徳は得か
例のごとく、宝塚市立図書館の放出図書の中に『ささやかながら、徳について』という本(アンドレ・コント=スポンヴィル、1995年、中村昇、小須田健、C・カンタン訳、紀伊国屋書店、1999年)を見つけた。図書館の蔵書にはもう見当たらないから、たぶん貸出実績のなさにより追い出されてしまったのだろう。もっと読まれてしかるべき本だと残念に思うが、私にしたところでこういう形でしか出会わなかったのだから、日本では話題になりにくかったのだろう。
途中まで読んだときの感想は、著者がモンテーニュの伝統に連なるモラリストらしいということだ。実際、モンテーニュの引用が多くある(もちろんアリストテレス、スピノザ、カント、パスカルなども引用されている)。どういうことかというと、無理をしない範囲にモラルを留めておくことで、その有効性を確保しようという姿勢が共通しているように思う。聖人や賢者のモラルは究極としてあるが、一般人にはとうてい手の届くものではなく、せめてそれに近づこうとするぐらいで勘弁してもらおうというのである。
なぜか。著者の言葉を使えば人間は「快感原則」の支配を受けていて、モラル的にできることといえば、他人に不利益にならないようにしてそれを追求するか、その追求が同時に他人の利益になるようにすることだけであるからだ。それならば可能である。社会的なシステムとしても、他人を配慮することが結果的に自己の利益になるような機能は十分可能であり(利益の配分という問題は残るが)、そのようなシステムをモラルが支えるなら、極度に利己的でない人であればモラルに従うことは困難ではないだろう。もちろん、そのようなシステムでも他人の不利益に乗じて自己の利益を増す機会をなくすことはできない。そういう行為を抑制できるかどうかは最終的には品性の問題となってくる。
むろん、基本的にこういう考え方をする人は少なくない。私の理解するところでは、アダム・スミスもそうであり、デュウイもそうである。それぞれの論者の特徴は細かいところの扱いや語り口に出るのだろう。ここでは著者の論点によって、そのような考え方について考えてみよう。
結局、モラルはその実行者の得となる。その得が、「胃によるものであろうとも、幻想によるものであろうとも」。あるいは、即時のものか長期的な計算期間を必要とするかの違いがあれ、また、その範囲が実行者個人から存在する全てのものにいたるまでのどこに限られようと。でなければ、人間(実行者個人)にとってモラルが何になるというのだ。
モラルは主として対人間の現象である。ごく簡単に言えば、人間は単独で生きるより集団で生活する方が有利である。集団を維持するためにはルールが必要だ。そのルールの一つがモラルなのだ。問題はここからである。モラルを守ることが集団の維持には必要であり、集団がそれに属する個人にとって利益をもたらすものであれば、誰がモラルに違反しようとするだろうか。そういう論理についての理解の不足があるかもしれない。その場合は経験がそれを補正するだろう。だが、経験が必ずしもそういうものでなかったらどうだろうか。つまり、集団がただ乗りの機会を作ってしまうとしたら。たとえモラルに違反しても集団としての利益を享受できるとすれば。真に驚くべきことは、ただ乗りの機会があるにもかかわらず、大部分の人にモラルが守られていることの方なのだ。
だから、モラルについて述べようとするならば、モラルは得であるということの証明をするのではなく(それは当り前のことだ)、免れることが可能かもしれないモラルのコストをあえて人が負担するのはなぜなのかということの説明の方なのだ。カントは、モラルというのは本質においてコストであり、それが得をもたらすのはおまけであるという逆転の説明をしようとした。人間がただ乗りの機会を逃さない存在であるなら、こうでも言わない限りモラルを守らせることはできまい。確かに、モラルは得になるという教育をするなら、得であるという認識が得にくい場合(あるいは、さらなる得を諦めねばならないとき)にはモラルは守られなくなる。理由なしにモラルは守らなければならないという教育こそが必要となるであろう。
著者は子供についてはそれを認める。「礼儀正しさ」が形式的であるのは、理由なしに身につけねばならないからだ。モラルはここから始まるが、ここに留まっていてはモラルではない。成長すればモラルはなぜ守られなければならないかの理解が必要となる。そうでなければ、大人によって強制されたモラル(礼儀正しさ)は、自らが大人になって強制がなくなれば、よほど強固に習慣づけられていない限り、保持する理由がなくなってしまう。
全体的に見てモラルが得であるとしても、個々のケースでは余計なコストがかかる場合があるとすれば、その状況を人はどのようにして克服しているのか(あるいは、すべきなのか)。著者はまず愛を持ち出す。愛によって人は一方的に与える(損をする)ことをいとわない。しかし愛はモラルではない。愛は意志によって生じるものではないからだ。著者によればモラルは意志に関わるものである。愛の対象は限られている。必然的か偶然的であり、意志の入り込む余地はない。それゆえ、愛のないところで愛と同じ機能を果たそうとする意志がモラルを生じさせる。
その意志はどこから生じるのか。同情ではない。同情も愛と同じく感情であり、意志に左右されるものではないからだ。同情はモラルを支えるけれども、モラルを生じさせはしない。著者は理性に根拠を求めようとしているようだ。だが、理性がなぜそのような意志を生じるのかということについては、追求を保留する。著者の興味の中心は、モラルがどのように機能しているかであり、なぜそのように機能しているのか(するようになったか)は不明のままであってもかまわないとしている。この辺りがモンテーニュを思わせるのかもしれない。著者の見るところでは、モラルは人生を有意義に(そして楽しく)させるものであり、それゆえ、人生を有意義に(そして楽しく)させるモラルとはどのようなものかを問う。
つまり、物質的・肉体的コストを精神的な利益で相殺しようというのだ。読み進むうち、著者はモンテーニュよりやり過ぎて、その主張はよく生きるための技法になってしまっているように思えてきた。もう少し皮肉な目が必要ではないか。人生とはそんなにうまくいくものではない。存在(世界)は我々のためにあるのではない。モンテーニュにはそういう観点があったはずだ。
著者は「私自身は自由意志をまったく信じていない」(211ページ)とか「私は義務にそれほど重きを置いていない」(232ページ)と言っているから、おそらくモラルの根拠を性格とか性質とか人格といったものに求めているのだろう。その重要性は私も認めるのだが、気になる点がある。後半に顕著になってくるのだが、モラルが性格のよさのようないわば審美的な評価によって判断されていることだ。容姿が美醜によって序列されるように、精神が(機能や結果よりも)その振る舞い方によって優劣をつけられる。その結果、精神的に下劣な人間は救われなくなる。彼等の下劣さは性格によるものであり、性格は生得的なものであるから、彼等にはどうしようもないのだ。化粧や整形によって容姿をいじくれるように、性格も変形させたり装ったりできるだろうが、そうしようとすると「率直」「純粋」「誠意」といったモラルに反すると言われてしまうのである。まるで小うるさい鑑賞家のようにあるべき姿の微妙な差異にこだわり、ことばの修飾に酔っているような叙述はうとましい。上品な人間は上品であるから上品であり、下劣な人間は下劣である限り下劣のままであると言ってみたところで、何の変化も生まない。
著者は最後に愛をもってきて、モラルがなされるための条件である「自我という利己主義者」からの脱却を検討する。既述のように単純な愛ではそれはなし得ない。著者が示すのはアガペー(慈愛)という「普遍的でそれゆえなんのひいきもえりごのみもしない偏愛なき愛情であり、いかなる限界ももたず、利己的なあるいは感情的な弁明をまったくともなわない愛」(490ページ)というものである。このような愛がどのようにして可能か。著者は親子の愛を端緒ないし基礎として、「一種の愛の転移や推移ないしは普遍化によってである」(484ページ)と言う。
このような形成過程は疑わしいものであるが、そもそもそのような普遍的な愛によって何をなしうるであろうか。対象を全てひとしなみに見て区別(価値づけ)しないなら、そのような愛は行為の動機を与えてくれるだろうか。また、行為の引き起こす波乱(私たちが限られた存在である以上、必然的である)を避けようして、ただ眺めること以外に何ができようか。
愛は(通常は)人に関わるものである。愛が対象(人)と結びついている以上、対象から引きはがされた愛はもはや愛ではない。あたかも愛しているかのように人に振る舞うためには、愛でないものが必要だ。一つの仮説として、そのような行動の動機を食欲や性欲と同じようなものとみなせばいい(その進化論的根拠を示す必要はある)。そうすれば、愛は必要なく、同情さえもいらず、自我さえ関与させずにすむ。
そういう生得的な道徳的性向の存在を認めれば、自我はそれを配慮せざるを得ないと考えることができよう。というより、それを基盤として自我は利己的に思考すると言ったほうが適当である。モラルが自我にしか必要ないというのはそういうことだ。道徳的性向とでもよぶべきものがあるとすれば、人によって異なるであろうが、一般的にその強度と範囲は限界的であるはずだ。さもないとそれを持つ主体はうまく生存できないだろう。したがって、道徳的性向が空白として残した部分は自我が引き受けざるを得ず、そこにモラルが発生する。
モラルは人の(したがって社会の)役に立つから尊重されるべきであり、また、実行者自身の利益にもなるから(苦痛や困難ではなく)好ましく喜ばしい、というがさつな主張は、それゆえ有効なのだ。下劣な人間でさえ、モラルが有用であるならそれを利用できるだろう。モラルがどのように尊重されるかは大して問題ではなく、事実として尊重されるならばそれでいいのではないだろうか。たとえ「礼儀正しさ」という、モラル以前のレベルであっても。ただ乗りについては、見つけ次第制裁するしかない。そういう不十分な防御手段しかないとしても、社会がまがいなりにも成立していることは、幸いにもただ乗りしない人々が大多数であることを証明している。