井本喬作品集

三層の金閣寺

 三島由紀夫の『金閣寺』の文学的評価はゆるぎないものだろう。もう一度同じ題材を使って小説を書こうとは誰も思わないに違いない。しかし、『金閣寺』は現実に起こった事件を下敷きにしているのだから、『金閣寺』ではない金閣事件を知りたいと思う気持ちは消せない。例えば、この事件の犯人のその後はどうなったのだろうとか。むろん『金閣寺』は完結している。主人公のその後などは毫も必要としない。しかし、『金閣寺』がそういう興味を引き起こすことも事実だ。

 水上勉に『金閣炎上』という作品がある。この作品の最初の方に、水上勉が『金閣寺』の主人公のモデルに事件の六年前に会ったことが記されてある。『金閣炎上』はノンフィクションのようでもあり、私小説のようでもある。そういう形にしかなりえなかったのではないかと思う。水上勉はこの題材を書きたかったであろう。しかし、『金閣寺』が書かれた後では、それを書くことは非常に困難になってしまった。事件が起きたのは昭和二十五年、三島由紀夫が『金閣寺』を発表したのは昭和三十一年、水上勉が『霧と影』で再出発したのが昭和三十四年、遅かったのである。『金閣炎上』には『金閣寺』のことは全く言及されていない。しかし、『金閣寺』の存在は『金閣炎上』の中にはっきりと影を落としている。『金閣炎上』が昭和五十四年にならなければ書き上げられなかったことでもそれは明らかだろう。

 『金閣炎上』は『金閣寺』のアンチテーゼにならざるを得なかった。むろん、三島由紀夫と水上勉の作家的資質の違いが根本にはある。それゆえなおさらそうならざるを得なかった。ではどちらを取るか、という問題ではない。また、どちらが事実に近いか、という問題でもない。犯人がなぜ金閣に火をつけたかという疑問に対して、『金閣寺』は三島由紀夫的に、『金閣炎上』は水上勉的に答えを提出している。現実の犯人の心理は誰にも(犯人自身にさえ)説明不可能であろう。ただ、論理的に推測するしかない。三島由紀夫の論理と水上勉の論理は異なるというだけである。

 ところで、『金閣炎上』を読むと、『金閣寺』は意外に事実を取り込んでいることが分かる。例えば、主人公の大谷大学「予科一年の成績は、華語、歴史の八十四点を筆頭に総点七百四十八点で、席次は八十四人中二十四番である」、「予科二年の成績は、総点数六百九十三点で席次は七十七人中三十五番に落ちた」、予科三年の成績は「席次は七十九人中七十九番、各課目の最低位は国語の四十二点である」と『金閣寺』に書かれてあることについては、それが事実であると『金閣炎上』で確かめられる。ただ細かいことまでは調べなかったか、小説的に改変しているようだ。『金閣寺』には本科への進学については「仏の慈悲心から、この大学には落第といふものがなかったので」とあるが、『金閣炎上』によれば、幸運にも「二十五年度から大谷大学は新制にかわり、予科三年は廃止に決まっていた。落第させても留年する学年はない」ことから、特別に学部進学が認められたとなっている。それはともかく、主人公の出生地や吃音があったこと、両親についてなども、おおまかには事実に基づいている。『金閣寺』は、犯人が動機について「美に対する嫉妬」と供述したという報道に触発されて構想されたものだろう。いわばそういう片言隻句を動機の中心に据えたのであれば、もろもろの事実の拘束などを振り払って自由に作品を書けばよかったのではないか。主人公の身の上が現実の犯人をなぞっていることが、この動機をあいまいにし、作者の論理を十分納得できるものにするのを妨げていると思える。

 つまり、この主人公では、美の観念に捕らえられるというような余裕のある状況には入り得なかったのではないかという疑問が生じてしまうのである。もとせっぱ詰まったものが感じられる。「美の観念」などなくとも放火という行為に走っても差し支えなさそうだ。『金閣寺』の主人公の姿に『金閣炎上』に描かれた林養賢(金閣の放火者)の姿が重なるだけに、そう思える。それは正しい読み方ではないと言われるかもしれない。では、こう言いかえよう。『金閣寺』を読んだときには主人公の行動が理解できなかったが、『金閣炎上』を読んで林養賢の行動は納得できた。ただし、『金閣炎上』を読んで放火の動機が分かったと言うのではない。ただ、彼が放火したことを納得したにすぎない。

 このような私の感想を、虚構的作品とリアリズム的作品の相違ゆえとすることは安易すぎると思う。つまり、『金閣寺』にリアリティーの薄さが感じられるのは、それが虚構であるからではないと思う。

 では、なぜ『金閣寺』は『金閣炎上』に比して説得力がないのか。私は以下で、『金閣寺』には欠けているのは論理的一貫性であることを示したい。対象作品を『金閣寺』のみに限り、その叙述を三島由紀夫が『荒野から』で書いている次のようなレベルに固定する。「私が或る事件や或る心理に興味を持つときは、それが芸術作品の秩序によく似た論理的一貫性を内包してゐるときに限られてをり、私が『憑かれた』作中人物を愛するのは、私にとっては、『憑かれる』といふことと、論理的一貫性とが、同義語だったからである」。

 そういう論理的一貫性が『金閣寺』を貫いているのか、それを探ってみたい。

 放火という反社会的行為が美の名目のもとに行われたと設定することで、作者は社会(世界・他人)と美(金閣)と私(主人公)の関係という三体問題に直面する。

 『金閣寺』の主人公は、吃音であることと、(はっきりは言及されていないが)容貌が醜いゆえに、他人たちの世界に拒否されていると感じている。主人公が金閣の放火犯となることを暗示する二つのエピソードが物語の冒頭で語られる。一つ。主人公は、母校の中学校に遊びに来た「若い英雄そのものである」舞鶴海軍機関学校の生徒の「美しい短剣の黒い鞘」に、密かに傷をつける。二つ。主人公は、美しい有為子に不器用に近づこうとして拒否され、そのあと有為子は脱走兵事件で自滅するようにして死ぬ。自分のものではない、自分がなり得ない美を滅ぼす、あるいはそれが滅びることを願うという、これらのエピソードから、鹿苑寺を放逐されようとした主人公が金閣に火をつけることまで一直線のように見える。しかし、三島由紀夫の叙述には紆余曲折がある。

 主人公が疎外されつつも憧れるという点では、美と世界は同じ側(主人公の向こう側)にある。だが、美と世界の関係が常に調和的であるとは限らない。美が反社会的(あるいは社会が反美的)であるとき、主人公はどちらの側につくことになるのか。

 有為子のエピソードをより詳しくみてみよう。有為子に拒否された主人公は「彼女の目の背後に、他人の世界——つまり、われわれを決して一人にしておかず、進んでわれわれの共犯となり證人となる他人の世界——を見」る。一方、憲兵の尋問に黙秘していた有為子は「世界を拒んでゐた」が、そのあと恋人である脱走兵を裏切った有為子は「われわれ證人と一緒にこの世界に住み」「われわれの代表者」になり、主人公は「たうとう彼女は、俺をも受け容れたんだ。彼女は今こそ俺のものなんだ」と思うのである(有為子はもう一度裏切るのだが)。世界と一体となった有為子(美)に拒否された主人公は、世界に違和感を持っていたはずだ。ところが、有為子が世界と相反すると、主人公は他者と一緒に世界にいて、有為子がそこへ堕ちてくるのを喜ぶのだ。裏切る前の有為子は、世界を拒否しているゆえに、世界に拒否された主人公と同じ側にいるはずではないのか。

 主人公と金閣(美)と世界の関係も同様に定まらない。図式的に言えば、「金閣と世界」対「主人公」、「金閣」対「主人公と世界」、あるいは「金閣と主人公」対「世界」のどの組み合わせが採用されているのか。

 『金閣寺』の叙述をたどってみよう。最初、金閣は憧れるが受け入れてくれない有為子・世界と同じものである。鹿苑寺の徒弟となった主人公は、金閣が空襲で焼失するという必然性を知って、同じ滅ぶものとしての共通性を見出す。「美と私とを結ぶ媒立が見つかったのだ。私を拒絶し、私を疎外してゐるやうに思はれたものとの間に、橋が懸けられたと私は感じた」。しかし、京都に空襲はなく、金閣は焼失しなかった。終戦に際して主人公は考える。「これで私と金閣が同じ世界に住んでゐるといふ夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにをり、私はこちらにゐるといふ事態」。ここで金閣と主人公の間の隔絶が再確認されている。「金閣と世界」対「主人公」という関係が維持される。

 大学へ入学した主人公は柏木という特異な人間と知り合う。柏木の示した行動におそれをなした主人公は金閣のもとへ行く。「私の心は和み、やうやうのこと恐怖は衰えた。私にとっての美といふものは、かういふものでなければならなかった。それは人生から私を遮断し、人生から私を護っていた。『私の人生が柏木のやうなものだったら、どうかお護り下さい。私にはとても耐へきれさうもないから』と私は殆ど祈った」。ここでは金閣は主人公を守る存在になって、主人公とともに世界(人生)から隔離しているのである。金閣は有為子という美しく冷たい女から母のような存在に変容している。「金閣と主人公」対「世界」という関係に変わってしまっているのだ。この移相の過程を三島由紀夫は説明していない。

 柏木は彼を拒否する世界に強引に押し入ろうとしている。主人公はそれを真似ようとする。しかし、人生(世界)の象徴である女性に近づこうとすると、金閣が邪魔をする。主人公は金閣を憎むようになる。「又もや私は人生から隔てられた!」「又してもだ。金閣はどうして私を護らうとする?頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする?」。ここで金閣は性悪女のようになってしまっている。主人公を惹きつけながら身を任せず、かといって主人公が別の対象に向かおうとするとちょっかいを出す。あるいは麻薬のようなもの。それにのめり込むと、他のことに興味を持てなくなる。金閣を焼くことは、性悪女から、麻薬から逃れることなのだ。「金閣」対「主人公と世界」という主人公の更生物語になっている。

 その後、老師との間にいろいろあって(このことは後で検討しよう)、主人公は寺を出奔する。出奔先で主人公は金閣を焼くことを思いつく。なぜ老師を殺すのではなくて金閣を焼くのかという理由について、主人公は次のように考える。「よし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から現れて来る」。「人間のやうなモータルなものは根絶することはできないのだ。そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ」。しかし、金閣を焼いたからといって、金閣の美が滅びることにはならないかもしれない。金閣の幻影は主人公に生涯取り憑くかもしれないのだ。ここでは主人公にとっての美としての金閣が抜け落ちてしまっている。つまり「主人公」対「世界」(老師も含む)でしかなくなっているのだ。

 このように変転する関係を、変化として三島由紀夫は書いていないのである。

 こういうちぐはぐは、探せば細かいものが結構あるだろう。たとえば「六月二十五日、朝鮮に動乱が勃発した。世界が確実に没落し破滅するといふ私の予感はまことにになった。急がねばならぬ」と主人公は思うが、世界が破滅するなら金閣は焼く必要がなくなり(どうせ焼けるかどうかして滅びるのだし、戦時中のようにいずれ焼けるのであれば金閣と敵対する必要はなくなる)、放火を急ぐ必要はないのである。金閣は自分で焼かねばならぬという思い込みがあるのかもしれないが、そもそも金閣を焼くのは何のためかを、主人公も作者も忘れているかのようである。

 このような混乱は、単なる作者の疎漏ではない。連載という創作過程のせいもあってか、作者の構想が変化したためなのだ。その経過は『金閣寺』の中でたどることができる。

 物語の最初での主人公の反社会性は、世界から疎外された結果という、強いられたものである。また、世界は場であり、主人公と美の間にある距離により、両者は同時に同じ場(世界)にいられない。したがって、「美と世界」対「主人公」、「主人公と世界」対「美」という関係のどちらかしか成り立たない。美の位置によって主人公の反社会性が規制されてしまうのである。このような反社会性の受動性を拘束と感じたのであろう、三島由紀夫は反社会性を積極的な要素にして美から自由にしようとした。これが『金閣寺』の構成を複雑にし、分かりにくくさせている。この要素は早くも第二章で登場する。主人公は空襲を待ちこがれつつ次のような感慨を持つ。

 私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまふ巨大な天の圧搾機のやうなものを夢見てゐた。(中略)

  私は今でもふしぎに思ふことがある。もともと私は暗黒の思想にとらはれてゐたのではなかった。私の関心、私に與へられた難問は美だけである筈だった。しかし戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思ふまい。美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分そういふ風に出来てゐるのである。

 主人公の理屈はもちろん納得できるものではないけれども、作者が突然「暗黒の思想」を持ち出してきたことにも戸惑ってしまう。三島由起夫は美だけではこの物語をもたせることはできないと考えたのであろうか。だから早い段階からこの要素を付け加えた。老師(鹿苑寺の住職)との関係がこの要素によって展開できるからだ。

 この要素(悪と呼ぶことにしよう)が主人公にどのように働きかけるのか、見てみよう。敗戦後の混乱を前にして主人公は思う。「世間の人たちが、生活と行動で悪を味はふなら、私は内界の悪に、できるだけ深く沈んでやろう」。ある夜、眠れぬままに鹿苑寺の裏山に登った主人公は、灯火管制を解かれた京都の夜景を見てまた思う。

 『これが俗世だ』と私は思った。『戦争がをはって、この灯の下で、人々は邪悪な考へにかられている。多くの男女は灯の下で顔を見つめ合ひ、もうすぐ前に迫った、死のやうな行為の匂ひを嗅いでゐる。この無数の灯が、悉く邪まな灯だと思ふと、私の心は慰められる。どうぞわが心の中の邪悪が、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、この目の前のおびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますやうに!それを包む私の心の暗黒が、この無数の灯を包む夜の暗黒と等しくなりますやうに!』

 この主人公は、戦争の破壊にも戦後の混乱にも同じような反応をする。美において金閣に対する親疎が変化したようには、悪においては戦争の終結は影響しないのだ。さて、主人公が「悪」を感じるのは、金閣を見学に来た米兵に同行の「外人兵相手の娼婦」の腹を踏むように強要され実行したときである。「自分のした不可解な悪の行為」「自分の暗黒の感情」「甘美な一瞬」「悪の煌めき」「ほんの小さな悪でも、悪は可能になった」「私の人生の最初の小さな悪」としつこくこだわる。しかし、それ以上発展しない。

 そこに柏木が現れる。むろん柏木は悪ではない。柏木は主人公に「裏側から人生に達する暗い抜け道をはじめて教えてくれた」にすぎない。柏木との交流においては、悪は何の役割も果たしていない。ただし主人公はこう言っている。「柏木と結びつくとき、いつもまづ私には、小さな背徳や小さな涜聖や小さな悪がもたらされ、それがきまって私を快活にさせるのだが、さふいふ悪の分量をだんだん増してゆけば、快活さの分量もそれにつれて際限もなく増してゆくものか私には分からなかった」。これは主人公の勘違いである。柏木の悪とは手段であり、悪を目的とはしたものではない。だから「小さい」のだ。

 柏木との交流の中で、主人公は金閣が性交を不能にすることを経験する。これは次の展開になるので後述するが、悪の問題はその間棚上げされている。菊と蜂についての考察(後述)の後、主人公は唐突にこう言う。「例の娼婦を金閣の庭に踏んで以来、又鶴川の急死このかた、私の心は次の問をくりかへした。『それにしても、悪は可能であらうか?』」。忘れていたのを思い出したのかのように。実際主人公も作者も忘れていたのである。その直後に、黒い醜い犬の導きによって、女と一緒の老師を尾行して見つかったようなことになる。この犬は何であろうか。作者は何も示唆せず、主人公も偶然と思っているようだ。悪の化身であってもおかしくないのだが(私としては、金閣の化身であるような展開にしてほしかった)。主人公が老師の連れの女の写真を探し出して、朝届ける新聞の中に挟み込んだのは、「老師の無言の放任」にいらだって「老師の憎悪の顔をはっきりとつかみたいといふ、抜きがたい欲求」からである。よく分からないが、これも悪のせいではなく、「老師と私はおそらく抱き合い、お互いの理解の遅かったのを嘆く」といった和解の期待かららしい。そして、写真が密かに主人公のもとへ戻されたとき、主人公は老師が彼を憎んだことを確信し「得体の知れない喜び」を感じるのである。これが悪だろうか。

 それから主人公は「学業をおろそかにしはじめ」る。学校を欠席するが何もせず、「自然の歯車の極小のものを外してみて、自然全体を転覆させることができるのではないか」と「その方法を」「徒にあれこれと考へたりした」。これが悪だろうか。

 遂に老師に後継者にはできないと告げられて、主人公は出奔する。そして由良の海岸にたどりついたとき、「金閣を焼かなければならぬ」という想念が突然浮かんでくる。その晩泊まった宿で主人公は金閣を焼くことの意味を検討する。「明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかへしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになる」。「金閣を焼けば」「そのおかげで人は」「われわれの生存がその上に乗っかっている自明の前提が、明日にも崩れるといふ不安を学ぶから」「その教育的効果はいちじるしいものがあるだらう」。「私の行為はかくて付喪神のわざはひに人々の目をひらき、このわざわひから彼らを救うことにならう」。「世界の意味は確実に変るだらう」。これが悪なのか。たぶん、そうなのだろう。主人公は警官に保護されて寺へ連れ返されるとき、陽気な駅員たちを見て「金閣を焼かずに、寺を飛び出して、還俗して、私もかういふ風に生活に埋もれてしまうこともできる」と思う(金閣の美が、性交を妨げたように、それをゆるしてくれないことを忘れて!)。「しかし、暗い力はよみがえって私をそこから連れ出した」。

 もしこれらのことが悪であるならば、悪は主人公と美との関係において何らの役割も果たさない。一方、老師と不仲になり、鹿苑寺を放逐されるようになる過程では、美は何の役割も果たさない。美と悪はばらばらに主人公に働きかけるだけなのである。

 悪という要素によって見失われかけた三体問題は、主人公の性の試みの中に復活する(この様相では三角関係と言った方が適切だが)。主人公にとって女性との性交は「人生に参与」すること、つまり世界に結びつくことなのである。金閣(美)がそれを邪魔しようとする。美と世界と私の関係において、美が私と結びついて、世界と相反する(反社会性)という構図が初めて現れる。実はこれこそが主人公の反社会性と美の反社会性が結びついて放火に到るという分りやすい物語を構成することができるのだ。ところが、主人公は金閣に逆らって世界にしがみつこうとする。このまま行くと、邪魔な金閣を排除するために放火する物語になりかねない。

 主人公の性の試みについて作者が詳しく描写しているのは、嵐山でのダブルデイトでの柏木の下宿の娘(柏木と関係があったと無神経に主人公に告げる)との未遂、主人公がかつて南禅寺の山門からその姿を見たことのある生け花の師匠(柏木に棄てられた)との奇妙なやりとり、それだけである。主人公はこう述懐する。「私が女と人生への二度の挫折以来、諦めて引込思案になってしまったなどと思はないでもらひたい。昭和二十三年の年の暮まで、幾度かそのような機会があり、柏木の手引きもあって、私はひるまず事に当った。しかしいつも結果は同じであった。/女と私との間、人生と私との間に金閣が立ちあらはれる。すると私の掴まうとして手をふれるものは忽ち灰になり、展望は砂漠と化してしまふのであった」。主人公にとって人生と女(との性交)は同じことらしい。女性と性交できない悩みというのは『仮面の告白』の作者のお気に入りのようだ。

 しかし、放火の実行の直前に、主人公は買春で性交する。なぜそれが可能なのだろうか。主人公はこう思う。「あのたびたびの挫折、私と女の間を金閣が遮ぎりに来たあの挫折は、今度はもう怖れなくていい。私は何も夢見てはゐず、女によって人生に参与しようなどと思ってはいないからだ。わたしの人生はその彼方に確乎と定められ、それまでの私の行為は陰惨な手続にすぎないからだ」。「陰惨な手続」とは、老師から与えられた授業料などの金を使い込んで、放逐の口実を老師に与えることである。放逐を金閣への放火の引き金にするためである。しかしこの理屈づけは強引という以上に、勝手すぎる。主人公は女性との性交が人生に参画することのように振る舞ってきた。娼婦とであっても性交が可能であるなら、金閣を焼く必要は毛頭ないのである。

 金閣を焼くと決意することで、金閣の支配から脱することができたために、性交が可能になったのだろうか。だとすれば、その時点でどのような女性とでも性交は可能であり、娼婦に限る必要はない。しかし、娼婦以外の女性と関係を作るだけの時間的な余裕はなかっただろう。主人公は単に性交が可能かどうかを確認するために買春したのであろうか。金閣が焼失しても不能のままであったら悲惨であるから。

 そもそも、主人公はなぜもっと早く買春を試みなかったのであろうか。「あの怖ろしい、人を無気力にする美的観念が、ほんのわづかでも介入して来ない」、「決して金閣に変貌したりすることのない唯の肉」であるならば、娼婦との性交は金閣の存在とは関係なしに可能なのではないか。金は柏木から借りることができたはずだ。柏木の手引きによる女性とのややこしいかけひきなどせず、買春という手っ取り早い方法で結果を検討すればいい。性交が可能かどうかを調べる「手続」であれば、人生がどうのこうのと金閣のことを心配する必要はないだろう。もしそこで性交が可能であるならば、娼婦ではない女性との付き合いにおいては、性交プラスアルファの、アルファ部分が問題であるということになる。もし不可能であったら、金閣がそこまで介入するのであったなら、人生というより性交が主人公の問題点にすぎなくなる。

 こんなくだくだしいことを言っても仕方がない。主人公が放火直前に買春するのは、モデルとなった人物がそうしたからである。

 では、金閣の介入についての三島由紀夫の説明を検討してみよう。金閣の介入を主人公は次のように理屈づける。主人公は菊の花に蜂がとまるのを見て「これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置にあるのを思った。(中略)生が私に迫ってくる刹那、私は私の目であることやめて、金閣の目をわがものにしてしまう」。つまり菊の花に惹かれる蜂を見ている主人公と、女に惹かれる主人公を見ている金閣が相似形をなし、蜂であるべき主人公は、蜂を見る主人公のように主人公をみる金閣になってしまう、というのである。その結果どうなるか。「蜂と夏菊とは」(つまり、主人公と女は)「茫漠たる物の世界に、ただいはば『配列されてゐる』にとどまった。(中略)この静止し凍った世界ではすべてが同格であり、あれほど魅惑を放ってゐた形態は死に絶えた。(中略)世界は相対性の中へ打ち捨てられ」る。この辺の理屈は苦しくて、三島由紀夫も持て余しているが、要はわれわれが蜂が見るようには菊を見ないように、金閣は女を男が見るようには見ないということだろう。そういう超越的な視点が与えられるのは、「永遠の、絶対的な金閣が出現し、(中略)その変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占有し、その余のものを砂塵に帰してしまう」からだというのだが、これは視点の問題というより、優劣の問題であろう。金閣という絶世の美女を知って他の女には目もくれなくなる、ちょうど豊富な密と花粉を意味する花のイメージに惹きつけられた蜂が実際の花を顧みずに飢え死にするように。このような憧憬を超越的な視点はもたらさず、ニヒリズムを与えるだけである。

 この理屈は、主人公にしても作者にしても、後からのこじつけにすぎない。金閣の介入は性的不能をもたらすだけなのだから。なぜ美としての金閣は女性を嫌うのか。金閣が美的秩序を支配しているなら、女性を金閣の化身として利用すればいいのではないか。女性を遠ざけるより、全ての女性の中、全ての美を通して、主人公を支配すればいいのではないか。

 愛の中の性的要素という夾雑物が美的要素と競合するのだろうか。主人公が性交の中に「もっと烈しい、もっと身のしびれる官能の悦び」を期待することは、美の陶酔への裏切りになるからだろうか。だとすれば、美的秩序の外での性交は可能であり、金閣にはなすすべがないことになろう。あるいは、性のもたらす生命や生活といった世俗的要素(つまり社会参画)を美は嫌うのだろうか。

 不思議なことに、金閣のこの介入は、主人公と柏木の交流の初期、柏木が主人公に女性を紹介したときだけに起こり、その後は消えてしまうのである。米兵が連れてきた女の腹を主人公が踏んだエピソードと、主人公が女連れの老師をつけたようなことになってしまったエピソードにはさまって、主人公と老師の関係悪化の流れを中断させている。まるで後から挿入されたかのように。

 柏木の役割の中途半端性も気になる。読者としては柏木は悪の誘惑者かと予想するのだが、彼が主人公に女を紹介することは人生へ導き入れようとする親切心なのである。柏木には悪意があるのかもしれないが、主人公は素直にそう受け取っている。もし柏木が悪の誘惑者であり、主人公が女に溺れて堕落し、学業を怠り、老師に反感を持つようになれば、老師との不和と鹿苑寺からの放逐はもっと自然な経過として読者に受け止められたのではないか。しかし、主人公のモデルとなった人物は放火直前の買春まで童貞であったことが知られていた。その事実を曲げることはできない。柏木が女性を紹介しても、なんらかの障害で主人公との性交は妨げられねばならなかった。金閣の介入による性的不能というアイデアはそこから生まれたのではないだろうか。そのアイデアに魅せられたため、主人公の放蕩は堕落ではなく、人生への参画の試みであり、金閣がそれを妨げるという形に、物語は(一時的に)再編されねばならなかったのではないか。

 この憶測を補強する一つの疑問がある。それは、鶴川はなぜあのように早く退場してしまったかという疑問である。鶴川は柏木が主人公の前へ現れると交代するようにいなくなってしまう。鶴川のあっけない死は、主人公だけでなく読者をも戸惑わせる。鶴川の存在が主人公に何ごとかを約束するように作者がこう書いているゆえに。「彼のシャツの白い腹が波立った。そこに動いてゐる木洩れ日が私を幸福にした。こいつのシャツの皺みたいに、私の人生は皺が寄ってゐる。しかしこのシャツは何と白く光ってゐるだらう。皺が寄っているままに。‥‥もしかすると私も?」

 もちろん、主人公が最終的に鶴川によって救われることはないだろう。しかし、鶴川から柏木への主人公の関心の移行はいとも簡単に行われてしまうのである。読者としては鶴川と柏木の対立を期待していたのに。美と醜、善と悪、白と黒、何でもいいが、鶴川的なものと柏木的なものが、主人公を、そして金閣をめぐって争う。鶴川の死はそのときでよいのではないか。鶴川の死の直前の手紙は、作品中にあるように柏木経由ではなく、直接主人公に渡される方が自然であろう。

 鶴川によって平和的に導かれるにせよ、柏木のように強引に押し入るにせよ、主人公が「金閣と世界」に参入することになれば、金閣を焼く必要はなくなってしまう。したがって主人公は鶴川に死なれ、柏木に見すてられ、一人取り残されるのであろう。元の木阿弥で出発点に戻ってしまった主人公は絶望のあまり金閣を焼く。そういう物語も可能であったはずだ。

 その過程で、柏木によって主人公が堕落する。主人公は学業を怠り、老師とも不和になり、出奔する。そして金閣を焼こうと思いつく。そうであるなら、主人公が老師を殺すことと金閣を焼くことを比較して考えるのは妥当なことである。そういうプロットが自然であるのに、なぜそうではないのか。堕落には当然女性関係が含まれるが、主人公は放火直前まで女性関係は成立させてはならない。そのことが、三島由紀夫に、主人公の性的不能と、その原因としての金閣というアイデアを与えた。三島由紀夫はそのアイデアに魅せられた。金閣が直接乗り出してくるなら、金閣への導き手としての鶴川は不用になる。鶴川の対抗者としての柏木さえ不用になってしまう。柏木は主人公に女を紹介するだけの役割でしかなくなってしまうのだから。

 こう考えると、柏木の強引なやり方を見た後、主人公が突然金閣に助けを求めに行かねばならなかった理由が分かる。まず、金閣との隔絶が埋められなければならなかった。金閣と同盟を結んだからこそ、柏木の用意した女性に近づくことは金閣への裏切りになってしまい、金閣に介入されてしまうのである。

 私が鶴川の早すぎる死にこだわるのは、南禅寺の山門から見た女との再会に鶴川がからむべきだという感じが強いこともある。どのような形で鶴川が関与するのか思いつかないが、あるいは鶴川が愛するのはこの女性ではないだろうか。この女性を柏木と争って負け、その結果自殺してしまうのではないだろうか。そして、犯行直前に主人公が娼婦の乳房にみるのも、「金閣に変貌したりすることのない唯の肉」ではなく、「その肉のたゆたひから、舞鶴湾の夕日を思い出した」ことを通じて、幼い頃見た金閣の幻影に、そして南禅寺山門から見たこの女性の乳房につながっているのではないだろうか。

 妄想はこれくらいでやめておこう。少なくとも、主人公の性的不能というプロットは後から挿入されたのではないかという疑問は、検討に値するであろう。作者が迂闊だっただけかもしれないのだが、主人公の性的不能を柏木が気がつかない、あるいは気がついているとしても主人公に何も言わないのもおかしい。柏木のことであるから、引き合わせた女性にどのようであったかを聞くぐらいはやりかねまい。聞いたとしたら、親切ごかしに主人公をからかいたくなるのが当然であろう。柏木の無視は、当初は主人公の性的不能はなかったからであり、それがそのままになっていると考えられる。もちろん、柏木が問いかけても、主人公はあいまいに誤魔化すだけになるのかも知れない。ただし、主人公が告白してみたところで、柏木には何もできないのだ。女性を紹介し続けるぐらいであろう。柏木は所詮女衒の役割しか担えない。

 柏木がそうでしかあり得ないのは、鶴川という対抗者がいないため緊張感を失っているからである。主人公が鶴川に従おうとすれば、柏木はきっと邪魔立てするだろう。鶴川に対してなら柏木は何らかのことが出来るのである。柏木が誘惑者であるためには、金閣へ到る、鶴川とは違った道を主人公へ示すのでなければならない。しかし、金閣が主人公を取り込んでしまえば、柏木の出番もなくなってしまうのは当然である。

 このように考えると、『金閣寺』の構造は複雑である。最初に構想されていたいわば『原・金閣寺』があって、改変されて『金閣寺』になったとき、それが抹消を免れた痕跡器官のようなものとして残っている。より適切な比喩としては、後からかぶせられた地層が全てを覆い尽くせなかったため、古い地層が顔を出しているのだ。しかもそれは三層になっている。まるで金閣のように。

 分かりやすいように図式的に表現してみよう。金閣(美)と世界が彼岸のものとして主人公には拒否されている物語をA、主人公が悪に捕らわれる物語をB、金閣が主人公の性交(社会参画)に介入する物語をCとしよう。『金閣寺』はA—B—C—B—Aという物語の連なりになっている。あたかも、Aの中にBが押し入り、さらにBの中にCが押し入ったような形に。

 ところで、A—B—C—B—Aの最後のAについてはまだ語っていなかった。では、物語の最後はどうなっているか。主人公が金閣を焼失させた際のことはどのように描かれているか。

 出奔して金閣を焼くことを決意した主人公はその効果を思う。「金閣の存在する世界を、金閣の存在しない世界へ押しめぐらすことにならう。世界の意味は確実に変わるだらう」。「金閣が焼けたら、こいつらの世界は変貌し、生活の金科玉条はくつがへされ、列車時刻表は混乱し、こいつらの法律は無効になるだらう」。世界から美を奪うことは、世界と美に対する復讐である。そうすることで主人公は反社会性を貫徹することになるのか。つまり、悪に捕われているBの様相なのか。そう単純ではなさそうだ。

 金閣を焼くことは主人公にとって必ずしも反社会的とは受け取られていないのである。その理由はいろいろ考えられる。例えば、美という斥力を排することで世界と結びつこうとしているのかもしれない。あるいは、社会から押し付けられた反社会性を自ら積極的に身につけることで、逆に社会に自らを認めさせようというのかもしれない。

 主人公は決行の夜、待機の状態でこう思う。「私の内界と外界との間のこの錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に吹きかよふやうになるのだ」。「錆びついた鍵」とは具体的には主人公の吃音であり、抽象的には主人公と世界とを隔てる溝であろう。主人公を世界から隔てているのは、世界の中にいる美(金閣)が主人公を遠ざけているからである。その美を滅ぼすことによって、主人公は世界に近づくことができる。あるいはこうも考えられる。本源的に反社会的な性質を備えている美を滅ぼすことで、美に対する憧れから逃れて社会に参入するのである、と。

 しかし、いよいよ火を付けようとする段になって、金閣が邪魔をする。主人公は「激甚の疲労に襲われた」。「美が最後の機会に又もやその力を揮って、かつて何度となく私を襲った無力感で私を縛ろうとしてゐるのである」。金閣は性の試みの時以外に初めて主人公に介入してくる(自分の身が危うくなったからだろうか)。金閣は、性の試みの時のように、「人生に参与」しようとする主人公を妨げて、わが元に引き込もうとしたのか。都合よく記憶の中の臨済録の中の言葉が主人公を「陥ってゐた無力から弾き出した」(性交のときは思い出さなかったのか)。

 金閣に火をつけた後、主人公は三階の究竟頂に入って死のうとする。しかし開かない扉を叩いているうちに「拒まれてゐるといふ確実な意識」が生じて、主人公は逃げ出してしまう。金閣とともに死のうとするのは、焼失することで反社会的となった金閣と、放火によって反社会性を積極的に身につけた主人公の一体化を意味する。ところが、放火によってわがものにできたと思った金閣が、所有されることを拒否する。主人公はそれを悟って逃げ出す。逃げ出したあと「生きよう」と思うのは、金閣の焼失(美の消失)によって世界に参入できるのではないかと期待するからだろうか。

 このように主人公の心理がつかみにくいのは、物語の最初にあった三体問題に戻っているからである。基本的には主人公は金閣(美)と世界から疎外されており、金閣の放火によってその関係がどう変化するかが流動的なのである。

 三島由紀夫は作品の最後を書くことから始めるという伝説がある。それを信じるとすれば、『金閣寺』の最後も最初の構想のものであろう。確かに、このカタストロフは作品の始めの部分とはるかに(遠く)呼応するものがある。だが、途中経過が錯綜し、なぜ金閣を焼くのか、主人公も作者も読者もよく分からなくなってしまう。

 三島由紀夫が『金閣寺』を書いたのは、主人公の動機を解明する、正確には作者の解釈を現実と同等あるいはそれ以上の実在性のあるものとして示すためであったはずだ。なぜこんなことになってしまったのか。

 『金閣寺』の主人公のモデルとなった人物は、鹿苑寺の僧侶候補になり、住職の後継者となる可能性もあったのに、なぜ金閣を焼かねばならなかったのか。一般の解釈は、住職との不和で寺から放逐されそうになったので、その報復をしたのだ、となるだろう。三島由紀夫はそのような形而下的な動機を排して、美という観念的な動機を立証しようとする。

 ところで、美という観念が放火の動機であるならば、鹿苑寺からの放逐により金閣から遠ざけられることは何の関係もないはずである。美を恨む筋合いはないからだ。たとえ放逐されても、金閣の美が地上にあり、見に行こうと思えばいつでも行けるならば、金閣を焼く必要がどこにあろう。もし金閣の美が憎むべきものであるならば、どこにいようと憎むべきものである。それゆえ、主人公が鹿苑寺から放逐されようとされまいと、金閣を焼くことには本質的な関係はない。

 もし放逐が美を奪うことを意味し、それを恨むとするならば、奪った者を恨む。奪った者への復讐として、美を破壊することはあるだろう。だが、それで破壊してしまうことが出来る程度の美であるなら、その心理的影響というのは知れたものだ。

 だからこそ、金閣の傍にずっといるために、うまくいけば住職の後継者となって金閣を「所有」するために、住職に取り入ろうと主人公が努力をすることは、主人公が金閣の美の観念に捕らわれているかぎり、意味がないのである。しかし、そうだとすると、なぜ主人公は住職に嫌われるようなことをするのかという疑問が生じてくる。金閣(美)と主人公の関係において、住職は何の役割も果たしていないのだから。そこで、主人公と住職の不和の過程は、この物語の本質とは関係のないエピソードになってしまうのだ。

 ところで、『金閣寺』三層中のCの物語を忠実に適用すれば、老師を含む鹿苑寺の人間たちもまた世俗の者である。主人公が美の桎梏から逃げ出して俗世に入ることを望むのであれば、俗世の徒である老師と不和になる必要はないし、なってはいけないのである。その上でどうしても金閣を焼かねばならないとしたら、その行為は隠されねばならない。失火に見せかけるか、犯人が別にいるように工作する。

 なぜそのようには書かれなかったのか。題材とした事実と異なるからだ。事実などにこだわらず虚構としての自由さを使えばよいのではないか。そうはいかなかった。この作品のモチーフは、事実の反常識的解釈にあった。うまく解釈できないからと言って事実をねじ曲げてしまっては、その解釈の主張の意味がなくなってしまうのである。

 事実としての老師との不和をどう位置づけるか。美との関係で解釈できないのなら、他の要素に頼る他ない。「悪が可能か?」と主人公に言わせて、理由もなしに嫌わせるしかない。これもまた観念的であり、三島由紀夫は何としても形而下的な要因を排除したいのである。老師の叱責がきっかけで出奔した主人公は、汽車の中で「どこかの公共団体の年とった役員」の鹿苑寺批判を聞いて思う。「それらはみんな自明の事柄だった!私たちは冷飯を喰べていた。和尚は祇園へ通ってゐた。‥‥が、私には、老役員たちのかうした理解の仕方で、私が理解されることに対する、云はん方ない嫌悪があった。『かれらの言葉』で私が理解されるのは耐へがたい。『私の言葉』はそれとは別なのである」。この主人公の言い分は、老師との不和、出奔、そして後の放火についても適用できるものであろう。

 にもかかわらず、『金閣寺』を読む者は、老師との不和が放火の主動機であると思ってしまう。放火にいたる時間的な過程でそのことが詳しく述べられているからだ。その間、美の観念に関することはほとんど触れられず、悪についても明確な意思としては述べられていないので、私たちは忘れてしまうのである。また、私たちの自然主義的感性がそれが動機になることを納得してしまうからでもあろう。

 三島由紀夫は美が動機であるという解釈の立証に成功していない。私たちが納得するには、老師との不和を、金閣(美)と主人公の関係の中に組み込む必要があるだろう。なぜ三島由紀夫はそれをしなかったのだろうか。彼は主人公と老師、主人公と金閣との関係については詳しく述べるが、老師と金閣の関係については無視している。金閣の「所有者」、正確には管理者という性格は美とは関係がないからだろうか。

 私たちは、老師の金閣支配と主人公の反発という、むしろ陳腐とも思えるような物語に思い至る。金閣を観念化するために、ここでも女にたとえてみよう。老師は権力や金の力で主人公と相思相愛の女を支配し、主人公は取り返すだけの力がない。老師を殺したところで別の老師に代わるだけだ。やむなく、主人公は女を殺し、自分も死のうとする。注意すべきは、女を殺すことは女を救うことになることだ。

 金閣の美は、金閣が炎上しようと滅びない。かえって永遠のものになる。(柏木が「南泉斬猫」の公案を解説して、「たとひ猫は死んでも、猫の美しさは死んでゐないかもしれない」と言ったように)。観光寺院になり、金のために身を売る金閣を、その美を、救うために金閣に火をつける。主人公が老師の後継者となることは、金閣の身売りに加担することになる。だからこそ主人公は老師の気に入るようには生きられなくなるのだ。

 こういう解釈は『金閣炎上』のものに近い。水上勉は林養賢の行状に鹿苑寺への批判を感じている。それは「私たちは冷飯を喰べていた。和尚は祇園へ通ってゐた」という側面もあるだろう(実際の住職は女性関係は清廉だった)。あるいは政治化し、観光化した寺院運営への幻滅もあっただろう。それが学業の怠りにつながり、住職の不興を結果して、ますます追いつめられる。金閣の存在がこのような鹿苑寺の堕落の原因であるならば、金閣をなくしてしまえば、という考えを持つようにいたっても不思議ではない。

 ただし、このような解釈は、三島由紀夫がこの事件に興味を持つ最大の理由であったであろう林養賢の言葉、「美に対する嫉妬」とは矛盾する。この言葉にあくまでこだわるなら、主人公をめぐる環境など取るに足らないものであり、主人公と金閣の一対一の対立こそが主題でなければならない。だが、なぜ嫉妬なのだろう。嫉妬という言葉には彼我の境遇を比較する意味合いが含まれている。金閣の美に嫉妬などできるだろうか。言葉を使い間違えたのだろうか。あるいは違った文脈で語るつもりだったのだろうか。

 三島由紀夫は『金閣寺』の中でこの言葉を使っていない。その曖昧さを避けたのだろう。たぶん、彼はそのような観念的動機を信じていなかった。「金閣寺火つけ坊主」(三島由紀夫の手紙の中の言葉)にそんな高尚なことが出来るわけはないと思っていた。彼は修正写真を作ってやるつもりだった。さえない貧相な姿を絢爛たる偶像に変えてやるつもりだった。しかし出来上がったつぎはぎだらけの虚像を支えて統一を保っていたのは、主人公のモデルのさえない姿だったのである。

 ここから『金閣寺』論や三島由紀夫論が始まるのだろうが、私は自分で限った領域を超えてしゃべり過ぎたようだ。もうこの辺でやめておこうと思う。最後に一つだけ気になったことを付け加えておく。

 主人公の母親の扱いについてである。主人公が母親を嫌うようになったのは、彼女が主人公と夫の目の前で(ただし彼等が寝ていると思って)縁者の男と性交したからである。ただし、このエピソードには無理がある。いくら縁者とはいえ親子三人と一緒の蚊帳の中に男を寝かせるだろうか。たとえ事情があってそういうことがあっても(蚊帳が少なかったと理由づけされているが)、父、子、母、男などという順番で並ぶだろうか。常識的には母、子、父、男だろう。父親が結核であることを考慮にいれて端に寝るとしても、父、母、子、男だろう。母親と男が並んで寝ることは考えられない。

 それはともかく、主人公が母親を疎ましく思うのに、このような悲惨なエピソードが必要だろうか。こんなものがなくても、主人公と母親の関係は、よくある一つの形として納得できる。しかも、読者は主人公が母親を嫌う気持ちを理解しつつも、主人公と一緒に母親を嫌う気持ちにはなれない。むしろ母親の愚かしさをいつくしむのである。

 『金閣寺』の中で作者は主人公の心理を常に明らかにしておこうとする。だから逆に、主人公と老師との不和のいきさつについては読者はその妥当性を不満に思うのである。醜い黒犬を導き手にしたり(これは偶然もしくは運命が具象化されたものではないのか)、老師への嫌がらせを「気違ひじみてもをり、子供っぽくもあり、第一明らかに私に不利をもたらすものであったが、私はもう自分を制することができなかった」「わたしがどうしてそれほど大胆になれたかといふ不思議」「何故私がこんなたわけた空想に熱中したか、説明することができない」などと言ってすませてしまっているのを。これでは主人公に老師を憎ませる明確な理由を与えることができなかった作者が何とか誤魔化そうとしているように思える。

 だとしたら、主人公に母親を憎ませる理由を与えたことは妥当なのか。理由というものはいくつもの代替物があり、便宜的、恣意的になれるということを私たちは知っている。作者が自身の責任においてそのどれを選ぼうと自由なはずだ。一方で理由が薄弱であることで作者を責め、他方であまりにくっきりしすぎる理由のゆえに拒否しようとするのは、論理的一貫性を欠くようにも思える。

 主人公の母親に対する私のこの気持ちは、林養賢の母親が犯行の二日後、彼に面会を拒否されて帰る汽車から飛び降り自殺したことを知っているからだろうか。私はそのことを『金閣炎上』で知った。当時の新聞に載ったし、後日取材もしたから、三島由紀夫は知っていた。知っていたからこういうエピソードを加えたのかもしれない。林養賢は昭和三十一年三月七日に病死した。『金閣寺』は新潮の同年一月号から連載が始まっている。このエピソードは第三章にあり、三島由紀夫は彼の死を知る前に書いている。

 実際の事件を使って作家がどう書こうと、事実と創作は別物だからと割り切れるだろうか。三島由紀夫は後に『宴の後』でいわゆるモデル問題を起こしている。『金閣寺』に限っても、あのように描かれた鹿苑寺住職はたまらないであろう。しかし、物語の構成上、どのような形であれ住職は描かれねばならなかった。それは私も認める。

 しかし、主人公の母親についてのあのエピソードについては、私は批判的になる。作品の構成上どうしても必要だったとは思えない。母親に対しても林養賢に対しても、思い遣りがなさ過ぎると思う。三島由紀夫の林養賢に対する無関心さのようなもの(事件に興味はあっても)を感じてしまう。このことをもって、三島由紀夫の性格だとか、彼の文学の本質だとかをうかがうようなことはしない。ただ、このことが『金閣寺』の失敗を象徴しているように思えるのだが、これもまた言い過ぎだろうか。

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