井本喬作品集

人生の機微?

 些細なことであっても、もつれた経過で行き違いが生じたせいで、人間関係が壊れてしまうというような重要な結果をもたらすことがある。

 年下の知人と一緒にスーパーマーケットへ買い物に行った時のことである。先に支払いを済ませた私は、知人がレジに来るのを待った。私の持っている5%割引の高齢者用カードを使えるように、私は知人と一緒にセルフレジの機械の前に立った。高齢者用カードを使うにはまず私の買い物カードを機械に通さねばならない。それから商品をスキャンし、精算の前に店員を呼んで5%割引の操作をしてもらう。店員が「お支払いは現金で?」と聞くので、私は「現金で」と答えた。しかし、知人は十分な現金を持っていなかったので、クレジットカードで支払いをした。それを見ていた店員が近づいて来て、そこのチェーン店で発行したクレジットカードでないと5%割引は適用されないと言った。「だから現金かどうかを聞いたのです」と責めた(むろん、客相手だから強くではなく)。私たちは謝って、商品を入れた袋を持ってそこを離れた。知人は、だったら自分の買い物カードを使えばポイントがついたのに、と言った。

 私は親切のつもりで割引カードを使ったのだ。しかも、現金で払えばすむところを、所持金がなくて割引カードを使えなくしたのは知人の方なのだ。嫌な思いをさせてすみませんでしたと謝るのが普通ではないか。二度とこの知人と一緒に行動するものか。

 そんな風に考えながら、駐車場に停めた車まで歩いているときに、ずっと以前の若いときの記憶が浮かび上がってきた。

 その頃、私はある娘と親しくなりかけていた。休日にその娘の家の近くに用事があって車で出かけた。用事がすんで時間があったので、娘の家に寄ってみた。娘は家にいたので、誘って車で出かけた。そういうデイトみたいな、二人きりの時間は初めてだった。行く先の当てはなく、しばらく走って喫茶店に入った。たわいもない話をして、帰ることにした。その辺りは観光地に近く、休日なので車が混んでいた。どの道を通ればいいか検討して、娘の提案に従った。しかし、その道はひどく渋滞していた。私は、別のルートを取らなかったことを悔やみ、渋滞中に何度か口に出した。焦ることなどなく、どこかへ回って時間つぶしをしてもよかったのに、選択の失敗にこだわったのだ。

 娘は二度と私の誘いに応えなかった。私もそれほど執着がなかったから、多少腹立たしくはあってもさほど落胆はしなかった。ただ、娘の態度は解せなかった。あのドライブのことを思ってみたことはあったが、それは関係なさそうだった。

 ところが、いま分かった。彼女は気を悪くし、怒っていたのだ。混んだ道を選択したのを悔やむことで、私が彼女を責めていたから。私にはそんな気はなくとも、私の後悔の仕方が執拗だったから、結果的にそうなっていたのだ。そのことに気づいていない私は、彼女をないがしろにするも同然だった。彼女が私を受け入れなかったのは当然だった。

 もし、あのことがなく、彼女との付き合いが続いていたなら、二人が結婚したということもあり得た。だから、ほんの些細なことでも、人生を大きく変えてしまうことがあるのだ。

 しかし、そうではないかもしれない。彼女は私を正しく見ていた。一見些細な私の態度が意味するものを見抜いていた。そこに露わになったのは、単なる一つの態度であるだけというのではなく、性格というか人格というか、その人間の全てを表現するある種のかたちなのだ。私の思い遣りのなさを、私のエゴイスティックな心根を、彼女に伝えていたのだ。

 だから、それらは人生の機微などではない。人生の本質なのだ。些細なように見えるが、それが心の全体をあからさまにし、人をひるませるのだ。強固に見えたつながりさえ一瞬にして断ち切る啓示となるのである。

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