洗濯バサミの木
1
救護施設あおぞら寮は春来市の郊外の山麓にある。創立時は回りは田畑、背後は松林、昼でも人気のない寂しいところだったが、近くの大都市のベッドタウンとして住宅地が進出し、今では近所の住人たちとの関係に戸惑っている。
救護施設という全国に二百ばかりある施設については、生活保護法を読んで頂くとして(それでも分からなければ私の卒論『救護施設の役割について』―未刊―を参照して下さい)、先日起こった不思議な事件の話をしよう。
あおぞら寮の敷地には小さな畑が含まれている。いかに辺鄙な場所とはいえ土地代がただというわけではない、設立母体の法人が乏しい予算の中から建蔽率ギリギリの土地を購入しようとしたのだが、売主がその部分も含めてでないと売らないということで、やむなく買い入れた。無理をしたけど今となってはいい買い物だった。あおぞら寮五十人の住人(職員は除いて)の散歩場であり、家庭菜園であり、粗大ごみの置き場、ポチ(捨て犬が居着いた)の遊び場、その他行事の際玄関前の広場では間に合わない時に使用する。
畑の隅には三本の梅の木があった。春になれば型通りに花が咲くが、今はまだ裸木だ。早起きの山中さんが一晩で咲いた花にびっくりしたのも当然である。彼は早く誰かに伝えたかったが、気が弱いものだから宿直の職員が起きてくるのを待った。
入所者の起床時間は決まっていないが、宿直者は午前六時に廊下の点灯をする。既に洗面を始めている入所者もいる。間もなく朝食の準備のために厨房の職員が出勤してくる。あおぞら寮の新しい一日が始まるのだ。
事務所には寮母の広瀬がいた。一緒に泊まった金井寮母が施設内を一回りしてる間に、湯を沸かしてコーヒーを入れる。
「寮母さん、おはよう」
山中さんが窓から声をかけた。
「おはようございます。相変らず早いのね。夕べはよく眠れた」
「ええ、眠れました」
寝起きなのでそれ以上会話を続ける気力がまだ湧いてこない広瀬寮母は、読む必要のない寮日誌を開いた。
「寮母さん、花が咲いています」
「あら、そう」
「梅の花です」
「まだ早いでしょう」
「でも咲いているんです」
「そう。どこで」
「庭ですよ。見て下さい」
「うちの庭の。本当」
「本当です」
誤りは正してあげなければならない、そう考えた広瀬寮母は山中さんと一緒に玄関を出てみた。
本当だった。まだ薄暗い畑の隅の梅の木には白っぽい花が咲いていた。山中さんより目のいい広瀬寮母は梅の花ではないことに気づいた。近寄ってみるとその正体が分かった。
あおぞら寮には簡単な仕事なら出来る人が大勢いる。むろん趣味や学習に時間と能力をつぎこんでもいいのだが、そんなことには興味を持てない人もいる。施設はその人達のために、単純な手仕事を提供している。その一つが洗濯ばさみの組み立てだった。梅の木の枝には、完成した洗濯ばさみが無秩序にとめてあった。根本にはもっとたくさんの製品がばらまかれている。それらが詰めてあった袋も捨てられていた。
「何てことを。一体誰が」
広瀬寮母が口にした疑問は、すぐに施設全体が発することになった。
「一体誰が、何のためにしたんだろう」寮会議で口火を切ったのは寮長の山口だった。人のよい彼は困惑しきっていた。
「嫌がらせですよ。施設に対する不満をああいう形でぶつけたんですよ」作業担当の若い河東が言う。彼は納期と製品検査に悩まされ、作業の非能率と質の悪さゆえに入所者に悪感情を抱くようになってしまっている。
「それなら何も木につける必要はないと思います。あれは明らかに花に見立てているのです」門脇寮母が異義を申し立てる。彼女は確かにやり手なのだが、自恃の念が強すぎて思いやりに欠けるところがある。
「まともな人のすることではないですわ。精神の人でしょう」年配の山田寮母が、精神障害を「精神」と省略して、いまだに捨て切れないでいる偏見をあからさまにする。しかし彼女は精神障害のある入所者に差別的な態度をとることはない。彼女の実際上の知恵と偏見は同居することに矛盾を感じてはいないのだ。
「花を咲かせることに何か意味があるのでしょうか」ぺダンチックな、といっても彼女に通じるか分からないが、とにかく話をややこしくするのが得意な石原寮母が問いかける。
「花咲か爺さんじゃあるまいし、枯れ木に花を咲かせるつもりだったというのか」河東はいたずら説に固執する。
「理由については本人に聞いてみないと分からないでしょう。問題は同じことがまた起こるかどうかということだと思います」やっと現実的な意見が出る。むろん渡辺寮母である。彼女は残念なことに、事務的であるとか、結論を急ぎすぎるとかいわれて、余り評価されていない。
「同じことが起こらないようにするためには、なぜそれが起こったかを突き止めなければいけないのよ」渡辺寮母に対抗心を抱いている門脇寮母が正論めいたことを言い、議論を振り出しに戻してしまう。
でも、結局現実的な対応としては、洗濯ばさみの材料および製品の保管について、手を打たねばならないところに話は行くのだ。
既に説明したように、施設に余裕のスペースがあるわけではない。入荷した材料や出荷待ちの製品は、廊下に積んである。誰でもが触ることができる。再発防止のとりあえずの処置としては、少なくとも夜間は施錠した部屋に運び込むしかないが、これははなはだやっかいなことであり、すぐに職員が音を上げるだろう。
したがって、山口寮長が会議の後内密に私に相談したのは当然であった。私はあおぞら寮のトラブル処理に関して特殊な能力を持っていると思われているのである。
2
足立春彦は面接室に入ってくるなり私の足もとに置いた紙袋に目をやった。彼はいつものように機嫌がよかった。待ち受けていた自分の出番が来たことを十分承知しているのである。彼が机をはさんで向かい合った席に座り込むと同時に私は切り出した。
「むろん、何の用事かは分かっているのでしょうね」
「洗濯バサミの木だろう」
「そう。何か聞いていますか」
「みんな噂はしている。だが、誰がやったのかは分からない」
「どんな噂が流れていますか」
「想像力という点では、あんたたちもわれわれも大して変わりはないさ。気違いの仕業としか考えられない。いや、気違いではなく、精神なんとかいうんだったな」
「精神障害者」
「そう言いかえることで、あんたらが満足する以外に、何か変わるのかね。由緒正しい日本語じゃないか」
「差別構造を組み入れたままのね」
「言葉が悪いんじゃない。使い方が悪いんだ。直すのはそっちだろう」
「まず出来ることからやるべきでしょう」
「それは賢明な方法だ。天地を逆さにする代わりに、逆立ちをすると言うわけだ」
「タバコをすいますか」
私は新しいタバコの箱の封を切り、一本を指でたたき出し、差し出した。足立は飛び出している一本を抜き取ってくわえ、さらに箱ごと受け取ってポケットにしまう。私がタバコをすわないことは知っている。
「どう思います。誰かが彼自身にしか理解できない理由であんなことをやったのか、それとも皆が納得の行く理由があるのだけれど、ただそれが見えないだけなのか」
「あんたはどう思うんだ」
「木を飾ることが本来の目的ではないと思います。あの洗濯バサミのつけ方はいい加減で、やっつけ仕事でした。何かをカモフラージュするためにやったんでしょう。そこに注目させて、何かから目をそらせようとした。だがそれが何か分かりません」
「いい線行ってるよ。そこまで行ってまだ分からないかい」
「あなたは分かっているのですか」
「多分ね」
「じゃあ、教えて下さい」
足立は私の足元の袋を気にしていることを目でわざとらしく示す。私は袋を取り上げて彼に渡す。足立は中をのぞき込み、満足の意を表情に表わす。
「飲みすぎて騒ぎを起こさないで下さいよ。こんなことをしているのがばれたら、間違いなくクビですから」
「信頼しなよ。たとえ見つかってもどこから手に入れたかはしゃべりはしないさ」
「しゃべらなければここから追い出すと脅かされてもですか」
「そうなると話は別だ」
「そうでしょうね。まあいいです。早く教えて下さい」
「あんたのにらんだとおりさ。木を飾りつけるのが目的じゃない。あんなことをしたのは目的が洗濯バサミを使うことにあると思わせるためだ。洗濯バサミは洗濯物をとめるのに使う。しかしあんなにたくさんの洗濯バサミを使うだけの洗濯物はない。だから木を飾った。あんたがたは精神障害者とやらのせいにするだろうと考えて」
「洗濯バサミが目的でないとしたら、目的は一体なんです」
「まだ分からないかね。洗濯バサミなんか必要でなかった。邪魔だったんだ。ばらまいておいてもよかったんだ」
「分かりませんね。必要もないのにどうして持ち出したんです」
「洗濯バサミは何に入っている」
「袋。あの紙袋が欲しかったというのですか。だけど、袋は捨ててあった。なくなってはいなかった」
「袋なんか欲しがりはしない」
「洗濯バサミでも袋でもないとしたら、他に何があるんですか」
「袋の中に入っていたものさ」
「袋の中には洗濯バサミしか‥‥そうか、袋の中に何かが入っていたのですね。それを探していたのか。でも一体何が入っていたんです」
「俺たちが持っているものの中で隠す必要のあるものは、たった一つ」
「酒ですか」
「若い寮母流に言えば、ピンポーン」
「でも、それならなぜ全部の袋の中身をばらまいたんですか。自分で隠したのならどこにあるかは分かっているはずでしょう」
「いつもならね。ただ、あの日は配管の水漏れ補修工事があって、廊下に積んであった洗濯バサミの袋を動かした。工事の後もとに戻したが、並べ方が変わってしまった。全ての袋のガムテープをはがして、また元通りにするのは、時間的にも、技術的にも無理だったからね」
「しかし、袋全部を開ける必要はないでしょう。何個目かで見つかったはずだ」
「一部だけ開けて、残りをそのままにしておいたら、誰かが不思議に思い、合理的な理由を探ろうとするだろう。全部をばらまいてしまえば、狂気がもっともな理由となる」
「そういうことです」
私は山口寮長に報告した。
「犯人は分からないが、再発はないということだな」
「ええ、隠し場所は変えるでしょうからね」
「ありがとう。よくやってくれた。でも、君はいつもどこからそういう情報を得てくるのだね」
私は黙って謎めいた微笑とやらを浮かべる努力をした。その表情とはうらはらに、今回はどうやら犯人まで見つけてしまったのではないかと心配していたのである。