井本喬作品集

ミスとその気づきについて

 日々ミスをしている。あわてたり、ぼんやりしたり、勘違いしたりして、小さなミスを繰り返している。そういうつまらぬことを取り上げようというのは、ミスとその気づきについて考えてみたいからだ。

 これまでの人生でそのようなミスを積み重ねてきているのに違いない。それでも大して支障が生じなかったのは、それが些細な事であり、また累積することなく単独的な出来事ですんでいるからだろう。しかし、そう言い切れるだろうか。気がついたからこそミスと認識できる。気がついていなければそのまま見逃してしまっていることになる。もしかすると、気づかれることがなかったミスによって様々な影響を受けているのではないか。人生の変遷において、気づかれなかったミスによって違った方向へ流されていったということはないのだろうか。

 そもそもミスを犯すということはどういうことなのだろう。簡潔な答えは、意図する結果を得るための手順を間違えた、となる。手順を知っていながら間違ってしまうこともあるし、手順についての知識がなかったりあやふやだったりして間違うこともある。あるいは、その手順によって得られる結果についての見誤りというのもあるはずだ。いずれにせよ、意図(予期)しなかった結果を知って、ミスに気づくことになる。

 手順におけるミスというのは不注意が原因だから、その対策は「注意する」ということになる。不注意というものが単なる気まぐれ的な突発事であるのなら、より一層注意するしかない。だが、それだけのことなら事態は一向に改善しない。

 そこから一歩進んで、ミスを防ぐ効果的な方法を工夫しようとするならば、不注意には原因があると考えねばならない。不注意は偶然起こるのではなく、ある種の必然性があるとみなすのだ。その原因を操作することでミスを防げるはずだ。

 しかし、ミスというのは手順の間違いというだけなのだろうか。私たちがミスに気づくのは、結果が意図したものとは違う場合だけではない。意図した結果をほぼ達成したのに、その行動がミスだったと判断することもある。いくつかの行動を検討して決定したが、選択しなかった行動の結果の方が選択した行動の結果よりも優れていたことが分かった、というような場合。

 つまり、一つの行動を選択したが、その手順を間違えて予期した結果を得られなかった場合だけでなく、一つの行動を選択し、ほぼ正しい手順を踏み、ほぼ予期した通りの結果を得たが、別の行動を選択していればもっとよい結果が得られたということが事後的に分かった場合も、ミスをしたということになる。前者をA型、後者をB型としよう。

 A型のミスには必然的な要素があり、工夫をすれば防げるはずだと先に言った。しかし、手順が複雑になるとそうとは限らなくなる。不確定要素が多すぎて結果を予想することが難しくなるからだ。少なくとも自分のコントロールできる範囲ならば予想は可能かもしれないが、コントロールというのがどの程度可能なのかという疑問はある。手順というのもコントロールのための操作だ。実行できる適当な手順がなくて期待する結果を得られないこともある。また、ある手順に従った行動がその手順によって期待されたのとは違う結果をもたらしたり、その手順がどんな結果をもたらすかを知らずに(非意図的に)ある手順を取った行動をしてしまうこともあるだろう。

 A型においても行動の選択がなされたのであるが、B形との違いは、意図された結果が達成されなければその原因が手順にあることがすぐに分かるという点である。その違いゆえに、A型はミスを繰り返さないための行動につながる。このことは重要だ。B型のミスを起こすのは、繰り返すことのあまりない選択においてであることが多い。つまり、特殊、特異、独特なケースであり、それゆえその選択の結果を他と比較しにくい行動の選択なのだ。

 ところで、(ほぼ)一回限りの選択をミスとみなすことに何の意味があるだろうか。ミスに気づき反省することは、同じことを繰り返さないようにするためだろう。だが、その行動が一度きりのものであるならば、それに気づいたとしても、ただそのことを受け入れるしかない。だとすれば、ミスに気づいてそれを悔やむことは無駄でしかないのではないか。

 ミスに気づいても気づかなくとも、自分の行動を間違いと思うのは、別の行動が取れたという前提があるからだ。つまり、選択肢が一つではなく、いくつかあったということだ。選択するというのは自動的な行動ではなく、判断を介在させることである。判断というのは自由な意志の作用であるはずだ。だから、どれでも選べたはずだ。自由にした選択が間違いであったならば、選択の仕方を検討できるだろう。

 生活全般におけるような複雑な状況では、同じような行動(繰り返しの行動)だけではなく、異なった行動、そして経験したことのない行動についても検討の対象としなければならない。私たちは、異なる行動による異なる結果をそれぞれ比較して選択する。言い換えれば、各行動のコストとベネフィットを考慮して選択をする。その際、私たちは手順だけでなく、もっと広い視野で行動を検討する。どのような行動であろうと損益計算のような普遍的な尺度で扱えるなら(難しいことだが)、過去のミスを教訓にすることができるかもしれない。過去の行動の評価は判断の材料の一つとして選択の幅を縮めることに貢献する。

 逆に、不確定要素を持ち込んで複雑にしてしまうこともあるだろう。過去を悔いるということは過剰な修正要求であるのかもしれないのだから。

 ミスは予測できるのだろうか。ミスが予測できない理由としては以下のことが考えられる。

  1. ミスが予測できるのであればそれに対処するであろう。ミスの要因を除去するか、それが難しいのならば企てそのものを放棄する。その結果ミスは発生しなくなるはずだから、ミスが起こることを予測できない。つまり、ある企てが実行されるのはミスが起こらないという予測のもとである。
  2. ミスが起こるかもしれないと予測しながら企てが実行されるのは、事前に具体的なミスが特定されないからである。予測というのは完全ではないから(要因の全てを把握できないし、そもそも要因の範囲を明確に限ることができない)、ミスが起こる確率をゼロにはできない。しかし、ミスの確率が極めて低ければ、企ては実行に値する。そもそも企てというのはある程度のミスを許容しなければ実行され得ない。予測できない(防ぎようがない)、あるいは確率が低すぎて対処のしようがないミスがあるはずだとしても、企ては実行されるのである。

 ミスの起こる確率が極めて低い、あるいは、ミスが起こってもそれが些細であり企ての実行にさほどの支障がないと判断(予測)されるからこそ、私たちは行動する。その判断の妥当性は過去の経験の積み重ねよる。つまり、試行錯誤によって適切なルーチンが確立されるのである。それでもミスが生じるとすれば、ルーチンが守られなかったか、過去の経験として取り込めていなかった事態が生じたときであろう。

 ルーチンはなぜ守られないのだろう。主たる原因は怠惰である。ルーチンの一部を省略しても行動の成果に変化がないという経験がルーチンを軽視させる。これは試行錯誤の結果とも言えるし、怠惰の欲求は合理的な追及とも言える。しかし、その経験がルーチンが形成されたときの経験よりは範囲が狭ければ、低いけれども稀ではない確率で、ミスを惹き起こす事象が起きるかもしれない。

 ただし、状況の変化にルーチンが対応しきれていないにもかかわらず、そのルーチンによる行動にさほど支障が生じていないという場合は、ルーチンが冗長になっていると考えられる。支障がはっきりと現れなくともルーチンを絶えず検討する必要はある。

 怠惰の別の側面として、確認を怠るということがある。ルーチン化すればその確認は次第に無意識的になり、それが効率を上げることになる。しかし、無意識的な遂行は何かの刺激によって注意が喚起されると乱されることがある。ちょっとした中断とか気まぐれによって、ルーチンに欠損や過剰を与えてしまう。あるいは、ルーチンの遂行が意識的に確認されなければ、部分的に独立した遂行の一部を飛ばしてしまうこともある。その防止の一例が指差し確認である。

 ルーチンというのは繰り返し実行される企てにおける効率化のための方策である。それに従えばミスが生じることがほぼないので、ミスが起こらぬための対策やミスが生じたときの対処を省くことができる。つまり、ルーチンによる行動はミスを予測する必要はほとんどない。

 しかし、私たちの状況は常に変化している。過去の経験がそのまま役立つという状況は限られている。しかも、私たちがコントロールできる要因はわずかである。ルーチンから外れた、あるいはそもそもルーチンが適用できない事態は常に起こる。原則的に、私たちは個々の企てごとにミスの予測をしなければならない。最善の場合でも、予測の限りではミスはほぼ起きないはずだが、ミスが生じる可能性がないとは言えないという判断しか得られないであろう。場合によってはわずかな可能性に賭けなければならないときもある。

 私たちは、ほぼミスを生じないだろうという見込みから、ほぼミスを生じるだろうという見込みまでの広いスペクトルのなかから、行為を選ぶのである。もちろん行為を放棄するという選択もある。選ぶ基準は損得計算であり、ミスは確率と関連して損失を構成している。

 選択における判断というのはどれかを選ぶということであって、単に選択肢を提示して決定をなんらかの他の主体(例えば自由意志)に委ねるというものではない。判断をしたのであれば、もう他の可能性は閉ざされている。

 最適な選択をしたつもりでも、事後的には失敗だったとみなすことがある。むしろ、そういうことの方が多いかもしれない。だとしても、選択時には最適な選択をしたのだ。あるいは、よく考えずに何となく選択したとしても、その選択は必然なものであった(他の選択はなかった)のである。

 ミスをしたという評価は事後的なものだ。行動したときの判断はそれなりに正しかった。未来に対する洞察が不十分であったとしても、その限界の中で最適な選択をしたのだ。つまり、必然だった。

 選択の場に立たされると迷うこともある。どの選択肢が最適なのか判断がつかないからだ。しかし、それはどの選択肢でもいいということではない。最適な選択肢があるはずと思うからこそ、それが分からないので迷うのだ。どの選択肢でもいいのなら迷う必要はない。どれも同じであるなら、どれでもいいのだから、クジとかサイコロで決めればいい。

 選択の自由というのが、自分が最適と思う選択肢を取ることであるのなら、そこに自由はない。最適な選択肢を選ぶしかないからだ。自分が最適とは思えない選択肢をも取れるのであれば、それこそ自由な選択だろう。

 確かに、いやいやながらある選択をせざるを得ないことがある。しかし、他に最適な選択肢がないと思うからそうするのである。他の好ましいと思う選択肢を取ろうとしても、何か不利な条件、例えば労力や金銭を余分に要するとか、失敗するリスクが高いとかがあって、妨げられる。その意味ではなされたのが最適な選択なのだ。つまり、事前的には誰もミスはしない。他に適切な選択肢があると思えるのに、あえて不適切な(劣った)選択をするようなことはありえない。そういう選択をしているように見えても、何か理由があるのであって、結局はそれが最適となっているのだ。

 物理的に可能であれば、何でもできると思うのは幻想である。例えば、私は「自由に」犯罪をなし得るだろうか。もちろん私にも罪を犯す可能性はある。しかし、それには理由があるはずだ。罰せられるのを避けるために行動を控えているだけだとしても、もはや私は「自由な犯罪者」ではない。理由がないことが理由だという論理もあるだろうが、その論理が理由になっている。理由がないのに何かの行動をしようとしても、その行動が何かは分からないだろう。

 次のような反論が思い浮かぶ。私たちがしたいと思うことができるということは、自由な行動が成立しているということではないだろうか。たとえ結果が予期せぬものであっても、また、いろいろな障害で思い通りにはできなくとも。しかし、逆に言えば、私たちはしたいと思うことしかできないということだ。したくないことをするのは、それが手段的な行動であり、より高位のしたいことを支えるためである。したいというのは私たちの動因であるが、私たちには所与として与えられたものだ。いわば必然の結節点である。

 適切と思われる行動の結果が意図ないし予想とは違ってしまったとき、もしくは事後的に結果の評価が変わってしまったときでも、私たちはその結果を受け入れざるをえない。それはよい方にも悪い方にも起こることだろう。予想や評価を間違えるのは私たちが把握し得なかった要因があるからか、把握し得ても私たちがコントロールできない要因があるからだ。私たちの限られた能力ではどうしようもないことだから、結果のよしあしを偶然(運・不運)とみなしたくなる。だが、私たちはがっちりとした因果関係の網に捕らわれていると考えるならば、結果というのはそれ以外にはなかったのである。私たちの行動は因果の網のごく一部なのだ。そもそも未来をコントロールしようとすること自体に何らかの原因があるはずだ。私たちはその原因に従って事態をコントロールしようとする。つまり、私たちが要因の一つとなるのだ。因果関係の全体を見通すことができないならば結果について確たることは事前には分からない。期待した結果が得られようと得られまいと、すべては必然である。自由な選択ができたのだから、違った選択を行うことで今とは違った人生が送れたはずだと思うのは、後知恵にすぎない。人生はみな必然であったのだ。

 その因果関係の中で私たちが一つの原因となって、そのことを知っていようといまいと、その結果を私たちが引き受けなければならないこともある。人知の及ばないところで、私たちは私たち自身の境遇の原因になっているのかもしれない。そして、当然ながら他人の境遇の一因にも。

 例えば、私たちの何気ない一言が、相手に強い影響を与え、相手の行動を変えてしまうことがある。私たちが行ったことが、私たちの知りえないところで、他人の人生を左右しているのだ。しかし、それさえも必然であり、他の道はなかった。

 では、因果に縛られた私たちに自由はないのであり、他のあり方はなかったということになるのだろうか。私たちのミスでさえ、ミスを犯すことは必然であり、他に道はなかった。ミスを犯さなかったことも必然であり、他に道はなかった。ミスに気がついてそれを回避することも、また必然であった。それらを運・不運で区別することは、因果関係の全体を把握できない私たちの限界ゆえである。

 私たちがミスを犯すのは必然だとしても、そのミスに気づくことは将来の行動に影響を与えるのではないか。だとすれば、ミスに気づくかどうかによって因果の方向に変化を与えることになる。しかし、ミスに気づくか気づかないかも必然であるのなら、そういうことは起こらない。そして、ミスに気づいて将来の行動を変化させる(あるいは変化させない)のも必然であるのなら、私たちは私たち独自の決定権はもっていないことになる。

 では、ミスは防げないのか。ミスは防げるであろう。ミスを防ぐことが必然的な過程であるならば。ただ、私たちにはミスをしてしまうか、それを防げるかが分からないだけなのである。いずれにせよミスは起こる。それが必然であっても、私たちにとってはミスはやはり予期せぬ出来事なのだ。

[ 一覧に戻る ]