七人の職員
先日、沼田さんを見舞いに行った。一緒に行ったのは江頭と園田である。沼田さんは定年退職して一年程して脳硬塞で倒れた。入院中に腸に腫瘍が見つかって手術し、今はリハビリのため同じ病院の療養型病床にいる。入院はちょうど一年になる。だいぶよくなって来たようだが、まだ車椅子に乗っていた。
帰りにターミナルの繁華街で食事をした。飲んで昔話をしていて、ずっと以前、たぶん二十年程前の旅行のことが出た。その旅行に参加したのは、沼田さん、江頭、園田、私と、桂、中本、片岡の七人である。みな同じ法人に勤めていたが、桂と中本は在職中に死亡した。片岡と江頭と私は退職した。職場に残っているのは園田ただ一人である。死屍累々だねえ、と私は言った。二人と別れてから、私はそのときの旅行のことを思い出そうとした。
皆でどこかに旅行しようと言い出したのは、誰だったか忘れてしまった。しかし、行き先を高遠にしようと言ったのは私だ。高台にある城跡のコヒガンザクラの花が散るとき町中に花びらが舞い落ちる、という観光案内の文句に魅せられて、ぜひ行ってみたいと思っていた。ちょうど五月になったばかり、この時期こそと強引に主張したのだ。積極的な支持はなかったものの、どこでもいいと言って賛成してくれた中で、片岡はあまり気乗りがしないようだった。片岡が彼の車を提供してくれないと旅行が実現しない。みなで説得して不承不承ながら参加を承知させた。もう一台は私の車で、三人と四人に別れて出発した。
途中、馬籠に寄った。最近も行ってみたが、当時は今のように観光地としての整備(あるいは商業化)が進んでいなかったので、足元も悪く、土産物の店や旅館なども少なく、ひっそりとしていたように思う。馬籠では何ごともなかった。妻籠は寄らずに256号線で伊那谷へ抜けた。この道は清内路村を通っている。後に『夜明け前』を読むとこの名前がよく出きたが、どんなところかの印象がない。なかなか飯田に着かないとあせりながら急いで通り過ぎてしまったのである。どこかで車を停めて景色を見たようで、そのとき田の土手にツクシがいっぱいあったのを憶えている。飯田から伊那谷を北上した。
高遠についたら夕刻になっていた。泊まるところは決めていなかった。町の旅館は高かったので、電話帳で探して電話し、安い旅館に申し込んだ。そこは杖突街道を諏訪の方へだいぶ行ったところにあった。安っぽい作りの商人宿のようなところだった。夕食にはひどいまずい魚を食わされた。私は食べ物にはこだわらない方だが、その私がまずく感じたのだから、他の者はもっとまずかったろう。みなは不平を言ったりはしなかったが、旅館も決めずに高遠まで引っぱってきて、手配したのがこんなひどいところだったので、私は責任を感じてしまった。食事から始まった酒宴が長く続いた。片岡と私は明日も運転しなければならないので、先に寝ることにした。フスマで仕切った隣の部屋で寝ようとしたが、歌声がうるさくて寝られない。桂が陽気に騒ぎ、沼田、江頭、中本が和している。園田は酒は飲めないが、人がいいので付き合っているのだろう。後で聞くと、桂は階下の台所へ行って冷蔵庫から勝手にビールを持ち出し、階段で落として音を立てて、寝ていた宿の人にとがめられたらしい。私はだいぶ我慢したが、夜も更けるのに一向終わらないのにとうとう切れて、もう寝ろと怒鳴ってしまった。それでお開きになったが、寝ながらも桂のトンコ節はしばらく続いた。あなたにもらった帯留の、ダルマの模様がちょいと気にかかる、さんざ遊んで転がして、あとでアッサリつぶす気か、ねえ、トンコトンコ‥‥
桂はふだんは物腰が低く、愛想もよく、私は割と親しくしていた。私より年上だが、後から就職したので私の部下になったこともあった。ハイキングクラブの幹事としてこまめに世話をやくので好評であり、私も参加したこともある。一緒に飲みに行ったこともあったはずだが、私は酒に弱くとことん付き合うことはなかったので、このような彼の酔態を初めて知った。
次の日には高遠城趾の桜を見た。まだ満開には早かった。城跡から街までは距離があり落花が届きそうには思えなかった。南アルプスの雪の稜線が見えた。そこそこに引き上げ、まだ早いので近くに何か見物するところはないかと車を走らせていると、梅園の表示があった。梅がまだ咲いているのだった。梅園に入り、休憩施設で食事をしたときに、片岡、園田、私以外の四人は日本酒を飲んだ。飲みはじめると腰を落ち着けてしまい、酒を何度も追加した。歌を歌って宴会を始めた。給仕の女の人にいろいろ話し掛けた。苦い顔をしている私をからかって桂は「○○の××です」と私の住所と名前を大きな声で叫んだ。しつこく何度も叫んだ。桂がアルコール依存症だという噂を私は信じていなかったが、このとき見解を変えた。かなり長い間そこにいた後、高速道路で大阪へ帰った。
それだけの話である。詳細は忘れてしまっているが、その旅行での桂たちの騒ぎぶりはずっと記憶に残っていた。
桂は後に肝硬変で死んだ。入院中に見舞いに行くと、彼はベッドの上にすわって応対した。腹がふくれていた。腹水がたまっていると聞いていた。ふだんの彼とは違い寡黙で元気はなかったが、それほどひどい症状とは思わなかった。それが最後の面談になった。葬儀は家で行われた。私たちは家の前の道に立っていた。暑い日だった。両側の家並の間の狭い道の上に白い日ざしが照りつけていた。
中本もアルコール依存症になっていたように思われる。おかしなことだが、私たちはアルコール依存症者の断酒プログラムに援助者として関わったことがある。法人の施設の中に断酒グループが設置されていて、そこに配属されたのだ。そういう勤務経験があり、アルコール依存症についての知識はあったけれども、中本にはアルコール依存症の自覚はなかった。自分は彼らとは違うと思っていたのだろう。彼の性格は彼を鬱屈させ、それが人に嫌われて彼の意に沿わぬ立場に自分自身を追い込むことになり、そのことでますます鬱屈する。奥さんや子供に手を出すこともあったようだ。彼は自分自身を制御しきれなくなっていた。ある朝、中本がフトンの中で死んでいるのを奥さんが見つけた。彼は不眠のため睡眠薬を飲んでいた。アルコールと睡眠薬の負担に心臓が耐えられなかったようだ。死因は急性心不全とされた。
中本と私は友達だった。年はほぼ同じだったが、先輩として新しく就職した私の面倒を見てくれた。もっとも、これは彼の性癖だったようで、新人には誰にもそのようにして近づいていく。しかし、二三回付き合うと、相手が逃げてしまうか、中本が嫌うようになってしまう。彼は寂しがりやで、素面では小心だった。よく知らない人には、道化ることで自分を守ろうとした。酒を飲むと不満が噴出し、誰彼となく攻撃し、同意を得られないと歯ぎしりして怒り、遂には手を出してくる。私も何度か頭をはられた。私は彼の友達としてずっと接していたが、次第に彼と酒を飲むのを避けるようになり、彼自身を避けるようになった。その頃の中本とは誰も付き合おうとしなかった。勤務が終わると彼はタイムレコーダーの前で一緒に飲みに行く相手を待つ。それを知っているので、誘われそうな連中はなかなか帰れなくて困っていた。
彼の死の直前には、奥さんの相談に乗ったこともある。奥さんはきれいで優しい人だった。私は中本によく言ったものである。お前が死んだら奥さんと二人の子供は俺が貰うから。中本が死んでしまった後、私は遺族とは儀礼的な関係しか持たなかった。奥さんがどう思っているかは別にして、二人の子供を引き受けるのは気が重かったからだ。それきりになってしまっている。
生きている者たちのその後はどうだったか。片岡はとっくにやめて、一時はスペインにいるということだったが、いまは東京にいるようだ。何をしているかは知らない。江頭は法人の上の方に疎まれ、僻地に勤務させられたり、出向させられたりして嫌気がさし、やめてしまって、いま病院に勤めている。私はといえば、やはり法人の上の方と対立してやめてしまい、いまはぶらぶらしている。