ハーブガーデン
野村が市役所の前の道路に車を停めて待っていると、恵子が孫のユーヤとサヤコを連れて地下鉄の階段から出てきた。孫たちを後部座席に乗せた後、恵子は助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「連れて来てしまった」
「娘は?」
「どこかへ出かけてしまって。置いとくわけにはいかないから」
野村は返事をせずに車を出した。これで今日の一日は台無しだ。それでも子供にお愛想を言うだけの礼儀は保った。
「ユーヤ君、サヤコちゃん、元気だったか?」
「うん。おじさんも?」
「ああ、元気だったよ」
今はそうじゃないがね、と野村は胸の中で付け加えた。
「どこへ行く?」
彼は恵子に問うた。二人で行くつもりのところはあった。しかし、ユーヤとサヤコが一緒ではだめだ。名所旧蹟を子供が喜ぶはずがない。
「さあ」
恵子はどうでもいいような返事をする。彼の迷惑を思いやるような気遣いはないようだ。野村はとりあえず車を動かした。後ろの席の二人に聞こえるように大きな声で言った。
「どこへ行きたい?」
ユーヤがすぐに答えた。
「釣り堀」
まだ忘れていないのかと野村はうんざりした。以前、やはり四人一緒にドライブをしたときに釣り堀の横を通り、ユーヤが興味を持ち、釣りをしたいと言い出した。そのときはまた今度と言い逃れをしたのだが、その後会うたびにいつ連れってくれるとしつこくせがむ。野村は釣りなどほとんどしたことなく、竿や餌は釣り場で借りられるとしてもどんな準備をすればいいのか分からず、手順も知らないので面倒なのだ。やってみれば簡単なのかもしれないが、再三ユーヤにねだられているうちに、意地になって避けるようになってしまった。
「今日は駄目だな。また今度にしよう」
「何で?」
「近くにはないだろう。あまり遠くには行けないからね」
「何で?」
「時間がないだろ。出かけるのが遅くなってしまったからね」
それは恵子への皮肉でもあった。以前から今日のデイトは約束していたのに、起きるのが遅かったとか、しておかねばならないことがあるとか電話で言ってきて、結局待ち合わせの時間が昼前になってしまった。
「もう、昼ご飯の時間だな」
野村は独り言のように言った。
恵子と野村は職場で知り合った。恵子は離婚していて、野村は独身だから、親しくなるのは簡単だった。恵子には子供が二人いて、最近までマンションで息子と一緒だったが、息子が結婚して独立したので、一人暮らしになった。二人が親しくなったのはその頃である。ところが、娘が孫二人と恵子のところへ転がり込んできた。娘は二回離婚し、三回目の同棲も長続きしなかった。津田は娘の同棲先に恵子と一緒に訪ねたこともあるし、孫たちを預かった恵子に付き合ったこともある。孫たちに対する娘の扱いが心配なので、孫を引き取ろうかというような話もしていた。そして、とうとう親子で出戻りだ。ユーヤは小学生の男の子、サヤコは小学校入学前の女の子。
後ろの席で二人が蹴ったり殴ったりのけんかを始めた。恵子が怒鳴る。
「やめなさい!」
「だって、お兄ちゃんが」
「ユーヤ、サヤコをいじめるのはやめなさい」
「いじめてなんかいないもん」
二人は仲が悪い。野村は思う。もし、自分に妹がいたら、優しくしてやるのに。いたかもしれない妹のことを思うと、野村は切なくなる。だとしたら娘はどうなのか。もし娘がいたとしたら。
ユーヤが妹をいじめる理由は、サヤコの祖母(父親の母親)から差別的な扱いを受けたからではないかと、恵子は推測している。二人の父親は違っている。三人目の父親はどちらもの二人の父親ではなかった。その父親とももう別れてしまっている。
「お昼に何が食べたい?」
野村は兄妹の注意をそらすために聞いた。
「ラーメン」
「オムライス」
二人とも食べ物の好みが偏っている。これも母親のせいか。
「ファミレスにするか。ファミレスにラーメンはあったかな」
「ラーメンはないんじゃない」
「お子様ランチはどう」
「あの子たち、食べないものがあるから」
「そうか。じゃあ、ハンバーガーにするか。近くにチェーン店があったはずだ」
「ハンバーガーならいいわね」
チェーン店はすぐ見つかった。野村はこういう店には入らないので、注文の仕方が分からない。選ぶのは恵子と孫たちに任せた。店内の簡素なテーブルとイスの席について、相変わらずユーヤとサヤコが食べながらお互いにちょっかいを出し合い、恵子がそれを止めようとするのを見ながら、公園にでも行くかと考えていた。野村は子供と暮らしたことがないから、彼らが何を喜ぶのか分からない。自分の子供のころを思い出しても、時代が違うし、それに、性格も違うのだ。ただ、彼らが体を動かすことが好きなのは、何回か会うことで分かるようになっていた。
結局、府立N公園に行くことになった。ここには、野村は、水仙、チューリップ、バラ、アジサイ、コスモスなどそれぞれの花の時期に、恵子と一緒に来ている。北側に大きな池があり、南側の丘陵をめぐる道に沿っていろいろな植物が植えられてある。子供たちはみんなで一緒に歩くだけでも楽しそうだ。何か興味を引くものがないかと探している。大人たちにすればしょうもないものでも、それで遊べないかと試してみる。
ワイヤーに下げられた移動できるロープにつかまって滑空できる遊具(ターザンロープというらしい)があるのを野村は知っていたので、まずそこへ連れて行った。安全を考慮してかワイヤーの傾斜はゆるく、さほどスピードは出ない。ユーヤはロープを持って走ってから飛び乗る。サヤコにはそれができないから、ロープを抱えさせ、お尻が留め具に乗っているのを確かめてから、押して加速してやる。ケンカをしないように交互にさせる。
ユーヤは自分の技量を誇るように得意げだ。サヤコは単純に地表を滑るような動きを喜んでいる。サヤコの適度な重量が手を離れて飛翔していくのが、野村にもボールを投げるような快感を与えた。恵子は微笑みながら見ている。
何回もするので野村はやや疲れ、飽きた。
「もういいだろ」
サヤコは承知しない。
一組の家族連れが現われ、小さな男の子と女の子が遊具の傍まで来た。ユーヤとサヤコは既得権を手放そうとしない。野村は言った。
「乗せておあげ」
二人はしぶしぶ譲ってかわりばんこに滑空するが、待ち時間が長いので明らかに興味が失せたようだ。
「もういいだろう。行こう」
野村がそう言うと、今度はサヤコも従った。林の中の斜面の道を下ると、小さな池がある。アシのようなものが植えられ、ビオトープとしているようだ。池に架けられた木道では子供らが笹の茎に木綿糸をつけて何かを釣っている。彼らのポリバケツにはザリガニが何匹が入っていた。ユーヤもサヤコもしてみたそうだが、道具がない。うろうろしていたサヤコが捨てられた笹の竿を見つけた。糸の先には餌のスルメも残っている。サヤコは早速水の中に糸を垂らした。それを見ていたユーヤがサヤコから竿を取ろうとしたので、恵子が叱った。
「サヤコが見つけたのだから、サヤコにやらせなさい」
ユーヤはサヤコでは無理だと文句を言ったが、手を離した。野村は水の中を覗き込んだ。濁っていてよく見えない。メダカでもいるのだろうか。イモリはいるようだ。ザリガニは見当たらない。ユーヤはサヤコが諦めるのを期待しているようだったが、サヤコはザリガニが現われるのを辛抱強く待っている。
「ユーヤ君、こっちに川があるよ」
野村は水遊びができそうな流れにユーヤを誘った。公園の池はため池で、小さな川が流れ込んでいる。河床は赤っぽい砂に石が混じり澄んだ水が浅く流れている。草が繁った岸から川へ下りる道がついていた。ユーヤは靴を脱いで水の中に入った。何か生き物を捕まえる気だ。小さな蟹かエビがいるかもしれないが、素手のユーヤに捕まるような魚はいまいと野村はあなどった。ユーヤは最初はそおっと水の中を覗き込んでいたが、何も見つからないのに業を煮やしたか、乱暴に水を撥ねたり、石を動かしたりし出した。野村は水際に立ってそれを見ていた。砂地の水辺に小さな木の枝が半分埋まっていて、ユーヤがそれを踏むと砂から飛び出たが、同時に一匹の魚が跳んで出て砂の上に落ちた。木の枝に隠れていたのが驚いて逃げようとしたのだろう。ユーヤは難なく捕まえた。なんという間抜けな魚だと野村はあきれた。名は分からぬが、二、三センチぐらいの形のいい魚だ。ユーヤは砂地に小さな池を作って魚を入れた。
味をしめたユーヤはさらなる獲物を求めて水の中を探ったが、そうそう幸運はない。恵子とサヤコが来た。二人ともユーヤの捕まえた魚を感心して見ている。サヤコも水に入りたそうだったので、野村はユーヤに言った。
「もう、いないだろ。そろそろ行こう」
「魚を入れとく物ない?」
ユーヤは魚を持って帰りたがった。野村と恵子はあきらめるように説得した。持って帰ってもどうせすぐ死んでしまうから、可哀そうだ、放しておやり。幸い、魚を運べそうな容器は見当たらなかった。私たちの反対を押し切るのは無理と悟って、ユーヤは魚を流れに戻した。
子供たちが何か食べたいと言うので、恵子はバッグの中からポテトチップスの袋を出した。それを開けて歩きながら四人で食べる。主に食べるのはサヤコとユーヤで、野村と恵子は付き合う程度。池をめぐる道を歩いた。池にはカモがたくさんいて、人の姿を見ると寄ってくる。餌をあげる人がいて、カモはそれを期待しているのだ。野村も恵子もそういうことは嫌っていた。できるだけ自然に干渉しないのが正しいと信じているからだ。むろん、これだけ自然に手を加えているのに、そのような自制がどれほど効果があるのか疑わしいが、せめて自分のできることぐらいはするべきなのだから。ユーヤやサヤコにもそういうことは言ってある。
池の周りを歩いて行くと、カモがついてくる。サヤコはわずかに残っているポテトチップスをあげたがっていた。
「ダメ?」
野村は妥協した。小さな女の子の与える少しのポテトチップスぐらいで、自然環境の破壊にはつながるまい。野村たちはその弊害を教え込み、彼女はずっと我慢してきたのだから。
「もうあまりないんだろう?いいよ」
サヤコは喜んでポテトチップスの破片を池に投げた。カモは大慌てでくちばしを寄せる。ユーヤがサヤコから袋を取り上げた。自分もしたいのだ。サヤコが大声を出して怒り出した。恵子と野村がきつく言うのでユーヤは袋を返したが、もうポテトチップスはなくなっていた。恵子がサヤコを慰めているので、野村はユーヤを少し離れたところへ伴った。
「君はお兄ちゃんなんだから、サヤコちゃんの面倒を見なくちゃだめだろ。男は君一人なんだから、お母さんやおばあちゃんを助けてあげなければいけないよ」
そういいながら、野村は後悔した。こんな説教じみたことをいい気になって言うなんて。ユーヤだって言われなくとも分かっているのだ。それに、彼に何ができよう。ただ重荷を背負わせるようなものではないか。そうでなくともつらい目にあっているというのに。
「ちょっと休憩しようか」
池から斜面を少し上がったところに藤棚があり、そこにベンチが据えられていた。四人はそこへ腰かけた。恵子がペットボトルから紙コップにお茶を注ぎ、みんなに渡した。お茶を飲むユーヤとサヤコをいとしそうに見つめている恵子の横顔を見て、うかつなことだが野村は彼女が二人を愛していることに改めて気がついた。それは当たり前のことだった。何のかんのと言って手を焼いていることを嘆いてはいるが、彼女は孫がかわいいのだ。一緒に暮らすことが楽しいのだ。そういう感情は理解できるが、野村には実感できないものだった。
最初、野村は彼らが好きになれなかった。ユーヤはひねこびた感じで、サヤコはこましゃくれて変になれなれしい。だが、何回か一緒に出かけるうちに、親しさの感情は持てるようになった。それでも、身内というには程遠い。
恵子が、野村と二人で、ユーヤとサヤコを育てたいようなことを言ったことがある。娘にまかせておくと、二人の将来が心配だから、と。野村は、やはり母親がいないと、とか言って難色を示したのだが、はなから一緒に暮らす気にはなれなかったのだ。
四人がすわっている藤棚の近くにトイレがあるのを見つけて、野村はその建物に歩いて行った。野村がトイレから出たとき、藤棚の下の三人はお互いの顔を見ながら何か話をしていた。何を話しているのか野村には聞こえない。三人は野村の姿に気づいていないようだった。野村はそのままたたずみ、しばらく三人を見ていた。通りすがりの人間が幸福そうな家族を眺めるように。
トイレの向うに小さなハーブ園があった。藤棚まで戻った野村は恵子と子供たちに言った。
「ハーブ園があるから行ってみよう」
四人はベンチを離れてハーブ園へ向かった。花壇が小さくいくつもに区切られそれぞれ丈の低い植物が植えられている。葉が繁っているだけなので地面に差し込まれている名札がなければ区別がつかない。わずかにラベンダーらしき花が咲いている。野村は葉に触れた指のにおいをかいだ。
「これはミント。かいでごらん。ハッカのにおいがするよ」
恵子はかがんで手を伸ばし、ユーヤとサヤコはしゃがみ込み、野村を真似た。
「ほんとだ」
バナナセージはバナナの、カレーセージはカレーのにおいがした。