井本喬作品集

ポスター・ガイスト

 そのポスターがいつ貼られたのか、正確なことは誰も言えなかった。私の記憶では、先週の水曜日には、エレベーターの横、ちょうど目の高さのところに、いやに線が多く配色の悪いそれが居座っていた。QCグループの一つがまた掲示作戦をやりだしたのかと、そのとき苦々しく思ったことをおぼえている。それはこう訴えかけていた。

 整理・整頓・清潔

 字の横では若い娘がVサインをしている。その顔は写実を狙っていながらデフォルメされていた。

 私がしばらくそのポスターの前に立っていたのは、出来ばえを批評せんがためではなかった。それはケント紙に描かれ、直接壁に貼ってあった。糊を使っているのか、両面テープか、いずれにせよ、はがすときに壁の塗料も一緒にとれてしまうに違いない。そのことが私を一層いらだたせたのである。しかし私は職員会議でそのポスターのことを言い出したりはしなかったし、QCサークルのリーダーに問いただしもしなかった。誰がそんなめんどくさいことをするものか。第一、ポスターは特別な方法で貼ってあるのかもしれないし、はがすうまい方法があるのかもしれないではないか。

 その一枚だけなら、それで済んでいただろう。ポスターはその位置を確保し、はるかな過去より未来永劫までそこにあるかのように壁を飾り、私たちはそれを当然なこととして気にもとめなくなっただろう。同じタイプのポスターが次々と現われるようになって、私たちは異変に気づかされた。明らかに同じ人間の手になるもので、内容は違っているが(文字が節電・節水や挨拶の励行になったり、絵の娘の髪型ロングやアップになったり)、センスのなさは変わりがない。場所に好みはないらしく、廊下の壁にスペ—スさえあれば、目につこうとつくまいと気にせずどこにでも気紛れに貼りだされる。

 ついに誰かが言い出す。

「あのポスターはなんだい。そこら中に貼ってあって、見苦しいったらありゃしない」

 そこで皆が騒ぎだす。そうだ、誰があんなものを貼ったのだ。

 しかし山口寮長でさえ「掲示物」の権威の前に、即座の撤去を躊躇する。彼は掲示を許可したおぼえはないが、何らかの理由なり、正当性があるのかもしれない。ポスターが取り上げるのは、週間目標だったり、強化月間や重点事項として皆に説いてきたものばかりであるからだ。

 職員会で職員は誰もこのポスターには関与していないということを確かめて後、ようやく撤去することが決定された。

「でも、貼った人間をはっきりさせなければ駄目ですよ」門脇寮母が主張する。「こんなことを許していたら、そこいら中ポスターだらけになってしまうわ」

「貼られたら、またはがしちまえばいい」河東は相変らず短慮である。

「結果としては適切ではなかったけれど、意図は買ってあげなければ。処置を誤ると、敵対心から貼ることをやめようとしなくなるかもしれませんよ。それこそイタチごっこになってしまうでしょう」石原寮母が得意の保護者的立場で言う。

「無断で掲示をしてはいけないという掲示をしたらどうかしら」山田寮母が言うが、むろんユーモアのつもりはない。

「いっそのこと、こっちが先制して掲示をして、貼るところをなくしてしまいますか」河東はユーモアのつもりである。ただし誰も笑わない。

「掲示板を増設して、そこを開放したらどうですか」渡辺寮母が提案する。

「どこにそんな場所があります。今でさえ掲示場所に困っているのに。それに、何でも掲示をしてもいいとなったら、混乱を招くのではないでしょうか」門脇寮母が言い放つ。

 結局、ポスターを貼りだした人間を捜しだして、ルールにのっとったやり方を説得すること決めた。しかし、強権的な捜査をするわけにはいかないので、「犯人」が見つかるのがいつになるか分からない。はたして見つかるかどうかも分からない。

 そこで私の登場となる。いや、足立春彦の登場である。

 いつものように、面接室で私達は話し合った。酒瓶の入った紙袋は私の足もとに、知恵は彼の頭の中に、それぞれ交換されるのを待って控えている。

「君らの手際の悪さといったら。壁が傷だらけになっている」

「もう分かっているんですね、お呼びした理由が」

「あのポスターのことだろう。皆で一斉に剥がしにかかったからね。君らが貼ったにしては趣味が悪いと思っていた」

「両面テープで貼りつけてあったんですよ。どうしても壁の塗料が一緒に取れてしまう。あとの補修が大変です。そこだけ塗るわけにいきませんからね。少なくともその一面は塗らなければ。あんなにたくさん貼られたんでは、全面塗り替えと同じになる」

「いい方法を教えようか」

「何かありますか」

「そこにもう一度ポスターを貼るんだ。今度は君らの作ったやつをね。それで傷は隠せる」

「馬鹿なことを。もうポスターはたくさんですよ」

「じゃあ、俺に何をさせたいんだね。ペンキ塗りか」

「こんなことがもう起こらないようにしたいんです。誰がしたのか教えて下さい」

「密告しろと」

「罰するつもりはありません。説得し、希望も聞きます」

「幸いなことに、俺は犯人を知らない。だから、選択に悩むことはない」

「本当ですか」

「信じる信じないはそっちの勝手だがね」

「じゃあ、仕方ないですね」

 私は茶色の包み紙を持って立ち上がる。足立は黙って見ている。私はドアの方へ歩き出す。

「待ちなよ。犯人は知らないが、動機は推察がつく」

「動機。ポスターを貼る動機ですか」

「それを考えなかったのかね」

「顕示欲。規律心。批判。訴えかけ。あるいは、いたずら心」

「ポスターによってあらわにされることに捕らわれてはいけない。それが示そうとしなかったことに注意するんだ。ヒントは既に与えてある」

「分かりませんね」

「ポスターの表向きの機能は何だね」

「何らかのメッセージ」

「それを捨象するんだ。現象学で言う、カッコに入れる。先入観なしで認識しろ、何が見えてくる」

「文字や絵が描かれた紙」

「そうだ。それが壁に貼ってある。するとどうなる」

「そこに注意が向けられます」

「おしいな。もう一押しだ。じゃあ、たとえ話をしよう。今じゃもう見られなくなってしまったが、昔は障子に葉っぱなどの形をした紙をよく貼りつけたものだ。障子の破れを繕うために。しかし何も知らない者が見たら、模様として飾るために貼ってあると思い込んだろう」

「ポスターは何かを隠していた」

「そうだ」

「でも、剥がしても何もなかったですよ」

「アホ。ポスターの後ろには何があった」

「壁」

「そうだ。さっき俺が言ったろう。壁の傷を隠すためにポスターを貼ったらどうかって。答えはそれさ」

「壁に何かがあって、それを隠そうとしたのですか。でも、剥がしたあとの壁には何も変わったところはなかったですよ」

「ペンキが剥がれていたろ」

「粘着テープのせいですよ。あ、そうか。我々が知らず知らずに壁を剥がしてしまうように仕向けたわけですか。壁の何かの上にテープを貼りつけて」

「違うな。そんな当てにならないことはしない。壁の何かを隠すために削ったのだ。そしてその上にポスターを貼った。それは一か所だけだ。あとのポスターは君らを惑わすためさ。ポスターが一枚だけだったら、何かを隠すために壁をけずったと気づかれるおそれがあるからね」

「あなたは何が隠されたかもご存じですね」

 私は足立の顔を見つめた。彼は今回も事件に噛んでいるのだ。

「知らない。だがある想像は出来る。君らには我々の心のすさみようは分かるまい。君らは生活のほんの一部をここで過ごす。嫌なことがあろうと仕事と割り切ってしまえば、外で憂さを晴らすことができる。だが我々にはここが住家だ。普段は押えているが、絶望のあまり自棄的になることもある。たぶんつまらぬことでけんかがあった。深夜のことだ。宿直はもう寝ている。誰かが止める隙もなく、一方が果物ナイフを持ちだし、切りつけて、相手の手にけがをさせた。仲裁が入り、加害者も冷静になった。かなりの血が出たが、止血で済みそうだ。治療のため君らを起こすと、後が面倒だ。へたすりゃ加害者は退寮になる。ことが納まればそれでいい。わざわざ君らの手を煩わすこともない。廊下に流れた血はふき取って、寝てしまおう。ところが翌朝早起きの者が壁についた血の手形に気が付く。切られた後で壁に手をやったのだろう。ふき取ろうとするが消えない。もうすぐ朝の巡回だ。目の高さにあって目立つ。急いで適当にポスターを作り貼りつけて急場をしのぐ。夜になったら壁を削って跡を消してしまう」

 私は最近手に包帯をしていた寮生がいたのを思いだす。ガラスで切ったと言っていた。

「私たちがそんなに信用できませんか」

「君らの立場とすれば、傷害事件をほっとけまい。管理責任から再犯を恐れるだろう。問題は君らが我々を信用できるかどうかだ」

「私は寮長に報告しなければなりません」

「俺は君を信頼しているが、仲間に迷惑がかかるなら、これまでの信頼関係は維持できなくなる」

「では、私はどうすればいいんです」

 足立春彦はこずるそうに私の足もとの茶色の紙袋に目をやる。

「もう一つの物語がある。この寮には隠れた天才がいて、自分に絵の才能もあるのに気づき、この前の文化祭に作品を出展した。しかし凡人どもは彼の才能を認めず何の賞も与えなかった。そこで怒ったその天才は、無断で作品を掲示することにした。普通の作品ならすぐ取り外されてしまうので、考えたすえ、ポスターにした。ポスターならだれも不審に思うまい。試しに一枚貼ってみたら、評判はよさそうだ。気をよくして次々に作品を貼りだす」

「あまりいい物語ではありませんね」

「これがいいのは解決策があるからだよ。あのポスターは捨てていないだろうね」

「剥すときに破れたのもありますが、一応保管はしています」

「この天才の自尊心を満足させてやるためにそれらをしばらく掲示板に貼ってあげるのだ」

「それが解決策になるのですか」

「しばらくして、夜のうちにそれらの作品が掲示板から消えている。われらが天才が君らの評価に満足して作品を回収するのだ。それで一件落着さ」

「そんなにうまくいきますか」

「君がもっともらしくこの物語を他の職員に披露できれば、後はまかせておけ」

「その天才が誰かは分からぬままに」

「彼は公平な評価を求めるだけで、自己顕示欲はないからね。そっとしておいた方がいい」

「どうなるか分からないけど、やってみましょう。異論はあるでしょうけど、今までの実績があるから寮長は説得できるでしょう」

「じゃあ、決まりだ」

 足立は立ち上がり、私の足もとから茶色の紙袋を拾いあげ、面接室の扉を開けた。そこで彼は振り返って言った。

「俺に絵心があるとは知らなかったろう」

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