井本喬作品集

カメラを持つと持たざると

 犬たちはカメラを向けると目をそむける。カメラが何をするものかは彼らに分からないはずだが、自分たちと人間との信頼関係を損なう侵入物であることは直感しているようだ。

 カメラが介在することで被写体を遠ざけているのではないかという懸念は、私たちにもある。たとえば、写真と実物の違いに戸惑うことはよくある。また、写真を撮ることに気を取られて、カメラの視点でしか対象を見ていないということも体験する。

 旅行などで風景の写真を撮ろうとするとき、写真を撮るための風景としてのみ眼前にある対象を見る。全体のどの部分をどのアングルで撮ればいいのかだけを考え、撮ってしまうとそれで安心する。後で気がつくのだが、そのときの実際の風景については何も憶えていなくて、ただ写真だけが手がかりとして残っているだけだ。そのときに何も見ていなかったのだ。見ようとしていなかった。ただカメラを目の代わりにしていただけだ。

 いっとき、旅行にカメラを持たないようにしたことがあった。何かのきっかけ(持っていたカメラが壊れてしまった、とか)があったのかははっきりしないが、『太陽のかけら』という古いスウェーデン映画(1964年)が記憶にあったのは確かだ(影響されたかどうかは別にして)。スウェーデンの青年とアメリカの青年が、無人小屋に泊りながらトレッキングをしている最中に出会うのだが、ごついカメラで写真を撮っているアメリカ青年にスウェーデン青年がこう言うのである(詳細は忘れたので正確ではない)。「カメラのレンズは風景と目を遮断してしまう。実際の風景が見えなくなる」。

 写真を撮る必要はないと思ったのは、旅行を一人でするようになったからでもある。風景だけならパンフレットなどを見るのと同じことであり、人物が写っていないと記録にはならない気がする。自分の姿を撮るにはセルフタイマーにするか人に頼まなければならず面倒である。また、記憶を共有する人がいないのであれば自分一人の写真を撮ったところで意味がないだろう。そこに自分がいることは当然なのであるから、姿を記録しておく必要があろうか。もちろん、カメラを持たないことの矜持や意地のようなものもあった。

 一方で、記憶は細部が曖昧であり、失われやすく、変形も被る。経験というのはそのまま記憶することはできない。人間の記憶というのは経験の凝縮された記号のようなもので、細かい部分はすぐに忘れ去られて行くから、風景や人物の外観などについては写真の持つ再現力にはかなわない。私たちが保持できるのは概念だけなのだ。きれいだと感じたという事実だけが記憶され、それがどのようだったかは急速に失われてしまう。だから、経験を保存してくれているように思える写真を頼りにする。記憶の補助として、あるいは記憶を呼び覚ます起点として、写真の有用性は否定できない。

 カメラと経験の関係などということにそんなにこだわらず、写真を記録ないし記憶の補助として有効に扱えばいいのだろう。事実、カメラを使おうとしなかった時期の旅行について、写真がないことを残念に思うことがある。

 ニュージーランドのミルフォードトラックに行ったときもカメラは持って行かなかった。体験の海の中の島のような形で記憶はあるが、視覚的にはぼんやりとしたイメージでしかないので、写真があれば細部がはっきりするのだが。しかし、思い返してみれば、ツアー参加者(日本人は私一人で、中高年が多かった)の多くはカメラを持っていなかったようだ。オーストリアから来た青年がごついカメラを持っていたのは憶えているが。西欧人は私たちほどカメラ好きではないのかもしれない(出っ歯でメガネをかけカメラを持った日本人の戯画が昔は定番だった)。写真は体験を矮小化してしまうというような信念が彼らにはあるのだろうか(その頃はもちろんスマホはなかった)。

 最近は私も旅行でカメラを使う。デジカメという便利なものが出来たせいもある(フィルムのように枚数を気にする必要がない。ただし、バッテリーには注意が必要だが)。登山を計画するとき、ウェブ上の登山記録の写真は参考になる。私も、登山口の様子とか、道の分岐点とか、標識など目印になるようなものを写真に撮っている。風景を撮るにしても、美しさよりも地形の確認が主になる。撮影時間も記録されるから、メモとして便利なのだ。目では見逃していたものが写真に写っていることもある。言葉と同じように、写真も記録として使えばいいのである。記憶の代わりになるわけではないが、補助にはなる。

 ここまで考えて、ふと思いついたのだが、写真や活字や映像は、(そういうものを介さない)生の体験とは異なる二次的な体験であり、それは私たちの体験を豊かにしてくれるものではないだろうか。あからさまに言えば、生の体験というのは日常的で退屈なものであり、そこでは得られない喜びが二次的体験によって与えられるのではないだろうか。そういう意味では旅行や登山という体験もそうなのである。旅行やスポーツや芸術鑑賞などの創造体験の濃淡スペクトルのなかの一つとして、記録媒体があるということになる。だとすれば、旅行の写真というのは二重に二次的なのだ。非日常の体験を記録することによってさらに効果を派生させようというのだ。

 ちょっと話がややこしくなったのは、写真は撮ると見るとの両側面があるからだ。この二つの側面が一致しないことは明白で、他人の撮った写真を見ることも、自分の撮った写真を他に見せることもある。しかし、自分が撮った写真を自分で見る場合でも、時点の違い以外に、意識の方向が違っているのである。写真を撮るときはその写真を見る未来を想定するが、写真を見るときはその写真を撮った過去を想起するのだ。

 写真を見るとき、それが過去の体験のどの部分をどの程度保存しているのかを判断するには、記憶に頼るしかない。しかし、記憶自体も過去の体験の忠実なコピーであるのではない。呼び出される記憶というのは、回想という現在の作用である。写真という記録からもたらされる感情は本物(その時のもの)と似てはいるかもしれないが、どの程度似ているか(あるいは全然違っているか)は実は分からないし、重要なことではないのかもしれない。写真を見るという体験によって私たちが得る感情だけが唯一確かなものである。

 だから、写真を撮るということは未来を生産することなのだ。今という瞬間を捕えられるのは今でしかなく、どのような媒体でもそのまま保存することはできない。去りゆくものは去るがままにして、忘却にまかせよう。今を留めようとすることは諦めるのだ。なぜなら、そうでなければ、辛いことや悲しいこともいつまでも残ってしまうであろうから。喜びでさえも、いつまでも抱えていなければならないのであれば、重荷になる。

 写真は、体験を複製するのではなく、それを見る度に新たな体験をもたらすものだ。だから、写真も絵と同じように、新たな創造であり、その意味で本質的には対象一般と同じなのである。対象とそれを写した写真は全く別物で、一方が他方のコピーというのではなく、両者は対象としては同じ資格を持つ、と写真家なら言いたくなるだろう。ただし、素人写真家は、写真を経験の代替物あるいは保存物として扱うから、被写体と写真の関係は微妙である。

 ところで、記憶とは何だろうか。記憶には容量の限界があるから、全てを映画のように記録できないし、第一、そんなことをしていたら再生に時間を取り過ぎて非効率である。記憶は体験の記号化であり、省略こそがその本質なのだ。記憶は薄れ、改変され、わずかな断片だけが再生産される。だから、正確性という点では信頼は置けないのだが、そういう操作こそが体験を私たちがどう受け止めたかの証なのだ。

 そういう意味では、記憶と写真は似ているとも言える。それは現実の一片を切り取るのである。記憶が印象による凝縮であるとすれば、写真はレンズによる時間の断面図なのだ。

 むろん、両者をうまく使い分ければよいというものでもない。両者の関係は錯綜している。写真の記憶というものもあり、写真による記憶の喚起(失われた記憶がよみがえるというのは矛盾した言い方なので、その記憶は秘められていたのだろう)や代替というものもある。記憶が失われて写真だけが残るということもある。

 基本的には記憶と写真は別物だが、写真が体験や記憶を蝕むということにあまり神経質になる必要はないだろう。純粋体験や純粋記憶というようなものはたぶん幻想である。カメラによって全てを保存することはできないのと同様、カメラなしでの体験が何か優れたものになるということもないのだ。

 自然は人間に完全再現の記憶を与えなかった。その断片性と改変性において写真は記憶に似ている。だから人は写真を好むのかもしれない。

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