井本喬作品集

震災と犬

 阪神淡路大震災のゆれ方については多くの証言があるが、私はよくおぼえていない。目覚めたのが多分最初の上下動だったのだろう。何も見えない暗闇の中、音を伴ったゆれが続く。音は物が落ち、ガラスが割れ、家屋がきしむなどの合わさったもののようだった。ベッドに横になったまま動けず、意味にならない声を上げた。

 ゆれがおさまると、母の寝ている部屋へ行き、フトンの上に倒れかかっていたタンスを起こして母を自由にする。母は額と背中に軽い傷を負っていたが、そのときは気づかなかった。

 懐中電灯で家の中を見ると、壁に取り付けた棚のものがほとんど落ち、台所の棚が倒れて中の食器が飛び出し割れていた。壁土ですべてがざらざらしている。私の部屋のタンスや机、本棚は倒れていなかったが、落ちた本の一冊が本棚の下にはさまっていた。本のつまった重い本棚が飛び上がり、落ちてきた本を踏んだのだ。庭に面した四枚のガラス戸のガラスはみな割れ、戸は動かない。

 とりあえず落ち着ける場所を確保するために片付けをしているうちに、明るくなってきた。外へ出てみたが、誰もいず、家々も静まり返っている。被害を受けたのは古くなった我が家だけなのかといぶかしく思う。むろん停電しているので、携帯ラジオを聞きながら、片付けを続ける。隣家と声をかけあうこともなく、また、警察、消防、その他の行政機関の声や姿もなく、不思議に孤立したままで時は過ぎていく。

 私は宝塚市に住んでいた。携帯ラジオの情報では神戸の被害が大きいようだ。電話は通じたので大阪の勤務先に電話してみると、ゆれは激しかったが被害はないとのことだった。通勤に使っている阪急電車は止まっていて、しばらくは出勤できそうにない。

 水道、ガス、電気が使えないので食事を作れないが、食べようと思う余裕はない。屋根瓦の一部が落ちているのでビニールシートが必要だと思い、車で近くのDIYショップに買いにいくことにする。この近所では倒壊した家は見当たらないが、多くの家で瓦が落ち、見た目では分からないが傾いた家もあるようだ。五百mほど離れた一七六号線の南側では被害が激しく、死者が出たことを後で知った。

 車は結構走っていた。道路に被害はなさそうだが、一か所水道管が壊れてアスファルトの亀裂から水が流れていた。信号の消えているところでは渋滞が起こっていた。コンビニに人が集まっているのでのぞいてみるが、弁当、おにぎり、パン、飲料水類は売り切れている。DIYショップは開いていなかった。帰りに近所の雑貨屋でスポーツドリンクのペットボトルを買って帰る。

 電気はその日のうちに回復、暖房は可能になった。カートリッジ式のコンロでもちを焼き、ジュースを飲んで夕食を済ます。テレビは神戸の惨状の空撮映像を流し続けている。

 翌日朝一番にDIYショップへ行く。水が欲しかったので、昨日見た水道管の破裂から流れ出ている水が使えるのではないかと期待したが、既に水は止まっていた。DIYショップの門の前には開店を待っている人が数人いた。店員が現れ、店内には入れないが、建物前の広場へ災害対策用の商品のみを持ち出して売る、と説明する。商品の整理のため開店時間が遅れる。

 だんだん集まってくる人が増えて門の前が混雑するので、客の一人の男がみなを並ばせた。われがちにならないために順番に受け付けるようにと、男は門から販売場所までの誘導の方法まで店員に指示した。しかし、開門して商品の前へ行くと列は崩れてしまう。ポリタンク(一人二個まで)、ブルーシート、ガムテープ、段ボール箱を買った。帰りにコンビニに寄ってみるが、やはりパン、おにぎりなどはない。商品は入ってくるようだが、すぐ売り切れてしまうのだ。

 屋根に登ってブルーシートを貼る。隣の家の屋根では、大工らしい男が二人、やはりブルーシートを貼る作業をしている。その一人がやり方を教えてくれた。ブルーシートの穴に結んだひもの先に五寸釘をつけ、残った瓦の下に差し込んで固定する。

 壁からずれ落ちかけている備え付けの棚は剥がしてばらした。壊れた食器は段ボール箱に入れて、棄てるまで置いておく。南側の私の部屋の壊れ方がひどく、柱がずれて壁との間に隙間ができていた。ガラスのない動かない戸の枠を外し、動く網戸にブルーシートを貼った。

 線路を越した地区は断水していなかったので、もらい水する。一週間ほどして水道が回復、その頃になって給水の連絡の広報車が来るようになる。(まだ断水しているところも多い。)二週間ほどしてガスが回復した。

 職場の同僚の竹中の家はJR六甲道駅の南東にあった。竹中は母親をなくしたばかりで二階建ての家に一人で住んでいた。地震の起きたとき竹中は一階で寝ていて、ぐるぐる回るような感覚だったという。地震がおさまってから辺りの様子をうかがったが、真っ暗で何も分からない。寝ていた空間は無事だった。その日はたまたま勤務が休みだったので午前三時頃まで起きていて眠く、また寝てしまった。起きたのは七時過ぎだった。

 明るくなった家の中を見ると、家具は倒れて物が散乱し、食器は割れ、テレビはふっ飛び、電話はどこかへいってしまっていた。玄関がゆがんで開かないので、横の枠をはずそうと苦労していると、通りがかりの人が外からはずしてくれた。外へ出てみると多くの人が路上にいた(余震を恐れて家から出ていたのだろう)。二軒隣の木造アパートが崩壊していた。竹中自身の家は傾いていた。隣や向かいの家も同じように被害を受けていた。向かいの家の間の道の隅に寝間着姿の人が倒れていて顔に手ぬぐいがかけてある。その道を入ったところにもアパートがあり、そこは高齢者が多く、たくさん死んだという話し声がしていた。「大阪も全滅や」と言っている人がいた。

 こういう事態に会うと、すぐに状況を受け入れることがでないらしい。そのとき竹中に思い浮かんだのは、母親が死ぬ前に家の建て替えについて交わした会話で、地震でも起きてつぶれたら建て替えようという母親の言葉だった。これで建て替えができると竹中は思った。現実と意識の齟齬から、竹中のちぐはぐな行動が続いた。家の中に戻った竹中は、何から始めていいのか分らず、とりあえず犬を散歩させることにした。竹中は二匹のシベリアンハスキーを飼っていた。いとこが子犬を貰ったのだが、彼女がマンション暮らしだったので、竹中が預かった。預かり続けているうちに犬たちは大きくなった。散歩の時に急に走り出して竹中が引きずり倒されたことがあった。竹中を振り切って走っていった犬が猫をくわえて戻ってきたこともある。竹中の家は庭がないので玄関で飼っていた。地震の際はおとなしかった犬たちが散歩をせがんでいた。

 竹中は二匹の犬を連れて外へ出た。JR東海道線をくぐって山側(北側)を駅の方へ行った。災害の帯のようなものがあるようで、ひどく被害を受けたところとそうでもないところがある。西の方に煙が上がっていた。救急車のサイレンが聞こえる。六甲道駅はひしゃげたようにつぶれていた。駅前の広場では食料品などのスーパーの商品が道路に並べられ売られていた。広場に面したスーパーの建物も被害を受けているようだった。見てみると普段より高い価格がついていた。

 散歩から戻って犬を家へ入れた。路上の何人かはかたまって、何をするでもなくたたずみ、世間話のような会話をしている。「神戸には地震はないはずや」という、言ってみても仕方のないぼやきが聞こえる。傾いている家の修復について話している人がいた。いますぐ引っ張ってまっすぐにすれば壊れずにすむはず。そういうことはどこに頼めばいいのか。「警察ちゃいますか」というのを聞いて、竹中は近くの派出所へ行ってみた。派出所には警官が一人いて竹中の話を聞くと「今はそれどころではないので、ごめんなさい」と答えた。

 ついでに竹中は家の近くの小さなスーパーへ行った。店の前にある公衆電話を使おうと思ったのだ。スーパーは閉まっていた。入口のドアを開けようとしていた中年男が「あかんな」と言って石でドアのガラスを割り、中へ入って商品(食品類)を取って行った。それを見ていた主婦らしき女たち数人も男に続いた。竹中は見習わなかったが、止めもしなかった。主婦がインスタントラーメンを持っていったのを見て、お湯はどうするのだろうと思った。電話はつながらなかった。

 竹中は小学校へ行ってみた。グラウンドは人でいっぱいだった。教師らしい男女二人が「お子さんのいる人を優先します」と言って牛乳とパンを配っていた。竹中は牛乳だけもらって飲んだ。ここでは落ち着けそうもないので家に戻った。余震の続く中、家の中を片付けた。冷蔵庫のなかにあったジュースや缶詰で食事をした。もう一度電話をかけにスーパーへ行った。公衆電話には人が並んでいたが、十円玉が詰まってかからない。みなが諦めたので、竹中が電話器をゆすってみると通じるようになった。職場につながったので現状を報告し、電話に出てきた友人に約束を断った。今夜一緒に映画『スピード』を見に行くつもりだった。友人は分っていると答えた。竹中が電話をかけているうちにまた人が並んだ。

 夜を過ごす場所を探す必要があった。傾いた家は危険だった。夕刻に竹中は犬を二階のベランダにあげて、家を出た。みんな避難したのか外には誰もいなかった。御影公会堂へ行ってみた。既にうす闇になっていて、建物の中は真っ暗だった。竹中が一階のホールに入ってみると床にシートがしいてあり、人が横たわっていた。様子がおかしいので一人の手を持ってみたら冷たかった。死んだ人たちだった。暗くて何人ぐらいいるのか分らない。竹中は二階へ上がった。二階には大勢の人がすわっていた。懐中電灯の光がほの暗い照明になっていた。

 竹中の入れそうな余地はないので外へ出た。そこで隣家の人に会い、市バスの車庫へ行こうと誘われた。石屋川車庫へ行ってみるとバスが並んでいて、職員が「避難所がいっぱいですので、今晩はバスで寝られます」と誘導していた。竹中はバスの座席に座って夜を過ごした。座席は埋まっていた。隣の人がパンをくれた。バスはエンジンをかけて暖房されていた。

 竹中はよく眠れなかった。座ったままの姿勢でもあり、大災害の中での今日一日のことで興奮もしていた。外でドラム缶に火をたいてあたっている人がいた。トイレの水が流れないのでみなどうしようかと困っていた。もうすぐしたら臨時トイレが設置されると誰かが言っていた。

 十八日朝七時頃、うとうととしていると運転手が乗ってきて、「このまま神戸大学へ行きます」と言ってバスを動かした。何が起こっているかよく分からないうちにバスは近くの神戸大学まで竹中たちを乗せて行った。神戸大学は山の手の高台にあり、ほとんど被害はなく、電気や水道は無事だった。体育館が避難所になっていた。

 その日は一度家に帰った他は体育館で過ごした。そこにあった段ボールをしいて座った。朝、昼と食事はしなかった。三時頃、隣の老夫婦がおにぎりとペットボトルに入ったお茶をくれた。五時頃になって、学生がおにぎりを一人二個ずつ配ったが、全員には行き渡らなかったようだ。「風邪を引いている人はいませんか」という呼びかけがあり、医療の救援が始まっていた。電話にはたくさんの人が並んでいて、竹中も職場にかけたがつながらなかった。その夜は段ボールをかぶって寝た。

 十九日朝、おにぎりの配給があった。竹中は隣の老夫婦に声をかけておいて、家に帰った。途中、石屋川の堤防にテントが並んでいた。竹中は避難の人たちが張ったテントかと思ったが、早々と駆け付けたボランティアたちのテントだということを後で知った。その後テントは数が増え、元気村と名づけられて幅広い支援活動を行なった。竹中も引っ越しなどの世話になった。

 家で片付けをし、昼過ぎに職場に電話をかけに行った。職場から救援の車を出すということだった。竹中はたまたま家にあったヘルメットをかぶり、懐中電灯を持って瓦礫の山の上で夕刻まで待ったが車は来なかった(車は渋滞でたどり着けず途中で引き返した)。そこへバイクに乗った同僚のKが現れた。Kは法人の顧問をしている大学教授の家へ行った帰りに竹中の家に寄ってみたのだった。Kは竹中を大阪へ連れて行こうとした。竹中はもうしばらくここに残るつもりだと断った。神戸大学の体育館で隣にいた老夫婦に後を頼んでいたので、無断で去ってしまうのも気が引けた。Kは持っていたケータイで職場にかけ、竹中に話をさせた。上司に説得されて、竹中はKのバイクの後に乗って神戸を離れた。これだけの災害なのだから被害は相当広がっているだろうと思っていた竹中は、大阪が震災とは無関係なように平常通りのにぎわいを見せているのにショックを受けた。

 みなは竹中を救出したと思っていた。しかし、竹中のつもりでは、しばらく避難所にいて、傾いた家の処置などを考えたかった。大阪にいては交通手段の途絶えた神戸の家に行くことができない。現地にいないと情報も入らない。そして、犬の面倒も見なければならない。

 竹中が大阪へ行ってしまったので、犬たちは傾いた家の二階のベランダに取り残された。私は二十日に竹中と連絡をとって、二十一日に一緒に彼の家に行くことにした。犬を何とかしなければならないが、竹中一人ではどうにもならないだろうと思ったからである。

 当日、私たちは十二時に大阪の梅田で待合わせた。阪急電車の宝塚線は震災当日は止まってしまったが、翌々日から全線運行していた。梅田へ出るまでの沿線の家々の所々の屋根の瓦が落ちている。今度の地震では(他の地震のことはよく分らないが)、道路一つ隔てただけで被害の様相が全く違うということがあった。隣同士でも違っていた。活断層の位置などに原因はあるのだろうが、建物の構造も大きな要因の一つだった。あたかも狙い撃ちしたかのように、古い家がやられている。

 私はおむすび、水筒、飴をデイパックに入れていた。竹中は世間知らずのような一面があるので、みながお節介に近い世話を焼く。今回も同僚たちが装備を整えて、カロリーメイトとミネラルウォーターと菓子を詰め込まれたリュックを背負い、財布等を入れたウェストポーチを腰にまいていた。重過ぎないかという私の懸念に竹中は大丈夫と答えた。

 神戸に向かう鉄道は、JR、阪急、阪神ともみな不通になっていた。竹中の家は灘区にあり、JR三宮駅から西へ二駅のところ、距離は五㎞弱ある。大阪方面の西宮からは約十㎞。道路は渋滞で車はとても使えない。どっちにしろ歩かなければならないが、天保山から船で神戸港へ行き東へ戻る方が距離は短いだろうと、地下鉄に乗って大阪港をめざした。本町駅で下りて中央線に乗り換えようとしたとき、神戸行きの船は本日分は満席とアナウンスがあった。仕方ないのでそのまま梅田に引き返した。梅田で駅を出ようとしたが、地下鉄の自動改札機は入った駅の切符では出られないようになっている。改札口の駅員に事情を話して出してもらおうとしたら、いったん本町駅まで行ったなら帰りの分の切符を買わねばならないと言う。それはそうかもしれないが、この緊急時に何を杓子定規なと腹が立ち、別の改札口で何も言わずに切符を渡して出てしまう。

 梅田から阪急電車で西宮北口駅へ行く。電車はさほど混まず、服装で被災地に向かうと分かる人達がほとんど。ジャンパーか防寒用の上衣、スニーカーのような歩きやすい靴、荷物は背負っている。異常な世界へ入っていくのだという雰囲気は西宮北口駅でさらに明確になる。この駅からは、三宮、宝塚、今津の三方へ線路がのびているが、全てが不通になっている。梅田から着いた人々は駅の外に出る他はない。駅員の誘導に従い改札口を抜け、人々の流れに続く。

 すぐに崩壊した木造家屋に出くわす。国道二号線に出、人々の列から分岐してさらに南下し四三号線をめざす。道は緊急のマークをつけた車で渋滞している。時おり警察の車が混じっている。四三号線にも人の流れがある。沿道の家々は大なり小なり壊れていて、いちいち関心を引くことなく、全体の破壊の雰囲気を成り立たせている一要素にすぎなくなる。人々はただ歩くことに専念している。

 阪神高速道路の横倒しの現場に着いた。六百mに渡ってT字型のコンクリート支柱が折れ、倒れた路面が波を打ちながら斜めに立っている。テレビでさんざん見たせいか、驚きはあまりない。カニのハサミのような腕を持った機械が路面を切り取っている。写真を撮っている見物人が数人いる。車道が通行規制されて通れないのでバイクが歩道を走っている。倒れた高架道路に沿って歩き、倒れなかった部分の下を横切っている歩道橋に登って全体を眺めた。

 写真を取っている人を私は批判しようとは思わなかった。私たちがわざわざ四三号線まで出たのも、この壮大なスペクタクルを見たかったからだ。そのとき私は思い、今でもその思いはあるのだが、震災の記念碑としてこの横倒しになった阪神高速道路をそのままにしておいたらどうだろうか。私たちは忘れっぽい。震災の被害の姿が残されていれば記憶を保持する助けになるだろう。その他にも倒壊したビルや傾き崩れた家屋を、いくらかでも残しておいたらどうだろうか。自然災害の恐ろしさを知らしめるにはこれほど効果的なものはない。それらを観光資源として使えばいい。興味本位でもかまわないから、神戸への集客に使い、復興にも役立たせればいい。それらは原爆ドームに匹敵する衝撃となって、見た人の心を打つに違いない。

 そこから北上して二号線に出る。この時間なので帰る人もあるのだろう、人の流れは東西両方向に向かっている。疲れたのでレストランの駐車場とおぼしき空間に入り込み、座っておにぎりを食べる。建物の片付けをしていた人がテープで駐車場を囲い始めた。「‥‥入ってこられたらかなわん」という会話が聞こえる。かまわず居座る気でいると、「いいですよ、遠慮なく使って下さい」と言われる。私たちまでは見逃してくれるらしい。どこまで行くのかといった会話を交わし、出発に際して礼を言うと励ましの声をかけられる。今は人々はみな優しい態度しか取れないのだ。

 さらに西へ行くと二号線は封鎖され南側の脇道を取らされる。車も迂回して渋滞している。交通公園という所では展示の機関車が倒れていた。六甲道の竹中の家に着いたのは午後四時前だった。

 竹中の家はJR東海道線の高架と国道二号線の間に位置していた。狭い道がおおまかな碁盤目状に区画を作っており、竹中の家は東西の道に北面しているのだが、角のアパートが崩壊してその道をふさいでいた。アパートの残骸は道の反対側に止めてあった車にのしかかっていた。誰かが車のボンネットに上れるように瓦礫で段を作り、そこからアパートの残骸を乗り越える道を作っていた。私たちもそこを通って竹中の家の前へ行った。

 竹中の家は、今度の震災で傾いた多くの二階建てと同じように、二階部分を水平に保ったまま、一階部分が斜めになって、右隣の家に寄り掛かっていた。隣の家も同じような形で崩壊したアパートの方へ傾いていた。二頭のシベリアンハスキーは二階のベランダにいた。犬たちは竹中の来訪を喜びヒーヒーと鳴き、狭いベランダの中を動き回った。竹中は破壊された一階から二階へ上り、ベランダを掃除し、餌を与えた。

 私は空いたペットボトルを持って水を探しに行った。南北の道路に沿って溝があり水が流れていた。溝は幅は狭いが深く、道路とはガードレールで区切られている。少し北へ上り、足がかりのあるところで溝の下へ下りた。水は溝の中央を細く滑らかに流れていた。断水状態なので生活排水ではなく、山からの水だろう、きれいに見えた。水をペットボトルに入れて戻り、ベランダの竹中に放り上げて渡した。ひしゃげた一階は勝手を知っていないと危なそうだし、壊れた家に入り込むというのはプライバシーを犯すような気がしたので、中に入るのは遠慮した。

 裏の家が崩壊し、その二階部分が竹中の家に倒れ込んでいるらしい。そのせいで自分の家が傾いたと竹中は思っていた。一方で、竹中の家が寄りかかっている隣家の人は、竹中の家のせいで自分の家が傾いたと思っている。そんなことを隣人が言っているのを竹中は塀越しに聞いたそうだ。左隣は鉄骨の三階建で無事だった。向かいの家は傾いており、その隣の家は外見からは分からないが、誰も残っていないようなのでやはり被害を受けているのだろう。竹中が家の中で作業をしている間、私は辺りを歩いてみた。竹中の家のある地域は被害が大きかったところで、木造家屋はほとんど被害を受けていた。家々に人の気配はなかった。

 暗くなるのは早かった。とりあえずこれ以上のことは出来ない。こんな大きな犬を連れて被災地を歩くわけにはいかないし、たとえそれが可能であったとしても電車に乗せて大阪まで連れていくことは出来ない。私たちは竹中の持参したカロリーメイトを食べ、ミネラルウォーターを飲んだ。竹中は家から持ちだす書類をリュックにつめた。灯りがないため手元が見えなくなる。

 犬たちは私たちが去るのをさみしがって鳴いた。私たちは破壊された街を西宮めざして引き返した。昼に比べると少ないが、人通りはまだあった。途中、ボランティアによる炊き出しや、お握り、パン、飲み物のサービスがある。立ち止るのがおっくうなので紙コップの飲み物だけをもらったが、それは水だった。水なら持っていたので、暖かいお茶を期待したのだが、それは贅沢だったろう。

 二号線を今度は北に迂回させられる。家々の被害が激しい。惨状に疲労と寒さと暗くなった心細さが加わって、陰うつな気分になる。崩壊した家々の間を押し黙って歩く人々。戦場を逃れる避難民のようだ。自分たちを守ってくれるべき機構は消え失せ、財産を無くし、食べるものさえ得られる当てがない。頼れるのは自分自身だけ。昨日まで確かだと思えた社会が虚構にすぎなかったことを思い知る‥‥。私たちには被災地の外に安全な場所がある。この窮状も今ここだけのことだ。しかし、難民と呼ばれる人々の気持ちが少しは分かる様な気がする。私たちの安全だって絶対ではない。より大規模な災害や社会経済の崩壊で私たちが難民となる可能性は常にある。繁栄は脆弱な基盤の上に危うく保たれているにすぎない。

 二号線に戻る。サイレンを鳴らしたいろいろな車がひっきりなしに西へ東へと走っていく。西宮北口に着いたのは九時過ぎだった。

 むろん、二匹の犬をそのままにしてはおけない。神戸への鉄道は止まったままなので、彼等の世話をしに通うことは出来ず、放っておけば餓死してしまうだろう。かといって、彼等を解放して野犬化させるのは危険だ。早いうちに大阪へ連れてこなければならない。幸い、一時的にではあるが引き取ってくれるところが見つかった。

 二号線も四三号線もずっと渋滞が続いている。車で行くのは時間がかかりそうだ。しかし、歩いて連れてくるのはそれ以上に時間がかかるうえに、歩行者に迷惑をかけることになる。

 三日後(二十四日)、竹中とともに私の車で宝塚から神戸へ向かった。宝塚を通る一七六号線は神戸を迂回するルートの一つだが、阪急中山駅付近でマンションが崩壊してふさがれていた。さらに一七六号線のバイパスである中国自動車道の側道の橋が荒牧(伊丹市)で壊れていた(中国自動車道そのものは橋脚が破損して通行止めになっていた)。それらに妨げられて脇へ流れてくる車で道は渋滞していた。

 宝塚から二号線へは様々なルートがあるが、一番神戸に近いところへ出るのは逆瀬川から夙川へ抜ける道だ。この道は六甲山の東端をかすめて西宮市に通じている。逆瀬川からの道は混んではいなかった。夙川への分岐まで来てみると、東六甲ドライブウェイへ通じる道が閉鎖されていないので、行ってみることにした。神戸は南を海、北を六甲山によって限られ、東か西からしか入れない。しかし、六甲山をトンネルで南北に貫く道や、六甲山の上を東西に走っているドライブウェイから神戸へ降りる道もある。それが使えれば早く着ける。船坂との分岐には鉄製の障害物が置かれて六甲山への道が塞がれていた。しかし、車が通れるぐらいの幅が開けてある。迷っていると、その道を車が下りてきて、通れると教えてくれた。

 路面に崩れた石が落ちていたところもあったが、走行に支障はなかった。芦有道路(トンネルで有馬と芦屋を結ぶ)の宝殿入口は閉鎖されていた。さらにドライブウェイを上る。二台の車とすれ違い、一台の軽乗用車を追い越した。最高峰の直下の広場に自衛隊の車が停まっていた。最高峰には米軍の管理する通信関係の施設がある。

 別荘、ホテル、観光施設などのある一帯を抜け、神戸へ降りる分岐である丁字が辻に着く。丁字が辻には表六甲ドライブウェイ方面通行止めの表示があった。ここで下りられなければ、西六甲ドライブウェイを西走して再度山ドライブウェイで中央区へおりるか、それも駄目ならさらに西走してどん突きの四二八号線(有馬街道)まで行って兵庫区へ下りるかだが、いずれも西の方へ行き過ぎてしまう。表六甲ドライブウェイならちょうど灘区の神戸大学のところへ出られる。行けるところまで行ってみるつもりで下りる。何の障害もなくあっけなく六甲トンネル道路との合流点に着き、出口の料金所に人はいなくてそのまま通り過ぎ、車の流れの中に入り込む。そこから竹中の家まですぐだった。

 思いの他早く着いたので、ゆっくり仕事が出来た。犬たちを二階から下ろして散歩に連れて行く。竹中が新しい引き綱を買ってきていた。二人で一匹ずつ連れて辺りを一回りした。犬たちは久し振りの散歩に喜んで強く綱を引く。JRの高架は回復工事をやっていた。山の手道路は二号線・四三号線を迂回する車が続いている。川の土手の公園の土に大きな亀裂があった。犬たちは小便をし、糞をした。糞はそのままにした。この異常事態に糞の始末はしなくていいような気になっていた。

 散歩の後、しばらく犬を表に出しておくことにして、壊れたアパートの向こうの通りのガードレールにつないだ。二匹のうち一匹はストレスのためか毛が抜け替わりつつあった。竹中が家の整理をしている間、私はブラシで犬の毛を梳いた。たくさんの毛が抜け、毛のかたまりが落ちた。かたまりのいくつかは風に飛ばされ散っていった。主婦らしい二人連れがアパートの残骸を越えて行くときに、毛のことで文句を言った。私は毛をかき集め溝に捨てた。捨てた後で溝を汚すべきではなかったと思った。いかに破壊された街でもそれを汚す理由にはならない。

 ヘルメットをかぶり、ぴっちりした青い制服らしきものを着た男が現れ、話しかけてくる。警視庁から派遣された救助隊員とのこと。二階に放置された犬がいてかわいそうだから下ろしてやってくれ、という通報があったらしい。私はそれはたぶんこの犬たちのことで、今日連れ帰るつもりだと説明した。彼は犬好きらしく、何のおそれもなく頭をなで、本当は警察犬の係になりたかったと話す。犬のためにどこからか見つけだした容器に水をくんできてくれる。水は既に与えてあるのだが、私は黙っていた。少し前に他の犬にも水を与えたらしい。犬を放すわけにいかないから、たぶんその犬はつながれていたのだろう。もしこのシベリアンハスキーを二階から下ろすことになったとしても、どこかにつないで水を与えるぐらいのことしか彼には出来なかったろう。

 やがて彼は本来の仕事に戻り、壊れたアパートの中に誰か残っていないかを調べだす。(遅すぎるし、系統だっていないと思える仕事だが。)他の二人の隊員を呼んできて、近所の人の話を聞き、たぶん全員脱出しただろうと判断して、次の現場へ去って行った。

 竹中は二階にのしかかられた一階に入り込み整理をした。今のところ勤務先が借りているアパートの部屋に住まわせてもらっているが、いずれどこかに住居を定めなければならず、取り出せるものを定めておこうというのだ。私は外で犬たちと一緒に待っていた。晴れていて風もなく寒さはさほど気にならない。

 竹中の作業が一段落して、傾いた家の前でたたずんでいる私たちに、女の人が話しかけてきた。年は三十代、化粧っけのない顔、ジーパンにジャンパーという震災スタイルのラフな服装。彼女は少し離れたアパートに住んでいたが、部屋のあった一階部分が押し潰され、本当に「身一つ」で脱出した。S女子校に勤めていて、今はやはり被災した職員達と一緒に学校に「合宿気分で」住み込んでいる。何も持ち出せなかったので電話賃さえ借りるしまつ。貯金通帳を再発行するにも身分を証明するものが何もなく、とりあえず運転免許証の再発行の手続きをした。今日は何か取り出せるかと来たものの、どこを探していいか分からない。逃げ出せたのだから、すき間があるはずだが、時間がたつにつれさらにひしゃげてしまったようだ。これでは泥棒も入れないから、そのままにしておいても安心であるが。

 異常事態は人々を親密にさせる。私達はお互いの状況を語りあい、惨状を嘆き、役立つ情報を交換したりして、長い間話をした。被災者を捕らえている不思議な非現実感(災害の大きさが自分の日常感覚には収め切れない)が私達を躁状態にし、私達の態度は明るいとまではいえなくても、乾いていた。

 車の後部座席に用意したビニールシートをしき、竹中と二匹の犬を乗せてもと来た道を引き返す。犬たちは落ち着かず、動こうとするので竹中は苦労する。車の中は犬の毛だらけになる。帰りもまた順調に走り、大阪へも早く着いた。

 大阪に一時預かってもらった二匹のシベリアンハスキーは、その後一匹は高槻に、もう一匹は奈良へと引き取られたが、両方とも扱いかねて、結局滋賀県の今津にある福祉施設で飼ってもらうことになった。震災の翌年の三月、竹中と私は犬の様子を見に、今津を訪ねた。

 犬たちは太っていた。施設の入所者が餌を与えすぎるらしい。犬たちは私たちを見て尾をふり、飛びつこうとする。だがそれは私たちを識別したわけではなく、誰に対してもする仕草のようだった。どちらかの犬が生んだ子犬(一匹だけ)が一緒にたわむれていた。

 私たちが去るときも犬たちは別に悲しそうでもなかった。震災直後の日々のことは、彼等の記憶にはもはや残っていないのだろう。私たちもまたいずれは。

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