井本喬作品集

遺伝子よりも利己的 ――人はなぜ幸福になれないか――

 人生を楽しく過ごす方法は分かっています。過去のことをクヨクヨせず、未来について思い惑わないことです。こぼれた水もミルクも元の容器には戻りません。また、いくら予測の精度をあげてみても一瞬先は闇であって何が起こるか分かりません。だから、そんなことに気を使うより、「いま」という手の届く範囲に集中するべきです。このことは多くの賢人が言ってきたことですから確かでしょう。

 それはその通りなのですが、私たちは過去を悔やむことや未来を気にすることをやめられません。なぜでしょうか。それは、そうせざるを得ないからです。やめようと思ってもやめられないのです。私たちには主導権はありません。後悔や予想をしているのは私たちではないからです。私たちはそうしていることを知らされているだけなのです。では、誰がそれをしているのでしょう。

 そのことを考える前に、まず、私というのは一体何であるのかを検討する必要があります。私であると思っている私は、私自身を代表しうるものでしょうか。そもそも、私であることを私は決定したのでしょうか。

 私たちは所与として存在しています。私というのは私に与えられたものであり、私は私であることをただ受け取っただけなのです。私は私自身によってつくられたものではありません。それゆえ、私について私が知り得るのはわずかな部分でしかありません。確かに知識の集積によって私たち自身について多くのことが知られていますが、いまだに分からないことは多いのです。

 たとえば、自分自身の容貌について、私は私の目の届く範囲でしか分かりません。鏡とか絵とか写真とか映像の助けによって初めて、自分自身の容貌についての詳しい知識を得ることができるのです。自分自身の体内についても同様です。他人の体の解剖とか、放射線による透視とかによって得られる知識がなければ、体内感覚によって自らの身体の機能をうかがうことしかできないでしょう。知識の集積によって私たちは私たち自身を知ることに大きな成果をあげてきました。しかし、私たち自身を知れば知るほど、さらに分からないことがあるのが分かってくるのです。

 では、心についてはどうでしょうか。私の心は私しか知り得ず、それゆえ、私の知っている心以外に私の心などというものはないはずです。私の心は私とまさに一心同体であるはずです。そのような確信のもとに私たちは生きています。体のことはいざ知らず、心は私の知り得る範囲内にある、と。私たちの心に関しても様々な知識が増えてきましたが、私の知り得ない心というのは他人の心でしかありません。

 しかし、「自分で自分の心が分からない」という嘆きは普通に聞かれます。それは、自分の心がどう動くか分からない、あるいは、自分の心の動きを説明しかねる、ということでしょう。

 自分の心を自由に操作できないというのは経験上明らかです。心は感覚刺激によって動かされます。また、思考によっても心は動きます。けれども、感覚刺激と心の動きの関係を知っていれば、心が動かされた理由は分かるはずです。また、思考と心の動きの関係を知っていれば、やはり心が動いた理由は分かるはずです。なぜそのような関係が成立しているかは分からなくても、心の動きは理解できるでしょう。心は、そのメカニズムを知らなくても、その動きに不可解なところはないはずなのです。

 もちろん、心を動かした原因が分からない、あるいはその原因と心の動きを結びつけることができない、ということもあるでしょう。それでも、私は心が動いたことは知っています。それを知っているということが私であることの証なのですから。

 だからこそ、私であることに私は疑問を抱きません。私は自分自身の全てを知ってはいないし、自分自身を自由に操作することも十分にできないのですが、心として自分自身をモニターすることはできていると思っています。それが意識です。心は意識として独自の存在であるために、信頼されているのです。

 しかし、現在では意識のモニター性に対する信頼は失われています。詳しいことは後で述べますが、私たちが心と呼んでいるものには、私たちが自分自身であると意識している部分の他に、私たちが意識し得ない部分があります。そういう諸部分を含んだ心としての私たちは、進化の過程で後悔や予想という機能を獲得してきたのです。そのような機能を持った私たちの祖先が生き延びてきたからこそ、私たちはいまここにあるのです。後悔や予想は私たち人間のいわば基本的構成要素としての機能なのです。意識というのもその機能を担う一部でしかなく、自分自身の機能を越えたことなどできはしないのです。

 ただし、そのことが事実だったとしても、なぜ私たちは後悔することや予想することで苦しまなければならないのでしょうか。過去の反省や将来の予測は感情を伴わなくても可能なはずです。過去の失敗を検討し、未来のあり方を評価することは生きていくことにおいて有効なのは理解できますが、感情を排除した知的な判断としてそれらを機能させればすむことではないでしょうか。

 このような疑問は、感情はなぜあるのかという問いに私たちを導きます。そこから得られる認識は私たちと遺伝子との奇妙な関係です。私たちは遺伝子の産物です。けれども遺伝子の支配は直接的ではありません。いわば委任統治的なものなのです。遺伝子から私たちに与えられている機能はその目標に応じて分化しています。それぞれの機能は個体の全体を考慮しているのではなく、限られた分野でうまく運行されれば全体との調和がとれるようになっているのです。けれども委任統治につきものの横領の問題がここでも生じます。個体の生存と生殖を目標としている遺伝子は、当然のこととして利己的であるとされています。その遺伝子よりも私たちはさらに利己的であるのではないだろうか、そのような認識がここでは主張されることになります。

 ただし、最終的に語られるのは利他性です――表題が「利己的」となっているにもかかわらず。

 私たちが「自分のことを優先する」というのは否定し得ない事実です。しかし、それを人間の本性とみなしてしまえば、利他主義は謎になってしまいます。その本性を利己主義という糾弾の範疇から除外するようにしても、やはり利他主義は謎のままです。進化論や遺伝子に関する本を多くの人が敬遠するのは、それらが人間をこのような利己的な存在とみなして話を進めるからでしょう。それらは言います、「人間は過去の様々な過酷な環境を生き延びてきたのであり、そのためには自分を第一とする他はなかった。逆に言えば、自分を第一としてきたからこそ、人間のいまがある」と。

 もちろん、それらは「人間は自身が利己主義的存在であることを知っている」と言っているのではありません。人間は自分自身を利他主義者と思っているのかもしれませんが、そのことが人間の利己主義的性質を否定することにはならない、と言うのです。逆に言えば、人間は自分が根っからの利己主義者であることを知らない、と言うのです。なぜなら、利己主義者であるのは、私たちではなく、私たちの遺伝子なのですから。つまり「利己的な遺伝子」です。

 私はそのような考え方を受け入れています。しかし、遺伝子の目的と私たちの目的はぴったりとは一致していないと考えています。遺伝子は私たちの行動を操作しているけれども、その過程は直接的ではなく、迂回的であるからです。そこに齟齬が生じてきます。その齟齬が利他性をも説明するのではないか、というのがここでの私の仮説なのです。

 「自分のことを優先する」と言うとき、その「自分」とは誰を指すのでしょう。もしそれが遺伝子であっても、遺伝子が私たちと一体化しているのであれば、「自分とは何か」と問う必要はありません。しかし、私たちが私たちを構成しているものの全てを知っているのではないとしたら、たとえば、遺伝子というものの存在や遺伝子の「意図」についての知識を生まれながらに持っているのではないとすれば、「自分とは何か」と問うことには意義があります。

 私が知っているのは、私という存在のほんの一部の現象にすぎません。別の言い方をすれば、「私」は私の機能の一部でしかありません。しかし、不思議なことですが、そういう「私」が、全体の私から部分的に独立した存在でありうるということが起こるのです。そして、「私」は自分がそれの一部である私の全体を知ろうとします。ここで展開するのはそのような試みの一つです。

 私の見解は多くの文献から影響を受けています。当然のことながらそれらが提供してくれた知識がなければこれを書き上げることはできませんでした。私の興味の偏りや勉強不足により、ここで述べることは専門的にみれば中途半端なものになってしまっているかもしれませんが、自分自身を知るという人間の努力の一環になれば幸いです。

1 私たちと遺伝子

 私たちが自らをかえりみるとき、「私たちはどうしてこのようであるのか」という謎がいくつもあります。その謎は遺伝子を介在させることで説明がつくことが多いのです。例えば、次のようなことです。

(1)人はなぜ過去や未来にこだわるのか

 「過ぎ去ったことを悔やんでみても無駄である。どうなるか分からない先のことを思い惑っても仕方がない」。そのことは私たちも承知しています。できれば私たちもそういう境地に達したいのですが、それができないからこそ、この種の助言が繰り返されるのでしょう。

 なぜ私たちは後悔や惑いというようなものを生ぜしめているのでしょうか。私たちが自分自身を完全にコントロールできるのなら、無駄だと思ったことはやめられるはずです。しかし、そうはいかないことを私たちは経験しています。ということは、私たちがコントロールする範囲は限られているのでしょう。実際、私たち私たち自身の様々な動きに悩まされています。感覚はもちろんのこと、欲求、欲望、衝動、感情、気分などは私たちのあずかり知らぬところで作り出されているようです。たとえて言えば、私たちは暴れ牛の背中に乗っているようなものです。賢人たちは、この暴れ牛を馴致することや、それができそうもなければ縁を切ることを勧めます。

 私たちを悩ませるだけにすぎないのであれば、なぜそのよう暴れ牛を私たちは飼っているのでしょうか。いまあるものは何かの役に立っているからあるのだという考え(機能主義)が進化論には含まれています。だとすれば、そのような暴れ牛にも、私たちには知らされてはいないけれど、何らかの機能があるはずです。後悔や惑いについてはそのことが見やすいでしょう。

 後悔をするのは、予期しなかった悪い結果が起こった場合です。ただし、その結果は私たちの行動によって引き起こされたものでなければなりません。私たちの行動に関わりなく起こる結果については、後悔は起こりようがありません(ただし、原因と結果の関係は恣意的な側面がありますが)。つまり、後悔は失敗した行動の記憶であり、違った行動をしたならば避けられたという反省なのです。そのことは将来の行動の参考になります。後悔をしたならば、次の同じような機会にはもっと適切と思われる行動をとることができるでしょう。

 過ぎ去ったことについては結果が確定しています。結果の評価がまだ定まらず、暫定的であるとみなされることもあるでしょうが、とりえず事実関係は定まっています。その結果に至る経過はほぼ分かっており、その結果を避けるためには何をすればよかったか(あるいは、何をしなければよかったか)もほぼ分かっているでしょう。また、望ましい結果を得るためには(あるいは望ましくない結果を避けるためには)何をすべきであったか(あるいは何をすべきでなかったか)についても、その行動を起こす前に比べれば有益な情報量は増えています。ですから、もし行動する前に戻れたならば、そのときはより賢明な行動ができるであろうと考えるのは当然です。

 私たちが異なった行動をしていれば、結果は違ったものになったでしょう。そのことは当然に思われます。たとえば、ある結果が起こらなかったということが期待される原因は、いくらでも見つけられます。しかし、そのときに異なった行動をとったとしても、その結果については、今の時点からでもはっきりしません。私たちが把握している以外の多くの要因が関与していているかもしれないからです。確定した過去であっても、それとは違う経過を想定するのは、そんなに簡単なことではありません。

 ですから、反省には限界があります。たとえ過去の出来事に明確な因果関係が想定できたとしても、それとは違った因果関係があり得たのかについては、未来と同じように、予想するしかありません。予想を繰り返せば精度が上がる可能性はあります。そのためには何度も過去を検討してみる必要があります。後悔というのは私たちをそのような検討に追い込むための仕掛けなのかもしれません。そういう意味では、後悔は役に立っていると言えます。

 では、未来についてはどうでしょうか。未来への不安としての惑いは、私たちに選択の機会があることの証に他なりません。行動が「本能」的であるとか習慣的であるなら、やることは決まっていて、迷うことはありません。環境が安定的で予測がほぼ可能であるならば、行動も定型的でかまわないのです。しかし、環境が多様であるとか変化がある場合、選択の問題が生じます。諸行動の結果を予想して適切な行動を選ばねばなりません。私たちが未来を気に病むのは、どのような行動をとるべきかの選択を迫られるからです。

 選択のメカニズム自体は簡単です。自分のある行動がもたらす結果と、その行動にかかるコストを比較し、その行動の価値を見積もります。それとは違う行動が可能ならば、その行動についても同じように見積もります。予想というのは様々な条件における未来をシミュレーションすることです。そして、可能な行動のうち、最も高い価値が見込めるものを選べばいいわけです。私たちは日常的にそうしています。

 しかし、不確定な要素が多いと、ことはそう簡単ではありません。期待される結果をもたらすには様々な条件が必要ですし、その条件を見極めることも難しいのです。結果が不確実である場合や、行動の差がどのように結果の差に反映するのかが不明瞭である場合には、私たちは惑うのです。そして、何度も検討して最適な行動を探るのです。惑いは、私たちが柔軟な行動をとるためには必要なことであり、その意味で役立っていると言えます。

 だとすれば、私たちは後悔や惑いを適切なレベルで採用すればいいことになります。反省や選択は知的な作業であると思われ、私たちの自由になるはずです。その使い方を誤らなければ、それらに悩まされることはないはずです。私たちは知的な作業の限界や危険性を承知しています。知り得ることは限られていますので、あるところからは堂々巡りになってしまいがちです。また、考えることは行動を遅らせ、あるいは妨げてしまう可能性が大きいのです。「案ずるより産むが易し」と言われるゆえんです。ですから、考えを適切な段階で終わらせることは適切な対処法でもあるのです。

 ところがそれが難しいのです。私たちは考えるのをやめようとしてもできないのです。どうしても考えてしまうのです。後悔(反省)や惑い(予想)を私たちに備わった機能とみなせば、私たちは機能の過度な遂行に悩まされているのです。まさに「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのです。

 このことは、後悔や惑いが「自動的」に起こることを示しています。私たちには関わりなしに、いわば勝手に起こる反応なのです。私たち自身が私たちの知りえない私たち自身のメカニズムに支配されているのです。しかも、そのメカニズムは、ある視点からは合理的と判断されるものなのです(なぜそんなことになっているのかは後で検討しましょう)。

 さて、私たちが心の平安を得るためにそれほど苦労せねばならないということは、私たちに真に求められているのがそういった幸福な状態ではないということを現しているのではないでしょうか。言い換えれば、上述のメカニズムが存在するのは、私たちの幸福な状態を保つためではないということになります。

 たとえ話をしてみましょう。ある神がいたとします。この神は人間の心の平安については無関心で、神の目的のためなら人間が苦しもうが悩もうが放っておきます。神の目的は人間の幸せではなく、人間が神を信仰することです。信仰に必要なら、人間が苦しみ悩むことは彼にとって好ましいことなのです。

 一方、人間にとってはたまりません。人間は神の放置した苦しみや悩みから逃れようとします。そのとき、人間は神に頼ろうとはしないでしょう。なぜなら、神が信仰のために人間の苦しみや悩みを必要としているのなら、人間が神にすがろうとする限り、神はその苦しみや悩みを残しておこうとするからです。神が目的を果たすために人間の苦しみや悩みを手放せないとすれば、人間は神を見限ろうとするでしょう。

 このたとえ話で言いたかったのは、私たちが幸福であるということは、私たちを作った者によっては予定も保証もされていないかもしれないということです。

 もうお分かりでしょうが、この神とは遺伝子のことです(遺伝子を擬人化するのは、あくまで説明と理解のための簡便法として有効であるからですが)。遺伝子の目的は自分自身をコピーすることです。ですから、私たちが、幸福であろうとするゆえに生存や生殖をうまくやっていけそうにないならば、私たちが不幸であっても生存や生殖をうまくやっていける方を遺伝子は望むでしょう。その方がコピーを残す確率が高いのであるならば。

(2)遺伝子との齟齬

 しかし、遺伝子は上述の冷酷で不器用な神と同じなのではありません。遺伝子の目的が私たちを幸福にすることではないとしても、私たちが幸福(あるいはそれに似たもの)を獲得することが遺伝子の目的の実現に寄与するのであれば、遺伝子の目的と私たちの幸福が一致してもおかしくはありません。本来はそうあるべきでしょうし、遺伝子の目的もそこにあるはずです。しかし、遺伝子の目的と私たちの望みは乖離しがちです。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。二つの理由が考えられます。

 一つは、遺伝子が私たちをコントロールする手段として報酬を使っていることです。報酬については後で検討しますが、私たちがある行動をするのはその行動が報酬づけられているからとみなすことができます。誤解のある言い方ですが、よく使われている「快」という言葉だと分かりやすいでしょう。極端な言い方をすれば、私たちがある行動をするのは、その行動のもたらす結果を期待しているのではなく、行動そのものが報酬となっているからです。

 私たちが行動するのは、その行動が報酬づけられているからだ、という言い方は同義反復的であるかもしれませんが、脳研究が実質的な内容を与えてくれるでしょう。

 つまり、遺伝子は私たちを支配していますが、その指示ははるか遠くから届くので、間接的にならざるを得ません。ちょうど、遠く離れた海外支社の従業員たちと本社の幹部との関係のように。支店の従業員たちを意のままに動かす手段として、現地の銀行に給与などの資金が振り込まれます。本社の指令に従って働けば支社の従業員は報酬が得られので、本社と支社の利害は一致するはずです。従業員たちは本社の意を呈して働くことになるのですが、しかし、ときには怠けたり、横領したりすることもあります。本社のコントロールは完全には及ばないのです。

 遺伝子が私たちに報酬を与えて何かをさせようとするとき、私たちが求めるのは報酬の方です。報酬が与えられる行動はおおむね遺伝子の目的に沿っています。ただし、私たちが報酬を過度に求めて、目的達成には不必要までに行動を追及するとき、遺伝子と私たちの利益は相反します。そのずれがあることが、私たちが独自の幸福を求めることの根拠となります。

 もう一つの理由は、私たちを構成するシステムが複雑であることです。進化の過程において、私たちには様々な機能がつけ加わりました。しかし、新たな機能の獲得は、それ以前の機能を解消ないし再編して統合していくというやり方ではありませんでした。それまでの機能に重なるようにして新たな機能が追加されるのです。部分的・追加的な改良の積み重ねが進化の過程なのです。極端な言い方をすれば、ツギハギなのです。それぞれの機能が適切に連携しあうのを保証するのは、その連携がまあまあうまくいってきたという実績によるものです。うまくいかなかった個体は子孫を残せなかったのですから。

 分権的な主体ともいえる各機能はそれぞれの役割を追及します。各機能の調整のための機能というものも考えられますが、それも機能の一つとして追加的に獲得されることになるので、絶対的権限をもつのではなさそうです。ある分野、ある状況によって機能は住み分けているという形でゆるい統合がなされていると考えられます。

 私たちのシステムのこの複雑さが様々な可能性をもたらしてしまい、プログラムの実行において結果に幅ができてしまうのでしょう。もちろん、進化はミスをゆるしてくれませんから極端な変異は事後的に排除されるでしょうが、変異の発生は事前的には防げません。生存と生殖さえ何とかできるのであれば、許容される変異が残るでしょう。

 私たちの機能にはいわば地層のように時系列的な関係があります。その発生の順序をたどっていくことが私たち自身を理解する手がかりとなります。

2 遺伝子と報酬

(1)遺伝子の支配

  私たちは遺伝子によって作りだされ、そして支配されている。体ばかりではなく心も――そういう見解が当たり前になっています。そうだとするなら、私たちが自分は自由であると思っているのは幻想なのでしょうか。

 遺伝子と私たちの行動を結びつける過程については、私たちの知識はまだまだ不十分です。それを承知のうえで、遺伝子と私たちの関係を推察してみるならば、次のようになるでしょう。

 遺伝子と私たちは一体ではありません。遺伝子は私たちを道具として支配しようとしていますが、私たちの方は遺伝子の思惑通りには従っていないのです。両者の利害は異なっています――少なくともずれています。遺伝子が私たちを操作する方法はクレーンゲームのように不器用なのです。遺伝子はいわば遠い過去から腕を延ばしているので、私たちをつかみ損ねることがあるのです。

 理解しやすいように、さらにたとえによる説明をしてみましょう。遺伝子を玉突きのプレイヤーとしてみましょう。遺伝子は私たちという球を突いてポケットに入れようとします。しかし、球はプレイヤーの意図や予想に忠実には動きません。もっと適切には、私たちはいくつかの球によって構成されると考えるべきでしょう。いくつかの球が動きを伝達しあって目的のポケットを目指しますが、微妙なずれによって方向が狂ってしまいます。ただし、全然それてしまうのではありません。遺伝子の意図と全く異なる動きをする個体は子孫を残せないでしょう。私たちは遺伝子にとってまあまあの動きをしますが、遺伝子はその動きを直接的にコントロールしてはいないということです。あらかじめプログラミングはしますが、具体的な動きは私たちに任せざるを得ないのです。

 典型的な例をあげてみましょう。私たちが性行動に執着するのは、自らのコピーを継承するという遺伝子の目的にかなっています。私たちをそのようにしたのは遺伝子です。その点では、私たちは遺伝子の道具であり、両者の利害は一致し、両者は一体化しているといえます。しかし、私たちは避妊という手段を使うことで性交を単に楽しむものにすることができます。また、マスタベーションという単純な方法さえ見つけています。そのような場合には、私たちが性的に満足することが生殖には結びつかず、遺伝子の意図は達成されません。遺伝子は私たちを生殖に駆り立てるために性交の快楽を与えたのですが、性交の快楽が必ず生殖に結びつくようにはできませんでした。性交の快楽を与えられた私たちは純粋に自らの満足のみを追求することもできるのです。

 遺伝子はそんなことを予測できませんでした。性交は有性生殖の過程として必然的に発生しました。性交と生殖を切り離しえないようにすることなど、進化的には必要なかったのです。性交さえなされれば、あとは自動的な過程として生殖に至るのですから。それゆえ、性交に強い誘因をあたえておけば済むことだったのです。むしろ、そうでなければならなかったでしょう。もし、生殖の重要さを知性によって理解し実行するように遺伝子が私たちを作っていたならば(そして性交に何の満足もないならば)、数世代も経ぬうちに私たちは滅びていたでしょう。

 むろん、遺伝子が私たちを作り、支配しているというのはたとえ話です。もう少し適切に言い換えるなら、後の世代を作ることに成功するような形態を持ち、行動ができる個体が選択によって選ばれるのです。遺伝子の変異による個体の形態と行動の変化が選択にさらされた結果、私たちはいまのようになったのです(形態についてはここでは取り上げませんが)。

 ただし、性行動は、摂食行動とともに特殊な例です。それらは生存と生殖に直接結びつているので強い感覚刺激が伴っています。すべての行動に同様な刺激があったとしたら、私たちは何をすべきか迷ってしまい、性行動や摂食行動をおろそかにしてしまうでしょう。依存症というのがそのことを例示しています。遺伝子が私たちに行動を促すために与えたのは多様で段階的な動因なのです。

 私たちがある行動をするのは、その行動が好ましいからです。好ましいという言い方は正確ではなく、定義の仕方はいろいろあるでしょうが、とにかく、そういう行動が「したいこと」として備わった個体が生きのび、そのような個体を形成する遺伝子が継承されてきたのです。遺伝子はこのようにして私たちの行動をプログラミングしているのです。ですから、遺伝子と私たちの行動をつなげているのは「したいこと」という緩い結びつきなのでする。

 私たちの行動は遺伝子の目的に適するように形成されてきたのですが、遺伝子の目的そのものは私たちの直接の目的ではないのです。私たちは遺伝子とは異なった目的によって行動し、その結果が遺伝子の目的とほぼ合致するのです。いわば、遺伝子のつりさげた人参を欲して私たちは動くのですが、私たちに人参を得させることそのものが遺伝子の目的ではありません。遺伝子と私たちの一体性は間接的なのです。

 この「人参」を「報酬」と呼ぶことにしたいと思います。似たような概念として「快」がよく使われますが、快として感じられるものに限定せずに、より広い意味での誘因として報酬という言葉を使うことにします。

(2)行動と報酬

 遺伝子と私たちの行動の関係をより詳しく分析することを試みてみましょう。ここでは遺伝子に意図や意志があるように取り扱いますが、これは進化における選択によってそのようになったということの簡略話法です。

 遺伝子はそれを担う個体に対して、少なくとも生殖の可能な時期までの自己保存と、生殖による遺伝子の継承を望みます。しかし、遺伝子は直接的に個体をコントロールできません。なぜなら、遺伝子のコントロールは事後的な選択によってしかなしえないからです。つまり、遺伝子の継承にとって有利な行動をする個体が選択されるということが、遺伝子のコントロールなのです。遺伝子は行動のメカニズムを私たちに組み込むことで、このコントロールを成し遂げています。

 個体、すなわち私たちは行動の好ましさ(したいこと)に反応します。「好む」というのはあいまいな定義ですが、楽しく、快であり、また、そうせざるを得ないもの、衝動、欲望、欲求、動因、誘因、動機といった広範な心理的作用を含めています。

 好ましい行動とは、個体には何らかの報酬をもたらし、遺伝子には有利になる行動です。個体が行動するときには、遺伝子のためということを認識してはいません。個体が目指すのは行動の好ましさのゆえであり、その結果が自己の遺伝子にどのように影響を及ぼすかについては無知です。このことが事態を複雑にしています。個体は遺伝子の「意志」とは関係なく、個体自身の利益を求めようとします(そういう行動を遺伝子がプログラミングしているということです)。

 したがって、その結果が遺伝子にとってどのような意味を持つのかを私たちが認識できないということは、私たちの行動には関係ありません。ただし、遺伝子の意図を知ることができれば、そのことは行動に影響を与えるでしょうが、それは必ずしも遺伝子の意図に沿うような行動に導くわけではないでしょう。

 以上のことは既に述べたことの再確認です。しかし、ここには問題が潜んでいます。行動によって報酬が得られるのであれば、行動がなされる前にはまだ報酬は得られていないわけです。報酬が得られるであろうという期待には何らかの根拠はあるでしょうが、それが報酬を保証するわけではありません。それなのになぜ行動は可能なのでしょうか。

 まず、行動とはどのようなプロセスなのかを検討してみましょう。行動は三つの部分に分けて考えることができるでしょう。まず、特定の行動を好ましいと判断する「期待」の段階です。ここから次の段階に進むかどうかの判断が介入することにより、この段階でプロセスが終わってしまうことがあります。次に、行動が「実行」されます。行動の結果を得るための段階です。結果の獲得に成功することも失敗することもあります。失敗すればこの段階でプロセスは終了します。最後に「結果の享受」があります。享受に満足することもあり、不満や失望を感じることもあります。この三つのプロセスについてそれぞれ考えてみます。

 まず、行動がなされるには、その行動が適切であるという状況の認識が必要です。あるいは、個体のある種の状態がある行動を促しているということも考えられます。それらがトリガーとなり、報酬への期待が生じるのが始まりでしょう。この期待というのがどう解釈されるべきでしょうか。

 期待という日本語には望むという意味が含まれるので、望ましくない結果を「期待」するという使い方はしません。より中立的な言葉として予測とか予期があります。もし望ましくない結果が予期されるなら、私たちはそれを忌避するでしょう。その場合、怖れや不安や警戒などの状態が起こります。そのことについては後で検討しましょう。

 期待のうちで原初的で強力なものとして衝動、欲望、欲求があげられます。これらはある特定の行動の結果を享受することが報酬であるということを示しているようです。しかも、単に認知するというのではなく、先取り的な疑似経験のような状態と言えます。つまり、結果の享受という報酬が反映されています。この辺りも後で検討しましょう。

 ところで、衝動、欲望、欲求と並べてみると、これは自動性の程度の違いが反映されていることに気づきます。欲求よりも欲望が、欲望よりも衝動が即時的であるようです。これは言葉の使い方でしかないかもしれませんが、なぜこのような序列があるのでしょうか。即時性が薄れるというのは時間的な余裕が生じているからでしょう。もし、するべきことが決まっているのなら早くするのが一番です。目の前にあるものに反応するだけなら迷うことはありません。間が空くというのはためらいがあるからで、ためらいがあるということは選択に迷うからです。つまり、選択肢の増加が私たちの期待のあり方を変化させていったと考えられます。

 行動の能力が限られていれば、切迫度の高い行動に専念する必要があります。しかし、能力が向上すれば、いろいろな行動が可能になるでしょう。切迫度の高い行動はありますが、すべての行動がそうではありません。だとすれば、実行の前に隙間を与えて検討のための時間を作ることができます。衝動、欲望、欲求というのは、私たちが行動能力を向上させ、予測の視野を拡大していった段階を示しているものと考えられます。

 この段階は、期待における結果の報酬の先取り(予告)という要素が薄まっていくものでもあります。私たちは次第に期待に距離が置けるようになるのです。そうすることで、特定の期待に縛られることなく、選択の可能性を拡大することができます。つまり、複数の期待を比較して最適な行動を選べるようになります。もちろん、実行自体をやめることも選択の対象となります。

 期待がすでに前払いとしての報酬を含むのであれば、期待という報酬だけですませ、実行にまで進まないということがあり得るでしょう。後述しますが、実行にはコストがかかります。そして実行は必ずしもよい結果をもたらすわけではありません。実行はリスクを引き受けることなのです。リスクを嫌う傾向のある個体は実行に踏み切れないことがあります。事実、私たちは実行から切り離した期待をもてあそぶことがあります。しかし、そのようなことに捕らわれてしまえば、私たちの生存と生殖のために必要な結果の享受ができなくなり、私たちは生きていけなくなるか、子孫を残せなくなります。期待にのみ淫する個体の遺伝子は滅びるのです。

 さて、ある期待が採用されれば、実行が開始されます。実行には苦労(コスト)が伴います。そして、結果の享受という報酬は実行より後に得られます。つまり、実行自体は損失を伴うものです。実行が必ずよい結果をもたらすのであれば、その損失は償われます。しかし、期待されたような結果にならないこともあります。実行がよい結果と結びつかなかったとすれば、次の機会には期待だけでは行動が起こらないかもしれません。実行が報酬をもたらさないことが学習されてしまうからです。

 このことを補強する証拠として、いくつかの実行が組み合わさって初めて結果が得られるということがあることがあげられます。

 摂食行動や性行動は実行が結果の享受(感覚刺激という報酬)と結びついているので特殊な例なのですが、それでも飲食や性交にいたるまでの過程が必要です。摂食行動では食べ物を探し、捕まえ、ときには競合者と争わねばならないでしょう。また、性行動には、相手を探す、競争者を排除する、相手を誘い相手の同意を得る、時には強引にせまるといった段階があります。そのような各種の実行がすべて成功するとは限りません。最終的に結果を得るには、無駄に終わるかもしれない実行を繰り返さなければなりません。よい結果が伴わない実行が繰り返されるためには、それらの実行そのものが好ましいものである必要があるでしょう。

 性行動について付け加えるなら、それが成功するだけでは繁殖は保証されません。性交が快楽を与えてくれるなら、子孫をたくさん残すことになるでしょう。しかし、単に多くの子孫を作ることだけでは遺伝子の目的を達したことにはなりません。繁殖に優秀な子孫を残さねばならないのです。子孫が繁殖にうまく成功しなければ、コピーは途絶えてしまうからです。優秀な子孫を残すには苦労がかかります。求愛行動や育児行動もその一つです。それらの苦労を超えるような何かがなければ、私たちはそれを引き受けようとはしないでしょう。

 それらの行動を私たちが自由な選択で引き受けているならば、そこに何らかの価値を見出しているからでしょう。それは愛することの喜びであるかもしれませんし、義務を果たすことの満足感かもしれません。しかし、私たちの意思決定というあやふやなものに遺伝子は頼ろうとするでしょうか。

 もちろん、子どもが無事に成長するという結果が報酬になっているとも考えられます。しかし、その場合には、望ましい結果が期待できないことが分れば育児は放棄されてしまうことでしょう。そのようなことは現実に起こり得ますが、大部分の親はただ子供を愛するがゆえに育児を引き受けるのです。親は子供を愛せざるを得ないのです。子どもへの愛は無償の愛とされますが、それは一方的であるからでもあり、結果を求めないからでもあります。ただし、子どもを愛すること自体が報酬になっているとしたら、その無償性を疑うことになるのですが。

 そこで、以下のように考えることができます。実行はその結果がどうであれ実行そのものが報酬でなければならない、ということです。実行の結果がもたらす報酬は別ものなのです。結果の報酬を伴わなかったとしても、実行それ自体に報酬が与えられるのです。そうでなければ、実行というやってみなければ成否が分からないことがなされることはないでしょう。

 実行はそれ自体が報酬でありうるのであって、そこで完結しえるのです。だからこそ実行が求められるのです。ある程度の見込みさえあれば実行はなされねばならないのです。私たちが期待に反応して行動するとき、実行そのものが報酬を保証してくれているのであれば、結果の報酬の確からしさなど気にせずに行動にとりかかることができます。実行そのものに報酬があるのならただ実行すればいいのです。ですから、期待さえ選ばれれば、行動は自動的に起こるでしょう。

 探したり、誘ったり、追いかけたり、争ったりすること自体に報酬があるのなら、行動の本来の目的と切り離してその実行自体を求めるということもあり得るでしょう。遊びやスポーツの起源がそこにあるのかもしれません。

 最後に、結果の享受です。結果の享受には飲食や性交のような感覚刺激を伴うものは少ないでしょう。むしろあることをやり遂げたという達成感のようなものがほとんどです。期待という面から結果の享受の内容をあげてみれば、食欲、性欲(肉欲、愛欲)、所有欲(物欲)、権力欲(支配欲)、知識欲などとなります。なぜある結果が私たちにとって好ましいのかは、私たちにとってはどうでもいいことで、ただ好ましいというだけです。感覚刺激は強い誘因となっていますが、それがなさそうな結果の好ましさについては私たちは無知と言えるでしょう。しかし、遺伝子の観点からは、以下のような理由が考えられます。

 私たちは自然からなにがしかの資源を得て、感覚的な快さを得ます。直接的な消費だけでなく、道具とすることで、寒さや暑さから身を守り、安心して眠り、敵を撃退し、清潔にして病気を防ぎます。そのような効果をもたらす道具を持つことは生存を確かにし、繁殖を助けます。所有欲というのはそこから生じてきたと思われます。人間以外の生物では縄張りというのが所有の対象になっているケースが見られます。

 人間の特性として集団をなすことがあげられます(人間だけではありませんが)。集団生活に必要なのは社交です。他の人間たちが環境となるのでそれに対処する必要があるのです。場合によっては他人を利用します。この利用は相互的であるのですが、その能力には差があります。他人の利用を積極的にするための期待として、権力欲(支配欲)が生じてきたのでしょう。人間以外の集団をなす生物にも権力や支配が見られます。

 多くの情報を得てそれを記憶しておくことは、行動の選択において有効でしょう。私たちが知識を得ようとするのは遺伝子とっても役立つのです。そのため、知識欲は必然的に生じてきたのです。面白いのは、ここでも私たちは遺伝子の期待を裏切ります。遺伝子にとっては何の役にも立たないような知識も私たちは求めます。知ることは楽しいからです。

 日常行動については、事務的、習慣的、義務的なものが多く、欲といったようなはっきりした期待とは直接結びつかず、手段的な性格が強くなります。たとえば移動です。移動には心地よい環境を求めるという感覚刺激が期待となることもありますが、日常的な移動は何かをなすための前段階として淡々と行われます。日常行動にいちいち感動はしないのです。このことのメカニズムは意識を取り扱う際に検討しましょう。

 以上のように、期待、実行、結果の享受はいずれも報酬づけられているのです。それゆえ、ときに結果の享受にいたらなくても、あるいは結果が享受するに値いしないものになってしまっても期待と実行は繰り返され、実行がなされないことがあっても期待は生じるのです。

(3)知性の機能

 ところで、行動の各段階において私たちが報酬を得ていると主張するならば、ある疑問が生じます。私たちは衝動、欲望、欲求などの期待の段階で実行を断念することができます。そのような場合に私たちを動かしているのは何なのでしょうか。

 行動の発達を考えるとき、発生の順序という考え方をする必要があります。状況が定型的で安定的であり、ある状況にはある行動が必ず結びつくのであれば、状況の認知が即行動のトリガーとなるでしょう。そして、期待と実行の乖離などは起こらないでしょう。

 しかし、状況が複雑になり、また変化しやすくなれば、定型的な行動では対処できなくなってきます。行動が期待外れな結果ばかりをもたらすならば、結果による進化的選抜が行動を適応的なものに変えることになります。期待される結果を実現するためには、行動の仕方が検討されねばなりません。複雑な状況では行動の結果を事前に見極めることは簡単ではありません。また、行動の結果が明らかになるまでに時間的経過が必要な場合もあります。それらを判断する機能が求められるでしょう。

 行動のよしあしは結果によって判断されます。結局やってみなければ分からないのです。初めから行動の結果がはっきり分かっているのであれば、複数の行動を選択するということは起こりません。どちらが有利かあいまいであるからこそ行動の選択の余地があるのです。このとき、選択をランダムに行うよりも、どちらが好ましい結果を得られるのかを検討してから選択する方が、有利な結果を得る確率はわずかなりとも高いでしょう。そのわずかの差が、それをもたらす機能を進化させたのだと言えましょう。

 いくつかの行動が選択肢としてあるとき、一度に取れる行動は限られている(ほとんどの場合一つしかない)ので、やってみてからその価値を評価するわけにはいきません。無作為の試行錯誤を毎回行うというぜいたくは個体としての私たちにはほとんどゆるされないのです。それゆえ、事前に行動の評価をするということが必要になります。評価の視野が空間的にも時間的にも拡大すれば、検討すべき要素が多くなり、行動のあり方も広がっていくでしょう。

 いくつかの行動のうちどの行動を取るべきかという選択の問題を解決する機能として、後悔と惑いが発生したのだと考えられます。なすべきことの検討には、過去の教訓と未来の予測が必要です。それを自動的にするのが後悔と惑いなのです。これらの機能によって選択の適切性が改善されたでしょう。しかし、後悔と惑いは特定の状況に強く結びついているので、柔軟性に欠けます。より客観的な立場をとることができる機能が新たに発生する必要があったのです。ただし、後悔と惑いは再編されて新たな機能に組み込まれることはありませんでした。私たちの進化というのは、従来の機能を新たな機能に組み込んで再編するというのではなく、従来の機能の上に新たな機能を付け加えるという形で起こります。後悔と惑いは、衝動、欲望、欲求と同様に、機能し続けています。そして、その自動性の強さが私たちには強制的に思われるのです。

 では、どのような基準に従って行動は選択されるのでしょうか。行動の選択は、期待という報酬、行動の報酬、行動の結果としてもたらされる報酬、他の選択肢である行動がもたらす報酬、行動のコスト、行動の成否の可能性などの要素を勘案しなければなりません。この選択の機能を知性とみなすことにしましょう。知性はシミュレーションによる検討によって、それらの報酬やコストや可能性の見込みを適切に設定しようとしているのだと思われます。知性は行動を起動させることはできませんが、起動するべき行動を提示するのです。

 ところで、遺伝子が私たちを機能させるのに報酬を使うのだとすれば、知的な機能にも報酬があるはずです。知的な介入による行動およびその結果が報酬となるだけではなく、知的な機能そのものが報酬となっているはずです。選択という課題があることがこの報酬を引き起こし、知的な機能(考えること)を機能させるようになったのです。ですから、ある行動を抑制しようとするとき、その行動と結果がもたらす報酬を断念させるような他の選択肢の報酬を想定するだけでは不十分です。そのような判断を下す機能そのものもまた報酬によって動かされているのです。そしてそのような報酬は他の報酬と重複してもかまわないわけです。知的活動はそれ自身に報酬があります。考えることは楽しいのです。考えた結果が具体的に何かとして実現する必要はないのです。知識欲と同じように、思考欲というものを想定してもいいでしょう。思考欲も空回りすることがあるのです。

(4)報酬の多重性

 選択は諸行動間で行われるだけでなく、その行動をするかしないかということも選択の対象となります。行動を避けねばならないとしたら、それは好ましくないもの(報酬としては負)として把握されねばならないでしょう。ところで、避けねばならない行動に負の報酬が伴う場合、行動に先行して負の報酬の先駆のようなものが生じれば効率的でしょう。ちょうど、正の報酬に衝動、欲望、欲求などが先行するように。そのようなメカニズムは、好ましくなさという負の報酬を生じることが正の報酬となるようなものになります。では、負の報酬と正の報酬を同時に受けるということをどう考えるべきでしょうか。

 いままで正の報酬を予告するものとして「期待」という言葉を使ってきましたが、それ以外のいろいろな予告を含めるために、「予期」という言葉を使うことにします。

 私たちの行動は、一つの主体が情報を統括し、指揮命令を出すというメカニズムになっているのはないようです。生理的な過程は明らかに分権的ですが、ネットワークとして全体と連携しています。つまり、与えられた権限内で定型的な作業をしていて、他の分権的な主体(複数)と定められたルートでつながっているというイメージでしょう。機能分化したネットワークにおいては、全体をシステムとみなせることはできても、どこか特定の部分を中枢とみなせるとは限りません。行動のメカニズムもそのようなものではないでしょうか。

 ある行動をしようとするとき、その行動がどのような結果をもたらすかを予期する分権的主体があるとしましょう。その予期においては、現状の分析、過去の記憶の想起、それらの組み合わせによる想像(シミュレーション)によって予測を立てることになるでしょう。そして、そのような下位のプロセスそれぞれにおいてやはり分権的主体があることになるでしょう。また、立てられた予測を評価することによって、その行動をするか否かを決定するとしたら、評価をする分権主体、決定をする分権主体が必要となります。

 それぞれの分権主体が機能のために報酬づけられていると考えるべきでしょうか。機能分化の単位として適当に範囲づけられた部分がネットワークとして報酬づけられたと解釈してもいいでしょうし、ネットワークの中の活性化する部分が報酬づけられたと考えてもいいのでしょう。

 しかし、過去の記憶を呼び出す主体が報酬づけられ、記憶の好ましくなさを表す主体がそれを負の報酬として把握するという形で機能分化しているとしても、それぞれの主体がその機能を発揮するために報酬づけられているとすれば、好ましくない記憶の想起についてはやはり正と負の報酬が並存するという事態は解消されないことになります。正と負の報酬が打ち消しあって機能障害を起こすのではないでしょうか。

 実際、私たちは失敗したことや都合の悪いことを無視しようとします。悲しいことや嫌なことは思い出すのに抵抗があります。しかし、そうなると、予測の機能がデータの不十分さによって阻害されてしまうことになります。

 それを防ぐ方法として何が考えられるでしょうか。たとえば、負の報酬であるデータを扱うときは、予測の機能に伴う報酬を増加させればいいのかもしれません(正の報酬であるデータのときはそれを減らしてもいいのかもしれません)。つまり、悲しいことや嫌なことを思い出すことは強く報酬づけられているのかもしれません。

 この辺りは複雑微妙でありすぎるかもしれませんが、行動のメカニズムが単純であるとは決めつけられません。負の報酬がからんでくると行動の解釈はややこしくなります。

 たとえば、私たちは実行の前に好ましさという誘因を受ける一方、コストの大きさなどの好ましくないマイナスの誘因(忌避)も受けることによって、実行するのにためらってしまうことがあります。しかし、なおかつ実行することが適切であるという判断を下すときには、好ましさと好ましくなさのそれぞれの量を測り、好ましさの方が優っていると認知するのでしょうか。

 別の例として利他行動が上げられます。利他行動自身が報酬づけられていることは後述しますが、それへ導く誘因の一つが同情と考えられます。同情というのは他人の悲惨さをわがことのように見ること(共感)を含みますが、悲惨への共感は負の報酬となります。しかし、共感を起こすにはそれが報酬づけられているはずです。つまり、悲惨さを単なる現象としてではなく悲惨であると受け止めることは、悲惨を感じる負の報酬を上回る正の報酬が伴っていることになるのでしょうか。

 これは他人の不幸を喜ぶということを意味するのではなく、悲惨に共感するためには私たちが共感を望まなければならないということなのです。ただし、同情というのは単なる共感ではなく、同時にそのような他人を支援しようとする気持でもありますが。

 正と負の報酬が加算されたり減算されたりして精算された額が私たちを行動に導くというメカニズムは、報酬をある一つの単位に還元できることを想定することになります。それでもいいのかもしれませんが、あまりに単純すぎるようです。そこで、正と負の報酬が共存しながらお互いを打ち消しあわないようにするために、その担い手を分けるということが考えられます。負の報酬を受ける主体と、そのような主体を機能させることが正の報酬になっている主体です。

 以上は仮説というより憶測にすぎないものですが、このような見通しのもとに論を進めてみましょう。

3 二層性の仮説

(1) 自我と無意識

 不快なことに執着するということの矛盾を理解するためには、何らかの二重性を想定することが考えられます。この二重性が二つのレベル(ないし部門)によって構成されていると仮定してみましょう。あるレベルでは不快は負の報酬であるが、そのレベルで負の報酬を得ることが別のレベルでは正の報酬になると考えるのです。この二つのレベルに同等の力があるのならジレンマの状況になってしまいますから、レベル間には上下(基礎と派生)の関係がなければならないでしょう。部門で考えるなら、一方が他方を含み込んでいる(それを一部としている)ことになります。

 この二つのレベルを自我と自己としてみましょう。自己とは個体としての機能的統一体のようなものです。自我は自己の機能の一つなのですが、自我はそのことに気づいておらず、自分が独立しているものだと信じています。ある状況において自我が負の報酬を受け取ることが、自己にとっての正の報酬となるのです。言い換えれば、特定の状況に対する自己の反応として、自我が負の報酬を受けるのです。

 では、自我と自己が機能するレベルが違うというのは実際にはどういうことでしょうか。自我の特徴的な機能として「意識」があります。自我は自分に与えられた負の報酬を意識しますが、(自らを機能させている)自己に対する報酬については意識しません。自我が気づいていないという意味で、自己が報酬を受けるのは無意識の過程です。

 ここで無意識を持ち出すことは誤解を生みかねないのですが、意識の関与しない行動があることはもはや自明のことになっています。この二重性の一方を無意識と呼ぶことは、フロイトを連想させることから抵抗もあるでしょうが、フロイト理論の具体的内容とは切り離して、無意識という概念を使用することにします。もちろん、フロイトがこの現象に気づいていたことは間違いなく、評価されるのは当然です。

 ただし、二重性というよりも、三つの層(ないし次元)として把握する方が理解しやすいようにも思われます。下層は遺伝子(進化的理由)、中層は自己(無意識)、上層は自我(意識)とみなすのです。遺伝子はシステムを構築し、システムの進化によって無意識から意識(自我)が派生した、というのがこれからの論理展開の見通しです。

 ところで、意識とは何なのかという議論があります。その問いには統一された答えがありません。意識がなくても個体は機能するのではないかという主張もされています。そのような無意識の行動の主体はゾンビ・システムと呼ばれることもあります。どういうことなのでしょうか。

 私たちは行動の発端として動因・動機というものがあると思っています。動因・動機というものが意識されて初めて行動がなされるはずです。さらに、行動がどのようになされなければならないか、行動の結果として何が達成されねばならないかなどということについても、意識される必要があるでしょう。たとえそのような思考が意識とは別のところで形成されるとしても、意識がアクセスできなければ行動に結びつかないのではないでしょうか。

 ここにはいくつかの解くべき問題があります。個体の機能の情報に関して意識がどの程度アクセスしているのか、そのような機能に意識がどの程度介入(参加)しているのか、もし行動に何ら関与していないのなら意識は何のためにあるのか、ということなどは研究が続けられています。一つの考えとして、意識は単なる随伴現象であり、行動も含めた個体の物理的現象には何ら関与しないというものがあります。そのような考えから意識の欠如している存在としてのゾンビ・システムというものが想定されたのです。

 ゾンビ・システムは、外から見る限り私たちと区別はつきません。ちゃんと受け答えもしますし、感情も表現します。ただ意識というものがないだけなのですが、ゾンビ・システムを前にした私たちにはそれがゾンビ・システムかどうか分からないのです。もしゾンビ・システムに意識がないのなら、意識の場である自我もないのでしょうか。自我がなければ個体との二重性もなくなるのでしょうか。それとも、ゾンビ・システムには意識はないが自我は必要であるのでしょうか。

 ここでは厳密な議論は避けて、以下のように考えてみます。自我とは意識であり、意識とは短期記憶(ワーキングメモリ)である。短期記憶のなかで認知や中・長期記憶が取り扱われます。認知や中・長期記憶は自己の機能であって、意識も自己の機能の一つとして、それらに関わるのです。意識は認知や中・長期記憶の全てにアクセス可能なわけではありません。いわば、自己からそれらの一部を与えられるのです。意識は自己の全てを知り得ているのではないのです。

 自我が単に意識という機能にすぎないとしたら、自己は本来自我というレベルなしで行動しうるはずです。自己には認知や記憶の機能が備わっているし、動因となる衝動・欲望・欲求などの機能もあります。遺伝的に受け継がれた行動パターンを実行するのに、自我が役割を果たす余地はほとんどありません。

 ではなぜ自我という機能が必要とされるのでしょうか。自我が派生したのは自己からであり、自己の機能の一部が特化したものと考えられます。より独立した機能が必要とされたからであり、いわば、スピンアウトしたと考えられます。

 鍵は選択にあります。可能な行動が複数あり、しかもその成果が異なる場合、何が適切かを判断しなければなりません。試行錯誤ということが毎回許されるならば、いろいろやってみて適切な方法を見出すことも可能でしょう。しかし、そのような余裕がないときは、最適行動を選び出す能力が生存に影響を与えることになります。

 進化の過程で、好ましいものは追及し、好ましくないものは避けるという行動のパターンが形成されたことは確かでしょう。本来、好ましいか好ましくないかの判断は行動の結果の評価によってなされるはずです。しかし、一定の行動が一定の結果をもたらすことが繰り返されれば、結果を待たずとも行動そのものを評価できます。好ましい結果をもたらす(であろう)行動を好み、好ましくない結果をもたらす(であろう)行動を避けようとすることで、行動は迅速になり、競争において有利になります。ここまでは自我の出る幕はありません。

 私たちの行動の多くは生得的に報酬づけられています。しかし、行動の成果は状況によって変化します。状況に対応して行動の一部を変えることが成果の大きさや成果を得る確率に影響を及ぼすでしょう。試行錯誤が可能なほど状況が安定的であれば(しかし、遺伝的に取り込まれるほどには安定的でなければ)、学習によって一定の行動が好まれるようになります。この場合、行動は「後天的に」報酬づけられたと言えるのかもしれません。

 学習においては記憶が機能していることは間違いありません。ここまでは自己のシステムでも可能です。しかし、試行錯誤はコストがかかり、しかも特殊な条件が必要とされます。そのため、推論が用いられるようになったと思われます。実際に試すことなく、仮想として経過をたどり、結果を予想するのです。そして、諸結果の予想を比較します。これは当然過去の経験が手掛かりになるでしょうが、過去がそのまま繰り返されるのではなく、部分的に分解したり、新たな要素を加えたりして、改変される必要があります。そのような操作の妥当性、言いかえれば起こりうる可能性を吟味するものとして知性が考えられます。

 知性は現在という時点から離れて、いま・ここにない状況に身を置きます。もし自己がそのようなことをしたならば、状況の把握を失って、危険な状態に陥るでしょう。自己は機能の一部として、自我にそれさせていると考えられます。

 では、なぜ自我は意識なのでしょうか。結果の比較のためには、過去の経験時に得られた結果が、重要度によって識別されて記憶される必要があるでしょう。すべての記憶を想起しようとすることは非効率であり、記憶容量にも限界があります。短期記憶から中・長期記憶に移行する段階で選別され、さらに中・長期記憶も不必要ならば捨て去られて行きます。その重要度は経験における報酬の認知が実感的に勘案されていると考えられます。その実感を与えるのが意識ではないでしょうか。その結果、記憶の想起は単に知識の閲覧ではなく、その実感が再起されることになるのです。

 むろん、報酬のすべてが意識(自我)に感じられるのではありません。報酬というのは自己が機能する際に与えられるものでした。自我と自己が同じ報酬を受け取っているなら、自我という機能は必要ないはずです。そもそも、自我というのが自己の機能であるとしたら、自我を働かせることは自己への報酬になっているはずです。それを自我が感じることはないでしょう。自我が感じるのは、自我の機能する範囲に限られます。

 自我としての私は、私の属するもの(自己)についてあまりよく知らないのです。しかし、自我は自分がすべての主体であると信じています。なぜでしょうか。自我が自己の一機能でしかないとしたら、自我はそのことを認識してしかるべきではないでしょうか。

 自我は短期記憶として、経験を認知します。経験の連なりが私たちが生きていることの実体のように意識されることになります。そういうことの関連から、何らかの統一的部分があるならば、それは主体の全て(ただし、意識の知りうる限りの)を意識している自我に違いないと推理しているのでしょう。

 自我の特性の一つは、自らについて意識するということです。しかし、自我は自らの全てを意識するようには進化してきませんでした。自我は自己の一機能としての能力しかありません。ですから、自我としての私が自らが何であるかを知るには、自我の機能を使うしかないのです。

(2)二次的報酬

 さて、これまでも本来個体の生存・生殖に有利なために備わってきた機能がいわば暴走する事象をのべてきました。その原因として考えたのは、機能を働かすのは自己にとってそれが報酬づけられているからであるので、逆に報酬を求めて機能を(遺伝子にとって不必要に)働かすということでした。

 典型的な例として、性行動を追求するのはそれが与えてくれる好ましさゆえであって、生殖を目指したものではない、という説明をしました。しかし、そこで報酬を得るのは自己でしょうか、自我でしょうか。二重性の論理展開であれば、それは自己であって自我ではないということになるのでしょう。しかし、私たちは性行動に楽しみを感じています。性行為に惹かれ、それを求めるのは自我なのではないでしょうか。

 自我に与えられる報酬は意識されることになるので、それを「快」と呼びましょう。自己は自我の快によって性行動に駆られるのではないと考えられます。自我は性行動を快として受け取っているのにすぎません。つまり、自己は、性行動そのものに報酬づけられていると同時に、自我に性行動を快とさせることについても報酬づけられているのです。では、性行動の報酬と性行動の快が別であるのはどういうことでしょうか。

 既に述べましたが、性行動は特殊な例です。性行動には強い感覚刺激が伴うので、それを追及するのは当然だと受け取られてきました。しかし、こうも考えられるのではないでしょうか。性行動が快であるのは、行動の選択において優位にあるべきためである、と。摂食行動や性行動は何よりも優先されなければなりません。選択の機能として自我があるのなら、自我はそれらに強い快という評価を与えるようになっているはずです。

 多くの場合、行動と快の関係は固定的ではありません。むしろ、様々な状況の中で自我は快を探そうとしています。自我は経験を積むのです。経験によって行動の適格性の見極めの精度をあげるのです。学習すると言い換えてもいいでしょう。後述しますが、自我に快が与えられるのは、経験として記憶にタグをつけるためと、未実現の報酬を比較するために仮想的に経験するためと考えられます。

 それゆえ、性行動は次のように描写されるでしょう。ある状況において、性行動の可能性が認知されるとそれが期待となります。しかし、性行動を実行しようとすると、乗り越えねばならないいろいろな障害があり、それらを排除するためにはコストがかかります。他に選択肢がなければ自己はコストを無視して行動するでしょう。

 しかし、性行動にさえ選択が可能であり、それゆえ必要であるようになれば、様々な要素が検討の対象となります。いつそれを行うのか、相手を誰にするのか、大きさと可能性を勘案した成果とその実現のためのコストを比較したらどうなるか、等々です。重要なのはコストの見積もりです。単なる負の報酬であるならば、それを避けることで回避できます。しかし、報酬を得るために支払わなければならないコストであるならば、それを受け入れざるを得ません。コストの見積もり、それが自我にとっての「不快」です。一方、期待についても、単に行動を触発するだけでなく、コストとの比較のために見積もりとして扱う必要が生じてきます。報酬の見積もり、それが自我にとっての「快」です。

 自我は期待とコストを意識化し、それを比較するという機能を担っているのです。生存と生殖において有利になるならば、進化はそのような機能を発達させるでしょう。そして、その機能を自己が使うことが報酬づけられていることになります。自我にとっての快も不快も、自己にとっては報酬なのです。

 私たちが不快を求めているように見える不思議な現象は、自我の不快に自己が報酬づけられているからです。たとえば記憶です。記憶は楽しいものばかりではありません。楽しい思い出は楽しいゆえに想起されるのが当然のように思えます。しかし、辛く苦しく悲しい記憶はどうでしょうか。思い出したくない記憶をなぜ想起してしまうのでしょうか。必要にかられてということはあります。後悔のように、教訓としての記憶が必要なときはあります。しかし、そうでないときにもそのような記憶を想起してしまうことはあるのではないでしょうか。

 過去が美化されてしまうということもあります。私たちの記憶はあいまいで、加工されることもしばしばです。ですから嫌な記憶も変化させられて、思い出すことが不快ではなくなるのかもしれません。また、嫌な記憶を想起して怒りなどを発散させることもあるかもしれません。そういう保留はあっても、一般に、記憶を想起することは報酬であるのです。ですから、他には何もせずに単に記憶を想起するだけのことを私たちはするのです。追憶に浸るとか、昔を懐かしむとかは、過去のことがらにこだわっているようであって、実は記憶の想起自体にはまり込んでいるのでしょう。

 想像についても同じことが言えます。想像もその中での疑似体験が快いから好まれるとも考えられます。それが選択の指標となって生存に有利になるというのが、想像の機能と考えられます。しかし、想像は好ましい事象だけを対象とするのではありません。不快な感情を呼び起こすようなことがらも想像してしまうのです。つまり想像は、想像される内容が快いから想像が好まれるのではなく、想像すること自体が報酬づけられているから想像するのです。実際、快いことだけを想像するのであれば、生存に適切に機能しているとは言えません。不快なことも想像できなければ、正しい選択はできないでしょう。快適な想像が快適であるのと同様、不快な想像が不快であるならば、それを避けないような機構が必要となります。想像すること自体(その内容がどのようであれ)が報酬であらねばならないのです。

 さらに、私たちはどうでもいいようなことまで想像しがちです。自分とは直接関係ない、たとえば歴史上のことがらも想像の素材になります。そのことは、生存の有利不利ということから想像が離れてしまっていることを示しています。

 これは思考にも言えます。私たちが思考を働かせるように進化してきたとしても、思考使用が生存や生殖に必ず有利な帰結に導くわけでもないし、思考を使う必要のない場面も多くあります。それでも思考が使われることがあります。私たちは謎解きやパズルや理屈づけに惹きつけられます。実践的には何の役にもたたなくとも、私たちは「頭を使う」ことに熱中するのです。

 一方で、課題が解けたときの喜び、未知のことが既知になったときの喜び、使用の巧みさ(たとえば機知)の喜びなどがあります。逆に謎が謎のままで終わってしまったとき、まずい使い方による失敗などは苦痛となります。これらも自己の報酬と自我の快・不快が組み合わさったシステムの様相でしょう。

 以上のように、記憶、想像、思考については、その使用によって快の状態を再現するだけでなく、不快の状態の再現にも耐えるためには、その使用自体が報酬であることが必要だったのです。

(3) 機能の乱用

 しかし、記憶の想起や想像は意識の自由を証拠立てているのではないかという疑問があるでしょう。意識が記憶と戯れたり溺れたりするということがあります。また、奔放な想像や妄想に身を任せるということもあります。そのようなことはそれ自身として意識の内容になっているのではなでしょうか。つまり、それらを構成する要素は、自己を経由した外界からの由来かもしれないが、それらの組み合わせは意識の自由な操作にゆだねられているのではなでしょうか。そして、それが行動の選択に影響を及ぼしているということもありうるのではないでしょうか。

 自由な物思いというというのは、意識の非拘束性を現わしているように思えます。あれこれと考え、従来とは違った見方を得るということも経験します。過去の記憶が全く違った様相で理解できるようになることもあります。未来が違った経路を示してくれることも。悟りとか、転機とか、目覚めとか、意識が自力で(あるいは何らかの示唆の助けで)世界の見方を変え、行動を変えることがあるはずです。

 しかし、私たちはなぜ記憶を想起したり、想像したり、そして、考えたりするのでしょう。そうなっているからだ、という答えではいまの私たちは満足できません。遺伝的にそう作られていると言わねばならないし、進化的な意味があるはずだと問わねばならないのです。むろん、詳細はまだ分かっていません。ただ、そのようである私たちは、そうでないよりも、生存や生殖に有利であったと想定すべきでしょう。それゆえ、記憶の想起や想像や思考をすることが、私たちには報酬づけられていると考えるべきでしょう。つまり、想起や想像や思考の内容ではなく、想起自体、想像自体、思考自体が報酬になっているのです。それゆえ、機能の乱用ということは、性行動と同じく意識にも適用できると考えられるのです。

 想像は進化的には先の見通しというところから始まったと考えるのが妥当でしょう。よい見通しによって、よい結果を仮想的に体験するのです。よいという評価は意識にとっては快となります。そのことから、よい結果の仮想的体験を求めるために想像するという逆転が起こってもおかしくありません。

 記憶の想起も同じです。過去の成功体験は疑似体験として想起されます。それを意識は快と受け取ります。本来は、そのことが選択に影響を及ぼし、適切な行動に導くはずです。ところが、成功の疑似体験のみを目的として記憶を想起するという逆転が起こというわけです。

 はたしてそうでしょうか。記憶を想起すること、想像をすること、それ自体が報酬づけられているとすれば、その内容がどうであれ、そうすること自体に溺れてしまうのではないでしょうか。嫌な記憶であれ、悪い想像であれ、それらを思うことをやめられないことがあります。だとすれば、意識はそれらにおいてさえ、自由ではありません。

 これは、思考においても起こっていることのように思えます。思考とは、内的整合性のある体系を形成する試みとしておきましょう。これが意識の特別な機能なのかは不明です。ただし、記憶が構成要素として重要であることから、短期記憶としての意識が関わっていることは間違いないでしょう。

 思考は意識の自由とどう関係するでしょうか。思考が内的統一性を持っているなら、意識などに根拠を求めることができるかもしれません。あるいは、状況に触発されて思考が開始され、方向づけられているならば、自己の刺激反応系で説明がつくかもしれません。思考の柔軟性ということが、意識の自由な作用を意味しているようにも思えますが、放縦な思考というものが整合性と両立しうるのかは疑問です。

 いずれにせよ、思考は選択の基礎です。思考は進化的・遺伝的に助長されてきました。つまり、思考することそれ自体が報酬づけられているのです。人は思考せざるを得ないのです。自由な思考がどうであれ、思考することから人は自由になれないのです。

 それゆえ、人は思考にも淫するのでしょう。思考の整合性を確認するのは状況です。思考により選択された行動が、思考の主体に成果をもたらすことで、思考の整合性が証されます。しかし、思考のための思考は、状況とは遊離して存在することができます。そこに自由な思考というものが成立する余地があるかもしれません。科学の発達は、実用性から距離を置いたところでなされます。思想というのも同様です。

 しかし、一方で、思考に頼ることで状況の判断を誤ることがあります。たとえば、断片的なデータで因果関係を確定してしまうことがあります。因果関係が不明な場合や、主たる関係が見出せないため偶然としかいいようがない場合でも、強引に原因を特定してしまうのです。整合性、つまり秩序を形成することが、混沌のままにしておくよりも望ましいのです。思考は整合性を求める欲求といってもいいでしょう。

 このように、意識の自由を示しているような現象も、機能の乱用という観点からは、自由ではなく捕らわれとしてみなすことができます。意識は方向の定まらぬ浮遊状態を自由として感じるかもしれませんが、実はそこから脱け出せないでいるのです。依存症者が依存状態に執着するように。

4 後悔(過去)

(1)教訓としての過去

 後悔が無駄なことは誰もが知っています。「後悔先に立たず」「覆水盆に返らず」「こぼれたミルクを嘆いてみても仕方がない」。けれども、そういう教訓があることは、人が後悔にどれほど悩まされているかを告白しているようなものです。それゆえ、人が重大な決定をするとき、後悔をしないことを基準にするほどです。映画などで登場人物に決断を促すときには、それをしないと(あるいは、すると)「一生後悔することになる」と言い聞かせるのが決まり文句になっています。「後悔するぞ」は脅し文句にさえなっています。

 『人を動かす』(1936年)という著書で有名なデール・カーネギーは、『道は開ける』(1948年)という本も書いていますが、この中で述べられていることの半分は「過去についてくよくよするな」です(後の半分は「未来についてくよくよするな」です。)過ぎ去った過去も不確かな未来も思い悩んだところでどうすることもできないのだから、今日だけに集中して生きろ、というのがカーネギーの勧める処世訓です。本の中ではその成功例をいろいろあげています。しかし、過去や未来を無視して現在のことだけに集中することが成功に導くならば、進化論的に考えて、人間はそういう風になっているはずです。むしろ、過去や未来を視野に入れることで、人間は現在という桎梏から解放されて自由を獲得したのではないでしょうか。人間が過去や未来を考慮するようになっていることは、そうすることが無駄ではなかったことの証です。現に、過去を教訓としたり、将来に備えたりして成功した人も多くいるはずです。カーネギーは説教師のやり方で真理の半分だけを強調しているのであって、要は、過去や未来について過度に思い悩むな、ということに過ぎません。

 そこで問題は次のような形に変わってきます。なぜ人はちょうどよい程度に過去や未来を考慮することができないのでしょうか。

(2)感情としての後悔

 後悔が全く余計なことでしかないのであれば、人間を苦しめるために(神のような存在によって)人間に備わせられたとでも考えねばならないでしょう。もちろん、後悔には機能があります。過去を教訓とすること。「同じ轍を踏まぬ」、つまり過去の失敗を繰り返さないようにするために、後悔は過去にこだわらせるのです。ただ、後悔の興味深い点はそこにあるのではありません。

 過去の教訓として意識させるだけなら、後悔という形態を取る必要はありません。失敗したという認識だけでよいはずです。そこに感情的な要素を付加することに何の意味があるでしょうか。失敗の結果、痛みや苦しみを受けているとしたら、教訓としてはそれだけで十分ではないでしょうか。後悔はさらに苦しみを追加するだけではないでしょうか。さらに、後悔が苦しくあらねばならないとしても、なぜ繰り返すのでしょうか。後悔の苦しみを一度か二度実感した後、今後の行動の決定に反映させればそれで済むことではないでしょうか。

 後悔が苦しみや痛みであるのは、肉体的な痛みと並行する議論です。肉体に何らかの損傷を受けたとき、人は痛みを感じます。損傷があることを個体に認知せしめ、それへの対応を迫るためと考えられます。しかし、痛みはいたずらに人を苦しめることがあります。痛みの機能が単に肉体の損傷を知らしめて対応させるものであるのなら、痛みという形態を取らずに、損傷を認知させる何らかの感覚であってもいいはずです。しかし、損傷が苦痛ではなかったなら、人はそのことの重大さを認識しえずに、肉体をいたわることなく、損傷を悪化させてしまう可能性が大きいのは間違いありません。

 人間というのはそういうものなのです。単なる認識だけでは行動を起こそうとしません。たとえ利害得失が認識されたとしても、その度合いを感じなければ比較ができず、選択もできないのです。人間の判断基準には感情や感覚が組み込まれていて、様々な可能性を検討する過程で重要性を主張するには、感覚的・感情的に優位性を表現しなければなりません。肉体的損傷に伴う痛みは、愚かな人間に注意を向けさせるだけではなく、他の感覚や感情(たとえば食欲や性欲)と競合しなければならないのです。感覚や感情がなく、単なる認知機能しか備えていないロボットのような存在ならば、状況認識だけで判断を下すのが可能でしょうが。

 肉体的損傷の場合と同様に、後悔が苦痛ではなかったならば、人間は過去の失敗に懲りることなく、同じ過ちを繰り返してしまう、というように言えそうです。ただし、後悔にそのような機能があるのであれば、過去に起こったことを教訓として未来の行動に結び付けられなければなりません。記憶と予想が連動することになります。現在の痛みが直近の行動に影響する肉体的損傷よりは複雑です。もっと厳密に考えてみましょう

 私たちは後悔において、こうすればよかった、ああすればよかった、と因果関係を反芻します。起きてしまったことはどうすることもできないのにです。つまり、後悔というのは、失敗の結果だけに注目することではないのです。仮想の事態と比較して、結果を評価しているのです。得られたかもしれない利益を想定することで、避けられたかもしれない損失として現状をみているのです。

 いわば、後悔というのは一種のシミュレーションなのです。そして、シミュレーションをする度に、損失の体験を再現します。これには二つの作用が考えられます。一つは記憶を強化すること。もう一つは、将来の同じような状況において適切な行動を取れるように備えることです。

 現在の状況が必然的であるとき、つまり、ある範囲の過去の時点(現在に影響をもたらすと考えられる近さの過去)の行動がどうであろうと同じ結果をもたらしたと納得されるなら、後悔は起こりません。後悔は過去の行動の仕方の違いで別の現在があり得たという推察が可能なときに起こるのです。結果が必然的ならば、いかに悲惨であっても後悔の対象にはなりません(むろん、何が必然的かについては見解の相違があります)。

 後悔というシミュレーションは、好ましい結果が起こる可能性のあったことを示します。だとしたら、その結果を体験(疑似体験)するために、何度も後悔を繰り返すのは当然なのかもしれません。しかし、後悔が単に快い幻想を与えるだけのものなら、教訓とはならないでしょう。得られたかもしれない結果を喪失したことの痛みが起こること必要であり、そのためには失われたものが好ましくなければならないわけです。

 不思議なのは、後悔というのは快いものではないのに、人がそれをやめられないことです。不快であるから、あるいは非生産的であるから後悔しない(後悔という心理作用に意識を向けない)ことができれば、誰も後悔に悩まされることはないのです。「我、ことにおいて後悔せず」という境地は理想です。しかし、私たちはそうはなれません。私たちは後悔するようになっているのです。

 そのことが、私たちが後悔を重荷と感じることの一つの理由となるでしょう。後悔は自己にとって(そして遺伝子にとって)有益であるのですが、自我としての私たちには不快なのです。なぜなら、自我としての私たちには、今後避けるべき失敗の体験は不快なものとして想起されねばならないからです。自己において自我は最優先のメンバーではないのです。むしろ道具として扱われているとみなすのが適当でしょう

(3) 記憶と後悔

 後悔が十分にその機能を果たしているのであれば、私たちは後悔を有用とみなし、その不快に耐えることの必要性に悩むことはないはずです。これは痛みについても言えることでしょう。痛みが肉体的損傷の存在を知らせてくれるとしても、その原因に対して適切な対処が難しい場合、私たちはとにかく痛みから逃れようとするしかありません。逆に、その不在(たとえば痛みの伴わない癌の進行)に不満を感じることもあります。私たちにしてみれば、痛みのあり方が不適切に思われるのです。

 私たちが後悔を重荷と感じることが多いのはなぜでしょうか。後悔は将来の行動が適切になされるように機能するようになっているはずです。ところが、そこにこそ、後悔が無駄になってしまう原因も潜んでいると思われるのです。

 後悔が機能的であるための第一の条件は、後悔の大きさは失敗の大きさに比例的であること、つまり、損失(ないし機会費用)が大きければ後悔もそれだけ大きい必要があるということです。大きな損失と小さな損失に同じような後悔をするのは非生産的です。後悔が将来の行動に影響するのであれば、重大な損失を避けるために気を使うようになっていて当然ですが、逆に、小さな損失にいちいちそれと同じような後悔をしていては割に合いません(非効率的です)。

 第二に、記憶が時間とともに減衰するのと同じ作用が、後悔にも働くことです。記憶の保持にもコストがかかります。必要のない記憶は消去されてしかるべきです。後悔のための記憶が時間とともに薄れていくと考えらえるのは、後悔が人を過度に消極的にさせてしまえば(たとえば行動の範囲が限られるようになったりすると)、適応能力を低めてしまうからでしょう。同じような状況がめったに起こらないのであれば、過度な警戒心(羹に懲りて膾を吹く)は無用です。しかし、その状況が出現する頻度が高ければ、後悔のための記憶は役に立ちます。そして、その時点で後悔のための記憶は成功の記憶に代替されるでしょう。

 後悔のための記憶が残っている段階で後悔が発生したときと同じような状況に会うというような理想的な後悔の機能発揮のためには、そういう状況の発生頻度が問題になります。発生頻度が低ければ、後悔のための記憶が失われていたために失敗が繰り返されて、その都度無駄な後悔が起こることになります。大きな失敗を引き起こすような状況は頻度が低く、小さな失敗についての状況の頻度が高いとすれば、大きな後悔のための記憶が長く保持され(そのため記憶の強化がなされ)、小さな後悔はそれが短いということは機能性です。

 しかし、状況の頻度と記憶の保持期間に相関をもたせるような機能は後悔には備えられないでしょう。後悔が大きければそれだけ記憶も長く保存されるでしょうが、大きな後悔をもたらすような状況は記憶の保存期間を過ぎてしまうほど頻度が低いかもしれません(災害は忘れた頃にやって来るのです)。結局、後悔はあまり機能を果たさないかもしれません。後悔が大きかろうと小さかろうと、後悔のための記憶が失われた後に状況が再発すれば、後悔は無駄だったことになります。適度な頻度、それが後悔が有効に機能する条件になります。しかしその条件が満たされるとは限りませんから、人は無駄な後悔に悩まされることになるのです。

(4)因果と仮想

 もう一つ、後悔が無駄と思われてしまうのは、失敗の原因が必ずしも確定できないからです。失敗が教訓になるために、後悔は災厄を避けられたかもしれない要因を探させようとするのですが、それがどの程度コントロール可能かまでは示してくれません。災厄にあった場合、それが自らのミスが招いたのであれば、後悔は機能的です。以後、気をつけるようになるでしょうから。しかし、原因がどうあれ(当事者の過失ではなくとも)、その状況を避けられた可能性はいくらでも見つけられます。ほんの少し時間や場所がずれていたならば、そのことは起こらなかったかもしれません。しかし、偶然は予見ができないのですから、避けることはできず、結局は必然となります。

 偶然や相手の過失による災厄は防ぎきれないのであれば後悔は無駄なのでしょうか。要は確率の問題なのです。災厄が起きないように警戒することで、災厄を完全に防ぐことはできないとしても、災厄の被害の確率は下げることができます。小さな災厄ですんでいたかもしれない状況が、偶然に要素が揃うことで大きくなると考えれば、小さな災厄(あるいはニアミス、いわゆるヒヤリ・ハット)は大きな災厄を潜在させている可能性があります。小さな災厄を教訓として気をつければ、大きな災厄の確率を減らせます。小さな災厄を繰り返していながら後悔しなければ、大きな災厄を起こす確率は高まります。ですから、決定論的には無駄であると思われても、後悔は起こるのです。

 ところが、ここでも適度な水準が分からないという問題があります。因果の連鎖をどこまでもたどれば、断ち切るべきであったところは無数にあり、後悔の種をいくらでも見つけられます。ああすればよかった、こうすればよかったと自己を苛むのに事欠かきません。私たちは仮想することが可能ですから、あり得たであろう状態を棄てきることができないのです。非対称的なことに、ひょっとするともっと悪い状態になっていたかもしれない、災厄がこの程度ですんだのは幸運だったかもしれない、とはなかなか思えないのですけれど。

 仮想とは現にあることやあったこととは違う状態を想定することです。これは将来を予測することにも含まれています。刺激に即座に反応するだけでなく、現在の状況やそれへの働きかけから将来を予測することは、今現在という檻に捕らわれていることからの離脱でした。その能力がある種の生物には進化的に有利になりました。仮想は予想のためにだけに発達したものであるのではないでしょう。現状を過去から由来したもの理解する際に、違った過去からは違った今があると仮想することが、反省(そして後悔)として将来の行動の決定に有益です。後悔は仮想がなければ生じません。

 ところが、本来コントロールできなかった要因があやふやなために仮想が暴走して、無駄と思える後悔を引き起こしてしまうのです。だからこそ、すんでしまったことをあれこれ思ってくよくよしても始まらないという戒めがあります。しかし、仮想することは機能的に私たちに備わっているので、仮想は報酬づけられています。時には空想となって私たちを虜にしてしまいます。仮想については後に検討しましょう。

(5)社会の変化

 過度の後悔は近代社会に特有なものではないか、という考えもあります。同じような状況がめったに起こらない複雑な社会生活において、後悔が役立たないことは多いのではないでしょうか。論理的には、たとえば、二度と会うことがない人との接触とか、めったに起こらない選択の機会などにおける失敗は、その場限りのものとして扱うことができるはずです(旅の恥はかき捨て)。しかし、そのような場合でも後悔が起こるとすれば、余計な(必要のない)負担になってしまいます。しかも、そのような場合が頻繁に起こるのが近代社会です。これが後悔が重荷となってしまうもう一つの理由ではないでしょうか。

 私たちの祖先が長期にわたって暮らしていた世界が、状況がより単純であり、選択の失敗が常に生命の危険に直結していたと想定すれば、失敗してもからくも生きのびた人間が、二度と同じ過ちを繰り返さないようにと後悔することは、自己にとっても遺伝子にとっても機能的であったろうと思われます。しかし、状況が複雑で失敗する機会が増え、しかもその失敗が命にかかわるようなことはめったにない世界では、後悔してくよくよするより、失敗はすんだこととして忘れてしまう方が、自己にとっては機能的ではないでしょうか。

 むろん、これは憶測でしかありません。狩猟採集社会が単純な社会であるとは限らないでしょう。その時代から後悔は自己にとってやっかいものだったかもしれないのです。

5 感情(現在)

(1)感情の役割

 感情が私たちの生存と生殖において何らかの機能を果たしているという見方はもはや一般的になっています。進化の過程で感情というものが生じ、また維持されているということは、それが有益なものであり、少なくとも無害であるということの証明でしょう。ただし、かつては有益であったとしても、環境の変化により有害なものになってしまったが、時間経過が短すぎて変化させることができていないということもあり得えます。

 感情的になることに対して私たちは否定的な評価を下しがちです。判断の適切さをゆがめてしまうというのがその理由です。非感情的、言い換えれば冷静で知的な判断が望まれるのに、感情が邪魔をするというのです。そうだとしたら、なぜ感情という機能が私たちに備わっているのでしょう。

 考えられる一つの理由は、知性がまだ進化していない状況で感情が発達したということです。もう一つは、ではなぜ感情が今なお保持され続けているのかという疑問の答えにもなるのですが、知性では感情を代替ができないからではないかということです。具体的には以下のことが挙げられます。

 第一に、知性には選択肢を揃えるという時間が必要です。とっさの判断には間に合いません。

 第二に、知性の展望は記憶の範囲に縛られてしまいます。個人的経験にしろ、集団的伝承にしろ、遺伝子的な長期性を見通すことは困難です。

 第三に、選択肢の評価にこだわるゆえに、知性は状況の変化に振り回されてしまいます。あまりに敏感な指標が役立たないように、知性は動揺が激しすぎるのです。

 典型的な例が恐怖です。ある危険の認知、たとえば捕食者が近くにいるのを発見したとき、とにかく逃げなければなりません。危険の認知が自動的に逃走を引き起こすとすれば、恐怖を感じる必要はないでしょう。しかし、危険の認知が即行動を引き起こしてしまえば、誤認も含めて、しょっちゅう逃げ回っていなければなりません。それを避けようとすれば、大雑把にでも危険の程度を見計る機能が必要となります。恐怖という感情は危険の計測値であり、認知と行動の間にある種の選択を挿入可能にしていると考えられます。知性がその任を負うことにはならなかったのです。

 知性の評価では不適切とされる行動選択も、長期的には適切だったということがありうるということについては、よく知られた例として怒りを取り上げてみましょう。体力に優れた相手があなたの手に入れた獲物を横取りしようとする場合を考えてみます。合理的に判断すれば、相手に逆らって痛い目をみたり、場合によっては死傷するくらいなら、素直に獲物を手渡す方がよいでしょう。その場ではあなたの行動は適切であったかもしれません。しかし、いったんそうしたら、相手は機会があるごとにあなたから横取りするでしょう。

 さて、最初の場面でも、どこかの段階でもいいのですが、あなたが怒りを感じて、当面の有利不利など考慮せずに、相手に反抗したらどうなるでしょうか。あなたは殴り倒されて、けがをするかもしれないし、ヘタをすると死んでしまうかもしれません。死んだらそれで話は終わりですが、あなたが生き延びた場合、あなたから獲物を取り上げた相手が、再びそういう機会を見出した時、どうするでしょうか。

 あなたが怒りの感情を持っていることを知っていたなら、相手はあなたが捨て身の反撃をすることを予想するでしょう。あなたを打ち倒すのはたやすいとしても、あなたの反抗は好ましいことではありません。確率は非常に低いとしてもあなたが勝つことはありうるし、そうでなくともあなたの反抗を排除するにはコストがかります。相手はちゅうちょするかもしれません。横取りする獲物の価値が低ければあきらめるかもしれません。どういうことになるかは事前の予想では確かではありません。しかし、人間に怒りの感情が備わっていることが、怒りによる行動が生存・生殖に不利ではなかったことを証明していると考えられます。

 ところで、強い者が必ず弱いものを支配し、弱い者は必ず強い者に従うという世界であれば、怒りは何の役にも立たないことになります。実際、世界はそのようなものに見えます。強弱が逆転することのない世界、怒りが無用である世界において、どうやって怒りが発生したのかが謎となります。

 「弱肉強食」と「食うか食われるか」は同じことではありません。捕食する側と捕食される側は決まっており、それが逆転することはありません。ですから、選択は「食うか食われるか」ではなく、「食うか食えないか」および「食われるか食われないか」というものなのです。そこには、食う方に怒りはなく、食われる方にも警戒や恐怖はあっても怒りはありません。食われる方はひたすら逃げるのみです。食われようとする際には抵抗するかもしれませんが、それは必死の努力であって、怒りからのものではないでしょう。

 さらに、怒りが前記のような強弱についての知性的判断の限界を超えようとするものならば、怒りという感情は知性の後から発生したことになるでしょう。食物連鎖の中で、捕食すべき相手、もしくは捕食されないように警戒すべき相手は何なのか知るにはある程度の認知力が必要です。それを知性と呼べるのなら、彼らは知性的に行動しています。その知性的行動を怒りという感情によって修正する必要が彼らにあるでしょうか。「窮鼠猫を噛む」的に反撃しても成功率はほぼゼロに等しければ、そのような感情を持った個体が子孫を残せることはないでしょう。

 怒りという感情が食物連鎖の中に見出せないとしたら、どこを探せばいいでしょうか。「生存競争」という言葉がヒントになります。競争というのは違う立場の相手との間には生じません。「食うもの」と「食われるもの」との間には競争関係はありません。むしろ「食うもの」の一方的依存関係なのです。競争関係は「食うもの」どうし、「食われるもの」どうしの間にあります。つまり、他の同種の個体より多く食えるか、他の同種の個体のようには食われずに済むかが問題なのです。そして、より重要なのは、他の同種の個体よりも確実に生殖を実行できるかどうかです。

 つまり、怒りが作用するとすれば、同種の個体間の争いにおいてです。縄張りや生殖相手をめぐる争いです。圧倒的に強い者に対しては選択の余地のない世界でも、やや強い者からの攻撃に対しては反撃は効果があったはずです。怒りは細かい状況判断を無視してとにかく反撃するという行動の選択なのです。いわば、怒りはリスクを取るという機能なのです。人間に怒りという感情が備わっているのは、人間は、同種との競争においてリスクを取る傾向があり、リスクを取ることによって生存を有利にしてきたということの現れなのでしょう。

 いったん怒りという感情が成立すれば、相手が強大であろうが怒りは起こります。怒りの性質がそうなのですから。しかし、どんな相手にも立ち向かっていくという行動はやはり無謀です。怒りはある状況下では無条件に起こらなければならないのですが、全ての状況で無条件で行動を起こすのは避ける必要があります。そこには矛盾があるのです。

 そのようなジレンマを解消するために生じたと考えられるのが、一つは怒りの誇示(表出)である威嚇です。攻撃を受ける前に相手に反撃の大きさの予想を持たせることができれば、攻撃者はひるむこともあるでしょう。

 もう一つは、この威嚇の行動によって生じる時間差の利用です。怒りを感じるというのは、即座に行動するときには起こらないのではないでしょうか。怒りを感じることによる遅れは行動の有効性を低めることになるでしょう。しかし、怒りを感じるということ(つまり、自分が怒っていることを知ること)は、怒りによる行動を選択肢の一つとして扱うことを可能にするのかもしれません。反撃が適切ではないとはっきりと判断できれば、怒りによる行動を抑制する努力が可能かもしれません。ただし、これが難しいのは、そもそも怒りが細かい状況判断を欠いている機能だからです。

(2)感情はなぜ感じられるのか

 恐怖や怒り以外の感情についてはどうでしょうか。喜怒哀楽と要約される感情のうち、行動と密接に関わっているのは怒りだけのように思われます。喜びや悲しみはむしろ現状に対する評価であり、それがすぐさま行動を呼び起こすとは限りません。

 感情と情動を区別する考えもあります。情動は状況の認知が行動を引き起こすものであるが、感情は行動の結果が個体(自己)に及ぼした影響を評価しているというのです。この考えに従えば、恐怖や怒りは情動であり、喜びや悲しみは感情ということになります。

 しかし、喜びは好ましさを、悲しみは好ましくないことを意味しており、もしこれらの感情をもたらした行動が認知されているならば、喜びはその状況の拡大・継続のために当面のコストを無視するように、悲しみはその状況からの逃避のための当面のコストを無視するように、私たちを同じ行動ないし別の行動に導くことになるのかもしれません。

 ところで、感情の特質はそれを「感じる」ことです。「感じる」というのは意識の作用でしょう。感情が状況の認知と行動を自動的に結びつけるのであれば、意識の関与は必要ないはずです。意識がそのプロセスの不可欠の要素ではないとすれば、感情が発生した際に意識がそれを感知するのは、単なる付随作用としてなのでしょうか。つまり、自己の反応を自我(意識)が認知しているに過ぎないのでしょうか。

 悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ、とジェームスが言ったのは正しいようです。しかし、ただそれだけであったなら、私たちは感情の受容者でしかないということになります。私たちにとって感情は単なる景色にすぎないのでしょうか。もちろん、他に別の機能があって、その副作用として感情が意識されるということも考えられますが。

 感情が意識されるのは、感情が自動的な反応であるとしても、そのプロセスは単純ではないというところに理由があるのかもしれません。感情が起こる主体においては、状況に対する反応としての感情と、その反応が引き起こす行動という二段階のプロセスが考えられます。そして、それぞれのプロセスにおいて他者が関わってきます。状況あるいはその一部、感情の表出の相手、そして行動の対象あるいはその一部が他者であるのです。しかも、他者への影響のルートには行動のレベルと感情のレベルの二種類があります。つまり、行動だけではなく、感情表出も他者に影響を与えることを、感情の主体が知っているのです。そこで、主体は感情を抑えたり助長したり、ときには偽装したりするということになるのです。

 感情が自動的なプロセスによって生じるとしても、そこから派生する様々な戦術的なニーズが意識の介入を必要とするのかもしれません。

(3)感情表出

 記述のように、感情は自らが感じるだけではなく、自らの感情を何らかの形で表現することも伴います。そのような感情の表出は自己の状態を周囲の人に知らせてその人の行動に影響を及ぼすという機能があります。では、なぜ感情表出が他者の行動に作用するのでしょうか。それは感情表出がそれに引き続く主体の行動を示唆するからです。その行動を予測して他者はそれに対応する行動をします。

 感情は表出によって(だけで)他者の行動をコントロールするために発生したとまでは言えないでしょう。それは二次的な作用で、一次的には感情はその主体に行動を起こさせるのです。そうでなければ、感情表出は力を持ちません。感情表出が次に起こる主体の行動と密接に結びついていなければ、他者はそれを無視してしまうでしょう。

 それでも、感情表出だけで他者に影響を与えることができるなら、行動の節約になります。また、感情表出をある程度コントロールすることで他者への影響力を増すことができるのであれば、感情そのものを操作するように進化したかもそれません。ここにも感情と集団生活との関連がうかがわれます。人間は他の人間との関係において「感情の感じ」を発達させてきたとも思われるのです。

 感情が集団生活と密接に関係しているならば、感情表出はすぐにでも出現したでしょう。人間集団においてはコミュニケーションが重要であり、感情表出は有効な手段だったからです。さらに、感情表出は感情からいくぶん遊離するまでになったのではないでしょうか。私たち感情を多少はコントロールできるでしょうが、自由には起こせません。しかし、感情が起きたように見せることはできます。感情表出が他者に作用するという特性を利用して、感情を偽って他者をコントロールしようとする、いわば三次的な作用が可能です。うそ泣きが典型例です。

 しかし、感情表出は偽装までには発達しませんでした。感情表出を演技することはできますが、感情表出を自在に操ることはできません。それは受け取る側が他者の感情表出を警戒しているからです。感情表出によって他者をコントロールしようとする意図が察せられるなら、他者はそれに対抗してそのような感情表出をする者を信用しなくなるでしょう。逆に、行動の予測に使われてしまうのを防ぐために、行動主体が感情表出を抑制しようとする傾向もあったでしょう。しかし、選択的に感情表出の抑制をするのは機能的に難しかったと思われます。できるのは感情表出一般の抑制でしょう。そうなると、感情表出の持つメリットも失われてしまいます。感情表出の少ない人は、冷たい人、計算高い人、共感できない人として敬遠されることになります。

 たとえ感情表出の偽装や抑制が部分的に可能であっても、感情表出は機能を失いませんでした。嘘つきが完全に淘汰されなくとも信頼が機能を失わなかったように。感情表出は発展し多様化が進行しました。感情のもたらす行動(の必然性)よりも、予告としての感情表出そのものが注目される傾向があったからでしょう。

(4)否定的な感情

 怒りは人間関係に対立や憎悪を生み出してしまいますが、ある種の均衡を成立させる機能があるとみなしました。義憤、公憤という言葉があるように、正義の遂行に必要とされる場合もあります。反対に、私憤という言葉には利己的であるという否定的な意味合いがありますが、私的な人間関係でも怒りが正当化されることはあります。

 ところで、最も卑しい感情とされるのが「うらやむ」ではないでしょうか。嫉妬や羨望と言い換えてもいいでしょう。似ているような言葉に「うらむ」があります。これは怒りの潜伏状態のような感情ですが、怒りよりも陰湿な感じです。犯罪の三大動機として盗み、痴情、怨恨が挙げられますが、痴情と怨恨には羨みや恨みが関係しています。怒りは暴力沙汰をもたらしがちですが、計画的な犯罪の動機にはなにくいでしょう。怒りは瞬発的であり、持続力はないのです。ただし、怒りが抑えられて恨みになると、引き伸ばされた怒りとして計画的な犯罪に結びつきます。その意味で、集団と記憶という条件下では、恨みも怒りと同じ機能を持っているようです。

 では羨みという感情はなぜ存在するのでしょうか。この感情は市場主義経済の運行を阻害するものとして嫌われています。自発的交換という公平な仕組みによって獲得されたものに差が生じることに不満を持つ理由はないはず、というわけです(ただし、この論議には、最初に持っているものの差という観点が欠けています)。同じように、能力や容貌などの生得的な性質に差があることは(神以外の)誰の責任でもないのだから、不満を持っても仕方がないと言われます(ただし、教育という大問題があります)。

 他人の優れている点を羨むのがなぜ非難されるのでしょうか。羨むのは憧れることの裏面です。図式的に言えば、羨みは他人を引きずり下ろそうとする感情であり、憧れは自分を高めようとする感情ということになるでしょう。それだけなら大したことではありません。羨みはそれを持つ人を苦しめ、憧れはそれを抱く人を喜ばせるだけでしょうから。問題になるのは、感情は行動を呼び起こすからです。

 羨みという感情を私たちが持っているのは、その感情を持った人間が進化の過程を生き延びてきたということです。羨むという感情は、自分よりよい境遇にある他人を好ましくないと思い、境遇を平均化することで差を埋めようとする行動へ導きます。結果的に相手の境遇を引き下げることになります。分配の要求がその一つでしょう。あるいは、何も得られなくとも、相手の境遇を破壊するだけでもいいわけです。

 なぜそのようなことが淘汰されなかったのでしょうか。生存と生殖の競争において、競争相手の有利な点を削ぐというのは一つの戦略です。しかも、集団においては、不遇な者たちが共同することで、境遇のよい者に対抗することができたでしょう。平等欲求というのもここから生まれてきたのかもしれません。

 当然、境遇のよい者も対抗措置を考えねばなりません。力による反撃というのもあるでしょう。しかし、集団の他のメンバーを排除することは、集団生活のメリットを失うことになりますから、何らかの妥協を強いられることになるでしょう。分配の要求にある程度応じることになったはずです。優れた点を持った人がそれを集団の他のメンバーのために役立たせれば、他のメンバーはある程度の格差を容認して、羨むことをやめるということもあり得たでしょう。

 これらはあくまで推測にすぎませんが、私たちが羨みの感情を失うことがないのは、それが過去に機能していた結果であることは間違いありません。羨むこと卑しいことだと非難し、平等欲求を怠け者の卑しい根性だと非批判したところで、何の解決にもなりません。羨みの感情はいまでも機能しているのかもしれないのですから。

(5)共感と反感

 私たちは他人の感情に単に反応するだけでなく、共感します。ある結びつきのある他人(「ひいき」という一方的関係でもいいのですが)が喜んでいるとき、私たちも喜びます。その人が悲しんでいるとき、私たちも悲しみます。その人が怒っているとき、私たちも怒ります。

 親しい関係にある人には、ともに喜び、ともに悲しみ、ともに怒るということが、結びつきを維持し強化することになるでしょう。相手の喜びはその喜びを分かちあうという期待を生みます。相手の悲しみはその悲しみを軽くするように力を貸すという要請をもたらします。相手の怒りは共通の敵に共同で立ち向かうよう促します。ここで集団選択の可否については問わないとしても、互恵関係がその説明になるでしょう。

 逆に、敵対的関係にある人に対しては、共感とは別の反応が起こります。その人物が喜んでいれば怒りを感じたり、悲しんでいれば喜びを感じたり、怒っていれば恐怖を感じたりするのです。嫉妬や羨望、他人の不幸を喜ぶ感情、他人に怖れを感じる気持ちなど、既述の否定的な感情は、中立的な関係にある他者についても起こりますが、敵対的な関係では一層その度を増すでしょう。

 その人が自分とどういう関係にあるかによって、他人の感情は私たちに異なる反応を呼び起こすことがあるのです。他者の感情表出に対しては、同じ感情表出であっても、共感か反感かのどちらかを「選ぶ」ことになります。同じ感情を抱くという単純な反応ではないのです。

 ただし、相手に対する関係を考慮した上で相手の感情表出に反応するという面倒なことを、進化は選ぶはずがありません。もっと手っ取り早い方法があるのです。あらかじめ同感するものと反感するものを決めておけばいいのです。好ましい相手には共感を、好ましくない相手には反感を、いわば自動的に割り振るのです。より適切なのは、好ましかろうとなかろうと、相手の状況と感情が自分にとってどういう影響を与えるかをいちいち判断すべきでしょうが、それには手間がかかりすぎるでしょう。

 世界を好ましいものと好ましくないものに二分するならば、私たちにとって本来無関心であっていいものも、どちらかの領域に含めてしまうことになります。何の影響も受けず、また、影響を与えることはないはずのものも、ただ認知し得るというだけで、好きか嫌いかに振り分けてしまうのです。そうすれば、何に共感すべきか何に反感すべきかは即座に決められます。何の利害関係もないのに、なぜ他人の感情に私たちが影響されるのかという理由は、そのように考えられます。

 そのような分類がいったん形成されるとほとんど変化することはありません。その分類を疑わせる事実を知らされても、それを無視したり、勝手に改変して整合性を保とうとします。ただし、全く変化しないということでもありません。そのような分類と整合しないような経験の繰り返しによって、その分類にひびが入り、やがては瓦解させてしまうこともあります。ただし、新たな分類が、従来の好悪を反転させたにすぎず、枠組み自体は維持されてしまうこともあります。

 ところで、他人の感情に反応するのは、その感情が他人の状況を評価しているからです。他人の状況が分れば、他人の行動が予測でき、それに対応する自分の行動を決めることができるからです。

 そこで一つの問題が生じます。私たちが反応するのは他人の感情に対してでしょうか、それとも他人の状況に対してでしょうか。両者は結びついているはずですが、認知できるのは片方だけということがあります。何で泣いているのだろうかと疑問に思ったり、こんな状況でどんな気持ちになっているのかと思い迷うことがあります。このことは、私たちに共感なり反感が起こるためには、他人の感情とその状況がセットになっている必要があるということです。もちろん、一方だけの認知から他方を推測することは可能です。だとしても、やはり状況と感情のセットが必要なわけです。

 もう一つの問題もあります。他者との関係と他者における状況・感情セットのどちらが先に私たちに認知されるのでしょう。まず他者の状況・感情セットを認知し、それからその他者との関係を確認してから、同感か反感を選ぶのでしょうか。それとも、他者との関係を先に確認し、それから他者の状況・感情セットを認知して、同感か反感を選ぶのでしょうか。この場合も、両者が同時に起こると考えるのが妥当のようです。

(6)感情の記憶と記憶の感情

 当然ながら感情は記憶においても重要な役割を果たしていると思われます。例えば、記憶が想起されるとき、インデックスのようなもので拾い出されると考えてみましょう。インデックスとしては、まず言葉が考えられます。言葉の作用は複雑ですが、人名、地名、物の名などが主に使われるでしょう。また、視覚的イメージや音もインデックスとして使われているでしょう。それらのインデックスの一つとして感情が挙げられるのではないでしょうか。

 過去の経験の記憶は事象(できごと)としてまとめられた単位となっていると思われます。体験は集積され続けるのですべてを記録しようとすると膨大な量になります。また、再体験を体験と同じ形態で行うことで比較することは時間的に非効率です。私たちの記憶容量が限定的であるのは、記憶容量をむやみに拡大することが進化の上で必ずしも有効ではないということを表しているとも考えられます。

 では、体験はどのようにして記憶されるべきでしょうか。どうでもいいような体験の記憶は早い段階で消去(忘却)されるでしょう。日常的な体験は習慣化され、いちいち記憶を想起する必要はなくなるので、そのような体験の記憶はパターン化されるはずです。その他の様々な体験は短期記憶から中長期記憶にいたる過程で選択されて記憶されると考えられます。その選択において、感情が一つの基準として使われるということが考えられるでしょう。もしそうであるなら、事象の記録には感情の評価が張り付いているはずです。また、事象は時系列で整理されているのではなく、何らかの共通性といったようなゆるい関連を相互に持ちながら、ごちゃまぜになっているのではないでしょうか。それゆえ、感情をインデックスとして記憶が想起されるという過程を考慮するのは自然ではないでしょうか。

 しかし、これまで感情は状況によって励起されると考えてきました。もし、ある特殊な状況がある特殊な感情と密接なつながりがあるのだとすれば、状況→感情という過程を逆転させて感情→状況という遡及が可能でしょう。しかし、ある感情が様々な個々の状況によって励起され、そのことがそれらの多様な状況をその感情が包摂するということを意味するならば、その感情の中から個別の状況を拾い出すには別のインデックスが必要ということになります。たとえ感情が記憶のための選択の基準になっているとしても、想起のために感情が使われるということには必然的ではありません。

 そもそも一つの出来事に一つの感情が付随するということになるのでしょうか。ある状況がある感情を励起し、それが行動に影響を与えてある結果をもたらしたなら、それによる新たな状況が新たな感情を励起させるでしょう。そのような連続した流れの中で出来事は一つの単位としてどのように切り取られるのでしょうか。

 そのような難しい問題はあるとしても、少なくとも記憶のための出来事の選択に感情が関与していると仮定してみましょう。その選択の基準はどのようなものになるでしょうか。考えられるのは、激しさといったような量的な基準です。感情の大きな動きは出来事の重大性を表しているように思えます。では、感情の大きさの程度は何によって影響されるでしょうか。それは意外性ではないでしょうか。「思いがけない」「突然」「予想外」といった言葉で形容される出来事が感情を強く動かすと思われます。

 日常のルーティンでは予想は自動的に行われていて特に意識することはありません。感情が大きく反応するのは、通常とは異なった課題が生じたときです。その課題が定型的な対応では不十分であり、しかも私たちの状態に大きな影響を与えそうなとき、課題解決のための対応のトリガーとして感情が励起されるのではないでしょうか。その結果、ルーティン外の例外的で重要な出来事は記憶するに値し、その重要性を感情が表すことになっているのではないかと考えられます。

 記憶を担う脳の部分は感情を担う部分とは別で、お互いに連絡はしているとしても、機能は分けられているでしょう。では、記憶自体には感情を「感じる」要素は含まれていないのでしょうか。しかし、私たちは記憶を想起するときに、同時に感情を経験します。この経験は記憶の中に感情が含まれていることを示していると思われます。

 記憶には感情が含まれないとみなしても、想起された出来事の記憶が感情を呼び起こすということも考えられます。そういう形で感情は記憶の想起と関わっているのかもしれません。例えば、後悔というのは想起された出来事の中にあるのではなく、想起された出来事への反応です。出来事の中でも後悔は起こったでしょうが、後悔の質は出来事が想起される度に変化しているようですので、出来事の中の後悔が定着化されたものではないでしょう。思い出というのも、想起された時点での評価に影響されるものです。悲しいはずの出来事がなつかしく思い出されることもあるのです。

 記憶と同じように、仮構もまた感情を呼び起こすことができます。ところで、ここで言う感情とは何を指しているのでしょうか。状況への自動的な反応としての感情でしょうか、あるいは、その感情を感じたこととしての感情でしょうか。感情の感知のためには状況を認知しなければなりません。その認知は自動的であるでしょうから、記憶や仮構においても、個体がそこで扱われている出来事を認知して感情を励起し、意識がそれを感じるということになるのでしょうか。

 記憶や仮構においては事情が違うようです。記憶や仮構によって感情を感じるとしても、それは行動のトリガーとしてではないはずです。記憶においては行動はすでになされていて変更はできません。仮構においても組み立てられた出来事は完結していて、変更されるとしたらそれはまた新たな出来事になるのであって、連続性は保たれる必要はないのです。それゆえ、意識と感情の関係は次のように考えられます。意識は記憶の励起する感情を感じるのですが、記憶としての出来事はもはや変えることはできないので、仮構としての出来事によって変化を実現させるのではないでしょうか。

 仮構については検討すべきことがたくさんあります。そもそも仮構とは予想と結びついたものであり、状況判断と深く関係しています。そのうえ、私たちは自ら作り出した仮構について、現実ではないと知りつつ現実に対するのと同じような反応を示します。また、他人が作り出した仮構についても同じです。そのことについては、後で検討することにします。

 以上のような感情の機能説明は、長期的に同じような環境で試された結果であるということを含んでいます。これからの環境が長期的・根本的に変化すればそのことが妥当しなくなるかもしれません。そしてその変化が急激であれば、行動を遺伝的に変化させることは間に合わないでしょう。

 感情の機能はそういう過渡期にあるのかもしれません。感情を代替しようとする知性の将来予測能力は確かに高まっています。それは理論や道具などの手段の改良にもよるであるでしょうし、社会制度の発達などによる環境の安定性にもよるのでしょう。そして、人間関係も感情が有効であった時期とは大きく異なっています。その変化は、人間関係が拡大・複雑化・多様化していることによるのでしょう。

(7)感情と知性

 ところで、先に怒りを取り上げたときに、感情は知性のできないことができると言いました。それは知性が万能ではないからという理由もあげました。だとすれば、感情は知性の後から発生したようにも受け取れます。もしそうであるなら、感情の自動的反応と行動選択の間に知性の何らかの機能が見出されるということになるのでしょうか。感情と知性の関係を考えるには、その発生順序が問題となります。

 歴史的には、感情的ではなく理性的であることが推奨され、そのためには感情を抑制することが必要とされてきました。知性の発達は人間の進歩を表しているとみなされています。感情に支配された祖先から知性的な私たちに進化したというわけです。しかし、知性に感情の評価を訂正する機能があるとすれば、なぜ知性は感情の扱いに苦労しているのでしょうか。知性が感情より後から進化したとすれば、その修正機能がうまく作用しないということは不思議なことです。

 では、どちらが正しいのでしょう。

 状況が自動的に行動に導くなら、選択の問題は生じないでしょう。選択は同じ状況において複数の行動が可能と判断される場合に起こります。それぞれの行動の結果は違ってくるが、それを事前に明確に判断できないから、選択の問題が生じます。行動が常に同じであり、その結果がほぼ一定であれば、そこに迷いはなく、選択の問題は生じません。

 認知と行動を結びつけるのが感情であり、その過程が自動的であり、そしてそれが適応的である間は、自己に選択の問題は起こりません。知性は余計な機能でしょう。もし感情が判断材料として自我に押し付けられているのならば、そこには選択の問題があることを示しています。その場合、予想と比較の判断においては知性に類する機能が必要でしょう。自動的な反応を検討することにおいて、感情と知性は同時に出現し、同時に機能したと考えるのが適切のようです。

 さらに、行動にはトリガーとしての感情が必要であり、そして取られる行動が必ずしも決まってはいないというのであれば、複数の感情が起こっていることを意味します。そして、いくつかの感情が起こり、それらによる行動が様々であるならば、選択の問題が生じます。感情の比較が必要になるのです。

 怒りについて言えば、同時に怖れや怯え(恐怖)の感情が起こっているはずです。どちらの感情を選ぶかは、感情の重要さを比較することになります。そして、感情の重要さはそれを生じさせた認知の過程にもよります。それらの過程をも検討するのが知性であると考えられます。だとすれば、知性は感情の重要度を比較するのみならず、それに修正を加えることも可能とされることになるでしょう。しかし、知性が自由に感情を操作できるのなら、そもそも感情の必要はなくなります。知性と感情の関係は長い進化の中で調整されてきたのです。怒りの感情が私たちにあるということは、知性の短期的な調整よりも怒りの長期的な効果の方が有効である場合があったということのあかしなのでしょう。

6 知性(未来) 

(1)選択と知性

 知性が何の役に立つかというと、選択の能力を高めるということが挙げられるでしょう。多くの場合、欲求(衝動・欲望)や感情が選択の問題を解決してくれます。その場合は選択肢があるように見えても、選択という問題はないのです。どれが好ましいかを即座に決めることができるからです。それぞれの選択肢に対する欲求なり感情に優劣がつけられないときに、真の選択の問題が生じてきます。評価が必要になるからです。では、誰が評価するのかというと、それが知性でしょう。

 ただ急いで付け加えますが、決断をするのは知性ではありません。そのことは後で検討するとして、まず知性とは何かを考えてみましょう。

 後述するように、知性の行う選択には、過去の記憶を現在において保持することや、将来についての仮想が必要です。ただし、私たちは知性を使いますが、だからといって知性のことをよく知っているわけではありません。私たちは脳を使いますが、だからといって脳についてよく知っているのではないのと同じです。

 知性とは意識の作用なのでしょうか。意識が働く分野はごく限られたものです。自己(個体)の機能のほとんどは意識を必要とはしていません。認知についても意識の介在なしになされています。それゆえ、意識は自己のことについてはわずかしか認識も理解もできていません。意識が担当しているのはワーキングメモリに関わることがらだけでしょう。

 では、知性について何が言えるのでしょうか。知性について考えるときも知性を使うのですが、そのことが理解を助けるわけではないのは上述した通りです。ここではある仮説を立てて、それがどの程度妥当するか「知性」的に検討してみましょう。それは、知性とはシミュレーション能力だ、というものです。シミュレーションとは、いまそこにないものを想起することです。

 知性によるシミュレーションの内容はどういうものでしょうか。繰り返しますが、決定するのは知性ではありません。決定主体としての自己は欲求・欲望・衝動などによって対象を評価するので、シミュレーションによる対象の提示も、それに合わせなければなりません。単なる概念ではダメなのです。つまり、ある選択が有利であると数値や言葉で示しても、それだけでは決定に至りません。ある結果が望ましいことを示すには、その結果を仮想して疑似体験的な評価を得るようにしなければなりません。むろん、利益だけではなく、費用や損失なども評価されて、コストパーフォーマンスが最善となる行動が選ばれるのです。

 選択というものが、提示された複数の対象のどれかを選ぶだけであれば、それらの対象への欲求・欲望の大きさの比較ですむので、知性的な機能は必要ないかもしれません。しかし、それらの対象を獲得するためにそれぞれ何らかの過程(手続き)が必要ならば、いわゆるコストパーフォーマンスの検討が必要になります。獲得の経過と結果を合わせてみるという予測の手続きを経なければなりません。

 対象を得ることが、そのときだけの結果ではすまず、将来に影響を与えるのであれば、そのことも考慮されねばなりません。将来という時間の次元が入ってくるのです。

 また、シミュレーションのためには過去の記憶を探って、同じような経験を再起させることも必要であるでしょう。いまだ経験したことのないような状況でも、過去の似たような状況が参考になるかもしれません。既述のように、記憶には感情の色がつけられています。楽しい記憶とか嫌な記憶などと言いますが、もともと記憶は無色な叙述ではありません。というより、記憶には感情が伴っているから保持されるといった方がいいでしょう。感情を伴わない記憶は速やかに忘れられてしまうのです。シミュレーションに使われる記憶も、単に叙述的なものではなく、感情が評価の手がかりになります。

 行動の選択においては、仮想や記憶を使ったシミュレーションを知性が監修してオプションとして提示すると考えられます。しかし、ほとんどの行動はそのような選択をしないで(あるいは瞬時にすませて)、意識に昇るほどのことはありません。既述のように、怒りとか恐怖のような激しい感情は他のオプションを検討するまでもなく行動を引き起こします。また、ルーチンの行動は自動化されていて意識されません。選択が問題になるのは迷うときです。予想される結果が明確でないとき、ある意図が妨げられて検討を迫られたとき、結果が重大なので慎重にならざるを得ないとき、状況が新しくて予想の手がかりが見つけにくいとき、などが考えられます。困難な選択のときほど、知性の出番が多くなります。しかし、そのような場合には、知性といえども評価しやすい形でオプションを提供しにくいのです。行動の選択において知性が無力に思われがちなのはそのせいもあります。だからといって、知性が無用なわけではありません。知性が関与した方がわずかでも有利でありさえすれば、進化は知性を発達させるでしょう。

(2)感情と知性

 知性は感情と対比させられます。話合いが口論になってしまったときなど、「感情的になるな」ということがよく言われます。冷静になれということでしょうが、「知性的に判断せよ」という意味も込められています。感情と知性は相容れないのでしょうか。

 感情は利害を無視してしまうので、知性による利害計算(評価)を妨げるように思えます。しかし、既述のように、より広い視点からは、感情はそれを起こした主体にとって有利であるという見解もあります。また、人間関係では感情表現が豊かであることは決して不利なことではありません。それゆえ、感情を装うことも珍しくはないのです。「感情的になるな」という発言にも相手の感情表明の効果を減殺する意図があるとも考えられます。

 むろん、感情が不利をもたらすこともあります。感情がその場の状況に合った反応であっても、感情表明ないしは感情によって起こされる行動というのは、最適な反応ではないかもしれません。広い視野や長期的な見通しに立てば、他のやり方が有利な結果をもたらす可能性もあるでしょう。知性は他のオプションを示すことで、その場の感情表明や行動を抑制することを可能にします。知性は感情そのものを排斥しようとするのではなく(感情が起こることは止められません)、その感情による行動(感情表明も含めて)がオプションの一つでしかないことを示すものです。

 ですから、行動の原因としての感情を抑えるように知性がアドバイスすると見えるのです。もちろん、その感情とそれに続く行動が最適なオプションであるなら、知性は他のオプションを提示はしません。感情は常に抑えられるべきだ、と知性が推奨するわけでもありません。知性によって示された他のオプションの中では違った感情が作用することになるのですから。

 だから、知性はそのときに優位な感情に対して、その優位性の検討を提案するものだといえましょう。もし検討が可能になれば、優位性はいったん保留されますから、感情が抑制されたように見えるかもしれません。ただし、検討が可能なのは、他のオプションの価値が現状の感情と近い場合が多いでしょう。知性の出番というのは、オプションが可能な状況であり、そうでない場合には知性は不用であり、それゆえ無力なのです。

(3)想像と実感

 知性が提示するオプションが知性的なものであるのではありません。オプションの中から最適なものを選ぶのが知性的であるのです。では、最適なものとは何でしょう。それは私たちが一番望ましいものであり、やはり感覚、感情、欲求などと関連する次元のものなのです。

 ところでオプションが提示されるのは行動の前です。行動の結果はまだ現実に手に入れてはいないので、その価値が明確には分かりません。また、オプション間には実現度(確率)の違いといったものがあります。目の前のケーキは、オプショナル・コストとしての将来の健康(あるいはコストとしての不健康)よりは、美味という直近の結果が明白で魅力的に見えてしまいます。割引率を使うとしても、将来の価値はどのようにして実感できるでしょうか。

 知性に金銭換算が可能だとしても、価値を評価するのは知性にはできません。将来のある状態を仮想することが知性の機能かどうか分かりませんが、その仮想の中で価値を評価するのは知性ではありません。だとすれば、実現されたときの状況が実感されるようにオプションが提示される必要があるでしょう。たとえば、いま実感している状況をそのまま続けるか、将来の状況のために断念するかの選択をしなければならないとき、将来の状況が今の状況と同程度に実感できなければ、常に現在の状況が選択されてしまうでしょう。

 それゆえ、オプションとして私たちが想起する状況は、実感的なシミュレーションでなければなりません。仮想や想像はいわば感覚的・感情的色どりがついていると言えましょう。予想や想像や期待は、記憶と同じように感情を伴っているのです。

 ただし、望ましいものを得るためのコストも考慮されなければなりません。いくら価値が高いものであっても、それを得るために様々なコストがかかるのであれば、差し引きの利益はさほどではなくなります。コストの一部は享受の遅延であり、将来の不確実性とは別に考慮されねばならないでしょう。むろん、かかるであろう労力や耐えねばならない苦痛などはコストの中核となります。つまり手間ひまがかかるという実感がシミュレーションの中に組み込まれねばならないのです。それはどのような仮想体験でしょうか。あまり複雑なものであっては実際的ではありません。私の仮説として、それは「めんどくさい」「おっくう」などという感情ではないかと思われます。そういう感情が勝れば、そのオプションは採用されないことになります。

 私たちにとって選択は重荷といえます。つまり選択にもコストがかかるのです。慣習に従ってルーチンワークをすることで選択のコストを回避することができます。しかし、選択の機会を放棄してしまうことは、進化的に不利となります。好奇心というのは、選択のコストを相殺する機能があるのかもしれません。

 ところで、仮想の機能は危険な要素も含んでいます。それが実現する前に実感をもたらすのであれば、あえて実現の努力をしなくとも、想像するだけですませてしまうのではないでしょうか。空腹のときに御馳走を思い浮かべるだけでは腹の足しにはならなりませんが、何らかの慰めにはなります。好きな異性と一緒にいることを想像するのは、かなりの満足を与えてくれます。しかも、実際にお目当ての異性が当方に少しも興味を示してくれない場合には、想像は現実以上の満足をもたらしてくれます。実現が困難だと判断されても(それゆえ一層?)、空想は快いものとなります。想像は行動を導かずに、非行動で満足させてしまいます。これは遺伝子が目指すものではありません。ここでも私たちは遺伝子からちょろまかしているのです。仮想体験が欲求の対象となるのです。

 また、仮想はいまあり得ていなことを想起することですから、あり得ないことをも仮想することは可能です。たとえば、道具を使わないで空を飛ぶことも仮想できます。その仮想の中では、移動や俯瞰などの叙述的なものだけではなく、それらの与える情感も知覚できます。そのような空想としての仮想をオプションにしてしまったら、選択を誤ることになるでしょう。

 希望というのも仮想から導かれるものではないでしょうか。そして幻想も。その意味では、仮想自体に一定の制限を設けた方がより機能的であるように思えます。しかしそのような機構は難しそうです。現実的な制限を設けることは仮想の機能を損なってしまうからです。

 予測というのは不確かです。将来が確実であったら、予測というものは必要ありません。やはり、確率の問題なのです。仮想のどこまでを現実的とみなすかは難しく、あいまいな境界は残ります。人は希望を棄てきれません。そして希望が人を生かすこともあります。幻想もまたそうです。幻想がつらい現実を耐えやすくすることもあります。

 私たちが楽観的な予想を抱きがちなのも、不快な仮想よりも快い仮想の方が好ましいからです。情報にしても、不利な、それゆえ不快な情報は避け、有利な、それゆえ快い情報を受け入れようとします。

 これは遺伝子とってジレンマです。仮想に実感を備えつけさせなければ、未来のオプションは採用されることはないでしょう。しかし、仮想の実感が満足を与えるのであれば、仮想だけで満足してしまう可能性があります。それどころか、いっそうの実感を求めて実現可能性のない仮想に溺れてしまうおそれだってあるのです。

 遺伝子とってこの解決は実行にまかすしかありませんでした。仮想の能力が十分ではなかったり、逆に過剰である個体は、生存の可能性が低いはずです。生き残った個体は、適当な仮想の能力を備えているでしょう。むろん、確率の問題ですから、ある程度の範囲に収束するであろうし、時には特異な個体も出現するかもしれません。

 そして、これは芸術や娯楽にも関連してきます。人生におけるそれらの役割の重要性については異論はなさそうです。しかし、ある人々はそれらを有害なものとして排除しようとします。生きることにおいてそれらが必須であるかどうかは分かりません。それらのない人生は味気ないかもしれませんが、生存することにおいて不利とは言えないでしょう。それらは甘味料のようなものかもしれません。取り過ぎは悪いのは明白ですが、全くとらなくても寿命が縮むということにはならないでしょう。適度にとるということが健康に与える影響は不明としか言いようがありません。ただ、楽しみが増えるということなのです。

7 自由

(1)自由意志

 神はなぜ世の中の悲惨を放っておくのでしょうか。この疑問に答えようとするのが神議論というものだそうです。神議論によって自然災害を矛盾なく説明するのはなかなか難しいのですが、少なくとも人が起こす悪についての納得し得る説明としてよく持ち出されるのが自由意志です。神は善も悪もなしうるように人間を作り、人間自らが善悪を選べるようにした、というのです。確かに選択の機会がなければ、善をなしたことでほめることはできず、悪をなしたことで責めることはできません。ただし、この自由意志論は神の全知全能性を毀損していまいます。全知であれば神は人間の選択の結果を事前に知っているのであり、それを放置していることになります。また、全能であるならば自ら選んだと思い込ませながら人間に善をなさしめることなど容易でしょうから、自由意志があることが悪の存在の理由にはなりえないはずなのです。

 ところで、人間は善も悪もなしうるという意味での自由意志を本当に持っているのでしょうか。あなたに悪をなしうる機会があるとして、それだけであなたは悪をなしうるでしょうか。悪をなしうる機会がありながらそれを避けるようにしているなら、本当に悪をなしうるのでしょうか。善人とは悪をなしえない人であり、善悪については自由意志を持っているとはいえないのではないでしょうか。それとも、善人であってもなそうと思えば悪をなしうるのでしょうか。

 サルトルの論理を使えば、より大きな善のために悪をなす人は、悪自体を目的としているのではありません。また、悪を目的とするなら、それをなす人にとってそれは善とみなされているのです。ここで問題になるのは、一般的に善とされていることと、特定の個人にとっての善が一致するのかということと、人は自分にとっての善しかなしえないとみなすのか(意図されるということはその人にとっての善を前提とするのか)ということでしょう。ここでは社会と個人の間の善の見方の齟齬については保留しておきましょう。個人は自由意志によって自分が悪とみなした行動をなしうるか、ということを問題にします。

 もし善をも悪をもなしうるというのが自由意志だとするなら、ランダムに善と悪をなして、統計的に善が多いのが善人ということになるでしょう。たとえば、大きい悪は避けて小さい悪だけにするというのは自由意志によるとはいえないので、大小に関わらずあくまでランダムでなければなりません。ランダムな意志というようなものがあるのでしょうか。意志というものはそれをなしたい(あるいはなしたくない)という欲求なり欲望なりがあってこそ発揮しうるのであり、そういうものがあれば選択は決まっていて、ランダムになりようがないでしょう。

 善悪という概念はややこしい議論をよぶことになるので、ここではあくまで自由意志ということに絞りましょう。欲求なり欲望に支配されているなら、私たちに自由意志などあるでしょうか。もちろん、私たちは欲求や欲望を抑えることはできます。しかし、それも他の欲求や欲望の差し金であって、私たちのランダムな意志のせいではありません。

 ところで、私たちは選択に迷うことがあります。どちらにしてもいいし、どちらにするかはまさに私たちの意志にかかっています。それこそ自由意志が機能している証拠ではあるように思えます。しかし、この迷いこそが自由意志の無力を現しているのです。どちらにするかを決められないのです。これは複数の欲求なり欲望が拮抗している状態であり、決断はくじ引きに頼るようなもので、まさにランダムです。どっちでもいいというのが私たちが自由意志を感じるときであり、だから決断などどうでもいいのです。こういうものを神から与えられたからといって、人間が自由のゆえに評価されるいわれはありません。

(2)選択と迷い

 たとえば、あなたが親しい人と食事に行き、何を食べるかを決めようとします。あなたが「何を食べたい?」と聞きくと、相手が「何でもいい」と答えたとしたら、あなたはどうしますか。あなたが食通ならば、自信をもって何かの料理を勧めるでしょう。しかし、あなたが食べ物にはあまりこだわらない性格で、また、相手の嗜好がよく分からないとしたら、あなたは迷ってしまうでしょう。

 選択の機会が与えられたとしても、何を選択するのかについての基準、それは欲求や欲望でもいいですし、何かの方針や指針でもいいのですが、そういうものがなければ、どれを選んでいいか決められないのです。

 また、何らかの基準があったとしても、選択の諸対象(複数のオプション)のあいだに価値の差を見つけられないとき、私たちは迷います。得ることが可能なものの中から何を選んでもいいというのは、選択の自由があるということですが、決めることが難しいということでもあるのです。

 ビュリダンのロバという哲学上の問題提起があります。二つの同じような干草の中間にいるロバは、どちらの干草を食べていいか決断を下せず、ついには餓死してしまうのではないかという問いかけです。「何でもいい」と言われて困惑する私たちは、このロバと同じ立場にあるわけです。

 このような場合、決定を他の何かに委ねることもできます。たとえば、サイコロ投げによって決めるのです。賽の目という偶然に決定をまかせることによって、選択の責任から免れることができます。人の手によらない(人間の意思が介入しない)という意味で、偶然というのを天意とみなすこともできるかもしれません。

 一方、選択の自由度がほとんどないとき、たとえば食事を誘った相手に「回転寿司のあのお店に行きたい」と言われたとき、より強力な選択肢(オプション)がなければ、あなたに選択の余地はありません。あるいは、あなたができることが一つしかないとき(するか、しないかという選択さえもないとき)、たとえばその辺りに食事を出す店が一つしかないときも同様です。したがって、このような場合も、あなたに選択の余地はないとみなせるでしょう。

 つまり、オプション間で評価の差が付けられないとき、あるいは、オプションが一つしかないとき、という両極端の場合は、あなたに選択の余地はありません。

 しかし、前者にはより詳しい説明が必要です。オプション間に価値の差がないという判断は、選択の前に行われます。しかし、選択の結果、選択前に検討していなかった要因のせいで、オプション間に価値の差があったと判明したとしましょう。ビュリダンのロバで言えば、選んだ方の干草が腐っていたというような場合です。実は、そういうことがありうるからこそ、選択に悩むのです。選択の前にオプション間の比較が完璧に行えるのなら、オプションの全てが同価値であっても悩む必要はないわけです。どれかに決めかねるとしても、サイコロを振れば済むことですから。

 選択の責任というものがあるとすれば、選択によってもたらされた結果についての責任です。あなたは何かを得たかもしれませんし、何かを失ったかもしれません。あるいは、他のオプションでは得られたはずのものが得られなかったのかもしれませんし、逆に、他のオプションにおいては失われていただろうものを失わずに済んだのかもしれません。当然、あなたは最善の結果を予想ないし期待して選択をしたはずです。結果が予想ないし期待した通りだったか、あるいはそれ以上か以下だったか、場合によっては選択前より悪化してしまったかなどによって、あなたの責任が問われることになります。

(3)偶然と必然

  私たちは、心も含めて、物理的存在ですから、物理法則に従っているはずです。ということは、全く同じ状況であれば同じことが再現されるはずです(ハイゼンベルグの不確定原理を持ち出して反対する人もいますが、ここでは的外れです)。過去のその時点での行動は、その時点では必然であって、あとから振り返っていろいろな他の選択肢があったように思えても、それらはその時点では決して選ばれることはないのです。そのことは現在についても当てはまります。私たちは自由な選択をしているようで、実はその行動は必然であり、原因によって説明しうる結果にすぎない、というわけです。もちろん、反対の立場の人もいます。物理的な存在である人間が自由であるということはどういうことなのか(別の言い方をすれば、心とは何か)というのは哲学的な大問題です。

 私たちが、過去と現在について神のような全知の能力を備えていれば、予知能力がなくとも未来は完全に予測できます。いままで起こったことのない全く新しい物理現象が起これば別ですが、現象の新しい組み合わせ(新規の変化)でさえも予測可能です。たとえば、これから生まれてくる人間の顔の全てが予測可能でしょう。

 しかし、人間にはそんな能力はありません。現在起こっていることの原因についてさえ、すべてを知り得ないというだけでなく、主な原因でさえよく分からないことが多いのです。原因と結果がある程度特定できたとしても、それがなぜその時起こったのかについてはほとんど説明が困難です。

 そこで、私たちは偶然という概念に頼ります。たまたまそうなった、という以外に説明のしようがなければ、そうでなかったこともありうる、と考えてしまうのです。あと一分早かったら、あのとき出会ってさえいなければ、ああであればこうであれば、ああしていればこうしていれば、などと他の可能性があり得たものと思ってしまいます。しかし、私たちが自由であれば、どうにでもできたのでしょうか。私たちがそれらのことを予測できなければ、何も手を打つことはできなかったでしょう。過去については様々な可能性を想定できるのに、未来についてはどうでしょう。未来についてはあまりにも漠然としています。私たちは予測し、見込み、目標を立て、状況によって対応しようとします。しかし、起こりうることは無限です(起こり得ないことも無限ですが)。私たちは起こりうることの確率を考慮して、最善と思われる行動をします。その行動をとった時には、事前に迷いがあったにせよ、他の行動の可能性を閉じているのです。もはや他の行動をとることはできたとは言えなくなっています。私たちの行動は必然でしょうか偶然でしょうか。

 私たちが決断した時には、私たちが考慮しうる限りの状況を評価しています。しかし、私たちには知り得ないにもかかわらず、私たちの決断に影響を与えている要素はたくさんあるでしょう。それらの要素をすべて考慮したなら、私たちの決断は必然とみなせるかもしれません。しかし、そんなことは私たちにはできませんから、決断の時に働いた未知の要素を自由と呼んでいるのでしょう。確かに、それらが違っていれば、違った行動をとれたかもしれません。しかし、それらの要素を私たちは操作できません。なぜなら、それを知らないからです。私たちが操作不能でありながら、私たちの決断に影響を与えるゆえに、それは自由と呼ばれているのですしょう。

 そういう意味での自由とは偶然に他なりません。偶然とは私たちにはどうにもならないものとされていますが、自由もまたそうなのです。後から振り返ってみて、なぜそうしなかったのか(そうしたのか、ではなく)と問うことは、私たちの考慮できる要素では説明つかない必然性を問うことなのです。

 それでも、私たちはまあまあの予測によって生きていくことができます。私たちが自分を自由であると考えるのは、私たちの予測が完全でないことを知っているからです。

8 利己主義

(1)自分のことが第一

 現代では、人間を利己的存在とみなす考えは大きな影響力を持っています。筆者もおおむねそのような考えに賛同しますが、利他性を利己的な解釈によって解消してしまう傾向には疑問を抱きます。利他性というのは虚偽のものではなく、利己的存在としての人間にとっても考慮に値する現象なのです。それゆえ、まず、利己性と利他性の関係について整理しておきましょう。それらは善悪という文脈で語られることが多いので、そこから始めることにします。

 人間の本質は善なのか悪なのか、この問いは歴史を通じて投げかけられ続けてきました。それに答える様々な考えも表明されています。単純な分類をすれば、一方に性善説(人間の本質は善であるという考え)、他方に性悪説(人間の本質は悪であるという考え)があり、中間に、常識的な考えとして、人間は善でも悪でもありうるというものがあります。

 むろん、人間の本質と善悪の関係を考えるというのは、単に自己自身を理解したいという知的な欲求を満たすため(だけ)ではなく、人間に善をなさしめるにはどうすればよいかという実践的な課題のためです。ただし、人間の行動に対する実際の規制は、悪を抑えることに焦点を当てています。なぜなら、善がなされるならばそれは放っておけばいいことであるのに対し、悪を放置することは共同体の危機になるからです。もちろん、善を奨励することも重要なこととされていますが、そのための施策としてはほとんど言葉によるものに限られます。善行に物的な報酬を与えることは善の性質に反するとみなされているからです。子供に対して何が善であるかを教えるために物的報酬が用いられることはありますが、成人であれば善悪判断に利害関係を絡ませることは過ちとされます。

 ところで、人間本質善悪論には善悪判断は自明のことであるという前提があります。善悪が状況によって変わってしまうのであれば、善行も悪行も人間の本質とは言えなくなるでしょうから。では、善悪とは具体的何を指しているのでしょうか。

 個々の行為についての判断については意見が分かれるでしょうが、一般的には、利己的な行為は悪、利他的な行為は善とされます。利己的な行為にこだわることは利己主義とみなされ、非難の対象となります。人間本質善悪論は、人間は本質的に利己的であるのかどうかという問いと同じであると言えます。

 利己主義については語りつくされていると言ってよく、次の二点がほぼ合意されていると思われます。

 ①自分のことを優先するというだけでは利己主義とみなされない。

 ②利己主義とは他人に損害(損失)を与えることを気にせずに自己の利益を追求することである。

 まず①について考えてみましょう。自分のことを第一に考えるということ自体は必ずしも悪とはみなされません。自分の利益を重視するのは生きていくうえで重要ですから。たとえば、孤島で一人で生活しているような人を考えてみてください。彼が好きなように生きていくことについて、(文化的背景を無視するなら)善悪の判断を下すのは彼以外にはいません。善悪を好悪とは別のものと考えるのなら、彼には善悪の区別はないとも言えます。つまり、利己性というのは他人の存在があってこそ規定されるものなのです。

 そこで②の規定が必要になります。これを逆の言い方にすれば、他人に利益を与えなくとも、それは利己主義ではないということになります。他人に利益を与えるかどうかに関係なく、損害さえ与えなければ、利己主義ではないのです。つまり、私たちが通常行うことのほとんどは利己主義ではないのです。そのように考えることは私たちが社会生活を営むうえで適切であり、必要でもあるでしょう。

 では、利他主義はどう考えられるでしょうか。単に他人に利益を与えるだけでは利他主義とはみなされません。そのことで損失を受けるでもなく、ましてや自分も利益を得ていれば、特に評価されることではありませんから。利他主義とみなされるのは、自分が損失を担う場合です。極端に言えば、結果として他人の利益にならなくとも、他人のために損失を引き受けることは利他主義とみなされます。逆に、他人に利益を与える行為であっても、それが自分にも利益をもたらすなら、利他的とは言えないことになります。

 つまり、私たちの行為は、利己的なものと利他的なもの以外に、自分の利益と同時に他人にも利益になる、あるいは、自分の利益にはなるが他人には影響を与えないというものがあるのです。もちろん、行為は意図したとおりの結果をもたらすとは限りません。意図せざる結果を考慮にいれると、話はさらに複雑になります。

 さて、とりあえずは意図された行為に限るとして、私たちの行為は利他的な行為とそれ以外の行為に分類され、後者は自分の利益を目指すものですが、その一部に利己的な行為が含まれるということになるでしょう。利他的な行為を除くなら、私たちの行為は自分の利益を追求するためになされると言うことができます。もし、何らかの方法で利他的行為というものを消去してしまえば、人間は自分の利益を求める存在であるが、そのことが直ちに利己的であることを意味するのではないということになります。

 そういうものとして、悪とは利己的である(自分の利益のために他人に損害を与える)ことであり、悪を避けることが善であるという道徳があり得ます。つまり、利他的である(他人の利益のために自分が損失を被る)ことを積極的に求めず、利他的でないからというだけでは悪にはならないということです。他人に損害を与えないようにしさえすれば、善人とされるのです。その背景には、市場の発達によって自助努力による生活維持の可能性が拡大したことがあると思われます。資本主義に伴って発展してきた市民的道徳はその典型でしょう。

(2)利他性はあり得るか

 利己的行為についてはいろいろ問題が生じます。たとえば、「他人の損害」とはどの範囲までを言うのでしょうか。あなたが価値の高いもの持っていたり手に入れたりして、他人に嫉妬や羨望を抱かせることは、「他人の損害」になるのでしょうか。あるいは、多くの人が欲していて、しかも数が限られている貴重なものを、あなたが正当な手続きで手に入れて、結果として他人にそれを獲得できないようにしてしまった場合、そのことを「他人の損害」に含めるべきなのでしょうか。

 そういう疑問を封じるためには、「嫉妬や羨望」は不道徳的なものであるとして考慮の外へ追いやる必要があります。そうなると、市民的道徳はそれほど単純なものとは言えなくなってきます。なぜなら、自分のことを優先するのが自然であるなら(市民的道徳の基礎にはそういう考えがあります)、「嫉妬や羨望」もまた自然なことであると言えるかもしれないのです。いずれにせよ、どこかで線引きをしなければなりません。

 利他性の消去としては、より積極的な自己利益追求の擁護論があります。18世紀前後に、資本主義経済の発展を目の前にして、何人かの人は、自明とされた善悪判断そのものが問題視されなければならないということに気づきました。そこから出てきた考え――経済学に発展するもの――は衝撃的なものでした。その考えによれば、経済的行為において自分の利益のみを追求することは、結果として社会に善をもたらすので、非難すべきことではなく、むしろ推奨されるべきだというのです。

 消極的な擁護論では、資本主義経済の基礎をなす自発的交換は、当事者双方の利益になることであるから非難されるべきではないというものでした。経済取引が搾取的なものであるならば人は自発的に応じるはずはなく、自発的であることが搾取的ではないことの証明である、ということになります。

 一方、積極的な擁護論は、経済取引は当事者だけではなく、経済を発展させることによりその社会に属する全員の利益になることであるから、悪ではないばかりでなく、利他的でさえあると主張します。経済取引には正の外部性があるというのです。経済取引は、当事者以外の人にも利益になることでありながら、当事者が自己が損害を被る必要はないのです。自己の損害の上に成り立つ利他性というものはもはや求められることはなくなるのです。

 さらに、追い打ちをかけるように、近年の遺伝的進化論はそもそも利他性というものはあり得ないと主張します。遺伝的進化論は人間というのは「自分のことを優先する」存在であるとみなす考えです。その考えのもとでは、「自分のことを優先する」ことを利己主義としてしまえば、「人間というのは利己主義的存在である」ということになります。だとすれば、そもそも利他性ということを独立して取り上げる意味がなくなってしまいます。「自分のことを優先する」のであれば、自己の損失を受け入れることはできないはずですから。

 もし、「自分のことを優先する」のが人間の本性であるなら、人間が純粋に利他的であることは不可能になります。人間が利他的行為をするのは、その人自身の思いとは関係なしに、その行為が自分自身の利益になっているからなのです。たとえば、すぐに見返りはなくとも、将来的に利益が見込めるために、当面の損失を容認するという解釈になるでしょう。つまり、利他主義の利己主義的解釈です。

 しかし、そのような解釈で全てを説明しきれるかは疑問です。たとえば、利他的行為が賞賛されるのは、他人のそれによって利益を得られるからだという解釈があります。しかし、自分の利益になるかどうかが確実でもないのに、他人を指嗾するというコストをかけようとするでしょうか。利他的行為が賞賛されるのは、そういうことが現実に起こる可能性がそんなに低くないからではないでしょうか。確かに、他人の利他的行為にただ乗りすることは利益になります。だからといって、その利他的行為が単に使嗾によるものだとは限らないでしょう。利他的行為があり得るからこそ、それを利用しようとすることが起こります。つまり、利他的行為が賞賛されるのは、利他的行為というものがあり得るという思いがあるからなのではないでしょうか。その思い自体が「自己欺瞞」であるとされるかもしれません。本当にそうでしょうか。

(3)マナー

 利他性そのものを検討する前に、社会における利他性と利己性の扱いについて触れておきましょう。

 人が困っているのを知り、かつ、その人を助ける能力がある場合、その人の困窮を見過ごすことは利己的ではないのでしょうか。例えば、車いすやベビーカーが段差を乗り越えられないでいるとき、知らぬ顔して通り過ぎることはどうでしょうか。

 周りの状況が援助可能者の行為に影響を与えることが予想されます。もし、困っている人と通りかかった人しかそこにいない場合、多くの(あるいは一部の)人はそのまま通り過ぎることにさほど抵抗は感じないでしょう。しかし、困っている人の傍にいるのは援助可能者だけですが、やや離れたところに何人かの人がいて、援助可能者の行動を見ている場合、通り過ぎてしまうことにためらう人は増えると思われます。さらに、困っている人の傍を多くの人が通っていれば、平気で通り過ぎる人は非常に多いかもしれません。誰かが助けるだろうから、自分が助ける必要はない、という気持ちが正当化されやすいのです。

 個人的な差異を無視するとすれば、他者の存在は利他的行為に影響を及ぼします。さほど大きな犠牲を伴わない利他的行為は、一般的に期待されるのです。特に弱者とみなされる人たちに対する援助は、するのが当然とされます。それは強制されるものではないけれども、それをあえてしない人の評価は低くなります。つまり、利他的行為をしなければインフォーマルな罰が課せられるのです。法律と同じように、それには決まりがあります。それがマナーなのです。もちろん、マナーは集団によって違います。

 払われる犠牲が大きくなれば、困っている人を援助しないことへのサンクションは弱くなります。たとえば、プラットフォームから線路へ人が落ちた場合、列車がせまって来ているのであれば、その人を助けるために線路に降りなくとも、非難は受けないでしょう。現に、そういう状況で命を落とした人もいます。そういう場合でも人を助けようとした人は、強く称賛されます。しかし、彼らが賞賛されるのは、彼らが特別な人だからです。マナーを越えるような状況では、利他的行為は賛美されますが、しなくてもインフォーマルに非難されず、むろんフォーマルに罰せられることもありません。

 むろん、マナーだからという理由ではなく、困っている人を助けたいという気持ちから利他行動をする人は少なくありません。たとえば寄付などは他人に知られることがなくても実行されます。むしろ、他人に知らせることは売名行為ではないかと疑われます。ただし、政治的寄付などは、自らの立場を有利にする政策とか、自らの理念の実現などを望むために行うのですから、利他的とは言えない面があります。

 また、ある集団内でその集団のメンバーの誰かを援助するということが行われます。これは相互扶助というものです。確かに援助するメンバーは費用を負担しますが、見返りが期待できるのです。自分が困ったときには、今度は他のメンバーから助けてもらえるのですから。これは保険と同じシステムです。これは利他的行為とは言い難いでしょう。

 では、国家が困窮者を援助するのも相互扶助でしょうか。社会保険などにはその性格があります。しかし、国民の間には所得格差があり、費用を負担できる能力にも差があります。国家は富めるものから多くを徴収し、貧しいものに移転します。所得の再分配をするのです。これは公的な利他行為であり、その動機(為政者の意志なり、国民の総意)には利他心もあるでしょうが、国家のまとまりを維持し、発展を阻害しないという現実的な目的意識も大きいでしょう。

 一方、利己的な行為は一般に犯罪として罰せられます。しかし、その行為による損害が小さく、しかも罰するコストがその損害に比して高すぎれば、見逃されます。

 たとえば、大勢の人が限られた入口を通ろうとするとき、行列などが形成されることがありますが、後から来た人がそれを無視して先に入ろうとしたら(横入り)、それを咎める人はどのくらいいるでしょうか。横入りによる損失(入場などの遅れ)は、咎め立てして反撃されたら受ける損害よりも少ないでしょうから、黙って見過ごす人は多いでしょう。

 もし、多くの人が咎めようとするなら、そのような人も同調するでしょう。しかし、横入りする人が多くなったら、その人もきちんと並ぶのをやめて横入りしようとするかもしれません。そうなると行列は崩れ、人々は入口に殺到するでしょう。

 また、よく見られるのがゴミのポイ捨てです。ゴミが公共の場所のそこら中に散乱すれば、景観や衛生に悪影響を与えます。それを迷惑に感じる人は多いでしょうが、各人が独自にそれを防ごうとするのは負担が大き過ぎます。たまたまゴミを捨てる人を見かけたとしても、それを注意するには勇気がいります。不当な反撃にあったり、無視されたりしたら、肉体的ないし精神的に傷つくおそれがあります。捨てた人がゴミをそのままにして去ったならば、注意をした人がそのままにしておくことは難しくなります。ゴミを放置しておくことは、ゴミを捨てた人と同じ立場に自分を置くことになってしまうからです。結局その人はそのゴミを自ら片づけざるを得なくなるでしょう。

 ゴミが散乱した地域では、ポイ捨てへの注意は空しくなります。新たなゴミが追加されようと、それを阻止しようと、ほとんどからです。変化は起こらないからです。逆に、きれいな地域ではゴミを捨てることをためらわせるでしょう。地域のゴミの状況の違いは、マナーの違いを現していて、そのマナーの水準から外れることはサンクションを受ける可能性が高くなります。

 フォーマルな法は重大な利己的行為とみなされるものは罰しようとしますが、その範囲を慎重に限ります。範囲を広げたとしても、それを罰する能力(資源)がなければ、法に対する一般的な信頼を損なってしまうからです。社会がある程度の利己的行為に耐えられるのであれば、為政者はそれを放っておくでしょう。

 法を補完するのがルールとしてのマナーです。マナーをあえて無視して(小さな)利己的行為をする人は、悪い評価を受けることになります。

 つまり、利己的でも利他的でもない行為の両側には、若干利己的である行為と若干利他的である行為という二つの帯が、許容されるものとしてくっついているのです。そこでは自然発生的とでもいえるルールにより、利己性を抑え利他性を喚起しようとする傾向が見られます。

9 利他性

(1)法と道徳

 さて、これまで検討してきた利己性と利他性の関係をまとめてみましょう。行為においては意図されたもの(実現前)と結果(実現)は必ずしも一致しませんが、意図から見た行為は次のように分類できるでしょう。

 A:強い利己的行為(禁止される)

 B:弱い利己的行為(マナーによって抑制される)

 C:利己的でも利他的でもない行為

 D:弱い利他的行為(マナーによって指示される)

 E:強い利他的行為(賛美されるが強制されない)

 Cには自己にも他人にも同時に利益を与えること(いわゆるwin-winの関係)も含まれます。このように分類すれば、多くの行為が、少なくとも意図的には、利己的でも利他的でもないということで、Cに含まれるでしょう。Cに分類される行為は、自己の利益にのみ注目すれば利己的とされ、他人への影響という観点から利他的とされることもあります。これが事態をややこしくさせてしまうので、ここでは、利己的・利他的という言葉を、上記の分類の意味で使うことにします。

 もちろん、結果の判定というのは難しいことです。その時点では影響は見られなくとも、長期でみれば、あるいは因果の系列を長くたどれば、何がしかを確認できるかもしれません。また、嫉妬のような感情が起こることを損害とみなせることもできるでしょう。その辺りは常識的に判断するしかありません。

 よき意図のもとに悪い結果をもたらしてしまうことを利己的と言うことは、悪い意図のもとによい結果を招くことを利他的と言うのと同じに、道徳的観点を混乱させます。前者は愚かであり、後者は幸運だったということに過ぎません。もちろん、愚かであることは重大な欠点です。結果は行為の善し悪しの判断の対象となります。そして責任追及の基礎となります。しかし、結果からだけでは意図の善し悪しを推し量ることはできません。あくまで意図が問題視されるのです。

 さて、利己性が嫌われ利他性が好まれる理由は明白でしょう。他人が利己的であると私たちは損害を被るから嫌うのであり、他人が利他的であれば私たちは利益を得るから好むのです。しかし、自分自身が利己的であれば利益を得るし、利他的であれば損をします。このことにどう折り合いをつけるのでしょうか。

 集団という、他人とともに暮らす環境では、利己的な行為のみを制限することが一つの方法です。つまり、利己的な行為は禁じるが、利他的な行為をしないからといって罰は与えないというルールを作るのです。それが刑法に当たるでしょう。刑法はAをその範囲とします。

 Cについては、当事者に任せればいいのですが、そこには見解の相違からくるトラブルが発生する恐れがあります。共通の基準としての取り決めが必要であり、それが民法や商法に当たるでしょう。民法や商法はいわば手続き的なルールであり、Cをその範囲としますが、BやDも含まれるのかもしれません。

 実はこのようなシステムはアダム・スミスの道徳論に親和的なのです。アダム・スミスは、法の根拠となる「正義」は社会を支える柱であるから必須ではあるが、「慈恵」は建物の飾りでしかないから、なければ華やかさに欠けるけれども、社会が崩壊することはない、とみなしました。スミスの言う正義とは、他者を侵害するべきではないということに限られます。つまり、利己的行為(A)の禁止です。それ以外の行為については当事者の自主性にまかせるのです。

 Cの領域では、自己が欲する行為は他人に無害であるか有益であるのですから、抑圧される必要も奨励される必要もありません。

 一方、DやEの領域は同感という感情によって自然発生的に生まれることが期待されます。そのメカニズムは次のようになります。困窮している人の悲しみや喜んでいる人の喜びを見ると、同じ感情が起こります(同感)。同感された悲しみは不快なので人はそれを減少しようとし、同感された喜びは快なので人はそれを増加させようとします。つまり他人の感情を変化させるために他人の状況に干渉しようとするわけです。それが利他的行為です。

 ただし、当事者の自主性にまかせるとしても、各人の立場や考え方の違いから、不公平が生じる可能性があります。スミスは「中立的な観察者」というものを想定し、それを各人が心の中に持つべきだと主張しました。しかし各人の心の中の普遍的な「中立的な観察者」とは、理念とか原理、あるいはマナーといったものであり、スミスが依る道徳感情論とはそぐわないと思えます。そもそも、スミスが正義の基礎としたのも、侵害した人に対する侵害された人の憤慨への(第三者としての)同感であり、それが侵害した人への罰を生み出すのです。もし、正義が理念や原理として機能するならば、同感という感情は必要なくなります。

 ところで、スミスはEの領域を扱いかねています。利他的な行為はそれがもたらす喜びによって行為者に利益になるゆえになされる、というのがスミスの主張です。喜びの内容は、主に非援助者の喜びへの同感ですが、非援助者からの感謝、他者からの賛美、自己自身の努力に対する満足などが加味されます。スミスは利他的行為の本質は利己的行為であるとしているので、当然、利他的とされる行為による利益(喜び)はそのコストを上回らなければなりません。しかし、自らを滅ぼすほどのコストを担ってまで利他的行為をする人がいるのも事実です。そこまで行かなくとも、感情的な満足では補えないようなコストを担う例は少なくありません。その人たちを突き動かしているのが理念や原理であるとしたら、道徳感情論はそのような理念や原理による行為は道徳的ではないと主張すべきでしょう。あるいは、そのような理念や原理が感情を喚起するのであれば、感情そのものをもっと分析すべきでしょう。

(2)理性と道徳

 Eを道徳の中に組み込むためには、利己心を抑える機能を私たちの中に見出すという方法もあります。カントに典型的に見られるように、それが理念なり原理とされるものです。理念や原理は理性によって見出されます。

 カントは道徳を義務的なものとして捕えました。道徳が社会の調整機能を果たすなら、それは義務ではなくて便利な道具であり、負担とはならないはずです。なぜそれが義務でなければならないのでしょうか。

 カントは、主体の行為が、それが及ぼす影響下にある人全て(主体を含めた)にとって、公平な結果をもたらすべきであると考えました。もちろん、その行為が道徳的であるためには、結果は利益をもたらすもの(損害を減少させる場合も含めて)でなければなりません。少なくとも、他人に害を及ぼすものであってはならないのです。そういう条件下においても、行為の選択肢がいくつかあり、その中には結果が偏るようなものもあります。極端な例では、他人には益にも害にもならないが、行為の主体にだけ利益をもたらすような行為が考えられます。カントは、特定の人間(たとえ行為の主体ではなくとも)の立場を優先する視点をとることは、道徳的ではないと考えました。行為に影響を受ける全ての人の視点に立つことで、特定の人を優先することから免れているべきだとしたのです。

 つまり、たとえ他人に害をもたらさないとしても、自分の利益を優先することは道徳的ではないことになりますので、道徳的であることは利益を上げられるかもしれない機会を放棄することに他なりません。道徳は社会の全ての成員に利益を与えることを目的としますが、特定の機会における個人の利益については認めないことが、人々に義務(費用負担)感を持たせるのです。

 しかし、そのことが理性によって直接導き出されるとは言えないでしょう。少なくとも他人に害を与えなければ、自己の利益を追求することはゆるされるという道徳も成り立ちうるからです。そのような道徳からカントの道徳まで、利益の分配についてあらゆるパターンが考えられます。そのうちのどれを選ぶかは、理性によっては決められません。

 そもそも、なぜ他人の利益を考慮しなければならないのでしょうか。他人に害を及ぼせば協同は成り立たず、その結果協同による利益が失われるということは理解できます。しかし、協同でない行為から得られる利益を、自己だけのものとせずに、他人にも分かち与えるべきなのはなぜでしょうか。自由主義的な考えからは、自発的な交換によって得た利益は当事者に属するものであり、所得再分配をすべき正当な理由などないのです。

 では、自由主義者に対する反論を考えてみましょう。まず、嫉妬による悪影響が思いつきます。しかし、嫉妬は理性的ではありません。理性的でないものを無視するのは理性的ではないのですが、ここでは理性は理性のみを相手にすると考えましょう。唯一打ち出せる理由は、人間の行為は全て(たとえ独力で成し遂げたと見えていても)協同的であるということです。この理由は理性を十分に納得させるものではありません。ただし、社会的な行為を全て交換に還元できないことは、自由主義者でさえ認めるでしょう。ですから、問題は、どこまでが協同行為であり、どこからが商売(自発的交換)にできるかということです。そのことを決めるルールを作ることが理性の役割ということになります。ルールが明確にされれば道徳は必要なくなるでしょう、ただし、ルールが常に守られるのであれば。ルールが守られねばならないのは、そうでなければルールが崩壊し、社会が成り立っていかないからです。そのことを理解していれば、ルールは守られるでしょう。理性はそう期待します。

 しかし、ルールでさえ守らせるには理性では足りません。強奪や詐欺を防ぐには、強制力が必要になります。それは理性が不足しているからでしょうか。しかし、ルールを破れば(短期的かもしれないが)利益を得られる機会があるときに、それを見送るためには理性だけでは十分ではないようです。

 理性や合理性はそのような利己的なものではないという意見もあるでしょう。理性や合理性はそのような目の前の損得計算に汲々とするものではなく、長期的・総合的・全体的な視野に立って物事を判断するものであり、ある種の尊厳を備えているものである、そう言いたいのかもしれません。理性を道徳の根本にすえたい人たちの願いがそこにあります。理性にさまざまなハクをつけることが、理性主義者たちの仕事になります。あるべき理性を祭り上げ、そこにできるだけ近づくことを人間の責務とするのです。

 しかし、理性や合理性は所詮は手段に過ぎないのです。手続きとしての制約は与えてくれますが、目的までは与えてくれないのです。

 社会的な観点から言えば、道徳とは他人を害する行為をいかに抑制するかということに主眼があります。利他性には違う根拠が必要なようです。

(3)集団と道徳

 荒っぽい定義をすると、道徳とは社会生活を円滑に営むための約束事です。その約束を守るために成員各自は相応のコスト(利益の断念を含む)を支払うことを余儀なくされますが、それによってそれ以上の利益を得ることができるとだれます。ここには利他性を含む必要がありません。確かに、私たちは、特定の個人ではない、いわゆる社会と呼ばれるものに対して負担を引き受けるのではありますが、社会の中には自らも含まれているので、他人事ではないのです。負担はそれ以上の見返りが期待されるのです。

 このように定義された道徳であるならば、理性的に理解できますし、利己性を捨て去る必要もありません。

 さて、このように定義された道徳には、何か欠けたところがあるでしょうか。道徳的な人とは、自らのことを第一にするのではなく、他人に尽くすことを信条としている人、というようなイメージがあります。実感としても、道徳を守るということには、他人の利害に配慮して自分の欲望を抑えることのように思えます。しかし、そのことが道徳が一義的に利他性と結びついていることを示しているわけではありません。道徳が守られることによって何らかの利益を得ているなら、純粋な利他的行為とは言えないのですから。そのことを意識しているかどうかは別の問題となりますが。

 道徳に利他性を含ませるには、集団を成り立たせることにおいて各成員が相応の役割を果たしており、彼ないし彼女が欠けることは集団の損失になる、という見方を導入する必要があります。成員の一部が困難な状況に陥ってその役割を果たせないとき、彼らを助けて少なくとも元の状態に戻そうとすることは、集団の他のメンバーにとって利益となります。共同体は協働体であるゆえに、互助が合理的であるということになります。

 しかし、社会を成り立たせているのは協働ではなく、個々人の行為の集積でしかないという考え方もあります。自発的交換によって結びつけられた集団の成員は、お互いに助け合おうとしているのではなく、自己の利益の追求が相手の利益にもなるという関係によって集団を維持しているにすぎないのです。そこで防がねばならないことは、何らかの強制的な力によって交換の自発性を歪めることです。そのために集団の成員は協力して抑止力を組織します。公的な機関はそれが役割であり、それ以上のこと(たとえば所得再分配)をするのは越権行為なのです。結果としての差異は、努力や能力や運などに左右されますが、それを個人の責任とすることはできないので、是正する理由にはなりません。これはスミスなどから始まる自由主義思想の考えで、たとえばロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)に典型的な表現がなされています。

 一方で、全体という視点を必要とせずに(利己心のみを使って)、所得再分配を説明しようとする試みもあります。行為の結果は各自の責任になりますが、災害や病気や失業などで困窮する人が出てきます。このような不運は誰にでも起きる可能性があり、それに対して集団的な相互扶助の仕組みが形成されることもあります。これは社会保険の一種であり、各メンバーが保険料に相当する負担を担いますが、低い確率でも困窮に陥ったときには援助という受益を得ることができます。このような考えを理論化したのが、ジョン・ロールズの『正義論』(1971年)です。ロールズは「無知のベール」というものを想定して、未来の自分の状況は不可知であるから、少なくとも最低の状況にある人への援助を制度化することにより、そのような状況に陥ったときの保険にするのが合理的であるとしました。

 ところで、個人の成果を個人のものとして認めた場合でも、その影響が波及することが問題になります。行為の結果が累積して個人間に格差が生じ、その格差が世代によって累積されると階層が形成されます。階層間の軋轢が生じると、社会の分裂や崩壊を招きかねません。そのため、富めるものから貧しい者への再分配が制度化されることもあります。これはまさに利他的な行為ですが、社会の安定は富める者にとっては受益になるのですから、一種の取引と言えるでしょう。

 このように、個人的にしろ社会的にしろ、利他的行為を説明ないし基礎づけようとする試みはいくつもあるのですが、Eの領域は取り残されています。Eについてはフォーマルなものにしろインフォーマルなものにしろ、ルールは適用されません。

 なぜ、人は、強制されるわけではないのに、利他的に行為することがあるのでしょう。なぜ、人は、自分に直接利害の関わりがないのに、他人の利己的な行為や利他的な行為に反応するのでしょう。

 もし、利他性に、よいことをしたという満足、他人から称賛されるという喜びなどの心的な報酬(「快」と呼ばれるようなもの)が期待されるならば、それが動機となりうるでしょう。しかし、快を期待して利他的行為をするなら、利他的行為と他の行為とを区別するのはできないことになります。

(4)利他的遺伝子

 カントが道徳的行為から喜びを追放しようとした気持ちは分かります。喜びのようなあやふやなものを道徳的行為の基礎になどできないからです。行為に喜びか伴わなくとも、なされるべきことはなされねばならないのです。それどころか、喜びのようなものが伴うことで道徳判断がゆがめられないように、一切の道徳的行為は喜びを度外視しなければならないのです。そればかりでなく、道徳的行為が尊ばれるものであるならば、その遂行には困難が伴うはずです。誰でも手軽にできるのなら、尊重する必要などないのですから。

 しかし、シラーが皮肉ったように、私たちは友達を助けるのに、いやいやするのではなく、喜んでするのです。むしろ、いやいやながらよりも、喜んでする方が道徳的に称賛されるべきではないでしょうか。

 事態を複雑にしているのは、既述のように、行為それ自体が報酬を伴うという視点です。全ての人間的行為が心的報酬を求めてなされるのであれば、動因という点では、利己的行為も利他的行為も同じになります。

 行為が報酬づけられているということは、その行為が遺伝子にとって好都合だからなのですが、私たちには必ずしもその好ましさが理解できるとは限らないのです。その行為が私たちには損失と見えていても、遺伝子にとっては利益である場合、私たちはやらざるを得ないのです。利他的な行為とは、すでに見てきたように、後悔と同じような構造を備えているのです。

 整理してみましょう。自己保存の観点からは、生物は自己の利益を目指すはずです。そういう意味では人間の行為は全て自己の利益を求めるという意味で合理的であるはずです。結果として得られなくとも、意図としては利益を見込んでいたのなら、やり方が合理的ではなかったとしても、行為自体は合理的であったのです。短期的には損失と見える行為も、長期的に利益を得られる見込みがあるのであれば、合理的です。それゆえ、行為はすべて合理的=利己的な行為であるはずです。

 しかし、自我(意識)が利益とみなしていることが、遺伝子の求めている利益と同じとは限りません。前者は後者の媒介項でしかないかもしれないのです。

 本来は利己的な行為が利他的とみなされるということの説明の一つが自己欺瞞という考え方です。

 遺伝的進化論の主流の理論は徹底的に個人的です。ある人が他の人を援助するだけで見返りを求めていないとき、実は見返りは時間をずらして行われているのだとみなします。援助は時間をかけた交換(取引)であるわけです。援助を受けた者は債務を負うことになり、援助をした者は債権を取得します。負債はいつかは弁済されねばなりません。弁済できない者、しようとしない者は、このサイクルから排除されて、援助を必要とするときに援助を受けられなくなります。つまり、利他的行為に見えてはいるが、実は交換の片方にすぎないことになります(互恵的利他主義)。

 このようなメカニズムがあれば、集団選択論は必要ないことになります。集団選択論とは、お互いに助け合う傾向がある集団は、そうでない集団よりも生き延びる確率が高いので、後者が淘汰されて前者における傾向が普遍化した、というものです。集団選択論への批判は、そのような集団にはフリーライダー(援助は受けるが援助はしない)が発生し、彼らの方が効率がいいので彼らのやり方が支配的になってしまう、というものです。

 しかし、私たちが人を助けようとするとき、ほとんどの場合、お返しを期待したりしません。むしろ、お返しを期待することはやましいこととみなされます。そのことを互恵的利他主義論者はどう説明するのでしょうか。それが自己欺瞞説です。人間関係において、利己的な行為を相手に利他的と見せるためには、行為者自身が利他的であると信じるのが効果的である、というのです。

 しかし、自分で自分を騙すというメカニズムは自己の多元性を前提にしなければならないでしょう。多元性を前提にするならば、私たちの次元(自我)では利他性の真の利益は知りえないとする方がシンプルな説明となります。つまり、利他的行為は遺伝子によって報酬づけられているけれども、その理由を私たちは知らない、と考える方が妥当ではないでしょうか。

 では、遺伝子は利他行為をなぜ報酬づけるのでしょうか。それを考えてみることにしましょう。

 私たちが行為する際には、好ましさのようなものがそこにはあることを認めましょう。「喜び」とか「快」という言葉は適切ではないので、「報酬(づける)」という言葉を使うことはすでに述べました。行為が心的に報酬づけられているとみなすのです。逆に言えば、報酬づけられた行為しか、私たちは取れません。さらに、この報酬づけが意識される必要はありません。ある行為が喜びであるか苦痛であるか、それともそのどちらでもないのかという判断も、機能的に報酬づけられているのです。こう考えると、カントとシラーに折り合いをつけることができるでしょう。

 さて、私が提案しているのは、他人を助けるという行為が報酬づけられているとしても、その行為自体にではなく、行為を引き起こす誘因(トリガー)が報酬づけられているのである、という解釈です。

 行為と報酬の関係をもっと詳しく見てみましょう。まず考えられるのは、行為による結果として何らかの利益がもたらされ、行為はその利益を目的として起こる、というものです。この場合、行為がなされる際にはまだその利益は得られていません。もし、行為が起こされるためには利益が必要ならば、まだ得られていない利益の代わりのものがなければならないでしょう。では、利益の予想によって行為は取られるのでしょうか。そうは考えにくいのです。衝動や欲望といった動機は、予想のような中立的なものではありません。そこにはすでに行為の萌芽が含まれているのです。

 別の考えとして、行為の結果ではなく、行為そのものに報酬が伴っている、というものがあります。しかし、行為自体が報酬づけられているとしても、行為を起こす前にはまだ報酬は得られないという事情は変わりありません。行為の決定と行為の間にはすき間が残っています。この隙間を埋めない限り、行為は起きません。このことはどう説明されるのでしょうか。

 その前に、もし行為に報酬が伴うのであれば、その報酬は行為の種類によって異なるのかどうかを考えてみましょう。行為一般ではなく、特定の行為が求められるのであれば、報酬の違いが行為を選択する手掛かりとなります。

 報酬が行為の結果の反映であるのなら、様々な行為によって得られる結果の違いが報酬の違いをもたらすとみなすことに問題はありません。しかし、その違いは量的なものと質的なものという二つが考えられます。その報酬が質的であるとするならば、行為ごとに報酬が異なっていなければならないでしょう。しかし、行為ごとに違った種類の報酬が結び付けられているとは考えにくいのです。進化がそのような面倒な仕組みを採用するとは思えません。報酬はどの行為でもみな同じと考えた方が適切だとすれば、報酬の違いは量的なものということになります。

 しかし、報酬の量の大小で行為が選ばれるのであれば、利他的行為の報酬がなぜそれほど大きくなり得るかという疑問が起こります。利他的行為の結果としての報酬は援助者には属さないのですから、そのコストを埋めるだけではなく、他の行為より優先されるほどの報酬がその行為自体に必要となるはずです。単に報酬の大小だけで行為が選択されるなら、報酬がそれほど大きい利他的行為が頻繁に選ばれないのはなぜでしょうか。

 であれば、どの行為をとるべきかは、単に行為が報酬づけられているということだけでは決められません。行為の選択は状況が手掛かりになるはずです。つまり、行為主体が状況を認知し、それがトリガーとなって特定の行為に結びつく、そう考えるべきでしょう。さらに、行為が起こるためには、トリガーは行為を指し示すだけではなく、その行為への報酬を前払いしていると考えるべきです。状況の認知がトリガーを発動させ、適切な行為につながるように報酬を先取りさせるのです。

 ただし、そう考えると、報酬の支給先がトリガーから行為へと移転するという想定をする必要はなくなります。行為がなされている間も同じ報酬づけが続くなら、報酬の支給関係が変わるという面倒なメカニズムではなく、同じ支給関係のままが採用されやすいでしょう。つまり、行為に伴う報酬は、行為自体に結び付けられているのではなく、特定の状況に適切に対応した行為が取られることに対して与えられるのです。

 では、利他的行為にこのことを当てはめてみましょう。利他的行為の場合のトリガー状況とは何でしょうか。それは、対象が「困っている」ことです。困っている対象に対して利他行為はなされるのです。これは当たり前のことかもしれませんが、利他的行為を利己性から切り離す重要な点です。したがって、利他的行為の直接的結果としては費用(コスト)を支払うことになります。

 「直接的」という制限をつけたのは、むろん、進化論的にはそんなことはあり得ないという批判を避けるためです。利己的主体がコストを引き受けっぱなしの行為をするはずがなく、いつか何らかの見返りが期待されているはずなのですから。「情けは人のためならず」というわけです。これは互恵的利他主義でも取られている視点ですが、私はその有効性は限られているとみなします。利他的行為に報酬があるとしても、その機序の起源ははるかな過去にあり、説明はそこに求められるべきと考えます(詳細は後述します)。

 トリガーという概念を使ったのは、それが複雑な要因を含まないことを意味したかったからです。利他的行為のトリガー状況は、単に「困っている」という状態であり、対象が誰であるかは含みません。身内であろうが、知人であろうが、見知らぬ人であろうが区別しません。それどころか、人間である必要もなく、動物であることすら必要ではないのです。当面の敵でさえも、他のトリガーとの競合に勝てば、助けるのです。さらに驚くべきことは、利他的行為は行為主体の死すらもたらすことです。

 なぜ利他行為はもっと慎重ではありえないのでしょうか。考えられるのは、利他性を必要とする状況は切迫したものであり、状況を構成する多くの要素をいちいち検討しているヒマはないから、というものです。もっとも重要とされる要素は、困っている(助力を必要としている)ことです。他の要素は時間的な余裕があれば検討の対象となるでしょう。人間の限られた能力では、それらを、緊急性を要する利他性に含ませることはできなかったのです。この過程は長期にわたる遺伝的継承によって形成されたと推測されます。

 利他性を互恵的利他主義で説明しようとすると、援助する対象の困窮の度合いは少ない方が好ましくなります。なぜなら、あまりに困窮している相手は、たとえ一時的に助けることができたとしても、お返しをする能力がない可能性が高いからです。また、援助のコストが高すぎると、援助者自身が困窮してしまいます。好ましいのは、強力な相手が一時的に困っているときです。彼らに恩を着せることができれば、見返りは大きいのです(しかし、弱小の相手にお返しをする必要を強者が感じるのというのは、互恵的利他主義では謎でしょう)。最も好ましいのは、困っていない相手を助けようとすることです。援助のコストは低いし、被援助者のお返しの能力も損なわれていません。しかし、そのようなお節介を被援助者は快く受け入れません(おべっかとして受け取るのなら別ですが)。「恩着せがましい」「恩を売る」というのがそのような態度に対する評価となります。いずれにせよ、互恵的利他主義者が援助をするのは、適度な能力なものが適度に困っているときに限られるでしょう。

 さて、もう一つ付け加えねばならないのは、困窮が「一時的」であるという要件です。これはある意味で残酷なことなのですが、進化論的には欠かすことができません。私たちの利他的行為の後に被援助者の回復が望める場合にだけ、利他性のトリガーが働くのです。

 そのことについても私の仮説を述べます。利他性の対象となる困窮が一時的であるのは、私たちが協働することにそれが根差しているからと思われます。協働がなされるのは、各自が単独で活動して得るよりも、協働して得たものを分配する方が有利であるからです。協働の方が生産性が高いのです。もし、協働しているあるメンバーがケガなどで一時的に脱落した場合、彼を援助せずに死なせてしまえば、協働の規模が縮小し、生産性を下げてしまいます。もちろん、援助しないことでその分の損失は避けられます。しかし、一時的に、低い生産性の下にあっても我慢して彼を援助すれば、彼の復帰によって元の生産性を回復できます。どちらが有利でしょう。進化は利他性を選んだようです。

 この仮説は集団選択論を改良したものです。集団選択論はフリーライダーの存在を根拠に反駁されています。フリーライダーを防ぐには規制による排除も考えられますが、効果的ではなさそうです。この仮説は、生産性と、「一時的」な「困窮」という条件によって、フリーライダーを排除しようとするのです。フリーライダーは援助をしないことで当面のコストは免れますが、その属する集団は長期的な生産性の低下によって打撃を受けます。また、「困窮」と「一時的」という条件はフリーライダーが援助を受けっぱなしではいられなくさせます。

 ただし、実際の利他的行為は困窮が永続的であっても対象とします。回復が見込めないような困窮者を助け続けることには、何か別の要因が必要です。そのことについてはここでは検討しませんが、私たちの利他性は持続性が弱いのは事実です。そのことは、利他性の対象の要件が「一時的な困窮」であることを現わしているのではないでしょうか。

 もう一つ問題になるのは、協働を利他性の基礎とするのであれば、助ける相手は限定されるということです。これは互恵的利他主義においても言えることです。見返りを期待するには、非援助者とのつながりを確保しなければなりません。関係の継続性が重要です。

 はるか昔の小集団の生活では、日常接する人は限られていて、集団のメンバーであることをいちいち確認する必要はなかったでしょう。ですから、援助者と非援助者の関係は常に継続的であったのです。そのことと、既述のトリガーの制限という条件があって、利他的行為が遺伝化されたと考えられます。

(5)超道徳

 しかしながら、利他行為の進化論的起源が過去のものであり、利他行為は行為主体に結果的に利益をもたらすことがほとんどないとしたら(その行為が他人に知られることは結果的に利益をもたらすのは事実ですが、多くは他人に知られることなく、あるいは他人に知られることを当てにせずになされます)、なぜ人は利他的行為をやめないのでしょう。その「個人的」理由は、それが報酬づけられているからです。私たちは利他的行為の結果ではなく、利他的行為そのものを追求します。だとすれば、遺伝子の目的と自己(個体)の目的が異なっていてもおかしくありません。だから、性的行為と同じようなことが利他的行為にも言えると私は思います。

 道徳というのは多かれ少なかれ利他的な要素を含んでいるように見えます。他人のために自分自身を抑えよ、利得の機会をあきらめ、場合によっては犠牲になることを覚悟せよ、そう呼びかけないような道徳があるでしょうか。一方で、そこにあるように思われる利他性は見せかけで、実は仮装された利己性にすぎない、というような説明がなされます。私はそのような説明に全面的に反対するのではありませんが、それだけでは不十分だと思います。利他的行為と性的行為が、行為として本質的に同じであるとすれば、私たちには利他的行為が必要だった、と主張することにはおかしなところはないはずです。つまり、利他的行為が「したいこと」であって不思議はありません。そして、私たちが「したいこと」に熱中するあまり、遺伝子の目的からそれてしまうことだってありえます。遺伝子と私たちとの協働関係において、私たちが利己的すぎるゆえに、遺伝子的見地からは利他的になってしまうことが考えられるのです。

 寓話的に言うのならば、遺伝子は遠い過去から私たちを操作しようとしているのですが、その方法がずさんなので、私たちは遺伝子の方法から報酬をかすめ取っているのです。

 遺伝子によって自己保存的にされている私たちに、利他的行為のような自己に不利な行為がなぜ可能なのか、ここで述べてきたことはその理解のためのささやかな試みです。ただし、それは科学的な証明ではなく、いわば思考実験のようなものです。むろん、新たな科学的な発見、特に脳科学による最近の知見はここでの論理展開の基礎になっています。しかし、科学は十分な証明が得られなければ推論の展開をためらいます。このような叙述では科学的厳密さを逸脱するのは仕方がないのでしょう。

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