井本喬作品集

公文のこと

 名神高速道路の上り線を走るとき、大津を過ぎてしばらくすると、正面に三角形の小さな独立峰が現れる。俵藤太が退治したムカデが住んでいたという三上山である。このムカデは三上山を七巻半するほどの巨大さだったらしいが、ハチマキに足らない大きさに過ぎなかったという茶々もある。高速道路は緩やかに左に曲がっていく。

「あの山のどっちを通るか、分かる?」

 公文がそう問うた。彼の運転するスカイラインに乗っていたのは、私の他に二人。私たちは大学の同窓生で、卒業して二年目に能登へ旅行に出かけたのだった。

 こういう知的な遊びはこの世代にありがちである。自らの知的優位を誇示したい無邪気な気持ちからで、悪意はない。公文はこういうことが好きだった。私は答えた。

「右だよ」

 公文は意外そうな顔をした。

「何で分かる?」

「道が左に曲がっているのに、どちらに曲がるなんてクイズを出すのだから、逆に決まっているだろ」

 事実、道は右に曲がり始め、三上山は左方に移っていき、道路脇の遮蔽物に隠れてしまう。三上山はしばらくして一瞬姿を見せてみせるが、その後はどこにあるのか分からなくなる。ところが、かなりしてから左方に三上山が近く見え始め、その横を通り過ぎる。消えてからかなり走ったので別の山かと思われるほどである。

 名神からの三上山を見るたびに、私は公文のことを思い出す。彼とは中学校で知り合った。その中学校は大学の付属校だったので、異なる小学校から生徒が集まってきていた。付属小出身者以外は顔見知りがいない者がほとんどだったが、二クラスしかなかったのですぐにお互いに馴染んだ。公文とは話はするが、親しいというほどではなかった。

 彼とのことで覚えているエピソード。休憩時間に私の席に来た公文が、ある飛行機の型式を言い、知っているかと聞いた。軍用機や軍艦に熱中し、名前を憶えたり模型を作ったりする年頃だった。ちょうど木製模型がプラモデルに置き換わる時期だった。公文も私もそういう趣味を持つ仲間だった。競争心から知識をひけらかすことに得意になっていた。公文の問いかけに、私は「知らん」と答えた。公文は残念そうに、実はこんな飛行機は存在しない、知っていると答えたら知ったかぶりをすると笑ってやろうとしたのだ、と打ち明けた。自分の企みが失敗したのが惜しくてならないのか、公文は種明かしをしたことを忘れたように言った。

「本当に知らんか?」

 その他に印象にあるのは、何かの本の付録の乱数表を私が見ていると、「こんなもん、いらんやろ」と彼が譲るように言ったことである。私には何の役にも立たないことは分かっていたが、素直に渡してしまうのには抵抗があって断った。公文の父親は高校の数学教師なので、かなり進んだことを学んでいるのかなと私は思った。

 高校は別になった。公文は府立高校へ、私は付属高校へ進んだ。戦後の新設校だった付属高校は、進学校としてのレベルは高くなかった。優秀な生徒は府立高校へ進学した。

 大学では公文と再び一緒に学ぶことになった。大学受験の合格発表の日、掲示板を見て帰るときに、駅でプラットホームから下りて来た公文に会った。私は掲示板に彼の名前があったことを伝えた。公文は「ほんまかい」と答え、私が保証すると、うれしさを隠すように「見に行く楽しみがなくなってしもたやないか」と言った。

 語学クラスが一緒だったので、気の合うグループの一員として、私たちはいつも行動を共にした。入学した年の夏、あるきっかけで、二人は一緒に初めて信州の山に登り、それから登山という趣味を共通にすることになった。山へ同行することが二人の関係をより密にした。

 公文の父親は「公文式」という独特の数学教育法を開発し、それを普及させようとしていた。開発のきっかけは息子(つまり、私の友達の公文)の教育ということになっていた。公文自身は数学がそれほど得意でないことは、大学でともに学んでいるうちに分かった。そもそも理工系ではなく経済学部に進学したことでもそれは明らかだった(今と違って、当時は数学と経済学が密接な関わりを持つことがあまり期待されていなかった)。息子が数学にさほど優れていないのは父親の指導法を疑わせるものだが、得手不得手というのは生得的な要素が大きく、それは数学においてもそうなのだろう。そういう差がありながら、誰でもある程度の段階にまで数学をこなせるようにするのが、公文の父親の方法なのだ。得意な者を教えるのはたやすいのであって、不得意な者を教えるのが教育というものなのだろう。

 公文の父親の名は公(とおる)である。つまり、公文公である。こういう名をつけられた子は苦労しただろう。私は冗談に、公文に子ができたら名前を「書」にしてはどうかと提案したことがある。

 大学生のとき、公文からアルバイトに誘われた。彼の父親が使っている教材の整理の仕事だった。その頃、大阪市内の雑居ビルの一室に塾の事務所があって、そこに教材が準備されてあった。公文の父親の考え出した方式は、教える内容を細かい段階に分け、段階ごとにテスト用紙を作り、ある段階のテストに満点をとると次の段階に進むという方法である。満点を取るまでは何回でも同じテストに取り組ませる。進むのが早い子もいれば遅い子もいて、その子の能力に合わせた取り組みができるのだ。それゆえ、教材の管理が重要であったのだが、保管の仕方が悪くて混乱しているらしい。

 日曜日にだれもいない事務所で公文と二人で整理に取り組んだ。背の高い棚に分別して置かれてある教材を、公文の指示に従って分類し直すのである。昼の休憩をはさんで一日かけてやったのだが、整理しているのだか新たな混乱を作り出しているのだか分からなくなり、結局完了させることができなかった。それでも日当は貰ったのだけれど。

 公文は大学を卒業すると証券会社に入ったが、数年で辞めて父親の仕事を手伝うようになった。公文の父親は「公文式」に基づく学習塾を運営する会社を立ち上げていた。会社の本拠が東京に移る前は、公文とはたまに会うことがあり、彼のやっていることを聞いた。まず、ある地域で広告を出して塾の教師の募集をする。退職した元教師(出産で退職した女性が多い)などが結構いて、応じた者たちに説明会を実施する。公文式という看板を与え、教材を支給して、塾を開かせるのだ。子供を集めることなど塾の経営は彼らの責任になり、公文の側はフランチャイズ料(教材料という形だったと思う)を貰うだけなので危険はない。公文は労働組合対策の苦労も話した。大学では労働経済学のゼミに属し、マルクス主義的な理論にもなじんでいたはずの彼が、そういう立場に立つのは皮肉に思え、その皮肉に気がついていないかに見える彼にやや違和感を覚えた。

 公文にはいろいろ世話になった。親友というほどの密接な関係ではなかったが、二十歳前後ではもはやそういう関係は気恥ずかしく、ある程度の距離を置いた信頼関係が好ましい。公文と私はそういう関係だったと思う。だが、突き放した関係というのでもない。懇親会で飲んだくれて倒れそうになった私を降車駅まで付き添ってくれたのは公文だ。ドイツ語の単位を落として落第しそうになった私を慰め励ましてくれたのも公文だ。世間にうぶな私が公文には危うげに見え、放っておけなかったのかもしれない。

 公文がまだ証券会社に勤めていたころ、私は公文の家に転がり込んだことがある。私は勤めていた塗料会社を辞めたのだが、勤務していた岡山からの引き上げ先を見つけていなかった。親とは意見が合わないので実家には戻れず、ひとまず公文が一人で住んでいたマンションに身を寄せた。さらに公文は、なかなか適当な住処を見つけられない私に、公文家所有の住宅を使わせてくれた。その住宅で公文の父親が塾を開いていたのだが、使う時間が限られていたので、私が住んでも支障はなかった。私は半年ほどそこを使わせてもらった。

 それほど世話になったのに、私は公文に負い目とかを感じたことはなく、感謝の気持ちを何らかの形で表現したこともない。甘えていたといえばそうである。それが友情というものだと思い込んでいたのだろう。

 公文が東京に移転してしまうと関係は自然に途切れた。公文の消息が知れたのは、彼が死んだということが伝わったときだった。四十九歳という早すぎる死だった。交流のない状態が長かったので、私は彼の病気のことを知らず、葬儀のことも知らなかった。墓地のあるところも知らない。墓参というのは感傷に過ぎないと以前は思っていたが、歳をとると霊との交流を受け入れたくなってくる。機会があれば。

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