井本喬作品集

コロナの夏

1

 二〇二〇年八月五日、十六夜の月を見に、パートナーの郁と、滋賀県高島市の箱館山に行って来た。翌日、郁が発熱した。

 新型コロナウイルス感染症の第二波らしきものが進行しつつあるときであった。新規感染者数は第一波のときのピークを越えていた。しかし、五月に解除された緊急事態宣言が再び発令されることはなかった。さらに、GoToトラベルキャンペーンが東京を除く形で七月二十二日から開始されていた。政府は経済活動と感染防止の両立という方針を立てていて、第一波のときのような外出自粛という方策は取らず、三密回避・マスク着用・手洗い励行という行動変容で感染を防ぐことを目指していた。いろいろな意見が様々な場所で発せられていたが、第一波とは違って重症者や死者は少ないと言われていたので、警戒感は薄れていた。

 それでも、他府県ナンバーの車を見る目は厳しそうだったので、迷ったのだが、野外ならば構わないだろうと、郁と二人で出かけたのである。

 箱館山スキー場は夏場はユリの花畑にしていたことがあるが、いまはネモフィラやコキアに変えているらしい。近くにあるびわ湖バレイのテラスが有名になったが、それに倣ったのか箱館山にもテラスというのが設置され、そこから琵琶湖に登る月が見られるということだ。四日は満月、五日は十六夜の月で、特別に夜間にゴンドラが運行される。五日の月の出は午後八時九分と案内されていた。

 ゴンドラ乗り場の駐車場に着いたのは午後五時頃だった。明るいうちに着いたのは、ゲレンデの花を見て歩くつもりだったからだ。車は数台停まっているだけである。コロナのせいというより、さほど知られていないからだろう。乗客は私たちだけなので二人きりでゴンドラに乗る。料金窓口の女性も乗客を誘導する男性もみなマスクを着けている。むろん、私たちもマスクを着けていた。ゴンドラの窓は換気のために下げられていたが、隙間ほどの開口でしかなかった。

 ゴンドラは急こう配で登る。眼下には琵琶湖が見えるはずだが、今日はもやっていて眺望がきかない。はたして月が見られるのか心配になった。

 小さなゲレンデの短いスロープにリフトが二本ある。昼間は右側の一本が動いていたはずだが、いまは止まっている。ゴンドラ駅の前のネモフィラは枯れかけていて、職員が水を撒いていた。草のスロープのなかの道を上がって右側のリフトの乗降場まで行くと、ネモフィラの花畑がある。赤い花が盛りだ。白い布で丸く覆われたベンチが一つあって、若いアベックが座っている。もう一組の若いアベックが花の中にいて、男性が女性をスマホで撮影していた。ゲレンデを下ってみると、あちこちに花やコキアが植えられているが、それぞれの畑が孤立していて物足りない感じである。

 ゲレンデ下の突き出した峰のようなところに小さな木のテラスが四つ設置してあり、下方の二つには先ほど見たのと同じベンチがある。眼下に今津の町並みが見えるが、湖面は相変わらずかすんでいた。ゲレンデとテラスを結ぶ道には風鈴をたくさん吊るしたトンネルのようなアーチと、色とりどりの細長い布を垂らしたオブジェのようなものがある。

 まだ明るいのでゲレンデの方へ引き返してレストランで休憩することにした。いかにもスキー場のレストランらしく簡素で頑丈そうな造りである。食事の提供は終わっていて、仕方なく私はコロッケを郁はアメリカンドックを注文し、アイスコーヒーを飲んだ。客は三組しかいなくて席はガラガラだ。

 暗くなり始めたので、ポップコーンとペットボトルのお茶を買って、再びテラスへ。二、三十人の人がいて、月を待っている。アベックと親子連れがほとんど。長い間待って八時九分になったが、月は見えない。対岸の長浜らしい辺りにぼんやりとした灯りがみえるだけ。眼下の灯りの少ない今津の街を直線状の電車の灯りが横切っていく。待ちきれずに引き上げてしまう人もいた。

 八時半ごろになってようやく月が現れた。赤く小さい月だ。周りを照らすほどの力はなく、孤独に夜空を登っていく。

 客が全員山を下りたことを確認するためか、中年の男の職員がいて、帰ろうとする私たちに話しかけてきた。夏の月は赤い。昨日は全く月が見られなかった。見晴らしがよければ対岸の灯りが琵琶湖の岸をなぞっているのが見える。そんなことを話してくれた。ゴンドラの最終は九時半である。

 琵琶湖の縁を通って帰るときには月が大きく見えた。湖面を照らし、いわゆる月の道を作っていた。白髭神社の湖中の鳥居とも一瞬だがコラボした。月が見られたのは幸運であった。しかし、コロナ禍での私たちの平和な日々はその夜で終わってしまった。

2

 箱館山から帰った夜、郁の腰が痛みだした。痛みのため郁はほとんど寝られなかった。翌朝になっても改善せず、かえって痛みが増したようだった。午前中、郁は少し眠ったが、目が覚めると熱っぽく感じられ、体温を計ってみると三十七度八分あった。

 ふだんなら病院か診療所に受診すればいいのだが、コロナ禍では発熱の場合はややこしそうだ。市役所のホームページにコロナ健康相談コールというのが載っていたので電話してみるが、なかなかつながらない。何度かかけ直してようやくつながった相手に状態を説明すると、身近に感染者がいないか、最近の海外渡航歴はないかを聞かれ、いずれもないと答えると、病院に受診するようにとの指示だった。

 かかりつけ医はいるのだが小さな診療所なので、通院歴のあるD病院へ電話してみた。コールセンターへ電話したことを伝えると、受診は可能とのことだった。ただし、PCR検査は当病院ではできないと釘を刺された。

 午後の診療開始時間である二時の少し前にD病院前の駐車場に車を入れ、崖際に立つ六階建ての四角い建物の入口へ行くと、フェイスシールドと防護用のガウンをつけた看護師が立っていた(彼女も私たちもマスクをつけていることは言わずもがなである)。事情を説明すると、入口の右側に設置されているテントで待つように言われた。行事などに使われるような家形屋根の白いテントである。D病院は第一波のときに院内感染を起こしたので、対策を厳しくしているのかもしれない。

 テントは布の壁で内部が隠されるようになっているが、入口側は開放され、入口の反対側の壁も一部が開けられて送風機らしい四角い機械で風が送り込まれている。テントの中は物入れの棚を置いた机と数脚の椅子が置いてあるだけで、がらんとしていた。

 別の看護師がテントに来て、郁の体温を計り、問診票に記入を求めた。記入を済ませて渡すと、郁の健康保険証と受診券を受け取って出て行った。しばらくして戻ってきた看護師は、建物の裏手にある駐車場に回って、車の中で待っているようにと言った。教えられたとおりに建物を半周して、業者用らしい小さな駐車場へ車を入れた。太陽は高く、隠れることができる陰はなかった。窓ガラスを通して差し込む陽が体を焼く。クーラーを強くすると郁が寒いと言うので、弱いままにして耐える。だいぶ長く待った。

 やがて、どこに通ずるか分からないドアを開けて看護師が出てきて、受診ができることを告げた。看護師に伴われて郁は建物中に入り、ドアが閉められた。私は車の中で待った。

 食品納入業者の車が入ってきて、さらへ奥へと進んでいった。調理員らしい人がときどき現れる。厨房があるのだろう。

 駐車場の横に、病院本体とは独立したコンクリート造りの二階建ての建物がある。外階段で二階に出入りできるようになっている。何に使われているのか分からないが、二階に工事業者がいて、電気の配線を伸ばしていた。その建物に接するように、駐車場の一部にプレハブの小屋のようなものがある。配線をそこにつなげようとしている。後で看護師に聞くと、発熱者の待合室を作っているとのことだった。コロナ禍がいつまで続くか分からないので、病院も対応のための整備を進めているのだ。

 もし郁がコロナに感染しているなら、私は濃厚接触者になる。ここではPCR検査はできないようだから、他の病院へ回されることになるのだろうか。妙なことに切迫感はなかった。起こっていることがまるで劇中の出来事のように絵空事に思える。

 郁が一人で出てきた。車に乗り込んだ郁に結果を聞く。血液検査、尿検査、肺と腰のレントゲン検査をしたが、いずれも異常は見られなかった。肺のレントゲンから判断するとコロナではないであろう。発熱は熱中症かもしれず、腰痛は原因が分からないが細菌の感染かもしれない、という診断であったそうだ。

 看護師が出てきて、解熱と痛み止めとしてカロナールの処方を薬局に連絡しておいたと告げた。そして、診察代の支払いは後日でいいと言った。発熱者は病院内部には入れさせないようにしているのだ。

 そのときは、コロナではなかったことに安心し、郁の症状は短期的におさまるだろうと思った。しかし、それは始まりに過ぎなかった。

3

 郁と私は同居しているが、籍は別である。病院などで関係を聞かれれば「夫」と答えるけれど、正しくは「内縁の夫」と言うべきだろう。事実上の夫婦関係であるが、郁のことを妻というのには抵抗があり、パートナーと言うことにしている。

 郁が自分の姓を変えないのは、複雑な相続上の都合もあるのだが、二人の関係を真に永続的なものとみなせないからかもしれない。二人の関係は十年以上になる。いまさら二人とも別の新たな男女関係ができるとも思えないし、このままどちらかが死ぬまで関係が続いても構わないとは思っているのだろうけど、何かためらわれるものがあるようだ。

 私と知り合ったときには郁は結婚していて、娘が二人いた。夫とは心理的に破綻していたが、私は彼女の家庭事情など知らなかったから、仕事上の付き合いとして受け止めていた。私の存在が彼女の気持ちにどう作用したのか分からないのだけれど、結果的に郁は離婚して実家へ帰った。二人の娘が専門学校と高校を卒業して自活するようになったこともきっかけになったのだろう。

 離婚したことで郁との付き合いが男女の仲となったのは自然だった。私は結婚したことはないが、女性と付き合った経験はあった。たまたまそのときはそういう女性がいなかったので、郁を相手とすることは好都合だったのである。そういう言い方をすると私の誠意が疑われるだろうが、お互いに気に入って付き合うというのは、誰も傷つけないのであれば、非難されることではないはずだ。離れて暮らしながら、ときどき会うという生活がしばらく続いた。一緒に旅行に行くこともあった。

 郁がどう思っていたのかは分からなかったが、私はそういう関係に満足していた。このような関係は一過性のものでしかないのだから、それをどう維持していくかとか、どう決着をつけるとかいうことに煩わされることはない。やめようと思えばいつでもやめることができるのだから。

 郁との関係は私が真に望んでいたものとは違うという気があった。それは恋ではなく、言い方は悪いが遊びのようなものに思えた。そこで得られる満足はほどほどのものであり、その程度でしかないのは当然だと納得していた。

 しかし、いまさら私は何を求めているのだろう。人と人の結びつきに神秘的なものなど何もないのに。こんなはずではなかった、もっと違った何かが得られたのではないか、という思いなど、とっくに捨て去ったのではなかったか。若いころに期待していたのは幻想でしかなかったのは思い知ったはずなのに。

 人生の黄昏どきにあって、まだ迷っている自分がいる。

 そういう無責任さを郁は感じ取っていた。彼女にしてみれば将来のことを考えざるを得ない。私の頼りない意思に全てを託せない。しかし、私に何かを強要するのはためらわれたようだ。郁にしても、私との生活が最終的な解決になるのか疑問だったのだろう。

 郁とは喧嘩別れをしたことが二度ある。きっかけはささいなことだが、どちらも意地を張り通し、仲直りのきっかけを失った。半年ほどお互いに何の音沙汰もなく、このまま別れることになるのだろうと覚悟したこともあったが、結局二度とも折れたのは私の方だった。

 二度目の和解の前、郁の父親が急死し、それ以前から認知症の傾向のあった母親の症状が悪化して施設に入ることになった。私は既に引退していて、郁は勤め先の事業変更があって退職を考えていた。郁の実家は娘にまかせて、団地に部屋を見つけて二人で同居することにした。

4

 受診した翌日(七日)になっても郁の熱は下がらなかった。腰痛は痛み止めで抑えられているようだった。郁がだるさをしきりに訴えるので、夜になっていたが、救急で受診することにした。市域で一番信頼できそうなのはやはり市立病院だ。通常なら紹介状が必要だが、救急なら受けてくれるかもしれない。電話に出た受付の男性は簡単に症状を聞くと、病棟の看護婦に電話を回した。看護婦はやや詳しく状況を聞いてから、そのまま待つように言った。しばらくして、救急が入っているので受けられないと断られた。そこで昨日受診したD病院に電話してみると、夜間は外科医しかいないので対応できないとの返事だった。仕方なく翌朝まで待つことにする。

 八日は土曜日だったがD病院は午前中診察を行っていた。受付開始の午前八時半頃に着くと、入口から建物に沿って間を空けて一列に並べられた椅子に人が座っていた。待つ人の行列が密になるのを避ける措置だろう。出されている五、六脚では足りないので、立って並んでいる人もいた。

 日差しがきついので車の中で待とうかと思ったが、ほどなく入り口のドアが開き、二人の看護師が出てきた。彼女らは入り口で非接触型の体温計を来院者の額にかざして体温をチェックしてから、中に入るのを許可した。私たちの番になったので状況を説明すると、前回同様テントの中で待つように言われた。私たちの後で小さな男の子を連れた母親がテントの中に入ってきて、私たちと離れて座った。

 今回も車で裏に回るように指示された。車の中でかなり待ってから看護師が来て、郁を建物の中に誘導するのも前回と同じだった。一人で待っている間、病院の周囲の木の剪定や草刈りの作業が行われていた。小石などが跳んで人や車を傷つけないようにシートで囲うようにしている。この炎天下で作業は大変だろうと思いながら私は見ていた。

 車が一台駐車場に入ってきて、私の車の横に一台分を空けて停まった。運転しているのは若い女性のようだった。彼女も降りずに待っていた。

 郁が出てきた。今回はCT検査をし、結果が出るまで車で待つように指示された。待っている間に、看護師が隣の車の女性と窓越しに受診の手続きをし、その後女性は建物の中へ入った。

 看護師が郁を呼びに来たとき、私も一緒について行っていいと言った。私は郁を支えながら看護師に続いて部屋に入った。そこは元が何に使われていたのか分からないが、コロナ用に用意された臨時の診察室だった。パソコンが置いてある医師の机と患者用の椅子があるだけの狭い空間だった。ここにも換気用の機械があり、パイプが応急的に外とつなげられている。

 中年の医師がいて、私たちが座ると早速診断の結果を説明した。内容は前回と同じだった。検査では何の異常も確認できない。コロナではないのは確かなようだ。病名の特定ができないから、治療のしようもない。そういうことだった。点滴をすることになった。

 医師は引き上げ、看護婦が点滴の処置をした。ベッドもないから椅子に座ったままだった。看護婦もいなくなり、私たちは二人きりで点滴液が減るのを待った。

 後で診療明細を見てみると、ソルデム3AG五〇〇mlと記されてあった。低張電解質輸液というもので、水分、ミネラル、エネルギーを補給する。他にプリンペランの注射と処方があった。これは吐き気止めである。郁が吐き気がして食べられないと言ったかららしい。

 原因が分からないというのが不安だった。原因が分からなければ医者にもどうしようもないのだろうけれど、苦しんでいる患者に何もできないと告げるだけで済ますのはどうかと思う。かといって、彼らにそれを訴えたところで、どうにもならないのは分かっていた。

 家へ帰っても郁の熱は一向に下がらず、食事もできない。わずかに果物を口にするだけだ。六日に発熱してからこの状態がずっと続いている。

 郁は耳が痛いと訴えていた。発熱はそれが原因かもしれないので、耳鼻科で診てもらうことを望んでいた。しかし内科医に耳鼻科との連携を頼んでも、そういうことはできないようだった。耳鼻科には別途受診する必要があった。

 郁が耳鼻科にこだわるのは、去年の六月の経験があったからである。急な頭痛が起き、そのときも最初はD病院の脳神経外科に受診して頭のMRIを撮ったが、異常は見られなかった。もともと耳が聞こえにくいというので耳鼻科にかかっていたので、もしやと思って受診したら、航空性中耳炎と診断され、通気療法を受けた結果、頭痛が治った。直前に北海道往復の飛行機に乗っていて、そのときの気圧の変化で鼻と耳をつなぐ耳管に炎症を起こしたのだった。

 耳鼻科で原因不明だった頭痛が治った経験から、この原因不明の発熱もそうなのではないかという思いに、郁が捕らわれ、私も同調するようになった。内科ではらちがあかないが、耳鼻科ならはっきりさせてくれるのではないかという望みにすがったのである。

 市発行の『健康づくり べんり帳』という冊子に耳鼻咽喉科・眼科の休日夜間急病診療所というのが載っていた。電話してみると、耳鼻咽喉科は今日はやっていないが、大阪の中央急病診療所ならやっているはずだと教えてくれた。大阪までは遠い。耳鼻科で治るという確証はない。ただまだ試していない可能性として期待しているだけだ。結局、今日は耳鼻科受診はやめることにした。

 しかし、郁が苦しがるので、夜になって内科の病院に行くことにした。D病院は外科医しかいないから、他の病院を当たってみることにした。

 例の冊子には、休日・夜間の診療先として五つの救急告示病院が載っている。市立病院、D病院の他にT病院、K病院、S病院である。もう一度市立病院にかけてみた。電話に出た受付の男は症状を聞いたのち、しばらく待つように言ってどこかへ連絡していようだが、いまは救急が入っていて受け入れできないと返答した。私は怒りを爆発させた。

「本当か。前もそうやって断られたぞ。本当に救急が入っているのか。確かめにいくぞ」

「本当です。来られても受診はできません」

「じゃあ、待っている。済むまで待っている」

「いつになるか分かりませんよ」

「かまわない。済むまで待っている」

 私の剣幕に押されたのか、男はしぶしぶ承知した。電話を切ってから、郁がやめようと言った。私が市立病院に通院しているので、変に関係がこじれて私の受診に差し支えるのではないかと心配したのである。私もやや冷静になり、自分の態度を反省した。そして、市立病院に断りの電話を入れた。

 残る三つの病院に順に電話した。T病院は呼び出したが出ない。K病院は発熱は断っているという返事。S病院には検査ができないのでと婉曲に断られた。

 再び怒りがこみあげてくる。病院受診についてはいままで節度を持ってやってきたつもりだった。科ごとにかかりつけ医を作って、やたらと病院には行かないようにしている。それなのにこの仕打ちか。

 他に病院はないかと例の冊子を見直すと、24時間テレホンガイドの番号が載っている。電話してみると、自動音声ガイドで科目別地域別に病院を教えてくれる。この市域ではすでに電話した病院をあげていたが、他に冊子には載っていなかった隣接市の病院名が一つあった。そのA病院にかけてみると受け入れ可能とのことだった。

 私が何度も病院と交渉しているのを傍で聞いていた郁は、私に手数をかけさせるのに気が引けたようだった。もう一度熱を計ってみると若干下がっている。A病院は市外だからやや遠いこともあって、明朝まで様子を見ることにする。A病院には断りの電話を入れた。

5

 郁が飛行機を使う場合は事前に予防措置を受けるように耳鼻科の医院で言われていた。しかし、どのみちコロナのせいで今年は遠出はできそうもなかった。

 コロナでインバウンドがいなくなったことは、観光業界には大きな痛手だろうが、私自身は好ましいと思っている。コロナが収まっても前のようには戻ってほしくない。インバウンドがどれほど浸透しているかは、北海道に行ってよく分かった。

 北海道では、まず旅行の仕方がシステム化されているのに驚いた。飛行機とレンタカーとホテルがセットになったツアープランを申し込んでいたのだが、新千歳空港に着くと、レンタカー会社がバスを手配していて、レンタカー各社の集まった巨大な敷地まで送り届けてくれる。バスはピストン輸送で次から次へと客を運んでいた。客の一団がつくと手早く手続きが取られ、各自に割り当てられた車のところに案内され、手短な説明の後、すぐに出発できる。外国人もここでレンタカーを借りて北海道の各地に散っていくのだ。

 以前ならば、中国人や韓国人は、言葉を発していなくとも、服装でそれと分かった。しかしいまは、少なくとも若い彼らを外見で区別するのは難しい。彼らが言葉を発して初めて、日本人でないことが分かる。だから、インバウンドがどれほどの割合なのかは人々を見ているだけでは判断つかない。それだけ溶け込んでしまっているのだ。

 富良野の農園の花畑を郁と二人で歩いているとき、財布が落ちているのを郁が見つけた。近くに大きなカメラを持った若い女性がいたので声をかけると、自分のものではないと日本語で答えた。てっきり外国人だと思っていたので意外だった。女性は思いついたように財布を受け取ると、少し離れた場所を歩いている若いアベックに近づいてそれを示した。日本人に見えたアベックは外国人だった。男の方が自分のポケットを探ってから、財布を受け取っていた。

 それでも、団体でいるときは彼らを識別しやすかった。そして、目立った。また、説明書きや注意書きがハングルや中国語であることが、彼らの存在が当たり前であることを示していた。

 私は彼らそのものを嫌っているのではない。私たちのルールやマナーを知らずにいることが気になるだけだ。かつて、「ノーキョー」と呼ばれて軽侮された、ヨーロッパにおける日本人観光客と、彼らは同じ立場なのだろう。

 別の機会だが、信州に旅行したとき、外国人の団体と相宿になった。風呂場へ行くと、洗い場のシャワーのいくつかが壁の留め具に戻されず、床に放置されていた。風呂から出てスリッパをはこうと下足箱を見ると、部屋番号を書いた札を着けていたのにもかかわらず見当たらない。確証があったわけではないが、それらは外国人の仕業だろうと思った。彼らに悪意があったのではない。彼らは知らないだけなのだ。彼らにルールを教えておかなかった旅行関係者が悪いのだ。

 とはいえ、彼らがいることで観光地が混雑し、彼らの行動が私たちを不快にすることがあるということに、私はいい感じを持っていない。観光業者たちが彼らを持てはやすのもいい気持ちはしない。だから、インバウンドが消えてくれたことはありがたい。

 コロナは警戒せねばならないけれども、インバウンドが消えてすいた観光地には行ってみたかった。しかし、郁の発熱でそれどころではなくなった。

6

 郁はほとんど眠れていないようだった。浅い眠りが断続的に訪れるだけ。私は開け放った隣の部屋のソファで眠り、ときどき目覚めて郁の状態を確かめた。保冷剤で頭を冷やし、水分補給に気をつけてお茶やスポーツドリンクを勧めたが、郁は飲み下しにくそうだった。「だるい」という訴えが続く。

 翌日(九日)の朝になっても郁の状態に変化はない。やはり受診することにした。昨日いったんは受診を取消したA病院に再度電話して、了解を得る。

 日曜の早朝なので道はすいていた。一時間弱でJRの駅近くのA病院に着く。この辺りは駅前再開発で高層マンションが立ち並ぶ街並みになっている。病院の駐車場は建物の中にあって、それほど広くはないが、奥に立体駐車場の設備が見えた。他に停まっている車は一台だけだった。

 駐車場に救急入口があり、そこから中に入った。受付の先の右手に診察室、その前の広い廊下に椅子が置かれ待ち合いスペースになっている。廊下は右に折れて病院の内部につながっている。連絡を受けた看護師が出てきて、ルーチン通り、状態を聞き、体温を計り、問診票の記入を求め、保険証を預かった。しばらく待たされた後、診察室に呼ばれる。中年の男の医師がパソコンを置いた机の前に座って待っていた。夜勤に疲れたのか仏頂面をしている。私たちの病状説明を聞いても表情は変わらない。他の病院で検査をして異常が見られず、原因が分らないのであれば、彼だって困惑するしかないだろう。D病院でもらった検査結果の用紙を医師に渡す。医師は数値を見て、「確かに異常はないなあ」と言う。

「これ以上検査をしても同じだろうから、やめとくが、いいかね」

 私たちは同意した。

「様子を見るしかないだろうな」

 私たちにしたところで何か画期的な結果を期待していたわけではないが、それでも頼るのは医者しかない。現状の苦しみを何とかしてくれそうなのは、唯一医者しかいないのだから。医者がすることがないと言う以上、私たちには言えることはない。 

 待ち合いスペースに戻り、郁は座って点滴を受けた。アセリオ静注液一〇〇ml。脳の体温調節中枢や中枢神経などに作用して熱を下げたり痛みを抑えたりする薬である。

 点滴が終わるのを待っている間に、救急車が到着した。救急入口の受付にいた守衛のような男が、診察室の扉に立入禁止と書かれたプレートを張り付けた。入口の外にもコーンで支えた看板を立てた(後から見てみると、それにも立入禁止とあった)。患者は別の扉から運び込まれたらしい。救急隊員が二人診察室から出てきて、何やら打ち合わせをしていた。出入りする看護師はガウンとフェイスシールドをつけている。

「コロナかな」

「そうみたい」

 私たちはそう言い合ったが、特に脅威を感じたわけではなかった。身近にコロナの感染者はいなかったが、コロナという言葉は電波に乗って情報空間に満ちていた。私たちはそれになれてしまっていた。そして、原因不明の熱に捕らわれている私たちは、コロナにさえ放っておかれるのではないかという、奇妙な疎外感があった。

 診療費は後刻精算するということで、五千円の預かり金を渡して、家へ帰った。

7

 郁の娘たちには郁の状態を知らせてあったので、その日に見舞いに来ることになっていた。長女は結婚して郁の実家に夫と住んでいる。子供が一人いる。次女はアパートで一人暮らしをしている。長女が車に次女を乗せ、午後に団地の部屋を訪ねてきた。

 私は郁の娘とは微妙な関係にあるので、遠慮がちにしている。娘たちはあまり気にしていないようで、友好的な態度を示す。娘たちは父親(郁のもと夫)のところにもときどき行っているらしい。長女は活発で気さくであるが、次女は内気である。

 ベッドに寝ていた郁は起きて、ソファに座って娘二人と話していた。私は離れたテーブルにいて、三人を見ていた。郁の隣に長女が座り、郁の足元の床に次女が膝を崩して寄り添うように座っている。そういう一つの塊になった三人を見ているうちに,私は自分を余計な存在のように感じてきた。

 娘たちにとっては、郁が父親(もと夫)のどこに不満を持ち、私のどこが気に入ったのかなどはどうでもいいことなのだろう。男と女の関係は、根本的に、両性の合意に基づくものなのだ。それは偶然的でしかない。血のつながりに比べれば、もろくはかないものだ。明日になればどうなっているか分からない。そんな風に考えるのは、郁との関係に私が自信を持てないからだろうか。

 郁は疲れたといってベッドに横になった。娘たちは郁が楽になるようにと体をさすったりしていた。私は郁を娘たちにまかせてテレビを見ていた。興味があったのではなく、習慣として。ここしばらく、落ち着いてテレビを見ることもできなかった。

 下の娘が突然声をあげた、「震えてる」。私は郁のところへ行った。郁の手がはっきりわかるほど小刻みに震えている。私は郁の手を握った。震えはとまったが、手を離すとまた始まった。「どうしよう」、娘がおびえたように言った。

 私は電話を取り上げた。外は暗くなりかけていた。引き受けてくれる病院ならどこでもよいと思い、最初にかけたのは前のときはつながらなかったT病院だ。なぜか今度はすぐに出た。 受付の人が看護師につなぎ、事情を説明すると、医師と相談しているような間があってから、受診できると返事をした。病院の前がコインパーキングになっているから、着いたらそこへ停めて病院に電話するようにと看護師は付け加えた。

 娘たちも一緒に行くと言うので、私の車の後をついてくるように、もしはぐれたらカーナビで病院へ行くように言った。外はもう真っ暗である。T病院は古くからある病院で、従来あった場所の横に建物を新築したのは知っていた。

 病院の指示した駐車場に車を停め、着いたことをケータイで連絡すると、車種と車番を聞かれ、そこで待つように指示があった。娘たちの車も駐車場に入った。しばらく待つとフェイスシールドとガウン姿の看護師が近づいてきたので窓を開けた。問診票を渡され、保険証を差し出し、郁の体温が計られた。看護師は引き上げるときに、ケータイに連絡を入れるからすぐにとれるようにしておいてくれと言った。駐車場の前が救急入口になっていて、手前に椅子が三つ置いてあり、そこに座っている人がいた。看護師は、入口前の椅子に座っていてくれても、車で待ってくれてもいいと言っていた。車の中で待つことにして、娘たちの車へ行き、時間がかかりそうだから先に帰ってもらってもいいが、待つなら食事を済ましてきてはどうかと勧める。娘たちは食事ができるところを探しに駐車場を出た。

 かなり待たされてから電話がかかってきて、救急入口から入るように指示があった。入ったところはT字型になった廊下で、ここを発熱者の受診場所にしているらしい。ベッドが二台と椅子がいくつかある。ベッドの一つには高齢の女性が寝ていて、心電図モニターにつながれていた。ときどき声を出すが、何を言っているか分からない。認知症があるのかもしれない。看護師との会話を切れ切れにきいていると、老人施設の入所者らしく、入院するか施設に帰るかの判断待ちのようだ。

 本来の診察室との入り口近くにポールハンガーのようなものが立ててあり、そこにガウンとフェイスシールドがいくつか吊るしてある。みなで使いまわしているようだった。

 若い医師が来て、問診をした。抗原検査をすることになり、郁は救急入口から外へ出て椅子に座らされ、鼻やのどから綿棒で検体が取られた。中へ戻ってから、とても痛かったと郁は言った。抗原検査の結果は陰性だった。

 医師の診断はやはり同じだった。検査で異状は確認できないので、様子をみるしかない。ソルデム3AG輸液五〇〇mlとアセリオ静注液一〇〇mlの点滴を受けた。ベッドで点滴を受けているとき、郁が寒がったので毛布をかけてやった。冷房が効いているうえに、換気の風が吹きつけているのだ。ここでも精算は後刻になり、一万円の預かり金を渡す。

 娘たちは駐車場の車の中で待っていた。結果を話し、そこで別れ、それぞれの家へ帰った。

8

 郁の状態は変わらない。何度も病院へ行くが、同じことの繰り返しだ。しかし、病院に連れていくしかない。

 医師にしてみれば、懐疑的である方が誠実なのであろう。しかし、その懐疑を私たちの方へ投げ返してもらっても困るのである。私たちの欲しいのは確信である。私たちをある方向に導いてくれる確信なのだ。たとえそれが悲観的なものであっても、目標がはっきりすれば、それに対する態度を決められるのだから。

 郁はだんだん衰えていくようで、立ち上がったり歩いたりするのが困難になってきている。熱が三十九度近くになったり、けいれんのようなものが起きたりすると、死んでしまうのではないかと不安になり、ただ見守るだけには耐えられなくなる。

 十日の夜、郁があまりに苦しむので、とうとう救急車を依頼した。いままで救急車を呼ばなかったのは、車での搬送で対応できると判断していたことや、安易に救急車を使うことへの批判に共感していたからだ。しかし、郁の病状の重大性を私は十分に認識していなかったのではないか、医師たちの見解を安易に受け入れていたのではないか、医師たちも分かっていないのではないか、そういう思いが憤りのようなものとなって湧きあがった。何か思い切ったことしないと事態の解決はできないという、追い詰められた気持ちもあった。

 コロナ禍での救急車は興味と猜疑と恐怖を引き起こしかねないが、そんなことは気にしていられなかった。さほど待つこともなく救急車のサイレンが聞こえてきた。部屋の外へ出ると救急隊員の声がしたので、私は階下に声をかけた。救急隊員は部屋のある階まで担架を持って上がってきた。一一九番通報したときは意識がないという大げさな表現になったが、郁は手助けすれば動けた。担架は使わず介助されながら階段を降りた。救急車に郁が乗ってベッドに横になり、私はあとから中に入った。後部の扉が閉められたが車はすぐには動かない。三人の隊員のうち二人は前部の座席に座り無線の連絡などをしている。あとの一人が後部で聞き取りをする。

 どこか希望の病院はあるかと問われたので、私は市立病院をあげた。救急車の要請ならば受けてくれるのではないかという期待があったからだ。市立病院への信仰のような思いがまだあった。救急隊員は市立病院に連絡したが、救急が入っているので無理だという返答だった。私は自分を抑えきれずに大声を出した。

「いつもそうだ。何度頼んでも受けてくれない。受け入れる気がないんだ。市民のための病院じゃないのか」

 隊員たちは私をなだめようとした。わたしもすぐに反省した。

「あなたたちに言っても仕方がないですね」

 後に知ったことなのだが、市立病院はコロナ患者対応のため救急医療を縮小せざるを得なかったのである。市立病院に対する私の不信は不当だった。

 T病院にかかっていることから、隊員にそこでいいかと問われ、私は頷かざるをえなかった。隊員がT病院に連絡して了解を得た。救急車が動き出す。なおも隊員は細かいことを聞いてくる。彼らにも記録の義務があるのだろう。

 救急車はひどく揺れながら夜の街を走った。車の後部にいてもフロントウインドから外の景色が垣間見られるが、どこを走っているかはよく分からない。交差点では車線を外れ信号を無視して進む。意外に早くT病院に着いた。さすが救急車は早い。

 救急入口からストレッチャーで郁は運び込まれ、私は後をついていく。郁は廊下のベッドに移された。礼を言うひまもなく救急隊員は姿を消した。看護師に説明を繰り返し、若い医師が診察をした。また、血液と尿とCTの検査をした。検査後の医師の診断は同じだった。異常は見つからない。原因が分らないから処置のしようがない。私は頼んでみた。

「入院できないでしょうか。このままでは衰弱していく一方ですし」

「食事はどうですか」

「ほとんどできていません。食べられるのは果物だけで」

「口からものが入るのならまだ大丈夫です。検査の値も栄養不足とはなっていない。救急での入院は生死にかかわる場合だけになっているのです」

「じゃあ、どうすればいいんでしょうか」

「そうですね。専門の病院で調べてもらうということも考えられますが」

「専門というと、何科になるんでしょうか」

「総合内科というのがあります」

「どこの病院にありますか」

「この辺りだったら、県立病院にあるはずです」

「紹介状はいただけますか」

「まあ、一週間ぐらいは様子を見て下さい。それでも症状が変わらなければ」

 そして点滴。今度はKN3号輸液五〇〇mlとラクテック五〇〇ml。前者はソルデム3AG輸液と同じ低張電解質輸液である。後者は等張電解質輸液で、細胞外液(細胞間液、血漿)の量を増やす。

 私は郁のベッドの傍で点滴が終わるのを待った。この臨時診察スペースでは同時に複数の患者がいることが多い。簡易の間仕切りはあるのだが、姿も声も隠しきれない。私たちより前に来ていた若い女性と医師との会話が切れ切れに聞こえてきた。抗原検査が陽性と出たらしい。確定のためにはPCR検査をしなければならないが(この病院でするのか他でするのかまでは聞き取れなかった)、結果が分かるまで二、三日かかることを告げられた女性は、何か仕事の都合のようなことを言って、父親と電話で相談すると答えていた。いっとき、発熱の症状があるのにPCR検査を受けられないことが問題になっていて、それは改善しつつあるようだが、逆に、PCR検査を受ける義務のようなものがあるのだろうか。PCR検査で陽性とされること、すなわちコロナに感染したということは、本人や周囲の人間に大きな影響を与えるから、避けたいと思う気持ちになるのも分かる。できればあいまいなままにして二週間ほどを乗り切って、何もないことにしてしまえないかということを考えてしまうこともあるだろう。もちろん、断片的な会話からでは、この女性についてはっきりしたことは何も言えないが。

 点滴が終わって、一万円の預かり金を渡し、タクシーを呼んで帰った。

9

 二日後(十二日)、発症してから一週間がたったので、T病院に受診した。紹介状を書いてもらおうと思ったからだ。看護師にそのことを話すと、しばらく待たされてから、院長の診察を受けた。院長は、やや高齢だが、体格はよく、顔つきは穏やか、自信ありげな物腰、はっきりとした物言いなど、いかにも信頼の置けそうな人だった。さすがに一つの病院を切り盛りしているだけのことはある。

 郁の病状は波があり、体温がやや下がって、倦怠感が薄れるときがある。その度に回復の期待が起こるのだが、それは続かず、また悪化してしまい、見通しのない暗い気持ちに戻ってしまう。

 院長の診察を受けたときは、たまたま朝方に郁の体温が下がり、少量ながらパンを食べることもできていた。それで、院長の問いかけに、少しはよくなってきたのかもしれないと私たちは答えた。

「原因不明の発熱というのはよくあることです。放っておいてもそのうち治ってしまう。もうしばらく様子をみてはどうかな。二週間ぐらいして、それでも症状が消えないのであれば、県立かどこかへ紹介はできる」

 院長の経験からの判断は説得的だった。私たちはその方針を受け入れた。カロナールよりも強めの解熱剤としてロキソニンの処方があった。

 その日は平日だったので、支払いは会計窓口でできた。看護師が通常エリアに入ってもいいと言ったので、私たちは待合室で座って精算を待った。今までの夜間・休日診療の精算も済ませる必要があった。

 私たちの横に二人の中年女性が座っていて、その会話が聞こえてきた。中年といってももう孫のいるような年齢で(実際、会話の中で孫の話も出ていた)、目立たない地味な服装をしている。身内の誰かが救急で入院になったらしい。身内と言っても、親子きょうだいという近さではなく、いとこか姪・甥という関係のようだ。保険証がないので家まで取りに行かねばならないことについて相談している。家の扉を開けても、まずごみを片付けないと中へ入れない、そういう話だった。

 一人暮らしの孤立した人間、というイメージを私は持った。そのような人々はどのくらいいるのだろうか。ふだんはひっそりと暮らしていても、病気になれば否応なく世間と関わらなくてはならない。私にしても、郁と一緒でなければ、一人で病んで死んでいくことになるのだ。誰にも知られずに自然の中で朽ちていければいいけれど、人々が住んでいる場所では周囲に迷惑をかけることになる。望んだにしろやむを得なかったにしろ一人で生きようとしても、真の孤独などは不可能なのだ。それが人間の惨めさなのだ。

 午後には、郁を家に残して、D病院とA病院の精算を済ませに外出した。そうして物事が片付いていくことは、郁が元通りになることの予兆か象徴のように思われ、私を明るい気持ちにさせた。

 しかし、郁の状態は変わらなかった。熱は三十七度台から離れようとせず、たまに下がってもすぐに戻ってしまう。倦怠感は強弱があっても消えず、郁は絶えずつらがった。一人で立つのもおぼつかなく、移動するにはものにつかまらなければならなかった。手には力が入らず、文字を書こうとすると震えて形にならない。

 食べて体力を回復する必要があったが、郁は、蒸しパン、お茶漬け、豆腐、サラダ、果物、水羊羹といったものしか受け付けない。動物性たんぱく質として鮭フレークやジャコの佃煮などを買ってきたが、郁はほとんど食べなかった。

 私たちはまだ耳鼻科にこだわっていた。内科受診が一段落したこともあって、郁の通っている耳鼻科の診療所に電話してみた。発熱の症状でも受診できるということだったので出かけた。電話での指示通り駐車場に車を停めてケータイで到着を知らせると、フェイスシールドとガウン姿の看護師が来て窓越しに受付をする。看護師がいったん帰ってしばらく待つと、郁を診てくれている女性医師が看護婦と同じ装備をしてやって来て、やはり窓越しに診察をした。耳、鼻、喉を調べ、異常がないと結果を告げ、発熱の原因は耳の炎症ではないと断定した。この医師はきびきびとして、はっきりとものを言うので気持ちがいい。

 耳鼻科の要因を潰したことは懸案を解消することになって一つの進展ではあったが、いよいよ原因の当てがなくなってきた。

 T病院の院長の診察から六日たち、明日にも発症から二週間になる十八日、病院に電話して紹介状を頼んだ。折り返し電話があって、地域連絡室が相手方の病院と調整するので、後日連絡するとのことだった。

10

 コロナの感染が拡大し始めた二月初旬、マスクが店頭から姿を消した。需要が急増したことに加え、中国からの不織布のマスクの輸入が途絶えてしまったからである。マスクだけでなく、消毒用のアルコールや体温計も手に入らなくなった。マスクの原料が紙であることの連想からトイレットペーパーも品薄になった。石油ショック時の再来である。

 ドラッグストアの入口に開店前から人が並んでいるのを見かけることがあった。不定期に納品があるらしく、情報が流れたのか、それとも当てはないけれど幸運を期待して並んでいるのか、分からなかったが。ネット上でマスクが高値で売りに出されたことが問題になり、転売禁止の措置が取られた。

 布マスクが使われ出し、手製のマスクが流行した。布マスクは色や形が多様なファッションになった。安倍首相は全家庭に二枚の布マスクを配ることを決定したが、届くのが遅く、また形が小さすぎることから不評で、アベノミクスをもじって「アベノマスク」と揶揄され、やがてそれが正式な名称のようになってしまった。

 従来、マスクの有効性については疑問視されていた。高性能の医療用でなければ、どうしても顔との間に隙間ができてしまって、ウイルスの侵入を防ぎきれないとされていたからだ。ましてや、不織布でなければマスクそのものをウイルスが透過してしまう。だが、次第にマスクの効用が認められるようになった。感染するのを防ぐのではなく、感染させるのを防ぐという効果が注目されたのである。咳などによる唾液の飛散はマスクによってかなり妨げられるのだ。さらに、マスクをすることで鼻や口を直接触らないようにすることは、接触感染を防ぐことにもなる。

 飛沫感染と接触感染を防ぐには、マスクと手洗い(消毒)が有効であると奨励された。いまや誰もがマスクをするようになって、顔を見ても見えるのは目だけである。不思議なことに、目だけしか見られないようになって、女性がみなきれいに見えだした。鼻や口はマスクによって隠されて特徴は消えてしまい、目が容貌のすべてになっていた。皮肉っぽく言えば、誰もが同じような容貌に見え、区別がつかなくなってしまったのかもしれない。

 いまやマスクは必携品である。屋内だけでなく、歩いている人や運転している人さえマスクをしている。マスクはマナー以上のもの、ルールをさえ超えるもの、ほとんど義務となっている。私は歩くときや車の中ではマスクを外しているので、屋内に入ったときマスクを着け忘れることがある。注意されたことはないが、自分で気づいてあわててマスクを着けるということが何度かあった。

 マスクを着けていない人は、表立ってどうこう言われなくとも、忌み嫌われる。場合によっては非難され、ときには制裁の対象にまでなってしまう。マスクの効用を信じていない人も、余計なトラブルをさけるためにやむなくマスクをする。それでもマスクをしないのは、自分の信念にこだわる変人か、他人の思惑など気にしない(あるいは気がつかない)生活をしている人だけだろう。

 T病院で受付近くの椅子に座って診察料の精算を待っていたときのことである。窓口に高齢の男性が来て、診察を申し込もうとした。男性はマスクをしていなかった。すると、受付の女性はマスクをしていないと診察受付はできないと言った。困惑した男性は、マスクはどこで手に入るかと聞いた。受付の女性は、ドラッグストアかどこかで売っていると答えた。男性はさらにそれはどこにあるのかと問うた。明らかに男性は孤立した生活をしていて、世の流れに疎いのだろう。受付の女性は具体的な場所は知らないと答えた。冷たくあしらったのではなく、本当に知らないから正直に答えたようだ。若い彼女にしてみればルーチン通りにするしかなかったのだろう。機転を利かせられる人間ならば、マスクの一枚ぐらい例外的に与えることもできたはずだ。一人にマスクを与えれば、さらに他の多くの人にも与えなければならなくなるという懸念はある。しかし、そこは臨機応変さで何とかするしかない。

 男性はどうしていいか分からず、立ち往生していた。受付の女性もそれ以上関わるつもりはないようである。私は余分なマスクを持っていなかった。何かしてあげられないかと考えていると、「私のをあげましょう」と別の高齢の男性が声をかけた。見ていながら何もしなかった(何もできなかった)そこにいた人々は、救われた気持ちになったろう。私もほっとした。

 私のよく行くスーパーマーケットでは、もちろん店員も客もみなマスクをしているが、一人だけしていない人がいた。その女性は昼間のどの時間帯に行っても必ずと言っていいほど見かけた。歳はかなりいっているようだが、弱っているようなそぶりはなく、せわしなく歩いている。ただ片足が少し悪いようである。スニーカーを履いている。灰色の髪を肩まで伸ばし、顔は浅黒く、化粧っけはない。服装は簡素であるが汚れた感じはない。夏だからシャツとパンツという年齢には関係ない服の選び方である。連れはおらず、誰とも話すことはない。日中のかなりの時間をこの店で過ごしているようだ。このスーパーマーケットは小さなモールのようになっていて、地下が食品売場、一階、二階に衣料品店、本屋、百円ショップ、美容室、ゲームコーナー、フードコートなどが入っている。その女性にとっては居心地がいいのだろう。彼女がマスクをしていないのを他人は容認している。彼女が世の中の流れから外れていることを分かっているからだ。

 マスクをしていない人は、私たちとは別の世界に生きている人なのだ。彼らにとってはコロナなど存在しないのである。

 得体の知れない熱病に襲われている私たちもまた、コロナの世界の埒外にいた。

11

 二日後、T病院から電話連絡があり、紹介状ができたから取りに来るようにとのことだった。県立病院には明日の九時に予約が入っていると告げられた。急なことだが、早い方がいい。その日のうちに紹介状をもらってきた。

 県立病院は隣接市のJR駅の近くだった。先日受診したA病院の近くでもあった。翌日(二十一日)、九時前に着くように早めに出たのだが、混んでいて一時間近くかかった。病院の建物はまだ新しい。地下駐車場からエレベーターで一階へ上がると救急病棟の横に出た。廊下をそのまま進むと長い受付カウンターのあるロビーがあった。コロナ対策のための特別な受け入れ対応はしていないようだった。

 初診受付で診療申込書に記入し、紹介状、保険証と一緒に提出すると、診察券、外来案内票、呼出受信機を渡された。呼出受信機は細長い箱状の機器で、首から下げるケースが別にある。小さなスクリーンに指示が表示され、表示が変わるときは音と光と振動で知らせるようになっている。自動化された診療費の支払いにもこれが使われる。病院のシステムはどこも似たようなものだが、呼出受信機というのは初めて知った。

 血液と尿検査の場所は二階にあった。自動受付機に診察券を挿入すると採血番号が呼出受信機に表示され、検尿の紙コップが出てくる。採尿用のトイレが近くにあった。採血室の外の壁にはスクリーンがあって採血の進行が番号で表示されている。あと十番ぐらいになると採血室の中で待つようにと呼出受信機に表示される。採血室の中には十台くらいの採血台が並び、採血台の上のそれぞれのスクリーンに順番が来た番号が表示される。

 たいていの大きな病院で採用されている、再来受付機から始まるこれらの手順は、一度経験すれば分かるとはいうものの、省力化の名の元に受診者に負担を押し付けるものだ。尿の入ったコップを持ってトイレから出てきて、どうすればよいか分からずにうろうろしている老人がいた。紙コップはトイレ内の所定の場所に置くことになっているのだが、見逃してしまったのだろう。たまたま看護師が老人を見かけて教えていたが、他にも自分で判断せねばならぬ場面が多く、高齢者などには不親切なシステムだ。

 郁は一人ではよろけてしまうので、私につかまって歩いたが、トイレには何とか一人で行った。採血も済ませたが、結果が出るまで一時間近くかかるので、受診はそれからになる。郁はもともとやせた体が骨が浮き出すほどになっていたので、固いシートでは座るのを痛がった。診察室も二階なのだが、二階には柔らかい椅子がないので、一階で待つことにした。一階にはロビーにカフェがあった。カフェ用の椅子は柔らかかったので、郁を座らせ、私はセルフサービスのコーヒーを飲んだ。郁はコーヒーは飲めなくなっていたので、ペットボトルのお茶を飲んだ。一階にはコンビニやレストランもあった。

 来診者は多かった。ここの受診者は紹介されて来た人たちがほとんどだろう(だから、受け入れの際に特別なコロナ対策は不要とされているのだ)。それでもこの多さだ。病人が特に多いからなのではない。医療を受けられる人が多いからだ。国民皆保険の有難さ。そして社会保障負担の重さ。コロナがさらに国債の乱発を加速させている。この国はどうなるだろう、なんて私が考えてみても仕方がないが。

 呼出受信機が中待合に入るようにと表示したので二階に上がろうとすると、続けて診察室に入るようにとの表示になった。どういう段取りになっているのか、間にもう少し時間を置いてほしいものだ。郁を抱えてエスカレーターで二階へ上がり、診察室へ急ぐ。診察室へ入ると女性の医師が待っていた。

 医師もマスクをしているので、目だけでしか分からないが、たぶん四十にはなってないだろう。郁の斜め後ろに私が座り、問診には郁と私が交互に答える。医師はその都度答えている方に視線を移した。

 医師は郁の首を触りながら、頭を動かすように言った。次に手と足の動き方を見た。一通り診察が済むと医師は言った。

「髄膜炎かもしれませんね」

 いきなり病名が出てきたので、私たちは驚いた。医師は続けた。

「頭蓋骨と脳の間に髄膜というのがあって、そこに細菌やウイルスが入って炎症を起こすのが髄膜炎です。細菌性ですと二、三日で意識がなくなってしまいますが、あなたの場合はウイルス性でしょう。発症してすぐなら、細菌性かどうかを調べるために腰の脊椎から髄液を取って調べるのですが、この検査はリスクがありますから、いまやることはないと思います」

 医師は髄膜炎の症状を詳しく説明した。

「それは、どうすれば治るのでしょう」

「ウイルスの場合、治療法というのはありません。ご本人の免疫で直すしかないのです」

 それを聞くと郁も私もがっかりした。原因が分れば、病名さえ分れば、有効な治療が受けられると期待していたのだ。医師は付け加えた。

「発症してから二週間ほどたっているのですね。そろそろ回復してくると思いますが」

 私たちはこの医師に信頼を持った。何がどうなっているか分からぬ闇の中で不安のまま立ちすくんでいる私たちに、方向を示してくれる光がさしたのだ。私たちがいま一番必要としているのはそれだった。

 同時に、これまで受診してきた病院に対する不信も噴き出してきた。

「それは、普通の検査では分からないのですか。いままでかかった病院では血液検査や尿検査をして、異常は見られなかったのですが」

「そういうこともあります。CRPに出ないことも」

 私も定期的に血液検査を受けているのでCRPは知っていた。炎症があれば値に変化が出るのだ。

「でも、他ではそういう診断がなぜできなかったんでしょう。」

 他の病院への批判になるのを避けるためか、医師はその質問には直接答えず、次のように言った。

「発症したときにここへ来ていただいていたら、髄液検査をしていたでしょうね」

 他の医師たちはどうしてそのような判断をしてくれなかったのだろう。そういう道は私たちには示されなかった。私は悔しく思った。

「ここは他の病院にはできないことができるんですか」

「ええ。ここでは血液中の細菌検査ができます。血液培養というのですが」

 それ以上どう聞いていいか分からないので、その話題はそれきりになった。

 医師が顔をこちらに向けて話すとき、私は彼女の目を見続けていた。顔の表情を現わすものとしてはそれしかなかったからだ。だが、そうしているとだんだん彼女の目が大きくなっていくように思われて、彼女の存在が目そのものであるような気がしてきた。彼女の話はちゃんと聞いていたが、一方で、目だけしか分からないけれど、最近の若い女性医師は化粧が巧みになっているのだな、そこらの一般女性と変わらないのだな、というような感想も頭に浮かんできた。最後に医師は言った。

「事後の様子を見ておきたいので、二週間後にまた来ていただけますか。もちろん、それまでに何かあれば、いつでも来ていただいてかまいません」

12

 しかし、髄膜炎という病名も確定したものではない。そうでない可能性も残っている。

 事実、郁の状態は、医師の予測とは違って、よくなるという傾向を一向に見せなかった。髄膜炎であるなら、自然に治癒を待つしかない。髄膜炎でなかったとしても、治療法が分からないのだから、同じことになる。だから、今までと実質的に何も変わらないのだ。

 私が一番困っていたのは食事だった。郁がほとんど食事ができていないのが一番の懸念だった。このままでは衰弱してしまう。食欲がないと言って、郁が口に入れるのは、柔らかいもの、あっさりしたもの、控えめな甘さものなどであり、それも少量だった。調理の苦手な私には病人用に加工した料理は作れなかった。

 たまに娘たちが来て食事を作ってくれた。娘たちの作った料理を郁は喜んだ。食べる量は少なかったが、どの皿にも手をつけた。娘たちが来てくれたことのうれしさを現わしていた。私には見せたことのない表情。

 郁を介護することを私は恩恵だとは思っていない。義務だとも思っていない。当然のことだと思っている。しかし、矛盾するのだけれど、郁の態度には不満があった。もちろん、郁は病に苦しんでいて、気を遣うほどの余裕がないことは分かってはいたけれど。

 私は郁を批判的に見るようになっていった。郁は自分のつらさを訴えるだけで、治そうという努力をしていないのではないか。郁の訴えで何回も受診したが、その必要があったのだろうか。郁が耐えればすむことではなかったのか。

 寝たきりで退屈だろうと娘がタブレットを置いて行ったので、郁は配信されている連続ドラマに夢中になった。それを見ている間はつらそうには見えない。もともと郁は睡眠障害があって、寝るときにスマホに頼っていたが、動画配信がその代わりになった。隣の部屋で寝ていた私がふと目を覚ますと、タブレットからの音声がする。私は腹が立った。深夜だ。眠れないからといって動画をみていればますます眠れないのは当然ではないか。

 郁と一緒に住むようになって、親族以外の人間、つまり他人と濃密な人間関係を持つということを私は初めて経験した。

 私はこの歳になっても成熟しきれていないとでも言うか、他人の気持ちに無頓着なところがある。他人がどう思っているのかに気がつかないのだ。自分自身の世界が順調であれば、そこに関わる他人もそうであろうと思い込んでしまう。自分勝手、自己中心と言われても、自分自身はそのように言われる筋合はないと思っている。そういう自分の性格が明確に理解できたのは、郁という鏡のおかげだった。

 郁自身も自分を正しいと思いこむところがあり、自分の主張をなかなか曲げようとしない。自分が間違ったことが明らかになっても、なぜ間違ったかという理由をくどくどと述べる。最初の頃は、つまらないことで二人の意見が分かれるようなとき、お互いに自分の正しさを主張しあって、折り合わないことがよくあった。そのうち私は郁に自分自身の姿が映し出されていることに気がついた。私も自分の正しさを押し付けようとして、多くの人に不快な思いをさせたに違いない。そう思うようになると、私は郁にたてつかないように努力した。たとえ彼女が間違っていたとしても、それが他に大した影響をもたらさないのであれば反論せず、黙っているようにした。そうすることは腹立たしいことであったが、妥協することを私に学ばせていた。

 しかし、そういう関係はストレスを与える。ストレスが怒りを生むのか、怒りがストレスに転化するのか分からないが、郁との生活は絶え間ない小さな怒りの連続として心を蝕むようになっていた。

 郁が発熱してからは、私は郁の庇護者としての役割に専心し、郁が弱者になったことで、私に負担がかかるようになったけれど、一体感は増したのである。しかし、郁の病状が長引くにつれ、私の緊張も持続できなくなってきた。私は疲れてきた。

 ひょっとして、私は何者かに試されているのだろうか。あるいは罰せられているのか。

 いや、人間を超えたものなど信じない。もしそういうものがいたとしても、人間のことなど気にもかけていないだろう。コロナのように。

 突然、郁をしばらく娘たちに預けようかと思った。娘たちに頼るということにいままで全然思い至らなかった。郁の面倒を見るのを放棄することは、私の負けだと思っていた。だが、もう負けたっていい。一切から逃げたくなった。

 私は郁に言った。

「しばらく娘のところへ行くようにしようか」

 郁はうなずいた。あるいは嫌がるかもしれないと危惧したのだが、彼女自身もそれを望んでいたようだ。

 娘に連絡すると快く了承し、その日のうちに郁は上の娘の家に移ることになった。娘が迎えに来たのは午後十時前だった。駐車場から電話をかけてきたので、郁と一緒に部屋を出て階段を降り、建物から駐車場に向かった。途中で娘に会い、三人で車まで行った。郁が助手席に乗った。娘は駐車料金を払って運転席に乗った。郁は窓を開けた。車が動き出すと、私は手を振った。すぐに車は遠ざかり、角を曲がって見えなくなった。私は部屋へ戻るために一人で歩きだした。見上げると月が見えた。満月に近かった。九月二日が満月なのだ。箱館山に行ってからもうひと月がたっていたのだ。八月が終わる。いつの間にか夏が終わる。

 そのとき私はふと、郁とはこれきり別れてしまうことになるのかもしれないと思った。

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