バブルの後の窪地にて
(1)アメリカが勝った
2000年10月28日土曜日、NHKテレビは『NHKスペシャル・英語が会社にやってきた』とういう番組を放映した。日産自動車など社内公用語として英語を採用する企業が増えているという内容であった。ビジネスにおいて英語を重視するのは世界的な傾向であることもレポートされていた。私は、国語をフランス語にすべきという終戦直後の志賀直哉の発言を連想した。ITとグローバル経済の分野における日本の敗北。二度目の敗戦。
組織が取引費用の節約によって市場よりも効率的である場合があるという理論づけがなされ、日本型経営が普遍性の証書を経済学者から受けたまさにその時に、日本経済は表彰台から転げ落ち、市場こそが万能であることを証明してみせた。
市場主義は一度はお蔵入りした。スミス流の楽天的なレセ・フェールは評判が落ち、ケインズに代表されるように国家による介入が当然視された。また、ウェーバーの示唆に従って、資本主義のエートスを重視し、利己心の役割を緩和しようという試みがなされていて、『道徳感情論』を『国富論』の必須の前提とするスミス解釈が行なわれた。そういう文脈からは、利己心は秩序破壊者としか扱われない。人為的な(道徳的な)秩序に権威が与えられたために、利己心は資本主義=市民社会から放逐されてしまうという転倒が起こっていたのである。
だが、勤勉な日本のアリは享楽的な(しかも狡猾な)アメリカのキリギリスに負けたのだ。市場主義は復権した。
資本主義の発展には、消費の拡大と資本の効率的な使用が不可欠である。生活水準の上昇を商品の購入によって享受する人間と、商品を供給することで利益を得ようとする人間が必要であり、そういう人間たちを支えるために、投資や貸付のリスクを取る人間がいなければならない。彼らが儲けることは非難されるべきではないだろう。彼らが儲けようとしてリスクを引き受けるからこそ、資本は流通するのだ。
だから、市場主義的な人間を(そしてアメリカを)自分たちとは違うからといって非難すべきではない。彼らがカネを稼ぐことと使うことに熱中するのは眉をひそめたくなるが、彼らのすることを不当とは言えない。彼らがいるからこそ、私もまたお相伴に与ることができるのだ(トリクル・ダウン)。彼らを嫌うなら、彼らとは違うということだけで満足すべきではないか。彼らは私たちをうらやませる以外に一体何をしたと言うのだろうか。
(2)失われた10年
八〇年代消費社会が地平に没したのを見届けた警世家たちは、バブル後の長い不況のもたらす閉塞感を背景に、個人の自由を、それが放埒と形容しうるほどに拡大し過ぎたと言って、制限しようと声をあげている。気になるのは、多くの人々が、日本の経済社会システムの崩壊の予感にうなされて、彼らに同感し始めていることだ。彼等の言い分は、特に探そうとしなくてもいくらでも拾い上げられる。誰も彼もが同じようなことを言っているのだ。
根本は、戦後社会が、社会意識の乏しい、社会に対する責任を自覚しない人間を育てたことと共に、皆と同じ、皆と一緒にやるという不思議な群集心理を社会に定着させてしまったことに原因があると考える。(中略)今、本当に必要なのは、社会に対して責任感があり、個性的で自主的である人間なのだ。(西澤潤一、毎日新聞、一九九八年四月一二日 )
各人が欲を出さず、『足るを知る』ことで、相互間に信頼が生れ、日本型システムのよさを推進する原動力が得られるのです。相互信頼と自己規律は日本型システムと表裏一体のものですから。(浜口恵俊、朝日新聞、一九九八年五月三日)
真の原因は、今のような経済社会を作ってきた我々自身にあるからだ。第一は、他人不信に根差す自己中心主義で共同体の連帯を破壊したこと、‥‥(朝日新聞「経済気象台」、一九九八年五月七日)
家庭においても学校においても、若者たちは、社会に入るためのしつけをほとんど学んでいない。社会に入るためのしつけとは、「私」と「公」との関係を学ぶことにほかならない。戦後民主主義の流行の中で、自律的個人が、共有する正義観の下で、公共精神を持ち、連帯して公共生活を営むという観念が育たなかった。(中略)戦後の学校教育と会社主義の中で、私欲の確立は普遍化したが、公共精神を持った「私」はほとんど未熟なままである。(塩野谷祐一、朝日新聞、一九九八年七月二日)
八〇年代消費社会で私たちが獲得したのは、消費による自己実現であった。その軽薄さが観察者たちをたじろがせ、否定的な反応を引き起した。そして、持ち出されるのがまたぞろ倫理と共同体なのだ。批判者は失われた秩序を回復させたいと思っている。しかしながら、彼等の口振りにはためらいがある。彼等も単純な道徳社会を提示するだけで済ませられないのだ。西澤潤一は「皆と同じ、皆と一緒にやるという不思議な群集心理」を同時に批判し、「社会的責任」とともに「個性と自主性」を強調する。塩野谷祐一は、「官から民へ」という規制緩和側面と、「私から公へ」という精神的統合側面を区別し、両立せよと説いている。日本の停滞と対照的なアメリカ経済の好調が、規制緩和を魔法の言葉としてしまったのである。もはや豊かさへの希求を誰も否定できず、経済的繁栄が「個性と自主性」に支えられるという認識がある。共同体の呪縛は簡単に強化されることはないだろう。
共同体の復活は、資本主義が出現したとほぼ同時に主張され、繰り返し要請されている。社会主義も、全体主義も、資本主義がもたらした無秩序状態(と彼等が考えたもの)に対する抗議であった。私たちがいま目にしているのもそのバリエーションの一つにすぎない。社会主義国家の崩壊の経験が資本主義否定をできなくさせたので、彼らは方向を変えて、資本主義社会、あるいはその政治形態である市民社会は、本当は道徳的な社会であると言うのである。資本主義社会、あるいはその政治形態である市民社会を、欲望の解放の体系とみなすのではなく、その道徳的側面を強調する。近代的自我は利己的であるのではなく、社会の一員としての義務を自覚している、自由を利己的に理解するのは、市民社会として成熟していない証拠だ、と彼らは言う。
このような言い方は決して新しいものではなく、明治初期以来ずっと言われ続けてきたことだ。しかし、そのような願いとは異なって、現実の日本は道徳的な近代社会には一向にならず、豊かさとともに共同体の規制は失われていった。自由化の進展という皮相な見方の方が現実を言い当てているのだ。「社会的責任感のある市民」ではなく、「自由を享受する個人」が支配的になったのである。
いずれにせよ旧来の共同体は解体し続けていた。私たちに最も身近な共同体、家族においてそれは顕著であった。生産者としての私たちは企業社会の規制から逃れられなかったが、消費者としての私たちは豊かで自由になっていった。女性と子供が先鋭化したのは当然だったろう。
そして八〇年代の繁栄が訪れ、豊かさが決定的な何かをなしうると思えだした頃、バブルの崩壊が起こった。内輪だけの話なら、そこで私たちは反省して終りだろう。しかし、グローバリゼイションの悪夢がさらに私たちを襲った。日本のつまずきと対照的なアメリカ経済の好調が、新古典派とその社会思想である自由主義(自由尊重主義)に支配的な地位を与えている。
社会的連帯の喪失が言われている一方、日本経済を身動きさせなくしているのは様々な制度的規制であると指摘されるようになった。資本主義は共同体を解体し、私たちを統合するものは市場であるはずだった。しかし、私たちは昭和初期に新たな体制を作り上げ、戦後もそれを継承してきた。今、私たちは規制緩和という観点から見ることによって、日本の特殊性を規制から生ずる特権という普遍的な言葉で言い換えることができる。日本の文化や民族性だけに原因を求めるのではなく、社会主義といってもいいほどの制度的障害が資本主義を機能させていないのであるという認識が持てるようになった。
だから、道徳論者たちの歯切れが悪いのである。規制を社会的なものと経済的なものと分け、規制緩和を進めるのは経済についてのみという言い方もされるが、社会的規制と経済的規制をそんなに明確に区別できるのだろうか。両者は相関し、例えば欲望を抑えることは経済をも萎縮させてしまうことになるのではないか。あるいは、問題が経済的不振であるならば、経済の問題は経済的に解決すべきであって、社会的な要因を作用させようとするのは効率の悪い迂路ではないのだろうか。それとも、経済的繁栄は必然的に道徳的堕落をもたらすからあきらめて、清貧に過ごすことを求めるのだろうか。
(3)近代的自我と道徳
ずっと以前だが、曾野綾子と上坂冬子が国家による奉仕活動の義務化について新聞紙上で論争をしたことがあった。反対者である上坂が自我の確立とか自立した市民とかに言及すると、賛成者である曾野は「何年も待ったが、そんなものは現れてこなかった」と断じた。対立しているようであるが、現状認識においては二人の立場は同じである。つまり、日本においては(いまだに、あるは、いつまでたっても)近代的自我なるものは成立していない。
近代的自我は市民社会(即ち資本主義社会)に道徳をもたらす特効薬として期待されているのである。それが手に入らないのであるならば、仕方なく上から道徳を注入せざるをえなくなるというのであろうか。
なぜ近代的自我は道徳の担い手として期待されているのであろうか。近代社会とは封建的な規制から自由になった社会であり、その成員は自由になった分だけ自らを律していかねばならない、というのであろうか。自らを律する能力のないまま近代社会の自由にさらされれば、規制の少ない分だけ逸脱が増えるというのだろうか。しかし、規制が減ったのは、規制をする必要がなくなったということであり、ゆるされる行動の範囲が広がったということではないか(いずれにせよ、ゆるされない行動は罰せられるのだ)。行動の範囲を広げておきながら、自主的にそれを狭めるように要求するのはおかしなことである。
一般に、近代(化)と道徳(化)の間に何らかの傾向的な関連は見出されていないはずだ。あらゆる社会ないし共同体において何らかの道徳規範はあるし、非道徳的な行動をする成員がある範囲の割合で存在するであろう。その割合が社会における何らかの要素で変化することは認められるかもしれない。あるいは、ある社会形態から別の社会形態に変化することによって道徳規範も変化し、その混乱が違反者を増やすということはあるであろう。しかし、近代(化)をどのように定義しようとも、それが道徳性を傾向的に増大させるか、あるいは減少させると断定することはできないであろう。
日本における自我の特性を考えるなら、むしろ政府と市場の関係に注目すべきではないか。官僚組織は人工的(あるいは強制的)秩序の典型であり、市場は自然的(あるいは自発的)秩序の典型である、とは単純化できないにしても、人間は秩序なしには生きられないのであれば、どちらを選ぶかが問題になる。ただし、官僚的組織の中で生きがいを見出す(働き蜂)こともできれば、市場において人間性を失う(貧困)こともあり、私たちがどちらに幸福を見出すかは偶然的である。この選択に道徳はからむのであろうか。
文化論的に考えようとすると、肯定的であれ否定的であれ、私たちが好むものが私たちが選ぶものだとみなしてしまう。しかし、「好むと好まざるとにかかわらず」私たちは選ぶのである。あるいは、私たちが好ましいと思って選んだものが、好ましいものであるとは限らない。
私たちに贅沢はゆるされていない。私たちが秩序を作るための素材や方法は限られているのである。しかも、このグローバル化の時代にあっては、素材や道具が標準化されようとしているのだ。市場経済はデファクト・スタンダードとして世界を席巻している。資本主義経済はもともと世界システムなのであるから、その影響を逃れるためには孤立の貧困化しかないだろう。