親を叱る子
病院でも怒りの表出は見かける。むしろそういうことが起こりやすい場所なのかもしれない。不安、待たされること、医者の権威に従わざるを得ないことなどがストレスとなり、何か触発するものがあれば怒りとなって吐き出されてしまうのだ。
最近私は月に二、三回ほど市立病院に通っている。予約はしているのだけれども、診察までかなり待たされる。いつものことであり、誰でもそのように扱われているのだ。システムとしてそれ以上の改善は望めないことは承知している。だから怒らない。他の患者もおとなしく順番を待っている。
だが、ときどき、声を荒げる人もいる。たいていは、ここでのルールを理解していなくて、自分が不当に扱われたと誤解してのことだ。ごくたまには、病院のスタッフのミスに起因する場合もある。「モンスター」と呼ばれるような患者もいるのかもしれない。そういう患者に対する警告の掲示がある病院もある。それもどこでも同じだ。役所であれ、店であれ、学校であれ、福祉施設であれ。
だから、ここで記すことにも何か特に変わったところはないのかもしれないが、短い間に二回起こったので、印象に残った。
診察前の検査として採血と採尿をさせられる場合が多いのだが、採血の対象者が多くて、ここでも待たされる。採尿は待合スペースの前のトイレで行う。あるとき、障害者用のトイレの前で、息子が母親を大声で責めていた。二人の関係を確かめたわけではないのだが、車椅子に乗った高齢の女性と太った中年の男のやりとりなので、たぶん親子だろう。外見を構わないような服装や、太り過ぎの体、そしてその言葉遣いから、男の社会的階層は低く、結婚もしていないのではないかと察せられた。
母親は採尿ができなかったらしく、息子はそのことで怒っているのだ。「だから言うたやろう」と何度も怒鳴っている。病院に来る前に排尿をしてしまったのが原因だと息子は断定しているようだ。母親は何か弁解めいたことを言っているようだが(声が小さくて私には聞こえない)、息子は取り合わない。病院のスタッフの女性が、いま採尿できなくてもかまわないと取りなそうとするが、息子の怒りはおさまらない。
彼は公共の場での行動の仕方を身につけていないし、高齢の親に対する配慮の必要性についても理解していない。だが、彼に悪意があるわけではない。彼は戸惑っているのである。親の介護という難題にどう対処していいか分からずに。彼の態度が洗練されていないからといって、そのことが親子関係の本質に差をもたらしているのではないのである。
もう一つのケースは内科で診察を待っていたときのものだ。今度は高齢の女性と中年の女性(たぶん母親と娘)という組み合わせだった。母親はやはり車椅子に乗っていて、娘はその傍に立っていた。彼らは診察を済ませて帰ろうとしているようだった。母親が何かを言った(やはり私には聞こえなかった)。すぐに娘は「違う」と強い口調で返した。そして、「勝手に判断せんといて」と高飛車に言い放った。母親は黙り込んでしまった。
娘(といっても歳をくっている)は生活に疲れたといったような姿ではなかったが、教養があるようにも見えなかった。人を判断するのに、収入とか教養とかの社会的階層を示すような手がかりに頼るのは、適切ではないと私も思っている。しかし、何も知らない相手を評価するのに、他に何があろうか。
ただし、その女性の冷酷なような態度が、彼女の属する階層の特質だと言うつもりはない。むしろ性格的な要素の方が強いだろう。だが、それ以上に、親子という関係性が作用しているのだと私は思う。それは、教養があろうとなかろうと、裕福であろうとなかろうと、同じなのだ。違うとすれば、それを他人の前であからさまにするかどうかという点であろう。
母親が老いて生活能力が低下してしまったとき、ことに認知症的な症状があるとき、子供は彼女を叱ることによって事態を改善しようとする。それは母親が子供を叱って態度を変えさせようとするのと同じなのだ。
ただし、母親と子の態度が同型なのは、母親の態度が子に伝承されるとか、母親に対する復讐とかいったことではない。
愛というのは、その対象との関係を好むということだろう。好むというよりも、そうせざるを得ないのだ。母と子、そして男女の仲は、そういう関係性の中で自己を確保していくあがきのようなものなのだ。
母と子というのは、相手を自分の思い通りにしようとする関係でもあるのだ。それは、子供が小さい頃から、母と子の両者がとってきた態度なのだ。両者の関係は、本人たちの意思や感情や思考などとは関係なしに、それほど密接なのである。そういう繋がりに縛られて、他人のようには距離を置けないのだ。
病院で目撃した親子の関係は、私の経験でもある。老いた母親にはもっと優しくしてあげるべきだったと、ずっと思っている。