井本喬作品集

離岡

 その年の夏の終りは、ポプラの葉を裏返す風で知った。ポプラの木は市営プールと道路を隔てる金網の柵に沿って立っている。私はプールサイドのコンクリートの上に横になり、アルバイトの学生が水の中に消毒薬のかたまりを投げ込むのを見ていた。人々は水から追い出され、プールのまわりにすわって作業が済むのを待っていた。ざわめきが消え、葉ずれの音で風に気がついた。

 日曜日なのでプールは混んでいた。壁際はあまり泳げない子供たちが群れている。深くなった真ん中へ出るとようやく泳ぐだけの空間が得られる。それでも前方を注意しないと人に当たってしまう。一時間ほどいて外へ出た。

 服を着て外へ出ると、熱気が再びまとわりつく。乾ききらぬ髪のままで歩くのは心地よい。暑さは相変らず続くだろう。だが、もう夏は終りだ。

 いつものように移ろいゆく季節。この夏を過去のいくつもの夏と区別するような特別なことは何も起こらなかった。

 私の生活を変えるようなことは。

 市営プールは総合運動場の中にある。運動場の中央にある池の縁の芝生を歩く。向こう岸に白いオベリスクがそびえ、その下でブロンズの裸の男が架空の矢をつがえてその頂点を狙っている。弓は見えない弦に引き絞られて折れんばかりにたわんでいる。

 左手には球場が見える。一度だけ入ったことがある。前年の開幕戦で、阪神が広島と戦い、江夏が投げて二対一で勝った。巨人と広島のナイターのときは満員で入れず、外をウロウロしていると、歓声が上がり、場内アナウンスがさめた声で「ただいまの王選手のホームランに対して」どこかのスポンサーから何かが贈られると告げた。

 陸上競技場の前を通ると、夾竹桃の花盛りだった。運動場を出て、五十三号線を横切り、岡山大学の方へ向かう。銀杏並木の手前で狭い横道に入り、岡山大学と岡北中学の塀に沿って法界院駅へぬける道を選ぶ。岡山放送の塔を見ながら田の中を通って新幹線の高架近くの家へ戻る。

 平凡な休日の終わり。

 岡山へ来て三度目の夏。私はこの地方都市に馴染みだしていた。大通りの中央を走る路面電車、たった一つの百貨店、小さなビルディングと古い街並み、夏の夜の商店街の土曜夜市、烏城の傍の旭川に舳先に灯りをともして浮かぶボート、そういうものに親しみを感じていた。よそ者、ある意味流れ者でしかない私がここに住み着くことはないだろうけれども。

 私は大阪に本社のある塗料メーカーに勤めていた。二年前に大阪営業所から岡山出張所に転勤してきた。メーカーが塗料を売るのは特約店と呼ばれる販売店であり、小売店や実際に塗料を使う需要家とは直接の取引はない。私たちの仕事はいわゆるルートセールスであり、メーカーとしてのサービスや新規開拓などで小売店や需要家を訪問する。岡山に出張所が置かれているのは、玉野に大口の需要家である造船所があり、水島の工業地帯や福山の製鉄所なども需要が期待されるからであった。

 私は仕事を辞めて岡山を去ろうとしていた。だが、私が決定した「時」は、持続することができずに過ぎ去っていた。私はその決定を現実のものとしてちゃんと押し立ててやるために、注意深く見守ってやらねばならなかった。重荷になるというわけではなく、その決定が私を引きずっていくというのでもなかった。むしろ、私が支えておかなければ消え失せてしまいそうだった。私の保護を求める幼い子どものように、私はいろいろ世話をやかねばならないのだった。

 あれほど重要と思われた決定が何の変化ももたらさないのはどうしたことだろうか。私は一体何を失い、何を得るつもりだったのだろう。

 後で考えると、その頃私はビジネスの世界から脱落しかけていたのだ。ビジネスなんて言葉が何の抵抗もなく誇らしげに語られるような時代になってから、私は自分の逃げ出した世界が、ある人々にとっては魅力のあるものだということに、うかつにも気がついた。資質の赴くままにどの世界を選ぼうと、人間のやることにそんな差はないのだ。そこには競争もコネも運も落とし穴も何でもそろっている。自由な世界なんてどこにでもあり、そしてどこにもない。だから、あんなに思いつめることはなかったのだ。後から考えてみると。

 ガラス戸を開け放したまま、畳の上で眠り込んだ。目覚めると既に暗くなりはじめていた。食事に行かねばならないと思ったが、立ち上がらず、しばらくそのままでいた。塀の外を走る子供の足音と叫び声がした。起き上がって灯をつけ、蚊が入らぬようにガラス戸を閉めた。

 家を出て西川沿いに駅へ向かう。両岸の柳は暑苦しいほど葉をつけている。西川は旭川から引かれ、街を二つに割って北から南へ流れている。幅は狭いが水量はいつも豊富だ。その年に鯉を放流した。少し濁った水の中で流れに逆らって停止しているのを一度だけ見かけた。

 岡山駅は新幹線が通るようになってから立派になったらしいが、以前の姿は知らない。在来線のホームはそのままなのだろう。表側だけに細長い建物を張り付けたようになっている。駅前は地下街を作る工事をしていてごたついている。道路の向いに五月に高島屋がオープンした。岡山で二つ目の百貨店だ。

 夏になると、土曜の夜ごとに暴走族が駅前に現れる。警官と衝突したり、事故を起こしたりし、また、たくさんの野次馬が出るので、いろいろ新聞種になった。市や警察は鎮静にやっきとなり、大量の警官を動員するとともに、マスコミを通じキャンペーンをはった。水島コンビナートの企業(複数)が暴走レースに参加する従業員はクビにすると宣言したりした。

 私は無関心だったのだが、いやどちらかといえば無責任に騒ぎを煽り立てたい気分だったので、ある夜、散歩がてらに出かけてみた。駅前の通りは警官が一台一台車をチェックして無用の者は通行を禁止していた。騒ぎに備えて一団となって待機している警官、トランシーバーで連絡しながらパトロールしている警官、車道の端に立って見物人を威圧している警官、警官だらけで暴走族も群集も完全に制圧されていた。ときどき鋭いタイヤの音を立てて発進する車があるが、それだけのことだった。歩道に群れている見物人たちは満たされぬ顔つきで、それでも何かを期待してなかなか立ち去ろうとはしなかった。

 駅前で食事をすますと、城の方へ歩いていった。表町(地名)の商店街はみなシャッターを下ろし、人通りはほとんどない。ただし、夏の間、土曜の夜は夜市と銘打って露店まで出て、人で一杯になる。

 数日前には何年ぶりかの花火大会があった。下駄をはいて出かけて鼻緒ずれを作ってしまい、足を引いて帰らねばならなかった。会場の相生橋から京橋の間の両岸は市民総出かと思えるような人出だった。花火はきれいだった。数も種類も多かった。県庁前にいると、真上に火の輪が広がった。とうもろこしを食べ、コーラを飲んだ。終わりまでいて、帰る人の流れに加わった。誰かがテープに取った花火の音を再生させていた。

 山陽放送とNHKの前を通り旭川に出た。高くなった岸から見下ろすと、暗い水面にボートの灯がある。夜になるとへさきに灯ろうをつけてくれるのだ。岡山城はライトアップの青白い光に照らされて闇の中に浮かび上がっている。月見橋を渡って対岸へ移った。後楽園の垣と旭川にはさまれた暗く狭い道を行き、鶴見橋で再び川を渡る。橋の上では釣りをしていた。私は欄干に寄りかかり、暗い川面を見定めようとした。

 生き方を変えるというのは、こんなに簡単なことなのだ。私は一体何を悩んでいたのだろう。たかが五年間勤めたところを辞めるというだけなのに。

 橋を渡ってまっすぐ西へ行き、青柳橋で西川沿いに北へ行く。跨線橋になる手前の五十三号線を歩道橋で越し、南方(地名)の踏切を渡り、再び五十三号線に出た。総合運動場に沿って歩く。大学通りの信号の脇に、運動場の垣を背にしたテント小屋でうどんを食べさせる店がある。そこに居すわった形で、いろんな所帯道具を外に積み重ねていて、それが一層みすぼらしく見せていた。小屋の前に椅子を出し、老婆が道路に背を向けてすわっていた。

 人生は意味もなく耐える苦行だ。そこにどんな違いを見出せるというのか。彼女の背中はそう言っているようだった。

 昼間と同じ道を辿って家へ帰った。

 岡山市の地図を開いてみる。古い地図だ。新幹線がようやく岡山まで延伸されたばかり、高速道路や本四架橋はまだ先のことになる。地図の真ん中からやや右(東)寄りを旭川が上下(南北)に貫いている。市街のほとんどは旭川の西側に位置するが、一部東側にも広がっている。山陽本線や新幹線は街の北部で旭川を渡り地図上では斜めになって駅に届く。だから駅も右上(東北)から左下(南西)へ傾いている。駅前から岡山城に向かって東西に大通りが走っているが、城までは届いていない。城は旭川の右岸に位置し、そこで川が曲がっているので対岸の後楽園は北側になる。

 大通りには路面電車の線路があり、一本は駅から出て通りの突き当たりを南に折れ、京橋町で東に折れて、京橋を渡り中州(東西の中島町)を越えて対岸へ行き、東山が終点になる。もう一本は大通りの途中で分岐して南に下り、清輝橋(地名)が終点になる。

 私たちの勤める岡山出張所は清輝橋にあった。街の中心部の南端に当たり、近くに岡山大学の医学部がある。小さなビルの一階に事務所があり、ビルの前の道沿いに用水路が流れていた。旭川の鉄道鉄橋の北に浄水場があるが、その辺りで旭川から分流した西川用水は、しばらく南西へ流れた後、街の真ん中をまっすぐ南下する。そのまた分流が清輝橋の駅から私たちの事務所の前に流れて来ているのだ。西川は私の住んでいる家にも近く、川沿いを歩いて二つの地点を結んでみたこともある。用水路は浅く流れは早い。川底が見える程度に澄んでいて、石の間に陶器のかけらが見える。それは古い町の営みを象徴しているようだった。私は仕事に飽きると、ときどき川の傍へ行って水の流れるのを見ていた。流れはこの街が都会の無機質さから免れているような感じを与えた。都会ではありながら、地方の(田舎の、とも言えそうな)質朴さを保っている(それから脱け出せないでいる)ことを示しているかのようだった。

 出張所には所長、私、私よりも若い林と女性事務員が三人、合計六人の職員がいた。男たちは割り当てられた自分用の車で外回りに出ていることが多かった。女性たちは特約店からの注文を受け、大阪の業務課に発注する。その頃はパソコンもネットもないから、電話かテレックスを使っていた。

 営業マンの中で一番古いのは林だった。彼は高卒で、採用は私より後だったが、私より先にここへ配属されていた。陽気というより軽躁な性格なのだが、人事担当がそれを見誤って営業に回してきたらしい。彼は、私と同じように、会社が従業員用に借りている一戸建てに住んでいた。独身の私たちには広すぎるのだが、家族持ちが赴任してきたときに必要なのだ。彼の所へ行くことはあるが、ひどい散らかりようなので長居はできない。使っているのは一部屋だけだが、布団は敷きっぱなし、その回りを食器や食べ残しや雑誌や包装紙などのゴミが取り巻いている。彼は、私とは違い、特約店の若い従業員と親しくなって一緒に遊ぶこともあるようだが、一人のときは寂しいらしく、他に顔見知りもいないので、休日などにはよく私を訪ねてくる。私は在宅していることが多いので相手をし、一緒に出かけたりするが、鬱陶しく思うこともあった。一度などは訪ねてきた彼に返事をせずにいた。林は私が中にいると疑っているらしく何度も大きな声で呼びかけたが、私は黙っていた。とうとう諦めて彼が帰ろうとしたときになって、彼がかわいそうになり、外へ出て行って彼を呼び止めた(寝ていたと言い訳をして)。

 転勤のない現地採用の女性三人は、林よりも前からここに勤務している。三人とも私より若く、林とあまり変わらない。この三人とはうまくやっていた。三人とも仕事熱心で、素直に私の言うことを聞いてくれる。林のことは彼の軽薄な性格や年齢の近さもあって敬うような気にはなれないらしく、ときおりやりあっていた。

 今春の異動で赴任してきた出張所長と、私は合わなかった。そもそもの出会いの初っぱなからして食い違いが生じてしまっていた。福山にある鉄鋼会社は私の担当になっていた。そこで作っている天然ガスパイプライン用の鋼管の内部に塗る塗料の納入に参入することが課題となっていた。赴任の挨拶回りで所長を私の運転する車に乗せて連れて行った。高速道路のなかった時代だから、岡山から福山へは国道二号線をたどる。六十キロぐらいの距離で、二時間ほどかかる。行きにはいろいろ話すことがあったが、帰りは用事を済ませた安心感と疲れとで所長は助手席で眠ってしまった。私は眠いのをこらえて運転していた。ところどころに小さな集落しかない単調な道である。片側一車線しかないから、追い越すことも追い越されることもなく、前の車の後をついて行くしかない。うつらうつらして、ときどき一瞬だが意識が消える。

 高梁川を越えて倉敷市域に入り、もう少しだなと思って安心した。気がついたら信号で止まっていたトラックに追突していた。そんなにスピードは出ていなかったので衝撃は大したことはなかったが、むろん所長も目をさました。私は車を少し後ろに下げて停め、所長と一緒に車を降りた。トラックの運転手も降りてきた。私の車はバンパーとボンネットが変形していた。トラックの運転手は気のいい男で、自分の車には傷がついていないからいいと言ってそのまま行ってしまった。私の車も走行には支障なかったので、とりあえず岡山へ帰ることにした。

 新任の上司にとんだ失態をさらしたものである。所長はあからさまに怒りはしなかったが、当然不機嫌になった。私は自分の失敗を悔やむ一方で、のんきに寝ていた所長にも責任の一端はあると感じていた。所長もそのことを気にしていたのかもしれない。

「申し訳ありません。明日、修理に出します」

「今日中に出しておいた方がいいだろう。このまま修理工場へ行こう」

「でも、もう五時を過ぎていますし、いったん事務所へ帰ってからにした方が」

「たぶん、まだやってるだろう。行ってみれば分かる」

 私は出張所での仕事を片付けてからにしたかったし、通勤にその車を使ってもいたので、明日のことにしたかった。しかし、所長は妥協しそうになかった。私は不満ながら行きつけの修理工場に寄った。工場はまだやっていて車を引き取ってくれたが、車なしの移動は不便で、出張所までタクシーを使わねばならなかった。私の意見を無視してそういう段取りの悪さを強要する所長の頑固さは、以後私が何度もぶつかることになるものだった。

 新所長は名古営業所からの転勤で、独立した部門の責任者になるのは初めてだった。張り切っていたであろうだけに、岡山出張所の実情を知って不安になっていたにちがいない。私の前任者はベテランだったが、何かの都合で退職することになり、その後を私が埋めることになった。この異動については、私の前に二人が打診されたが、二人とも家庭の都合とやらで断ったので、独身の私にお鉢が回ってきたらしい。その内輪話を聞かせてくれた前の所長は、そんな勝手なことをゆるす人事を批判していた。もう一人の営業マンである林についても似たような事情があったようで、岡山出張所の戦力はダウンしてしまっていた。

 前の所長は一緒にいると窮屈を感じる人だった。そういう自分の性格を承知していて気を使ってはくれるのだが、馴れ親しむことはできなかった。彼は従来の利益無視の営業のやり方について批判的な考えを持っていた。経験不足な私をかばってくれたが、その代わり私が独自の判断をすることをなかなかゆるしてくれなかった。教育のつもりだったのだろうが、私にとってはいつまでも一人前扱いにしてもらえないと不満だった。何ごとにもいちいち指図され、何をするにも許可が必要という厳しい統制に服さねばならなかった。それは私だけではなく、出張所の全員が感じていた束縛だった。前所長の転出によってそういう息苦しさから解放されたので、新しい所長には皆が期待していた。

 新所長には不利な状況だったろう。しかし、彼自身にも問題があった。前の所長は私たちを抑えつけていたが、同時に気を使ってもいた。彼の性格もあって不器用なやり方ではあったが、私たちはそれを分かっていた。今度の所長はうわべの態度は優しそうだが、難物であることは皆がすぐに感じ取った。妙にこだわるところがあり、いらいらさせられる事が多かった。私の髪の長いことや茶色い靴をはいていることに対して、所長が不寛容な気持ちを隠しきれずに助言という形で注意したのを、私は無視した。

 まだ地理になれない新所長を私と林が車に乗せて出かけることが多かった。その頃の車はよくパンクした。林は私に訴えた。

「僕が一所懸命にタイヤ交換をしている間、所長はポケットに手を突っ込んで見ているだけなんですよ。まるでパンクさせたのが僕の責任のような顔つきで。前の所長なら手助けしてくれましたよ」

 女子事務員たちも従来のやり方を変えようとする新所長の強引な態度について私に苦情を言った。私たちは以前からいるというだけの理由で、新所長を軽んじることができた。それゆえ一層彼の干渉をうるさく思っていた。

 私は不熱心なセールスマンだった。車で事務所を出てしまえば、何をしようが誰にも分からない。行き先は出張票に書いて机の上に置いておくが、企業や店の名前を並べてあるだけなので時間は誤魔化せた。私と同じような職種なのだろう、サボって車の中で昼寝している連中を見かけることがあった。私は昼寝やどこかの店でとぐろを巻いたりはしなかった。ただ、ときどき遠回りをしたり、寄り道をした。

 高梁川を渡る前後には、小さな丘がいくつかあった。そこを通る度に、あの上には何があるのだろうと気になった。早春のある日、福山への出張から帰る途中、ふとその一つに登ってみる気になった。近づくと細いが車で登れそうな道がある。丘は上の方まで耕されて畑になっていたが、何も生えていなかった。登りついたところに墓地があった。小さな梅の木が一本、白い花を咲かせていた。殺風景なそのたたずまいが気に入った。誰もいない丘のてっぺんでしばらく立っていた。事務所に帰ると事務員にとがめられた。

「どこへ行ってたんですか。電話してもどこにもいなくて」

「新規の需要家に寄ってたんだ。何か急ぎの用事か」

 私を探し回る用事といえば、たいていはクレームか出荷の催促だった。雲隠れしていれば束の間は逃げられた(携帯電話などない時代である)。

 私は毎夜、当てもなく車を走らせた。市内を回ったり、二号線や五十三号線で市街を離れ、いいかげんなところで引き返す。ドーナツが食べたくなって深夜営業の店を探してうろつく。ドライブウエイのある金甲山に登ってみたこともある。頂上の駐車場には星空の他には何もなかった。ある晩には、急に鳥取砂丘に行ってみたくなり、朝までには帰るつもりで五十三号線を北上したが、津山の手前で持続力をなくして引き返した。

 宇野まで出て車を置き、フェリーに乗って高松まで行くこともあった(瀬戸大橋はまだ出来ていなかった)。誰もいない吹きさらしの最上甲板に出ると、船が私一人を乗せて闇の中を進んでいくように思える。足元のエンジンの振動と突き出した煙突以外は、ただ暗い海と空の広がり。高松の街は寝静まっており、シャッターの下りた商店街を意味もなく歩いて、また帰ってくるのだ。

 じっとしていられなかった。駆り立てられるように家を出て、二時、三時まで帰ろうとしなかった。朝起きるのがつらく、出勤するのはいつも九時ぎりぎりか、遅刻することもあった。

 企業に就職することについて、私は何の希望も持っていなかった。ただ、成人すれば定期的で確実な収入を得る必要があるという理由があるだけだった。私は人見知りをする方なので、セールスの仕事は避けたかった。就職先をメーカーにしたのも、セールス以外の仕事があるだろうと考えたからだ。ところが人事担当者は文系同期の中から営業に配属する何人かを選んだ際に私を含めた。採用面接では私も必死になって愛想よくした。それで人事担当者は外交的と誤解したのかもしれない。

 それでも私が唯一期待していたのは、商売上の付き合いというのは、それまでの私を取り囲んでいた家族、近所、友人、教師などとの人間関係とは違うだろうということだった。古めかしい言い方をすればドライな関係、気取った言い方ならばビジネスライクな関係である。金ですむことなら気をつかう必要はないはずだ。

 そういう私の幻想はすぐに崩れてしまった。私がまず相手にしなければならなかったのは、オフィスにすわっているようなビジネスパースンではなく、もっと泥臭い人々だった。横柄なこすからそうな特約店主たち。人生に疲れたような特約店の営業マンたち。一癖ありそうな無愛想な小売店主たち。ペン屋さんか、と軽くいなす職人肌の塗装工たち。営業もスマートなやり方ではなかった。顔つなぎの訪問、卑屈な態度。しゃれた会話など交わせるはずもなく、下らぬ話題でもきっかけになるならば飛びつかねばならない。商売の話しといえば価格を下げることばかり。

 営業とは親しい人間関係を作ることらしかった。そのためには相手に気に入られなければならない。自分を押し殺して相手の機嫌を取るのは私の一番苦手なことだった。得体の知れない相手に会うのは苦痛だった。一人で営業活動をするとき、訪問先の入口でちゅうちょすることが度々だった。こんな商習慣は遅れた社会のものではないかとも思った。

 こういうことがあった。

 塗料の色合わせというのは、最後は人の目で行う。色見本帳の指示に従って調合用塗料を混ぜ合わせてみても、目で見ると色見本とは微妙に違っている。人の目の感覚というのは、定量的には捕らえがたいけれどもすごく敏感なのだ。だから、色見本にできるだけ近づけるように人間が調整するのだが、ぴったり同じとはいかない。同じ色見本を使っても、ロットごとに多少のズレは生じてしまう。塗料が足りなくなって追加で出荷すると、色が違うというクレームがあることがある。また、継続的に出荷される色については、決まった色見本を決めておかないと、前回通りという指定では、どんどん色がずれていってしまう。

 岡山へ来てから、ある建築現場で色が違うというクレームを受け、説明にいったことがある。確かに色見本と全く同じとはいえないが、染料で印刷した色見本と塗料の実物ではどうしても違いが生じるし、人間のやることだから近づけるにも限度がある。プレハブの建築事務所の中の折りたたみの会議机にすわり、若い現場監督にそう説明した。現場で働く下請けの人間たちに対する彼の権威は絶対なので、納入業者のセールスマンごときも同様だと思ったのだろう。横柄な態度を取り、なかなか納得しない。いくら説明してもまともに取り合ってくれず、なぜできないと責め立てるばかりなので、我慢しきれず大声をあげてしまった。

「できないと言ってるでしょう」

 彼はびっくりして黙ってしまった。おそらく現場でそんな口のききかたをされたのは初めてだっただろう。私の剣幕におそれを為したのか、彼は上司の席に言って小声で相談した後、了承した。

 事務所の外へ出て、怒りの高揚がおさまると私は後悔した。とんでもないことをしたものだ。監督は出入りの塗装業者に苦情を言い、塗装業者は販売店に、販売店は特約店に苦情を伝え、やがて私の元へ回ってくるだろう。需要家を脅かすなんて、何のためのクレーム処理なのかという非難。だが、それと同時に、どうにでもなれという半ばやけっぱち、半ば爽快な気分もあった。いくら顧客だといえ、人間的に許されない態度があるはずだ。商売などという虚偽の世界でなければ、私の怒りは正当とみなされるべきだ。正義は私の側にあると私は思っていた。

 5月の連休に大阪へ帰ったときのことだった。梅田で偶然高校の一年後輩の女性に出会った。彼女とは文芸クラブで一緒だったので親しかった(男にしろ女にしろ、私たちが学年を超えたつきあいをするのはクラブ活動の他にはなかった)。詩や小説を書いてみようと思うような人間はどこにでもいるけれど数は少なくて、私が部長だったときもクラブ員は全部で四人しかいなかった。だから、彼女とはよく話をした。

 二人とも時間があったので、喫茶店に入って話をした。昔の親しさはまだ消えてはおらず、会話は途切れることなく続いた。二人はデイトに近いことまでした仲だったが、恋仲ではなかった。私が好きな女性は別にいた。彼女と同じクラスにいる校内一の美人だと言われている女性だった。そういう評価は自然と成立し共有されるので、一種公的なものといってよかった。私たち男子生徒の話題の大きな部分は、どの女生徒の顔がきれいか、胸が大きいかということの繰り返しに過ぎなかった。私は彼女に、その美人が好きであることさえ告白していた。そこまで率直になれたのは、彼女を異性として見ていなかったからだろう。私は彼女の才気を愛したが、彼女の容貌には満足できなかった。彼女は普通の顔つきであり、かわいいと表現してもよかっただろうが、美人ではなかった。

 高校時代の思い出話は興がつきなかった。あの頃、未来はまだ遠い先のような気がしていたが、大学進学が自分の人生を決めることになるのもはっきり意識していた。可能性が試されずにそのまま私たちのものであった最後のときだったろうか。

 彼女はもうすぐ結婚するのだと言った。それに対して私は昔のような遠慮のない応答をした。

「君は結婚などしないと思っていた」

「私はあなたが就職などしないと思っていたわ」

「生きていかねばならないからね」

「私だってそうよ。不幸な結婚をするというわけではないけど」

「君が好きになったというのはどんな男性だろうな」

「平凡なサラリーマンよ。あなたは結婚しないの」

「したくなったら、するだろうな」

 ところで、というように彼女は私の顔を見つめて言った。

「あなたの顔つき、陰険になったわ」

 陰険というのは、昔私たちの間ではやった言葉だ。彼女はそういうことを平気で言う嫌味なところがあった。

 彼女とは線が違うのでターミナルで別れた。彼女に指摘された顔つきのことがこたえた。勤めだしてから、私は常に眉の間に縦じわを作った顔を、他人にも自分にも向けていた。鏡の前で表情を変えようとして、それが努力しなければ維持できないことに気がついた。私は何か好ましくないものになりつつある。

 連休の終りに大阪から岡山へ戻る新幹線の中でのことだった。混んでいたのでグリーン車の連結部に立っていた。扉の向うに乗務員室があり、出てきた車掌がいやな目つきで私を見た。切符を持っているかと聞くので、自由席のしかないと答えた。切符がないなら自由席の方へ行ってくれと車掌は言った。私はここにいては悪いのかと聞いた。切符がなければ当然でしょうと車掌は言った。私はいやだと答えた。常識のない人ですねえと車掌が言い、ああ俺は非常識さと私は言い返して車掌をにらんだ。車掌は黙って私を見ていたが、あきらめてひっこんだ。

 扉に寄りかかって暗くなった外を見ているうちに、腹が立ってきた。私は通路の自動扉を開け、狭い乗務員室のしきいの上で車掌に対峙した。

「あんたの名前を教えてくれ」

 車掌は言う必要ないと拒否した。

「それではあんたの上司に会わせてくれ」

 車掌はこの列車にはいないと答えた。

 私が岡山駅に着いたら駅長室に一緒に行こうと言うと、車掌はそんな暇はないと答えた。

「あんたが先ほど言ったことは国鉄(まだJRではなかった)の見解なのか。自由席は通路まで一杯だからここへ乗ってるんだ。誰の邪魔もしていない。それでもいけないというのか」

 車掌は私の脅かしに屈し、態度を変えた。むろんいてもいいのです。だが、自由席の方が空いていると思って親切心で言ったまでなのです。ここにいたければいて下さい。

 私は、非常識と言ったのはどういうことかと問いつめた。しかし車掌はそれに答えず、前と同じことを繰り返した。車掌の軟化でそれ以上のケンカはできず、結局そこにてもいいという言質をとっただけで、私は元の場所に戻った。

 車掌は駅に着く度に業務連絡のため出てきたが、私は背を向けていた。一度、自由席の方がすいてきたのですわれるかもしれないと勧められたが、私は動かなかった。相生を過ぎたとき、空いているグリーン席にすわってもいいと申し出てきたが、私はやはり動かなかった。

 私は自分のやり方が汚いと思っていた。いつから私は顧客であるという権威を笠に着て現場の人間をいじめるような男になり下がったのか。それではまるで私が毎日セールスの相手をしている人間、私が嫌っている人間たちと同じではないか。私は顔つきだけなく心も陰険になってきているのだろうか。

 私の勤めている塗料会社も様々な経営改善の努力をしていた。塗料は差別化の難しい商品であった。競合企業の出している模様入りの壁用塗料が特許で守られて人気商品になっていたが、そういう例は多くない。樹脂と顔料と溶剤を買ってきて混ぜるだけなら、小企業でも可能であるし、かえって間接費が少ないだけ有利である。品質に差を出せなければ、そういう企業と価格競争をしなければならない。知名度と販売網が頼りであった。

 日本の塗料産業の発祥企業ではあるが、今流に言うスピンアウトした企業にシェアで抜かれ、永年業界二位の地位に甘んじている。シェア一位奪還が悲願であったので、売上拡大が第一目標であったが、石油ショック後の経済環境の変化もあって、従来低い利益がさらに落ちてきていた。売上拡大の看板は下ろせないが、利益の確保も緊急の課題となっていた。

 営業マンにコスト意識をもたせるために、商品ごとの原価表が作られ営業所に配布された。値引きの際は利益率によって承認の権限が段階づけられた。赤字は部長決裁になる。原価と実勢価格は比例しないから営業マンにはすこぶる不評である。原価表の原価が正しいのかも疑問視された。高い顔料を使った場合などとてつもなく高い原価になる。大事な顧客に飛び抜けた価格を請求するのははばかられたから、当該商品の注文が少量ならば、価格はそのままにして、他の商品を値引くことで相殺するという内緒の操作を、特約店との間ですることもあった。

 細分化した商品は整理された。出荷量の少ない品種は、たとえ利益をあげていても、廃止された。例えば岡山営業所の関係では、月に数缶出荷していたイ草用の捺染塗料が廃止されてしまった。福山の特約店の管轄の需要家である、その地方では大きい方に属する工場に出荷していた塗料も廃止になった。その工場向けに一般品種の変種を作っていたのだが、月に二十キロ容器二缶しか出荷されないので、整理の対象となってしまった。その工場向けの売上はそれだけにすぎなかったから、岡山出張所としてもやむをえなかった。

 特約店の支店の営業マンと一緒に、製造打ち切りの説明に行った。彼は原という若い男で、気さくで私とも合った。先方の工場で応対したのは技術者らしい二人だった。私は会社の苦しい状況などを説明して製造打ち切りの理解を求めた。先方は値上げなどで交渉の余地があると思っていたようだが、私の強硬な(冷淡な)姿勢にダメだと悟ったようだった。私は代替品に当たる商品のカタログを渡した。先方の一人が言った。

「やむを得ませんな。お宅のような冷たい会社とはもう取引はできませんな」

 経過は知らないが、たぶん、売上拡大が至上命令だった時期に、この工場のラインで使う塗料の売り込みが行なわれ、先方の要望に合わせて塗料の改変が検討され、何回かテストが行われ、採用されたのだろう。そういう苦労をともにした思い出がこの技術者にはあったのかもしれない。それが突然、私のような若造が来て、交渉の余地なく製造打ち切りを伝える。彼等にしてはそれがビジネス上の礼儀ぎりぎりの言葉だったのだろう。

 私は黙ってしまった。とりなすように原が口をはさんだ。原は他のメーカーの塗料のカタログを出し、これが使えるのではないかと提案した。

 帰りの車の中で、私は原を非難した。メーカーの私がいる前で、特約店の営業マンである原が、何で他のメーカーの塗料を勧めたりするのか。私はあの技術者の言葉と態度にショックを受けていた。彼等の言い分は正当であり、自分が強く否定されたように感じた。上部の方針に唯々諾々と従い、顧客のことを思って何か方策をたてる努力もしなかった。それが楽だったからだ。原の差し出口はそういう私に追い打ちをかけた。だから私は原に鬱憤のはけ口を向けた。

 そういう非難を口にすると、今回の件がそれでうまく締めくくられるような気がした。特約店に帰ってから、支店の店長に私は同じ非難を繰り返した。すると彼は意外な反応をした。

「何をごちゃごちゃ言うか」
 思いもかけぬ店長の怒りに私はびっくりしてしまった。特約店の人間がメーカーの人間に嫌われるようなことはしない。私もそういうあり方に安住してきていたのだ。怒りの発作は一時的かと様子を見たが、一向におさまらない。その場はそのまま私は帰った。

 私はメーカーの人間としての根性が抜け切れなかったから、関係修復は先方からしてくるだろうと思った。これまで愛想のよかった店長の豹変が不思議だった。二、三日後、彼が特約店を辞めて塗装業を開業するという情報が入った。私に怒りをぶつけたときには、もう辞めることになっていたのだ。だから私に遠慮はしなかったのだ。今まで私に対する怒りをずっと抑えてきたのが、辞めることになって抑制が外れ、あんなささいなことで爆発してしまったのだろう。強い立場のメーカーの人間として、自覚しないままに、彼を腹立たせるようなことを私はし続けていたようだ。

 表面の愛想よさの下に、巨大な怒りのかたまりが沸騰していて、それをおおっている儀礼という薄皮を破って、いつ吹き出して来るか分からない、ここはそういう世界なのだろうか。しかも私自身も、知らぬ間に怒りを膨らませる役割を果たしているのだ。下っ端のセールスマンとして、上司や顧客に屈従しているという、自分自身についての私のイメージは一面的なものだった。経済社会のヒエラルキーの中で、私自身も権力者として振る舞っていることに、私は気づいていなかった。

 結局、店長とはそのままになってしまったのだが、後日談がある。彼が始めた塗装業は、当然彼の勤めていた特約店から塗料を買うことにしていた。あるとき彼から電話があって、表面処理(うちの社の製品を使っている)がうまくいかないので、技術者の助言がほしいと言ってきた。弱々しい、頼み込む口ぶりだ。私はそれは無理だと答えた。

 復讐しようという気持ちがあったわけではない。ただ単に、いかに特約店の元幹部だったにせよ、そんな小さな需要家のところに技術者の派遣は出来ないに決まっているから、要請するだけ無駄だと思って何もしなかったのだ。彼は私が過去のことを根に持って意地悪したと誤解したかもしれなかった。

 その夏に岡山に船舶塗料の研究所ができることになった。塗料納入においてかなりのシェアのある造船企業との共同研究の話があり、研究所はその企業の造船所がある玉野の近くに立地した。事務的なことは本社の船舶部が担当していたため、岡山出張所は蚊帳の外で、連絡係のようになった所長のところにだけ情報が流れてくる。玉野の造船所は所長の担当なので、私や林はまれにお供で行く以外は縁がなかった。開所式も所長だけが出席することになっていた。

 開所式には本社の受付の女性が手伝いに派遣された。応援に来る二人とは、私や林は顔見知りだった。林は彼女たちと同部署の業務課に一年勤務したことがあるので、私よりも慣れ親しんでいた。彼女たちが来ることも林が先に知ったのだ。二人は開所式の前日に来て、開所式が済んだら帰ることになっていた。林と相談して前日の夜に四人で会うことにした。

 実は、二人のうちの一人の桂子と、私はときどきデイトしていた。私が大阪営業所に勤務していた頃、受付嬢と接触することが多く、誘ってみたのだ。岡山へ来てからも、大阪に帰ったときに、頻繁にではないが、会っていた。彼女が開所式に来ることが分かったとき、もう一泊してデイトしないかと誘ったのだが断られた。同僚と一緒なので単独行動は無理で、また、本社の受付を長くは空けられないので、休みは取れないと桂子は言っていた。桂子と付き合っていることを私は他の人間には(林にも)隠していた。

 その日の業務を終えてから、林の車で研究所に行くことにした。事務の女性は五時になったらすぐ帰ってしまう。幸い所長は出張でいない。いつもは一、二時間残るのが当たり前なのだが、事務所を出たのは五時半頃だった。研究所は玉野市街の北東の寂しい海岸にあった。敷地の中に私たちの車が入ると、待ち構えていた桂子らが出て来た。明日の準備は終えて待機しているだけという二人を乗せて、早速出かけようとしたのだが、彼女らは無理だと言った。

「研究所長さんが、食事に連れていってくれると言うの」

「そんなの断われよ」

「そうはいかないわ。せっかく気を使ってくれているのに」

「約束があると言えばいいじゃないか」

「あなたたちと?」

「それはまずいかな。何とか誤魔化せないか」

「無理だわ」

 四人は考え込んでしまった。彼女らも職員である以上、たとえプライベートな時間であっても、組織の秩序を乱すようなことは出来かねた。研究所長は打ち合わせが済んでから迎えにくるらしく、研究所には誰もいないが、四人は外にいたままだった。私は新築のこじんまりした研究所の建物を眺めた。せっかく期待していた楽しみを奪ったものの象徴であるかのように。座り込んでしまって落ちていた木の枝をひろい地面にでたらめな線を描いていた林が声をあげた。

「カエルだ」

 小さなカエルが地面にうずくまっていた。林が枝でつつくとそれは一回飛んだが、また動かなくなった。

「帰るか」

 私がそう言うと、桂子は笑いもせずに答えた。

「帰るの?」

「だって、ここにいてもしょうがないだろ」

 それでもまだしばらくはぐずぐずしていたがいい案は浮かばなかった。食事の後、研究所長がホテルまで送ってくれるらしいが、いつになるか分からないので、それまで待ってはいられない。それに明日のことを考えれば彼女たちは夜更かしはできない。結局、林と私は引き上げた。

 開所式の翌日、所長が私を呼び、困ったような顔で言った。

「おととい、研究所の所長が、連絡を取ろうとここへ連絡したら、まだ五時過ぎなのに誰も出なくて、困ったそうだ。一体岡山出張所はどうなってるのかと言われたよ」

 どういう風に叱責したらいいのか迷っているようだった。私は当然のように反論した。

「勤務は五時までですから、文句を言われることはないと思いますが」

「それはそうだが。研究所開設の前日なんだから、岡山も協力しなければならないだろう」

「待機するよう指示があれば、そうしてました。所長は何の指示もされなかったでしょう」

「言わなくても分かっていると思っていたんだが」

「何か支障があったんですか」

「それはなかったが、どう言うかな、姿勢の問題なんだ」

「仕事をおろそかにした覚えはないです」

 あの夜、研究所長が桂子たちを食事に連れて行いったおかげで、私たちは彼女たち一緒の時間を持てなかった。大阪にいたときから年長の上長たちが受付の桂子たちをちやほやするのをときどき見かけ、私は苦々しく思っていた。いかにもわが娘のように扱っていても、男としての下心が見え透いていて見苦しかった。仕事上のことにみせかけて、若い娘と付き合おうとするのは卑劣に思えた。

 結局、所長は私から詫びの言葉を引き出せずに、私を解放した。林は素直に謝ったらしい。もともとうまくいっていないのだから、そのことで所長と私の関係がより悪化したわけではない。ただ、出張所という小さなグループを優先して私たちを守ってくれるのでなく、偉い連中の肩を持ったということが、所長への信頼を決定的に失わせてしまった。

 何となく好かないという人はいるだろうし、どうにも合わないという性格もあるだろう。そういう場合は、いくら融和を試みても無駄なのかもしれない。それとも、違った環境で出会ったなら、所長と私も仲良くなれたのだろうか。もうしばらく時間をかけたなら、あるいは違った風になっていたのだろうか。しかし、私は我慢しきれなかった。

 退職の直接の(表面上の)原因は所長への不満であった。けれども、真の原因は私がビジネスパーソンとしては不適であることにあるのは、当時の私にも分かっていた。所長と出会わなくても、いずれは退職していただろう。ただ、それが早まっただけである。

 その頃は、まだ終身雇用が疑われていない時代だったから、企業を退職することは企業社会から脱落する危険を意味した。私は自分を失敗者だとは思っていなかったが、何らかの意味でドロップアウトすることになるのは承知していた。

 セールスの極意は自分の扱う商品に誇りを持つことである、とどこかで聞いた。その通りだと思う。当時の私は、自分の扱う商品を何となくうさんくさく思っていた。他社のと比べて優れているわけでもない製品をどう売るのか戸惑っていた。これは、当時私の勤務していた企業に漂っていた雰囲気にも影響されていた。かつては数少ない化学工業としての誇りがあったが、いまや新興の産業に比べて発展性のあまりない伝統産業に落ちぶれてしまっている。さらにその中でも一向に業界二位から抜け出せずにいる。現場の人間は経営者を信頼しておらず、現場実習の際にそのことを新入社員である私たちにあからさまに語った。営業マンは技術者を信頼しておらず、技術者は営業マンを信用していなかった。その悲観的傾向にすぐに私も染まってしまった。

 それは言い訳にすぎないだろう。私は不勉強なセールスマンだった。商品知識は貧弱のままだった。塗布量(一平米に塗装するのに必要な塗料の量)などもきちんと覚えていなかった。商品の性能が不満でも、それは技術の仕事だろうと、真剣に考えたりはしなかった。塗料を使う製品にとって、塗料がどういう役割を果たすべきであり、そのために自分の属す企業がどういうことができるのかに無関心だった。障碍は企業の中にも企業をとりまく環境にもあったが、チャレンジしようという気持ちは起きなかった。

 今から思うと、ビジネスというのは、当時私が考えていたよりもはるかに大きな可能性のある世界であった。いずれにせよ、そこでは多くの人が生きていたし、生きざるを得なかった。その他の世界に比べてそこが特に生きにくいということもなかっただろう。他人の感情を操ることが有利であるならば、生きていくのにそれを使わない手はない。自分の感情ばかりに気を取られている人間には、ビジネスはおろか、まともな人間関係さえ構築できないということに私は気がついていなかった。事実は、私はただ、感情を抑えるのが苦手な、交渉の下手な無能なセールスマンにすぎなかった。

 ビジネスは一つの世界であり、そしてもちろん他の世界もあった。人はそれぞれ自分の場所を見つけて、そこでどのようにしろ生きていくのだ。そこが満足できるところであれ不満であれ、希望を持つかあきらめるか、張り切るか投げやりか、報われるか見すてられるか、そういう違いはあっても。私はまだその場所を見出せていなかった。

 九月の末に岡山を去った。

 その夕刻、所長と林と造船所に駐留している技術者である川上と四人で一緒に食事をした。送別会は既に済んでいて、さっさと列車に乗ってしまいたかったのだが、所長が君とそんな別れ方をしたくないと言って引き止めた。所長にはこだわりがあった。私にもあった。だが、今更どうなるものでもない。

 何を話したかはもう忘れてしまった。どうせたいしたことではない。引越しの際積み残した自転車を一万円で川上に売った(造船所で使うので金は会社がもった)。後で聞いたのだが、川上は早速自転車をタクシーのトランクに無理矢理積ませて持って帰った。

 彼等は見送るためにプラットホームまでついてきた。列車が入ってきたので乗り込み、席に荷物を置いた後、乗車口に立った。

 発車を知らせるひょろろろろろろというあの変な音がしたとき、酔いのまわっていた川上がバンザイと言いながら両手をあげた。所長も笑いながら小声でバンザイと言った。それから扉が閉まるまで手持ちぶさたの短い時間が経過し、扉が閉まると動くまでがまた気づまりだった。列車が動きだすとあっけなく彼等の姿は消え、私は車室に入って自分の席にすわった。

 光の少ない暗い街並を見て、これが自分の去っていく街なのだと確認しようとしたが、何の感慨も起ってこなかった。住んでいた家を最後に見ておこうと気がついたときには既に遅く、列車は旭川を渡っていた。

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