井本喬作品集

感情としての道徳

 道徳というのは人と人との関係について述べたものと言えよう。(動物や環境などとの関連を扱う道徳も考えられるが、ここではそれは無視しよう。)道徳は利己的な行動を抑えて、他の人間と調和するという内容を持ったものとして受け取られるのが一般的である。したがって、道徳は利己性を排除するもの、利己性と対立するものとして扱われる。道徳に利己性を持ち込むのは、その純粋性を失わせ、腐食させるものだとして嫌われる。例えば、功利主義はその名前だけで嫌われるのである。

 ただし、道徳が積極的に利他的であれと唱えるのは名目的であって、実効的には自制を要求するものである。つまり、自らの行動が他者に不利益を及ぼすことは避けるべきである、というのが主な内容なのだ。自らの行動は通常は自らの利益を追求するものであるから、それを断念することは利益の機会の放棄である。その断念によって他者の損失が回避されるのであるから、それを利他的と呼べぬことはない。そういう意味では道徳と利他性は密接な関係にあると言えよう。

 注意すべきは、行動は利己的(自己の利益のために他者に損失を与える)であるか利他的(自己の損失によって他者に利益を与える)であるかのどちらかしかないとみなしてしまわないことだ。利己的でも利他的でもない行動(他者に損失を与えることなく自己の利益を追求することや、自他両者がともに利益を得ることを追求すること)もある。いや、それが私たちの生活のほとんどの領域を占めていると言ってもいい。自己の利益を追求することだけでは利己的とは言えない。それが他人にどういう影響を与えるかが問題なのだ。利己的でも利他的でもない行動に対しては道徳は中立的である。それゆえ、道徳は人間行動の一部としか関わっていないのである。

 自己の利益を追求することを利己的とみなしてしまうと、人間の行動はみな利己的なものであるという見解になってしまう(行動は、意図としては、自己の利益の追求に他ならないという前提から)。経済学者や進化論者は人間(もしくは遺伝子)は利己的であると主張して、嫌われ者になるのをいとわない。しかし、彼等とて利他主義を否定するわけではない。利他性を利己性の言葉で説明することによって、行動の様式を一元化しようとするのだ。そうすることで、むしろ利他主義の危うさに助け舟を出しているつもりなのかもしれない。利他主義は、実は利己主義に裏打ちされているから、利己主義のしぶとさを持っている、と。利他性が、一見して非利己的であっても、実は総合的あるいは長期的に見て主体(あるいは遺伝子)に有利であるという論理は、利他的な行動のコストゆえにちゅうちょする善良な人々に勇気を与えるであろう。しかしながら、利他的行動を習慣としてきた人々は必ずしも喜ばない。それらの人々は利他的行動が非利己的であるからこそ尊重してきたのである。利他的行動が実は利己的であると知らされたら、その人々はその行動を続けようとするであろうか。利他性の背後に利己性を見つけるという方法は、利他性を絶滅させることではないのか。

 人間の共同体には様々な形態があるだろうが、利己主義を推奨するものは存在しそうにない。そういう共同体がもしあったとしても、たちまち維持できなくなって分解してしまうだろう。しかし、利他的な行動の重要さを揚言する人たちにも疑わしいところがある。彼らは自分自身に対して誠実であろうか。たまたま自分はしなくてもいいのでしないが、他人に対しては無理してでもするようにそそのかしているのではないか(他人が利他的であることは決して不快なことではない)。また、彼らは彼らの助言に従って他人がそのように実行することについてどれほどの確信を抱いているのであろうか。他人がそのように実行することについては何らの期待も持ってはいないが、他人を非難することの心地よさだけは保持したいのであろうか。

 利己主義があれだけ排撃され、利他主義がこれほどもてはやされるのは、実は利己主義がうんざりするほどありふれたものであり、利他主義が不足している貴重なものだから、ということも考えられる。人間が利己的であるのは先刻承知しているが、わざわざ叫んで知らせることはない。人間が利己的だと主張することは、発言者の意図がどうであれ、利己的であることを容認することによって、利己的な態度を増大させる結果をもたらすことに貢献してしまうであろう。利他性は必要である。だとすれば、なぜ今でさえ優勢な利己性の勢力を拡大しようとするのか。それならば、たとえ信じられなくても、人間は本来利他的であり、利他的なことをすべきであると言う方が(政治的に)正しいのではないか。もっとも、人間が本来利他的であるなら、利他的なことをするのに努力はいらないはずだから、その部分はあいまいにしておいた方がいいかもしれないのだが。

 ところで、社会が共存共栄のシステムであり、道徳がそのシステムを支える一要素であるのであれば、成員に対してあまりにも厳しい道徳というのは矛盾していることになる。しかし私たちは利他性と利己性を対立させ、道徳を克己心と結びつけがちである。通常、人は克己を苦痛と感じる。人は真に苦痛を望むことはできない。苦痛を望むとすれば、苦痛が苦痛でないか、苦痛が何かによって相殺されるか、さらに大きな苦痛を避けるためか、のいずれかである。道徳にそのような作用があるとすれば、マゾヒスティックな傾向を植え付けるか、利でつるか、強制するという性格を持っていることになる。それらの要素はお互いに排除しあっているように見えるかもしれないが、実は、道徳はこのような三つの要素を全て持っていると考えることもできよう。

  1. 自己犠牲は大きな喜びであることもある。共同体に属していることを人類全体や宇宙全体にまで拡大することも可能で、共同体の他の成員への貢献は利己的な感情に勝ることもある。このようなことは、道徳というのが契約に類する人工的仮構ではなく、実体を持ったもののように思わせる。
  2. 道徳が共同体を維持するためのものであり、共同体がその成員の生活を安寧なものにすることを目的とするのであれば、そもそも道徳は成員の幸福を増すための手段ということになる。それは投資のようなもので、一時的ないし狭い視野では負担(利他的行動)となるが、長期的ないし広い視野においては決して自己に不利なわけではない。
  3. 他人に対する道徳的非難は、本人の利害関係のないところでも、人を興奮させる。このような傾向は、利己的な行動への警戒がやはり生得的なものであることをうかがわせる。利他的な心が搾取されがちであるとすれば、それを防ぐ機構がなければ、そのような傾向は生き延びられないであろう。共同体の成員は他の成員を守ろうとするが、その傾向に反する者に対しては攻撃的にならざるを得ない。

 生物は自己の生存と子孫の存続のために(遺伝子レベルでは自己の複製のために)利己的に行動するはずであるから、生物である人間の行動もまた利己的である、という考え方がある。そのような立場において、道徳的行動(あるいは利他的行動)を利己的な動機から説明しようとするならば、二つの方法が考えられる。

 一つは、道徳的行動それ自体が報酬(あるいは快いもの)となっている、というものである。だとすれば、利己的な主体が道徳的行動を行うことに何の疑問もない。しかし、この説明は、なぜ道徳的行動が主体にとって報酬となっているのかという新たな疑問を引き起こす。それについては後で考えよう。

 もう一つは、社会的環境が道徳的行動を主体にとって有利にしている、ということによる説明である。社会の形成あるいはそれへの参加が主体にとっては有利であるので、社会を維持するために道徳に従うことは合理的となる。あるいは、社会の有用性については留保するとしても、集団の成員であることにより、道徳的行動には他の人々の賞賛が与えられ、非道徳的行動は非難を受けるので、利己的な主体は賞賛を得、非難を避けるために道徳的行動をする。たとえ道徳的行動自体は費用がかかる(不快な)ものであっても、その行動がもたらす全体の損益計算に引き合えばいいのである。

 道徳的行動を主体の理性的(ないしは合理的)反応とすれば、利他心というようなものに頼る必要はない。利他性は利己的行動に付随してくるものとなる。社会的行動が常に自己の利益と同時に他者の利益を保証するものであれば、これだけで道徳的行動を説明するのに十分である。しかし、他者の損失のうえに自己の利益が確保されるような行動(ただ乗り)が可能であれば、そのような行動を妨げるものは他者の牽制しかない。この説明では、道徳的行動には他人の評価が必要であるという点で、その恒常性を保証できない難点がある。人の目のないところで道徳的行動をする理由はないからである。

 ところで、私たちの経験から、他人に絶対分からないからといって(絶対というのも確率にすぎないが)、必ずしも利己的に振る舞うとは限らないという証拠をあげることができる。また、道徳的行動は主体の生存を損なうまでに極端になることがある。そのようなケースを社会的環境への対応では説明できない。そこで持ち出されるのが、外部にある道徳を内面化するという過程である。

  フロイトは超自我という概念で、内部と外部を結びつけようとした。利己的存在である人間に、その利己性を否定するような部分が自生的に発生するはずはないから、フロイトは超自我という非利己的部分の由来を自我の外部に求めた。超自我とは親を媒介にして社会が心の中に入り込み、抑圧者として作用するものである。

 フロイトの直感には学ぶべきところはあるが、彼の理論には基礎的な存在としての衝動的な人間像が前提されている。人間は最初は利己的な存在として出現し、社会的存在に発展する。これは、幼児から成人へ成長する過程の観察からも支持されやすい見解である。

 しかし、道徳が学習といったようなものによって個人に植え付けられるという仮説に対しては、次のような疑問が生じる。第一に、主体がそのような「まやかし」を一方的に受け入れるであろうか、ということである。子供は大人たちが口でいうほど彼等自身が道徳的でないことをすぐ見抜く。学習というのが手本となる人間の言動を真似るということであるならば、子どもの身につける行動は嘘も方便といったような臨機応変さを備えるであろう。しかし、子供はそのような大人の行動を見習うよりも、大人はずるいという道徳的判断を持つ傾向がある。親の現実的態度に逆らっても、仲間集団への忠誠とか友情を尊重するのである。社会化とはむしろこのような判断を緩和させ、道徳的行動を行動全体と融和する適当な水準に下げるようにすることのように思える。世の中が不正の機会に満ちているということを認識しても、多くの人はそのような偽善的な仕組みになかなか適応しようとはしない。むしろ人々はそのような「社会化」には抵抗したがるのである。

 子どもたちは判断力がつく以前に言葉で立前を教えられてそれを信じ込み、実態を知ってもその信念を放棄しないのであろうか。大人たちのいいかげんで気まぐれな影響からのみ、子供たちが保持するようになる厳しい道徳的要請を導きだせるとは考えにくい。このことは、もし学習ということを道徳的行動の獲得として使うのであれば、(フロイトにならって)幼少期のある特定の時期の経験が重要であるということを受け入れると同時に、(フロイトとは違って)その経験は主体によって選択的に受け入れられているとみなす必要があるであろう。

 第二の疑問点は、道徳の形成が社会から個人への一方通行であるなら、社会の変化は道徳を変えるであろうが、道徳が社会を変えることはない、ということになる。社会を変えるのは超個人的な力(例えば経済力)であるか、逸脱した個人の行動ということになるであろう。逸脱した個人は新しい道徳を主張することが多い。その道徳はどこから生じてくるのであろうか。

 ところで、学習などの作用によって、誰にほめられるのでもなく誰にとがめられるのでもなくても、利他的に行動したり、利己的な行動を放棄することを習慣化し、性格として形成できたとしよう。もし行動が何らかの報酬によって動機づけられるものならば、そのような行動において与えられる報酬とは主体自身が与えていることになる。その場合、人は道徳的反省に基づいて自己自身によって自己を駆り立てることができよう(それが結果的に利他的であるかどうかは別問題であるとしても)。だが、このことを無批判に受け取るのも危険である。人が自分自身をほめ、あるいは罰することが無限にできるのであれば、社会生活を必要としなくなってしまう。これはむしろ病的な状態である。

 つまり、道徳的判断は、社会から受動的に与えられるものでもなく、自己が恣意的に操作しうるものでもない。その根拠は、慣習や合理的な意識とは別の次元に求められなければならない。

 前節の説明のような反省的な自己を通じずに道徳的行動が起こるとすればどうであろうか。つまり感情的なものと考えるのである。感情というのは主体の意志で簡単に引き起こしたり、消し去ったりはできない。せいぜいかき立てたり抑えつけて程度を変えることぐらいしかできない。感情には契機が必要であり、それは状況と結びついている。つまり、それは主体の自由にはならないが、それによって主体が状況を報酬に変換することができるのである。道徳的行動が感情によって起こされるとすれば、それは限定的にでも主体自身によって報酬を与えられている。そして、感情というものが生得的であるならば、道徳感情も生得的であろう。

 道徳に感情的要素という生得的なもの持ち込むのは安易な解釈のようだが、しかし、このようなものを想定しない限り、利他的な行動を説明するのは困難であるのは間違いない。シュリックは「社会的衝動」、デュウイ=タフツは「同情」の重要さを指摘した。しかし、人間が社会的な存在であることから必然的に社会的衝動や同情心を発達させるとは言えない。人と人の交流においては、むしろ利己心を発達させる方が自然であるように思える。利害関係が異なる場合、他者が自己と同類であると認識することは、他者を道具として扱うことを妨げない。むしろ、他者の行動を予測することで自己に有利な行動を促すことになるだろう。

 共感、つまり他者の感情がそのまま自己の感情になる(他者の喜びや悲しみがそのまま自己の喜びや悲しみになる)ためには、利害関係の共通性認識が前提になるだろう。共通な利害関係においては、道徳による調整は必要ない。自己にとって有利なことは他者にとっても有利なはずだからだ。他者が自己とは異なる感情を抱き、しかもその他者の感情を自己が感じて、その違いの原因を探り、他者の感情を自己と同一のものにするために状況を是正しようとするとき、初めて社会的衝動や同情心が生じる。社会的衝動や同情心は、彼我の差を意識することである。つまり、異なる利害関係を越えて共感が成り立たなければならない。そのためにはそもそも利他的な傾向が必要なのだ。利他的な傾向があればこそ、他人の感情を自己に包含できるのである。

 ついでながら、他者が喜ばしい感情を抱き、自己には悲しい感情があるとき、社会的衝動や同情心はどのように作用するであろうか。自己に同調させるために他者を悲しませる必要があるだろうか。自己に同調させるために、自己は他者に何らかの請求ができるのであろうか。利他心というのは何らかの方向性があるようだ。双方向的なのは公平感といったもののようである。

 他者の感情が自己のものとして取り込まれ、他者と自己が連動することによって、利己的な自我でさえ他者の状況を改善させることに努めるようになる、というのが共感の道徳的作用とされている。しかし、自己に移転された他者の感情と、本来的な自己の感情が比較されるとき、なぜ前者の方が利己的な自我によって尊重されると言えるのだろうか。共感というような回りくどい説明に頼らずに、道徳的行動そのものを生得的なものとすれば、利己的な自我による説明の困難を避けられる。わざわざ共感などを介在させる必要はないのであって、利他能力とでも呼べばよい。

 もし、利他的な性向が生得的であり、利己的な性向もまた生得的であるならば、人間には良い心と悪い心があり、人間はその相克に悩んでいるという、常識的な見解が妥当することになる。それでいいではないか、と多くの人は言うであろう。

 なぜ利他心を素直にそのまま受け入れることに抵抗があるのであろうか。それには私たちの心的な経験が作用していると思われる。私たちは利他的な行動をすべきであると感じる。しかし、その行動は苦痛であり、出来ればしたくないと思い、するとしてもいやいや実行しなければならない、ということが多い。つまり、利他的行動は義務として、あるいは他からの強制として経験される。

 そのような心的経験から、われわれは利他的行動を次のようなものとして考えてしまう。利他的行動の全てが動機づけられていないということは、それが人間の本来の性向に組み入れられているのでなく、外から人間に提示されるものに違いない。つまり、純粋な(強制も、喜びもない)利他的行動というものを、人間は自然的(無反省的)にはなしえない。

 そこで、人間にとって外部的なものである利他的行為の由来を、社会に求めることになる。人間はそれを学び、身につける。つまり、習慣とする。そのような利他的行為の体系には合理性が見いだせる。それがあれば社会はうまく運行され、人間は社会生活の利益を享受できる。社会の強制は、社会生活の利益を得るためのコストなのである。そのコストを払わずに、利益のみを得ようとする者は、社会から罰せられることになる。罪悪というものも、人間の外部に由来するということになる。

 このような考えにおいては、道徳の内容は文化や制度に沿ったものとなる。文化や制度は恒久的ではなく、時代や地域によって異なる。人間はそれぞれの社会に適応しなければならないから、そこにおける道徳の具体的内容は普遍的ではない。そういうものを遺伝子は継承できないから、人間は出生してから学習しなければならない。人間は道徳的にはタブラ・ラサとして生まれてくることになる。

 ただし、学習される道徳は、その存在理由を直観しにくく、検証も難しい。いわば無批判的に受け入れねばならないので、強制され訓練され監視されることになる。

 道徳が集団の形成と維持にどの程度関わっているのかは不明だとしても、そういう機能を持たされた道徳は利他的であるよりも抑圧的であり、他者との関係よりも個々人の行動の仕方に介入する傾向が強い。それが一体何の役に立つのか理解しにくく、むしろその方が批判を超越することになって受容されやすい。

 しかし、道徳の要請の全てが強制的ないし抑圧的であるとは限らない。利他的行動が喜びであり、進んでそれをしたいと思うことがあるのは否定できない。その場合は、その行動を義務とは感じない。義務感からではなく、それを望んでするのならば、それこそ真の道徳行動と言えるのではないか。

 そして、利他的行動が自発的になされるとすれば、それが望ましいものとして欲求されるからであり、自らの欲求を追求することは行動の原理である。その場合、道徳的要請自体が肯定的感情として発現するのであれば、共感のような別の感情を経由しなければならないとみなす必要はない。

 私たちが利他的傾向をもともと持った存在として出生すると考えることにおかしな点はない。むしろ、そういう能力がなければそういう行動様式を獲得できないと考える方が妥当ではないか。行動が型として形成されるのには何らかの刺激が必要であるのは確かであろう。しかし、チョムスキーが言語において主張したように、不規則でわずかな刺激から体系的な行動様式が成立するというのは、そこに能力のようなものを媒介として考えない限り、不可解である。

 感情は一般に非合理的なものとされるから、利他的行動の非合理性の理解に役立つと思われる。しかし、利他性や非合理性の存在については、進化論的立場からの疑問が投げかけられる。利他性、非合理性が個体の生存や繁殖に不利であるなら、そのような属性を持った個体は淘汰され、種としての人間はそのような属性を持てないはずである。SFに出てくる未来人や文明の進んだ異星人たちが感情に欠け異常に合理的であるのは、このような進化論的発想によるものであろう。

 共同体レベルで考えれば、成員全体の利益を援助するような傾向を備えている個体は、その個体の属する共同体を有利にすることを通じて、個体の生存を有利にする。しかしながら、そのような共同体においては、他の個体のフリーライダー的行動によって搾取されてしまうことによって、利他的な個体が生存の可能性を低めることが考えられる。利他的な個体の多い共同体はフリーライダー的個体の多い共同体との競争に勝つとしても、その共同体自体がフリーライダーによって侵食されるのが必然であるならば(フリーライダーを排除する仕組みがない限り)、いずれ利他性は淘汰されてしまうであろう。

 そのような難点を避けながら、道徳感情が進化的に成立したことを説明するものとして、トリヴァースなどによる互恵的利他行動からの派生とみなす考えがあるようだ。

 トリヴァースと生物学者のリチャード・アレグサンダーは、互恵的利他行動の要求が、人間の数多くの情動のみなもとと考えられることをあきらかにした。それらが集まって、道徳感の大きな部分をつくりあげている。

  最小の装備は「裏切り者検知」と、明白な裏切り者をそれ以上助けるのをやめる「しっぺ返し戦略」である。

 (中略)

 このゲームがさらに複雑になった。利他行動者が裏切りを見破れない場合や、見破っても利他行動をやめない場合には、淘汰は裏切り行為に有利に働く。それがよりすぐれた裏切り者検知装置を生み、それがより巧妙な裏切りにつながって、その巧妙な裏切りを検知する装置ができ、その巧妙な裏切り者検知の装置に検知されずにうまく逃れる戦略が生まれる。検知装置はそれぞれ適切な目標(助け合いを続ける、関係を解消するなど)を設定する情動デーモンの引き金を引く必要がある。

 トリヴァースはこのようにして、道徳的な情動を互恵ゲームの戦略として逆分析した。(スティーブン・ピンカー『心の仕組み 人間関係にどう関わるか』1997年、椋田直子訳、NHK出版、2003年)

 しかし、このように考えることは安易に溝を飛び越えてしまっているのではないだろうか。「互恵ゲーム」からは道徳的非難は生まれてこないであろう。交換は交換であり、一方的な思い込みによって成り立っているのではない。対価を拒絶した者には当惑させられるかもしれないが、それは当然予想してしかるべきなのである。交換を行う心理は自己の利益を目指すものであって、相手の利益は付随するものにすぎず、それが実現されなかったからといって本来痛くも痒くもないはずである。それは相手も同様であるのだから、機会主義的行動は常に潜在しているのだ。そこに情緒的要素がからむことはない。交換のお返しがないからといって相手を非難するのはお門違いで、非難されるべきは自らの間抜けさなのである。道徳的非難は、たとえば公平感、公正感といったものを前提とする。ロールズも正義に感情的要素を取り入れようとしているが、あくまで正義の後でであって、それらが正義を構成するわけではないと、次のように言っている。

 二人のエゴイストのいずれかが他者を欺き、これが見つかったとしても、二人のいずれもが不平をいう根拠をもたない。彼らは正義の原理を、あるいは原初状態の見地からみて合理的であるいかなる概念をも、受け入れていない。彼らはまた、義務の不履行に対する罪の感情からくる禁止を何ら経験していない。既にみたように、恨みや憤りというのは道徳的感情であり、それらは正や正義の原理の受容と関連した説明を前提としている。(ジョン・ロールズ『正義論』、矢島鈞次訳、紀伊國屋書店、1979年)

 ましてや、互恵的交換から利他主義は生まれそうもない。個体が他の個体と相互作用することによってお互いが有利になるだけでは、まだ利他的とはいえない。利他的とは一方的な利益供与を意味する。交換は利他的とはいえないが、交換が時期をずらして行われれば、その部分は利他的に見える。しかし、後のお返しがなされなければ、そのような交換は継続しない。交換行動における裏切りに対する制裁は簡単である。交換を継続しなければすむことであり、それ以上の罰を必要とする理由はない。お返しを期待しない一方的な利益供与が、互恵的交換から生まれてくる必然性がなぜあるのか。

 助け合って行動することが個体の生存にとって有利であるならば、そういう傾向の有利さを考慮して行動しようと、考えなしに行動しようと、そのことに淘汰はこだわるまい。むしろ、そのような考慮をすることで、行動が遅れたり、ためらわれたりするような個体は生き延びにくかったのではないか。感情は勘定のコストを不要にしていることで淘汰をくぐり抜けることができたのではないだろうか。

 確かに、利他性は単独では発生し得ないように思える。しかし、騙し取ったりただ乗りしたりするような行動傾向が、利他的行動よりも先に成立していたと考える理由もない。むしろそういう行動はお人好しの存在を前提にするだろう。そして、そういう行動がお人好したちを搾取しつくしてしまったなら、残るのは疑心暗鬼の人間関係だけである。しかし、いまだにお人好しは生き延びている。

 約束の不履行やフリーライダーなどを憎んだり罰しようとする感情は、ロールズの言うように、単なる利己的な感情ではない様相がある。それはお人好しが淘汰されるのを防いでいるのである。利己的な人間はそのようなことにコストをかけようとはしない。人を罰しようとする傾向は、利他的傾向を前提にしている、あるいは利他的傾向の一部なのだ。

 利他的行動を互恵的利他行動を媒介として説明しようとするのは余計な回り道ではないだろうか。利他的な傾向は、確実に有利なときにのみ積極的な行動をするという「合理的」な判断(それは互恵的利他主義をも基礎づけている)と併存して発達したと考えられる。それは、合理性との協同作用によって、生存の可能性を高めた。

 われわれは他人との相互行為において、二つのレベルでの心理過程を経験する。一つは盲目的な衝動・感情であり、一定の状況があれば自動的に出現する。もう一つは合理的な判断であり、確率、コスト、収益などを考慮する。合理性は種々の衝動・感情と行動の間に介在して、動機を調整する。利他心は衝動・感情の一種である。種々の衝動・感情の競合があった場合、利他心が主たる動機とは常にはなりえないであろう。他の衝動なり感情と協調的であったり、あまり相克しない場合に限って、行動の主たる動機となるであろう。

 道徳感情もしくは利他心が生得的なものであるなら、人は生まれつきそのような傾向の大きさに差があるのだろうか。道徳的な人とそうでない人がいて、経験なり教育なりの後天的な影響では彼等のその性質は変化しないのであろうか。そうであるならば、道徳的な行動を求める要請というものは全て無駄ということになり、問題は善人か悪人かを識別するだけになってしまう。

 前節で推定した道徳の構成の複雑さが、そのような懸念を解消する手助けとなる(ただし、あまり好ましい形ではないかもしれないが)。道徳が尊重されるための二次的な手段として、合理性が利用されるのである。道徳を守ることが主体の利益になり、道徳に従わないことが主体の不利益になるのであれば、生得的な道徳感情の不足を埋めることができよう。ただしこれは諸刃の剣であって、道徳の功利的側面が強調されすぎると、道徳感情が損なわれてしまう危険性がある。

 私たちが道徳に対して抱く複雑な思いは、道徳自体が持っている複雑さの反映なのである。道徳は生得的な利他心として個人に根拠を持っていると同時に、他人の利己性を非難するというこれもまた生得的な傾向によって支えられ、そして社会のルールが個々人に積極的な利益をもたらすという合理性への訴えかけが基盤になっている。むろん、社会のルールというのは穴だらけであり、無視したり抜け道を探ったりして自己の利益を積み増そうとする人の存在を許してしまう。そういう人に対しては、それを真似しようとするのではなく、非難し監視しようとする傾向が人々に植え付けられていることによって、抑止の力が働く。だがそれも万全ではない。ルールの裏をかくという誘惑に負けて結局はルールそのものを無効にしてしまうことを最終的に防げるとしたら、それは何によってだろうか。

 合理性は道徳を成り立たせていると同時に、道徳を危うくするものである。合理性の介入が道徳を複雑なものにさせている。なぜなら、合理性は偽るという手段を有効に利用しようするからだ。ある行動が行動主体の利益を目的としているとしても、それを露骨に表すことが同時に不利益をももたらすとしたら、合理的な主体は目的を隠したり偽ったりするであろう。道徳的行動が彼の利益追求的行動と一致するものであれば、それはどちらでもいいことかもしれない。しかし、実はそれらが異なっていながら同一のものであると粉飾されていたり、今は同一であっても将来どうなるか分からない場合、行動の真の目的が何であるかは重要な関心事になる。

 行動主体の道徳感情の有無が、そのような弁別の作業に役立つと期待されるかもしれないが、ことはそう容易ではない。道徳的行動に利益が付随するなら利益を目的として道徳的行動がなされるように、感情表出に利益が伴うのであれば、利益を目的とした感情表出がなされるであろう。偽りの涙、お愛想笑い、義憤の振る舞いなどなど。偽りの感情表出は感情表出への不信を生み、感情を隠すことが美徳とされることもある。そして、感情を隠すという美徳がまた追求される。感情表出の純粋さが演技によって腐食されてしまう不気味さは、たとえば芥川龍之介の『手巾』において残酷なまでに描写されている。

 先に引用したピンカーの文章の中のトリヴァースの見解のように、偽る方と見抜く方がエスカレートする競争に陥ってしまえば、協力関係はコストの高いものになってしまうだろう。十分に合理的であり、かつ十分に猜疑的であって、お互いにそうであることを知っていれば、協力関係は成り立つだろうか。どちらからにせよ最初に呼びかけることの意図についてあれこれ考えていたのでは、いつまでたっても交渉に入れないだろう。共同作業中に相手を四六時中見張っていなければならないとしたら、お互いに何もできなくなるだろう。合理性や猜疑心のレベルを下げて、騙されることをある程度許容することの方が、警戒のあまり金縛りのままでいるよりは、共同作業を可能にして利益を得られることになるのではないか。

 そういうことを可能にするのが道徳感情なのだろうか。そのような感情が乏しければ、人と協調して何ごとかをなすのは難しいだろう。他人は搾取の対象か、搾取しようと狙っている敵でしかない。共存共栄はリスクが高すぎて手が届かないのだ。道徳感情はお人好しな行動を可能にする。それが損失を耐えやすくする。ただし、バランスは保たれていなければならない。損失があまりに大きくなれば回避の行動を取らねばならない。騙されたと知ったときには相手を怒りの対象にしなければならない。

 道徳感情がそれだけのものに過ぎないのなら、つまり交換や協働を実現させる信頼を支えるだけのものに過ぎないのなら、環境を整えることによって、そういう感情を呼び起こすなり、そういう感情がもたらす行動を引き起こすことは可能であろう。ある程度の損失の確率を見込む判断であればいいのだから。そのような傾向を表すおおらかさとか人のよさは、その人との交渉において損失の確率の低さの指標となるであろう。それが、好ましさとか信頼感という感情を人に抱かせる。そういうことを狙って行動させるように仕向けることはできるかもしれない。

 このように考えれば、道徳が求めるのは、機会主義的行動によって人に損害をもたらさないだけのことである。どのような方法であれ、機会主義的行動によって得られる利益をあきらめることができさえすれば、人は道徳的でいられるのである。法律や、治安を含めた行政サービスによって利得構造を操作すれば、多くの人にとって道徳的行動は大きな負担ではない。

 だが、私たちがイメージする道徳的行動には結果の予測のようなものが含まれているとは思えない。私たちが困っている人を助けるのは、私たちの助力によってその人が困難な状況から脱することを予測するからではない(助力の方法を考える際にはそういう予測はなされるかもしれないが)。また、助力後のその人の状態が私たちに喜ばしさをもたらすであろうからでもない。私たちが困っている人を助けるのは、ただその人が困っているからである。

 通常、道徳に関係する感情的要素としては共感や同情があげられる。しかし、他者の状態がよい場合(特に自分よりよい場合)、共感は起こりにくく、ましてや同情はない。起こるのはむしろ嫉妬や羨望である。共感や同情は、他者が悪い状態(特に自分よりも悪い状態)にある場合に起こる。正確にはそう認識したとき、言いかえればそう思い込んだときに起こる。それは他者の心情を確かめたりはしないのだから、同情や共感と呼ぶのはおかしいかもしれない。そして、利他的行動は、共感や同情によって他者を自己と同一視し、他者のためになることが自己のためになることのように感じるから他者を助ける、という回りくどいことではない。他者の状態が直接引き起こすのである。共感や同情が利他的行動を引き起こすのではない。共感や同情そのものが利他的行動の一部なのである。

 利他性の対象となるのは困っている人である。つまり、その時点では応酬を期待できない。むろん、利他的であるように見えることは、その人にとって有利であるだろから、それをねらって利他性を装うこともあるし、それに騙されることもあるだろう。だが、利他性を見かけだけで維持することは困難である。そもそもの利他性は交渉を有利にすることを目的として生まれてはこない。そんなリスクの高いことを引き受けることは割には合わない。

 善行には「意外な」報酬があるという説話や教訓が多いのは、利他性を引き出すのが説得だけでは難しく、互恵性を使うと効果があると思われているからであろう。しかし、そのような期待を持たせることは結局は利他性を損ねることになる。利他性が生得的な資源であるとしたら、その不足を解消するには、その必要性(需要)を減らすしかないであろう。

 行動というのが何らかの報酬を求めて起こることであるならば、合理性の役割は様々な報酬を比較可能にして価値の大小を示すことであり、その報酬がどのようなものであれ排除しない。他人から見て奇妙であっても、蓼食う虫も好き好きなのである。たとえ相手が見ず知らずの他人であり、今後も決して会うことはない人であっても、搾取的な行動はせず、またゆるさないというのは、人が望むことであるなら、そのような行動は合理的である。問題は、なぜこの行動が取られ、他の行動が取られないかということの、理論的に一貫した説明が可能かということである。

 直近の報酬と将来の報酬が代替的である場合、割引の仕方で価値の大小が変わってくるということが言われる。例えば、指数割引では将来の報酬の方が価値が高く、双曲割引では直近の報酬の方が価値が高いとき、どちらの報酬を選ぶことが合理的とされるのであろうか。(あるいはもっと一般化して、短期的合理性と長期的合理性の比較としてもよい。)この場合でも、求められるのは理論的に一貫した説明であり、行動の非合理性を示すことではない。

 このことは、道徳心と合理的な判断の不一致という現象にも関連する。分かりやすい例として、交通信号について考えてみよう。信号に従うことは、道を通行する人々が安全と効率を確保するための約束事を守ることであり、しごく合理的な行動である。その目的に忠実であるならば、見通しがよく交通量の少ない場所で信号を無視することに非合理性はない。しかしながら、何も通っていない安全な道路を横切るのに、信号が赤だからという理由だけで、多くの人々が躊躇するのである。これは道徳的であるが非合理的な行動だろうか。しかし、規則を守るということは、状況に応じて恣意的に適用するということとは異なると思っているのであれば、絶対的に規則に従うこともまた合理的と言えるであろう。つまり、行動の一貫性が主体にある価値(誠実性の確信といったような)を与えると考えることもできる。

 それならば、合理性は万能なのであろうか。次のようなケースを考えてみよう。二つの行動があって、それらが全く同じ価値の報酬をもたらすとしたら、理性はどちらの行動を選ぶだろうか。「ブリダンの驢馬」についてスピノザはそのような場合の選択不可能性を肯定する。

 第四に、またこういう非難もある。もし人間が意志の自由から行動するものでないとしたら、どういうことになるだろう?たとえば彼がブリダンの驢馬のように、どっちつかずの状態におかれるとしたら?彼は、空腹と渇のために死んでしまいはしないだろうか?(中略)最後に、第四の反論についていえば、私は、いわれたような均等状態に置かれた人間は、(まったく彼は空腹と渇以外、また自分から等距離におかれたその食料とその飲料以外に何一つ知覚しないのだ)空腹と渇のために往生するだろうということにまったく同意する。(スピノザ 『倫理学』第二部定理四九備考、高桑純夫訳、河出書房新社、1966年)

 違った行動での全く同じ帰結というのは現実にはほとんどないことであるから、理性が帰結を正確に予測できるのであれば、こういうことは起こらない。しかし、様々な条件の認識の困難さ、とりわけ将来の不確実性は、予測の確実性を大きく損なう。異なる行動の異なる帰結は、比較するにはあまりにあいまいであり、選択の対象としてはほとんど等価になってしまう。脳の損傷で感情的な機能を失った患者の例は、理性的な機能だけではいかに行動の選択が困難になるかを示している。

 さて、その翌日のことである。私はその患者とつぎの来所日をいつにするかを相談していた。私は二つの日を候補にあげた。どちらも翌月で、それぞれ数日離れていた。患者は手帳を取り出し、カレンダーを調べはじめた。そして何人かの研究者が目撃していたことだが、そのあとの行動が異常だった。ほとんど三〇分近く、患者はその二日について、都合がいいとか悪いとか、あれこれ理由を並べ立てた。先約があるとか、べつの約束が間近にあるとか、天気がどうなりそうだとか、それこそだれでも考えつきそうなことをすべて並べ立てた。凍結部分を冷静に運転し、女性の車の話を平静に披露した患者は、いま、そのときと同じくらいに平静に、退屈な費用便益分析、果てしない話、実りのないオプションと帰結に関する比較を、われわれに話していた。(アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳 心と脳と身体の神秘』1994年、田中三彦訳、講談社、2000年)

 理性は迷うのである。ある感情が支配的になって圧倒的に大きな報酬を提示することができれば、選択はたやすくなる。行動において感情の果たす役割が大きいことは否定できない。当然、道徳行動においてもそのことは妥当するだろう。

 私たちは利他的行動というものを、自己の損失によって他者に利益を与えることと考えている。ある論者たちは、そこには隠された、あるいは遅延する利益があると主張している。そうでなければ、自己の生存を目的とする生物の行動としては不可解であるからだ。彼等の言い分を認めるならば、利他的行動というものは、自己の動機が何であれ、他者に利益を与える行動ということになる(当然、自己にとっても利益となっている)。だとすれば、商取引も利他的行動となる。

 しかし、自己の損失を意識して他者に利益を与えようとする行動と、意識的にしろ無意識的にしろ自己の利益になっていて同時に他者に利益を与えている行動とを、同一視してしまうことには抵抗がある。そこで、他者に利益を与える行動を利他的行動とするとしても、そこには消極的と積極的な二種類があると考えてみよう。自己の損失によって他者に利益を与えようとする行動を積極的利他主義と呼び、少なくとも他者に損失を負わさない形で自己の利益追求をする行動を消極的利他主義と呼ぼう。後者において他者の利益を条件にしないのは、他者の損失回避という配慮があれば動機としては十分であり、結果的に他者に利益になる行動も含めることができるからである。(消極的利他主義は、自己の利益を第一にする点からは、消極的利己主義と呼んでもいいかもしれないが。)

 しかし、他者に損失を与えないということは、よく考えてみると線引きの難しいことなのである。他者に影響を全く与えない行動というものは、ささいなことを除けば、ほとんどないと言ってもいい。例えば、単独行動をする狩猟者であっても、彼が獲物を得ることは、他者がその獲物を得る機会を失わせたことになる。限られた資源の活用において、私たちはお互いに競合しているのである。市場におけるルールに基づいた行動でさえ、その行動を実現するということは、そのことをすることから他者を排除したことを結果する。同じような機会がたくさんあったとしても、その機会を逸した人は必ずいる。それこそが競争による効率性なのであるから。

 機会を奪うということは、将来に向かってのことであるから、現在の他者の状況を悪化させるものではない、という反論が可能であろう。向上の機会を奪われたからといって、現状が低下するわけではない。しかし、私たちの生活の維持というものが、機会の獲得という連続した行動でなりたっているのなら、機会の喪失は状態の悪化につながる。また、期待の未実現、ねたみなどは、その人に損失の気持ちを生ぜしめないであろうか。もし、利益・損失というものが、快・不快といったものに還元されるのだとすれば、そういう感情は損失に計上されるべきであろう。

 他者への配慮があっても、どこまでを損失とみなすかによって、利他主義の分類をさらに細かくする必要があるだろうか。それはあまり生産的ではない。むしろ、市場に対する態度によって再定義してみよう(市場を市民社会としても妥当するであろう)。市場のルールに従っている限り、市場参加者は、他者に故意に損失を与えることなく、それぞれの利益を増大させている、という考えを消極的利他主義としよう。それに対し、市場における分配の結果をそのままでは容認せず、何らかの再分配が必要であると考える立場を積極的利他主義としよう。

 前者は、パレート最適的な利他主義であり、損失を狭い範囲で捕らえて、少なくとも他者の損失を回避することを自己利益追求の条件とする。交換は当事者双方に利益をもたらすので、交換の体系としての市場は、ルールが守られている限り、全員が利益を得る。それゆえ、市場は利己主義にはなっていないと考える。後者は、競争によって生じる格差を容認することは、他者への配慮がないゆえに利己主義に陥っている(少なくとも利他的でない)と考える。消極的利他主義者も自発的な再分配については同意するが、積極的利他主義者が再分配を義務化しようとするならば、反対する。消極的利他主義者が積極的利他主義者を批判するのは、再分配を強要することについてである。しかし、積極的利他主義者の態度は当然のことといえよう。既に見てきたように、利他心は、利己性(利他的でないこと)への攻撃といわばセットになって成立していると思われるのであるから。

 利己的行動を、他者に損失を与える意図を伴う行動にのみ限ることでは、利己性と利他性の区別を明確にはできない。しかしながら、強い利他的行動と強い利己的行動の間にあいまいな領域があることは示しうる。その領域こそが市場である。

 利他心が進化の過程で成立したのであれば、人間の生存において適応的であったはずだ。ではなぜこのような利他的傾向が現在の社会においてあまり有効に働かないのだろう。それは、人間の他の性質についても言われているように、この傾向の起原が古く、人間が小さな集団で生きていたときに成立したからであろう。その後、進化的適応を行うには短すぎる間に、人間社会は大きく変化した。集団が拡大し、親しさの異なる様々な人間と関係を持つようになると、他の能力が有効となる。むろん、その能力も、人間が人間となったときには既に備わっていたであろう。

 共同体が大きくなって、共同行為の成果の分配が制度化されるようになれば、われわれの信頼は個人ではなく制度に向けられる。そして制度が功利的な動機で維持されるという期待が大きいものであれば、利他的傾向を必要としなくなるであろう。家族や地域共同体などの小集団の成立している場では、利他的傾向はいくらかでも有効性を保持しえた。生産などの協業の場では、その規模がいかに大きくとも、職場の単位としての小集団においてなお有効であり得た。決定的な影響を与えたのは、交換の場としての市場と、交換手段としての貨幣である。市場と貨幣は、対面協力から間接的協同への道を開いた。市場で貨幣が使用できれば、商品化されたものであればどんなものでも手に入る。そして、商品化されるものの範囲は拡大していく。

 つまり、私たちは利他心を使う機会を減らしていっているのである。私たちの生存に有効であった対面的共同生活の場が市場に取って代わられることにより、合理的に判断することの必要性が支配的になったのである。私たちは最小の費用(投入)によって最大の収益(産出)を得るかを考えればいいのであり、誰を助けるべきかという配慮はあまり要求されないのである。

 確かに、市場以前(以外)においても取引(交換)というものはあった。そのような取引(交換)は互恵的と呼ばれることがあるが、経済的交換も互恵的であるのだから、適切な形容ではない。そこで生じる債権・債務は個別的な信頼関係によって支えられていた。市場においてはその信頼関係が制度化され、譲渡可能になっているのである。私たちは債権・債務関係を特定の個人に固定する必要はない。そのような制度の典型的なのが貨幣である。貨幣の受け渡しにおいて、もう一度(あるいは何度も)同じ人間と逆向きの交換をする必要はない。互恵的交換も利他心と同様に市場によって駆逐されつつある。市場のもたらした取引というのは革新的であったのである。

 むろん、対面的な生活が全くなくなるというようなことはない。だから、利他心も互恵的交換も働く余地は残されている。また、利他心が小集団においてのみ働くわけではない。個人は有効性を意識して利他心を働かせるわけではないから、その対象を広げることができる。直接的に知覚しえなくても、様々なメディアによって知り得た人々(抽象的な存在でもかまわない)に対して、利他的に行動することは可能だ(遺伝子が想定していなかった事態かもしれないが)。利他心が生得的なものであれば、それを機能させることが主体に報酬を与えるのであり、主体はそのような機会を捕らえようと常に身構えているはずだから。

 ただし、利他心が、それを抱く個人や、その対象となる他者に、生存上有利に働くとは限らないであろう。利他心はあくまで個人の感情に報酬を与えるのであって、それによって起こる行動の結果を評価するのは別の機能の関与を必要とする。

 私たちは動機の一つとして利他心を備えている存在である。それは私たちに他の動機との葛藤をもたらす。その葛藤こそが自我なのであろう。

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