怒る直哉
1
もはや「近代的自我」という概念の破綻は明らかだが、その概念を使った文学批評についての検討はおろそかにされたままである。そんな過去のことなどにかまけているヒマはないと言うのだろうか。しかし、そういう過去の批評の評価によって、文学作品がおとしめられたまま放置されているのは、日本文学の恥ではないか。
私たちの能力には限界があり、そしてその限界を形作る要因の一つが時代であるのは明らかであるから、ある時代になされたことが後の時代に批判されるのは当然のことであろう。それは健全なことでもある。しかも、時代的制約というのが、そこに居合わせた人間の能力不足にもよるものであるとしたら、余計にそうではないだろうか。その程度の批評家しか持てなかったのは日本文学の不幸であるのだから。
私はここで志賀直哉の評価について批判を試みる。今さら志賀直哉か、という声も聞かれようが、彼の評価が誤解の上に成立しているとすれば、正されねばならないであろう。志賀直哉はかつて偶像視され、その後偶像破壊があり、またその後には感覚的世界を手がかりにした再評価の試みもあった。そこで言われたのは、行動といい、気分といい、感覚といい、いずれにせよ志賀直哉の文学を特徴づけるのは非知性的であるということであった。そのように志賀直哉を評価しあるいは批判した論者たちは、表現者としての志賀直哉を見損なっているように思われる。
志賀直哉の文学は自己を客観化しえていないというのが通説になっている。そこから派生してくるのは、構成というか反省性というか、創作における作為性の欠如、知性よりも感性の優越などといった特性の指摘である。しかし、そのことが作品をどのように損ねているかを示すための論理展開ははなはだ奇妙なものである。非客観的=主観的であることは、自分勝手、自己中心、エゴイズムという道徳的批判に重ね合わされている。そして、客観的=他者への配慮=登場人物の適切な描写、主観的=思い上がり=肥大した主人公の描写というアナロジーの連鎖で作品が解釈されるのである。一体、作者がエゴイストであることと、作品の善し悪しにどういう関係があるのだろうか。例えば、研究者や技術者がエゴイストであることがその能力に疑いを持たせることになるであろうか。作曲家や画家などの芸術家も同様である。なぜ作家だけが別でなければならないのか。「自己の生活の趣味や倫理の統御のもとに入らぬ広い社会を描く」(中村光夫『志賀直哉論』)ことが優れた作品を保証することになるなどとなぜ言えるのだろうか。
もちろん、このような見方の反動として、より緻密で多面的な分析の必要性が言われ、そのような仕事もなされている。感覚あるいは観念を作品として定着させるための技術という面で、志賀直哉に想像力を認める論者もいる。ここで私はもう一歩進めて、志賀直哉の作品を成り立たせているのは知性であるという仮説を提示する。
私には志賀直哉は知的な作家であると思われる。「知的」と表現したのは、知的な事象を扱う(例えば国語をフランス語にする提案)というのではなく、事象を知的に扱うという意味である。表現は知的な作業であり、表現されているものが行動であり、気分であり、感覚であったとしても、それらは知的に扱われているのである。むしろ志賀直哉には作品を知的に構成する作者としての性格が強く現れていると言える。作品は作者自身を表現したものではなく、作者の考えたことを表現したものである。存在と思考の区別は志賀直哉においてこそ明確である。
志賀直哉は知性的であり、反省的であり、構成的な作家である。そういう形容に抵抗があるならば、理屈っぽいという言い方にしてもよい。それがなぜ非知性的な作家と受け止められたかというと、彼が反知性を表現していたからなのである。それをまともに受け取って、表現することに彼の知性が隠れて働いていることに気がつかなかったのである。
志賀直哉が知的に優れているというようなことではない(もっとも、劣っているとも言えないだろう)。彼の作品における知的操作の比重が、批評家たちが思っているよりも大きいのである。その好例が『クローディアスの日記』である。しかし、この作品はピント外れな評価をされてしまった。この作品がどのように受け取られていたか、いささか極端な例ではあるが引用してみよう。
この様なハムレットに対して志賀氏のクローディアスは堂々と云ふのだ。「自分に於いては『思ふ』といふ事と『為す』といふ事とに殆ど境はない。」志賀氏にあっては、行動は思索の唯一の形式であり、思索はそのまま行動の内容であって、両者の間には、どの様な分裂もないのだ。然しこの志賀氏の今日特に希有な資質については、既に小林秀雄がその志賀直哉論の中に、俊慧な筆で描いている。私は重ねて同じ事をここに述べる必要を感じない。(井上良雄『芥川龍之介と志賀直哉』)
ただし、小林秀雄は『クローディアスの日記』について、「成る程、氏の透明な理智は、屡々世の逆説的風景を明しはする、『クローディアスの日記』の如く、『正義派』の如く。だが、氏は嘗て己れの理智を持て余した事はないのである。別言すれば、嘗て己れの理智の操作を情熱の対象としたことはないのである」(『志賀直哉』)と述べているだけである。『クローディアスの日記』は扱いに戸惑わされるところのある作品なのだ。
『クローディアスの日記』は「『ハムレット』の劇では幽霊の言葉以外クローディアスが兄王を殺したといふ証拠は客観的に一つも存在していない事を発見したのが、書く動機となった」(『創作余談』)作品である。しかし、ハムレットは(むろんシェークスピアも)そのことは分かっていた。ハムレットは亡霊の証言が幻想ではないかと疑い、証拠を得ようとして暗殺劇をクローディアスに見せて反応をうかがうのである。劇中劇の後、クローディアスは独白する。
おれの罪は臭く、その臭いは天まで達する。
それは人類最初の呪を、カインの呪を、兄弟殺しの極印を、
つけているからだ。(本多顯彰訳『ハムレット』第三幕第三場)
志賀直哉は『ハムレット』を読み返してみて、クローディアスが有罪とみなされる自白(独白ではあるが、観客には聞こえる)をしているのに気がついたであろう。弁護しようとしたら、被告が罪を認めてしまっているのである。思いつきはよさそうに思えたが、細かく検討してみたらうまくいきそうにない。当初のモチーフからは、作品は放棄されるべきであった。しかし、いったん書き始めたからには何とかまとめたい。そのため、心躍る快挙が、知的な苦行になってしまったのである。
志賀直哉の解決策は、クローディアスは嫂を獲得するために兄を殺したいという気持ちは抱いたが、実行はしていない、というものである。「自分に於いては『思ふ』といふ事と『為す』といふ事とに殆ど境はない」というのは、劇中劇に対してクローディアスが示した狼狽と口走った言葉に対する、志賀直哉の考えた弁解なのである。クローディアスが罪の意識を持つのは、罪を犯そうという気持ちを抱いたからである。それだけでしかないのにしては罪の意識が激しいのは、彼が反省的でありすぎるからだ。つまり、ここに提出されているクローディアス像というのは、考えすぎる人間なのである。そうなってしまったのは、自説を補強しようとする志賀直哉の知的な努力の結果なのだ。
『クローディアスの日記』は知的興味によってのみ書かれた作品なのだから、読者は知的に反応すべきであった。そうではなくとも、志賀直哉によって描かれたクローディアスが「どうにもならない自身の自由な心の方が恐ろしい」とか「然し自然に不図浮ぶ考は、それはどうすることも出来ないではないか」とか弱気なことを言っている点に注目すべきだった。志賀直哉がクローディアス弁護の根拠にしたのは、思い考えることと実行の区別がつかなくなってしまう心理状態だった。それを用いたのは弁護に好都合だったからだが、同時に彼に親しいものだったからでもあった。そういう作品をいくつか彼は書いているのである。
2
『范の犯罪』がどう受け取られてきたかについては、小林秀雄を引用するのがいいだろう。
「殺した結果がどうならうとそれは今の問題ではない。牢屋に入れられるかも知れない。しかも牢屋の生活は今の生活よりどの位いいか知れはしない。其の時は其の時だ。其の時に起ることは其の時にどうでも破って了へばいいのだ。破っても、破っても、破りきれないかも知れない。然し死ぬまで破ろうとすればそれが俺の本統の生活といふものになるのだ」(「范の犯罪」)
これが氏の思索の根本形式だ。これは思索の形式といふより寧ろ行動の規定と見える。氏は思索と行動との間の隙間を意識しない。たとへ氏がこの隙間を意識するとしても、それは其の時における氏の思索の未だ熟さない事を意味する、或はやがて氏の欲情は忽ちあやまつ事なくその上に架橋するだらう。洵に氏にとっては思索する事は行為する事で、行為する事は思索する事であり、かゝる資質にとって懐疑は愚劣であり悔恨も愚劣である。(『志賀直哉』)
『范の犯罪』からこれほど見当違いの引用をするのは驚きである。范はこんな風に考えたゆえに彼の犯罪を実行するのではない。翌朝(事件の当日)には「張り切った気がゆるんで来るに従って人を殺すというような考の影が段々にぼやけて来た」のであり、ナイフ投げの演技の直前には「然し前晩のように殺そうという考はもう浮かべはしなかった」のである。犯罪の次第はこう描写されている。
頸の左側に一本打ちました。次に右側へ打とうとすると、妻が急に不思議な表情をしました。発作的に烈しい恐怖を感じたらしいのです。妻はそのナイフがそのままに飛んできて自身の頸へささることを予感したのでしょうか?それはどうか知りません。私は只その恐怖の烈しい表情の自分の心にも同じ強さで反射したのを感じたのでした。私は眼まいがしたような気がしました。が、そのまま力まかせに、殆ど暗闇を眼がけるように的もなく、手のナイフを打ち込んで了ったのです‥‥‥
したがって、范は、「前晩殺すという事を考えた、それだけが果たして、あれを故殺と自身ででも決める理由になるだろうかと思ったのです」、「私はもう過失だとは決して断言しません。そのかわり、故意の仕業だと申すことも決してありません」と自己弁明するのである。
クローディアスが、「思」っただけで「為」したと同じことになってしまうと弁解するのに対し、范は、「為」したからといってそこに「思」いがあったとは限らないと主張しているようである。しかし、両者は対立したことを言っているのではない。二人とも「思ふ」ことが「為す」ことに転化することを恐れているのだ。できれば「思」いを抑えつけたいが、「思」いは暴君となってクローディアスを襲い、范自身を意識朦朧にしていわば勝手に「為す」に転化してしまう。范は心神喪失ないし心神耗弱のゆえに無罪を主張しているとも言える。范が裁判官の前に連れてこられたときには「一目で烈しい神経衰弱にかかっている事が裁判官に解った」とされているのだ。
なぜ『范の犯罪』のような作品を志賀直哉は書いたのであろうか。単に心神喪失による犯罪は責任を問えないということが言いたかったのではないだろう。范が妻を殺したいと「思」ったのは、「右顧左眄、終始きょときょとと、欲する事も思い切って欲し得ず、いやでいやでならないものをも思い切って撥退けて了えない、中ぶらりんな、うじうじとしたこの生活が総て妻との関係から出て来るものだという気がして来た」からである。こういう気分のようなものから逃れるという意図的な行為としてではなく、この気分が昂じて殺人が起こるのである。
これと同じような作品がある。『剃刀』である。床屋の芳三郎は、風邪を引いているのに無理をして客の顔をあたっていて、傷つけてしまう。それまでの苛々が積み重なったせいもあって、「この時彼には一種の荒々しい感情が起こった」。
嘗て客の顔を傷つけたことのなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫ってきた。呼吸は段々忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打ち克つ事が出来なくなった。‥‥‥彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと咽をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えも仕なかった。
気分や感情は殺人の動因となりうる。そんなことは分かり切ったことだ。それを抑えることが社会生活を営むのには必要なのだ。だからこそ、気分や感情ごときは正常な行為の動機として重視されないのであり、そういうものに捕らわれるのは子供じみたこととして蔑視されるのである。志賀直哉はあえてそれに異議を唱えようとした。気分や感情は簡単にコントロールできるものではない。むしろそれは人間を支配し、人間の主体性という観念をあざ笑うものだ。『剃刀』『濁った頭』『范の犯罪』『児を盗む話』などの作品は、そのような志賀直哉の思想の表現である。
それは志賀直哉自身が気分や感情に苦しめられたからではある。彼とて社会から遊離して暮らしているわけではないから、気分や感情のままに行動しようとすれば他人と衝突する。身近な他人である家族とは一番にぶつかるであろう。志賀直哉がわがままな性格であり、また、彼のいるのが他人に屈従せねばならぬことがほとんどない生活環境であったという特殊な条件ゆえに、そのような思想が形成されているから、一般性がないと批判されるかもしれない。
思想の一般性などどうでもいいというわけではないが、要は私たちが作品にこめられたメッセージをどう受け止めたかが問題であろう。あいにくなことに、先の小林秀雄の引用文のように、志賀直哉の思想は、思想が表現しようとした感情や気分と混同されてしまったのである。
3
さらに『范の犯罪』にこだわってみよう。この作品のポイントは、動機と行為の結びつきをどう判断するかである。事件が起こる前の范と妻との関係は、范の犯罪行為の動機としてみなしうる。一方、范の犯罪行為は明確に意図的なものではないかもしれない。常識的には、事件前の状況を犯罪行為と結びつけて、故意の殺人であるとして范を有罪にできるだろう。しかし、「賢明な」裁判官は范を無罪とするのだ。裁判官(と作者)は、行為をそれ以前の文脈から意味づけることは必ずしもできない、なぜなら、行為は常に明確な意図に裏付けられてはいないからである、と考えるのである。しかし、これは大胆な論理である。このような論理が素直に社会に受け入れられることはないであろう。
そう思うと、私は『范の犯罪』をある作品と比較してみたくなる。殺人事件の裁判を扱った作品で、その主人公の事件前の行動が犯罪の理由とされてしまうが、実は殺人の行為自体は動機があいまいにされている作品。その作品とはカミュの『異邦人』である。主人公のムルソーは殺人の動機について裁判長に問われて「それは太陽のせいだ」と答えている。作者もそのように描写している。
そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのはこのときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。(窪田啓作訳)
殺害が意識的に行われていないことが重要である。なぜなら、明確な殺意があったなら、作者といえどもこの男を弁護できないからだ。しかし、刃物を持った男に対する正当防衛という見方も排除しなければならない。なぜなら、正当防衛かそれに近ければ被告を死刑にはできないから、この作品が成り立たないのである。そこで、追加の四回の銃撃が必要になる。だが、なぜそんなことをしたのかは前記の描写ではよく分からない。最初の一発だけなら「太陽のせい」にできるだろう。だが、残りの四発はなぜなのか。もしそれが故意になされたのなら、判決の正当性は作者といえども認めざるをえないだろう。作品の構成上、被告を確実に死刑にするために残りの四発必要とされるのだが、それが故意に撃たれたのでは作品が成り立たなくなる。そこであいまいな表現にならざるを得ないのだ。
それはともかく、殺人についての主人公の責任は作者によって棚上げにされて、彼の事件前の非常識な(反社会的な)行動が断罪されることが描かれるのである。この二つの作品の類似がなぜ気づかれなかった不思議でならない。もちろん、二つの作品は主人公の断罪のされ方が違っている。范は無罪になるが、ムルソーは死刑になる。志賀直哉は人間行動の主体性を問題にしているのに対し、カミュは主人公を反社会的存在として断罪する社会の偽善をあばこうとしているからだ。
二つの作品とも思想的な主張が露骨なために作為的なところが目立つので、作品の出来としては評価が高くないかもしれない。また、比べるには、二つの作品の重み(量的な点も含めて)が違いすぎるかもしれない。しかし、志賀直哉が思想的であり知的な作家であることを示す一つの例証ではある。過失ないし事故による死亡が、被告の過去の行動によって殺人として裁かれるという物語は、ドライサーの『アメリカの悲劇』やジェームス・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などが思い浮かぶ。他にもあるであろう。このようなプロットは作家の思いを込めやすいので、様々な意味づけが可能だ。社会が人間を裁くことの無能さとか、実行を意図したことと実行とはいかに区別されるのかとかなど。志賀直哉の独自性は、気分や感情に流されてしまう人間の責任を免除しようというところにある。むろん、志賀直哉は彼の思想が反社会的であることは承知しているのであり、だからこそ創作として表現したのである。
一九五一年に『異邦人』が日本に紹介されたとき、廣津和男と中村光夫の間に論争が起こった。『異邦人』に否定的評価をした廣津和男に対して反論した中村光夫は次のようにも言っている。
「あのときはかういふわけで、かうしたのだ。」といふ説明が感傷的な嘘にすぎないことをカミュはよく知ってゐるのです。そしてこのやうな人間の内面への因果律の闇雲な適用に対する断乎たる拒否が、ムールソオの誠実の形式なのです。彼はマリーとの恋愛が偶然であり、殺人が偶然であることを知ってゐます。それらのことは実際おこらなくてもすんだのです。しかし同時に彼はこのおこらなくてもすんだことをおこってしまうことにしてしまう一点に、生の孕んだ偶然と可能性とを必然の鉄鎖に変ずる一瞬に、人間の行為の恐ろしい本質があることを知ってゐます。(『ふたたび「異邦人」について』)
これは『范の犯罪』の解説として何と適切な言葉だろう。そのように言った中村光夫が志賀直哉を全否定しているのは皮肉なことである。
4
志賀直哉の作品は前期と後期で動(「闘う人」)と静(「和解する人」)の対照をなしているというのが通説である。その妥当性を云々する場合でも、志賀直哉の存在そのものについて語ろうとする必要はないし、またそれは馬鹿げている。志賀直哉の作品は彼の表現したものであり、私たちは彼の表現行為の次元に留まればいいのである。彼の作品は彼の存在の反映であるから、作品を理解するには彼自身を理解しなければならないというのは、作品と作者の関係を単純化した傲慢な態度だろう。志賀直哉の創作過程を知るために、彼の生活状況や人間関係を調べてみることは無駄ではない。それらは彼の表現行為と無関係ではないからだ。けれども、生活状況や人間関係から直接作品の理解が導き出せるほど単純ではない。
例えば、中村光夫は志賀直哉が「作者の生活感情を、そのときどきの生の形で主人公に反映する私小説的な方法」(『志賀直哉論』)しか使うことができないと断定している。中村光夫流に言えば、志賀直哉の私小説的方法に変化はないから、志賀直哉の変化のメルクマールとされる『和解』以後の作品には「和解する人」としての作者の「生活感情」が、それ以前の作品には「闘う人」としての作者の「生活感情」が反映されているにすぎない。方法は一貫しているから、もし変化が見られるのなら、その方法によって反映された存在においてである。
そうであるならば、ややこしい問題が生じてくる。志賀直哉の作品には、書かれた内容の時期とそれを書いた時期が大きくずれているものがある。書かれた時期と書いた時期の「生活感情」が変化していた場合、作品に反映されているのはどちらの時期のものなのだろうか。もし書かれた時期の「生活感情」が反映されているなら、「そのときどきの生の形」ではなく、かってあったものを再現する努力を作者はしていることになる。あるいは、書いたときの「生活感情」が反映されているなら、作者は過去の「生活感情」を評価し直しているのであり、「そのときどきの」二つの「生活感情」が比較されるという反省的な行為が行われているのだ。
一方、志賀直哉の「生活感情」に変化などあったのだろうかという疑問もある。志賀直哉は歳を重ねても若いときの志賀直哉のままであり、彼の作品に描かれた彼自身や、対象への彼の接し方に変化などは見当たらないのではないか。
『志賀直哉全集第四巻』(岩波書店一九七三年)に添付の月報に島村利正という人の「奈良の思い出」という文章があり、その中に以下のようなことが書いてある。志賀直哉はよくも悪くも私小説家であり、彼の作品は人間としての彼によって保証されていると受けとめて、人間としての彼が信じられなければ彼の作品も信じられないと思う人は、志賀直哉のみっともない姿に動揺するかもしれない。だが、私の意図はそんなところにはない。彼のその姿は彼の作品の評価とは無関係であるが、そのことを理解するのには適切なエピソードであると思うからだ。
そのころの奈良公園は芝生を保護するためか、いたるところに「芝生に下駄で立入るべからず」と記した白い木札が立てられていた。靴や草履は咎めないとうのも奇妙であったが、下駄の多かった時代だけに、特にそのような禁札が立てられたのかも知れなかった。しかし、春日山から三笠山まではいる奈良公園はひろく、中年過ぎの依怙地な園丁と観光客との間に、下駄立入りのことでいつもトラブルが絶えなかった。
飛鳥園の小川さんは学生のように、常に朴歯の高下駄を愛用していたので、博物館事務所への芝生の通路などで、園丁と大声でよく喧嘩することがあった。
この野球のとき、志賀さんは下駄でグラウンドの芝生にはいり、ベンチに腰かけておられたのだが、ちょうど通りかかった例の園丁に、
「芝生に下駄ではいってはいかん」
と、傍若無人、乱暴な語気で注意された。志賀さんは観戦に気をとられて、最初その声は聞こえないようにみえたが、近寄ってきた園丁の二度目のその声を聞くと、突然、
「なにッ!」
と云われ、すっと立ちあがって園丁と向い合い、あっという間に両手を四つに組んでなぐり合いになりそうになった。そのとき若山さん達も驚いて立ちあがっていたが、志賀さんの奥さんが駈けよる方が早かった。
「いけません、いけません」
志賀さんの奥さんはそうたしなめながら、白い小さな手で、組んでいるふたりの手首をすぐ解きほぐした。
私はその後東京で、志賀さんの作品を読むとき、いつもこのときの情景が、胸を締めつけるように思い出されてきた。これは志賀さんが「暗夜行路」の後編を完成される十一年ほど前の、四十五歳の夏のことである。
私は志賀さんの晩年まで、何回となく志賀家にうかがわせて頂いたが、そして、むかしの奈良の思い出ばなしがよく話題にのぼったが、このことだけは、ついに先生と奥さんの前でおはなしすることが出来なかった。
この挿話はいかにも志賀直哉らしいとも思えるし、志賀直哉らしくないとも思える。志賀らしいと思うのはすぐに腹を立てる短気なところだが、暴力を振るおうとしたことや、自分の非を咎められて逆上するところは、少なくとも我々のイメージしている志賀らしくない。こんなことは我々にはよくあることである。しかし、志賀直哉が我々と同じような振る舞いをするのであれば、志賀の腹立ちというのは彼の一本気を表しているのではなく、誰もが示す得手勝手さにすぎないということになる。
園丁は職務を遂行しようとしたのだから園丁には全く非がないかというと、官庁や企業の下僚に典型的に見られたように(今ではサービス業という意識が徹底しだしているが)、自分が大きな権威を代表していると錯覚した横柄な態度は反感を呼ぶ。彼らには裁量の権限がないので仕方がないとはいえ、つまらぬことに全力をあげるのだ。だが、そうであるからといって、彼らに反撃するのも大人げないことである。
志賀直哉の文学的傾向は、激烈から静謐へという、本多秋五の言葉を使えば「自我脱却による再生」の過程の表現とみなされている。当然、それは作家本人の思想なり生活態度の反映でもあるはずだ。特に志賀直哉が私小説家とみなされているのであるから、そう受け取るのが自然であろう。本多秋五『志賀直哉』から引用してみる。
「徳山托鉢」の話には、二つのポイントがあるとされている。一つは、徳山がまだ飯時にならぬのに鉢をもって食堂へ行くと、炊事係の雪峰に、和尚、今どき何しにござった、と叱られた。すると徳山は黙っておとなしく居室へ帰って行ったという点である。もう一つは、叱った雪峰の兄弟子である巌頭が、師の徳山と謀って、雪峰の大悟を促すために激励したという点である。謙作が感動したのは無論前の方の話である。
人間誰しも年をとれば自我の殻がうすれて透けてくるので、自分が過誤を犯してそれを指摘された場合、相手が妻であれ子であれ教え子であれ、快く屈するのは別にむずかしいことではないと思うのだが、禅の方ではこの徳山帰方丈のくだりは古来「末期の牢関」とかいって、難透の公案とされているという。それにはそれ相当の理由があるのだろう。
謙作がこの話に感動して泣いたのは、自我の突っ張りをもてあましていた彼が、自我の殻などとっくの昔に消え去った老徳山の自由な挙措を目のあたり見る思いがしたからだろう。
志賀直哉はこの「徳山托鉢」の話が妙に好きで、戦後になってからも辻雙明に答えた談話『常磐松の某日』(昭和三三年六月)のなかで触れ、随筆『老廃の身』(昭和三九年一月)でも触れている。まだ他にもあったかもしれない。
時任謙作が「殊に徳山托鉢といふ話などでは彼は本統に泣き出して了った」のは、『暗夜行路』第二の十三に書かれてある。この部分は大正十年(一九二一年)に発表されている。奈良公園での、志賀直哉が「四十五歳の夏」とは満年齢でいえば昭和三年(一九二八年)だが、「『暗夜行路』の後編を完成させる十一年ほど前」というのであれば昭和元年(一九二六年)になる。どっちでもいい。既に、志賀直哉の文学的傾向の変化のメルクマールとされる『城崎にて』は大正六年(一九一七年)に発表されており、私たちは昭和初期の志賀直哉にもっと大人びた態度を期待してもいいはずである。ところが、志賀直哉の心境の変化がどうあれ、彼は怒りっぽい人間であり続けている。志賀直哉の「自我脱却」というものはその程度のものでしかなかったのか。
しかし、道徳的に作家を裁断してみてもつまらない。作家と作品の関係は、政治家と公約の関係とは違う。全く違うというわけではないだろうが、同じではない。私たちが作家に興味を抱くのは、作品との微妙な関係のゆえである。志賀直哉の怒りと作品における「自我脱却」はどう関係しているのか。
怒りという感情はやっかいなものであり、簡単に制御しかねるものであるが、それを単に未熟さの指標とみなしてしまうのは問題があると私は思う。怒りの感情が私たちに備わっているということには、何らかの理由がなければならないはずである。でなければ、そのようなものを後生大事に幾世代も引き継ぐわけはない。怒りの感情に存在理由があるならば、それを抑制したり行動に結びつけないようにすることはできても、消し去ることはできないであろう。怒りを中心にした感情という観点から、この感情において際立っていたとみなされている志賀直哉の文学について考えてみるとき、私たちは彼がそれをどのように扱うか(文学的に表現するか)に注目すべきであって、人格の変化などを期待すべきではないだろう。
5
志賀直哉の方法も、彼の存在の形も、基本的には変化していない。しかし、彼の作品には変化が読み取れる。方法にも、方法によって反映される存在にも、変化がなかったとするなら、そもそも何が変化したのだろうか。それは彼の方法から導き出される。思想表現という方法は変わらないが、表現された思想が変わったのである。
『城崎にて』では、沈んだ気分、不安な感情に捕らわれたとき、人はそこに一種の安らぎを見出すことが述べられている。その気分や感情は高揚した楽しいものではないが、自己憐憫の快さはある。総てを相対化する死の前では、気分や感情も相対化される。死という概念が気分や感情を抑制する。不快な気分や感情からの別の脱出口が示されたのである。
『和解』は過渡的な性格を持っている。人間は気分や感情に左右されるのであるから、悪い気分や感情からいい気分や感情に移行を願うという点では、『范の犯罪』と変わらない。ただ、その移行が殺人という極端な方法を必要とせず、妥協とか抑制というわずかな負担でも可能であることが描かれてある。そのような考えをさらに進めれば、気分や感情そのものを制御なり克服しようとする方向を目指すことになるであろう。
『城崎にて』『和解』は大正六年に発表された。『城崎にて』に描かれた経験は大正二年のことであり、『和解』の経験は描かれたのと同年の大正六年である。時期的なことはさほど問題にしないでもいい。私は『濠端の住まい』という作品に注目したい。この作品は大正十三年に執筆されているが、描かれているのは大正三年のことである。この作品については、ニワトリを襲った猫がワナに捕らえられて暴れて出す声を聞き、その猫が翌朝には殺されてしまうのを憐れみながら、助けることはできないと断念する作者の気持ちを描いている次の箇所がよく引用される。
私は黙ってそれを観ているより仕方がない。それを私は自分の無慈悲からとは考えなかった。若し無慈悲とすれば神の無慈悲がこう云うものであろうと思えた。神でもない人間——自由意思を持った人間が神のように無慈悲にそれを傍観していたという点で或いは非難されればされるのだが、私としてはその成行きが不可抗な運命のように感ぜられ、一指を加える気もしなかった。
これをどう解釈するかはやっかいである。本多秋五は「『范の犯罪』(大正二・一〇)の前後に書かれていたとしても不自然でなかった」(『「白樺派」の文学』)としてここに前期的特徴を見ている。私の解釈は、「可哀想で」ならないという「私の猫に対する気持ちが実際、事に働きかけて行く」ことができないのを納得させている点で、後期的特徴を持っているというものである。ニワトリとその飼い主の「若い大工の夫婦」対「浮浪者の猫」という利害対立に、第三者としての作者が介入できないのは常識的だが、それを「神の無慈悲」「不可抗な運命」と大げさに言うのは、作者がかつて自分の気分や感情を支配者として認めていたからである。気分や感情は殺人という行為とも匹敵するとされていたのが、神や運命という概念でもって抑制が可能であることを表明しているのであろう。
しかし、私がこの作品において注目するのは別の箇所である。
或風雨の激しい日だった。私は戸をたてきった薄暗い家の中で退屈し切っていた。蒸々として気分も悪くなる。午後到頭思いきって、靴を穿き、ゴムマントを着、的もなく吹き降りの戸外へ出て行った。帰り同じ道を歩くのは厭だったから、私は汽車みちに添うて、次の湯町と云う駅まで顔を雨に打たし、我武者羅に歩いた。雨は骨まで透り、マントの間から湯気がたった。そして私の停滞した気分は血の循環と共にすっかり直った。
いとも簡単な気分転換。気分や感情はちょっとした努力で変えられる。そんなことは志賀直哉も先刻承知であろうが、それが単なる誤魔化しや先送りではなく、生活の知恵として表現されているのだ。『范の犯罪』とは何と違っていることか。
ただ、そのような方法も一時しのぎでしかない。気分や感情は形を変えて次々に襲ってくる。私たちがこの世にある限りそれは避けられない。そこで、さらに一歩進んで、どのような気分や感情の動きにも左右されない、安定した心の状態を求めるようになる。それは現実には不可能に近い。いっときそのような境地に達しえることができたように思えても、持続するのは困難である。だからこそ、それは創作の中で求められ、思想として表現されるのである。
6
安岡章太郎は『志賀直哉私論』の中で、『暗夜行路』の不倫(?)の描き方に疑問を呈している。
正直にいって《俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なんだ》といふ言葉は、直子の過失について言はれたものとしては、真実味がうすらぐのである。勿論、謙作が直子を大して《認めてゐない事》はたしかだらう。しかし、だからといって直子の過失をきいて謙作が最初から、それを自分がいかに許すかといふ点だけしか考へてゐないことが納得し兼ねるのである。もし、あの寛大さが最初から謙作にあるのなら、彼が自分の“不愉快” にあれほどこだはって直子を追求したことは不可解であり、追い詰められて背中を波打たせて泣く直子に《恐しい事》を意識することもない気がする。直子を認めてゐるにしろ、謙作は《イゴイスティック》な、《同時に功利的な考へ方》の男として、妻を奪われたことはそれ自体、もっと激烈な怒りと、痛切な哀しさに、おそはれないでゐられるはずがない。
安岡章太郎はその原因として「最も簡単に志賀氏の結婚生活の経験からは、謙作と直子のやうな不幸な事態は想像出来なくなったためだと言って、間違いないだらう。端的にいへば、妻の過失といふ不祥事を、作家として体験できなかった」という点に求めている。さらに「自分の経験だけを書く私小説家の立場に立って、独断を言ひすぎるかもしれない。しかし、観念を人物化することは、その観念が自分の肉体から得たものでないかぎり不可能なはずだ。まして、われわれの場合、他人の体験を自分のものにすることは出来ない」と付け加える。
しかし、そもそも、志賀直哉が「妻を奪われたこと」を書こうとしていたかは疑問である。謙作の受難としてのみ不倫(と呼べるほどのものか)が用いられているにすぎないように思える。
謙作は直子を憎めない。直子は意図して他の男と性交渉を持ったのではないからだ。もし直子が意図的であったなら、謙作とて「純粋に俺一人の問題」などと言っておられないだろう。直子が他の男を愛するか、他の男との性交渉を望んだりするような物語の展開ならば、謙作の行動は大きく異なってくる。そのような夫婦関係の例は、大山の場面での「竹さん」のエピソードとして出て来る。「竹さん」に対する謙作の見方からすれば、もし謙作がそういう立場になったなら直子を離婚するに違いない。あるいは、直子に執着する自分に苦しむかもしれない。ともかく、そういう物語を志賀直哉が書こうとしたのではないことは確かだ。
また、謙作は直子の相手である要に対決していない。直子の「間違ひ」「過失」の後、要について述べられているのは、大山の宿で「此時謙作は不図、留守を知って又要が衣笠村を訪ねて居はしまいかといふ不安を感じ、胸を轟かした。‥‥唯、要の方だけは其時は後悔しても、若い独身者のことで自分の留守を知れば心にもなく、又訪ねたい誘惑にかられないとは云えない気がするのであった」という一か所だけなのである。なぜ要を責めないのかという点については、直子の告白以前、要が謙作の留守に家に泊まって花札をやったことを不愉快に思ったことに関して述べられていることが手がかりになるだけだ。「謙作はあの上品なN老人を想ひ、その愛してゐる一人児に対し、一寸した不謹慎、それも学生として、別に悪気もない事に、自分の我儘な感情から、こんなに思ふのは済まないといふ気もした。N老人の自分に対する最初からの好意に対しても済まぬ事だと思った」。これから察するに、謙作が要の行為を不問にしたのは、直子の親代わり(?)のN老人(直子の伯父)への遠慮だったようである。そういうことは一切書かれていないが。直子の名誉のため、あるいは直子の願いによって事を公にしないことにしたのかもしれないが、それであるならば謙作が直子の告白の翌日に友人の末松にそのことを喋ってしまうのはおかしい。
つまり、直子にも要にも怒りをぶつける事のできない謙作は、一人で悩むより仕方がないように作者によって巧妙に仕組まれているのである。
実は、謙作は「范」の後身に他ならない。妻との関係に一人で苦しんで「本当の生活」がないと思いつめた范は、結果として妻を殺してしまう。同じ立場に謙作もいる。謙作は、范と同じように、問題の焦点は自分の感情にあると分かっている。それをどう処理するかで悩むのである。そこから、冒頭の安岡章太郎の引用文が取り上げている謙作の言葉が導き出されるのだ。
然し俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったやうに寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになって呉れさへすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考へ方だよ。同時に功利的な考へ方かも知れない。さふいふ性質だから仕方がない。お前といふものを認めてゐない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。
問題意識は保たれている。問題は自分ではどうにもならない気分であり感情である。志賀直哉はこの問題を追及し続けていたと言っていい。というより、この問題だけをうまずたゆまずにひねくり回していたのである。志賀直哉にとってこの問題は解決のつかないものであった。だからこそ、実践においてではなく、仮想において理想的な解決を提示したかったのである。解決が理想的であるためには、克服すべき気分・感情もまた十分に重いものでなければならない。妻の姦通(?)なら手頃だろう。ただし、愛欲といったどろどろしたものを扱うことにはならないように気をつけて。架空の設定における、思想的な展開。志賀直哉はそういう小説を書きたかったのだ。
謙作の解決策はどんなものであってもよかったろうが、やはり決定的なものであるには死の観念による相対化が必要とされた。安易なようではあるが、志賀直哉は美的にも思想的にも最適と判断したのである。この解決が芸術上のものであり、思想上のものであって、実践的ではないことは志賀直哉は十分承知していた。
『城崎にて』の中に、「それは范の気持ちを主にして書いたが、然し今は范の妻の気持ちを主にし、仕舞に殺されて墓の下にゐる、その静かさを自分は書きたいと思った」という文がある。書かれることのなかった「殺されたる范の妻」を、志賀直哉は『暗夜行路』で形を変えて書いたのである。范のアンチテーゼとしての謙作は、「殺されたる范の妻」でもあるのだ。
7
中村光夫の『志賀直哉論』の中の『暗夜行路』への言及について、本多秋五は次のように言っている。私も同感である。
志賀直哉がそれを描こうとして描き、どんな凡眼にも見える謙作の内的発展と成熟が、中村光夫にぜんぜん見えなかったのは、彼の関心がもっぱら対他関係——社会的、歴史的平面にあって、それと直角に垂直方向に向かう発展と成熟とが視野の外にあったからである。ピントがそこを外れていたからである。
『暗夜行路』には、つまりは志賀直哉には、「社会」がないというのが中村光夫の批判の要点である。いかに孤立した作家でも主人公でも、社会から遊離した空白の中にいられるわけはないから、この「社会」は一般的な社会を指しているのではないだろう。時任謙作とそれを描いた志賀直哉は、近代的自我の形成する西欧的な社会の一員としての資格に欠けるということだろう。しかし、そもそも志賀直哉もしくは時任謙作がそのような近代社会の中にいるのでないとしたら、そのような「社会」がないということで責められるのは不当である。
逆に、彼らがそういう「社会」にいないにもかかわらず、いると錯覚していると指摘するのであれば、批判は成り立つ。つまり、自分自身の前近代的(封建的)性格に無自覚であることが責められるのだ。しかし、そのようなことが作品から読み取れるのであれば、ある社会的背景の中の、そういう背景には無自覚であるという人間(それ自身が社会の産物)が描かれているということになるのではないか。何者もその社会的性格から免れられないから、『暗夜行路』には半近代的な日本社会におけるブルジョアのわがまま息子の生態が描かれているという意味で、社会が描かれているとは言えないか。しかし、それだけでは不十分なのである。社会の中のありようが現出していても、それが批判的(自覚的)に描かれねばならないのである。
時任謙作が、そして志賀直哉が、自分自身の社会的立場に無自覚であるという指摘は、中野重治の『「暗夜行路」雑談』が嚆矢らしい。「肩に腕があり、腕に手があり、手に具合よく指がついていて、飯食うにも鼻汁かむにも格別人がそれを意識せぬように、金はそこにあり、そこにあることに対して持ち主が純粋に意識を動かさぬのだ」とか、「しかし謙作は、実地には、宿屋とか。女中とか、車夫とか、按摩とかいふいわば目下のもの、それから見ず知らずの人間、船の乗り合い客、貸家の家主とかいったものに対しては実に横柄で大束だ。父親に対する時などと全然出方がちがふ。そして謙作自身、そのことに矛盾を感じていない」とかなど、その見方は鋭い。
しかし、作家が批判的、自覚的であるということはどういうことなのであろうか。自分が上流の出身であることを反省し、罪に感じなければならないのだろうか。あるいはできるだけ多くの人と交流して彼等の生活を知り、それを(謙虚に!)作品に取り入れねばならないのだろうか。もしくは、社会の仕組みを理解して、作品に反映させねばならないのだろうか。そんなことを志賀直哉に求めて何になるだろう。
では、彼を批判している人たちの社会観がどれほどのものなのだろうか。封建社会=身分社会=階級社会、近代社会=契約社会=自由・平等社会(あるいは近代社会=資本主義社会=名目平等・実質不平等社会)というような簡単な枠組みよりもいくらかでもマシな見方をしているのだろうか。こんな見方だったらいくらでもバリエーションを作ることが出来るのだ。例えば、少し古臭いけれど、中根千枝の「タテ社会」の概念を使ってみよう。彼女のいう「タテ社会」とは、序列を含んだ集団内の結びつきが強い社会であり、そういう集団が、いわば本棚に並んだ本のように、並立している構造の社会である。逆に「ヨコ社会」とは、同じ身分として階級内の結びつきが強い社会であり、階級が序列によって鏡餅のように積み重なった構造の社会である。「タテ社会」の上下関係は温情的であり、「ヨコ社会」のそれは対立を秘めた厳しい支配・服従関係である。志賀直哉に当てはめてみれば、彼は「タテ社会」における温情的な支配者ということになるだろう。つまり彼には階級意識は少なく、差別的な見方をする「ヨコ社会」の支配者の性格は薄いということになる。西欧の階級社会をアンチテーゼにすることもできるのである(中根千枝はそうはしていないが)。むろん、そのような志賀直哉の家父長性を批判するのも勝手だが、それが作品の価値とどんな関係があるというのか。作家(あるいは描かれた主人公)の人間関係の評価から、作品の評価を引き出そうというのは奇妙な方法である。
「タテ社会」の概念が適切だとは私は思っていない。社会はタテ・ヨコの関係が格子状に入り組んだ複雑な構造をしており、だからこそその一部を切り取って恣意的な概念を構築することも可能なのだ。人間はタテの関係とヨコの関係の、また歴史の通時性と文化の共時性の結節点であり、これらのあやなす現象はこみ入っていて分析は難しい。また、たとえ理論によって近似的な構造を作り上げることができても、状況の変異の影響が大きすぎて、個々のケースについてはその構造からだけでは何も決定的なことは導き出せないだろう。作家個人を理解するのに、そういう理論は単純すぎるのだ。単純なのは現象の方ではなくて、私たちの編み出した理論の方なのだ。
一神教としてのキリスト教を持ち出してくるのも願い下げである。第一、キリスト教が一神教だろうか(マリア信仰や聖人信仰は何なのだ)。この論点については、中根千枝は先人の考えを踏襲しているので、彼女を引用しよう。「このあまりに人間的な——人と人との関係を何よりも優先する——価値観をもつ社会は宗教的ではなく、道徳的である。すなわち、対人関係が自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導くのである」「したがって、その社会がおかれた条件によって、善悪の判断は変わりうるものであり、宗教が基本的な意味で絶対性を前提にしているのに対して、道徳は相対的なものである」(『タテ社会の人間関係』)。注意してほしいのは、彼女がこのような日本社会の性格を否定的に捕らえていることだ。他人志向とか、絶対神の不在とか、罪の文化に対する恥の文化とか、そういう文脈で言っているのだ。しかし、ここに引用した文だけを読めば、むしろ日本は肯定すべき社会ではないか。宗教の絶対性とは何だろうか。宗教の教えは神が示したものではあるまい(そう信じている人はいるが)。人間が決めたものにすぎない。そういうものを絶対的に守ろうとするのは原理主義であり、現在では評判はよくない。「人と人の関係を何よりも優先する」「その社会がおかれた条件によって、善悪の判断は変わりうる」というような社会は、理想的ではないか。
志賀直哉に関しては(他の作家についても同様かもしれないが)、作家論・作品論が日本(人)論になってしまっているのだ。志賀直哉の作品が日本(人)的であるからけしからん(あるいは喜ばしい)というのもおかしな話である。
8
奈良にある志賀直哉の旧居を訪れると、彼は裕福だったのだと今でも感じることができる。豊かであるゆえの志賀直哉の限界というものはあるだろう。同時に、それゆえの長所も。私たちがまがりなりにも豊かさを手に入れた現在では、むしろ志賀直哉の立場に近くなったともいえる。志賀直哉への批判が盛んだった当時はいざ知らず、いま私たちが作家に求めているのは、社会改良家の役割ではないだろう。そういう作家がいるのはかまわない。だが、全ての作家にそうなれと要求する時代ではない。志賀直哉の問題意識はかつては贅沢なものだったかもしれないが、今の私たちには身近で切実なものになっているのではないだろうか。というのは、生存の厳しさがやわらぐにつれ、気分や感情が合理的な判断に制約される必要が少なくなっているからだ。
合理性は生きていくうえで有力な道具であり、私たちはみなそれを備えている。一方で、私たちは気分や感情にも左右され、その判断の危うさやいいかげんさに悩まされる。合理性に冷たさを感じ、また合理的な計算の煩雑さに疲れて、気分や感情に身をゆだねることの快さや安易さの魅力に負けてしまえば、その代償は高いものにつく。気分や感情は、余計な飾り、贅沢品、コストの高くつく道楽のようなものではないか。なぜ私たちは常に合理的になれないのであろうか。そうであれば人生はずっと困難の少ないものであるだろうに。
しかし、そうではないかもしれない。進化の過程では単なる贅沢品を抱えて生きていくのは難しい。私たちに気分や感情が備わっているのが無駄であるというのは不可解だ。それらは、欲望と同じように、生存のための機能であるはずだ。そうでなければ、こういうやっかいなものを人類が保存してきた理由が分からない。
たとえば、怒りについて考えてみよう。あなたが原始の人類だったとする。あなたが見つけた木の実を、あなたより強い仲間が奪ったとしよう。あなたが合理的であったなら、あなたはおとなしくその結果を受け入れるであろう。その仲間と争っても勝ち目はなく、痛い目を見るか傷つくかで終わるだけなのだから。しかし、もし、あなたが怒ることができたとしよう。あなたは怒りに目がくらんで、勝ち負けは度外視してその仲間に襲いかかるだろう。結果は合理性が予想したのと同じである。あなたは痛い目を見るか、傷つくだけで、木の実は取り返せない。しかし、次にあなたが木の実を見つけたとき、その仲間はあなたからそれを奪おうとするだろうか。あなたの攻撃を退けるコストよりも、他の木の実を探すコストの方が安ければ、その仲間はあなたに手を出さないだろう。一方で、合理的に判断して抵抗しない者は収奪され続けるだろう。
つまり、怒りは状況によっては生存に有利に働くと考えられる。むろん、感情が万能であるというのではない。あなたにちょっかいを出す仲間が常に合理的であるとは限らず、あなたと同じように感情を持っていて怒りを爆発させるかもしれない。そうなると、あなたとあなたの仲間は不必要な闘争に落ち込んで、かえって事態を悪化させてしまうことになる。そういう問題点を含んではいるけれども、怒りもその他の感情も生存に関して何らかの機能を持っていると思われる。ロバート・フランクの説を紹介しながら、マッド・リドレーは次のように指摘している。
感情に関するロバート・フランクの説を理解する鍵は、表面的な非合理性と究極的な合理性をこのように区別しておくことである。フランクの独創的な著書『オデッセウスの鎖』は、ハットフィールド家の者たちがマッコイ家の人間を何人も惨殺した流血事件の描写で始まる。殺人者たちのまったく不必要な報復は、不合理であり、自滅的であった。次にはその仕返しを受けることになったのだから。合理的にものを考えられる人間なら、確執を続けることもないし、友人の財布を盗んでも罪の意識も恥辱も感じることはないだろう。感情とは、非常に不合理な力であり、物質的な自己利益では説明しきれるものではない、とフランクは述べている。しかし、やはり感情も、人間の性質として備わっているすべてのものと同様、ある目的にむかって進化してきたのである。(中略)感情は高度に社会的な生物にとっての、問題解決機構なのである。彼らは自分たちの遺伝子の長期的利益のために効率的に社会的環境を利用できるようにこれをデザインしたのである。感情は、短期的な私利の追求と長期的な思慮分別のどちらを優先させるか迷ったときには、後者に軍配をあげるのである。(マッド・リドレー『徳の起源』、岸由二監修、古川奈々子訳、翔泳社、二〇〇〇年)
では、なぜ感情はやっかいものであると思われるのか。進化論者の説明は、私たちが進化において獲得した特性は、長い狩猟採集生活の時代に身につけたものであり、その時代に適応的であった特性が、その後の時代(農耕社会から現代の産業社会までの短い期間)の状況においては必ずしも適応的でなくなった、というものである。
私たちは不当に扱われたことへの対応策として、怒りではなく制度的な手段を用いることができる。むしろ怒りによる行動は制度違反として罰せられる。私たちは怒りを抑えて、制度による合理的で正当な、しかし面倒で時間のかかる手続きを踏まなければならない。むろん、今でも感情が用なしになったわけではなく、人間関係の一部(それもかなり広い)ではいまだに有効である。しかし、感情を抑えた方が有利な場面が広がってきたことは否定できない。感情に対する抑圧的な役割を担わされているゆえに、合理性は冷たいと受け取られるのだ。複雑な社会環境においては、人々は感情を人間関係の手段としては使えずに、合理的な計算に汲々としなければならない。
ただ、富の蓄積によって遊んで暮らせることのできる人々は、感情とたわむれることができる。しかし、そこでの人間関係は、かつて感情が生存に有効だった生活とは切り離されて、それ自身の理由だけで存在している、いわば無重力状態にあるようなものになっている。そこでは感情はまるで「自然」のように何の目的もない力を振るうので、彼らはその扱いに困難を覚えるのだ。志賀直哉を原始人にたとえた人がいたが、彼はまさに見知らぬ環境で感情の扱いに戸惑っている原始人なのだ。そして、私たちもまた原始人として新たなステージの社会に生きていくことになるのかもしれない。今や私たちは面倒なことはカネによって全てすませることができる。残っているのは、裸の人間関係だけだ。志賀直哉が気分や感情に手を焼いたように、私たちも気分や感情に面と向き合わなければならなくなっている。
気分や感情は私たちにとって器官と同じように取り除くわけにはいかないものである。食欲や性欲がときに私たちを幸せにし、ときに重荷になるように、気分や感情は優しくもあり厳しくもある暴君である。私たちはこの暴君と適当に付き合っていかなければならない。市場経済の行き渡ったこの豊かな世界では、かつては頼りがいがあったかもしれないこの暴君を、私たちはいささか持て余している。
この暴君を飼い慣らすのに、志賀直哉は参考にはならないだろう。なぜなら、彼の作品は彼の創作であり、願望であり、思想であり、つまり絵空事であるからだ。そのことが彼の作家としての価値を損ねることにはならないのは、当たり前の事なのだが。