井本喬作品集

子供の泣き声

 私の入院している病室の同じフロアーに小児科の病室もあった。ときどき、子供の声が廊下を越えて私の病室にまで聞こえて来た。痛みを訴える声だけではなく、そのような苦痛を与えるものへ許しを乞う声だった。私はずっと以前に同じような声を聞いたことを思い出した。滋賀県の北部の病院で一月の寒い一晩病人に付き添っていたときのことだ。向いの病室で泣きながら「許して下さい」と繰り返す子供の声がしていた。いたいけな子供に対してどんなひどいことが起こったのだろう。そのときの私の状況もあって、無力な子供がそんな目に合う理不尽さを思った。

 もう20年以上も前のことだ。私の勤めていた法人には施設利用者のための保養所というものがあった。施設の行事で旅館に宿泊した利用者の「こんなにいい思いをしたのは初めてだ」という感想を聞いた理事長が、そういう経験をする機会を増やしてあげたいと、福井県との県境に近い琵琶湖畔の別荘分譲地に10室ほどの宿泊施設を法人に作らせた。トップの意向だから事前に誰も具体的な検討をしようとはしなかったが、施設を遊休しないようにするのは容易ではなかった。2泊3日で利用するとすれば、1回に20人として、1週40人、1年(52週)2080人の動員が必要になる。その頃法人には四つの施設に1000人近くの利用者がいたが、身体の状況で参加できない人や行くのを拒否する人がいるので、2、3か月に1度の参加が利用者のノルマになる。一通り体験が済んでしまうと、参加者を募るのが困難になってきた。

 年末年始は、行政の越年対策事業に協力して施設のベッドを空けておくために、利用者を保養所に長期に滞在させた。現地採用の職員はいたが、利用者には施設の職員が付き添うことになっていた。長期滞在のときは交代で派遣された。私の番は元日からだった。大阪から車で向かい保養所の近くへ来ると、前方に虹が見えた。今年は何かいいことがあると思った。

 その夜のこと、食事と入浴が済み利用者は就寝まで部屋でくつろいでいるとき、事務所にKという高齢者が来た。同室の二人が酔っぱらってうるさいから注意してくれという。利用者には飲酒を禁止していたが、隠れた飲酒はしょっ中あった。保養所は町の中心部からは離れているが、歩いたり自転車に乗って出かけて、酒を飲んだり買ってきたりする利用者がいた。Kが訴えてきた同室の二人は軽度の知的障害があり、親分子分のような関係だった。部屋に行ってみると、酒びんなどは見当たらなかったが、二人はこたつの中でいい気分になっていた。それだけではなく臭いがするので見回すと畳に便の小さな塊があった。親分の男の方が脱糞していて、ズボンや座布団に便が付着していた。私は彼を浴室に連れて行ってシャワーで体を洗い、着替えさせた。飲酒について一応の注意をして、とりあえず今日のところは就寝させた。

 消灯時間がすぎて、私が事務所で記録を整理していると、事務所のドアを誰かが叩いた。開けるとKがいて、「助けて」と言った。Kの顔は腫れて膨らんでいた。同室の二人がチンコロ(密告)したと殴ったという。私はKを事務所に入れて横にして、救急車を呼んだ。救急車はなかなか来なかった。部屋へ行ってみると加害者の二人は悪びれた様子はなく、逃げようともしていない。私が問いつめるとKに暴力をふるったことを認めた。私は部屋を出ないように言った。ようやく救急車が来て、後のことは現地職員に頼み、私はKと一緒に救急車に乗った。

 救急車は二つ向こうの町の総合病院へ向かった。Kはかなり弱っていて、私は死んでしまうのではないかと思った。病院は遠く、救急車は淡々と走っている。もっと近い病院はないのかと救急隊員を責めたい気持ちだった。病院につき、診察の結果、肋骨が数か所折れていた。幸い頭がい骨に異常はなく、脳内の出血も見られなかった。Kは病室に運ばれ、点滴と酸素吸入を受けた。私はベッドの横に座った。寒かった。ストーブを持って来ましょうと看護婦が気を使ってくれたが、酸素を使っているからストーブは使えないと後で言いに来た。貸してくれた毛布にくるまって夜を過ごした。向いの病室から子供の泣き声が聞こえた。イタイ、イタイ。タスケテ、オネガイ。ユルシテクダサイ、ゴメンナサイ。

 私は左鎖骨骨折で入院していた。六人部屋だったが私を含めて四人しか入っていなった。向いの窓際のベッドには、風呂場の電灯を変えようとして乗った浴槽の縁から足を滑らして鎖骨を骨折した人がいた。私が入院した日に折れた骨を固定していた金属を抜く手術を済ませ、もうすぐ退院することになっていた。毎日奥さんが来ていた。私の左隣、窓際のベッドの人は腎臓疾患で二か月余り入院していた。タンパクがプラス2出ていて、どの薬が効果があるかを見ているところ。右隣、廊下側は腎臓疾患で何度も入院しているらしい高校生で、同室の大人達とは接触したくないらしく、いつもカーテンを締切っていた。時おり友達が訪ねて来ていた。

 病棟の中央にナースステーション、処置室、トイレ、風呂場などが連なり、両側の病室を隔てていた。私の部屋の側は成人の病室らしく、婦人部屋もあった。反対側の病室には子供達がいた。母親に連れられて点滴台を移動しながら病室から出て来た子供にトイレで会うことがあった。

 私は結局13日間入院した。術後の処置は定期的に点滴をするだけだった。左腕が動かせないので動作が制限されたが、他人の助けを借りることはほとんどなかった。看護師にしてもらうのは背中を拭いてもらうことだけだが、毎日きちんとやってくれるわけではない。彼女たち(男性はいなかった)が助力を申し出なければ、私からは要求することなく何とか自分でした。病室に来る看護師は毎日変わった。ローテーションがあるのだろう。彼女等と接するのは朝の巡回、食事の配付、点滴のときぐらいだった。もともと人の名や顔をおぼえるのが苦手なのだが、五人ぐらいの看護師が交代で担当してくれているのは分かった。彼女たちと接するのはほんのわずかの間だが、特に注意しているわけでもないのにそのときに示す仕草で性格や技量の違いまでが感じとれる。きれいな顔をした、親切で気のきく看護師がいて、彼女は背中を拭いてくれるばかりでなくマッサージまでしてくれた(たぶん彼女は患者達の人気者なのだろう)。その他の看護師は、若くて経験が少ないか、経験はあっても事務的に仕事をこなすようになってしまっているようだった。点滴の容器を私の見えない頭の後ろに吊るしておいて、液がなくなったら知らせて下さいと言って行ってしまったり、左腕を固定している私に平気で体温計を渡したり(左脇には体温計をさせず、右脇にさすための左手は使えないのに)、大したことではないのだけれどあまり丁寧に扱われてはいない気がした。看護師の一人は私の読んでいた雑誌を見て、福祉職の資格について話しかけてきた。高齢者介護の仕事に医療職が進出しているので、こういうことが話題になるのだ。彼女は少し蓮っ葉な感じがした。彼女が以前にいた病院は私の勤めていた施設の近くだった。(そのことは言わなかった。)彼女はキャリアについて漠然と考えてはいるのだが、はっきりした方針を立てられないでいるようだった。

 私は食事を全て食べ、よく眠った。痛みもなかった。起きている間は本を読むかテレビを見て過ごした。近いうちに退院できることが分かっていたので、待つだけだった。退屈ではあるが、耐えるのはたやすかった。隣のベッドの人のように退院のめどもなく長期入院するのはつらいだろう。

 子供達のいる部屋からはときどき声が聞こえてきた。ヤメテ。イタイ。ハヤクカエリタイ。センセイ、ワルイ。ある夜、一人の子供の声がなかなかやまなかった。私はベッドから出て廊下に立った。その声で眠れぬというわけではなかったが、何が起こっているのか気になった。廊下には誰もおらず、その声がどこから聞こえるかも分らなかった。静まり返った病棟にその声だけが執拗に続く。

 翌朝、蓮っ葉な感じのする看護師が朝の巡回に来たときに言った。

「昨日の夜はうるさかったでしょう」

「少しね。昼間でも泣き声が聞こえることがあるけど、症状がひどい子が多いのですか。」

「そうでもないわ。注射を怖がって泣く子もいるし。いろいろね。」

 彼女の職業的に冷静な(冷淡と言ってもいい)言葉が私を反省的にした。泣き叫ぶ子供全てが必ずしも悲惨な目にあっているわけではないのだろう。彼らの訴えが彼らの状況に正確に対応しているとは限らないのだから、泣き声だけに反応するのは私の感傷にすぎないのかもしれない。

 Kは死なずにすんだ。入院は長引きそうなので、大阪の病院に転院した。滋賀の病院では付き添いが必要だが、大阪には生活保護の医療扶助の入院で付き添いがいらない病院があるのだ。転院する前に警察の事情聴取があった。Kは彼を傷つけた二人を訴えないと言った。傷害罪は親告罪ではないからKの意向は関係ないが、彼が証言しなければ立件できないので、結局彼の希望通りになるのである。加害者の二人は大阪に戻され、施設を退所になった。

 琵琶湖畔の保養所は運営が重荷になって、その後施設の分院のようなもの変わり、最終的には新しい施設になった。

 Kの病室の前の部屋にどのような病状の子がいたのかは聞かなかった。だから、どの程度の苦しみをその子が耐えねばならなかったは分らないままである。

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