盗まれた手紙
1
四月の異動で彼女が別の職場に移り、毎日顔を会わすことができなくなった。その代わり、彼女の夫が単身赴任のため家に不在となったので、私と会うための時間を夜に作りやすくなった。毎日会えなくなった寂しさから、頻繁に私たちは会った。
私たちは特殊なカップルだった。彼女には夫と子供がいた。彼女は年上だった。最初彼女を知ったとき、そんなに年は離れていないと思った。彼女は若く見えた。十五歳も年上だと知ったときはびっくりした。そのときは既に私は彼女に恋していたので、年齢差は何の障害にもならなかった。彼女は職場では上司だった。私は彼女を仰ぎ見ていた。こういう関係になっても、私は彼女を普通の恋人のようには扱えなかった。
彼女に最初に会ったときから、私は彼女に恋した。てきぱきとしたしぐさに反し、彼女の細い体にはどこか幼さが残っていて、私にはかわいく思えた。その恋が実現することは期待できなかったので、私はひそかに恋した。彼女は夫とは仲がよさそうだったし、二人の子どものいる家庭も幸福そうだった。彼女への思いは口には出さなかったが、私の態度が普通とは違うということに彼女は気づいたに違いない。彼女は無視することもできた。しかし、彼女は私に応えてくれた。私たちは目を会わすことが多くなり、会わす時間もほんの一瞬だが普通より長かった。たまたま事務所で二人きりになったときなど、どちらかが耐えられなくなって目をそらしてしまうまで、黙ったまま長い間見つめあったりした。
彼女と一緒に働くようになってから二か月余りたったとき、六月の中頃、私はホタルを見に行きませんかと彼女を誘った。それまで職場の外で二人きりで会うようなことはなかった。彼女はためらうことなく承知した。その話を職場で二人きりのときにした。他の人間に隠すことで、私たちは真の目的がホタルを見ることでないことをお互い確認しあった。
私たちは職場の帰りに待ち合わせ、私の車で郊外のホタルの棲息場所へ行った。たとえ名目であれ、ホタルを見ることから始めなければならなかった。お互いに好きなことは分かっていたが、口に出して確認したわけではないので、確実なものとはなっていなかった。人家のない田舎道に車をとめ、懐中電灯で道を照らしながら細い道をたどり、小さな流れにかかった橋まで行く。流れの上や流れにかぶさった両岸の草の中に、ホタルの光がたくさんあった。いたるところで光っては消えていた。彼女は「まあ、きれい」とつぶやいた。私は黙って彼女の手を握った。暗がりの中で二人きりで身をすりあわせていたが、それ以上のことをするためには、もう一歩踏み出す必要があった。私は臆病になり、ためらった。
車に戻ると、そのまま暗闇の中で話をした。まず共通の話題として職場のことを、次に私たち自身のことを話した。話に熱中すると、男と女という要素が薄れ、ぎこちなさがなくなっていく。その代わり、私の思いは出口をなくして不満となってたまっていく。私は黙り込んだ。彼女は私のその態度を不機嫌とはとらなかったが、どうしていいか分からず、やはり黙ってしまう。
とうとう私は言った、彼女が好きだと。出会った最初から好きであり、好きになる一方であり、今では耐えられないほど好きだ。私の告白を聞いて、彼女は、私もあなたが好き、とだけ言った。私たちは抱き合った。黙ってずっと抱き合っていた。彼女に夫があることについては、私も彼女も何も言わなかった。言ってみてもどうしようもないことだ。
私たちは職場の帰りに会うことにした。彼女が家を抜け出すことは難しい。彼女の自由になる時間は、職場を出て家へ帰り着くまでの間だった。私たちの職場は残業が多かったので、遅く帰ることは不自然ではなかった。私たちは同僚をごまかし、家族をだまして、会う時間を作った。終業時間が過ぎても仕事をして、二人のうちどちらかが先に帰る。しばらくしてもう一方が帰る。二人は約束の場所でおちあう。私は親と同居していたので、デイトは私の車の中が多かった。私達は抱き合いキスをした。しかし、お互いの体を撫でるのは服の上からであり、性交はむろんのこと、ペッティングさえしなかった。
私は彼女が欲しかった。時々彼女を押し倒してしまおうかと思うこともあった。しかし、彼女が「いや」と言い、「もう会わない」と言い出したら、どうしたらいいのだろう。彼女を失うような冒険は出来なかった。もし彼女と性交するなら、彼女の同意を得てからだ。それがなかなか出来なかった。彼女が性交をどう考えているか分からなかった。
あるとき、彼女が出張の後、午後まるまる空くので、私は休みを取り、隣の都市で待ち合わせた。その都市の大きな公園に行った。公園を出て、まだ時間があるので、何処へ行こうかと私が言うと、彼女は突然「私が欲しいなら、抱いてもいいのよ」と言った。公園での私のどのような態度が私の欲望をあらわにしたのだろう。ためらう私に、「私もあなたが欲しいの」と彼女は勇気づけた。そして、「お金なら心配しなくていい、私持ってる」と付け加えた。
家計を補助しているので私の小遣は少額であり、彼女とのデイト代を負担し切れないことを彼女は知っていた。彼女は私の面子を思って、割り勘にしようといつも言っていた。彼女の申し出に対し、私は恥ずかしかったが、そこまでしてくれる彼女の好意を受けないのは、かえって彼女の気を悪くするのではないかと恐れた。
それよりも何よりも、この機会を絶対に逃したくなかった。その日、私たちは初めて性交した。その日以来、昼間会うときは性交した。性交するのは、昼間会うときだけだった。昼間会えるのは多くなかった。
裸で抱き合うときは、普段の彼女とは全く違った。幼げな感じは消え、成熟した女として私との快楽をむさぼった。年とった醜い姿を私に見られたくないと言って、部屋を明かるくするのを彼女は拒んだ。しかし、暗さに目が慣れると、彼女の細い白い体はよく見えた。少年のような薄い胸、細い手足、小さな腰、かたまった黒い恥毛など、年齢を全く感じさせなかった。わずかにおなかにたるみはあったが、しわになるほどではなかった。筋腫のため子宮を切除したときの傷がおなかを縦に走っていた。
「これでもだいぶましになったのよ。」
彼女は完全な体を私に与えられない無念さを込めてそう言った。私にはその傷は全然気にならなかった。むしろそういう傷が彼女にあることを知っていることがうれしかった。私は彼女を私のものにする署名のように指でその傷をなぞった。縫い目のあるおなかというのが私たちの隠語になった。
私たちはお互いを呼ぶ言葉を持たなかった。職場では私は彼女の姓に役職名をつけて呼び、彼女は私の姓に「さん」をつけて呼んでいた。愛しあいながらそんな呼び方は出来なかった。かといって、お互いの名を呼びあったりすると、職場での態度が保てなくなりそうだった。私たちは声をかけたり、体を触ったりすることで、何とか名前を呼ぶことなしで済ませていた。私たちは名無しのカップルね、彼女は時々そう言って笑った。
職場で毎日会えることは喜びでもあったが、苦しみでもあった。二人の気持ちを隠すために、ことさらよそよそしい態度をとってしまう。自然に話すことも出来ない。ついつい親しさが出てしまうのを、注意しなければならないからだ。彼女に関する知識をひけらかしてしまうことも避けなければならない。辛いのは、目を合わさないようにすることだった。見つめあうと恋しさが露骨に表われてしまう。瞬間の目配せだけでも、注意深く見られれば、二人の仲を疑られるだろう。
時々、私は叫びたくなる。彼女と私は恋している。彼女は私を好いてくれている。みんな知ってくれ。彼女は私のものなのだ。
私は幸福だった。私の人生にこんな素晴らしいことが起こるなんて信じられなかった。こんな日がいつまでも続くのだろうかと不安に思うほど幸せだった。
その幸せは二年続いた。
2
四月末からの連休の前日だった。連休中は夫が帰ってくるので会えないからと、わずかな時間を作ってくれた彼女と会うため、彼女が途中下車する駅の裏の寂しい通りに車を停めて待っていた。彼女は周りを見ながら走ってくる。彼女を乗せて発進すると人通りのない狭い道に男が立っていた。男はヘッドライトが眩しいのか片手で顔を隠した。彼女があっと声をあげた。どうしたのと聞くと、後藤さんだわ、見られたかしらと不安そうに振り返る。私はバックミラーを見たが背後は暗くて何も見えない。
後藤というのは四月の異動で赴任してきた男で、以前にもこの地で勤務したことがある帰り新参だ。後藤がなぜこんなところにいるのか分からなかった。近くには何もなかった。だからここを待ち合わせ場所にしたのだ。後藤の降りる駅がここで、この道は後藤の通勤路なのだろうか。彼女は動揺し、今日は帰ると言い出した。車の中は外から見えにくいし、ましてやこの暗さでは分らなかったろうと説得しても、彼女の不安はおさまらなかった。彼女は警戒して駅からだいぶはなれたところで車を下りた。
そのことが彼女をおびえさせたのだろうか。しばらくして、別れると言いだした。後藤が私たちに気がついたなら、私たちか、私たちの上司か、あるいは彼女の夫に言うはずだった。しかし、何ごともなかった。後藤とは職場が違うが、顔を会わしたりすることはあった。あの日以後とそれ以前で、彼の態度に変わったところはなかった。私は心配することはないと説得しようとした。もっとも、私たちのことが知れる危険は常にあった。この小さな都市では、いつ何時目撃されないとも限らない。あの場所ではもう待ち合わせはできない。
私たちの組み合わせがアンバランスなので、いつまでも続きはしないというおそれは常にあった。四月の異動で彼女が職場を変わるということが分かったとき、これで別れてしまうことになるかもしれないと話し合ったこともある。しかし、いざ離れ離れになると、いとしさは余計に募った。だから、四月は度々会っていた。それが突然、別れ話である。
私は別れたくなかった。しかし、彼女には逆らえなかった。彼女は、私よりもはるかに大きな危険を背負い、大きな犠牲を払っているのだ。夫以外の男と会っているというような状況にいつまでも彼女を置いておくのは、よくないことだった。彼女を不幸にしたまま、愛してくれとは言えなかった。
彼女と会えない日々はつまらなかった。彼女のことが頭から離れない。彼女と職場が違ったのは、幸いだったかどうか。別れていながら毎日顔を合わすのはつらいだろう。しかし、全然会えないというのも悲しかった。また会えるようになるのではないかという漠然とした期待はあった。このまま別れてしまうには、私達は愛しすぎている、と私は思っていた。
家に帰ってからいつものように会えない彼女のことをいろいろ考えていると、彼女が、過去に、夫以外に好きな人がいた、と話していたことを思い出した。その人は私の知っている人かと私が問うと、あなたの知らない人よと彼女は答えた。私は、それが誰かは知りたくない、と言った。彼女が私の他にこういうことをしていたとは思いたくなかった。だが、彼女が何度も同じことをしているなら、私以外の男と付き合うようになっても不思議はない。彼女は別の男と会い始めたのではないか。だから私を避けるようになったのではないか。恋する男の嫉妬心は様々な妄想を生む。彼女が私に思いもかけず恋してくれたように、彼女は恋しやすい人間で、他の誰かを愛し始めるのではないかという思いはずっとしていた。だが、彼女の私への愛は特別だと思い込みたかったために、そんなことはないとその度に否定していた。
その夜から私は眠れなくなった。あれほど信頼していた彼女を、私は疑い始めた。会えないということでは同じであるのに、彼女が他の男と会っているかもしれないと思うと、苦しさは倍加した。いや二倍ではない。百倍も千倍も苦しいと思えた。
職場では仕事で気を紛らせることが出来たが、夜が来ると何もできなくなる。だが、何もしないでいると彼女のことばかり考えてしまう。彼女と会っているとき、私はこれ以上彼女を愛せないだろうと思っていた。今はあのときの愛などどれほどちっぽけだったか分かる。彼女を失ってから、これほど彼女を愛することができることを知るなんて。
私は夜、友達に星を見せてもらうからと言って家を出る。ちょうどその頃彗星が近づいていて話題になっていたので、親は不審に思わなかった。私は彗星など見ずに、彼女の家の近くの川の土手にすわり込み彼女の家の窓を覗いていた。磨りガラスやカーテンのせいで、中は見えにくかった。人影が窓を横切ると私の胸がどきんとする。一度だけ、浴室の窓に彼女の裸の上半身が映った。一目で彼女だと分かった。それだけで私はしばらく幸福だった。
月はないが薄い光を含んでいるような暗闇は、何か叫びたいような期待と幸福に満ちているようだった。栗の花のにおいがした。これはあなたのにおいね、と言って彼女が思いきり吸い込み、せきこんでしまったことがあった。彼女が私に示してくれた自己放擲の一つ。
私は自分の抱いた疑惑を疑いだした。たとえ彼女に過去何があったとしても、それは遠い昔のことであり、彼女は次々と男を変えるような淫乱な女ではない。彼女が思っている男性は今でもやはり私であり、私一人なのだ。私は落ち着きを取り戻し、夜外出するのをやめた。
しかし、私をいじめようとしている何かの意思は、私をそっとしていてはくれなかった。ある日曜日、私は隣の都市に行こうとして、電車の中で彼女を見かけた。こういう状況では声をかけてもかまわないはずだが、彼女の緊張した様子が私をためらわせた。しばらくこのまま気づかれないようにして、彼女がどこに行くか確かめてから声をかけようと思った。彼女が一人であることが私の疑惑を蘇らせた。彼女が下りたのは繁華ではない場所の駅だった。その駅は後藤の乗り降りする駅だった。私はそれを調べていた。私たちが待ち合わせに使った駅に用のないはずの後藤が、なぜあのときいたのかは結局分らなかったのだが。私は彼女の後をつけた。駅から十分ぐらいの住宅街の中の一軒の平家の前で彼女は立ち止まった。留守のようだった。彼女は郵便受けに手紙のようなものを入れると引き返してきた。私は横丁に入って彼女をやりすごし、その家へ行った。表札は後藤になっていた。私はめまいがし、何も考えることがでぬまま、郵便受けに入っているものを取り出した。後藤の名前だけが書いてある白い封筒だった。その字は彼女の字だった。
私は封筒を手に逃げ出した。ためらわずに封を切り、中の手紙を読んだ。
3
ごめんなさい。
私はあなたにひどいことを言ってしまいました。あなたが私のことを、いつでセックスもできて、何でもして、好きなときに別れられるという対象としてしか見ていなかったのではないかと。あなたは正直に、そう思ったこともあると答えました。私は、いっぺんもそんなことは思ったことがない、と言ってあなたを責めました。
しかし、冷静になって考えると、私自身そう思ったことは本当にないのかと問われれば、そうだとはっきり答えられないのです。私だって、マサオと会うことがセックスをすることになってしまって、それ以外に何も望まなかったのでした。そういうつながりであれば、面倒はなくて、便利で楽しいだけと思わなかったとは言い切れません。
私たちの関係に未来はなかったので、二人ともセックス以外のつながりを持つことを避けていたのかもしれません。
いいえ、そういう言い方は不正直ですね。私は(マサオもそうだと思いますが)マサオとセックスすることが好きだったのです。マサオのことが無茶苦茶好きだったので、マサオの望みは私の望みでもあったので、マサオの要求することはどんなひどいことでもしたのです。マサオの喜びは私の喜びでもあったので、苦痛でさえ欲するものとなったのでした。
セックスだけで満足できたので、それ以外のことで二人の関係を強化しようとは思わなかったのでした。
私の愛がいつからさめてしまったのかははっきりしませんが、愛が失われたとき、セックスだけの関係は無残なものでした。私たちはセックスからあまりに大きなことを得ていたので、セックスに復讐されたのです。
あなたが私にセックスを望む気持ちは分かります。かってのあの喜びを得たい気持ちは
分かります。でも、もうそれは失われてしまったのです。今の私にとって、あなたとのセックスは嫌なのです。
確かに私は嘘をつきました。あなたと別れるとき、いい奥さんになるためだといいながら、本当はあの子と愛しあうためでした。でも、私が本当のことを言ったら、他に好きな人ができたと言ったら、あなたは別れてくれたでしょうか。今のあなたよりもっと狂ってしまったのではないでしょうか。あなたに知られさえしなければ、これがあなたを傷つけない最善の方法だったのではないでしょうか。
でもなぜか神様(いるとすればですが)は、あなたに知らせることを望みました。私はひどい女になってしまいました。
私はあなたを傷つけました。その責めは負うつもりです。でも、あなたを愛したのも、あの子を愛したのも、やむにやまれぬ気持ちからで、どうしようもなかったからです。
あなたは、気持ちがそうなら何をしてもいいのか、それなら自分の気持ちを晴らすために私とあの子のことを皆に話すといいました。それであなたの気が済むなら、仕方ないと思います。
あなたは私を脅かす必要はありません。私のしたこと、していることが人に知れようと、私はかまいません。ただ、夫と、あの子が可哀想ですが。
でも、出来れば、私たちをそっとしておいてくれませんか。私はもうあの子とは会っていませんし、これからも会うつもりもありません。
どうか、私をまだ愛しているというなら、私を苦しめないで下さい。いいえ、私を苦しめるのは構いません。私の周りの人達を苦しめないで下さい。
あなたの愛には答えられませんが、会うことであなたの気が済むなら、いつでも会います。
4
手紙を盗んだのは、あなたね。できればあなたには隠しておきたかったのだけれど、こうなっては何もかも話さないと、あなたは納得しないでしょう。話したところでどうなるものでもないし、知ればあなたが苦しむだけなのだけれど。
後藤と知りあったのは、もう十年位前になるわ。当時経済的な事情もあって、私も働くことにした。そこで後藤と出会ったの。私たちはすぐにお互いに引かれて、職場の外で会うようになった。そんなことは初めてだった。倦怠期というのかしら、私は夫に不満を持ち始めるようになっていた。夫は結局は失敗してしまった投資を、私の同意もなしに勝手に決めてしまっていた。いつもそうだった。夫は何でも一人で決めていた。ある意味で、私を大事にしてくれていたつもりだったのでしょう。私も夫に従うことを当然だと思っていた。
けれども、後藤と知りあうことで、私の底にくすぶっていた不満がはっきりした形をとり始めた。以前の私なら、後藤に引かれる気持ちはあっても、誘いには乗らなかったでしょう。もちろん、ただ会って話をするだけのつもりだった。働くのは結婚前以来で、慣れない環境で戸惑っていたし、将来も不安だった。後藤に会えるから出勤することが苦痛ではなくなった。だから、それぐらい許されるべきだと思った。
男と女の関係がそこにとどまっていられると考えていたのは、たぶん、私が未経験だったせいね。後藤はすぐに体を求めてきた。最初は軽いキス。路上での抱擁。やがていかがわしいところに二人きりで入り、長時間抱き合った。でもセックスだけはしまいと思っていた。後藤は執拗に求めたけれど、私は拒否し続けた。私たちは服を着たまま抱き合いキスをした。唇がはれあがるほどキスをした。
でもそれだけで済むわけはなかった。私にも分かっていたのだと思う。その段階で別れればよかった。でも、もう別れられなかった。後藤は私の拒否にいらついて、段々乱暴になってきた。あまり拒否して、後藤が去っていってしまったらどうしよう。そんなの耐えられない。
私は後藤が胸をさわるのを許した。性器をさわるのを許した。ある日、お互いの性器をさすりながら抱き合っているうちに、私はかえって不自然だと思った。もうセックスと同じことをしている。それならちゃんとしたセックスをしよう。私たちは裸になってセックスをした。
こんな話を聞くのは、苦しいかしら。でも我慢して聞いてね。私たちがなぜこうなってしまったか、分かってほしいの。
それからの私たちは無茶苦茶だった。出来るだけたくさん会い、会う度にセックスをした。それだけではなくて、二人きりになる機会があれば、出来ることは何でもした。職場で隠れてキスをした。路上で抱き合った。混雑した電車の中で、体をくっつけあい、愛撫しあった。
後藤にのめり込みながら、私はこんなことをしている自分が恐ろしかった。だから、後藤が転勤することになったとき、後藤と別れることがそれほど悲しくなかった。これは異常なことだ、いつかはやめなければならないのだから、ちょうどいい折だと思った。後藤もあっさりと了承した。
昔のような生活に戻ることができると思っていた私は浅はかだった。後藤なしで何日耐えたろう。毎日毎日、私は後藤からの連絡を期待した。手紙が来ていないか何度もポストをのぞいた。電話のベルが鳴る度に後藤からではないかと胸が躍った。私は後藤を恨みさえした。別れると言った私をなぜ引き止めてくれなかったのだろう。夫と別れて一緒に来いと後藤が言ったなら、私はそうしたかもしれないのに。
むろん、それは非現実的な想像だった。二人の子どものいる家庭を捨てることなど私には出来ない。それは私も後藤も分かっていた。だからこそ後藤は私が去るのを当然のこととして受け入れたのだ。
とうとう我慢できなくなって、夫が出張の夜、私は後藤に電話した。ただ声を聞くだけ、こちらの様子を知らせるだけ、そんなふうに自分を納得させて。
後藤は私の声を聞くと、会いたいと言った。夜だから、車を飛ばせば二時間ぐらいで着く。私たちを隔てているのはわずか百キロメートルぐらいの距離に過ぎないことに、私は気づいた。私はためらわずに「待ってる」と言った。
それから私たちの関係は復活した。というより、途切れてはいなかった。夫は出張が多かったので、その度に、夜、私たちは会った。その頃はまだ幼かった子供たちは隣の部屋で寝ていた。下の子がむずかったりしたとき、私は後藤を布団に残してあやしにいった。上の子がトイレを使う気配がしたとき、私たちは抱き合ったまま息を殺していた。
私は悪いことをしているとは思わなかったけれど、恐ろしかった。私は地獄へ落ちるのかしら、と私が言うと、一緒に落ちようと後藤は答えた。
嘘をついて外出の機会を作っては、後藤と会った。私の子宮筋腫でさえ会うことに役立った。午前中病院へ行き、午後を二人で使うことができた。病院へ行くと嘘を言って会いさえもした。私たちはずっと会い続けた。誰にも見つからないのが不思議なくらいだった。世間というものは案外ぼんくらなのだと思えた。
私たちはセックス以外の何もしなかった。食事する時間さえ惜しんでセックスした。そういう関係によく飽きなかったものだ。むしろ、こんなに長く続いたことが不思議ではないだろうか。
私は、こんなに人を好きになったのは後藤が初めてだし、後藤以外に二度と人を好きになることはない、と本心から言った。今思えば、何が起こるか分からない未来がすぐそこにあったのに気づいていなかった。
いつごろ、どうして後藤を愛さなくなったのかは分からない。私たちは夫婦のようになってしまっていた。習慣としてのみ交わる夫婦、会話のない夫婦。セックス以外に何かしていたなら、情熱の代わりに友情のようなものが結びつきを保たせていたかもしれない。愛が失われたとき、セックスだけの関係は不毛だわ。その頃、私はあなたを好きになっていたのだと思う。
私は後藤のためにという言い方で、別れを話題にし始めた。私とこんなことを続けていると、家庭も仕事も駄目になる。後藤もだんだん本気で別れることを考え始めた。それからあなたとのことが起こった。私と後藤は別れ、後藤は二度ほど電話をかけてき、一度は会いに来た。でも、私は取り合わなかった。彼はあきらめた。私はそう思っていた、今年の四月までは。
彼がここへ帰任して来たのにはびっくりした。けれども、その持つ意味の深刻さに私は気づいていなかった。後藤は早速電話をかけて来た。私は会うことを拒否した。何度も後藤は会うことを要求してきた。仕方なく、私は一時間ばかり話をした。後藤は私とセックスしたがった。私は静かな家庭生活を壊さないでほしいと頼んだ。(私が嘘をついたのが悪かったろうか。しかし、本当のことを言ったとしても、遅いか早いかの違いだけで、同じことが起こったと思う。)後藤にはもはや何の特別な感情も抱かなかったが、私は後藤との過去をそれなりに大事にしたかった。
しかし、後藤は私の体を欲しがるだけの男だった。こんな男をなぜあれほど好きになったのだろう。別れてよかった、あなたを好きになれてよかった、私はそう思った。あなたに会いたい、こんな男と一緒にいるのはあなたに悪い、そう思った。キスぐらいさせろ、と後藤は顔を近づけてきた。早く別れてしまうために私は我慢した。
後から考えると、私が利口に立ち回るならば、後藤を冷たくあしらうようなことはせず、適当に付き合い、場合によっては体を抱かせてやってもよかったのかもしれない。そうすれば、後藤は満足して、おとなしくしていたでしょう。しかし私にはそんなことはできなかった。
あなたを裏切るようなそんなことはできなかった。
私は後藤のことなどすっかり忘れて、あなたと会い続けた。あまりにも警戒心がなさすぎたし、後藤のことを甘く見過ぎていた。はっきり拒絶すれば過去は精算できるものと高をくくっていた。人間の心というのはそんなに簡単に扱えないことは分かっているはずだったのに。後藤は私の後をつけていた。あなたとのことは今まで誰にも気づかれなかったが、その気になって探れば隠し通せるものではない。
あの場所で後藤に会ったとき、後藤が私を見張っていたことを悟った。あなたの車に乗るところを後藤に突き止められたのだ。あなたのことが分らなかったとしても、私がやましいことをしているのは明らかだった。連休中に夫が帰ってきたが、私は上の空だった。連休が終ってから、後藤が電話をかけてきた。
後藤は優しかった。君が他の人を好きになるのは君の勝手だから、自分は何も言えない。でも、そのことで話をしたいので、一度家に寄ってくれないかと穏やかに言った。私は職場の帰りに彼の家へ行った。家は借家で、住んでいるのは彼一人だった。彼はあなたとのことをいろいろ聞いた。あなたのことは隠しておこうとおもったけれど、自動車のプレートナンバーから調べれば分ることだと言われて、喋らされてしまった。一通り喋ると、後藤の態度が変わった。
私は後藤の過激な反応に戸惑った。私があなたとしていることは、かつて、私と後藤がしていたことなのだから、許してくれるのではないかという気がしていた。後藤は私のふしだらをなじり、嘘をついたことを怒り、私の冷たい態度を非難した。自分を捨てるときには、既にそいつとできてたのか、と彼は詰問した。
後藤はあなたと別れることを要求した。さもなければ、私とあなたを破滅させる。私のことなら、どうなってもいい。夫に知れ、別れることになってもいい。でも、あなたを傷つけさせられはしない。私は承知した。つらい気持ちの私に追討ちをかけるように、後藤は私の体を要求した。私はあなたのことを思って、拒否した。しかし、後藤のアパートで無理矢理犯されてしまった。
嫌がる私に、私が利己的だと後藤は言った。あなたや家族を守るために、私は後藤の言うことを聞くべきだ。嫌なことは誰でもしたくない、しかし、嫌なことでもしなければいけないときがある。そのことに気づかない私は利己的だ、そんな私だから、二度も夫を裏切るのだ、そう後藤は言った。
私は利己的かしら。利己的というなら後藤もそうだし、あなただってそう。でも、そんなふうに言ってしまってはだめなのね。人間は大切なものを守ろうとする。それは誰でも同じ。けれど何を守ろうとするかで利己的かどうかを判断されてしまう。私は私の気持ちを守りたかった。その結果人が傷つこうともか、と後藤は言う。私には傷つけるつもりはなかったといっても、許されない。確かに、利己的といわれれば、そうなのかもしれない、と私は思った。そんなふうに理屈づけながら、後藤は私を犯し続けた。
可哀想な後藤。彼はセックスに幻想を抱いている。セックスをすれば、また私が彼を愛するようになると思い込んでいる。彼とのセックスで私が何も感じないのが信じられない。彼とのセックスなど全然したくないのが信じられない。
でも、私は後藤のそんな態度に責任を感じている。彼は、彼が私にとって唯一の男性である(ただし、夫は除いて)という誇りを失ってしまった。しかも、私が彼からあなたへ「乗り換えた」ということで、余計に傷ついている。私を抱くことで、その傷を癒そうとしている。
だから、私のしていることを非難したり、悲しまないで。私はあなたを守るため、そして後藤への贖罪のために、後藤に抱かれているのだから。少しも楽しくなんかない、つらくて苦しいけれど、自分のまいた種を自分で刈っているのよ。
あなたと会っているときの楽しさ、あれは本当は私の手に入らないものだった、それを味わったから、その支払いをしなければいけないのよ。
だから、もう何も言わないで、私のことを忘れるようにして。いいえ、いやよ、私のことを忘れては。私は愛してる、今もいつまでも。
でも、もう会えない。会ってはいけない。
さようなら。
5
彼女の説明で、私の気持ちは納まりはしなかった。私を守るために後藤と会うという理屈には抵抗できなかったので、一層彼女を恨んだ。それならいっそ、一緒に破滅してほしいと言ってくれたほうがましだった。
しかし、そんなふうに言われたら、私はしり込みしてしまいそうだった。そんな私の態度を見越して彼女は一身に重荷を背負っているようで、私は情けなかった。
利己的な私の心は、こんなことも考えた。後藤と会うことで後藤の口が封じられるなら、私と会っても構わないではないか。後藤だって、そこまで過大な要求は出来ないはずだ。彼女が強くそれを要求したなら、後藤も認めざるをえないだろう。むろん、二人の男(夫を入れれば三人の男だが)を相手にするのは、彼女には耐えられないことだろう。けれども、私への愛が強ければ、我慢できるのではないか。後藤との性交では何も感じないと彼女は言った。それならそれは性交ではない。性交に数えなくてもいい。嫉妬する私に、夫との性交がそうだと彼女は言ってたではないか。それなら、なぜ私を避けるのか。性交が嫌ならしなくてもいい。会えるだけでいい。
それは嘘だった。私は彼女と性交したかった。あんなに多くの機会を、私たちは性交なしで過ごしてしまった。どうしてもっとしなかったんだろう。私は悔やんだ。年上であり、上司である彼女に常に性交を要求することはためらわれた。彼女が私に求めているのはそういうことではないと私は思い込んでいた。むろん、性交しているときには二人とも夢中だったが。
彼女と後藤が会っていることを知って、何もせずにいることはできなかった。自分を苦しめることになるだけだが、彼らが会っている現場を確認せずにはいられなかった。そのとき何をするかは思いつかなかった。二人が会うことを妨害しても、事態を悪くするだけだということは分かっていた。それなら、黙って二人のすることを見ていることになってしまうのか。そんなことには耐えられないだろう。破滅的なことが起こってしまうだろう。むしろ、そうなってしまうことを望む気持ちもあった。
私は職場での二人の動静をひそかに探った。職場が違い、また私のしていることを彼らに知られないようにせねばならぬので、難しかった。二人が示し合わせて帰ったように思えた日、車で後藤の家まで行ってみた。家は留守のようだった。しばらく待ってみたが後藤は帰って来ず、彼女が訪ねて来ることもなかった。もしかすると、彼らは私のことを警戒して、別の場所で会っているのかもしれない。思いついて彼女の家に行ってみた。彼女がどこかで後藤と会っているのなら、まだ帰って来ていないはずだ。私は車を彼女の家から離れたところにとめ、川の土手で見張った。
そのときは、まだ自分のやっていることの滑稽さに気づくだけの余裕があった。何て奇妙なことを私たちはしているのだろう。彼女の夫をそっちのけにして疑いあい、嫉妬しあっている。私の今やっていることは、本来彼女の夫がすべきことではないのか。彼の代わりに彼の妻の裏切りを私は見張っている。彼が知ったらどう思うだろうか。もし彼がこの関係の中に入ってきたら、ややこしくなりすぎて、誰が誰にどんな感情を持ったらいいのか、わけが分からなくなってしまうだろう。
十時過ぎに彼女の家から少し離れたところに車が止まった。彼女が降り、家へ向かって歩いた。車は走り去った。玄関のドアの前で彼女は振り返った。玄関灯の光の中の彼女は、悲しそうにも苦しそうにも見えなかった。夜の闇に目を向けている彼女の表情は情事の余韻を楽しんでいるかのように見えた。
私は自分のうかつさを呪った。何も感じないという彼女の言葉を信じた自分の幼稚さを笑った。たとえいやいやでも、度重なれば、あの性交の魔力が彼女を捕らえて当たり前なのだ。私はかっての彼女との抱擁を思った。彼女の声、目をつむり震えている彼女の横顔、私の体をつかむ手の動き、押しつけてくる腰の感触。同じことが相手を変えても起こるのだ。
彼女と後藤は名前を呼び合っていた仲なのだ。アキコ、マサオと呼び合っていたのだ。私たちのように、名前もよべず、愛とは違った感情をも尊重せねばならぬ仲ではなかったのだ。彼女に私が与えられなかったものを、後藤は自信に満ちて与えているのではないか。彼女は保護者としてではなく、女として愛されたかったのではないか。彼女は私を捨てたのではないか。
私はポケットの中のナイフを握り締めた。もし彼女が、私としたように、後藤の車に乗っているのを見つけたら、車のタイヤを切り刻んで困らせてやろうと持っていたナイフ。タイヤではなく彼女の白い体に、あの縫い目のあるおなかに何度も何度もそのナイフを突き刺すイメージが私を捕らえた。
彼女は家の中に入りドアを閉めた。鍵をかける音が聞こえたような気がした。彼女は私のためにそのドアを開けてくれることはないだろう。私は自分の車に戻り、去った車を追いかけた。後藤の車なら行き先は分る。危険なスピードを出し、無謀な追い越しをして、追いついた。気づかれないようにという慎重さはなくなっていた。むしろ気づかれて対決する方がいいように思えた。後藤の家から少し離れた駐車場に車は入った。私は後藤の家の近くまで行って車を停め、外へ出て車の陰に隠れた。暗がりでナイフを握り締め、後藤が来るのを待った。
本当に刺すつもりなのかどうかは分からなかった。刺そうと決心したわけではない。しかし、刺してしまうかもしれないと思っていた。そうすべきではないとか、そうしないでおこうという気持ちはどこにもなかった。
後藤が近づいてきた。辺りには関心を払わずに、ひたすら地面を見ながら、遅くも早くもない足取りで歩いてくる。何か声を出している。私が彼の前へ出ようと思ったとき、その声が何を言っているかが分かった。
「アキコ、どうしてなんだよう。」
それは悲しい声だった。悲しむこと以外に何もできない者の声だった。この男が悪いのでもない、彼女が悪いのでもない、私が悪いのでもない。後藤が家へ入ってしまうのを見送りながら、私はそう思った。
帰って寝よう。その認識が私に安らかな眠りを保障するというわけではないけれども。