井本喬作品集

宝塚

1 発端

 1995年2月初旬、事務長の吉田が私を呼んだ。私は大阪にある福祉施設に勤めていた。吉田は資料を見せながら言った。

「社会福祉士会が震災の支援活動をすることになったんで、うちからも社会福祉士の資格のある職員を派遣することになったんや」

「どこへ行くんですか」

「宝塚や」

「宝塚?神戸やないんですか」

「ちょうどいいやろ。君にはしばらく専属で行ってほしいのや」

 私は一年ほどの休職期間を終えて復帰したばかりだった。職場での私の元のポストは埋まっていて、4月の人事異動までは臨時に総務課に属すことになり、特に定まった仕事はしていなかった。そして、私は宝塚に住んでいた。

 宝塚における社会福祉士会の活動は2月2日から始まっていたが、私たちの法人の職員が参加したのは11日からだった。11日は建国記念の日、12日が日曜なので連休となっていた。

 宝塚市は、北から東回りに言えば、三田市、猪名川町、川西市、伊丹市、西宮市、神戸市に隣接している。市の北部の広い地域は西谷地区(旧西谷村)と呼ばれる山間地であり、今回の地震の被害はほとんどなかった。宝塚駅の辺りで武庫川が西の六甲山と北の北摂山地の間から流れ出ている。山塊がそこで途切れて大阪平野に連なる平地が始まっている。この隘路にはJR福知山線、国道176号線、中国自動車道なども通っている。阪急電鉄は、宝塚駅を起点にして、南北に六甲山の麓を今津線、東西に北摂山地の麓を宝塚線を走らせている。ベッドタウンとしての住宅地はこの二本の線に沿って広がり、田畑や昔からの集落のある平野部の抵抗を避けてか、山の傾斜地を這い登っていた。

 会の活動の拠点は宝塚市役所内にあった。私の家から市役所へ行くには、阪急宝塚線で宝塚に行き、今津線に乗り換えて二つ目の駅である逆瀬川(さかせがわ)で下りる。震災直後は不通になった阪急電鉄も今は一部を除いて動いている(神戸線は被害が甚大で復旧までには時間がかかりそうだった)。阪急電鉄の宝塚市内を走る区間は地盤が堅めの山沿いであるので、窓からの眺めだけでは様子はうかがいにくいが、それでも屋根をおおうビニールシートのブルーの色の点在が被害の存在を示していた。逆瀬川の駅から15分ぐらい歩くと、武庫川の右岸に市役所のベージュ色の建物がある。円柱に支えられたテラスのある三階建てで、屋上には石油タンクのような大きな円筒形の構造物が乗っている。宝塚歌劇というイメージに合わせた設計のようだが、むしろ地味で目立たない。市役所の建物は被害がなかったようだ。

 一階のエントランスのホールには支援物資として送られてきた段ボール箱が山積みになり、ボランティアが仕分けしていた。ホールから螺旋階段で半地下になっているフロアーに降りると、中庭の駐車場に通じている入口がある。そこから避難所用の弁当が毎食時運び出されていた。会の現地事務所は、そのフロアーの一画にあった。一般的なボランティア活動の拠点もそのフロアーにあって、様々なボランティア活動の募集が掲示板にはり出してあった。休日だが市役所は震災の対応のために職員やボランティアがたくさんいた。

 連休なので参加する会員が多いと見込まれ、駐車場からの入口付近の空間が集合場所になっていた。三十代と思われるセーターとジーパン姿の小柄な女性が、彼女の周りに集まっている人に対して何やら声を張り上げていた。最初、私はその女性が自分たちとは関係ないと思っていたが、しばらくして彼女が会員たちにするべきことを指示しているらしいと分った。東京から会の専従の事務局次長である石橋という女性が来ていた。吉田は既に石橋と打ち合わせで会っていて、私を紹介した。その仰々しい役名とは不釣り合いにほっそりとして顔の造作の小さな色白の女性だが、口調はしっかりしていた。石橋は指示を出しているのが現地の責任者である坂上であると私たちに教えた。石橋と吉田と私は、坂上の指示に従ってみなが動き出すまで少し離れて待っていた。役割を与えられた会員たちが出かけた後、残った私たちは事務所で今後の運営について話し合った。

 坂上は堺にある高齢者施設を運営している法人から派遣されてきていた。どういういきさつで彼女がそういう役割を担うことになったのかは聞きそびれたが、宝塚市との調整の最初から彼女が関わり、活動拠点となっているこの場所に常駐して責任者となっていた。坂上が活動の具体的な内容を説明した。宝塚市から会に依頼されているのは、高齢者の安否確認と、仮設住宅の入居確認および福祉ニーズの調査であった。安否確認は既に開始していて坂上が仕切っていた。仮設住宅への入居は始まったばかりで、まだ手をつけていなかった。仮設住宅を私たちの法人の会員が担当して、役割分担してはどうかと吉田は提案した。石橋が賛成した。とりあえず、午後から位置の確認を兼ねて仮設住宅を見に行くことにした。

 震災後は晴天が続いた。破損した家や屋外のテントで生活している被災者にとっては雨が降らないのは有り難かった。その日も晴れていたので、歩いて行くことにした。

 この連休が仮設住宅への第一次入居のピークになると予想されていた。抽選に当った人には既に入口の鍵が渡されていて、入居はいつでもできた。入居が始まっていたのは、上(かみ)の池、安倉(あぐら)北、安倉南、高司(たかつかさ)、鹿塩(かしお)の五つの地区だった。私が案内することになったが、安倉以外は聞いたこともない地名であり、安倉の位置もぼんやりと見当がつくくらいである。宝塚市民だといっても、通勤している大阪市の方が詳しいくらいだが、地図を見ながら行けば何とかなるだろうと思った。

 市役所の前を武庫川が流れている。仮設住宅のうち、上の池、安倉北、安倉南は武庫川の西岸に、高司、鹿塩は東岸にあった。南の方から北へ回って一周するコースをとることにして、最初に高司を目指した。県道は車が多いので武庫川の堤防の上の道を歩く。両岸の河川敷は整備されて河床より高い平地になっており、石だらけの河床には浅い水がゆるやかに流れている。うららかな日差しが川の上の空間を満たしている。

「遠いんやね。自転車を使えばよかったのに」

 坂上が言った。私は会が自転車まで用意しているのかと思った。

「自転車があるの?」

「市役所の前の武庫川の橋の下に、他の自治体から寄贈された放置自転車が置いてあって、誰でも使えるんよ」

「そんなもんあるの知らんかった。はよ言うてくれればよかったのに」

 市役所から二キロほど下流の新宝塚大橋は、出来たばかりなのに、つなぎ目の一部がずれて段差が出来てしまい、通行止めになっていた(歩行者や自転車の通行は可能だった)。橋は渡らず西に曲がって橋につながる新しい道路をたどる。高司の仮設住宅はグラウンドに隣接した空地に建てられていた。入り口の前には広い道をへだてて工場があった。最近開発された地域らしく、殺風景である。

 そのとき初めて仮設住宅を見た。フェンスで囲まれた敷地の中に、波板屋根、パネル壁の長い棟が五つ並んでいる。棟は長屋のように仕切られ、棟と棟の間の通路の一方の側にそれぞれの入口があった。入口を入ったところが板の間になっていて、流しとユニットになった風呂とトイレがある。板の間の奥に四畳半と六畳の二部屋が連なり、六畳の部屋は反対側の通路に面してガラス戸になっている。面積は二十五平米。水道、電気、下水は設備され、各戸ごとにプロパンガスのボンベが設置されていた。土地は地面のままであり、浸水防止と通気のためであろう、床下に空間が取られてあって、入口がかなりの段差になっている。段差をカバーするため、踏み台としてU字溝用のコンクリートブロックが逆さに置かれてあった。一通り敷地の中を見た後、入口の広場にたたずんで一種壮観な全景を眺めながら石橋が言った。

「仕方がないことだとは思うけど、いかにも応急というか、ぶっきらぼうな建て方ね」

 実情を知っている坂上は現実的な反応をする。

「でも、避難所での雑居やテント生活に比べれば天国やと思う」

 荷物を運び込んでいる人や、部屋を片付けている人がいるが、一時に集中している様子ではなく、混雑するほどではなかった。自分の車を使っている人が多かった。駐車場が問題にならないだろうか、というのが私の最初の感想だった。様々な型の車の出入りは、バラックとか収容所という言葉を連想させる仮設住宅の簡素で無機質なたたずまいと奇妙なコントラストを見せていた。被災者が車を持っていることが奇妙に思われたのではない。家は壊れても車を使用できる人は多かったし、車の中での避難生活をしている人もいた。車の所有は何ら特別なことを意味してはいない。車が現していたのは被災者個々の活動的な姿だった。被災者の全てが受動的に援助を待っているわけではないという、何か当ての外れたような印象だった。

 高司から鹿塩と安倉南に行った。環境が違い、建てられた戸数が違うが、仮設住宅はみな同じような作りだった。その日は三か所しか回れなかった。

2 社会福祉士会

 歌劇の街、宝塚。多くの人には観光の街というイメージがあるだろうか。確かに、阪急電鉄とJRの宝塚駅がある近辺には、宝塚歌劇場、宝塚ファミリーランド、温泉街などがあって観光客もいるけれど、主な雰囲気は日常的なものである。温泉街は規模を縮小しつつあり、代わってマンションが目立つようになっている(後のことになるが、遊園地と動物園からなる宝塚ファミリーランドは2003年に閉園し、跡地は住宅展示場、マンション、店舗などになった)。市内には農地、神社仏閣、工場もあるが、性格としては阪神間の郊外住宅地なのである。この性格形成に大きな役割を果たしたのは阪急電鉄であった。創始者の小林一三は大阪の梅田から宝塚までの鉄道沿線に郊外住宅のモデルを作った。その理念は今も消えずに残っている。

 阪神淡路大震災の被害は神戸や淡路島だけではなく阪神間の地域にも及んでいた。瀬戸内海沿いに神戸市の東に連なっている芦屋市、西宮市も大きな被害を受けた。宝塚市は西宮の北の内陸部にある。宝塚市はこの三市に次ぐような被害を受けたが、それらの市に比べると被害の程度は軽かった。平成7年版防災白書によれば、人的被害については、神戸市の死者は3,987人、西宮市は999人、芦屋市は396人、宝塚市は83人である。震災直前の推計人口との比率で見れば、神戸市の死者は市民の0.26%、西宮市は0.24%、芦屋市は0.69%であるが、宝塚市は0.04%であり、ひと桁少ない。地理的にも被害の程度においても被災地の辺縁に位置しているのでマスコミにはほとんど取り上げられていなかった。

 宝塚市でも建物の被害はかなりあった。私の家も半壊になり修理が必要な状態だった。家全体がわずかに傾き、屋根瓦が落ち、南側の部屋は壁と窓が壊れた。屋根をブルーシートで覆い、壊れた壁と窓は応急的にふさいだ。ライフラインの中で一番遅れた水道がようやく通じたところだった。

 全国団体の社会福祉士会が、震災に対する支援活動の場として知名度の低い宝塚を選んだ理由は、後で分かってきた。1987年に社会福祉専門職の公的資格として社会福祉士と介護福祉士が創設され、任意団体である社会福祉士会が作られたのは1993年であった。出来たばかりの会が震災に遭遇したとき、何らかの活動をしなければならないと思ったのは当然であろう。社会福祉士というのは、一般の人にはまだほとんど知られていなかった。専門職としての公的な資格を作るというのは、福祉の仕事に携わっている者の長年の願いだった(社会福祉主事という資格はあったが、主に行政の人間が社会福祉事務所に配属されるときに受ける研修のようなものだった)。素人でもできるという仕事に権威などは望めない。またサービスの質の向上など期待できない。そういう声が結集されて、社会福祉士と介護福祉士という国家資格ができた。しかし、医師や弁護士や看護師と匹敵する、専門職としての特殊な知識や技能を備えることが必要なのか、あるいはそんなことができるのかという疑問が絶えず福祉職には付きまとっていて、実際に資格ができた後にも消えることはなかった。

 福祉職の技法としてあげられるのはケースワーク(現在はソーシャルワークという概念に変わったが)であろう。もともとケースワークは慈善への疑問として発生した。イギリスの貴族たちが慈善として困窮者にモノやカネを与えたが、それが結果として困窮者のためにはならずに、かえって依存する態度を助長してしまったことから、援助を有効にするためには被援助者への個別的な働きかけが必要であることが認識されたのである。困窮から自ら脱け出すための力と手段を人に備えさせるという、一見すると矛盾したことを目指す技法がケースワークである。ケースワーカーは、カウンセラー、職業相談員、行政の窓口、ボランティアコーディネーター、不動産屋、政治家など、困窮者の自立に必要ならば何でもこなせなければならない。スペシャリストではなくジェネラリストとしての専門性ということが言われるが、それが真の専門性になりうるのか確信は得られていない。

 今回の支援活動は、社会福祉士の専門性と、専門家集団としての社会福祉士会を、社会的に認知してもらういい機会になる。そのため、会は二つの方針を立てていた。第一に、支援活動は組織として行う。第二に、社会福祉士としての専門性を生かした活動を行う。その方針に基いた活動を行なうためには行政の了解がぜひとも必要であった。西宮、芦屋、宝塚の三市に当ってみたところ、宝塚市が応じたので今回の支援活動が具体化した。後の会の報告書によれば、福祉的活動のニーズは初動の援助よりその後の復興過程に発生するので、「被害が甚大」であり、また「復旧すれば福祉専門職の職員も多く、力もある」神戸市よりも、「比較的被害が少なく早期に復興が見込まれる」近接市域が対象として選ばれたとされている。しかし、この説明はややこじつけのようなところがあり、会の規模から考えると、行政との協力関係のうえで、神戸市は大きすぎたのであろう。

 私の勤めていた社会福祉法人でも吉田や私を含めて何人かの職員が社会福祉士の資格を取得していた。理事長も高齢でありながら第四回の社会福祉士の国家試験に合格した後、社会福祉士会の立ち上げに参加し、推されて初代の会長になった。今は退いて会の顧問になっているが、その関係もあって、法人で社会福祉士の資格を持っている者はみな社会福祉士会に加入していた。

 私たちの所属している法人の施設は、震災の際にはかなり揺れたが、被害は受けなかった。職員は大阪府下に住んでいる者がほとんどで、兵庫県から通っている少数の職員がいるが、一部の者の家屋が損傷を受けた程度で、死傷者はいなかった。いわばほとんど無傷であった。一方、隣接した地域で大きな被害が起きているのだから、何らかの支援をする必要は皆が感じていた。社会福祉協議会や施設種別協議会の役員を歴任した理事長にしてみれば、そういう気持ちがいっそう強かったであろう。それゆえ、社会福祉士会の取り組みに対して法人として全面的に支援することになったのである。

3 方法

 会は特別に仕切られた場所の提供を宝塚市から受けていた。八十歳以上の高齢者約五千人の安否確認のため、名簿を貸与されたからである。プライバシー保護のため、名簿は複写禁止、室外持ち出し禁止とされた。事務所とされた一画は福祉事務所の奥を仕切った空間で、さらにその奥は職員のロッカー室になっていた。会議室兼倉庫として使われていたらしく、長机が二つと十数脚の折り畳み椅子があり、隅の方には紙おむつなどが積まれてあった。

 既に安否確認の活動はルーチン化され、実施されていた。会員は全国から参加していた。遠くから来た会員は私の勤める法人が提供した宿所(大阪)に前夜泊って朝出てくる。近くの会員は直接来た。何度も参加する者もいれば、一度だけの参加者もいた。近畿地区の会員で常連になっている者もいた。全国や地方の会の役員をしている者たちは顔なじみで打ち解けた話をしているが、お互いに未知の会員も多かった。

 事務所には坂上の補助として若い小柄な女性の窪川がいた。彼女は非会員だが、兵庫支部の会員の知り合いで、その時失業中だったことからアルバイトに誘われて、常駐の事務員になった。窪川が参加者の確認を行い、ボランティア保険手続きの記入を求め、一日の活動費(交通費と昼食代)として千七百円を渡す。受取った活動費を壁につけてあるカンパ袋に入れる者も多かった。参加者は二人一組になり、担当地域の該当者が書き込まれた調査票と地図を持って出かけて行く。地図は住宅地図をコピーしたもので、名簿の住所から住宅を探し出して印をつけてある(その作業も必要だった)。実際に家を探し出すのは大変だった。土地勘のあるはずの私でさえ、後に手伝うことになった際、苦労した。最寄りの駅から該当地区へ行くだけでも(ほとんど徒歩だったから)時間がかかり、調査件数はなかなかこなせなかった。

 12日の朝、昨日と同じように活動が始まった。参加者に多少の入れ替えはあったが、昨日で要領が分っている者が多かったので、集合は廊下ではなく事務所で行なわれた。

 昨日は仮設住宅を見るだけで終わってしまったので、支援活動を具体的どのように進めるかを、石橋、吉田、坂上と話し合った。仮設住宅の支援については、とりあえず三つのことが宝塚市から要請されていた。第一は入居状況の確認。これは毎日集計して住宅課に報告することにする。第二に物資の支給の手配。仮設住宅入居者には毛布、カセットコンロ、食器類、タオル、石けん、トイレットペーパー、米、塩などが一律に支給された。この物資はボーイスカウトがボランティアで運んでいた。入居した人にただちに物資を渡すためには入居の状況を確認して、ボーイスカウトに連絡する必要があった。第三は、水道料金について入居者に決めてもらわねばならないので、それを伝えることだった。市の意向としては、仮設住宅への引き込み管のメーターで一括して料金を計算し、各戸の負担額は入居者同士で割り振ってもらいたいというものであった。

「まずは名簿作りね」

 石橋が言った。それは皆も同じ意見だった。

「プライバシーに関することやからな。協力してくれるやろうか」

 吉田が当然の疑念を述べたが、坂上は楽観的だった。

「市から依頼されたと説明すれば納得するん違う」

 それが実際的ではあったが、私はあえて坂上の意見に疑問を述べた。今回の活動が社会福祉士という資格の認知のためでもであるなら、プロセスを正当なものにしておくべきだと思ったからだ。

「でも、そういう権限を委譲されているわけやないやろう」

「そこのところは曖昧にしておけばいいんよ。市が会に協力をもとめたという紹介状を作ってくれているからそれを渡せばいい。それと、市の発行している震災関係のリーフレットも持っていく」

 わざと誤解させるのである。原則論を言えば、意図がよきものであるからといって、福祉専門職としてそんなトリックはゆるされないだろう。しかし、私たちの立場を説明しようとしても時間を取るだけで誰も理解できないだろうし、かえって怪しまれるのは目に見えていた。私はそれ以上反論しなかった。地域支援における名簿の把握というのは、活動の基礎になるものであるが、それを得ることの難しさが分かっていたからだ。そういう情報を把握しているのは主として公的機関であるが、たとえ公的な支援の場合でさえ、通常の目的以外の情報提供を役所は拒む。それが福祉活動の障害になる場面を私もいくつか経験してきていた。災害時の緊急性を考えれば、多少の誤魔化しもゆるされるべきかもしれないと、そのときは考えたのだ。

 ワープロが一台用意されていたので(当時はワープロ専用機が普及していた)、記録の様式を決めて用紙を作った。午後から分担して名簿作りを兼ねた入居状況の確認を行うことにして、私は吉田と二人で自転車で鹿塩と高司に向かった。坂上の言っていた通り、市役所の前の武庫川の橋の下の河川敷にたくさんの自転車が乱雑に並べてある。鍵はかけないことになっているのだが、専用に使っている者がいるのか、よさそうな自転車には鍵がかかっているものがある。パンクしたままのものもあり、適当なのを選ぶ。戸数の少ない方を先に片付けることにして、高司は素通りして鹿塩に行く。阪神競馬場が近くにあるが、設備が被害を受けて競馬の開催は中止されていた。

 鹿塩は仁川駅の傍の小さな空地だった。何のための土地なのか分らないが公有地らしい。一棟十五戸の仮設住宅が畑を背後にこじんまりと建っている。仮設住宅は表も裏もガラスは透明なので、ノックし声をかけても反応のない部屋はのぞいてみる。中に荷物が見当たらないのはまだ入居していなくて空家のままのところ、荷物があったり、紙やカーテンでのぞかれないようにしているのは外出で不在のところと見当がつく。最初に戸を開けて出てきたのは中年の婦人だった。不審と不安の表情で私たちを見た。私たちが来訪の説明をし、入居している人の姓名、年齢、職業などを聞くと、ためらいながら、仕方なさそうに答える。

「何かお困りのことはありませんか」

「そやね、いま特にあらへんけど」

「水道代の支払いについては聞いておられますか。水道のメーターが共通なので、水道代がまとめて請求されるので、みなで集めなならんらしいのですけど」

「そんなこと聞いてまへん。家ごとのメーターあらへんのですか」

 水道代についての反応は他の入居者も同じだった。在宅していた数戸の調査を終えた後、私は吉田に言った。

「事務的に一番簡単なのは戸別の均等割ですけど。人数割りにすれば、使用量に応じた料金に近くなるでしょうが」

「こういう問題に俺らは介入できへんわ。入居者自身に決めてもらわんと」

「入居者に話し合ってもらうのは難しいのやないですか」

「話し合う機会を作らなあかんな」

「どうすべきか帰ってみなと相談しますか」

「せっかく来てるんやから、いま場所を探しとこう」

 吉田に引きずられるように集会の場所探しをした。私が引っかかっていたのは、意思決定がどのレベルで行われるのか明確でないことだった。みなが勝手にてんでんばらばらのことをしていたのでは、まとまりがつかなくなる。活動をどのような形態でするべきなのか明確でないまま、突っ走るには懸念があった。

 近くの家で近所に公民館のようなものはないかを聞くと、共同利用施設を教えられた。施設の場所を確認し、ついでに自治会長を訪ねて協力を依頼した。次に、高司へ行って、同じように集会のできる場所を聞いて訪ねた。高司は一丁目から五丁目まである広い町なので、共同利用施設は仮設住宅からは遠くて分かりにくかった。少し離れたところに小学校があったので、当ってみることにした。小学校の体育館は避難所になっていた。そのためだろう、休日だが職員室に教師はいた。応対した女性教師に仮設住宅の入居者の話し合いのために学校の施設を借りたいことを話した。

「施設使用願いを出してもらって、校長の許可を得て頂きたいのですが、校長は今日は出て来てません」彼女は済まなそうに言い、「たぶん許可されると思います」と付け加えた。私たちは使用願いの用紙をもらい、明日にでもまた来ますと言った。日程のことなどで話し合っていると教師は言った。

「使うとすれば多目的室がいいと思います。ご覧になられますか」

 教師の案内で部屋を見た。震災という言葉は魔法のようにどんな扉も開けてくれる。

4 組織

 自治の機構を立ち上げるために、まず入居者に集まってもらう手配を私たちがするという吉田の考えに、石橋と坂上も賛成した。地域の援助においては住民の主体性を尊重するということを、ソーシャルワークの基本として私たちは教えられてきた。だが、コミュニティが成立していない仮設住宅では、外部からのイニシャティブが必要とされる場合もあるだろう。特に、時間の余裕がないときには。

 その日でいったん東京へ引き上げる石橋のために、逆瀬川駅前で坂上と窪川とで夕食を共にした。吉田は早く帰ってしまったので、夕食の話がまとまったときにはもういなかった。食事が始まると、隣に座っていた石橋が私に相談することがあると言った。

「現地事務所の運営について、この前話し合って、おたくの法人が仮設住宅を担当することになったのだけれど、坂上さんが心配しているの。安否確認は五千人分のノルマがあるでしょ。会の活動は三月末に終了させる予定だから、それまでに完了させねばならないのだけれど、おたくの法人からの確実な動員が仮設住宅支援にだけ回されてしまえば、安否確認の人出が確保できないかもしれないおそれがあるの」

「うちから出せるのもそんなにたくさんいませんけど、多いときは安否確認に回してもいいと思いますが」

「それでもいいかもしれないけれど、その都度では予定が立てられないでしょう。それに、現地事務所の活動を二つに分けてしまうのは効率的ではないと思うの。参加者の役割を固定化してしまうと機動性に欠けるでしょ。だから、運営は統一的に行い、参加者の配分は業務の必要に応じて調整するようにした方がいいのではないかしら」

「それは分りますけど、上の方の話はどうなってるんです。私が聞いているのはうちの法人が独自で動員してまとまって活動するということですけど」

「その辺は、具体的には決めていないのよ。おたくの理事長さんには、遠方の会員の宿所を提供していただいたり、いろいろお世話になっている上に、せっかく職員を動員して下さるというのだから、できるだけご意向には沿いたいのだけれど」

 私はようやく自分の巻き込まれている状況が分かり始めた。顧問という立場のゆえに会の支援活動で傍流的な位置にいざるをえない理事長は、地元であるということの有利さと責任もからんで、資源の動員によって自分の存在感を示したいのだろう。吉田は理事長の意図を汲んで、法人の活動をアピールするつもりなのだ。私はそういう宣伝臭が嫌いだったから、坂上の希望通りに現地事務所が運営されるのはかまわないと石橋に言った。そうなるように吉田を説得することを引き受けた。坂上は私たちの会話には加わらず、窪川と話していた。

 店から駅までの短い距離を歩く間、石橋は私に言った。

「坂上さんは住宅政策に興味があるので、仮設住宅についても関与したかったのよ」

 私が気を悪くしないように配慮したのだろう。坂上から訴えられて石橋は調整に苦慮したようだ。坂上を中心に動きだしていた活動に、後から私が割り込んだ形になったので、彼女は不満をつのらせていた。会が彼女を現地責任者にしておきながら、正式な決定もなく、なし崩し的に権限が削られようとしていることに、彼女は我慢がならなかったのだ。

 月曜日から私は宝塚市役所に「出勤」した。吉田は通常のように施設に出勤しているので、事務所用のケータイで電話をかけた(ケータイが普及し始めていた)。私は石橋の考えを吉田に伝え、私の意見を付け加えた。

「会の支援活動への参加は個人として行っているものなんやから、我々の法人の職員も同じ立場であるべきやないですか。我々だけがかたまるのは、会としての活動の趣旨に反すると思うんですが」

「そんな細かいことにこだわる必要はないやろう」

「でも、そんな風に分裂してしまうと、こっちではやりにくいんです。よその会員から反発されるんやないですか」

 吉田は賛成しかねる口振りでいろいろ言ったが、最後には折れた。

「分った。君がそこまで言うならしゃあないやろ。計画通り人は送るから、仕事の割り振りはまかせるわ」

 もし私に野心のようなものがあったなら、坂上と対決してでも自分の与えられたものを守ろうとしたかもしれない。しかし、私は今回の活動の意義に疑問を感じていた。第一に、社会福祉士会として単独で、他との連携なしに、分野を限って行うのは、震災支援のボランティアとして適当なのか。第二に、なぜ神戸でなくて、被害の比較的軽度だった宝塚なのか。そういう疑問から積極的にはなれない気持ちが、坂上へのあっさりした譲歩をさせた。

 ある朝、逆瀬川駅で降りたときに窪川と一緒になり、二人で市役所まで歩いたことがある。窪川は何かはりつめたような感じのする娘だった。事務所では坂上の個人秘書みたいになってしまっていた。私は坂上のことを話題にしてみた。

「坂上さんのこと、どう思う」

「やり手ですね」

「強引やと思えへんか」

「そういうところもありますね」

「羨ましいと思うよ。俺にはあそこまでできへんのや。人に命令したり依頼するときに、相手に無理させんとこ思うて手加減してしまうんや」

「そうですね。坂上さんは相手の都合や思惑など気にせんと、仕事を与えていかはる。無理ではないかと思われることもちゅうちょしはりませんね」

「反発もあるやろう」

「意地悪でやったはるのではないのは分りますから」

 確かに、彼女の誠実さを疑うことはできない。彼女が強引なのは、仕事をよりよくこなすため以外の理由はないことははっきりしていた。

5 仮設住宅

 私は仮設住宅支援の専任者という立場で、坂上の指揮に従った。当日の参加者を彼女が高齢者安否確認と仮設住宅支援に割り振る。私は仮設住宅支援の担当になった会員を二人一組のチームにして、活動の説明を行ない、仮設住宅を回ってもらう。高齢者の安否確認が優先されたから、通常私の作るチームは二、三組程度だった。私もチームの一員として一緒に出かけた。

 最初に一戸ごとのフェイスシートを作る。フェイスシートができれば、訪問を繰り返して、状態の確認やニーズを把握する。必要があれば関係諸機関と連絡を取り、対策を調整する。フェイスシートはなかなか揃わなかった。一向に入居しない部屋がある。入居しているようでも、いつ行っても留守の部屋がある。緊急の必要がないのに申し込んだり、トランクルームとして使ったりする者がいるのだ。使われないまま権利が放棄された部屋や、住むところが見つかって不用になる部屋も現れてくる。そういう部屋は補欠の人に割り当てられ、新たに入居となる。

 入居者を偽るケースもあったようだ。仮設住宅入居の申込の単位や資格には特に制限はないが、六十五歳以上の高齢者、身体障害者、乳児、妊産婦、病人、生活保護世帯については優先される。例えば、同居する必要はなくても高齢者の名を申込書に書き込んでおけば、優先枠に入ることができる。人員構成を聞くとあいまいな返事をする入居者がいた。そういう場合、私たちは不正調査のため訪問しているのではないことを説明した。

 支援物資に関するボーイスカウトとの連携もうまくいかない。入居を確認して連絡しても、ボーイスカウトが訪ねると留守の場合がある。新たな入居者を見つけても、ボーイスカウトが先に気がついて既に支援物資が渡されている場合がある。結局、ボーイスカウトは自分達で新入居者を探し、留守の場合は連絡のメモを扉に残しておくようにした。私たちは漏れがないかを入居者に確認するだけになった(二次募集からは、入居の前に全ての部屋の中に支援物資を入れておくことになり、手間が省かれた)。

 訪問を始めてすぐに出てきたのは、設備面での不備に対する訴えだった。入口には踏み台が置かれていたが、それでも段差は大きかった。バス・トイレユニットへの入口にも大きな段差があった。ユニットの中は便器と浴槽で一杯で、洗い場としてのスペースはない。浴槽の中で体を洗う習慣のない大部分の人は戸惑うだろう。浴槽は狭くて深いので出入りがしにくい。手すりを設置することは考えられていなかったので、つけるとしても難しかった。仮設住宅の構造は、障害者は無論のこと、高齢者のことを全然考慮していないものだった。

 仮設住宅の敷地は土のままなので凹凸があって歩きにくく、雨が降ると水たまりができた。夜は暗いので、外灯の設置も必要だった。雨漏りとか、結露とか、水道の不具合とか、かかりにくい入口の鍵とか、通路の傾斜のきつさなど、個々の改善の要望もあった。私たちは入居者からの声を市役所の担当部署である住宅課にその都度伝えた。仮設住宅の設備や環境は、すぐにではないけれど、改善されていった。行政を動かしたのは入居者の声だろうが、情報としては私たちの報告は早い時期のものであった。

 新規に訪問した一軒で対応に出てきた主婦らしい女性に聞かれた。

「お隣がああいうもんつけはったけど、勝手にしてよろしいのですか」

 並びの隣の住宅の入口に、プラスチックの波板のひさしがつけられていた。仮設住宅は四角い箱みたいな作りで軒がほとんどなく、雨の日には戸を開けると吹き込んでくる。雨を防ぐためのひさしを望む人は多かった。ひさしを自分でつけているところも結構あった。中には小さな小屋みたいなもので軒先を囲っているところまであった。きれいに仕上がっているので、自分で作ったのではなく大工に頼んでいるらしい。そのようなことを市は公には認めていなかった。厳密に言うと、物をかけるための釘一本打つこともまかりならんことになっている。私は自分の判断で答えた。

「市の方では、仮設住宅は県がリースしているものだから、改造はできないという見解です。でも、不便やったら、適当にされたらどうですか。市の方かて、そこまでうるさいこと言わんと思いますよ」

 クーラーをつけたいという要望もあった。夏は暑そうだからクーラーは必要に思えた。しかし、そうなると仮設住宅にも貧富の差が現われてくるだろう(後に、住民の要望によって、クーラーは行政が設置することになった)。

 全ての入居者を平等に訪問する必要がないことは明らかだった。入居者の多くは住む場所の喪失だけが問題であり、私たちの支援は必要としない。訪問は迷惑でさえあった。私たちは、入居者を訪問の必要性によって三つに分類し、訪問の頻度を変えることにした。各世帯のファイル(フェイスシートと訪問記録)は個々にクリアーホルダーにはさみこんであったので、ホルダーに赤と黄と青のテープをつけた。赤は毎日訪問、黄は週一、二回程度訪問、青は訪問の必要なしを意味した。

 仮設住宅の訪問に当った会員は、事前にファイルを読み、訪問すべき世帯を選び、ファイルをかかえて出かけて行く。ファイルの内容を憶えきれないから、個々の訪問直前に読み返し、訪問し、記録を取るということを繰り返す。雨の日は立ったままこれをするのがやっかいだった。対処を要することや注意すべき点があれば、帰ってから日誌に記入する。担当の会員は毎日入れ替わったから、どうしても特記の事項に注目して昨日の担当者と同じような問いかけをすることになる。毎回同じ質問をされるのは入居者には面倒なことだったろう。仮設住宅を訪問するメンバーを固定する方がいいという意見はあったが、動員できる人間は限られていた。

6 集会

 安倉北と上の池については市営住宅の集会所を、安倉南は財産管理組合の施設を集会場所として借りることが出来た。集まってもらうのは日曜日にした。仮設住宅の入居者達は通勤などの日常の生活に復帰しているから、昼間集まるとすれば日曜日が適当だった。鹿塩は全体の世帯数が少ないうえに入居も進んでいるので早めの二月二十六日に設定し、その他の地域は一週間あとの三月五日にした。

 入居者へは集会の日時と場所を記した案内のビラを配ると同時に、回覧板を回付してもらうことにした。回覧板のことを誰が思いついたのかはっきりしないが、いいアイデアだった。回覧板にチェック用として住民の名前の一覧を載せておけば誰が住んでいるかが分る。回覧板を手渡すことは隣とのコミュニケーションの助けにもなるだろうし、回覧板というなじみ深い方法は地域としての一体性を感じさせてくれるだろう。

 鹿塩の集会には、坂上と私の二人で出かけた。彼女と私の業務の分担については大まかな取り決めをしているだけなので、境界をはっきりさせて守るというよりも、お互いに助け合うという感覚の方が強かった。こういう活動は初めてだったから、具体的にどんな展開になるのかということの興味も強く、坂上も体験してみたかったのだろう。勘ぐれば、私のやり方に危うさを感じて(技量的にも、思想的にも)、監視のつもりもあったのかもしれない。

 毎日顔つき合わせていれば、親しくもなるし、お互いのことが理解できるようになる。私は年上の男性として、一歩引いた形で坂上と接していた。彼女の積極さ(悪く言えば強引さ)は私の消極性とうまくかみ合ったのかもしれない。わたしはどちらかというと、善良だが抜けたところのあるおじさんと見られるのは嫌ではなかった。その方が好意を持たれやすいからだ。私の属する法人から一日だけ派遣されてきた若い同僚が、彼女のやり方に対して「何なんです、あの女は」と私に不満をぶつけてきたときには、私はなだめ役に回った。

 鹿塩の八世帯が集まった。世帯主らしく中年以上の人たちばかりだ。夫婦で来た人もいた。集会所の座敷に車座になって座ってもらう。坂上と私は自分達の身分と集会の趣旨を説明し、集まった人たちに座った順番に自己紹介をしてもらった。それから先の運行は彼らにゆだねようとしたが、みな押し黙ってしまった。私たちがリードしてくれるものと思っていたので不安そうにお互いを見回す。坂上も私もあえて黙っていた。やがて気まずい沈黙に耐えかねたのか、隣に話しかける声が起こり、それに触発されて、街灯がなくて暗いとか、前の坂が急だとか、雨の時に戸口が濡れるといった会話があちこちで交わされ、混ざり合って個々には聞き取れない雑音となる。しばらくすると次第に会話が途切れ出し、元の静けさに戻る。何人かは助けを求めるように私たちの顔を見る。とうとうその内の一人が言った。

「どないしたらいいでしょう」

 待っていたように私は言った。

「まず司会者と書記を決めてはどうでしょうか」

 坂上がひじで私をつついた。余計なことをして、という非難だ。どうしたらいいと思います、とか何とか言って問いを投げ返し、彼等自身に考えさせろというのだろう。

 住民たちはお互いのことをよく知らないので、誰を推薦していいか戸惑っていた。自ら名乗り出てくれる人がいればいいのだが、それも期待できなかった。「Sさんにしてもろたら」ようやく声があがった。S氏は私たちのすぐ横に座っていて、座席順の自己紹介で最初に名乗ったから、名前を覚えられていたようだ。かなり年配なので取りまとめ役として適当に見える。S氏は「いや私は、私は」と言って固辞する。他の人もS氏を選ぶことに賛同するが、S氏が一向に引き受けないので座が白けた。

「Kさん、どうですやろ」女性の声があがる。知り合いらしい。私はメモの座席表でK氏を探した。K氏も年配の男性で、これ以上流れを遅滞させるのはまずいと思ったのか「私でよければ」と引き受ける。拍手が起こった。K氏はみなを見回して「ご意見を出して下さい」と言ったが、反応がないので私たちに「何から話し合ったらええでしょう」と聞いた。「まず、水道料金のことを決めはったら」と私は言い、メーターが一つしかないことを説明する。

「一番簡単なのは、皆さんで均等に割って払うことですが」

「そやけど、家によって水使う量違うてきますやろ」

「人数多いとこは多いやろうし」

「使う量ごとに支払うわけにはいかへんのですか」

 私は市の職員のような立場になってしまう。「メーターがないから、それは無理じゃないでしょうか」

「メーターあるで」と誰かが言う。

「そや、メーターついとるで」

「個別にですか」

「そうや。家ごとについとるわ」

 私は戸惑った。「そうですか。それなら使用量は分りますね」

「メーターを計ってもろて、家ごとに請求してもらえばええんや」

「市にそう言うたらええんちゃいますか」

 そのあと市に対する要望事項が二、三出て、水道料金の件とともにK氏が市に交渉に行くことに決まった。今後の運営をどうするかについては住民の人たちが決めることなので、私たちは原則として関与しないことを告げた。

 事務所への帰り道、坂上は私に言った。

「あなた、喋り過ぎやない」

 ソーシャルワークにおける私たちの金科玉条は被援助者主体ということだった。私たちが出しゃばらないこと、それが一番重要であった。私としては抑えたつもりなのだが、それでも彼女は不満らしく、自分がいなかったらもっとべらべら喋っていたに違いないと思っているのは確かだった。

「純粋なグループワークやないやろう。我々は今回だけしか参加せえへんのやから、一応の形を整えてやらなあかんのちゃうか。何か成果がないと、今後の活動がうまくいかへんやろう」

「そんな風に思うことが、既に巻き込まれてしまっているんやわ」

 私はむっとして反駁しようとしたが、考えて見ると私にはグループワークについての実践経験がほとんどないことは確かだ。さっきも、私は口をはさみたくてうずうずしていたのを、何とかこらえていた。そういう状態になってしまうのは未熟なのだろう。坂上はデイサービスなどで豊富な経験があるのかもしれない。私は話を変えた。

「水道のメーターが個別にあるなんて、聞いてへんかった。すぐに調べてみなあかんな」

 後で分かったのだが、親メーターは水道局が、小メーターは住宅課が設置したらしい。縦割りで連絡が悪かったのか、水道局が検針を面倒くさがったのか。

 三月五日には私は高司の集会に出席した。高司は大きいので四十三世帯が集まった。高司と同じ日にあったその他の三地区の集会は坂上や他のメンバーにまかせた。自治会の役員をしていた人がいるところなどでは、順調に組織が出来、ゴミ出しなどのルール作りも行い、市に対する要望を吟味して取りまとめるところまで進んだ。

7 調査

 最初の頃は、私は電車で市役所に通った。私の住んでいるところは阪急の宝塚線沿線なので、今津線の逆瀬川駅には宝塚駅で乗り換えなければならない。私の家と市役所と宝塚駅の位置は三角形をなしており、当然のことながら、家から市役所を直接目指せば距離は近い。電車の場合は待ち時間などがあり、また逆瀬川駅から市役所まで少し歩かなければならず、結構時間がかかった。車が一番便利だったので、しばらくして車を使い出した。市役所前の河川敷に車を停めておくことが出来た。市役所にも駐車場はあるのだが、震災後の混乱で車の出入りが多くなったので、公園として整備した河川敷を臨時に駐車場にしていた。

 車があれば会の活動のためにも便利だった。私は仮設住宅への訪問に自分の車を使うことにした。車ならば離れた複数の仮設住宅設置場所を一日で回れるので効率的だった。車を会に提供してもいいのだが、事故があったときややこしくなるのでためらった。責任を問うたり問われたりするのは避けたかった。車は私だけが使うことした。そうすれば、事故のときは私の責任になる。坂上はガソリン代を会から出そうかと言ってくれたが、車の使用を会に関わらせてしまうことになるので断った。私だけが車を使うことについては坂上は寛容だった。車の便利さについては彼女も認めていた。

 宝塚市には周囲の山を切り開いた住宅地が多い。急勾配の坂の上にある家を自転車や徒歩で探すのは大変だった。ただでさえ土地不案内の会員にとって、遠隔地にある地区の調査を一日で完了させてしまうことは難しかった。参加者が多くて私の手が空いたときなど、私は安否確認への協力を申し出た。私は調査に当たる二人の会員を車に乗せ、狭くて曲がりくねりおまけにアップダウンの激しい山の上の道を走り、高齢者のいる家を一緒に探した。

 安否確認については、調査が終わった地区ごとに市に報告していた。地区の調査対象の世帯全部に当たらなければ、地区の調査は完了しない。しかし、場所が分からなかったり、一軒だけ遠く飛び離れていて回りきれなかったりして、残される調査先が出てくる。それを再調査するのに、会員が自転車や徒歩で行って時間を潰してしまうのはもったいなかった。坂上は、そのような残された未調査の家を探すのに、私の車を使うことを要請した。

 住所が分かっているのに家が見つからないのはなぜか。山腹の開発地は傾斜に合わせて住宅を作るので、番地が順番に続かないことがある。また、家を探すのに使った住宅地図の四角いページに地形がうまく入らないと、番地が違うページに飛んでしまう。だから、そういう家は地図の思わぬ場所にあって、なかなか見つからない。調査員はできるだけノルマをはたそうとするために、探すのに時間がかかる家は後回しにし、結局は残してしまう。そういう家を見つけるのは一種のゲームのような感じだったので、私は喜んで協力した。

 会の宝塚の活動には全国から会員が参加した。近畿圏が一番多かったが、他の地域から休暇を都合して泊りがけで参加した会員も多くいた。坂上は適当にコンビを組ませて彼らを送り出し、私の方には参加者の多寡によって調節した人数を回してきた。

 関東から来たという男性と組んだことがあった。彼は二日間活動に参加し、前日は安否確認を担当していた。車の中で彼は言った。

「昨日回った地域には、大きな家が多かったですね」

「山の手には高級住宅街がありますから」

「一軒、被災して、留守になっているところがあって、隣の家で状況を聞いたんですが、何でも宝塚駅の近くの山の方にある億ションに移っているとか」

「ああ、あそこね。ここからは見えないけど、場所によってはよく見えます」

「それを聞いたときには、私たちは何でこんなことをしなければならないかと思ってしまいました」

「被災者もいろいろですから。でも、宝塚に住んでいるのは金持だけじゃないですし、被害の大きかったところもあるんですよ」

「それは分かります。でも、気持として、何で神戸ではないのかと」

 会員たちは、各地から自分の時間と費用を使い、被災者の力になろうと宝塚へ来てくれている。なぜ神戸でなく宝塚なのか、なぜ行政の下請けみたいなことをしなければならないのか、そういう疑問を持ちながら、それでも熱心にやってくれている。彼らの気持ちに応えるような活動にはなっていないのではないかということを私は気にせざるを得なかった。

8 援助

 活動が軌道に乗ると、坂上も私も時間の余裕が出来てきた。二人で出かけることも増えた。坂上と私の分担はさらにあいまいになってきた。坂上は高齢者福祉関係に詳しく、彼女と一緒に仮設住宅に行くと好都合なこともあった。独り住まいの女性の高齢者のケースがあった。震災後は市内の老人ホームにショートステイしていたのだが、期限が過ぎて出なければならなくなり、仮設住宅に入ることになった。独居では仮設住宅に申し込めないので、孫と入居することになっていた(その後の訪問で分かったが、実際には孫は一緒に住んでいなかった)。前回会員が訪問したときには、息子夫婦が母親の入居の準備をしており、ベッドを搬入していたとのことだった。入口で声をかけると中年の女性が出てきた。

「こんにちは、社会福祉士会の者ですが」

「ああ、福祉会の人」

 私たちは、被災者への最初の言葉かけとして、「社会福祉士会の者です」と名乗った。しかし、その返事は決まって「社会福祉会の方ですか」と、「士」が抜かされてしまう。聞きなれない会の名前など分からないのは当然だろう。

 彼女は息子の嫁であった。ときどき様子を見にくるようにしているが、他市に住んでいるので十分に面倒を見られない、と言った。話し声が聞こえたのか、母親が出てきた。ちょっと危なっかしいが、立って歩けている。彼女は、私たちの問いかけに、元気ですと返事した。

「ああ言うてますけど、昨夜もおしっこ漏らしていまして」

 嫁は手間のかかることを強調したが、自分たちの家も被害を受けているので引き取れないと言った。

「お風呂ははいれてますか」

「本人が嫌がって。老人ホームの方がいいと言うてますけど、なかなか入れませんし。私の方も家の片付けがあり、孫も生まれまして、こちらにかかりきりになれへんのです」

「在宅ケアサービス課に連絡をとって、ホームヘルプが受けられるように手配してみましょうか」

 坂上は既に市の関係機関とつながりをつけているようだった。

「お願いできますか。そうしてもらえたら助かります」

 車に戻ってから、私はつい批判的な言葉を洩らした。

「自分たちの親なんやから、もう少し何とかしてあげられへんのかな。しようと思ったら、同居できるんやないか」

「そんなん、家族に求めたってしょうないわ。こういう現状なんやから、本人のケアをいかにするかを考えへんと」

「それは分かるんやけど」

 私の仕事では利用者の家族と関わることがほとんどないので、家族との調整の経験は少なかった。坂上の実際的な考えには共感は持てたが、それが老人福祉では通常のことなのかは、判断がつかなかった。

 ところで、仮設住宅では、私たちの援助を必要とするケースはあまりなかった。また、ニーズを把握するのも難しかった。たとえば、こんなことがあった。ある会員が訪問した部屋の扉をノックすると、娘が出てきた。年齢は十代の後半と思われた。

「こんにちは。社会福祉士会のものですが」

 娘はうなずいたが、返事しなかった。

「お父さんはお仕事ですか」

 やはりおなじようにうなずくだけ。何か困っていることはないか、地震のときはどうだったか、毎日何をしているのかなどと問いかけても、身振りとはにかんだような表情をするだけで、言葉は出さない。言うこともなくなったので、要領を得ぬまま会員は辞去した。会員から私は報告を受けた。

「何となく様子がおかしいですね。どう思われます。」

「父親のいない間ずっと部屋に閉じこもっているらしいのも不自然ですね」

「やはり知的障害があるのでしょうか」

「そうかもしれませんね」

「もしそうなら、作業所などを紹介すれば、昼間に娘の過ごす時間を改善できるでしょうね」

 坂上にその娘のことを相談した。父親に会うには夜の訪問をする必要があった。翌日、食事時を外して八時頃に坂上と二人訪ねた。朴訥そうな父親は、目的をぼやかして説明した私たちの訪問を快く受け入れ、部屋の中に入れてくれた。二人はコタツに入ってテレビを見ているところだった。私たちはそれとなく探るような話題を持ち出した。父親は私たちの意図に何も感づかず、仮設住宅に住んでいる者の義務のように考えているらしく、問われたことに答えた。娘は内気なようで、見知らぬ人間と話すのが恥ずかしいようだったが、短いながらも会話をする中で、異常なところはなかった。私たちは作業所のことを持ち出すことなく話を切り上げた。

 このように空振りに終わることはめずらしいことではなく、アセスメントの目的はそれでも達せられたのではあるが、坂上は不満そうに言った。それは無駄な動きをさせた私にも向けられたものだった。

「話してみれば分かるやないの。何であんな判断したん」

「入り口での立ち話やからな。誤解してもしゃあないで」

「中へ入って、じっくり話すこともできたんやないの。それくらいの技術はみなあるんやない」

「一人のときは見知らぬ人間は入れるなと父親に言われているんやないか。」

「それでも、プロやない。何とでもなりそうやけど」

 坂上は会員の技量について疑念を持っていた。それは彼女の自信の表れでもあったし、こういう現状で社会福祉士が専門職として認知してもらえるかという危惧からも来ていた。私はむしろ、会員たちの戸惑いが理解できた。仮設住宅での福祉ニーズというのは、思ったほど多くない。というより、ほとんど見つけられないのだ。仮設住宅入居者は住むところと財産の一部を失ったというだけで、その他の点では一般の人と変わりはない。会員のほとんどは施設勤務者であり、彼らの接しているのは何らかの福祉的援助の必要な人たちだった。彼らの経験を生かすのに仮設住宅支援が適当なのかどうか。もしそこにニーズがあるとするならば、私たちにとっては新たな経験なのだ。

9 神戸

 震災の直後、少し高いところであればどこからでも破壊された屋根にかけられたブルーシートのまだら模様が見られた。やがて公園やグラウンドや空地など、ある程度の広さの地面のある公共的な場所にはどこにでも仮設住宅が建った。最初はブルーシート、後に仮設住宅が私たちの世界を構成する必須の要素だった。それらがあるかないかで、私達の住んでいる世界とその他の世界が識別された。

 震災直後に大阪に出たとき、そこで営まれている生活が震災によって全然変化することなく、従来と同じように繁栄を謳歌していることに、被災地との落差の大きさに、ショックを受けた。しかし、その印象もすぐに薄れていき、破壊の後片づけも見慣れた風景になってしまった。

 三月の初めに、私は休みを取って、神戸に行ってみた。被害の激しかった地域の姿はテレビで繰り返し見ているが、一度実際に見ておきたかった。阪神間を結ぶ三本の鉄道はまだ全面回復しておらず、細切れの乗り継ぎをせねばならない。JRは住吉駅と灘駅の間(六甲道駅をはさむ区間)が不通、阪神は御影駅以西が不通だった。逆に阪急は西宮北口駅と御影駅の間が不通で、御影駅から王子公園駅までは開通している。まず阪急で今津駅に行き、阪神に乗り換え、御影駅へ。阪神の御影駅から阪急の御影駅まで一キロほど歩く。阪急御影駅から王子公園駅へ。そこから市バスで三宮へ出た。

 アーチが特徴だった阪急三宮駅ビルは既に取り壊されていた。そごう百貨店も新聞会館も国際会館も損壊している。高層の神戸市庁舎一号館は無事だが、二号館は上から押さえつけられたように六階だけが潰れている。センター街はアーケードがなくなっていたが一部の店は開いていた。元町商店街をJR神戸駅まで歩く。人々の服装はまだ震災スタイルが多い。

 JR神戸駅から西へ行く電車に乗る。新長田駅は停車せずに通過したので鷹取駅で下りる。鷹取駅の南側は瓦礫と鉄くずの荒野だ。残ったビルも黒くすすけた壁だけになっている。道だけは障害物を除去されている。雨が降り出した。東に向かって歩く。菅原市場跡に着く。ここも同じだ。焼けたアーケードの下の道だけがくっきりと延びている。雨が焼跡の鉄板にあたってひそやかに音を立てていた。

 帰りはJR兵庫駅から電車に乗り灘駅へ。灘駅から阪急王子公園駅まで歩く。阪急王子公園駅から電車に乗り御影駅へ。御影駅からJR住吉駅まで歩く。住吉駅から大阪へ出た。電車は立っている人がお互いの体を軽く接せざるをえないほどに混雑していた。老齢の女性が混んですわれないことにぶつぶつ文句を言っていた。何となく変な感じのする中年の男も何やら不満の声をあげている。他の人は押し黙っている。

 震災直後にはみなが連帯と忍耐の気持ちを示していたように見えたのに、もうそれらは薄れてきているのか。被災地の惨状の印象が重く、また歩き疲れていたせいだろうか、私にはそんな風に思えた。

 私たちは忘れっぽい。それは仕方のないことであり、そうでなければならない(いつまでも過去にこだわってはいられない)のだろう。だが、過去の教訓は必要だ。震災の被害の姿が残されていれば記憶を保持する助けになるだろう。私は震災三日後に阪神高速道路の倒壊現場を通ったが、写真を取っている人を何人も見かけた。私はそういう人を批判しようとは思わない。私自身がわざわざそこを通るルートをとったのも、この壮大なスペクタクルを見たかったからだ。そのとき私は思い、今でもその思いはあるのだが、震災の記念碑としてこの横倒しになった阪神高速道路をそのままにしておけたらどうだろうか。その他にも倒壊したビルや傾き崩れた家屋を、いくらかでも残しておいたらどうだろうか。自然災害の恐ろしさを知らしめるにはこれほど効果的なものはない。それらを観光資源として使えばいい。興味本位でもかまわないから、神戸への集客に使い、復興にも役立たせればいい。それらは原爆ドームに匹敵する衝撃となって、見た人の心を打つに違いない。

10 ボランティア

 福祉推進課から教えられたと、母親と娘二人が私たちの事務所に来た。事務所にいた私が応対した。

「こちらで冷蔵庫がもらえると聞いてきたんやけど」

「冷蔵庫ですか」

「はい、冷蔵庫」

「震災で壊れてしまったのですか」

「そう」

「新しいのをお買いになる余裕はないのですね」

「そう。こちらへ行けば、くれはると言われまして」

 母親は貰えて当然という口ぶり、高校生らしい娘二人も笑顔で「そうっ」とかけ声のような声をあげる。態度だけで判断してはいけないのだが、そんなに困っているようには思えない。

 宝塚市には支援用の耐久消費財が若干あった。必要ならば仮設住宅の入居者へも配分するようにとリストが私たちに渡されていた。内容は冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などの家電製品、暖房器具、ふとんなどであるが、いずれも数は少ない。私たちはそういう物資があることは仮設住宅入居者たちには知らせず、要望があればその都度判断することにした。損壊を免れたり、必要なら購入した人もいたので、仮設住宅の訪問の際に入居者が私たちに直接要望することはあまりなかった。

「どこの仮設住宅にお住まいですか」

「仮設やあらへん。家にいます」

 私は面食らった。一般の住宅まで支援することは私たちの活動には含まれていなかった。どう扱うべきか分からなかったので、後で連絡するからといったん帰ってもらった。私は坂上に相談した。

「福祉推進課に問いあわせたら、こっちで処理してくれ言うんや。本来なら訪問してニーズの調査をせなあかのやろうけど、われわれにそこまでの権限はないやろう。判断のしようがない」

「渡したら。数はあるんでしょ。余らせてもしゃあない」

「でも、一般住宅のニーズまで考慮したら、とうてい数は足らへんで。言うて来たから渡すんやったら不公平になるんちゃうか」

「だから市はこっちへ回してきたんよ。こっちで適当にして欲しいんよ」

 私たちの立場のあいまいさが私を困惑させていた。純粋なボランティアなら当面の緊急のニーズに即座に対応すればいい。全体のこととか明日のこととかは二次的に考えればよいという機動性がボランティアの強みなのだ。しかし、宝塚市から委託されているという会の立場に私は捕らわれていた。市としては、専門職としての私たちの技量を信頼しているだろう。だから、ボランティアであるからといっていいかげんなことはできない。また、私が勤務しているのは「公の支配に属している」とされる社会福祉法人だったので、半ば公共的な、行政的な性格が災いして、本来ボランティア的であるはずの民間福祉活動の持つ自由な動きの経験が少なかった。組織人として動くことが習慣化して、自分が責任を背負い込んでまでものごとを処理する勇気が欠けていた。

 坂上がボランティア精神に忠実だったというのではなかった。彼女は私よりも社会福祉士会に沿った考え方をしていた。ただ、小心な私と違って、彼女は大胆で楽観的だった。宝塚市が会を当てにしているのなら、実態がどうであれ、ためらわずに分かったようなふりをして実行してしまえばいい。この緊急時に効果の評価などは誰もできはしないのだから、そういう果断さが信頼を得る。真正直に能力の不足を表明したところで誰も喜ばない。それが彼女の考えだった。だから、彼女はボランティア活動をあくまで会の社会的認知の手段としてしか捕えていなかった。

 福祉推進課からは、ボランティア活動をしているらしいグループの女性からの電話も回されてきた。彼女たちは被災者に何かできないかと自発的に集まって、市に配布すべき物資がないか問いあわせてきたのだ。具体的な支給先はまだ見つけてないようであり、たとえ善意ではあっても被災者ではない人への物資の仲介というのはできないので、丁重に断ったが、相手は立腹しているようだった。私の応対を横で聞いていた坂上が言った。

「変なグループとは関わらん方がええよ」

 善意さえあれば何かできるし、善意さえ示せば支援が得られると思い込んでいる人々の無邪気さへの不信は、私も坂上と共有してはいるのだが、坂上のように簡単に切り捨てるのもどうかと思われた。仮設住宅を回っていると、他にもボランティアが訪問しているのに出くわすことがあった。おそらくいくつもの団体やグループが自分達のできることはないかと活動していたのだろう。もちろん市役所でも、社会福祉協議会がボランティア本部を置いて活動していた。私たちと同じフロアーで出会う彼らを見て、彼らと連携すれば活動の範囲を広げることができるのではないかと思った。仮設住宅についても、支援するボランティア団体のネットワークを作れば、援助の重複や欠落を防止することができ、効率的な活動ができるだろう。

 私は坂上にそのことを話してみたが、彼女は即座に否定した。宝塚での活動は市との約束(契約といったほど明確ではないが)に基づいて行なわれているのであり、その範囲を逸脱することはできない。たとえ、それとは切り離して活動を行なおうとしてもそんな余裕はない。例えば、拠点をどうするか。今の事務所は個人情報の保持の必要によって市から借りているのであり、違う活動をするのであれば、ここは使えない。それに、私たちの活動は三月末で切り上げることになっている。今の活動をこなすだけで精一杯だ。

 坂上のあげるそのような理由はもっともだが、彼女が関心を示さないのは、自分たちの活動をそういう善意の素人のやっていることからは区別したいという思いのせいもあるようだった。私がそういう方向に流れがちなのを、彼女は警戒していたのかもしれない。

 確かに、社会福祉士会という制限を離れて、もっと「純粋な」ボランティア活動に重点を移していきたいという気持ちが私にはあった。それと同時に、ボランティアの弱点である無秩序性を何とかする必要を感じていた。被災者のニーズを把握しないままでボランティアの善意があふれ出てもしかたがないのだ。阪神大震災の経験からボランティアコーディネーターの重要性が認識されることになるのだが、たまたま現場にいた私もそういう認識を持った。ただ、坂上に逆らってでも意思を通すだけの意欲が私には欠けていた。

11 専門性

 安倉南の仮設住宅地は木柱に鉄条網を張ったフェンスに囲まれている。北側と西側は道路に面しているが、道路との間には深い溝がある。西側には空地があって車が進入できる入口があり、その部分の側溝には鉄製の覆いがある。北側には歩行者用の入口が作ってあるが、そこの側溝は覆われずにそのままだった。住宅の戸口の向きの関係で、北側の棟の住人はここから出入りするのが便利なのだが、側溝が危険だった。一またぎではあるが、落ちればケガをしかねない。

 その入口の傍に、単身の女性二人が同居している部屋があった。一人は仕事をしている中年女性、もう一人は高齢の女性。二人は被災前はアパートの隣人だったが、友人というほど親しくはなかったらしい。アパートが壊れて二人とも避難所に逃れた。他に行き場所がないので仮設住宅を希望した。単身者が仮設住宅を申し込むと、他の単身者と同居になる。全くの見知らぬ者と一緒になるよりは、多少でも顔見知りの人間と住む方がましということで、お互いを指名して申し込んだ。

 単身者が同居するのはいろいろ問題があった。部屋は二つあるが、流し、トイレ、風呂は共用しなければならない。電話、冷蔵庫、洗濯機などは、共用は難しいのでそれぞれ別にそろえることになる。

 Iさんという高齢者の女性は、体に異常はないようだが、弱々しい感じだった。自分の状況の悲惨さを気にしていないのか気がついていないのか、私たちと接するときはいつもにこにこしていた。連れの中年女性のMさんがいないときには、あの人はちょっときつくて、と愚痴めいたことを言った。MさんはIさんを持てあましているようで、私たちにIさんの頼りないことを話した。

 Iさんが側溝を越える困難さを訴えていた。買い物に行くのに小さな二輪のカートを引いていくのだが、側溝を越すときにそれを持ち上げねばならぬのがつらい。覆いをしてほしいという要望は他の住民からも聞いていたので、市の担当部署には伝えてあるが、優先順位が低いのか、一向に実施されていない。私は何とかしようと思った。私の家には震災で壊れた家具などの木材がまだ片付けぬまま置いてあった。私は側溝の幅を測り、適当な大きさに切ったコンパネに止め具の角材を二本打ち付けたものを作った。角材を側溝にはめ込めばコンパネがずれずに覆いとなる。それを車に積んで、朝、市役所へ行く前に仮設住宅に寄り、設置した。

 そのことを何げなく坂上に話したのだが、彼女の反応は意外だった。

「そんなことは、私たちのするべきことやないんちがう」

 私は驚いて彼女の顔を見つめた。彼女がどういうつもりか分からなかった。

「なんでやねん」

「私たちの仕事は、ソーシャルワークなんよ。設備をするのは他の人の仕事やない。」

「それが出来てへんのやないか」

「そうやとしても、役割分担があるやない。それをごっちゃにすれば、仕事がおろそかになってしまわへん」

「自分の仕事をおろそかにはしてへん。やったのは時間外や」

「そういうことやないの。それやったら、これからも不具合がある度に、あなたはそれを直していくつもりなん。そういう要望があったら、断らずにいちいち対応していけるの。それに、もしあなたのしたことが原因で事故が起こったらどないするの。会に責任がかかるんよ。そういうことも考えてへん、単にあなたの自己満足だけやないの」

「責任は取る」

「そうはいかへんでしょう。あなたのしたことは、会のしたことになるやない。もしあなたがしたいことをしたいというんやったら、会の活動から離れてやるべきやない」

「時間外に俺がやることは、会の活動とは違う、俺自身のボランティア活動やないか」

「他からは、そう見てはくれへんのとちがう」

 次第に声が大きくなってしまい、他のメンバーに不審がられるのを避けるため、私は論争を打ち切った。私としては、坂上にほめてもらおうとまでは期待していなくとも、少なくとも問題を一つ解決したと認めてくれるものと思っていた。それが全く予想外な評価をされ戸惑った。失望や怒りもあった。

 社会福祉活動における専門性については、専門職としての認知を得ようとする過程の中で問題になってきた点だった。私たちの扱うのが全体としての人間であるならば、特定の側面を扱う専門家であろうとすることは原理的に無理ではないのだろうか。ほぼ共通の認識となったのは、社会福祉の専門家はスぺシャリストではなくジェネラリストであるということだった。つまり、広く浅く、何でも屋の性格があるということだ。

 それでも、専門家として備えるべき知識、頼るべき原理、習熟するべき技能は定められるはずだった。そこからやってはいけないことも引き出せるだろう。そのようにして自分の分野を確定し、限定していくことが必要なのだろう。坂上がそういう努力の一端として今度の活動を捕えているのは分かる。

 だが、ボランティアとしての私たちに求められているのは、そんな狭量な姿勢ではないはずだ。私は自分の態度を変えるつもりはなかった。表立って坂上に逆らうことはせず、彼女に知られぬようにして、自分のできることはしようと思った。蒲団がほしいという要望のあった人には、自家の余った布団(震災で整理しようとしていたもの)を持っていったりした。

12 復興

 被災者としての私は家を修理しなければならなかった。古い家なので壊してしまって建て替えた方がよかったのだが、その間、別のところへ転居するのが面倒なので、修理をして持ちこたえさせることにした。

 ときどき私は家から市役所まで歩いてかよった。破壊された建物、ブルーシートのかぶせられた屋根など地震の跡はいたるところにあるが、荒廃の雰囲気はなく、初春の静かな郊外の風景。廃材が片付けられ、更地となった土地に新しい家の間取りが描かれて、徐々に「復興」に手がつけられていたが、熱気とまではいたらない。震災後、バブルに浮かれた日本への天誅だという過激な反応もあったが、破滅の絶望も回復の希望ももっと緩やかなのだろう。

 近くの小さなゲートボール場に仮設住宅が建てられていた。こんな狭くいびつな土地では戸数は知れているが、土地の確保が大変なのだ。公園や公有地など可能なところにはどこでも仮設住宅が建てられようとしている。公共の土地ばかりではなく、企業の所有地も提供されていた。一七六号線沿いに大きな空地があった。その空地を囲む柵には、この土地には近々スーパーマーケットを建てる予定であるという、震災前にはなかった掲示がある。仮設住宅のために土地を供しないことの弁明なのだろうが、さもしい自己保身を表明しているように私には思えた(その場所には確かにスーパーマーケットが建ったが、それは仮設住宅がなくなった後のことだった)。

 私の住んでいる地区の住民たちに、再開発計画の説明会があるという知らせが配られてきたので、私は説明会に出かけてみた。説明会は住民の都合を考えて、夜に行われた。会場は地区の会館だった。会館の向いには堀で囲まれた古いお寺があったが、建物のほとんどが倒壊し、住職の家族が亡くなった。近くの八幡神社の建物は重要文化財だったが、それも倒壊していた。

 マスコミで取り上げあげられており、家屋や土地という自分の財産に直接関係することなので、住民の関心は高かった。椅子だけでは入りきれないのか、それだけの椅子がないのか、床にじかに座らされた。会場の部屋が参加者でいっぱいになり、つめて座らなければならなかった。長机を前にした市の職員が挨拶し、書類を配って説明を始めた。計画は、狭くまがった道を広くまっすぐにするために、各自が土地の幾分かを提供し、また区画を整理するために、土地の交換をする、というものだった。今ある家の多くは建て替えなければならないようだ。

 市の職員は、各自の土地は狭くなるが、車が通りやすくなる利便さによって土地の価格は上がると説明した。しかし、そういう経済学的な解説は、土地や家屋を気軽に転売する習慣があり、それらを利用することをサービスという単純な単位に還元し、それらを収益をもたらす財と割り切るアングロサクソン的な発想なのだ。先祖伝来住みついている、あるいは苦労してやっと手に入れた土地や家屋を、一生手放す気もない人々にとっては、土地や家屋は絶対的な財産であり、市場の評価などというあやふやなものでは測れないものなのである。計画の立案に参画した専門家は、そういう要素を理論に組み入れておらず、あるいは組み入れることができないのだろう。

 住民の反発は大きかった。せっかく震災の被害を免れた家をなぜ取り壊さねばならないのか。「皆さんの町を住みやすくするためです」と言う職員に対し、「今でも住みやすい」とヤジが飛んだ。土地や道路についてのスキャンダルめいた話まで出た。震災を機会として再開発をしようとする行政の動機は分かるが、壊滅的な被害にあったわけでもない住民にしてみればそこまでの切実さはない。行政にしてもどれほどの熱意があるのか。私の家は対象地区外になっていたので、その後の経過は追わなかったが、結局計画は実施されなかった。

13 秘密

 坂上が彼女の勤務する施設の用事で留守の日に、安否確認の結果を整理している窪川を手伝っていると、市の西端、川西市との境付近にある一軒がまだ済んでいないのを見つけた。

「ここは遠いで。おまけに山の上や。自転車では登られへん」

「電車だとどこの駅ですか」

「雲雀ヶ丘花屋敷や。そこからバスに乗らなあかん。歩いて行けんこともないが。どっちにしろ一日仕事や。車で行ってあげたいけど、明日は参加者が少ないから時間がとれへんやろうな」

 窪川は調査票を入れた箱の中からひとまとめにした束を取り出して惜しそうに言った。

「ここが済めば、この地区は完了するんです」

 市には全世帯調査を終えた地区ごとにまとめて報告していた。一軒でも残るとその地区の報告は遅れてしまう。

「家の方向やから、帰りに車で寄ろう思たら寄れるんやけど」

 既に五時は回っていた。事務所外での活動は五時までに済ませることになっていた。それに、訪問は必ず二人で行くことになっていた。

「今から一人ではな」

 しばらく間があって、窪川は言った。

「私が一緒に行ったらあかんでしょうか。前から一度調査に行きたいと思っていたんです。事務員として雇われたんやから仕方ないけど、内勤ばかりなので、みなさんがどんな活動をしてはるか見てみたいと思ってました。坂上さんにお願いしたことあるんですけど、会員でないからあかんと言わはって。よかったら連れてって下さい」

 窪川を連れて行けば二人で行動するというルールは守れる。しかし、それでもルールを二つ破ることになる。五時以降に活動すること、非会員を参加させること。しかし、私は窪川の希望を叶えてあげたいと思った。

 調査票と住宅地図のコピーを用意した窪川を車に乗せて出かけた。武庫川を渡り、西走して市境を越えて川西市に入る。左折して北上、坂を上って行くと宝塚市に戻る。急な坂の両側に家々が続く。峠を越して下り、再び坂を上ったドン突きに住宅地がある。該当する番地に目指す家はなかった。車をとめていくつかの道筋を二人で分担して探したが見つからない。

 暗い中、車の明かりで、コピーした何枚かの地図を二人で交互に見直した。あきらめかけたとき、窪川が「あった」と叫んだ。その番地だけが思いがけなく飛び離れたところに位置していた。ようやく見つけた家は門が閉まっていたので、インターホーンで名乗った。

「何のご用」

 私は訪問の趣旨を説明したが、家の人は出てこなかった。やむなくその家に住んでいるはずの高齢者の名前をあげて状況を聞いた。被害はなく無事だという一応の返答があったが、警戒の口調だった。

「何でそんなこと知っとるの」

「市役所から依頼されて来ました。ご不審でしたら、福祉推進課にご確認下さい。資料を郵便受けに入れておきますから」

 インターホーンから離れて私は窪川に言った。

「たいていは協力的なんやけど」

「せっかく、相手のためを思って来てるのに」

「そらしゃあないわ。見も知らぬ人間が突然来て、プライバシーに関することを聞かれたら、いい気はせえへんのが当然や。震災関連で詐欺まがいの訪問がいろいろあるやろうし」

 宝塚駅まで送る車の中で、私は窪川に念を押した。

「今日のことは坂上さんには内緒やで」

「はい。分ってます」

 しかし、翌日に坂上がそのことを私に問いただした。昨日の家の人が市役所に確認したらしい。市の担当者から坂上に問い合わせがあってばれてしまった。

「どういうこと」

「帰りに寄ったんや」

「誰と行ったん」

「一人や。はよ片付けた方がいいやろと思て」

「勝手なことをして。会の信頼性を損なうやないの。あなたは会員に規則を守らせる立場やないの。そのあなたが何してはるの」

「すまん。気いつける」

 私は反駁しなかった。確かに私はルールに違反しているのであるから。そして、私がルールを破ったのは、誤解や怠惰のせいではなく、はっきり意図してだったから。

 不思議なことに、坂上に責められたことは不快ではなく、むしろ、彼女が非難の的を外していることに滑稽さのようなものを感じていた。窪川のことを隠し通したことで坂上を出し抜いたというような気持ちがあったのだろうか。

 私は窪川との間に生じた共犯者としての繋がりを喜んでいたようだ。窪川も私も、坂上の有能さは認めていたが、彼女に心服することはなかった。彼女が必要としながら得られていないものは、信頼だった。ともに何かをする身にとっては、この余分な機能が拠り所になるのである。そういう貴重な資源を坂上に隠れて窪川とやりとりするのは快かった。まるで秘密のデートのように。

 坂上が席を外して二人きりになったとき、窪川が言った。

「私が一緒だったこと、坂上さんに言いましょうか」

「黙っとき。ややこしくなるから」

14 KDD寮

 仮設住宅の建設が進み、第二次募集の入居が始まっていた。私たちの活動を第二次募集の入居者まで広げることには異論があった。私たちの活動の終了時期から考えて、中途半端に終わってしまうおそれがあったし、対象が拡大すると対応能力をこえてしまうかもしれない。しかし、現に入居が始まっているのだから、出来るところまでやろうということになった。

 第二次募集には、KDDが被災者のために提供した廃止予定の寮が加わっていた。寮は売布(めふ)と寿楽荘の二か所にあった。私は坂上と二人で行ってみることにした。寿楽荘の寮は逆瀬川駅と宝塚南口駅の中間辺りを山の手に登ったところにあった。山裾の斜面が住宅地になっていて、道路はかなりの勾配があった。寮の建物も二段になった敷地にそれぞれ棟が建ち、上下にずれた形で結合されていた。駐車場はなく、玄関の前の空間にせいぜい車が二、三台とめられるだけだった。

 建物の中に入ると、廊下や階段が複雑に入り組んで、たちまちどこにいてどこに向かっているか分からなくなる。二つの棟のうちどちらかを後から増設したのでこうなってしまったのかもしれない。まだ入居はさほど進んでいないようで、空いている部屋がほとんどだった。迷路のような通路で、私たちと同じようにうろついている年配の女性に会った。こちらの身分を言って聞いてみると、入居はしたものの、何がどうなっているのかよく分からないらしい。管理をするような役目の人間はいないようだ。

 空き部屋の一つに入ってみた。部屋は畳敷きの一間で、浴室、トイレはついていない。古びて殺風景な部屋だ(取り壊す予定の建物なのだ)。部屋を出て、階段を上り下りして、ようやく食堂を見つけた。元は寮だから、厨房で調理した料理を食堂で食べるような構造になっている。集団給食用の厨房は使えないので閉鎖され、食堂に流しとガスコンロをいくつか並べて、個人で調理するように改造されていた。ただし、その数は全員分にははるかに足りない。もともと集団生活用の建物だから、完全に個々独立した生活を営むことは無理なのだ。どうしても共同生活のルールが必要になる。

 次に売布の寮へ行った。こちらは売布神社駅から歩いて五分もかからないところにある。緩やかな坂を上がった曲がり角にカソリック教会の広い敷地があって、門を入ったところに両腕をひろげたキリストの白い像が立っているのが見えた。そこから坂が急になり、寮の建物はさらに一段高いところにある。入り口への階段には手すりが新設されていた。寮の建物の右側にはテニスコートがあるが、今は閉鎖されている。

 こちらは中庭のあるコの字型の建物なので、分かりやすい構造だった。寿楽荘よりも入居が進んでいるようだった。ちょうど荷物を運び込んでいる人もいた。既に入居している何人かの人に話を聞いた。KDD寮への入居は満六十五歳以上の高齢者世帯か母子世帯に限られたが、入居者はほとんどが単身世帯だった。入居がばらばら行われている中で、入居者同士のつながりがなく、入浴のルールさえ決められずにいた。一人の女性は私たちに訴えた。

「お風呂にどうやって入っていいか分からしまへんので、入ってまへんねん」

「みなさん、そうなんですか」

「入ったはる人もいてはるようやけど」

「時間を決めたりしたはらへんのですか」

「どなたかそうしてくれはったらありがたいんやけど」

 洗面所の横に洗濯機が三台置いてある場所を通りかかると、そこにいた女性が私たちに問いかけた。

「ここに洗濯機を置いてもかまへんのでっしゃろか」

 見ると蛇口がまだいくつか空いていた。私たちにも分からなかった。すると横にいた男性が洗濯機を指して言った。

「それ、市が置いてったんや。使うてもかまへんのや」

 それでも女性は解決のつかない表情をしていた。使えるものなら自分の洗濯機を使いたいようだった。しかし、みながそうするだけの蛇口もスペースもないだろう。

 私たちを市の職員と間違えて指示を求めようとする人は他にもいた。私たちには権限はないけれど、やろうと思えばリーダーシップをとってルールを決めることはできた。その方が早く混乱を収めて、入居者に順調な生活をもたらすことができるだろう。どうせ決めることは分かっており、誰がやろうと同じようになるのだ。しかし、私たちにはそれは禁じられている。決めるのは住民でなければならない。たとえ時間がかかろうと、その過程が大事なのだ。

 入居のペースは遅かったが、既に入居している人だけでも集まってもらうことにした。売布については三月十九日に集会をセッティングした。寿楽荘はまだ入居が始まったばかりなので予定が立たなかった。

 売布の集会に、坂上と一緒に参加した。二十二人の人が集まった。入居者たちは代表者を決め、掃除のこと、入浴のこと、洗濯機のことなどを決めていった。管理人を置くことについて市と交渉することになり、交渉の担当が決められた。浴槽が大きすぎるので半分程度に仕切ってはどうかという意見も出て、それも市と交渉することに決まった(しかし、後で反対意見が出て、結局現状のままでよいということになった)。話し合いが行き詰まったり、変な方向にそれて行っても、黙って成り行きをみていることに私は平気だった。彼らを信頼すべきなのだ。彼らが自分で自分のことを処していくのは、部外者である私たちが指示するよりも、はるかに適切な結果を生むのだ。たとえ私たちから見て、はがゆく、非効率的で、稚拙なやり方であろうとも。

15 引きどき

 金曜日の午後に社会福祉士会の会長が宝塚の事務所へ来た。背が高く、押し出しのききそうな風貌をしている。彼は私の法人の理事長の後に会長になった。東京の郊外で高齢者施設を運営している法人の理事長をしている。多くの社会福祉法人でそうであるように、彼も世襲の二代目だ。留学か何かで北欧に滞在していて、現地の女性と結婚して連れて帰ってきたらしい。ある研修で知り合った彼の施設の職員から彼に関するエピソードを聞いたことがある。彼の法人は先進的な取り組みで知られ、もっぱら痴呆(いまは認知症と呼ぶようになった)の高齢者を預かる、当時は少なかった施設も運営していた。その施設で植木を置いておくと葉を高齢者が食べてしまうので、職員が撤去することにした。すると彼が怒ったらしい。緑の潤いは心の安定になるのに何で置いておかないのか、と。職員が理由を言っても、食べたっていいじゃあないかと押し切った。理念はわかるが、現場としては困ることもある。しかし、そういう強引なところがないと新しい試みは実施できないのも事実だ。

 石橋も一緒だった。坂上と彼らは顔なじみなので親しげに話をしている。会員は出かけてしまっている時間だったが、会長が来るというので何人か残っていた。立ち上がって迎えた会員に、会長は労をねぎらい励ましの言葉をかけた。その後、会長、石橋、坂上の三人は市の幹部や担当者にあいさつに回るために出て行った。会長は私に個別には声をかけなかった。私は彼を知っているが、彼は私を知らない。私は紹介されなかった。

 彼らが戻ってくるのを待たずに、私は会員の一人と仮設住宅の訪問に出かけた。安倉南では溝の覆いを見てみた。コンパネ中央がややくぼみ、細いひび割れができている。人間の重さには耐えられるはずだが、何か重いものを載せたのだろうか。それとも何人も通ると荷重に耐えられないのだろうか。やはり本格的な対応でないとだめなようだ。自己満足にすぎないと言った坂上の言葉を思い返した。

 私たちが単身女性の二人暮しの部屋を訪ねたとき、ちょうどMさんが帰宅したところだった。彼女は乗って来た自転車を見せた。

「通うのが辛いからこれ買いましてん。電動でんねん」

「これが電動自転車ですか。便利ですか」

「ちょと高おましたけど、ええですわ」

「そうですか。お二人とも、お変わりないですか」

「そうでんな。Iさんがけがしはったけど」

「えっ、どうしはったんですか」

「包丁で指を切らはって。三針ほど縫わはったわ」

「入院しはったんですか」

「いえ、そこの病院に通たはるわ」

 歩いて五分程のところに小さな病院があった。

「あの人も頼りないから、面倒見みたらなあかんのやけど、私は仕事で昼間はおらんし」

「そうですね。今日はIさんは」

「いま出たはるみたい。買い物に行ったはるんかいな」

「そうですか。いろいろ大変でしょうけど、Iさんのこと、よろしくお願いします。何かありましたら言うて下さい。また寄せてもらいます」

 Mさんは苦笑いのような表情で応えた。仕方ないなあという感じだった。

 私たちが帰ってきたときには、会長は引き上げていた。石橋も坂上もいなかった。大阪のどこかで会議か何かをするらしい。もともと社会福祉士会の活動に積極的に参加していたのではないから、除け者にされたというわけではないが、主流から外れているという気分にはなる。

 私はいまの活動が好きになっていた。勤務している施設の仕事にはないやりがいを感じていた。福祉の業界に入るについては自分なりの理想があったのだが、実態は期待していたのとは異なっていた。施設の運営は行政と一体となった事務仕事でしかなかった。一方で民間としての特徴といえば、収入の確保や事業の拡大といった企業的な要素に現れ、奉仕とか献身とは縁遠いものだった。そういう仕事を続けていくうちに、私はすりきれてしまっていた。自分のやっていることが福祉だとは思えなかったのだ。宝塚での会の活動はかつて私が思い描いていたものに近かった。

 一方で、私は戸惑っていた。施設の利用者に対しては、私たちは庇護者という感覚をどこかに持っていた。最近は、利用者主体とか、顧客満足とか言って、そういう私たちの意識を変えようとする流れになってきているが、簡単には変えられない。利用者に対して何かをしてあげているという実感が強いのだ。ところが、宝塚の活動では、私たちは私たちの管理下にない人たちを相手にした。多くの人たちは私たちの支援を必要とはしていなかった。私たちが出来たわずかなことにしても、客観的に評価してみれば被災者の生活の向上のために実質的に寄与していないのかもしれなかった。私たちがいよういまいと、何の違いもないのではないか。果たして私たちは本当に役に立っているのだろうかと疑問に思ってしまう。

 ボランティアというのはひとりよがりなところがある。施設に受け入れているボランティアに対しては日頃からそういうことを感じていたが、自分がその立場に立ったら、そういう自覚を持つのは難しかった。ボランティアは、たとえ迷惑とは思われても、非難されない。もたらす結果がどうであれ、ボランティアであることだけで尊重されてしまうのだ。だから、自己評価が難しい。

 しかし、いずれにせよ、この活動も終りに近づいている。会長が来たのもそのせいなのだ。ボランティア活動は終結時期の決定が重要だ。様々なシステムが崩壊してしまった被災地でのボランティア(つまり無料の)活動は必要だが、いつまでもそれを続けることはシステムの回復の支障になる。例えば、医療ボランティア活動が医療機関の再開を、支援物資が商店の復興を阻害してしまうことになるのだ。通常の活動が回復してきたなら、それに引き継いでボランティアは撤退すべきなのだ。

16 終了

 三月二十日、昼に事務所にいると、庁内のどこかから戻って来た坂上が、東京の地下鉄でガス中毒が発生して大勢の被害者がでているというニュースを伝えた。地下鉄サリン事件だった。その後の事件の報道は、世間の関心が震災から移って行く兆しのように感じられた。

 第二次募集の仮設住宅地の一つである中山台に、坂上と二人で入居状況確認に行った。住宅地として開発された山腹の急な坂を登りに登った奥の方の公園に仮設住宅はあった。公園は斜面を何段かに区切った平面からなり、一番広いグランドに百戸近くの仮設住宅が建築中だった。公園の横には巨大なマンションがそびえていて、見下ろされているような気分になる。被災した者とそうでない者、あるいは恵まれた者とそうでない者の対照が具現化されたようで、仮設住宅の入居者の気を重くしはしないかと気になった。今回は予定されている仮設住宅の三分の一が入居対象になっていたが、入居が済んでいるのはまだ三戸だけだった。第二次募集からは場所を選べるようになったので、不便なところは敬遠されているらしい。

 三月二十六日の日曜日に第二次募集の仮設住宅の集会が行なわれた。寿楽荘のKDD寮の集会は、私たちの活動の最終日である三月三十一日に行われた。坂上と私が出席したが、その日の五時までに市役所内の事務所を撤収せねばならなかったので、中座して引き上げた。

 事務所に帰るとあわただしく片付けた。東京から石橋が来て、坂上とともに市役所内のあいさつ回りを済ませた。資料や備品はとりあえず私が預かることになり、段ボール箱につめて車に積んだ。別れに際して窪川は記念にボールペンを私に贈ってくれた。

17 対立

 宝塚の現地事務所をたたんですぐ、私の職場に坂上から電話が入り、仮設住宅支援の活動報告を早急にまとめろと言ってきた。例によって、こちらの都合などおかまいなく、二日程の期限だ。きちんと整理する余裕もなく報告書を私は書いた。期限に間に合わせるため、二日目には勤務が終ってから、坂上の職場にワープロを持ち込んで書いた。

 そのとき、私は坂上と口論になった。報告の内容についてではない。私たちが引き上げた後の仮設住宅の支援活動は、宝塚市内の老人ホームが引き継ぐことになり、私は協力するつもりでいた。私はそのことを坂上に言った。それに対して坂上は思わぬことを言った。

「社会福祉士会の活動はもう終っているんよ。後の引継ぎについては市に任せてあるから、そのホームと私たちが直接に関係するべきやないわ」

「会の活動としては終っても、支援活動が終ったわけやない」

「あなたは勝手に参加せんといてよ。会が引き続きやってると受取られかねへんのやから」

「社会福祉士としてではなく、個人として参加することを、会が禁止することはできへんやろう」

 私は自分の言い分の正しさに対して坂上がどう反論しようと今度こそは説得できると思っていた。しかし、坂上の応じ方は意外であり、私には狡猾に感じられた。

「それはええけど、私らのやり方を教えたらあかんよ」

 私はその意味がつかみかねた。

「そら、どういうこと」

「宝塚での活動は社会福祉士会が独自に作り出したものなんやから、あなたが勝手にしたらあかんよ。資料も渡したらあかん」

「なんでやねん。被災者を援助するのが第一やないか。なんでそんな心の狭いこと言うんや」

「心が狭いとか、そういうことやあらへん。きちんとしとかなあかんのやわ。守秘義務かてあるんやから」

「住民のプライバシーについて配慮するのは当然のことや。そんなん分ってる」

「それだけやない。活動の仕方についても勝手によそに洩らすべきことと違う」

「また分からんことを。君の言うことは無茶苦茶や」

「会のみんなが努力して、時間かけて作り上げたものやないの。会の財産やないの。簡単に譲り渡すことなんてできへんわ」

「あんなこと誰でも思いつけることやないか。ことさら隠すことあれへん」

「それやったら、教えたげることない。自分らで勝手に考えてもうたらええんやないの」

「一からやるのは大変や。自分らのやった活動を引継いでもらうんやから、経験を伝えたるのが当然やないか」

「貴重なノウハウなんやから、会で管理せなあかんのやわ」

「それが会の専門性のあかしになるっていうんか。専門性を守るために事業を独占しようとするなんて、本末転倒やないか。それやったら、専門職なんて単なる職業カーストにすぎないやないか」

「ノウハウというのは誰にでも使えるものとは違うでしょ。ちゃんと使える人が使わんとあかんもんでしょ」

「老人ホームの連中は福祉専門職やで」

「社会福祉士の資格は持ってるん」

「それは、分からん」

「いいかげんなんやから」

「あの程度のノウハウなら、誰でも使えるはずや」

「それはあなたの意見やないの」

 大きくなった私たちの声が聞こえたのか、通りかかった施設長が部屋の入口から顔をのぞかせた。向かい合って立ったまま私たちは口をつぐんだ。施設長は「遅くまでごくろうさん」と言った。私は「お邪魔してます」と答えた。二人の間の険悪な空気に気がついたかどうかは分からなかったが、施設長はそのまま通り過ぎて行った。それをきっかけに、私たちは報告書をまとめる仕事に戻った。二時間ほどで報告書を仕上げてFDを坂上に渡し、私は帰った。

 結局、私はその後の支援活動をしなかった。坂上に逆らうこともできたけれど(坂上の言ったことは彼女の個人的な見解にすぎないのだから)、あえてそうすることも出来かねて、迷っているうちに時間が過ぎてしまった。その結果、後を継ぐ人たちとの約束を破ってしまうことになってしまい、どうにもならなくなって手を引いてしまった。

 言い訳になるかもしれないが、仮設住宅への支援は入所初期こそ有効だが、そこでの生活が軌道に乗ってしまえば、住民たちの自治にまかせた方がいい。住民自身も、通常の生活のように、様々の組織や機関を自分で選んで活用するようになる。私は後に一度神戸市の仮設住宅の支援活動に参加(というより見学)したことがあるが、さほどのニーズは感じられなかった。そういうことも私の態度に影響していた。

18 Mastery for Service

 翌年の九月、社会福祉士会の宝塚市での支援活動に対して厚生大臣から感謝状が出された。授与式に坂上が出席したことを知って、理事長は私に言った。

「宝塚というといつも彼女の名前が出るが、君かて現地でずっと活動してたんやろう」

 私は「ええ、でも、彼女が責任者でしたから」と答えた。むろん理事長は私のことを思いやったのではなく、私を派遣した自分の功績が評価されないことを不満に思っていたのだ。

 崩れた家が片付けられ、こぎれいだが味気ないプレハブ住宅が建ち、仮設住宅が消えてしまうと、日常が帰って来た。いろいろなことがあり、世界は大きく変わっていくようであったが、本質的には何も変わっていないのかもしれなかった。震災からしばらくは、ほんの些細な揺れでも身構え、情報を取ることに必死になったが、そのうち気にならなくなった。

 社会福祉士会の活動には、大阪支部の役員になってしばらく参加していたが、それもやめてしまった。会の方針が、社会奉仕という面よりも、自分たちの職業身分の待遇改善に向かいがちなのに違和感を覚えたからだ。

 かなりの年月が過ぎたある春に、私は夙川畔の桜を見に行った。川をさかのぼり、ハイキングコースを北山貯水池まで行く。さらに甲山森林公園を抜けて上が原浄水場の方へ歩いた。浄水場の下に大きな草の斜面が見えた。近づいてみると阪神淡路大震災の際の地すべりの跡だった。防護工事がなされ、草花が植えられてある。斜面のふもとには地すべり資料館があった。中には防護工事の詳細が展示されていた。ここ仁川の百合野地区(西宮市)では地滑りで十三戸が埋まり三十四人が死んだ。事務所に管理の男の人が一人いるだけで、見学者はいなかった。訪れる人はまれなのだろう。

 そこから少し下ると関西学院大学があるので寄ってみた。私は何の関係もないのだが、構内には以前にも何度か入ったことがある。春休みなので学生の姿は少ない。正門の近くに校舎に囲まれた芝生の中庭があって、その正面の時計台のある建物の壁にmastery for serviceと書かれてある。「奉仕のための練達」と訳されているようである。その文字があることは以前から承知しており、ミッションスクール特有のキリスト教的な精神だろうとは思ったけれど、奉仕がなぜ知識や技術に結びつくのかずっと理解できないでいた。立ち止って眺めていると、私はその言葉が分かったような気がした。

 2000年に介護保険制度が成立し、介護支援専門員という資格もできたのだが、私は福祉の専門性についての疑問を解消できずにいた。しかし、ボランタリーと結びつけられるのであったら、福祉に専門性があるということに納得できそうな気がする。職業の専門性は奉仕という要素を抜きには成立しないのではないだろうか。奉仕から独立した専門性などないのではないか。ボランタリーといい奉仕といっても、単に無償の援助ということではなく、その仕事をやることの根本動機のようなものとして考えるべきなのだ。専門性とはその内容とともに態度でもあるのだ。

 甲東園駅から阪急電車に乗り、逆瀬川駅で降りてついでに宝塚市役所に寄ってみた。私の住んでいる地区では役所の用事は支所ですむことがほとんどなので、本庁へ来たのは震災以来のことだった。私たちの拠点となっていたフロアーに降りてみると、配置はあのときと変わっていなくて、静かに業務が行なわれていた。螺旋階段を登り、武庫川側の玄関から外へ出た。市役所の隣にあった銀行のグラウンドは防災を兼ねた公園になっている。武庫川の河川敷は殺風景なくらいに片付いていて、犬を散歩させている人がいた。もはや震災を思い起こさせるものは何もなかった。ただ、私の心は、風景にあの日々を重ね合わせていた。

 それから私は家に帰ってこれを書いた。

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