井本喬作品集

二つの倫理

 ピーター・シンガー『私たちはどう生きるべきか』(1993年、山内友三郎監訳、ちくま学芸文庫、2012年)を読んだ。端折って言ってしまえば、倫理的な生き方は生きがいを与えてくれるから、倫理的に生きるべきだ、というのがシンガーの主張であるようだ。考えようによってはこれも利己的な見解である。自分以外の存在(人や動物)のための行動をするのは、自分のため(生きがいを得られる)になるというのだから。逆に言えば、生きがいを得られる見込みがなければ、倫理的にはなれないのだろうか。

 シンガーはカントの倫理観を否定する。行動の結果には無関心であるべきで、行動そのものの喜びも避けるべきで、ただ義務に従うべきだというカントの倫理は、何のための義務なのかという問いに答えられない。そのような倫理は自発的に倫理的行動ができない人にとっては必要かもしれないが、そういう人に義務を強制できるのは、義務が有益であると教え込むか、外部からの力によるしかない。

 ところで、シンガーがカントに反対する理由の一つにあげているのが、義務感によってのみなされる行動は狂信的になりがちで、かえって非倫理的であることが多いということである。しかし、狂信的になりがちなのはむしろ生きがいとなった倫理的行動の方ではないだろうか。喜んで義務を引き受けるということもあるが、それはもはや義務ではないといえる。いずれにせよ、単に義務というだけでは行動を引き起こすことはできないというのが、カントに賛同するにせよ反対するにせよ、共通認識であるだろう。

 シンガーも腐心しているところなのだが、行動には利己的要素が含まれていて、倫理的行動だけがそれを免れるわけにはいかないのである。他人のために行動しろ、というシンガーの倫理は、常に実行するにはかなりきつい。そのことに生きがいや価値を感じなければ困難であるのは確かだ。それを多くの人に求めうるだろうか。むろん、たまにそういう気持ちになることはめずらしいことではない。例えば、災害の被災者に寄付するときのように。しかし、それが常態であると、その気持ちを持続するのは難しい。シンガーの倫理が多くの人に実行されれば、世の中はもっと住みやすくなるかもしれない。しかし、その行動を維持するコストは安くはない。シンガーはこの状況について、「自己の幸福と正しい行為を調和させることが不可能だとすれば、道徳の基礎そのものがおびやかされてしまう」と考えたシジウィックに言及している。

 そこで、まず考えねばならないのは、社会生活をする上で、シンガーのいう倫理は必要不可欠なのだろうか、という点である。それを確かめるには、現実の状況を倫理的に見てどう判断するかが一つの方法である。現状がまずまず倫理的に妥当であると言えて、かつ、現状が比較的平穏に維持されているのであれば、その倫理は必要不可欠であるか、もしくは、あっても邪魔ではないと言えるだろう。一方、現状は倫理的に妥当とは言えないが、しかし、現状が比較的平穏に維持されている(将来については意見の相違があるかもしれないが)のであれば、その倫理はその社会において必要不可欠とは言えまい。それが普及しなくても社会は成立しているのだから。

 つまり、私たちが考えている倫理には二つの要素が含まれていて、整合的に統一されてはいないのである。一つは社会を成り立たせているルールとしての倫理であり、もう一つは何らかの自己犠牲を伴うことを承知で他者のために行動する利他的な倫理である。多くの人が常に他人を助けるわけではない現状を批判的に見るか肯定的に見るかによって、その人がどちらの倫理に重きを置いているかが分かる。批判的に見る人は、他人を助けるのが倫理だと考えるだろう。一方、肯定的に見る人が他人のことなど眼中にないというわけではない。彼等は少なくとも以下の点で利己的であることを抑えようとしている。即ち、他人に迷惑をかけないこと、である。

 むろん、これもあいまいな基準である。例えば嫉妬を感じさせられることが迷惑であるなら、他人に迷惑をかけないということは非常に難しくなってしまう。しかし、あいまいさは他人を助けることにも存在していて、例えば助ける側の考えと助けられる側の考えが一致している保証はない。だから、厳密さを求めるという不毛な議論はやめて、あいまいな基準のまま話を進めよう。

 この二つの立場は次の言葉によって象徴されているように思われる。

 A:汝の欲するところを人にもなせ。

 B:己の欲せざることを人に施すなかれ。

 おそらく、Bの倫理だけで社会は成立可能である。私たちが言う利他性とは、Aの倫理に相当するであろう。Aの倫理が一般的になることは稀であり、にもかかわらず多くの社会が成立していることは、それが社会にとって「常に必要不可欠」ではないことを示している。

 倫理Bは利他的ではない。相互的であるのだ。奉仕と受益があるならば、一方的ではなく双方的である。アダム・スミスが市民社会に見たのもそういう倫理である。彼は一般人には利他性は求めず、それを特別な人だけのものとした。

 倫理Bは利己性を否定しない。利己心を抑えるとしても、それはより大きな観点からの利益(あるいは損害の回避)を期待するからであり、利他性を必要とはしない。この見方は進化論と親和的である。

 ただし、倫理Aが優勢になることはしばしばある。それは他人が一時的に困っているときである。一時的に困っている人に対しては、自己の負担をいとわずに助けようとする。しかし、それは永続しない。私たちの利他性が喚起されるのは困窮が一時的(非常事態)であるとき(だけ)なのである。このことを見逃すと、利他性の一時性を否定しようとしたり(利他性の強制)、逆に利他性一般を否定したり(汎利己性観)してしまう。

 では利他性は進化のどこから発生するのだろうか。集団選択というのが理論的に否定されてしまえば、近親に対する援助を手がかりとするしかない。近親に対する援助は原則的に無償の行為とみなされているし、その進化論的根拠も示されている。しかし、援助の対象を近親から他人にまで広げる確かな要因は見出し難い。

 シンガーもまたこの難問に挑んでいる。彼の回答は理性の独自な(遺伝子とは独立の)発展というものである。そのことにより視点が客観化され、関心が身近な人間だけに限られることから免れることができるようになるというのである。しかし、理性(論理性)の必然的発展は自然に起こるものではない。担い手としての人間がそれをなすのである。人間は直接的な利益を期待できないのに、なぜそんなことをするのであろうか。

 これは利他性に問われたことであり、理性に解を求めても同じ問いにぶつかるのだ。手段としての理性は個体の欲求や願望実現のために用いられる。それ以外に理性を使用するのは冗長であり無駄である。

 この袋小路を脱け出る道はあるのか。利他性にしろ理性にしろ、個体にとってはその行使自体が喜びであるならば、その結果がどうであれ好まれるはずだ。実は、これは遺伝子のやり方である。性行為が好まれるのは、生殖という結果を目的とするからではなく、単に行為そのものが喜びであるからだ。そうでなければ(性行為が生殖を目的とするが何の楽しみもないものであれば)、個体に生殖を確実に成し遂げさせるのは難しくなる。遺伝子の目的は性行為では生殖であり、利他性や理性の行使では個体の生存を確かにするためであろう。しかし、個体は行為の喜びを得ることだけを目指す。それが確実であるから、遺伝子は個体をそのように仕向けた。その結果、ある個体はやりすぎてしまう。遺伝子の目的を逸脱して、ひたすら性行為に没頭し、自分を犠牲にしてまで他人を助け、当面は何の役にも立たないのに論理的一貫性を追求する。だから、進化的に妥当でないことも進化の結果として起こり得ると考えられよう。

 ただし、利他性について理性を介在させるのは的外れである。そもそも理性は利己性とも結びつくので、利他性をのみ促進させるとは言い難い。理性はそれ自体が目的化して独立し、何かのためにあるのではなく(中立性)、何にでも適用可能となる(汎用性)。同じように、利他性はそれ自身で存続し得ていて、コストや成果から原理的に独立しているのである。

 ところで、まだ問題は残っている。利他性が進化の結果なのであれば、どのようにしてそれを行使する個体の生存の確率を高めているのであろうか。互恵性には答えはない。利他性は一方的であっても成り立つからだ。そのことに関する私の考えは別のところで述べているのでここでは省略する。

 さて、利他性(倫理A)とは区別された倫理(倫理B)は、公正という概念に凝縮されている。公正ということは、他人を犠牲にして利益を求めないということであり、極端な形ではパレート最適状態になる。それが無情な社会と見えてしまうのは、私たちに他人を助ける喜びを与えてくれないからである。

 倫理Bがルールであるならば社会的な実践であり、倫理Aが感情的に基づく行動であるならば個人的実践であるので、両者は次元が異なっており、矛盾することなく両立可能と思われる。実際、倫理Bの推奨者は言うであろう、倫理Bは倫理Aを推奨はしないが、禁止もしない、と。二つの倫理によって生活全般がカバーされるのであれば、問題は人々が倫理的であるかないかというだけになる。

 しかし、事態はもっと複雑なのだ。他者を助ける社会的制度というものが存在する。税や社会保険料による所得再分配の制度である(税や保険が本来的に所得再分配の機能をもっているわけではなく、その設計によってそういう性格を持つようになる)。この制度はどちらの倫理を根拠にしているのだろうか。

 他者を助けるという積極性の面からみれば、倫理Aがその根底にあるように思える。しかし、この制度は強制力を持っている。人々の意向に関係なく負担を強いるのだ。倫理Aは個人的自発性から由来するのであるから強制とはなじまない。倫理Aをルール化しようとすると強制力が必要となり、自発性を損ねてしまう。倫理Aを義務化したり違反することを禁じたりすることは倫理A自体に反するのである。倫理Aは、実践者だけではなく、その実践の受け手にとっても好ましいことである。また、その実践を見る人にとっても好ましいことかもしれない。自立性を損ねるからと反対するような人を除いて、実践者を含めてほとんど全ての人にとって好ましいのだから、倫理Aは推奨される。場合によっては、倫理Aを実践しない人が非難されることもある。だからといって、強制されれば倫理Aではなくなるのだ。

 倫理Bに違反者を排除する強制力が含まれるのは、システムの参加者の互恵性に基づく合意があるからだ。他者に害を与える人をシステムから除外しなければシステムは危うくなる。システムの参加者がその存続を願うならば、ルールに違反した場合の罰則が自らを含めたシステム参加者全員に適用されることを容認するだろう。それゆえ、強制という点だけからは制度的所得再分配は容認し得るかも知れない。では、内容についてはどのような理由づけが可能であろうか。

 社会ないし集団は、その参加者にとって、孤立するよりは有利でなければならない。さもなければ、任意の参加者は離れていくであろうし、不随意の参加者(自動的にメンバーとなった人)は反抗するであろう。一部のメンバーが不満を表明した場合、システムを維持するために(不満を持つ人も構成要素としてシステムに必要ならば)、他のメンバーが利益の一部を再分配することに同意することはあり得る。実践的な配慮として、いわば必要経費として、他者への援助がなされるのだ。だとすれば、倫理Bを拡大させれば制度的所得再分配も包含できるように思われる。

 しかし、倫理Bは制度的所得再分配とはなじまないのである。倫理Bはあくまで抑制を求めるものであり、積極的な負担を勧めるものではない。コストに見合う利益が期待されるという点では両者は同じかもしれないが、倫理Bはそこに区別をつけるのである。なぜだろうか。

 これまで倫理Bを理性的なもののようにみなしてきた。理性的に判断するなら、実現の確率だけが問題であり、コストの形状の違いには意味がない。もし、倫理Bが理性的な検討に逆らうのであれば、倫理Bもまたその根拠が感情にあるのかもしれない。私たちは自制に喜びを感じることがある。とはいえ、何かをしないことが強化されるのは、主として危険を避ける場合であろう。倫理Bに危険を避けるような感情が含まれているとしたら、一体何が危険なのだろうか。

 他人に迷惑をかけないようにするためには、他人も自分に迷惑をかけないという相互性が保証されている必要がある。他人の迷惑行為を黙って見過ごしてしまえば、倫理Bに従うことは搾取されるだけである。そこで、私たちは他人の迷惑行為には怒りを感じるようになっている。当然、他人も私の迷惑行為には怒りをあらわにするだろう。他人の怒りを引き起こすことを私たちは恐れる。私たちに向けられた他人の怒りは危険なのだ。倫理Bには怒りと恐れの感情が基礎にあると考えられる。倫理Bが罰則を含むのはそのせいなのだ。むろんこれは推測にすぎないのだが、とりあえずそのように考えてみよう。

 制度的所得再分配は強制力を伴うから倫理Aではない。一方、それは消極性を越えようとするから倫理Bでもない。ここから導き出されるのは、制度的所得再分配は政治のルールであるけれども、倫理のルールではないということである。倫理を感情として捕え、その意味での倫理としては倫理Aと倫理Bしか見出せないとしたら、制度的所得再分配が倫理的に受け入れ難いのは理解できる。理性的な妥当性には倫理感情を納得させる必然性はないからである。

 経済を含めた通常の社会的相互作用の基礎には倫理Bがあり、寄付などを含めた自発的援助の基礎には倫理Aがある。しかし、人間の社会にはこの二つの倫理によっては埋めきれない空白が生じる。その領域に倫理が成立していないのは、たぶん、遺伝子にとって時間が足りなかったからであろう。

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