利己性と利他性は区別できるか
利他的な行動が行動主体にも利益をもたらすという解釈には、互恵的利他主義的なものを除けば、以下の三つがあると思われる。第一は、共感の作用などにより他者の福祉の改善を見ることが主体の喜びになるというもの、第二は、他者への援助が集団全体の機能を高めることによって主体にとって(間接的な)利益となるというもの、そして第三に、利他行動そのものが喜びであるというものである。
これらの解釈において、利他的な行動と利己的な行動との違いはどこに求められるであろうか。以前ならば、動機という点から利己性や利他性を検討することは容易のように思えていた。動機における利己性を減らし、可能ならばなくしてしまうというのが、従来の倫理学の主題であった。しかし、今日、人間が本来利己的であることを認めようとする考えが強力になっている(利他性も利己性から解釈しうると主張される)。反対する論者はそのような考えの一面性を指摘して、人間の非合理性を指摘したりするけれども、一見非合理的に見える行動もある状況においては主体に有利である(利己的である)と反駁されてしまう。利他的な行動はその行動主体にとって有利な結果をもたらしているはずであり、そうでなければそのような行動が維持され継承されることはないからというのである。そうであるなら、利他性と利己性には区別がつけられないのであろうか。
ここでは、利他行動の解釈において最も妥当と思われる三番目の解釈を取り上げてみよう。この解釈では、主体の行動が実際に他者の利益になるかどうかには関係なく、主体自身の満足が焦点になる。すなわち利他的と思われる行動自体が行動主体に即時的・直接的に報酬を与えるゆえに実行される。そもそも、私たちが何らかの行動をするのは、その行動をしたいからするのである。カントの定言的命令に対するシラーの反論のように、私が友人を助けるのはそうしたいからであって、義務感からしぶしぶするのではない。(義務感からやむを得ず他人を援助する場合もあるのは事実だ。それに対しては、その人は人々の評価を目当てにしているのであって、他人を助けること自体からは何の利益を得なくても、周囲の人から賞賛されること、あるいは周囲の人から非難されることを避けることから間接的な利益を得るはずだ、という答が用意されている。)あまり適当な言葉ではないかもしれないが、他人を助ける行動から私たちが得る心の状態を「喜び」と表現するとすれば、そのような喜びを得る目的で他人を助けようとするのである。むろん、なぜ利他行動が喜びになるのかは説明される必要があるだろう。何らかの理由で、利他行動がその行動主体に有利な結果をもたらすのであれば、私たちが利他行動を選択するような心の仕組みになっていると考えられる。逆に、私たちが利他行動を選択するようになっていることは、その行動が私たちの生存と繁殖に有利である証拠とされる。
しかし、喜んでする行動に道徳的な価値を見い出すのは難しい。たとえその行動が他人から見れば忌避したいものであっても、当人にとっては喜びであるならば、いわば趣味の問題にすぎなくなるであろう。
動機によっては利己性と利他性を区別できないとすれば、行動の帰結によって違いを判断できるのではないかと思われる。利己的な行動というのは、主体の動機がどのようなものであれ、結果として他人に不利益をこうむらすものとされよう。結果が少しでも他者を利するものであれば、主体にとってその行動がどのような意味を持つものであれ、利他的といえよう。しかし、この場合、自分の行動が利己的であるか利他的であるかはその帰結を見ないと分からないことになる。行動の基になる判断には将来の予測が含まれるはずだから、そのような全く受動的な行動の意味づけは非実践的であろう。
行動の主体者の証言は当てにはならないけれども、行動の帰結の予測からその行動を判断するという方法も考えられる。行動の決定が帰結への考慮を含むならば、自己を含めた各人への利益の配分が異なる諸行動のうちどれを選ぶかによって、利他的か利己的かの判断ができるのではないか。結果として他者を利することが多いと予測される行動が選ばれるのであれば、その決定をより利他的とみなせばよい。
しかし、意図と結果に齟齬があれば、そう単純ではなくなってくる。他人のためを思って行う行動がかえって他人のためにならないことがある。他者の願望を把握し損ねたり、行動者の判断力や能力の不足によって意図が達成されなかったりする。よき意図のもとになされた悪い結果をどう評価するか(またはその逆については)。さらに、もし結果のみにこだわるのであれば、利他的であると思われても結果が不確実であるような行動は避けられてしまうであろう。
結果の不確実性は、利他性を動機によって判断するという元の立場へ私たちを戻してしまう。では、動機によって利己性と利他性を区別できないのであろうか。つまり、自己を犠牲にして他人を助けることの喜びと、他人を考慮に入れずに自己の状態のみに注目して得られる喜びとの間には、差はつけられないのであろうか。明らかに私たちはその違いを認識している。性交による喜びと飲食による喜びを混同しはしないように。むしろ私たちが認識しにくいのは、結果として他人にどのような影響を与えたかという方のことである。私たちの評価は、感謝の表情や言葉、失望や反発の態度など、直接的で短期的な反応を頼りにしている。私たちが援助をした人が、それによってはたして実質的に状態を改善することになったかというような客観的・長期的な観察は苦手なのだ。
利他的な動機は結果の見通しが主観的であることにおいて利己的と判断されてしまうことはありうる。つまり、利他的であるには、よき意図によき結果が伴う必要があるのである。よき意図に結果が伴わないのであれば、利己的な行動とみなされる(あるいは愚かな行動と)。「同情するならカネをくれ」というドラマの台詞があったが、同情が同情される者の心情よりも同情する者の心情に大きな影響を与える場合は、同情だけでは利己的に思われてしまう。
かといって、結果のみが注視されるわけではない。私たちは動機にこだわる。あるいは、結果の大きさよりも、その結果をもたらすために払われた犠牲(コスト)の主観的な大きさにこだわる。「貧者の一灯」に示されているように、余裕のある者が大した苦労もなくする援助は、それがいかに大きくとも、余裕のない者が必死でする援助に、道徳的に劣るとされるのである。
確かに、利他行動から得られる喜びは、コストがかからないわけではない。言葉で慰めることくらい誰でもできる。しかし、そんな安価な行動はあまり評価されない。その人にとっての大きな犠牲を払ってこそ、その人の利他行動は称賛される。しかも、義務感からではなく、その行動自体に喜びを見い出していることが必要なのだ。それほど大きなコストをカバーできるほど、その喜びの能力も大きいことが、評価の基準である。
しかし、それが能力に属するものであるならば、私たちの道徳的判断は迷うことになる。肉体的に優れている者が力を出すことが道徳的な評価の対象にならないように、利他心という能力が優れていることによってなされる利他行動に、道徳的価値は認められないのではないだろうか。マゾヒストが自分自身を責める能力が高いのと同じではないのだろうか。つまり、やはり趣味の問題にすぎなくなってしまう。「善人なおもて往生を遂ぐ」であり、そのような能力のない者(すなわち悪人)がしてこそ、利他行為は評価されるべきではないか。嫌々ながら無理にする者こそ、困難に打ち勝とうとしているのであるから。カントの基準からすればそうであろう。
私たちが他人のためにコストを負担するには、そのコストを相殺する以上の報酬(動機)が必要である。コストが大きければ大きいほど(むろんそのコストが効果的に使われていなければならないが)、他人は評価するから、そのコストを担える程の報酬(利他行動の喜び)もまた称賛されるであろう。しかし、コストと報酬がアンバランスであって、報酬の超過が多すぎれば、人々はその人の動機を疑うようになる。その人が十分に利他的ではない(けちくさい)か、報酬そのものが目的であるとみなしてしまう。
利他行動の主体は報酬とコストの差(利益)を最大にしようとするだろうが、他者はそれを喜ばない。コストが大きく(当然それを相殺する報酬も大きくなければならないが)しかも利益が少ないことが評価されるのだ。他人の評価が報酬となって補償されるとしても、主体にとっては難しい決定である。だが、難しいからこそ、利他行動は称賛されるのだ。評価が行動主体の動機にこだわるのは、行動そのものから報酬を得ているのであれば、それ以外の不純な動機を必要としていないとみなされて、信頼を置くことができるからと思われる。
利己性と利他性の区別は、主観的でもあり、他人の評価にも依存する。また、意図と結果の関係にも左右される。その区別は実践的になされるのであろう。