井本喬作品集

社会的と経済的 

 交換という概念によって、経済と社会の分野を統一・包括的に理解することができるであろうか。あるいは、交換の様式の違いによって、経済現象と社会現象の違いが説明できるであろうか。

 社会的交換を経済的交換から区別するために、互酬的・互恵的という言葉が使われることもある。しかし、この言葉を社会的交換とだけ結びつけることには疑問がある。社会的交換が互酬的・互恵的とされるのは、それが等価交換であると見なされるからであり、当然なことながら、経済的交換は不等価交換である含みがある。商業活動において見られるように、経済的交換においては利益(ここでは収益マイナス費用という意味で使う)が発生する。等価交換であるなら、つまり当事者が同等のものを交換しているなら、それはどこから生み出されるのか。そういうものが存在するということは、一方が他方より多くを受け取っているからに違いない。商人のように、同じものを右から左へ手渡すだけで利益を発生させていることが、利益は搾取の結果であるという見方を正当化しやすい。

 しかし、初歩であっても経済学を学んだ人なら、このような見方の一面性を承知しているだろう。確かに経済的交換は不等価交換である。しかし、それは一方が得をし他方が損をするから不等価なのではなく、当事者の双方ともが与えるより多くを受け取るからそうなのである。(比較の単位として使われるのが主観的価値である。)そうでなければ、そもそも自発的な交換など起こらないであろう。そのような意味において使われるのであれば、経済的交換も社会的交換も互酬的・互恵的である。

 もう一つ、社会的交換を特徴づけるものとして、時間的なずれが指摘される。交換の片方の流れがあるときに起こり、残ったもう一方の流れはいつか必要なときになってから起こる。交換の当事者は長期の貸借関係を結ばねばならないので、行きずりの他人を相手にはできない。人間関係に支えられた交換が社会的交換であるというわけだ。しかし、交換が即時的ではないというのは経済的交換の特性でもある。貨幣を含めた様々な信用制度は、財やサービスの交換を時間的にずらせるための仕組みに他ならない。対面集団における信用が、制度化された信用に変化しただけで、内実は同じなのである。

 また、上記と関連するのだが、社会的交換は特定の人との結びつきによって特徴づけられるとして、経済的交換の無名性と対比させられることもある。しかし、これとても社会的交換だけの特性とは言えない。私たちは商品のブランドを気にするが、それは特定の生産者への信頼を示している。「カリスマ」とか称されるサービスの提供者についても同じだ。

 そのことに対しては、社会的交換は人との結びつきが目的であり、財やサービスの獲得が目的の経済的交換とは異なると反駁されるだろう。なるほど、私たちはブランド名の企業と親しくなるために商品を買うわけではない(顧客というのはそういう気持ちを持つけれども)。一方、親類・縁者・知人からのお返しの品物を目当てに中元・歳暮・クリスマスプレゼントを贈るのではない(お返しの行為は期待するが)。このような損得抜き(正確には損得なし)に見える交換、これこそが等価交換であり、社会的交換の本質であるかもしれない。

 しかし、私たちはなぜ交換によって結びつきを維持せねばならぬのか(交換という行動だけでもコストがかかる)。交換というのは、特定の個人的な紐帯を作り出す作用といえよう。交換は個人主義的であり、集団の中においては分派的行動である。社会的交換といわれるものがこのような種類のものであるとき、そこで取引されているのは特定の人間関係(コネ)であるといえよう。属人性が社会的交換の特徴と言われるときに想定されているのは、そのような駆け引きなのだ。つまり、人間関係が商品化されているのに他ならない。社会的交換が経済的交換に似て、利益を目当てにしているということが驚きや反発を引き起こすことがあるが、交換という現象においては経済と社会は地続きなのであるから当然なことなのである。

 交換は、いずにせよ個人の利益を目指すという点で、経済的と社会的の違いを明確に示しえないのではないか。では、両者の違いを明確にする現象が他にあるだろうか。それは、私の見解では、原初的には、交換と分配の違いである。対応が交差するところもあるので正確ではないが、分業と協業の違いと言ってもいいだろう。交換するには人は何かを自分のものとして所有していなければならない。交換する人は個人主義的なのである。一方、集合して生産的な何かする人は、協業の結果を分配することになる。かつては協業における個人の貢献というものを明確にするのは難しく(運不運という要素の方がはるかに大きいので)、分配は平等に行われたであろう。個人は自分の貢献とその報酬を集団を媒介としてやり取りする。集団の維持と個人の生存は分かちがたく結びつくことになる。

 市場の発展は協業を交換の中に取り込んでいく。個人は労働サービスと賃金の交換という形で集団から市場に移行する。集団的行為は安全とか公共財とか相互扶助などの分野に限られるようになる。そこにおいては、貢献と報酬が対応関係を持たないという特質が維持されている。分配は市場に移行したので、集団においては再分配がなされることになる。

 集団において平等が強調されるが、貢献と報酬の差が認識可能なほどの程度になると問題が生じてくる。負担を平等にすることができなければ、利益に差がつくことになる。つまり、平等な分配が実質的には応能負担になっているなら、貢献度の高い人から貢献度の低い人に再分配がなされていることになる。再分配の程度をどうするかが大きな論点となる。

 社会は集団としてではないと得られぬ利益のために、個人が協業する場といえる。利益が個人化されることが可能になれば(貢献と報酬に関連がつけられ、交換が可能になれば)、その分野は経済(市場)に移行するであろう。たとえば相互扶助は、リスクに応じた保険料が可能であれば、私的保険として市場化されるであろう。

 社会的交換は集団(協業)を破壊する可能性を持った小さな市場であり、経済への第一歩なのだ。

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