守護神
私は無神論者だが、物事が起こるのがなぜこうであって別のあり方ではなかったかということを顧みるとき、何かの作用が働いているのかもしれないと思うこともある。その作用を働かせた何かに意思があるなら、その意思を好意あるものにしたい気持ちになるのも理解できる。幸運な人たちは自分を守ってくれている者の存在を感じることができるだろう。私にも守護神のようなものがいて、ときどき(常にではないが)私に関心を寄せてくれているらしい。その最初のはっきりとした現れは小学一年生のときだった。
私は父親の仕事の関係で、1952年から54年まで静岡県の長泉村というところにいた。御殿場線の沼津駅から二つ目の下土狩(しもとがり)駅の近くに父の勤務先の社宅があり、私たち家族はそこに住んでいた。社宅の前を黄瀬川が流れていた。私たちの聞かされていたところによると、奥州から駆けつけてきた義経が頼朝に会ったのがこの川の川原であり、社宅の前の川原の松林の中がその場所だということになっていた。黄瀬川というのは大きくもない川だが、小さな私たちには大河に思えた。私たちの遊び場はこの川だった。川原のところで川は低い石垣の堤でせき止められ、水は堤を乗り越えて流れ落ちていた。私たちはこの堤の上で遊んだ。大雨の後で増水した日、堤の上で遊んでいた私は二回も転んでずぶぬれになり、その度に家に帰って母に着替えさせてもらったことがあった。堰から水が分流され、入口に水門のあるトンネルをくぐって流れていた。トンネルの出口側から流れに入って魚を取ることもあった。腿まで水につかり天井の低い暗いトンネルに入っていくのは無気味だった。川原の下流には橋があり、さらに下流には鮎壷の滝がある。この滝の下で「七人の侍」のロケをやった。(私は見損ねた。)仲間に入れてもらえない三船敏郎が先回りして滝つぼで魚を取っているシーンだったと思う。滝の上は河床の岩が出ていて、そこも遊び場になった。
小学校は橋を渡り、下土狩駅の手前を左(北)へ折れて少し行ったところにあった。下土狩駅の前の通りには、馬のひづめに蹄鉄を打つ店があった。私たちの通う道は裾野の演習場に通じていて、たまにアメリカ軍のトラックが通った。アメリカ兵がガムやチョコレートを投げることがまだあったようで、それを子供達は期待していた。私はただただ恐くて、アメリカ軍のトラックが通るときどこかの家の塀の中に逃げ込んだ記憶か、あるいはそういう夢の記憶がある。その辺りからは富士山がよく見えた。学校のグラウンドの向こうの麦畑の上にいつも富士山があった。
私は級長であった。その頃は、成績がよく、おとなしく、先生の言うことに素直に従うような生徒が級長になったのである。だが、私は級長としては不適格だった。引っ込み思案であり、人見知りが激しかった。そういう私が級長でいられたのは、級長のやることはルーチン仕事だったからだ。たった一度、突発的な出来事のために危機に陥ったことがあった。
そのとき、なぜ教室で校内放送を聞くことになったのかは憶えていない。校庭での朝礼が雨か何かで中止になったのか、それとも毎朝の決まりごとだったのか、とにかくみんなで放送を聞こうとしたがスピーカーが鳴らない。先生(女性だった)がスイッチをいじくるが直らない。先生は突然(と私には思えた)、私に放送室に行って放送が聞こえないことを伝えて来るようにと命じた。私は「はい」と答えて教室を出た。私は放送室がどこにあるか知らなかった。
知らなければ聞けばいいのだが、私はそれができなかった。先生もみなも私が放送室の場所を当然知っていると思っている。私が当然知っているはずだというみなの期待を裏切れなかった。もっと意地悪く考えれば、自分が放送室も知らないような間の抜けた人間であり、そんな人間なのにみなを差し置いて級長をしていることが知られるのが恥ずかしかった。言葉にしてみればそんなことになる。しかし、そういうことが判断として働くのではない。そういう他人に対するおもんばかりが身に着いてしまっているせいか、他人から何か返答せねばならないことを言われると、機械的に「はい」と言ってしまうのだ。本当に答えるべきことがどうであれ、「はい」という内容に合わせればいい。時には言ってしまってからまずいと気がつくが、もう取り消せない。
私たちの教室のある棟は職員室のある棟とは平行に並んでいて、渡り廊下でつながれていた。私は放心状態で教室を出た。とりあえず職員室の方へ行ってみれば何とかなるのではないか。しかし、職員室へ入ってそこにいる誰かに聞く度胸は私にはなかった。私にできることは放送しているところを独力で探すことだろうが、どこを探せばいいのか分らなかった。私はなすこともなくうろうろすることに時間を費やし、教室にいるみなに不審がられ、やがてもっと目はしのきく誰かが派遣され、正しく放送室に行くだろう。そこで、私が放送室を見つけられず、そのことで誰かに助力を求めるのでもなく、ただ漫然としていたことが分るだろう。今まで何とか誤魔化してきた私の無能さと無責任さが明らかになるだろう。私は破滅に向かって歩いていった。引き返すこともできなかった。もうすぐ渡り廊下を渡り切る。その寸前、私の名が呼ばれた。振り返ると教室の窓からみなが私を呼んでいた。
「放送が直った」
そのときの気持ちまでは憶えていない。ほっとしたのは間違いない。うれしかったというよりも、迷惑なことが去ってくれたという思いが強かっただろう。後の人生のことを考えると、私がそこで試練にあった方が、謙虚さを学べて、自分の生き方を変える機会になったかもしれない。実際に起こったのは、危機のときには何かがきっと助けてくれるという信念が芽生えたことだ。その信念は半生の間ほぼ保たれたといっていい。信念の形成には事実が寄与するが、いったん出来上がった信念というものは事実によっては決して裏切られないゆえに。
しかし、よく考えてみれば、守護神がいるなら、私が危うくなってから助けるのではなく、危うくならないようにしてくれるべきではなかろうか。その方が、お互い手間がかからないと思うのだが。それほどの力はないらしい。