井本喬作品集

単独行

 最後はバテてしまってようやく池小屋山の頂上に野村は着いた。きつい登りだとガイドブックやいくつかのホームページに書いてあった通りだ。頂上には男一人と女二人のパーティがいた。彼らのザックは大きいのでどこかでテントを張るのだろう。野村はデイパックから弁当を出し、遅い昼食を食べた。もう一時半になっている。登山口に着いたのが遅かったので予定は遅れていた。暗くなる前に下りるためには急がねばならない。一人だと時間の拘束がないので出発時間がいつも遅れぎみになる。ひどいときは登山口で昼食を食べてから登ることもある。そういう無茶ができるのも一人で登るからだ。

 パーティがあいさつをして縦走路を下りていった。明神平を目指すが、途中でテントを張ることになるだろうと彼らは言った。彼らが行ってしまうと一人になった。野村は食事を済ましてゴミをデイパックに入れ、ペットボトルのお茶を飲んだ。ざっと四方の眺望をすませた。どうせ山ばかりで区別はつかない。デイパックを背負い歩き出す。少しばかり北に縦走路をたどる。頂上から下ったくぼ地に庭池程度の小ささの涸れた池があった。辺りは葉を落とした木の疎林になっていて、向いの小さな丘の上にくっきりと青空が見えていた。いい風景だ。これを誰かに見せたいという気が起こった。

 頂上へ戻り、来た道を引き返す。やはり一人では物足りないのかと野村は考えた。山行きは一人がいいとずっと思ってきた。行き先を決めるのも、日程を決めるのも、複数では面倒くさく、また、思ったようにならない。歩くときも皆の調子に合わさなければならず、予定の変更もいちいち相談しなければならない。おまけに、ちょっとしたやりとりから気分を悪くすることもあり、気を使わねばならない。だから、山へ行くのに誰かを誘うことはなかった。誘われればかたくなに拒否はしないが、行き先に興味がなければ断った。それが最近は、山にいるときの気持ちを誰かと共有したい、誰かに知ってもらいたいと思うようになった。一人では寂しいというほど強い思いではないので、あえて誰かを誘うまでにはいたらないが、誘われれば、つまらなく思える山でもついていくようになった。

 下ってみると、登っていたときよりも傾斜が急に思える。尾根をたどっていくのだが、木が密でなく下草も少ないので、道を間違えやすい。木につけられている標識のテープに注意する。夏よりも日の暮れは早くなっており、夜間の温度は低下する。迷わないようにしなければならない。谷に近づくにつれ、かん木が多くなり、紅葉が目につくようになる。谷におりると川沿いの道だ。一度急な斜面を下ると、しばらくなだらかな道が続く。それから崖状になった崩れやすい巻道を下りる。小さな猫滝のエメラルドグリーンの滝つぼが見おろせ、さらに下ると高滝の水の落下が間近に見える。落下する滝の中ごろに黄色と橙色の二本のもみじが懸かっていて、薄暗い谷に映えていた。この景色も誰かに見せたいと野村は思った。

 登るときは高滝の下には数組のハイカーがいたが、この時間には誰もいなかった。ここまでくれば遭難の危険はほぼなくなる。あと一時間、整備された探勝路を歩くだけだ。緊張が解け、一仕事終えたという快い疲労の感覚に包まれる。だが油断してはいけない。水にぬれた岩や鉄のはしごは滑りやすいし、疲れた足はふんばりがきかない。転倒するのはこういう時だ。

 五時過ぎに野村はようやく駐車場についた。着いたときはいっぱいで入れず、手前の路側にとめなければならなかったが、今は二台残っているだけ。その車の連中がテントを張っていた。連休なので明日登るつもりなのだろう。日帰りではきついコースだ。連れてくるとしたら誰がいいだろうかと野村は考えた。タフな奴なら喜びそうな山なのだが。

 166号線へ出る前のホテルに温泉があった。野村はそこで風呂に入った。風呂から出ると恵子に電話をかけた。

 職場が一緒になったのがきっかけで野村と恵子は付き合いはじめた。野村は独身で、恵子は大分以前に離婚しており、彼女の子供達は既に独立している。お互いに一人暮らしだから付き合いやすかった。その頃、野村は十年近く付き合っていた女性と別れたばかりだった。別れたあと予想しなかった空虚感があり、それを恵子が埋めてくれた。三回目のデイトで野村は恵子のマンションの部屋へ行き、恵子と性交した。恵子は、こんなの、いいのかしら、と早すぎる展開に戸惑いながら、自分で服を脱いだ。それから、野村が休日前に恵子の部屋を訪ね、泊まることが続いている。

 恵子がどんなつもりで付き合おうとしたのか野村は確かめようとしなかった。自分の気持ちは、今さら結婚する気はない、と言ってある。今のままでどんな不都合があるというのか。二人とも生計は立つのだし、あえて一緒に住む必要はない。四六時中一緒にいればお互いに嫌なところが目につくだろう。二人で楽しいときを過ごせればそれでいいのではないか。恵子が野村の態度に納得していないのは野村には分かっていた。それでも野村から離れないのは、野村の考えが変わることを期待しているのか、野村を失いたくないからだろうと、恵子の気持ちを野村は推し量っていた。

 付き合い出して一年ほどしたとき、恵子の態度が変わったことがある。私を粗末にしてはだめよ、とか、あなただけでなないのだから、という言葉を会話に差し挟む。野村がいるときにはかかってきた電話に出ようとしない。何かを隠していながら、言い出したい素振りである。野村は無視しようとしたが、あまりにうるさくなったので、問いつめてみた。そのとき野村は恵子の職場から異動しており、野村のあとに配属された男が恵子にプロポーズしてきたというのだ。

「あいつは妻帯者じゃないか。」

「奥さんとは離婚するというの。」

「それで、どう返事したんだ。」

「はっきりしたことは言っていない。」

「どうするつもりだ。」

「あなたはどうしてほしい。」

 野村は腹が立ってきた。恵子は罠をかけている。野村が断れと言うためには、結婚の機会を放擲する代償が必要だろう。代償を与える気もないのに、断れとは言えない。野村の決意を引き出すことが目的だとしたら、恵子は野村を見損なっていた。恵子と結婚するか別れるかを選択しなければならないのなら、野村は別れるつもりだ。恵子がぜひとも結婚したいのであれば、野村にはその望みをかなえてやれないのだから、結婚の機会を与える者に立場を譲るつもりだ。

「私に責任を負わさないでくれ。君が選べ。私は結婚はしない。それが不満なら、別れよう。そいつと結婚するがいい。君を失うのは辛いが、君のためなら仕方がない。私はいま以上のことはしてあげられない。」

 しばらくして、あなたを失いたくない、と恵子が折れてきた。ポロポーズははっきり断る、と恵子は言った。だが、恵子の不満が消えたわけではない。あなたは、私が思っているほど、私のことを思っていない、と恵子は野村を責めた。野村にはどうしようもなかった。それが努力してできることだろうか。野村の変わらぬ態度に、恵子の不満も変わらなかった。

 電話での恵子の返答は刺々しかった。野村が一人で出かけたことで機嫌を悪くしたらしい。恵子は登山の経験がほとんどないので一緒に登らない。一度、野村が山に登っている間、恵子が別行動をとるという旅行をしたが、恵子は楽しめなかったようだ。たまには一人で山へ登るくらいゆるしてくれてもいいのではないかと野村は腹立たしかったが、電話では言わなかった。

 休日はほとんど恵子と一緒に出かけていた。いろんな所へ行った。一日かけて車を走らせ、時には一泊か二泊の遠出。夏には日本海に泳ぎにいった。陽焼けを避けるため、海岸に着くのは午後五時頃。その時間だと浜にはほとんど人がいず、駐車場が無料で使えた。まだ十分明るく、水は適度に冷たい。二人で沖に浮かべてある四角い休憩台まで泳ぐ。台の上にいたカモメが逃げていく。台はやや高く、登るのに苦労する。台の上で寝転んだり、台から飛び込んだりして遊ぶ。一時間ほど泳いで水からあがり、駐車場の横のトイレの洗面台で体をふく。

 春にその海岸に行ったとき、ドーベルマンを散歩させている人と話をした。その犬は海が好きなのだそうだ。突堤の段の一番下はわずかに水に浸かっているが、そこを犬は行ったり来たりして、深みをのぞいている。魚を捕まえたいらしい。暮れかけた海岸であきずに水の中をうかがう犬を野村と恵子は手をつないで見ていた。

 犬にはたくさん出合った。山の中の小さな温泉の入口で、畑の中の道に大形の犬が倒れていた。そこへいく前に猫だか狸だかの轢かれた屍骸を見ていたので、とっさによけて通り過ぎてから、様子をみようと車を停めた。あんな大きな犬まで轢かれてしまったのかと見ていると、あとから来た軽トラが犬の横に停まって、乗っている人が犬に話しかけている。犬は首を上げた。犬は死んでいたのではなく寝ていたのだ。道の真ん中で。野村と恵子は大笑いした。犬は動こうとせずまた首を下ろした。のんきな犬、のんびりとした温泉。

 冬の飛騨のペンションにいたダルメシアン。晴れた朝、野村と恵子は長靴を借りて夜に降った雪に埋もれた車を掘り出した。庭の隅の柵の中に犬小屋があり、一匹のダルメシアンがいた。柵の外から撫でていると、ペンションの男の人が外へ出してくれた。犬は雪の中を走り回っては彼等の所へ来、また離れて走り回る。しばらくすると車が来て、中にもう一匹のダルメシアンがいた。妊娠しているので家へ連れて帰っているのだと、運転してきた女の人が言った。男の人は二匹の犬を繋いで散歩に連れていった。

 車を走らせながら、野村は楽しかった恵子との旅を思った。この楽しさを持続することがなぜ出来ないのだろうか。恵子の前に付き合っていた女性との関係がおかしくなったとき、彼女から言われたことがある。あなたにとって、私は、好きなとき、好きなようにできる相手でしかないのね。恵子も野村の態度を享楽的すぎると思っているのだろうか。

 恵子の気持ちを察することはできる。彼女を喜ばすために結婚することはできる。だがいずれにしろ嫌になったら別れたくなる。嫌にならなければずっと付き合っていればいい。あえて結婚する必要があるだろうか。

 嫌なことはしたくない、嫌なことをしなければならないような関係に縛られたくないと野村が思っているのは事実だ。そのことが可能ならばいいのではないか。誰にも頼られない代わりに、こちらも誰にも頼らない。そのことで損をしていることも分かっている。その損は引き受けるし、文句も言わないつもりだ。だから、放っといてくれればいい。

 恵子のところに寄ろうかどうか、野村は迷っていた。電話に出た状態の恵子には会いたくなかったが、そういう努力をしないと恵子を失ってしまいそうだった。そういえば、プロポーズしてきた男とどういう話になったのか、恵子は言わなかった。野村もあえて聞かなかった。恵子はリザーブとしてその男との関係を続けているのかもしれない。あるいは、また新しい男が現れたのか。そういう男を避けろとは野村からは言えないのだ。そういう男を必要としない保障を野村は恵子に与えていない。

 車は榛原を通り、針ICから名阪に入った。西名阪、阪神高速と恵子のマンションに近づいていく。野村は迷い、こんな悩みを与えた恵子を憎んだ。

 野村は恵子のマンションの前に車を停めていた。いま会いに行かなければ、決定的に恵子を失ってしまうような気がする。恵子を失うのはやはり辛いだろう。いまはさほどでなくとも、別れてしばらくたてば未練が起きてくる。

 恵子と別れてしまうと一緒にドライブ出来なくなるのが惜しかった。初めていくところや、行ったことのあるところを、二人で訪ねるのは楽しかった。一人よりも二人の方が見るものの価値が大きくなるとか、あるいは、二人で見る方がそれを見たという事実が確かなものになるとか、そんな感じだろうか。誰にも知られずに一人で見ているのは頼りない気がする。

 中年というより老齢という言葉がふさわしい年齢になりかけていることを、野村は受け入れていた。職場の連中に登山に誘われ同行したとき、年齢は若いが経験のない彼らにひけをとることはないと野村は思っていた。しかし、登り出すと彼らのスピードについていくのがやっとで、リードすることなどとうてい出来なかった。肉体の衰えは明らかだった。そのことは同世代の恵子も感じているのだろう。人生をどのように終わらせるか考えざるをえないのだろう。

 野村は先月の登山のときのことを思い返した。そのことがずっと気になっていた。遅い夏休みをとって剣岳に登った。剣岳に登る気になったのはテレビでドキュメンタリーを見たからだ。山岳遭難救助活動を取り上げた番組だったが、そこに映し出された剣岳やその周辺に妙に惹かれた。剣岳はまだ登ったことがなかったので行ってみる気になった。頂上に登ろうとした日は空一面を低い雲が覆い、雨が降るのは確実で、いつ降り出すかが問題だった。山小屋の人から雨になったら登るのをあきらめるようにと忠告された。登っているうちは雨にはならなかった。ときどき雨滴が落ちてくるが、本格的な降りにはならない。野村は弱気になってちょっと迷ったが、登っている人がいるので登り続けた。もうすぐ頂上というところで雨になった。雨具をつけて頂上に着いた。雨の中で野村が遅い朝食を食べているうちに他の登山者は下山して一人になった。

 雨の雲で視界は近傍に限られているせいか、高峰に一人でいるという危うさ、頼りなさを強く感じる。飛騨側から吹き上げてくる風に飛ばされそうに感じる。野村は不安になった。野村の登山靴は底がすり減ったせいか滑り易くなっている。特に下山のときに滑って仰向けに転んでしまうことがよくあった。雨で濡れた岩場を下りられるだろうか。ここまで登ってから雨が降るなんて罠にかかったような感じだった。ここにじっとしていれば安全なのだが。しかし下りないわけにはいかない。野村は孤独を感じた。彼が転落しても誰も気づかないだろう。彼がいなくなったことを誰が心配するだろうか。職場の人間や姉が気づいてくれるのはしばらくたってからだ。彼がいなくなっても困る人間はいない。恵子にしても職場の同僚としての立場を越えようとはしないだろう。

 突然野村は恐くなった。それは馬鹿げた、不必要なおびえだった。野村が直面しているのは、慎重にさえすればこの山に登る人間なら誰にでも乗り越えられる程度の困難にすぎなかった。しかし、そのときは、自分では状況をどうすることもできないという無力感と、彼がこんな窮地にあることを誰も知らず助けを期待できないという絶望感が、現実の事態の悪さに見合わないほどの激しさで野村を押しつぶした。こんなことには一人で耐えられない、ただただ助けがほしいと思った。

 そのとき、雨の中を登ってきたパーティが山頂に現われた。三人の平凡な中高年の男たちだった。野村は自分の恐怖が大げさだったことに気づかされた。彼らが登ってこれ、下れるのだから、そんなに大した危険はないのだ。野村は山頂を離れて、降り始めた。体を動かしてしまえば、困難に思えた行動は作業の積み重ねに過ぎなくなる。あれこれ考えることなく淡々とこなしていけばよい。こんなことを怖がる必要はなかったのだ。

 野村は自分の恐怖が意外だった。山そのものが恐かったのではなかった。一人でいることが恐かったのだった。一人でいることの無力さが恐かったのだ。彼は自分にそんな弱さがあるのに気づいていなかった。彼は今までの人生を一人で乗り切ってきた。本当は目に見えない形での多くの人の助けがあったのだろうが、少なくとも彼の意識においては、身の振り方から日常の家事まで、独力でやり遂げてきた。例えば、変な例かもしれないが、山の中の道で車輪を溝に落としてしまったことがある。誰も通らない、ケータイも通じない山の中で、彼は一人で倒木や石を使ってジャッキの足場を作り、車を持ち上げて道に戻した。そういう経験が、困難なことでも他人の助けなしに切り抜けられるという信念を作ってきた。だが、幸運もあることは分かっていた。その幸運がいつまで続くか不安になることがあった。いつかは一人ではどうにもならなくなる事態に落ち込むことがあるのではないか。そういう弱気が彼を捕らえたのだった。くじけてしまいそうになって、誰かに助けてほしいという気持ちが出てきたのだった。あるいは、年のせいなのか。

 野村は孤独死ということは恐れてはいない。一人で生きていかねばならいとしたら、一人で死ぬのは当然なのだ。親族がいたって、死を待たれているような状況が幸せだろうか。それに、誰かに見取られて死のうと、誰にも知られずに死のうと、死ぬときはどうせ一人なのだ。心中でもない限り、誰も一緒について来てくれはしない。だから、恐いのは死ではなく生だ。一人で生きて行かねばならないことの恐怖だ。

 野村は灯のついたマンションを見上げた。恵子の部屋は見えない。このまま一緒に過ごすなら、恵子の望むように結婚すべきだと思う。

 野村はマンションの部屋の中のことを思い浮かべた。浴室で二人裸になってお互いの体を洗い合う。石鹸を体になすりつけ、手のひらでなでていく。野村はひざまずき、立っている恵子の足を彼のももに乗せ、指の間まで洗ってやる。部屋の半分を占めるピアノの足元にひいた布団の中で目覚める朝。起き出して廊下の横の部屋のドアをそっと開ける。狭い部屋一杯のベッドの中でまだ寝ている恵子の横に滑り込み、背後から抱きしめる。恵子が作ったトーストとコーヒーがテーブルの上にある。恵子は卵焼きを作っている。出来上がるのを待つ間、野村はテレビを見ている。恵子は新聞を取っていないので読むものがないのだ。テレビを見ながら、今日は二人でどこへ行こうかと考える。

 そういう生活は可能だ。やろうと思えば。

 この先何年あるか分からないが、死ぬまでずっと。

 それを選ばぬような、それに代わる何かがあるというのか。

 野村は車を出した。恵子のマンションから離れていく。人間は飽きるのだ。どんなに素晴らしいことにも飽きるのだ。夜の闇の中を野村は車を走らせた。彼一人の住居へ帰る道をたどって。

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