen)ものであるなら、なぜ、義務(べしSollen)などというものが起こりうるのか。カントの説明はこうである。理性的存在者は感覚界と悟性界の両方に関わっており、感覚界では「理性と種類を異にする動機によっても触発される」ので、理性が自律的に道徳行為を欲する(悟性界におけるように)ことはできず、それらの動機を抑えるという形で他律的に理性に従うことが要請されるのである。

 では、このような純粋理性を想定しない私たちの場合の説明はどうなるであろうか。道徳が感情であるならば、その他の感情や欲求と競合状態にあるであろう。道徳感情が支配的になるためには、それらをあきらめなければならない。それらは道徳感情の機会費用である。機会費用が低ければ選択はたやすい。機会費用が高ければ得られる利益の見込みは少ない。にもかかわらず、選択は行われなければならない(何もしないという選択肢も当然含まれている)。道徳感情を満足させる行為は機会費用が高いと感じられるかもしれない。それでもそれが比較的に最適だと判断すれば、その行為が選択され「なければならない」のである。むろん、機会費用が高すぎて道徳行為が断念される場合もある。

 それゆえ、義務感は道徳行為だけに付随するものではない。機会費用が高くて利益が少なすぎると感じてしまうとき(例えば利益を得るのが遅れるので割引率がからんでくる場合)、私たちは「べし」と思うのである(勉強をすべし、ダイエットをすべし)。

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