道徳の合理的理解
マッキンタイア『美徳なき時代』(1981年・1984年、篠崎榮訳、みすず書房、1993年)を読んだ。この本での彼の主張を極端に縮めて言えば、現実にいまある徳は、失われてしまった過去に起源があり、それゆえその合理的な根拠を私たちは手にしていない、ということになろうか。徳の説明としては、功利主義のように理性的な判断を理由とするもの、情緒主義のように感情的な傾向を理由とするものがあるが、いずれも(共同体から脱け出た)個人という概念を基礎にしているために説明することに失敗している、と彼は言う。彼によれば、個人は特定の共同体を離れては存在しえず、徳もまたそういう共同体の中で場所を得、納得されるものである。したがって、過去の共同体にあって有効だった徳が、その共同体が失われてしまった後にも保持される場合には、形骸化し有効性が失われてしまうであろう。そのような共同体を前提にして考えない限り、徳の合理的理解はなしえない。
マッキンタイアの主張そのものについては、ここでは扱わないでおこう。この本を読んで面白いことに気づいたので、それについて述べてみる。マッキンタイアは道徳の存在理由を説明しようとした近代理論は全て失敗したとみなしており、それが道徳への不信感をつのらせていると言う。
すると、哲学的な議論と歴史的な議論との連合から明らかにされるのは、私たちが次のいずれかをしなければならないということである。一つは、ただニーチェ的な診断とニーチェ的な問題構成(プロブレマティク)が残るまで啓蒙主義の企ての様々な方式が抱いた願望とその挫折を追体験することである。もう一つは、啓蒙主義の企ては誤っていただけでなく、そもそも決して開始されるべきではなかったのだ、と考えることである。そこには三番目の選択肢は何もない。より特定していえば、道徳哲学の今日の因襲的な教科書課程の中心を占める思想家たち――ヒューム、カント、ミル――によって与えられるような選択肢はないのである。倫理学を教えることが、実にしばしば、教えられた人々の精神に対して破壊的な懐疑をもたらすような効果をもつのは、何ら驚くべきことではないのだ。
つまり、道徳はそれがなぜあるのかが真に理解されない限り、守るに値しないとみなされてしまうというわけだ。マッキンタイアはタブーについても似たような状態にあったとみなしている。タブーという現象が西欧人によって発見されたとき、現地のインフォーマントに聞いてみてもその存在理由がはっきりせず、それゆえそれを説明しようとする様々な理論が考え出された。マッキンタイアは、現地人がタブーについて十分な説明をなしえなかったのは、そもそも彼らがそれがなぜ存在するかを知らなかったからだと推測する。かつては合理的説明があったのだが、それを成立させていた社会・経済・文化的な背景が失われたため、現地人にとってもタブーは不可解なものになり、ただ守るべきものとしてしか受け継がれなかったのだ。その証拠として、ハワイにおいて王がタブーの廃止を宣言しただけで簡単にタブーの習慣が失われたことをマッキンタイアは挙げる。タブーは形骸化していたので、失われても何の支障もなかったのだというわけだ。
しかし、マッキンタイアが説明していないことがある。いまある徳も、タブーも、それが合理的理由を持っていた社会的背景が失われ、その存在理由が誰にも分からなくなって形骸化しているのに、なぜまがいなりにも守られているのか、ということである。逆に言えば、道徳はその存在理由が合理的に理解できれば、よく守られるようになるのであろうかという疑問である。
一つの例を出そう。交通信号の指示はそれを守ることが合理的に理解できる規則である。それは、交差点などにおいて、円滑な通行と衝突の危険回避のため、交互に停止を強いる。では、この明確な目的を理解することは、単に赤=停まる、青=進むと憶えるよりも、交通信号を守ることに寄与するであろうか。自動車の場合は、危険の大きさの理解と、違反が犯罪になることが、そのような作用をもたらしているようである。では、歩行者はどうか。車の通っていない横断歩道を渡るのを赤信号のため待たされる場合、いま信号を無視しても安全だと判断したら、歩行者はどう行動するだろうか。信号は歩行者の安全のためにある(歩行者が加害者になることはまれだから)と考えるならば、安全が確保されている場合、信号の無用の警告に従う必要はないと判断するのは妥当ではないだろうか。
規則を破る場合、それがほんの些細なものであっても、ほとんどの人は罪の意識を感じる。しかし、信号が歩行者の安全のため(だけ)にあると考える人は、信号の機械的な指示が不適切であると判断したならば、信号無視に罪の意識は感じないであろう。一方、単に規則であるからという理由で信号を守る人は、いかに安全であっても信号無視には罪を感じ、かたくなに信号の指示に従おうとするであろう。
規則に合理的な理由があるならば、その理由が妥当する状況にのみその規則は適切なものとなるので、状況によって規則の妥当性が判断可能になる。つまり、規則は状況依存的になる(カントの仮言命法に該当)。一方、規則が絶対視され、その規則が適用される場面においてはいかなる状況でも守られねばならないものとされるなら、規則は状況判断からは超越することになる(カントの定言命法に該当)。どちらの規則が守られやすいだろうか。
実際、業務遂行上のルールとされるもので、以前から守られているというだけの理由で存続している例は結構見つけられる。それらが作られたときは正当な理由があったのだが、状況が変化してその必要性がなくなっても(少なくとも業務遂行上大した障害になっていない場合)、あえて廃止しようとする人がいなければ(時間がたって作られた時の事情を知っている人はいなくなっているので)、ルールは惰性で存続する。そのようなルールは必要性がはっきりしないゆえに、かえって廃止するのがためらわれるのである。カントの定言命法が空虚なのは、それが合理的理解を必要とせず、むしろかえってその説明が邪魔になっているからである。
マッキンタイアが指摘するように、「倫理学を教えることが、実にしばしば、教えられた人々の精神に対して破壊的な懐疑をもたらすような効果をもつ」のは、彼の言うように倫理学の説明が間違っているからではなく、倫理の存在理由が明確にされれば倫理に対する評価が可能になるからではないだろうか。たとえ倫理学の説明が必ずしも成功してはいなくても、その説明をある程度信じることができれば、存在理由の方から倫理を見直すことになるであろう。
それゆえ、単に道徳や規則を守らせるのが目的であるならば、むしろそのような説明の試みは放棄して、頭ごなしにそれらを押しつける方が好ましいということになる。そういう認識はずっと以前からあったようだ。たとえば、モンテーニュは『随想録』(松浪信三郎訳、河出書房新社、1966年)の中で次のように述べている。
いかなる法律も、神によって古くからの持続を評された法律でないかぎり、したがって、誰もその起源を知らず、誰もかつては異なるものであったことを知らないような法律でないかぎり、真の信頼を得ることはできない。
モンテーニュを持ち出したのは、たまたまそのとき私が読んでいたからにすぎないが、似たような語句は他からでも探し出せるだろう。また、モンテーニュはソクラテスとカトーについて次のように言っている(これもまた似たようなことを他の誰かも言っているだろう)。
この二人の人物とその模倣者たち(というのも、この二人のような人物がほかにあったとは思えないからである)の霊魂のうちには、徳へ向かうきわめて完全な習慣があり、それらが彼らにおいては素質にまでなっていたことがわかる。それはもはや苦労な徳でもなく、理性の命令でもない。これを守るのに、彼らの霊魂が緊張しなければならないような、そんな命令ではない。それは彼らの霊魂の本質そのものであり、彼らの霊魂の自然的日常的な歩みである。彼らは美しく豊かな天性にめぐまれ、哲学の教えを長いあいだ実行することによって、自己の霊魂をかかるものたらしめた。(中略)
ところで、気高い神的な決意によって、誘惑の発生を妨げ、悪徳の種子そのものを絶滅させるように徳に向かって修養しておくことは、悪徳の進行を一生懸命に妨げようとしたり、情念の最初の打撃をくらってから、その進撃を阻みこれに打ち勝とうとして武装したり抵抗したりするよりも、はるかに立派である。また、この第二の態度も、たんに生まれつき温厚順良なたちで、もともと放埓や悪徳を嫌う性質を授かっているばあいよりも、はるかに立派である。このことについては、いささかも疑いの余地はないと思う。なぜなら、この第三の、最後の道は、人を無邪気にさせるが、人を有徳にはさせないし、悪をなすことからまぬがれさせるが、善をなすに十分な能力を与えはしないように思われるからである。
モンテーニュの言う第三の道とは、人間の自然的性質に徳の根拠を求める情緒主義などの主張に相当する道徳観であろう。モンテーニュがそれよりは優れていると言う第二の道は、カント的な義務としての道徳観であろう。そして、モンテーニュが第一とするソクラテス的な徳とは、マッキンタイアが目指そうとするアリストテレス的な徳ではないだろうか。つまり、カント的な義務が自然的性質のように身に備わること、それがモンテーニュとマッキンタイアがともに理想としているものではなかろうか。
この理想は、合理的根拠のある規則を感情的・情緒的に(非合理的・無批判的・盲目的に)実践するという矛盾した要求をつきつけるものである。そんなことが可能であろうか。合理的根拠を検討するには合理性が必要であるが、その実践には合理性を放棄しなければならないのである。可能性としては、規則の合理的根拠の検討とその実践を時間的に切り離すことである。いったん合理的根拠の検討に耐えたならば、一定の期間その後の検討を放棄して無条件的に従うのである。これは規則の通常の形である。
このことから、逆の考えができるのではないか。道徳の基本的な要素の一つとして(全てではないとしても)、人間の自然的性質、つまり感情や情動のようなものがあるという見解は、道徳の合理的な検討を排斥する必要はないのかもしれない。道徳の実践に合理的な理解を必ずしも必要としないのは、規則が守られるのに合理的根拠の理解が必ずしも必要ではないことと並行している。ただし、だからと言って、道徳や規則が不合理なものとは限らない。それらが成立・制定された過程において合理的な検討を経ていたと考えることもできるからだ。
合理的な検討は意識的でなくともよい。例えば、交通信号が何のためにあるのか歩行者の誰も理解していない世界を想定してみよう(ドライバーは理解しているという無理な設定をする)。歩行者は車の通行の合間をぬって信号が青でも赤でも道路を渡ろうとするだろう。当然、赤で渡ろうとした人の死傷の割合は青で渡ろうとした人の割合よりも多くなるであろう。たまたま赤のときは避けて青のときだけ渡る性向を身につけた人間が出現したとしよう。そういう性向のある人間は生き残る確率が高く、したがって子孫を残す確率が高くなる。長い年月の後には、人間は信号が赤のときは避け青のときだけ道路を渡るような性質が備わることになるであろう。なぜそのような性質が自分に備わっているか理解はしていなくとも。ところで、その後に車が消滅したとしよう。それにもかかわらず、人間は相変わらず赤で止まり青で進むという性質を保持し続けているだろう、少なくともそれが修正される期間が過ぎるまでは。
道徳がなぜ守られるのかという合理的根拠が見出せないのは私たちの理解力が不足しているのかもしれない。その理由として、規則や道徳の合理的理解を可能にする状況が失われてしまったことをあげることができるかもしれない。そういう意味で、現存の徳が合理的根拠を有していたのは過去の時代であるというマッキンタイアの主張に私は同意する。ただし、その過去は、彼の言うような近い時代ではなく、はるかな昔、遺伝子の形成に関わるような古い時代であると思う。私たちが道徳行動の理解を十分にできないのは、人間行動の理解が十分でないからであろう。道徳行動は、人間行動一般と同様、私たちの合理的理解の介入なしに形成された。だから、合理的理解なしに道徳行動をなしえるのである。しかし、そのことは、それが合理的理解の圏外にあるということを意味しない。ただ、まだ手が届いていないというだけのことである。