帰天の桜
1
辺鄙な場所にあるその桜を見に行こうと思い立ったのは、車が事故で修理中だったため、たまには鉄道の旅もいいかもしれないと変な気を起したからだった。地方の寂しい駅に着いてみると、一日に二本しかないバスの最初の便はとっくに出ていて、次の便は夕方になってしまう。桜のある場所は駅から五、六キロほどあるらしいが、せっかく来たのだし歩けないこともなかろうと、よく考えもせずに駅を出てそっちの方向に向かった。アスファルトの道は徐々に山の中に入り、人家も途切れてしまう。木々はまだ裸だが、ところどころに山桜やつつじが咲いていてわびしい風景ではない。しかし、家を出るときは晴れていた空が低い雲に覆われて、冷たい風が吹きつけてくる。引き返そうかとも思ったが、もうだいぶ来たのでもったいない気持ちがあり、決断のつかぬまま歩いていると、ぽつぽつと雨粒が落ちて来た。あいにく傘は持って来ていない。これはまいった、どこか雨宿りのできそうな木の下にでも逃げ込もうと急ぐと、思わぬところに一軒の家を見つけた。ログハウス風のしゃれた造りなので別荘かもしれないと近づいてみると、看板があって軽食喫茶の店らしい。こんなところで客があるのかと不思議に思ったが、雨が本格的に降り出して来たので、これ幸いとばかりにドアを開けて中へ入った。
カウンター席に男が一人すわり、中の主人らしい女性と話している。私は窓際に三つ並んでいるテーブルの一つを選んで椅子にすわった。小さいけれど内装には気を使っている。たぶん趣味半分でやっている店なので、採算は度外視しているのだろう。客の男はかなりの歳のようだが、近所の農家の親父という風ではない。定年退職を機に田舎暮らしを始めた都会人か、わざわざ人里離れたところに仕事場を設けた芸術家なのかもしれない。そういえば、近くで芸術村の企画のようなものがあった記憶がある。この店はそういう連中を客に当て込んでいるのか。
女性が水を持ってきたのでコーヒーを注文した。女性もかなりの年配で、小柄で丸顔の愛想のいい人だ。窓から外を見ると風雨が激しく、いつになったらやむのか見当がつかない。これからどうすればいいのか分からないが、とりあえずはここを動けないので、出されたコーヒーを飲んで時間を過ごすことにする。
「どこから来られました」
カウンターの男が声をかけてきた。わたしは住んでいる都市の名を告げた。
「ほう、遠くから。で、やはり桜を見に?」
「ええ、そうです」
「ちょうど今が満開です。この雨でもまだ大丈夫でしょう」
私はうらめしげにまた外を眺めた。桜は大丈夫でも、私の方が見に行けないかもしれない。私の気持ちを察したのか男は言った。
「そのうち晴れるでしょう。しばらくここでお待ちになればいい。どうです、ご迷惑でなければ、その間お話し相手になりましょうか」
私は見知らぬ人と気安く話せるタイプではない。また、親しくもないのになれなれしくされるのも好きではない。だが、こういう状況で我を張るのもしんどいので、逆らわぬことにした。
「ええ、そうですね」
「じゃ、そっちへ移らしてもらいます」
男は自分の前にあったカップを持って、カウンターからテーブルへ移動してきた。
「今日は客が少ないから寂しくてね」そこで声を低め、「もっとも、いつも少ないのですが」
「ご近所にお住まいなのですか」
「近所といっても、車でないと来れませんがね」
表に停めてあった赤い小型車は彼のもののようだ。男はこの辺りでの生活の不便だがのんびりしていることをちょっと述べた後に、こう切り出した。
「あなたは、あの桜についての伝説はご存知ですか」
「伝説ですか。いえ、知りません」
「よろしければお話しましょうか」
訪問者にこれを話すことが彼の楽しみらしい。退屈を紛らわすにはいいかもしれないと、私は聞くことにした。以下は彼の話を私なりに脚色したものである。
2
天正七年の春のことである。丹波国多紀郡の街道を西へ急いでいる若い男がいた。荷をかついだ供を二人連れている。男の名は浅川信政といって、この地の領主に仕える武士である。山の木々は新芽を出し始めているがまだ緑にはなりきらず赤っぽい色に染まり、ところどころ白い斑点のように桜が咲いていた。峠を越えて川沿いの平地に入ってから、道の両脇に田や畑が増えてきて、働いている百姓の姿もあった。麦がだいぶ伸びている。川の蛇行に沿って尾根を一つ回り込むと、遠く山裾にへばりつくように続く街並みと、その頭上高い所に引っかかっているかのような城が見えた。帰天城とその城下町である。もっと近づけば、街道から見上げる山の上に天主の壁が日に照らされて白く輝いているのが分かるだろう。天空に突き刺さるようなその姿から帰天と名づけられたのもうなずけるように。
彼の屋敷は支配下の村の中にあった。城に行くのは明日以降のこととして、街道からそれて田畑の中の細い道をたどる。野良仕事の村人たちが彼の姿を認めて挨拶をする。屋敷は攻められたときの防御を考慮して山の麓に石垣を組んだ高台に建てられていた。門は開けられていて、前庭にいた奉公人が彼だと気づいて迎えた。父は出仕してまだ戻っていなかった。母に帰参の報告をしてから、体を拭き服装を整えて、父の帰りを待った。父の浅川忠信は帰天城の宿老として代々仕えてきた。当代の春山弾正にも信頼が厚い。
父の帰りを待つ間、信政は旅の記憶を思い返していた。初めての京都は彼に強い印象を与えた。度重なる戦乱で荒れ果てた京都も、織田信長の支配のもと、繁栄を取り戻していた。貴族や武士だけでなく、新興階級である町人たちも、この都の華やかさを支えていた。支配者たちの建物や衣服だけが豪華なのではなく、諸国の物産が満ち、豊かさが庶民にまで広がっていた。信政がふだん目にしていた田舎暮らしが、何とも貧相であり、しかもそのことに気づいておらず、世の中の動きから取り残されてしまっていることが痛感された。
若い信政は、土豪の下士としてこの片田舎で朽ちることに以前から飽き足らぬものを感じていたが、京での見聞は彼の野心をあおりたてた。信長の配下には卑しい身分から出世して将になった者が少なからずいると聞いた。戦国の世の習いでこの地方でも下剋上は当り前のことになっているが、狭い土地を切り取り合っているだけではどうにもならない。信長のように天下統一を視野に中央で覇権を手にする武将のもとで働けば、いずれは一国一城の主となるのも決して夢ではないと思えた。
忠信は日が傾いてから帰宅した。信政が帰っているのを聞くと、早速彼を部屋へ呼び、二人きりで対坐した。忠信はやや老いた風貌であるが、四肢はしっかりとし、壮年の頃の体つきを保っている。地方豪族に属する侍としては思慮深いところがあり、単に勇猛果敢なだけの周りの武士たちとはやや毛色が違っていた。
「ただいま戻りました」
「ご苦労だった。で、どうであった」
「上首尾でございました。明智殿にも直接お言葉をいただきました」
「ふむ、そうか」
忠信はそう言ったきり、考え込んだ。
「いかがいたしました。何か不都合でも?」
「殿がまた迷っておられる」
「と申しますと」
「お八重の方の一党がこちらの動きを察したようなのだ」
お八重の方は弾正の正室である。境を接する滝川氏から腰入れしてきている。春山氏も滝川氏も古くからの名家としてこの地方に君臨している波多野氏に帰属している。だが、浅川忠信を中心とする派は、新興の織田氏に依るべきだという考えを持っている。信政が秘かに会いに行った明智光秀は、織田氏の有力な将として、この地方に進出するために豪族たちへ帰属工作をしていた。
「滝川から何か言ってきているのですか?」
「波多野からも使者が来た」
「いよいよ合戦ですか」
「そうなるだろう」
「では一刻も早くしないと」
「殿はなかなか踏ん切りがつかないようだ」
「しかし、帰趨は明らかです。織田の勢いは違います。具足一つとってみてもきらびやかで、われわれのような田舎者の貧弱な装いでは恥ずかしいぐらいです。鉄砲も多数備えているようです」
「とはいえ、これは大きな賭けだからな。殿のお気持ちも分からんではない。ともかく、お前は明日ワシと一緒に出仕しろ。殿にご報告をせねばならん。では、もっと詳しく聞かせてくれ」
その夜、父子は深更まで話し合った。
3
翌日、信政は父と共に登城した。藩というような組織にはまだなっていないので、定期的な出仕が厳密に決められているわけではなく、必要に応じて登城することが多かった。信政は少し前まで小姓として城主に仕えていたので、そのときは城に詰めていたが、いまは無役に近い。天主は戦など非常のときに使われるだけで、普段主君の弾正が居るのは二の丸にある館だった。弾正は上機嫌で忠信父子と対面した。信政は小姓の頃からのお気に入りで、主従とはいえ気安い仲だった。旅の様子などを問いただしてかなりの時間を過ごした。当家に関わりのある公家を訪問することが信政の旅の名目になっていたので、持ち帰った京の土産も献上した。信政は父より先に弾正の前から退出した。
信政はそのまま下城はせずに、係りの者に都合を確かめてもらってから、お美緒の方の部屋を訪ねた。お美緒の方への土産もあったので、早い方がいいから直接渡すように弾正に言われたのである(もちろん正室のお八重の方への土産もあるのだが、そちらにはそんな気軽な渡し方はできない)。弾正寵愛のお美緒の方とも、信政は気心の知れた仲だった。
お美緒の方は弾正の側室であるが、彼女が城に上ることになった経過が変わっていた。彼女は農家の娘であった。(彼女の家はあなたが見に来られた桜のある場所にあったと言われていますが、当時はまだその桜はありませんでした、と語り手は注釈した。)彼女は、平凡な表現ではあるが、絶世の美女だった。そのことを彼女自身も承知していて、自分の美をめでるのが近在の貧しい農家の男たちの誰か一人になるだろうという将来に絶望した。思い余った彼女は、村の寺の住職に悩みを訴えた。住職は、一応は諭したのだが、やはり彼女の美しさが埋もれてしまうことに哀れを感じたのか、結局は城に奉公にあがる斡旋をしてくれた。城で下働きをしているときに、その美しさが城主の目にとまり、側室になった。彼女が弾正を籠絡した手並みから、単に姿が美しいだけの女ではないことが分かる。
かといって、お美緒の方が弾正に誠実ではなかったというのではない。歳も近いこともあって信政には親しげであったけれども、弾正を嫉妬させるような振る舞いは控えていた。弾正は、信政がお美緒の方に忠実であるのは弾正の寵愛を尊重しているからだと信じて、二人の仲を疑うようなことはなかった。かえって、若い二人が惹かれあうのはやむを得ないことだとある程度のことは許し、幾分かは助長するようなところもあった。鷹揚なところを見せたかったのだろうが、お美緒の方に媚びているとも取れた。
信政がお美緒の方の美しさに心を動かされているのは事実である。しかし、主の室に手出しをする気はなく、それゆえ弾正を嫉妬することもなかった。お美緒の方から気に入られたからといって、その気持ちは変わらなかった。お美緒の方も信政に過度に親しげにするようなことはなく、お互いに分をわきまえた応対をしていた。ただ、それだけではない何かが二人の間にはあった。二人ともそれをはっきりとはさせずにいたが、それでも暗黙の了解のようなものがあった。
土産の披露のあと、信政は旅の話をしてお美緒の方を喜ばせた。
お美緒の方の思惑がどのようなものであれ、現在の地位が「出世」であるのは間違いない。しかし、側室といっても弾正は地方の土豪にしかすぎない。しかも齢がはるかに上である。お美緒の方の望みがその程度のことで満たされていたのかどうか。信政から京の街の華やかさを聞く彼女の表情には憧れの気持ちが現れていた。
話が一区切りついたところで信政は言った。
「次郎丸様のご機嫌はいかがでございますか」
次郎丸は去年の末にお美緒の方が生んだ弾正の子である。お八重の方には既に男子があり、弾正にとっては次男になる。
「いたって元気でおります」
「それはようございます。これは京にて見かけたものでございます。面白そうなので手に入れてきました。でで太鼓というものです」
信政は包みの中に残しておいた玩具を取り出してお美緒の方に手渡した。
「これはまあ、わざわざ気を使ってもらって、すまぬことです」
お美緒の方は渡された玩具を面白そうにもてあそんだが、ふと手を止めて信政に言った。
「これも殿のいいつけですか」
信政はちょっと顔を赤らめて答えた。
「いえ、それは、そうではなく‥‥」
お美緒の方は妖艶に微笑んだ。
そこへ弾正が入ってきた。二人の様子に一瞬ひるんだような表情を見せたが、すぐに朗らかな調子で信政に言った。
「まだおったのか」
「これはつい長居をしました。父は下がりましたでしょうか」
「いま別れたところじゃ」
「では私もこれにて」
信政は二人に挨拶をして部屋を出た。弾正の登場に不快と不安をおぼえたのが不思議だった。とがめられるようなことは何もしていないにもかかわらず、何か悪さをしているところを見つかったようだった。そう感じさせるような気の緩みがあったのかもしれない。信政はもっと身を慎まねばならぬと自戒した。
4
その後も春山氏の帰趨は定まらなかった。弾正は迷い続けていた。信政が明智光秀と接触した内容についての報告も、弾正を踏み切らせるまでには至らなかったようだ。信政が帰参して数日後、忠信が信政を呼んで言った。
「明日、城で評定が開かれることになった。お前ともども登城するようにとのお達しだ」
「私も、でございますか」
「そうだ」
「殿が決心なされたのですか」
「お八重方に押し切られたようだ。波多野につくことに決まるだろう」
「いかがなされます」
忠信はしばらく間を空けてから言った。
「お前まで呼び出すのは、何か魂胆があってのことだろう。知らせてくれた者があって、お前がお美緒の方と通じていて、次郎丸様は殿のお子ではなくお前の子だと殿に告げた奴がいるらしい」
「馬鹿なことを」
「ワシらを陥れる陰謀に違いない。明日、二人ともに成敗する気であろう」
信政は言葉を失った。お美緒の方については彼は潔白であった。しかし、そう中傷されてしまうような感情が若い二人の間にあったのは事実である。あからさまには現さなくとも、態度の端々にその気持ちが出てしまうのを抑えることはできなかった。それを見とがめられて讒言されたのであろう。弾正も思い当ることもあってそれを信じたのだろう。
忠信は静かに言った。
「ワシは決意した。この際、君側の奸を討ってしまうべきだ」
「弾正様はご納得されるでしょうか」
「もはや殿にはまかせておけぬ」
それは謀反をも意味した。忠信はそこまで覚悟を決めているようだった。信政には嫌も応もなかった。ただ、父に従うのみだった。
「今夜にも一統に呼びかけて手筈をする。城内に入れる手の者はお前が率いてくれ」
忠信は味方する者とともに評定の場を抑える。信政は兵を率いて、評定の始まる頃に城内に打って出て征圧する。そして、弾正に強いて織田方につくようにさせる。弾正が肯わなければ幽閉なりして、忠信が指揮権を取る。そういう段取りを立てた。
帰天城は山上にあり、城へ至る道は大手と搦め手の二本しかない。道なき山中を無理に登っても高い石垣が阻んでいる。ただし、城内に通じる抜け道が一つあった。万一落城した際に城主が脱出するために作られており、それを知っているのはわずかな者に限られていた。信政は弾正の小姓の頃、その道を知ったのである。秘密の出口から石垣の下に降りると、草におおわれて定かでない道が北方の山に通じている。
夜のうちに信政は五十名ほどの兵を集め、秘かに城山をう回する道を行き、ふもとで待機した。暗いうちは山の中で動けない。夜明けとともに信政は兵を率いて抜け道に至る山中を登った。杣道やけもの道をたどって稜線へ向かうのだが、思いのほか時間を食った。深い林の中では方向が定かではなく、道に迷った。信政はあせった。ようやく抜け道を見つけて信政たちが城中へ押し入ったときは、予定の時刻を過ぎていた。城内の常備兵は多くはなかったので、信政たちは抗う者を倒して評定の開かれている建物へ向かった。たどり着いてみると庭にかなりの人数が集まっていて、彼らの足元には人らしきものが寝かされていた。すぐに戦闘になった。不意をつかれた敵は城内の他の場所に退いていった。信政は並べられた死体の中に父を見つけた。遅かったのだ。忠信たちは敵の用意した人数に圧倒されてしまったのだろう。信政は茫然とした。
敵のいなくなったしばしの静寂の中で、信政はこれからどうすべきかを思案した。復讐の気持ちよりも、父を失った痛手の方が大きかった。孤立無援のまま目算のない行動をするわけにはいかない。春山弾正や重臣たちの居所も定かではない。すぐに敵は数を揃えて押し出してくるだろう。人数にさほどの差がなければ、いっそ、死力を尽くして城を占拠してしまおうとも思ったが、たとえそれができたとしても、長くは持ちこたえられまい。自館に帰ったところで同じことだ。もはや脱出して織田方に走るしかないだろう。考えようではいいきっかけだ。既知の明智を頼って行けばよい。織田の下で働きをすれば、こんな田舎でくすぶっているよりははるかに栄達の見込みがあろう。信政はそう決心した。
そのとき、お美緒の方のことが頭に浮かんだ。忠信派の誅罰は、お美緒の方の身にも及ぶだろう。この際、一緒に落延びるように勧めなければならないと彼は思った。もっと冷静に考えれば、そんな信政の行動がお美緒の方に対する嫌疑を証拠立ててしまうことになるのに気づくはずだった。お美緒の方にしても、弾正の愛顧を盾にして生き延びる力は持っているだろう。信政が余計なことをしない方がいいかもしれないのだ。しかし、状況の展開の激しさが信政の抑えつけていた恋心を解き放った。お美緒の方との脱出が恋の逃避行になるということが信政の目をくらませた。
信政は兵をまとめてお美緒の方の部屋へ急いだ。彼は自分の行動を正当化する理由を見つけていた。お美緒の方と伴に次郎丸様を確保すれば、謀反を跡目争いに転化でき、勢力を集めることができるはずだ。信政たちの乱入に女中たちは逃げ散った。次郎丸の傍にただ一人残ったお美緒の方に、政信は言った。
「危険がせまっています。逃げなければなりません」
お美緒の方は詳しく聞くことなくうなずいた。彼女がどのように判断したのかは分からない。自分の立場の危うさを既に察していたのかもしれない。あるいは、ここでの暮らしに飽いていて、いい見切りどきだと思ったのかもしれない。いずれにせよ、彼女が信政に賭けたのは確かだ。信政への親愛や信頼がなければそうはしなかったろう。
お美緒の方は布団に寝かせていた次郎丸を抱き上げて、信政に従った。一隊は抜け道へと急いだが、前方を敵の兵にふさがれた。敵の動きは素早かった。彼らも人数を城内に呼び込んでいたようだ。再び戦闘が始まった。信政は次郎丸を抱いたお美緒の方を守って、囲みを突破しようとした。しかし、敵の人数は多く、信政方は次第に追いつめられていった。狭い城内の戦闘は凄惨だった。多くが既に討たれ、残っている者たちも傷つき、血みどろになっていた。信政はもはやこれまでと覚悟を決めた。若い彼の可能性はここで絶たれてしまうが、これまでの行動には後悔はなかった。この世の最後にお美緒の方との恋を遂げることができたのだ。一緒に死ねるのなら満足だ。
そのとき、地震が起こった。
5
「その地震は記録に残る大きなものでした。城のある山は頂上付近が大きく崩れ、城の建物はことごとく土とともに流れ落ちました。城主の弾正以下、城にいた人々のほとんどは城と運命を共にし、土とがれきに埋もれて死体さえ見つかりませんでした。信政とお美緒の方は助かったという説もありますがあやふやで、どうだったのか正確なところは伝わっていません。分かっているのは、その頃にあの桜が植えられたということだけです。城とともに亡くなった人々を悼んで信政とお美緒の方が植えたとか、そうではなくて亡くなったお美緒の方を憐れんだ和尚が植えたとも言われています。本当はどうなのかはともかく、それから数百年間、毎年毎年春になると桜の木は花をつけ、華やかだった帰天城をしのぶかのように咲き誇っています」
そう男の話は終わった。私はしばらく話の内容を反芻していた。男は与えた効果を計るように、そんな私に微笑みかけていたが、ふと目を外へ向けて言った。
「どうやら雨もあがったようですね」
窓の外をみると、黒い雲は東の方に去りかけて、青空から日の光がさしていた。私は時計を見て帰りの列車に乗るためにはあまり時間がないことを知り、あわてて勘定を払って別れの挨拶もそこそこに外へ出た。桜のある場所まではわずかだった。彼岸系らしい桜の木は大きく立派で、四方に枝を延ばし、花の着き具合も威勢があったが、これと言って特に変わったところもない普通の桜だった。
明るい桜の風景を見ているうちに、店の男の話は彼の作り話なのかもしれないと私は思い始めた。さらに、桜のいわれそのもの以上に先程の男の存在が怪しくなってきた。そして、はたして帰り道にあの店があることが確認できるだろうかと疑っていた。