井本喬作品集

交換と協働

 遺伝子は自分のコピーを残そうとして人間に利己的な行動をとらせるようにする。他人を助けるような人間は自分の適応度を下げてしまって、生き残って子孫を残すのが難しくなるから、利他的な行動は世代を超えて継承できない。しかし、現実には利他行動というものが存在する。進化論はそのことを血縁選択と互恵的利他主義によって説明する。

 互恵的利他主義に似たような概念は、他の分野でも使われている。社会学ではホマンズなどが交換という概念を使って同じようなことを言っていたし、文化人類学では互酬といっているのがほぼそれに当たるであろう。経済学では交換はまさに経済行動の中心部分である。

 社会学や文化人類学では、それほど必要でないものや全く同じ物を取り替えることに何の意味があるのかという疑問から、交換という行為が注目された。われわれの社会では、中元や歳暮を考えればいいであろう。西欧ではクリスマスの贈り物になるだろうか。そういう交換は、交換されるものに意味があるのではなく、交換という行為によって当事者の結びつきを強くし維持するのが目的だと解釈される。だから、交換を断るのは友好を拒否することになる。俺の好意を無にしやがって、というわけだ。われわれが酒を酌み交わすのも同じことである。同じ酒をやりとりするのは馬鹿馬鹿しいように思えるけれど、そうすることで仲よくなるわけである。断ったりすると、「オレの酒が飲めねえのか」ということになる。つまり、オレと仲よくする気がないんだな、と取られてしまう。しかし交換のこういう機能は二次発生的なものではないだろうか。本来交換は当事者に利益を与えるものだ。そういう特徴が人間関係に取り入れられて、交換本来の目的が薄れてしまったのだろう。

 肝心なのは、交換というのは当事者双方が利益を受ける行動ということである。交換というのは、受け取ることで自分の利益になっていると同時に、与えることで相手の利益にもなっている。つまり利己行動が同時に利他行動になっているわけである。経済行動は交換を中心にしているから、アダム・スミスの言ったように、それにたずさわる人全ての利益になっている。利己行動が同時に利他行動でもあるということはわれわれの直観に反するので理解が難しい。交換というのは等価なもののやりとりのはずだから、そこから余分な価値が生まれるのはおかしいと感じる。生産者や商人が売買から利益を生み出すのは、本来消費者の受け取るべき分からいくらかをかすめ取っている(あるいは、消費者に余計に支払わせている)ように思えてしまう。利益を追求する経済行動に対する不信感もそこに由来する。経済行動は利己行動であると同時に利他行動であり、それが社会を成り立たせているということを受け入れるのは、案外難しいことである。

 互恵的利他主義は、与える行動と受け取る行動が時間的にずれているので、与える行動を利他的とみなすわけである。しかし、その利他性は、後で受け取ることを期待しているから、本当は利己的だという解釈になる。人を助けるのは、自分が困ったときに助けてもらうことを期待しているから、というわけだ。利他行動は一種の債権であり、必要なときは債務を履行してもらえる。だから経済行動と同じと言っていい。経済行動は合理的であり、自らの利益だけを追求的するものであるから、相手方の利益のことは彼らにまかせて、考慮の対象外とする。それに対して、互恵的利他主義は相手方の利益についても配慮するように思える。しかし、互恵的利他主義にしても、結局は自己の利益になるからそういう行動をするのである。相手側の利益(自己にとっての損失)は自己の利益を得るための費用でしかない。そういう意味では互恵的利他主義も合理的である。経済行動と本質的な差は見出せない。

 経済行動を互恵的利他主義と区別できそうな特徴はその無名性である。経済的交換は支払い能力さえあれば相手は誰でもいい。一方、互恵的利他主義では相手を選ぶ。なぜかというと、互恵的利他主義では交換の時期がずれるから、返礼してくれるかどうかの不安があって、信頼が重要になるからだ。実はこの点は経済行動も同じである。直接的な物々交換ならそういう問題は生じないが、経済行動のほとんどは間接的なものである。人々は働いてカネを稼ぎ、そのカネを使って必要な物を手に入れる。支払いをモノや労働でするわけではない。だが、人々はカネというものを信頼しているから、交換の時期がずれても心配しない。つまり、貨幣などの信用制度が発達しているおかげで、人々は直接的な交換をしないですんでいるわけである。逆に言えば、信用制度が間接的交換を直接的なものと同じように信頼出来るものにしてくれている。だから、交換の相手は誰でもいいことになる。人々がカネを受け取るときは誰かの役に立った証拠としての債権を手にしているのだし、カネを支払うときは助けてもらった証拠としての債務を渡しているのだが、そのことを意識しないですんでいる。ただし、現在は信用が拡大してマネーゲームとなってしまっているので、交換の互恵性はほとんど見失われているが。

 互恵的利他行動が成立するのは囚人のジレンマと同じ構造の状況下においてであり、利己的な人間の間でどうして可能なのかという問題がある。囚人のジレンマでは、主体の選択と相手方の選択の組み合わせにより、結果が異なってくる。しかも相手の選択は分からないままに、同時に選択しなければならない。互恵的利他行動では、先に提供する者は、後からの相手のお返しについては不確実である。つまり、受けとるものを確かめずに与えなければならない。この場合、相手の方にしてみればもらったまま与えないという選択が強力になるだろうから、どちらかが先に交換を始めるというようなことは想定しにくい。そのような時間的な制約問題を避けて当事者を対称的に取り扱うために、川をはさんだ二人が、かけ声をかけて同時に交換物をお互いに投げ与えるという状況を考えよう。交換によって二人とも利益を得る。しかし、自分の物を投げずに相手の物を受け取れば、もっと利益を得る。しかし二人ともそうしたならば、交換は実現せず、二人とも利益を得られない。この場合、ナッシュ均衡は交換が実現しないところに成立する。つまり、相手が信頼できないために、交換は行われないのである。

 では、互恵的利他行動を行うために必要な信頼は、利己的な主体のどこから出て来るのだろうか。一つの解決策は長期的視点に立つこととされる。交換が継続的に行われるなら、信頼は可能だという議論である。一回限りの交換で相手を出し抜いても、それによって次の交換はもう期待できない。一回の搾取で得られる利益よりも、長期的な(複数回の)交換の実現で得られる利益の方が大きければ、当事者双方は正直に交換を行うだろう。助け合いがずっと続くなら、一回だけのやりとりでこすいことをしてそれに続くやりとりでの利益を失うよりも、誠実にやりとりをしてトータルの大きな利益を得る方が得だから、利己主義者にも可能だというわけだ。

 ただしこの解決策にも、最後通牒ゲームという難点がある。いくら長期的であっても永遠には続かない。いつかは終わりが来る。とすれば、最後の交換で相手を出し抜いても失う物は何もなく、その一回の利益は大きくなる。当事者双方はそう考え、相手もそう考えるだろうと考える。そう考えている相手を出し抜くためには、最後の交換の一回前の交換で出し抜く必要がある。ところが相手もそう考えているだろうから、さらにもう一回前で出し抜く必要がある、ところが相手もそう考えているだろうから‥‥かくしてどんどん前方に遡及して、結局交換は実現しない。

 たとえ何らかの方法で信頼が獲得できて、互恵的利他行動が行われるとしても、それで利他性を説明したことにはならないだろう。なぜなら、利他性の本質はお返しを求めないことにあるからだ。互恵的利他主義が経済行動と変わらないのであれば、互恵的利他主義からは純粋の利他行動は導き出せないと考えるべきである。ところが、何の見返りも期待しない純粋の利他行動というものがあるように思われる。たとえば、寄付とかボランティアとか。これを互恵的利他主義はどう説明しているのだろうか。そういうことをすれば他人の賞賛を得るし、よい評判を取ることになるから、というのが答えである。ほめてもらえればうれしいし、いい人間だという評判はその人にいろいろと有利な作用をする。確かにそういう目的で善行をする人がいるのは事実だ。だが、そういうことには全く捕らわれずに他人を助ける人がいるのも事実ではないだろうか。人に知られることなしに見知らぬ人を助け、何の見返りも期待しないというような行動の存在は否定できない。現実に、何の対価も求めずに見知らぬ人を援助することはそんなに珍しいことではない。互恵的利他行動からそういう行動が派生してきたと言えるのだろうか。両者の間には越えがたい溝があるのではないか。

 対価は見えない形で支払われているという反論に関して言えば、人間行動をシニカルに見る筈の進化論者がなぜこんな甘い考えに納得してしまうのであろうか。われわれが他人の利他的行動を見る場合、まず何か下心があるのではないかと疑うのではないか。むろん、そのような猜疑的な人間に思われることは避けた方が無難であるから、あからさまには態度に現すことはないとしても、賞賛に熱は入らないであろう。一方、利他的行動を行おうとする人も、下心があるように見られるのを避けるために、行動を手控えるかもしれない。

 個人的な経験では、子供の頃、電車の中で席を譲るというような小さな利他的行動がなかなか出来なかったが、その理由は自分の善良さを誇ることになってしまうという恐れであった。その行動が、賞賛目当てではないかとの他者の疑念を引き起こし、また、そのような行動を取らなかった他者への批判になってしまうという予想が、抑止力になってしまったのである(心理的には恥ずかしいという感情である)。

 賞賛は疑念や嫉妬によって相殺されてしまう可能性がある。だから、賞賛やそれに類するものが報酬となって利他行動の費用をまかなう、と安易に仮定することは出来ないであろう。多くの人が善行を隠そうとするのは、知られるよりも知られない方が好ましいからではないだろうか。むろん、善行を隠していることが知られるのが一番好ましいであろうが、それは隠そうとしたことが演技ではなかったかという疑念をまた引き起こすのである。

 また、互恵的利他行動で肝心なのは、お返しが確実であるかどうかであろう。だとすれば、やりとりの相手を識別して選ぶ方に進化の力が働くはずだ。信用というのは、誠実さだけでは足りない。能力も問題になる。お返しをする能力のない人間を相手にしても仕方ない。互恵的利他主義は、相手が誠実かどうか、そして、お返しの能力があるかどうかを見極めることが必須になる。しかし、本来の利他性は全く違う。相手が誰かを問題にしない。そして、選ぶとすれば困っている相手である。困っている相手というのはお返しの能力の低い人間であることが多い。互恵的利他主義にそんなことができるのであろうか。

 互恵的利他主義にはもう一つ問題がある。私たちは他人の利己行動には反感する。場合によっては利己行動をする者を責め、その行動を変えようし、変えられなければ攻撃することもある。互恵的利他主義からこういうことが出て来るだろうか。やりとりの相手が約束を破ったら、以後相手にしなければそれで済むことだ。相手を責めたところで何の得になるだろう。相手は確信犯なのでそんなことで変わるはずもないから、労力の無駄である。力ずくで約束を履行させようとしても、それだけの労力をかける価値があるのだろうか。あったとしても相手が反撃してくればコストが大きすぎる。互恵的利他主義では他人の不誠実を責めるような非効率的なことは生み出せないだろう。互恵的利他主義による世界はアナーキーな世界だ。いるのは商人だけで、そこには警察官はいない。騙されるのはそいつが間抜けだからだ。騙しそうなやつとは商売しなければいい。詐欺師がいたとしても、そいつを捕まえるために労力をかける奇特な人間はいない。騙されるのが心配ならば商売をしないことだ。

 では、利他性はどうやって成立したと考えるべきだろうか。交換から利己性をそぎ落とすことは出来ないとすれば、利他性の根拠は他に求めなければならないだろう。

 個人が集団に寄与し、集団がそれによって潤い、その効果が個人に還元するという経路で、利他行動が自己に有利になるということはずっと注目されてきた。その様な見方の進化論版である集団選択の理論は、利己的な存在である人間(ないしは遺伝子)が利他的な行動を発達させてきたことの説明としてなかなかうまくできていた。それによると、ある個人がその所属する集団のために犠牲を払っても、そのことでその集団が他の集団より優勢になることで、結局はその個人に利益がもたらされるというものである。この説明が受け入れられないのは、ただ乗りをする成員が出て来るであろうという反論によってである。何の犠牲も払わずに、他の成員の犠牲による集団の成果を享受できれば、その集団の中で勝ち残るのはそういう成員であり、そういう成員が多数となれば集団はその優勢を保てなくなる、というわけだ。

 では、集団選択論は全く無効なのだろうか。集団選択論への反対論は、利他行動を取る主体の状況は比較的に不利であり、その行動の恩恵を単に受ける他者は比較的に有利である、という前提に立っている。したがって、利他行動をとり続ける主体はずっと比較的に不利なままであり、その行動を他者が交代にとってくれるのでないかぎり、利他的な主体は勝ち残るのが比較的に難しいことになる。

 集団における利他行動が主体にとって有利となるためには、どのような条件が必要であろうか。まず、利他行動が媒介なしに直接主体に有利であることがあげられよう。これは交換の特性でもある。利他行動が主体に効果をもたらすまでに時間がかかるとき(行動とその効果にズレがあるとき)、他者につけこまれるスキが生じる。このズレがなければ、他者による搾取は防げるであろう。次に、ただ乗りする他者を排除できなければならない。ただし、ただ乗りの存在自体が利他行動の障害にはなるわけではない。ただ乗りが障害になるのは、彼らが他のものと同等かそれ以上の収益を得ることができる結果、少ない費用のために大きな利益を得られるからである。ただ乗りの利益が利他行動の利益よりも少なければ、おこぼれを拾うのを容認するだけのことになる。しかし、ただ乗りが利他行動の利益を越えるほどに搾取の度を高めてしまえば、利他行動は行われなくなってしまうであろう。

 交換以外に、利己行動が同時に利他行動でもあるような現象として協働があげられる。協働は個々の単独の労働の成果の加算よりも大きい成果をもたらす。協働に加わることによって、個人は自分の利益を増やすともに他人の利益をも増やす(ただし、後述するように分配の問題がある)。協働という企図に加わる主体は、単独行動するよりも、たとえほんのわずかであっても余剰を生み出すから、その余剰が分配される限り、協働に加わらないよりも参加する方が有利である。主体がいかに利己的であっても、協働に参加して、自ら利するとともに、他者にも利益を与えることをちゅうちょすることはないであろう。

 ここにおけるただ乗りはいかなる形態をとるだろうか。協働の規模が小さければ、個々の参加者の労力の量が成果に反映することが認識可能である。収穫逓減を前提すれば、各参加者は個々の追加の労力による成果の増加の分配分が追加の労力の費用に等しくなるまで労力を惜しまないであろう。逆に言えば、そこまで手を抜くであろうが、それ以上手を抜く理由はない。

 もし、個人の労力と全体の成果の関係が明確でなければ、ただ乗りはひたすらサボろうとするであろう。彼が全くサボったとしても、各人の配分が単独の作業の成果よりも大きければ、協業はやむことはないであろう。しかし、そういう状況では、みなが手を抜こうとして、結局だれも貢献しなくなるという、囚人のジレンマ状況となる。この事態を防ぐには、手を抜く個人を特定し、協働の場から排除する必要がある。対面集団的な協働ではこのことは可能である。協働はみなの眼前でなされるので、誰がサボっているかはある程度分かる。そういう個人は事前に参加させないこともできるし、事後に分配から排除することもできる。事後の分配からの排除は重要である。協働への参加が自動的に分配の権利を保障するなら、少なくとも一回は搾取の機会を与えてしまうことになるからだ。

 ただ乗りに対する制裁が有効であれば、彼に対する非難は見合う。交換においては搾取された主体は搾取した相手を非難したところで得るものは何もない。制裁は二度と交換の相手にはしないということだけであり、それで十分なのだ。協働の参加者たちは、搾取者を非難することで、たとえ彼の態度を変えさせることができなくとも、分配から排除することで各自の利益を増すことができる。非難による相手の態度変更(悔い改め)は、交換においても協働においても、非難の主体を有利にする。しかし、相手がそれを無視した場合、交換では打つ手はないが(復讐は別として)、協働では搾取の機会を奪うことができる。協働の成果は分配されないと個人のものにはならないからである。

 集団(他者)への貢献による(を通じての、あるいは、と同時の)主体の利益の増幅ということについては、協働は交換と同じように機能する。さらに、貢献をせずに利益を得ようとするただ乗りの排除という、交換にはできないことが協働には可能である。

 しかし、協働に参加するだけのことを利他行動とは言えない。交換だけでは利他行動と言えないのと同じである。交換を二つの贈与に分解することができれば、そこに利他行動らしきものが現れてくる。では、協働にもそのような契機が見出せるであろうか。

 参加者の間には生産性の違いがあるはずである。平等な分配を原則とする協働は労力も平等にしようとするだろう。しかし、分業があまり明確でなければ、生産性の高い成員が労力を比較的に多くすることで成果が増加するだろう。生産性の高い成員が彼自身の労力を増やすか、あるいは生産性の低い他の成員の労力を一部代替すれば、協業の成果は高まり、結局は彼の利益になることがある(全体の生産性が高まれば、平等分配でも彼の利益が増す可能性がある)。

 だが、通常の協業だけでは利他性の特質が把握されにくい。それは単なる分業としてみなされるかもしれない。また、生産性に大きな差が認められなければ、あえて利他的というほどのことは起こらないであろう。そこで、利他性の特質を捕え直してみよう。利他行動がなされるのは、援助すべき対象が困っているときである。怪我や病気などによる能力低下とか、たまたまの過失とかで、成員の一部が生産性を低めてしまったとき、他の成員がそれをカバーすべく、通常よりも大きな努力をして成果の減少をくいとめようとすれば、それは利他行動になるのではないか。

 他者を助けることで集団の利益が増大するならば、利他行動は行動主体に見合うものとなる。協働においては各自は与えられた役割をきちんと果たさねばならず、自己の役割を放ったらかしにして他者にかかわることは協働の成果を台無しにする。しかし、主体に余力があれば、自己の役割を十分に果たしつつ他者を援助することができる。例えば、集団戦闘において、危うい味方を助けることは、集団の戦力を損なうことを防ぐことによって、集団の利益となり、同時にその集団に属する主体の利益となる。集団的な生産活動(狩猟にしろ、牧畜にしろ、農耕にしろ、その他の商工業にしろ)において、仲間の困難な状況を援助したり、ミスを補ったりすることは、集団の生産高を確保するのに有効である。協働が人間の生存に大きな役割を果たしていたなら、利他的な傾向を持つ主体が生き延びていく可能性は高くなる。

 もちろん、その逆の傾向、他者の労苦に頼って生存の可能性を高めようとする行動も起こる。例えば、戦闘において自分の安全のため逃げ回ってばかりいる者や、何かをする振りばかりで実は何の労働もせずに成果の分配を受けようとする者など。彼らが巧妙にそれをやれば、協働の他の参加者は搾取されてしまう。これは、協働における利他行動だけではなく、協働という集団行動そのものに対する脅威である。協働の利益は明白である。協働の成員はその利益を失うことは避けたいであろう。だが、搾取者が見逃されるのであれば、誰もが搾取者の立場に立つことを望むであろう。協働が維持されるためには、搾取者が告発されて罰せられることが、完全ではなくともある程度有効に実施される必要がある。

 したがって、協働はお互いの役割の遂行を確認しつつなされる。困っている者がいれば援助され、サボっている者がいれば責められる。利他行動と道徳的非難がセットになることで、主体にとって有利になる状況が協働において成立する。このことが可能なのは、協働が参加者の認識の範囲内で行われるか、協働に対する個々人の貢献の割合が大きいのでその欠如が成果に明確に現れる場合であろう。小規模で工程の比較的単純な協働がこれに当てはまる。

 このことが事実だとして、それをさらに一般化できるであろうか。つまり、協働以外の場で、そのような行動が普遍的に見られるだろうか。それが成り立つには、次の二つの場合が考えられる。一つは協働において確立した行動パターンが、協働の場に限られずに広く一般的に普及した、というもの。もう一つは、協働における状況が他の場合にも当てはまる、というもの。いずれの場合にも、利他行動の対象者を協働の成員に特定しない。被援助者を特定するには、困難な状況にあることだけよい。そういうことが可能か。

 利他行動が搾取されやすいのは、その利益を受ける対象を制限できないことである。たとえ物理的には可能だとしても、そうしてしまえば利他行動の本質が失われてしまう。利他行動は特定の属性にこだわらないゆえに、えこひいきとは区別されるのであるから。協働は不適切な参加者をその企てから排除できるが、援助される者の資格を問うことは真の利他行動に発展することを妨げるものだろうか。

 その障害は小さいと考えることはできる。援助のための資格を問うのは簡潔な手続きでなければならない。なぜなら、援助は緊急事態であるので判断のための猶予はほとんどないからだ。最低限二つのことだけが問われるだろう。被援助者が同朋(共通の企ての参加者)か、そして、被援助者が本当に困っているのか。その判断が難しければ、甘い方にバイアスがかかると考えられないだろうか。

 他者を援助することが援助主体の利益になるという状況は、狭い意味での協働に限られない。同一集団が様々な機能を担っているとき(生産や防衛や衛生など)、成員相互の援助は集団の機能を高めることになり、利他行動は行動主体に有利となる。問題は利他行動が搾取されやすいことだ。協働と違って、単なる共同生活はただ乗りを排除しにくい。協働が核になることによって、共同生活における利他行動が行動主体の有利さを損なわせないようにできたのかもしれない。

 ただし、協働には大きな課題がある。協働の成果はどのように分配されるのであろうか。妥当な考え方は二つある。一つは、参加者全員に同等の貢献を認め、平等に分配する。もう一つは、各人の貢献を評価して、貢献に応じて分配する。両者とも一長一短がある。

 各人の貢献に差があるのは明白である。能力や意欲の差が成果に対する貢献度に反映する。もし、能力の高い者にその他の者と同じ分配がなされるなら、能力の高い者は不公平感を持ち、能力の発揮を抑制するかもしれない。しかし、彼は協業から離脱はしないであろう。彼一人でなしうる成果は、彼以外の能力の劣る者たちとの協業の成果の平等な分配には達しないからである。しかしながら、彼が能力を十分に発揮しないことで生産性が低下するなら、彼だけでなく参加者全員の得られる成果が減少する。彼への分配の割合を増やすことで、彼が能力を十分に発揮し、成果が増え、他の者の分配も増えるのであれば(彼への分配を増やしてさえ)、だれもそのことに反対はしないはずである。

 問題は、成果に対する貢献をどのように評価するかである。協働というのは各人の労働の単なる寄せ集めではないということである。例えば、従来の協働の単位に、新たに一人が付け加わったとしよう。そのことによって全体の成果が増えたならば、増えた分が追加の一人の貢献だろうか。しかし、この方法では収穫一定の場合にしかうまくいかない。全員が追加的な参加者の立場に自分を置いて、追加的な成果(つまり、限界生産物)を取り分として請求するならば(分かりやいように全員の能力が一定だと仮定すれば)、収穫逓減の場合は残余が発生し(経済学ではこれが他の生産要素の提供者の取り分になる)、収穫逓増の場合は分配すべき成果が不足する。

 極端な場合を考えてみよう。一つの機械を組み立てる協働があるとしよう。その機械は組み立てが完全に終わらないと稼働せず、したがって商品にならないとする。そして、協働の成員の一人が最後のねじの取付けを分担していたとする。その簡単な作業の貢献度をどう評価すべきであろうか。ねじ一本の取付けでも、その追加的成果は、スクラップでしかない部品の集合と完成品の価値の差である。彼がいなければ機械が完成しないという意味では、その機械の商品としての価値が彼の貢献度である。そのことは他の成員全員についても同じように言えることであり、したがって、全成員は貢献度において等しく、成果の分配は平等であるのが妥当となる。

 とはいえ、実際問題としては、協働は1か0かという成果の現れ方をするわけではない。同じ規模の同じ企画の協働でも、Aの代わりにBが参加することによって成果が変わってくるのは経験的に認識できる。ましてや、Aの代わりを誰も十分にできないとしたら、Aの貢献を高く見るのは当然である。

 一方で、各人の貢献度を正確に評価するのは不可能ではなくても、非常に困難である(取引費用が高すぎるという言い方もできる)。評価についての同意が得られなければ、不和が協働を危うくしてしまう。各人の作業に大きな差が見出せなければ、平等分配が現実的な解決策になるであろう。主体が参加することができる協業集団が一つしかない場合は、生産性の高い主体はその集団の分配決定に従わざるを得ないであろう(他の協業集団への参加が可能な場合、生産性の高い人間を引きぬくための高報酬の競争が発生するであろう)。

 協働も交換も、自己と同時に他者を(あるいは他者と同時に自己を)益するのである。ところで、時間がずらされた交換が贈与のように見えるように、協働の中の援助も時間の中で相互的になりうる。今回はこちらが助けるから、次回はこちらを助けろよ、という風に。援助は債権債務になる。このような援助は利他行動ではなくなる。なぜなら、助ける対象は無差別ではなくなるからである。応報が可能な者でないと援助はなされないであろう。そのような、協働の参加者内部における相互援助の関係は、協働を蝕む可能性がある。そういう関係が特定の成員の貢献度を上げ、それが分配に影響を与えれば、彼はそういう「分派活動」に重点を置くようになり、集団の統合を阻害してしまうかもしれない。

 分配の不平等は、特定の成員に余分な資源を与えることによっても、交換を呼び起こすかもしれない。その資源を交換に使えば、彼はさらなる利益を得るであろう。そのような行動は、協働の場を越えて、不平等を累積する効果を持つことができよう。

 交換における対価を求める行動と、協働における利他行動は、どちらが先に発生したか問うことに大した意義はないであろう。両者は同時に並行して発達したとみなしてよい。また、二つの行動様式の発達には、主体の意識的な使い分けが作用したと考える必要もない。それぞれの行動は実践の中で選択され、結果としてその行動を動機の中に取り入れる主体が生き延びる機会を増大させたと思われる。対価を求める行動も利他行動も、それが報酬づけられているからこそ、意識的に求められるようになったのである。

 協働における個々の参加者の貢献度の評価を明確にすることは、平等分配の妥当性を失わせることになる。分配が貢献度の評価を反映したものになれば、主体は貢献を分配と交換するという意識を持つ。協働が個々の交換に分解できるのであれば、分配は交換に還元されてしまう。

 協働における貢献の評価の明確化は、職務の分担を明確にすることによって可能となる。専業化と分業は、各分業単位間の中間生産物のやり取りを交換とみなすことを可能にさせる。協働は分業の中の小さな単位としては残るけれど、分業の発達により全体としての協業の中からは失われていく。分業と協業は交換の体系として組織されるようになる。社会の組織が複雑になるにつれ、交換の性向、つまり対価を求める行動様式の比重が大きくなる。

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