井本喬作品集

フェルメールの絵

 降りた駅の掲示板でフェルメールの「窓辺で手紙を読む女」を見たとき、私は錯覚かと思った。電車の中で『失われた時を求めて』の第一巻を読んでいて、スワンがフェルメールの研究をしているというところで、私は、ずっと昔、伊野と一緒にフェルメールの絵を見に行ったことを思い出していた。「窓辺で手紙を読む女」はそのときに見たのだった。掲示板の絵に近づいてみると兵庫県立美術館で「ドレスデン国立美術館展」を開催するポスターだった。あのときのように、また展覧会がやってきたのだ。

 私がフェルメールの名を初めて聞いたのは伊野からだった。伊野は画家を志望し、高校生のときにはピカソの初期に影響された絵を描いていた。しかし、大学進学の際に親たちの反対に抗しきれず、やむなく経済学部を選んだ。私は伊野とそこで知り合った。通学経路が同じ方向だったので、ときどき途中下車して彼の家に寄った。彼の部屋で見せてもらった美術雑誌に、ダリが自分も含めた画家たちを採点したものが載っていた。あの皮肉家のダリでさえフェルメールはベタほめだった。その他によい点をつけてもらっていたのは、ラファエロとミケランジェロだけだった。

 私たちが大学を卒業したのは大学紛争のさなかだった。伊野は就職が内定していたにもかかわらず直前で躊躇し、卒業を延ばした。紛争に関わっていたわけではないが、騒然とした雰囲気に影響されたこともあるのかもしれない。伊野はまだ夢をあきらめきれなかったのだろうか。結局伊野は一年後卒業して市役所に勤め出した。

 京都国立博物館でドレスデン美術館展が開催されたとき、私は失業中だった。伊野と同じように、私は経済学部への進学を望んではいなかった。私は文学に惹かれていたが、大学卒業後の生活について考えると、自分の意志を押し通せなかった。その頃は、特に中産階級においては、定職につくということの社会的圧力が非常に強かった。未就職や失業はまともな人生からの脱落とみなされていた。だから、せっかく就職した塗料会社を私がやめてしまったとき、親はひどく嘆いた。私としては、進学のときと就職のときに自分を抑え、自分の可能性がどんどん失われてしまう場所で四年以上も辛抱したつもりだった。私の二十代は終わりかけていた。

 展覧会のコレクションの中にフェルメールの絵が一枚あった。展覧会の宣伝のポスターには、ピントゥリッキオ「少年の像」、レンブラントの「ガニュメデス」とともに「窓辺で手紙を読む女」が使われていた。私は伊野に誘われて見に行った。

 私は絵にはあまり興味がなかった。それ以前に絵を見に行ったことがあるのは、倉敷の大原美術館ぐらいだ。岡山にいたとき、伊野が泊りがけで遊びに来て、二人で近所を回り、倉敷にも寄ったのだ。その当時から倉敷は人気があったが、今ほど観光地化されていなくて、ひなびた感じがまだ残っていた。ちょうど倉紡の工場跡がアイビースクエアとして整備されだした頃だった。美術館はまだ拡張されていなくて、こじんまりした旧館だけが展示スペースだった。私はエル・グレコの『受胎告知』や他の絵画を見ても特別に感じるものはなかった。ただ、モローの『雅歌』だけがその独特の色使いと筆のタッチによって印象に残った。

 年末にもかかわらず国立博物館は混んでいた。私はやはりどう振る舞えばいいのか戸惑ってしまう。絵の前でとるべき態度が分からないのだ。どこか内部でつき動かすものを待ち受けるのだが、何も起こらない。かといって、知識が助けてくれるわけでもない。この絵は何を目指しているのか。手法は新しいのか古いのか。どんな評価を受けているのか。これでは何も感じられはしまい。自然な気持ちで作品の前に立とうと思うのだけれど、私の意識ははね返されて戻ってきてしまう。私はぎこちなく絵を見回す。この絵から得られるものは何か、得られたものを逃さぬようにするにはどうすればいいか考え込む。これらの絵を範疇づけるのがいいかもしれない。描かれている対象は、風景、人物、わずかに静物。人物は、肖像、聖書あるいは神話を素材としたものなど。描かれた事物は、自然(空と樹木と水)、建物、肉体、顔、衣服、装飾物。特に気づくこととして、肉体のエロチシズム、衣服のしわの描写(ひどくこだわっている)、明暗の対比(昔は室内が暗かったせいだろう)。膨大な絵のコレクションを見ているうちに、個々の絵の区別はつかなくなり、一つの方法を執拗に追求する才能の群の大きな塊の中を歩いているような気になってくる。

 私たちは別々に見て回ったのだけれど、私がフェルメールの絵の前に行くと、伊野がいるのを見つけた。絵は展示棚のガラスが光って下部がよく見えなかった。伊野はフェルメールの絵のポスターを買った。伊野はあれらの絵の中で見るべきものは三点しかないと言った。フェルメール「窓辺で手紙を読む女」、ピントゥリッキオ「少年の像」、ベラスケス「ある男の肖像」。

 帰りの電車は混んでいたが、中程の座席に向かい合ってすわれた。伊野が深刻な顔をして黙り込んでしまったので(電車の中の空気が汚れていて気分が悪くなったのだとあとで伊野は説明した)、私は窓から冬枯れの景色を眺めた。

 退職して岡山から帰ってきて三カ月近くになる。その間私は少数の友人以外とは話すこともなく一人で過ごしてきた。今で言う閉じこもりのような生活だった。失業手当と貯金でカネの心配は当分なかった。だが先の見通しは立っていなかった。

 仕事を辞めた後、私は仮の住まいとして久門家所有の住宅を借りていた。親との関係がこじれて家には帰れず、住むところを見つけるまで置いてもらっていた。その住宅には誰も住んではいなくて、久門の父親が学習塾として使っていた。久門の父親は高校の数学の教師だった人で、独特の教育法を考え出していた。

 当初、私は久門が一人で住んでいたマンションに転がり込み、住むところ探したが、適当なところがなかなか見つからず、見かねた彼が住宅を提供してくれたのだ。私は大学に戻ることを考えていた。実現すれば大学の近くに家を見つけることにしていた。

 その頃、久門はまだ証券会社に勤めていて、損をさせた客の話などを聞かせてくれた。後に久門は証券会社を辞めて父親の仕事を手伝うようになった。大企業勤務から塾経営に変わるという久門の決断が私には意外だったが、事業が全国展開していくのを見て、その決断の正しさを納得するともに、彼の手腕に驚かされた。久門がそれほどのやり手だとは思っていなかったのだ。

 今から思えば、私は成功した企業の創業の現場を垣間見ていたことになる。ビジネスというものが持つ躍動を感じてしかるべきだった。そういう意味では私はビジネス社会を見損ねていた。たとえば、大学の友達の一人が自動車会社に就職したので、私はその将来性を危ぶんだ。日本の道路事情からみて、いま以上の自動車の普及は望めないと私は見込んでいた。私の予想は全く外れた。高速道路をはじめとする道路網の整備、所得の上昇に伴う自動車保有の増加(この私でさえ自動車を持つようになるのだ)、そして輸出によって、自動車産業は巨大になっていった。高度成長のさなかにあって、私は経済社会のダイナミズムをとらえ切れていなかった。

 だが、それらは後にして思うこと。そのときの私にとっては、ビジネスが魅力のあるものとはとうてい思えなかった。生きていくための苦行としか見えなかった。

 久門とは中学で知り合った。そのときは同級生の関係でしかなかった。高校は別になり、交流は途絶えた。ところが、同じ大学の同じ学部に入学し、新しい人間関係の中で顔見知りなのは久門だけだったから、一緒にいることが多くなった。

 久門と私がさらに親しくなったのは、一緒に山に登るようになったからだ。大学に入るまでは二人とも本格的な登山をしたことがなかった。きっかけは大学入学早々に双子の中崎兄弟の一人から槍ヶ岳に登るのを誘われたことだ。中崎は私たちとは別の大学に入学していたが、中学が同じで、久門とは高校も同じだった。彼は何かの活動で知り合った娘二人と山へ登る計画を立て、久門と私を誘った。助っ人にするつもりだったのかもしれない。私たちが取ったルートは北アルプス銀座コースと呼ばれている入門的な山域だった。五人とも登山には素人だった。普通は夜行出発で二泊三日の行程を、上高地での一泊を含め五泊かかってしまったが、天候には恵まれ、楽しめた旅だった。

 初日の登りでバテてしまい、ようやく燕山荘のある稜線に出たときの、眼前に広がった風景は忘れられない。それは今まで見たことのない眺望だった。ハイマツの緑におおわれた岩の峰が青い空を背景に視界の左右いっぱいに広がっていた。それらは、後に知ったのだが、烏帽子岳から槍ヶ岳に連なる、いわゆる裏銀座と呼ばれる山並みであった。

 そのときの五人パーティーはそれきりになってしまったが、私と久門は登山を続けた。大学の仲間の一人である木山は、高校時代にワンゲル部にいたのだが、ワンゲルはしんどいからと私たちと一緒に登るようになった。私たちは三人で、あるいは二人で、ときには単独で、山に登った。登山といっても、ロッククライミングや冬山はやらないから、危険は少ない。

 山登りが楽しいかと聞かれると、返答にはためらってしまう。山小屋代を節約するためにテントや食料や自炊の道具をかついで登るのは辛かった。山の景色の魅力は消えることはなかったが、この辛さは景色だけでは引き合わない。そういう辛い思いをしてまでなぜ登らねばならないか、常に疑問が湧いてくる。それでも、山を下りればまた登りたくなるのだ。人間には何か熱中するものが必要なのかもしれない。

 仲間内で山に取り付かれていたのは久門と木山と私の三人だけだったが、一度、他の仲間も誘って奥穂に登ったこともある。横尾にテントを張って日帰りで往復した。そのときは伊野も一緒で、彼はしんどいからと涸沢に残った。スケッチをするという伊野を残して私たちはザイテングラートを登り、奥穂山荘を経由して寒風の吹く奥穂高岳に登った。降りて来ると伊野は退屈し切っていて、仕上げたスケッチも一枚きりだった。

 伊野とは二人で旅行したことが何度かあった。しかし、彼と二人きりでいるのは一日が限度だった。二日目には意見が合わなくなり、逃げようのない状況の中でけんかになってしまうのだ。

 久門とは仲違いすることはなかった。ある意味で私たちは距離を置いた付き合いをするようになっていたのだと思う。高校時代までは、男同士の付き合いでも、まるで男女関係のようにのぼせ上り、嫉妬や痴話げんか、横恋慕、棄てるのどうのといったこともあった。恋愛の疑似体験、代替みたいなことだったのだろう(男女関係がまだ公然のものと容認されるまでにはなっていなかった)。さすがに大学生になると、そこまでのじゃれあいは気恥ずかしいものとなり、友情はクールダウンされたものとなる。私と伊野との関係は、まだ昔の情緒を引きずっていたのかもしれない。

 久門は私より背が高かったが、スタミナは私より劣った。たとえば、木山と三人で五月の連休に北八ヶ岳へ行った時、天狗岳の西峰を往復するのを久門はやめて東峰で待っていた。久門の撮った写真に西峰にいる木山と私の姿が小さく写っている。そのときは積雪に悩まされて予定していた蓼科山までは行けず、泊った白駒荘の人が連休が終わって引き上げるので、その車に乗せてもらって白樺湖へ降りることにした。麦草峠で車を待つ間、木山と私は雨池まで往復したのだが、久門は峠にとどまった。

 また、こういう思い出もある。近畿の低山の川を久門と二人で遡行したとき、ちょっとした岩の空間を、久門が怖がってなかなか超えられなかった。山に登るくせに高所恐怖症気味のところは私にもあるが、久門は私以上かとあきれた。ところが、その彼が一人で奥穂から西穂の縦走をやってのけたので驚いたことがある。そのコースを私は恐れて避けていたのだ。ある面で、私は久門を見くびっていたのかもしれない。彼のビジネスにおける成功も私には予想がつかなかった。

 久門はマニアっぽいところもあって、ピッケルを買った。木山と私は、冬山に行くこともないないのに、不必要だと笑ったものだ。そういう久門の愛嬌のある側面を、私は嫌いではなかった。

 そういう関係であるからこそ、退職した直後に彼の一人住まいのマンションに転がり込み、そのあと彼の父親の所有する住宅に住まわせてもらったのである。

 その住宅では、放課後に子供たちが来て、久門の父親に教わっていた(久門式教育というビジネスの揺籃期だったのだ)。私の使わせてもらっている部屋は教室とは別になっていたので、塾のやっているときにもいることはできたのだが、遠慮していつも外出していた。図書館から帰る頃には塾は終わっている。まだ終わっていないこともあるが、そのときは私は近所をぶらついて終わるのを待つのだ。だから、久門の父親とは顔を合わすことがなかった。

 そこで一人で生活するようになってから、人と口をきくことのない日が続いた。喋ることがずっとなかったから、買い物などで店員と受け答えしようとしても声が出にくいこともあった。孤独は苦にはならなかった。岡山でも一人の夜を過ごしていたし、山に登ったときには一日誰にも出会わないこともある。むしろ人と会話をする方が苦になっていたくらいだ。

 だから、寂しいとかわびしいとかいうことはなかったし、そういう感情に悩まされることもないだろうと思っていた。

 退職してからは、勤めていた企業の人間と会うことはなかった。事務手続きで人事課と手紙のやり取りをしただけである。職場の人間との付き合いは、所詮は企業に所属しなくなれば切れてしまうようなものでしかない。同期の人間にしても、研修期間には淡い連帯感のようなものが生まれるが、各職場に配属されてバラバラになると、通りすがりに顔を合わせたときに手を上げてあいさつするだけの関係以上にはならない。同年輩の同僚とは友情めいたものもできかけたことはあったが、異動で離れてしまえばそれで終りだった。ましてや上下関係で結びついている人間とは職場以外で会おうとは思いもよらない。

 それでも、五年以上も勤めた企業に対して、すぐに帰属感がなくなってしまうものではない。むしろ、その中にいたときは感ぜられなかった愛着のようなものが生まれ始めていた。

 道路を歩いていて、工事現場などに通りかかると、鼻を突く臭いを感じて辺りを見回す。シンナーの臭いだ。どこかで塗装工事をしているのだ。研修で工場の塗料撹拌機の掃除をさせられたときから、シンナーの臭いは常にかいでいた。販売店や塗装店で、工場や建設現場で。シンナーの臭いは私たちの仕事の臭いだった。だから、それを嗅ぐとすぐに、私の記憶は過去へさかのぼる。シンナーの臭いの中で仕事をしていた頃へ。この連想からは一生逃れられないだろう。

 桂子とは仕事を辞めてから一度だけ会った。仕事を辞める前と後で私自身の外見も中身も何の変化もないのだから、彼女が以前と同じように付き合ってくれるものだと思っていた。場合によっては思い切ったことをしたと見直してくれるのではないかと期待した。だが、彼女にとって(世間一般と同様に)失業者は格落ちの存在にすぎなかったようだ。もしかすると、彼女は最初から私のことをあまり評価していなくて、失業したことで問題外になってしまったということかもしれない。

 電話でしぶる桂子を強引に説得して、箕面の紅葉を見に行く約束を取り付けた。今までの経過があるから、彼女も礼儀上あまりに冷淡にはできないので、そこにつけ込んだようになった。会えば桂子の態度が変わると期待したわけではないが、私は無性に会いたかったのである。

 箕面の駅前で日曜日のひる過ぎに待ち合わせをした。いつものように私の方が先に着いた。改札の外で待っていると、何台かあとの電車から下車する人々に混じって桂子が現れた。私たちは笑顔になって挨拶をした。そこで少し立ち話をした。思いがけず率直に桂子は聞いてきた。

「なぜ辞めたの」

 彼女はまぶしげに私を見ていた。太陽が私たちの真上にあったから。

 ひょっとしたら、この娘と結婚できたのかもしれない。二人で築く、平凡だが幸せな家庭。そのための条件である定収のある仕事を棄ててしまったのだから、彼女をあきらめたことと同じになるのだ。彼女には分からないだろう、自分が可能性を秘めた種であり、種のままでいることに満足できないという気持ちが。彼女に理解できるように説明するのは困難だと思って、私はおざなりな返答をした。

「仕事が面白くなかったから」

 彼女は納得した。つまり私が駄目な男であり、辛いことや苦しいことを乗り越えていく根性のない人間であることを知った。

 その日のデイトは義理で進行しているに過ぎなかった。桂子は将来に対するいかなる希望も私に示さないように気をつけていた。これが最後だということは言い出さなかったが、二度と誘いかけには応じないつもりであることは明らかだった。それでも、彼女はいつもと変わりのない態度を取ることができていた。取りようによっては、それは優しい心なのかもしれなかった。会うことも話をすることも断固として拒否することもできたのだから。

 これが最後かと思うと、私は感傷的になった。彼女が会いに来たのは正解だったろう。もし冷たく断られていれば、私は彼女を恨んだだろうから。

 川沿いの道を滝まで行って、戻った。シーズンの日曜なので人出は多かった。紅葉は盛りをすぎてしまっていたが、木によってはまだ赤く鮮烈に目を射、あるいは緑や黄とともにグラディエーションを見せていた。人々の流れに混じって歩くので話はしにくく、紅葉の具合を口に出す程度だった。

 駅に戻ると、喫茶店を探して入った。コーヒーを飲んで、職場の話をした。やがて話題はなくなり、会話は途切れた。表面的な話しから一歩進み出ることを二人とも恐れていた。暗黙の了解のうちに別れてしまう方がいいのだろう。私は梅田に出て食事をし、そのあと飲みに行くことを考えていたのだが、彼女はそこまで付き合ってくれそうもないのは明らかだった。黙りこくったままの私をさすがに気にして、桂子は言った。

「何を考えているの」

「君のことさ」

「私のどんなこと」

「いろいろ」

 私が考えていたのは自分のことだったのだが、それは嘘でもなかった。桂子のことも考えの中には入っていた。私は桂子がそれほど好きだったわけではない。桂子は私の好みのタイプではなかった。むしろもう一人の受付の娘の方に引き付けられていて、桂子とはたまたま誘いかける機会があったから付き合い出したに過ぎない。そういういい加減な態度だったのだから、彼女を失うことに何の痛手も未練もないはずだった。けれども、いわば軽視しているような相手である桂子から見棄てられるというのは、はなはだプライドを傷つけられてしまうものだ。

 駅で桂子と別れた。途中まで一緒に電車に乗ってもよかったのだが、それには耐えられそうもなかったので、理由をつけて残った。切符を買って改札へ向かう前に彼女は言った。

「元気でね」

 私は手を上げて答えた。

「君もね」

 改札を通ってから一度振り向いて手を振ったあと、桂子はもう私を見ようとはせずに停車中の電車に乗り込んだ。私は電車が動くまで待った。電車が動き出して視界から消えてしまっても、しばらくそのままでいた。そのとき、私は職場から完全に切り離されたような気がした。それまでは何となく、辞めてはいながら、そこに従属している気持ちは残っていた。もちろん復帰するのは不可能だと分かってはいたが、つながりは切れていないので、受け入れてもらえそうな感覚があったのだ。しかし、もうこれで職場の人間と話す機会はなくなってしまったと思うと、退職したときにもまして、不安定で頼りない気持ちが起こってきた。

 私は中之島にあった大阪府立図書館に通っていた。学生時代は学部の授業にはあまり熱心ではなく、読むのも経済学とは関係ない本ばかりだったので、勉強し直すためだった。世界を理解するには経済学だけでは不十分だと思い、もっぱら専門外の社会学の本を読んでいた。マルクス主義の退潮が影響していたのかもしれない。

 梅田から地下鉄で淀屋橋までひと駅なので、節約のため歩いた。堂島川を渡辺橋で渡り、市役所の横を入る。図書館に入る前に、コンクリートの堤防に肘をついて濁った流れに見入ることもあった。川の中に橋脚を立てて阪神高速道路の環状線が走っている。見上げても側壁に隠されて車は見えず、ときたま背の高いトラックが走ると分かるだけだ。大阪営業所に勤めていたころはよく通った。その時とは何と変わってしまったことだろう。ただ仕事をやめただけで、私自身は何も変わっていないのに。

 二隻のダルマ船を曳いたタグボートがゆっくりと通り過ぎて行く。橋の下を抜けてきたところで、すぐに別の橋があった。三つの橋脚がアーチを形成していた。間隔が狭く、しかも地盤沈下のためか水位が高くなっていて通りにくそうだった。私は興味を持って見ていた。タグボートは右から二番目のアーチの空間を選んだ。ダルマ船にもそれぞれ乗員が一人いて、舵輪を動かしていた。前のダルマ船は左に寄りすぎた。舵を右に直してどうやらくぐり抜けたが、そのため後ろのダルマ船がさらに左に寄ってしまった。既に橋を抜けていたタグボートが動きを止めたらしく、船の間隔が縮まった。そのため状況はかえって悪化したようだった。ぶつかるかもしれない。だが、私の期待は外れ、どうやら後ろのダルマ船もくぐり抜けた。乗員はかがみこんで橋に頭をぶつけないようにした。

 図書館の正面には階段を備えた四本のエンタシス柱があり、その後ろの大きな鉄の扉はいつも閉まっている。建物は両翼にのび、中央と両端が四角く出っ張っている。屋根は青くさびていて、中央はドームになっていた。どういう様式がどのように取り扱われているのか、私には分からなかった。

 入口は階段の両脇にあった。受付で鍵をもらいロッカーに荷物をしまってから階段を上るとホールに出た。ホールは吹き抜けになっていて、見上げるとドームの内側が見える。つまり、本当はそこが一階であり、閉じられていなければ正面の扉から直接そこへ入れるはずなのだ。ホールから左右に分かれ壁にそった階段があり、反対の位置でそれぞれ左右の翼に通じている。右が社会科学室で、左が自然科学室だ。私は右へ登っていく。途中の壁にくぼみがあり、等身大のブロンズの青年の裸像があった。木の枝を杖にしていて、野神像と題されてある。左の階段にも同じような像があり、そちらは本を持っていて、文神像となっていた。部屋の分類と像が反対になっているのはなぜなのだろうか。

 部屋はいつもほぼ満員だった。古めかしい木の机が数脚あって、一つの机に三人ずつ向かい合ってすわるのだが、少し狭い感じだ。四方の壁に書架がある。法律関係の本が多かった。閲覧者も六法全書を持っている連中がほとんどだった。

 この部屋は右翼のつなぎの部分であることが分かった。もっと大きな部屋が続いているはずであり、確かにドアがそれを示していたが、立入禁止になっていた。窓から市庁舎の鐘楼が見えた。

 書棚の上から下まで順番に本の背文字をざっと読み、次の棚に移動する。読まねばならない本、読む必要があるかも知れない本、どっちでもよさそうな本、無視してもかまわない本、ここにあるだけもかなりの数だ。書庫にはもっとたくさんの本があり、さらには索引カードで探しても見つからない本(ここにはないがどこかに存在する本)もある。これだけの知識の集積にめまいがしそうだ。一冊の本を読んでしまうのに数日かかるのだから、一生かかっても読めるのはそのほんの微々たる割合でしかない。アレキサンドリア図書館が焼けたのは幸いだった、なぜならその膨大な資料に研究者が悩まされずに済むから、と誰かが言っていたが、その気持ちが分かる。

 しかも、一冊を読み終えて、自分の中に何が残ったかを反省してみると、読んだはしから忘れていってしまっていることに愕然とする。まるで単に文字を走査しているだけのようで、こんなことに意味があるのだろうかと不安になる。しかし、とりあえず読み続けていなければ、いっそう不安は増すのだ。

 適当な本を三冊ばかり本棚から引きぬいて、空いている席にすわった。椅子が少し高かったので落ち着かなかった。向かい側の席の男が顔を上げて私を見たが、目が合うと再びうつむいて本を読み続けた。その男は組み立て式の本支えを使用していて、その上に本を斜めに立てかけていた。そういう器具を持っている者は多かった。

 本を読み始めてしばらくすると、かすかに机がゆれているのを感じた。目を上げると、前にすわっている男が字を書いていて、その振動が伝わってきているのだ。よく見ると、彼は左手にボールペンを持ち、ペン先を自分の方に向けてひどく傾けている。そして、押しつけるようにして書いていくのだが、手だけではなく体全体が動員され、書くことに全然参加していない右手も、軽く上げられたその位置でふるえている。

 障害を克服して勉強しているその姿に感嘆する気持ちの中に、障害から免れている者の傲慢さが混じっていたことは否定できない。その不純さが、その男の一途さに危うさを感じさせる。自らのハンディを乗り越え他人たちと伍していこうとし、あるいは少なくともハンディによる割引を恥辱として考えて生きて行こうとする彼らに、私たちは適切な対応ができるだろうか。賛嘆や同情や蔑視ではなく、同等の人間とみなすという彼らの期待する役割を引き受けて、彼らに幻滅を与えることがないようにできるだろうか。

 むしろ、自分のハンディを他人たちと同様に受け入れ、それを前面に押し出しているような人間なら、反発はあっても危うさなど感じないだろう。自らの不幸を憎み、そうでない他人を憎み、同情を要求するとともに同情を与えられたことを恨むような、そういう人間は憐れまれるべきだろうが、それ以上の感情を引き起こすことはなく、私たちはかえって動揺せずに済む。

 私の眼の前にいるような人々には、私は試されているような気持ちになってしまうのだ。一方、彼をうらやむという気持ちも私にはあった(やはり傲慢さが底にあると批判されるだろうし、彼と状況を取り替えるかと問われればひるむだろうが、それでも)。彼にとって問題は障害であり、それは疑う必要もない敵であり、確かめる必要もない目的であり、人生は初めから意味づけられている(のだろう)。

 可能性があり過ぎること、いや、可能性があると思い過ぎることが、人を迷わせ悩ませるのだろうか。思い切って限定すること、断念することが、人生において成功(あらゆる意味において)することの鍵なのだろうか。しかし、未来は不確定であり、いずれにせよどれかの可能性に賭けざるを得ない。その決断を自分以外の誰か(運命のようなものであってもいい)がしてくれるなら、結果が悪くても自分ではなくそいつを責めることができるのだが。

 図書館は午後八時に閉まる。貸出しの締め切りはその少し前なので、借りる本があれば手続きを済ます。貸し出された本には黄色いシールが差し込まれていて、ロッカー室へ入る前に受付で引き抜いてもらう(勝手な持ち出しを防ぐための、コンピューターが導入される以前のローテクなシステムだ)。暗い街を梅田までまた歩き、地下街で夕食を済ませてから電車に乗って帰る。それがその頃の私の日課だった。

 家の外の話し声で目が覚めた。時計を見ると既にひる前だった。話し声は近所の若い主婦たちが集まって騒いでいるのだ。彼女らは生協の共同購入をしていて、届いた品物を路上で分け合っている。当番の者がメモを読み上げ、ねぎは誰々に何わ、豆腐は誰々に何丁とか、分けていく。ときどき勘定が合わなくなり、検討したり思い出そうとしたりするために手順が止まる。たわいもない議論が執拗に続く。わっと笑い声が起こったり、そうよ、そうよと押しつける(しかし険悪ではない)大声がする。

 私は寝床の中で聞くともなしにそれらの声を聞いていた。昨夜は勉強に関係ない小説を読んで夜更かししたため寝過してしまった。だが、起きねばならない時刻が決まっているわけでもない。このまま寝ていても誰かが文句をつけるわけでもない。図書館に出かけねばならないとは思ったが、おっくうな気持ちがある。毎日毎日図書館の陰気な部屋で時間を過ごすのに嫌気がさして来ていた。

 目がすっかりさめると、寝たままでいるのも退屈になり寝床から出た。空腹感はないが食事をしなければならない。三度三度の食事をするのも面倒になってきている。パンとコーヒーで朝昼兼用の食事を済ませながら、今日は何をしようかと考える。図書館に行くのはやめにする。一日ぐらい欠けたところでどうってことはないはずだ(だが、そういう気持ちが高じてしまって無為な生活に落ち込んでしまうのも怖かったので、明日は必ず行こうと誓った)。

 食事を済ますと、家にいても仕方がないので、あてはなかったが外へ出た。主婦たちが集まっていた場所にはもう誰もいなかった。住宅街の中の曲がりくねった道を適当に歩いた。この辺りは元は丘陵だったらしくて、小さな上り下りがある。今日は日があり風もなく歩くには快適だ。小さな池に出てそこからやや長い上り坂になっている。登りきったところで振り返って景色を眺めた。池の周りは葉を落とした木と常緑樹が混ざり合った雑木林になっていて、何も生えていない狭い田が横に広がり、その向こうの斜面には家が積み重なるように不規則に建っている。家々の上には薄い色の空が広がっていて、小さな雲がほんの少しあるだけだった。

 明るいけれども何となく午後の陰りが感じられるその風景を見ていると、浮浪という言葉が浮かんできた。まともな人間ならこんな時間にこんな場所で景色を眺めていたりはしない。

 何でもできるのに、何もすることがない。

 あれほど嫌だった職場がなつかしく思える。何てことだろう、もう後悔しているのだろうか。ある程度予想したこととはいえ、こんなに早くまいってしまうのはショックだった。孤独には耐えられる、むしろそれを好む性格だと自分のことを評価していたのに、職場の人間たちと会話したいと痛切に思う。

 ちょっと距離はありそうだが千里中央の方へ行ってみようと思いついた。千里中央のさらに向こうには今は公園になっている万博会場跡地がある。この辺りはどこか分からないが、東北の方を目指して行けばたどり着けるはずだ。

 私が就職したその翌年に大阪万博が開催された。会場の千里丘陵の竹林が切り開かれてパビリオン群が建設された。建築物には塗料がつきものである。塗装の指定を受けるためやアフターサービスのために、セールスマンは建設中の会場に出入りしていた。新入社員であった私は大阪営業所に配属されて、使い走りとしてではあるが、ときどき現場へ行くことがあった。どでかいアメリカ館やソ連館、工夫を凝らした企業館、小さな国のつつましいパビリオンなどがあわただしく建設されている雑然とした広い敷地を、目的の建物を探してうろうろした。

 あるとき、フランス館の建築業者から、色が合わないというクレームで至急に誰かを寄こすように言ってきた。あいにくセールスマンは皆出ていて、残っていたのは私だけだった。色見本を持たされて私が送り出された。フランス館の装飾として人の形をした青いプラスティック板が使われ、その色に合わせて壁を塗るのだが、二つの色が合っていないとフランス人の監督が文句を言っているらしい。壁に使われるエマルジョン塗料ではプラスティックの光沢が出ないのは当然なのだ。そのことを説明し納得してもらわなければならない。現場に着くと中年のあまり背の高くないフランス人の男の前に連れて行かれ、女の通訳を通じて話をした。私は用意した色見本とスレートの塗り板を示して、事情を説明した。フランス人はすぐには納得しなかったが、私は無理だと押し通した。最後にフランス人は黙って私をにらんだので、わたしも(誠実な表情で)にらみ返した。結局彼が折れた。

 建設中に何度も現場に通ったので、開催されてからは万博に行きたいとは思わなくなっていた。一度だけ、営業所の連中と業務が終わってから行ったことがある。パビリオンには入らずに会場をめぐっただけだったが、ここはうちの塗料を使っているのだと成果を誇りあった。

 入社早々の私にとって、万博という国家的事業にほんのわずかなりとも寄与したというのは、仕事への励みになり、自慢にもなった。そういう場所をもう一度見てみたくなったのだ。

 千里中央に着いたときはいささか歩き疲れて、喫茶店にでも入って休憩しようと思った。ターミナルの建物群に入ってみると、広場の一画で美術系の専門学校の卒業作品展をやっていた。テーマを統一した広告風のイラストや、提案をもり込んだ建物の絵などを私は興味深く眺めた。才能を感じさせるものもあったが、発想が与えられた地平をぬけ出ていなかった。新興の学校であるだけに試みの新しさには抵抗はないらしい。いや、時流の尖端を走ることを校風にせねばならないのだろう。それだけに、風俗を超える切実さに欠けていた。

 服飾デザイン専攻(だと思う)の学生たちによるファッションショーが始まった。雨具がテーマで、透明や青色のビニールらしきものを様々に切りきざんではりつけたものだったが、色と形の鮮明さに欠けて貧弱に見える。それに、ひとごとながら私が危惧したのは観客が少ないということだった。ああこれはたまらない、みじめなことになると私は思い、逃げ出そうとした。しかし、自らモデルとなる学生たちが若い娘だったし、肌を露出しそうな気配だったので、少し見てみることにした。演台のバンド演奏にのって娘たちは踊りながら観客と同じ平面を歩いた。やっぱり駄目だ。意表をつくような姿でも、ガキやおばさん相手ではさまにならない。一人負けん気の強そうな娘がいて、ことさら元気に振る舞うのがけなげだった。

 けれどもそのうち娘たちは興に乗り出してきた。彼女たちは学校に通っている間、デザインを習うのと同じかそれ以上の労力を踊りを覚えるのに費やしたにちがいない。彼女たちは自信に満ちてきた。私は観客たちが引きつけられているのを感じた。私は驚いてしまった。最初は彼女たちも不安であり、観客の状況を見て失敗を予想したかもしれない。彼女たちがそのことにこだわれば、必ず失敗しただろう。ところが、彼女たちは誰に見られようがベストをつくす態度に出たのである。

 観客たちにしても自分達の数の少ないことが負担であった。この負担をさけるにはショーに対して冷淡になることだ。しかし、彼女たちは観客の負担を取り払った。観客に協力を求めようとはせず、彼女たち自身の責任でショーを遂行した。

 あの自信はどこからくるのだろうか。彼女らの若さのせいか。自分の容姿に対する自信なのか(美人に見えたのはショーのための化粧が濃いせいかもしれないが、スタイルがいいのは確かだった)。彼女たちが精神のこのような機微を知っていたはずがない。それとも彼女たちは人生の知恵として、困難というものは自らの内にこそあるとでも既に悟っているのだろうか。私は踊り続けている娘たちを祝福した。

 私は少し元気をもらい、少し明るくなって再び歩き出した。

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