息子の恋
日曜日なのでデパートは混んでいた。ガラスの二重扉の傍にいる制服の娘は、絶え間のない人の流れを前にして誰に頭を下げればいいのか迷っているようだった。賢はデパートの前の通りを往復して、五時半になるまで待っていた。
ベルト売場は一階の扉を入ったところと聞いていたけれど、すぐには分からなかった。賢はショーケースの間の通路を売り子たちの顔を見ながら歩いて行った。ネクタイ売場の向こうに知世が客を相手にしているのを見つけた。賢は柱の陰に隠れた。彼女に気づかれないようにしてもう一度入口まで戻り、今度は方向を定めて歩いていくと、うまく顔を合わせられた。
知世の顔つきからでは、その驚きがどのような性質のものなのかは判断がつかなかった。すぐに彼女は幾分恥じらいを含んだような笑顔になったが、それは儀礼的なものだと言えないこともない。
「忙しい?」
「ええ、結構」
賢は並んで吊るされているベルトをいじくった。
「わりと高いもんだね」
「そんなものよ」
それからふざけて彼女は付け加えた。
「買って下さる?」
「丸太に巻くようなものがあったら」
賢はいつも知世の体の細いことをからかって、棒のようだとか、ブラジャーがずり落ちないかと言っていた。彼女はほほえんで、応酬しようと考え込んだ。
知世の後ろで太った中年の女が話しかけようとしていた。賢は知世の注意をうながした。彼女は振り向いて女と話し始めた。女は一本のベルトを腰に巻いてみて、姿を鏡に写した。知世が横で何かを言った。女は腰から外してたベルトを眺めて首をかしげ、元のところへ戻した。知世は女の腰の辺りを検討するように見つめ、別のベルトを選んで女に渡した。女はそれも気に入らないようだった。
賢は仕方なく少し離れてベルトを見る振りをしていた。他の売り子が近づいて話しかけようとしたので彼は逃げ出し、向かいの財布売場のショーケースをのぞくことにした。一度、知世が傍を通り、困ったような笑い顔を見せた。賢は彼女と話す機会を待ったが、接客のためなかなか彼女は一人になれなかった。
斜め向こうのネッカチーフ売場の売り子が三人並んでショーケースに肘をつき、賢の方を見ていた。彼は顔が赤くなるのを感じた。売り子に話しかけようとしている男などという役割は、あまり気のきいたものといえない。賢は知世と客の間に割って入って、通りの向こうの喫茶店――デパートに入る前に確認しておいた――で待っていると言った。
「もう終わるんだろう?」
彼女はちょっと戸惑いを見せた。
「でも、六時半までよ」
「六時じゃなかった?」
「日曜と祭日は六時半までなの。それに私たち四十五分までかかるから」
「それじゃ、七時に」
「分かったわ」
賢は急いでそこを離れた。出口の近くで、ショーケースに寄りかかっている一人の女に彼は彼は気を取られた。ベージュのパンツに、彼には型の分からない同じ色の上着を着ている。歳は彼より少し上に見えた。たぶん既婚者だろうと彼は推察した。美人だがギラついたところがない。品のよさのせいだと彼は思った。彼がその女を見ながら通り過ぎると、女は顔を上げて彼を見た。彼らはちょっとの間お互いを見つめ合った。
七時まで一時間近くあったので、賢は商店街を歩いた。選ぶことなく最初に見つけた喫茶店に入った。暗くも明るくもなく、テーブルや椅子もおざなりな、あの中途半端な店の一つだ。二階の窓際にすわり、人通りを見下ろした。
デパートの売り子を結婚相手に選んだなどと告げたら母がびっくりすることは分かっていた。だが、偏見に打ち勝って賛成してくれるだろうと賢は思っていた。以前、彼が母親と一緒に電車に乗っていたとき、停まった駅で乗り込んできた男が、手足をてんでんばらばらに激しく動かし歯をむいて母親に向かってきた。その男は統制のきかない自分の体を懸命に動かして、空いている席にすわろうとしていたのだ。母親の隣にいた中年女はびっくりして立ち上がり、手を前に突き出して逃げた。女はその顔つきを保ったまま同意を求めるように周囲に笑いかけ、離れた位置から男を眺めた。母親は動ぜずに、男が隣にすわっても平気でいた。賢は母を誇らしく感じた。
母は信頼できると賢は思っていた。
だから、知世のことを話したとき、母親の示した徹底的に反対の態度が賢には意外だった。彼女は言った。
「あなたのためを思うから反対するのよ。あなたがその人を気に入っている以上、たとえ母親だからといってとやかく言うのはおかしいかもしれない。家柄や教育のことなど気にするのはいやらしいかもしれない。けれど、一時の感情で決めてしまうにはあまりに重大なことではないかしら。結婚というのは二人だけの楽しい生活なんてものでは決してないのよ。あなたの人生はどんな人を妻に選ぶかによって大きく変わってしまうのよ。考えてごらんなさい。あなたはその人に何か決定することをまかせられるかしら。あなたが必要とするときに助言を得られるかしら。あなたの興味のあることを二人の間の話題にすることができるかしら。あなたの上司や同僚やその奥さん方と同席させることができるかしら‥‥」
「母さんは何も知らないくせに」
「知らなくても、想像はつくわ」
「ああ、そうだろうよ。母さんは何もかもお見通しだからね。何でも母さんの言う通りにしていけば間違いないからね。母さんは自分の思い通りでないと気にくわないんだ。僕は今まで母さんの言うことは何でも聞いてきた。大学だって母さんの望んだところへ行った。就職だって母さんの望んだようにした。だけど、結婚の相手ぐらいは自分で決めるよ。いっぺんぐらい僕の好きなようにさせてくれたっていいじゃないか」
「そんな風に思っていたの。何てことでしょう、みんなあなたのために、あなたのためだけにしてきたことなのに。お父さんと離婚せずにいるのも、あなたの結婚のことを考えてなのよ」
「母さんは、母さんのそういう態度がどれだけ人をいらつかせるのかが分からないのかい。母さんの献身というのは自分の意思を押しつけることなんだ。母さんは結局自分のことしか考えていないんだ。僕には父さんの気持ちが分かる。父さんがなぜ家を出たのか今はよく分かる。原因は母さんなんだ。母さんがみんな引き起こしたことなんだ。母さんは被害者ではなくて加害者なんだ」
そのまま賢は出かけて来てしまった。知世と結婚するなら家を出ることになるだろう。母を一人ぼっちにすることになる。母親に対するそのような扱いは理不尽だと賢は感じていた。少なくとも母自身の気持ちにおいては利己的なものはないことは確かなのだ。
けれども、知世とのことにしてもはっきり決まっていることはまだ何もないのだった。賢はそこに三十分ばかりいて、早い目に約束の店へ行った。むろん知世はまだ来ていなかった。
七時を少し回ってから知世は現れた。ジーパンに、胸に白く字を染め抜いた緑色のトレーナーを着ている。ひものないハンドバックを小脇にかかえ、大きな紙袋を下げていた。彼女は水を持ってきたウェイターにプリンを注文した。プリンはすぐ来た。彼女は大急ぎで食べてしまった。食べ終わると、椅子の背にもたれかかり、体を伸ばした。
「疲れたわ」
賢は黙って笑った。
「一日中立っていなくちゃならないでしょ。とても疲れるし、お腹すくわ」
「すごくラフな服装だね」
「ふけて見られるから若作りしているの。前の会社のときはみな地味だったけど、今度の職場はまるでファッションショーよ。中途半端でいるならかえってと思って、こんな格好しているの」
「大きな袋だね」
「靴が入っているの。まだロッカーがないので、持ち歩いているのよ」
知世はハンドバッグからタバコを出して火をつけた。彼女がタバコをすいだしたのは高校のときからだということだ。むろんそのときは単に好奇心からで、毎日すうのではなかったが、近頃はタバコを持ち歩いている。もっとも、一度家ですっているところを母親に見つかってからは、家ではすうことはなくタバコも隠している。
賢は喫煙は好ましくないと考えていたが、女がタバコをすうということ自体には反対はしなかった。しかし、若い娘のタバコのすい方には何かいやしいところがあると感じていた。ある平日の昼過ぎ、出先で食事をしたあと喫茶店で休憩していると、銀行の制服を着た娘が二人入ってきて、席に着くなりタバコをすい出した。妙にこせこせしているように見えた。賢はなぜだろうと考えて、彼女らが家庭でも職場でも喫煙を隠しているからだろうと察しをつけた。
知世はあくびをし、弁解のため繰り返した。
「疲れたわ」
「君によく勤まるね」
「自分でもそう思うわ。長くは無理なよう」
二人の女と四人の男が店に入ってきたので、ウェイターがテーブルを二つひっつけ、席を作った。すると女の一人が言った。
「私たち、別よ」
ウェイターは弁解し、テーブルを元通りに直しながら自分の失敗を面白がって笑った。
「食事でもする?」
「ええ、喜んで」
二人は外へ出た。店の前で知世は家へ電話した。賢は少し離れて話が済むのを待った。
「忘れていたけど、昨日私が食べたいと言ったので、今日の夕食はカレーライスにしたらしいわ。お父ちゃんが知世と一緒に食べようと待ってたんだって」
知世の父親は彼女をひどく可愛がっているようで、彼女に近づく男たちにあまりいい感情を持っていないらしい。以前にも家にいる彼女にかけた賢の電話のことで彼女に文句を言ったそうだ。今日のことでまた気を悪くするに違いない。もっとも、彼女は賢の名前は父親に告げてないようだが。
「寒くないかい?」
「いえ、全然」
「その下、何も着てないんだろう?」
「そうよ」
「よく平気だな」
食事を済ませてから、ターミナルの近くの店で酒を飲んだ。焦げ茶色にした木と白っぽい壁という造りの新しい店だ。テーブルをつめ込みすぎて狭苦しい点を除けば、まあまあの雰囲気である。囲いの中に落着くと、賢はウェイターに声をかけたが、彼には聞こえなかった。賢は彼がこちらを向くまで待つつもりでいると、知世が彼の代わりに大きな声を出し、ウェイターをこちらへ来させた。二人とも水割りをシングルで注文した。
賢は知世の顔を見つめた。彼女も彼を見て、しばらくして笑い出した。
「化粧、濃くなったんじゃない?」
「そうね、でもみなすごく濃いのよ。私なんかこれでも薄い方よ」
化粧なんかしなくても十分きれいなのにと賢は思った。だが、以前一度見たことのある彼女の素顔は、眉毛を抜いているので奇妙だった。知世は髪を上げ耳をあらわにしてみせた。水色の石が耳朶にとまっている。
「穴をあけたのよ」
賢は戸惑い、瑕瑾という言葉をなぜか思い浮かべた。
「友達と歩いていたら看板が目にとまったの。それで発作的に、やってみようか、うん、というわけよ。穴をあけてしばらくの間、金をそこへはめ込んでふさがるのを防ぐのよ」
「それは知らなかったな。それで家の人、何とも言わなかった?」
「別に。お母ちゃんなんか、私もやってみようかしらなんて、いい歳して私と競おうとするつもりなの」
彼がハートの刺青でもしたら、母は何と言うだろうかと賢は考えた。話題は途切れたが、賢は努力して話そうとはしなかった。
「あの太ったおばちゃんいたでしょ」
ベルト売り場で二人の話の邪魔をした奴のことだ。
「色がどうとか形がどうとか、うるさいったらないの。似合いもしないくせに」
「似合うベルトを選んであげるのは難しいだろ?」
「何でもかまやしないのよ。誰にでも言ってやるの。よーくお似合いですよ」
ふざけて誇張した声を知世は出した。話しながら彼女は店の中を見回し、人の動きを目で追った。
「会社の方は変わりない?」
「相変わらずさ。君のこと気にしてる奴がたくさんいたけどね」
「そお?辞めてからみなにはほとんど会ってないわね」
ほとんどというのは例外がいるということなのか――彼を除いて、と賢は思った。
「今度の職場はどうだい?前と同じように、男どもがハエのように群がり寄ってくるかい?」
「素敵なのはあまりいないわね」
「君のいいとこは、誰とでもすぐに親しくなることだ。きっとそのうちみなが勇気づけられて君に惚れるようになる」
「昔ほど、愛想よくはないわよ」
自分に対してもかと賢は考え、今日はなぜこんなに皮肉っぽくなっているのだろうと反省した。自分がもっとカネを持っていたら、彼女をはるかに容易に獲得できるのかもしれないと彼は思った。例えば、女中つきの邸宅、運転手つきの車、欲しいだけの小遣い、豪華なパーティなどがあれば。
賢が与えられると思えるのは、とびぬけて豊かではないが貧しくはない暮らし、中庸の、そして品のいい生活だ。彼女にとっては退屈かもしれないのだが。
「信州へ行くって話、どうなった?」
「友達がいま行っているのよ。月曜を休んで土、日にひっつけて三連休にして。一緒に行くつもりだったのに、休日が合わなかったの。ここの仕事するとは思ってなかったから」
「信州は今頃はいいだろうな。上高地なんか紅葉が真っ盛りだよ、きっと。上高地は行ったことあるかい?」
「ないわ」
「いいとこだぜ。人は多いけど。僕は二回行ったことあるけど、何度行ってもいいとこだよ」
知世は賢の話している間、入ってきた三人連れの方を見ていた。彼はその話題を打ち切った。
「いま何時?」
彼女は依然として時計を持とうとはしない。
「九時半だよ。まだいいだろう?」
知世はうなずき、またタバコを出した。
「今度の休み、僕の方も休むから、どこかへ行かないか?」
「ダメだわ。都合悪いわ」
即座の返答に賢は気を悪くした。
「まだ結婚するつもりはないの?」
「みなが私はなかなか結婚できないってからかうわ。そうかもしれない。私ももっと遊んでおきたいと思うし」
「そう。急ぐことはないさ。僕らの仲間でも早い奴は卒業してすぐってのが多かったけど、その後は間があいているね」
二人が一緒になるという話ではなく、いつかするそれぞれの結婚の話。賢は水割りをもう一杯頼んだが、知世はいらないと断った。賢は二人の間に共通の話題が少ないのに苦しんだ。一緒に音楽を聴いたり、本や映画の批評をし合ったりするのが彼の結婚生活の夢だった。だが、知世は彼の貸そうとする本には見向きもしないし、知世の好きな歌手の歌など賢は聞きたくもなかった。もし一緒に暮らすことになったら、二人は何をすればいいのだろうと賢は迷った。ヒマなときには父親と一緒にパチンコに行くと知世は言っていた。
賢はトイレに行き、手を洗いながら鏡を見た。お前はどうかしているんじゃないか、あんな小娘に夢中になるなんて。それはふざけて言ってみたセリフだったが、ちょっと彼を冷静にした。彼は友達の中で高卒の女と結婚した者がいないことをまた考えた。
席に戻りながら見ると、知世はひどく小さく、そしてふけて見えた。
二人は店を出た。賢は紙袋を持ってやった。既にどの店もシャッターを下ろしている地下街を駅の方へ歩いていくと、清掃員たちがゴミを集めていた。地上への出口近くで集められたゴミは悪臭を放っていた。倒れたポリバケツから白く濁った液体がモザイク模様の床に流れ出ていた。清掃員たちはとても若いか、年寄りだった。
賢は急いで通り過ぎながら言った。
「年寄りが働いているのを見るのは嫌だな」
ゴミの入った箱を乗せた台車を押している若い男とすれ違った。彼の着衣の胸には茶色いシミがついていた。彼は黄色いサングラスをかけていた。薄笑いを浮かべ、誰に見られたって恥ずかしいとは思わないぞ、少なくとも恥ずかしいと思ってるなどと思わせないぞと強がっているようだった。
知世の下りる駅で賢も一緒に下りた。
「おぶってやろうか」
「冗談でなく、そうして欲しいわ」
駅を離れると、人通りはなくなった。近くの工場から甘ったるい臭いが流れてきた。飛行機が大きな音を立てて上空を通った。
「うるさいね」
「なれれば、気にはならないわ」
二階建ての汚いアパートなどがあってごたごたしている。賢は以前に通った昼間の様子を思った。子供たちを叱りつけながら立ち話をしている若い母親。尻の出るほどずらしたズボンをはいて歩いていく少年たち。賢の住んでいるところと違って、人々は時を過ごすために道路に出て来るのだ。
知世の家に入る横丁で、ここでいいと彼女は言った。たぶん、父親に彼を会わせたくないのだろう。賢は持っていた紙袋を彼女に渡した。
駅へ戻りながら、どうやって母親に謝ろうかと賢は考えていた。