井本喬作品集

フリップ・フロップ

 山田が白井を起こしたのは午前一時頃だった。宿直が異性のペアの場合は部屋が別になる。ドアをたたく音にすぐに反応があった。

「誰」

「私だ。山田だ。起きてくれ」

 ドアが開き、トレーナー姿の白井の顔が現れた。

「何かありました」

「外から入ってきたやつがいる。そこに隠れている」

 女性宿直室の片側は受水槽のある地下室への階段になっている。

「警察を呼びましょうか」

「寮生かもしれない。確かめてからにしよう」

「でも、危険です」

「相手は一人だ」

 山田は空手をやっている。白井は部屋から出て、山田の後に続いた。

「私の担当に熱を出している寮生がいて、昼間受診したんだが、念のため様子を見ておこうと思って、宿直室を出たとき、窓から入ってくるやつを見た」

「言って下さればよかったのに」

「何を」

「熱を出した人のことです」

「ああ、大したことではなさそうだったので」

 二人は階段の降り口で立ち止まった。廊下の明かりは踊り場までは届かず、その先は真っ暗だ。山田が壁のスイッチで明かりをつけたが、すぐに消えた。

「下にもスイッチがあるんだ。やつは下にいる。受水槽室は錠がかかっているから入れない」

 山田は大声にならぬようにして、呼びかけた。

「出てこい。逃げられはしない」

 反応はない。

「警察を呼びましょう」

「いや。大丈夫だ。下へ行ってみる」

「やめて下さい。危険です」

「明かりをつけ続けてくれ」

 山田はゆっくりと階段を降りはじめた。白井がスイッチを押すが、蛍光灯がまたたく間もなくすぐに消されてしまう。山田は踊り場まで行かないで立ち止まり、引き返した。

「懐中電灯を取ってきてくれ。ああ、待ってくれ、寮室へ行くつもりで定位置のロッカーから出してある。事務所を入って左の奥の机のあたりだと思う。分かりにくいから私が取ってこよう」

「一人で残るのはいやです。私が行きます」

「すぐだ。下にいるやつには分からない。明かりをつけ続けていれば、動けないだろう。やつが上がってきそうだったら、こっちへ逃げてくればいい」

 山田は事務所へ入り、大形の懐中電灯を持って戻ってきた。

「何もなかったか」

「ええ、相変わらずです」

 白井が明かりをつけようとスイッチを入れるが、一瞬またたくとすぐ消えた。山田は懐中電灯をつけ、階段をゆっくりと降りた。明かりがまたたき、消える。もう一度またたき、また消える。三度目で山田は踊り場に着いた。懐中電灯で下を照らした。明かりがまたたき、今度はついた。光が狭い袋小路になった階段をあらわにする。そこには誰もいなかった。

「むろん、山田は念のため受水槽室の中も調べました。さらに、翌日、大勢で調べ直しました。カギがかかっている受水槽の中まで。誰もいませんでした」

 私の説明を足立春彦は天井を見ながら聞いていた。あおぞら寮の寮生であり隠れた名探偵である彼の助けを、ワトソン役である職員の私が今度も借りようとしていた。

「そこから外には出られないのだね」

「地下室ですから、出口は階段だけです」

「暗がりで山田の横をすり抜けたのではないか」

「そんなことは絶対にないです。白井さんも何も見ていない」

「本当にそこに誰かいたのか。姿を見たのでもなく、声が聞こえたのでもないだろう」

「山田が逃げ込む姿を見ました。それに、明かりが消えましたからね。誰かが下でスイッチを押していたのです」

「そのスイッチの構造はどうなっているんだ」

「階段の上と下にスイッチがあって、上からでも下からでも同じ明かりをつけたり消したりできるんです。階段を上がる人間が下でつけて、上で消せるように。あるいは、降りる人間が上でつけて、下で消せるように。みなの利用する階段は消防法で常時点灯することが義務づけられていますが、業務用の階段はこういうスイッチがついているんですよ」

「フリップ・フロップになっているのか」

「何です、それ」

「古い知識だ。紙と書くものを貸してくれ」

 私は足立春彦にメモ用紙とボールペンを渡した。彼は回路のようなものを書き、考えた。

「回路が二つあるのか。スイッチは一方の回路を切れば他方の回路がつながるようになっている。明かりがついている時は一方の回路の両方のスイッチがONになっていて、他方の回路のスイッチは両方ともOFFになっている。消えているときは両方の回路の一つのスイッチはON、他方のスイッチがOFFになっている」

「どういうことですか。侵入者がスイッチを細工したんですか」

「細工したところで、時間は稼げても、逃げられはしなかったろうな。山田たちは天井も見たのだろうね」

「天井ですか」

「天井にはりついていたかも知れない」

「そんなところにいたら気がついたはずです」

「気がつかなかったのかも知れない」

「馬鹿馬鹿しい。天井に飛び上がって張り付くなんて、人間わざではないですよ。それなら、荒唐無稽な忍者話のように、白い布か何かで壁に一体化していたと考える方がまだましですよ」

「そうしたのかもしれない」

「本気でそう考えているんですか」

「では、どうやって消えたのだろう。タイムマシーンとか、テレポートとか、四次元空間など信じないとしたら」

「分かりませんね」

 足立春彦は私の無能を楽しんでいたが、自分の能力をひけらかす誘惑に長くは抵抗できない。

「私は分かったよ」

「本当ですか」

「簡単なことだ。他に可能性がないとしたら、いかに信じがたくとも、残された可能性が解答なのだ」

「衒学的なものいいはやめてほしいですね」

「これが楽しみなんだ、我慢してくれ。そもそも、侵入者の行動を考えれば分かることなんだ」

「どういうことですか」

「侵入者は見つかった時、なぜ入ってきた窓から逃げなかったのか。そいつが逃げた方向には何があったか」

「じゃあ、もともと地下室に行こうとしていたのですか」

「地下室に行って何をするというのだ」

「だって、他には何もない」

「本当か。地下室の階段までには何もないか」

「あるのは、でも」

「そうだ。女子宿直室」

「すると、侵入者は痴漢なのですか」

「痴漢ならば窓から逃げる。女子宿直室が訪れるつもりの場所であり、そこが迎え入れてくれるからこそ、侵入者はとっさにその方向へ行ってしまったのだ。すぐに間違いに気がついただろうが、そのときは窓から逃げることはできなくなっていた。仕方なく地下室の階段へ行った」

「待って下さい、侵入者は白井の知り合いだというのですか」

「深夜に窓から入ってくる知り合いだよ。恋人さ」

「でも、白井には夫と子供がいます」

「だからこそ、施設で逢い引きしなければならないわけだ」

「というと、白井が侵入者を逃がした」

「そう、山田が懐中電灯をとりにいっている間にね」

「でも、そうなら山田がその場を離れるのを白井は引き止めないはずです。白井を一人にしたときの状況を山田から聞きましたが、彼女は一人きりになるのを嫌がったそうです」

「当然だろ。もし、一人になった時に逃がしたら、自分が疑われる。白井にとって好都合なのは事務所へ行くことだった。事務所へ行って悲鳴をあげればいい。もう一人の侵入者がいたとでも言ってね。山田が飛んできたら、その間に侵入者は逃げられる」

「しかし、明かりはどうなんですか。上のスイッチでつけた明かりが下のスイッチで消された」

「結果的に白井がトリックを使うことになってしまったのさ。最初は侵入者が下で消していた。侵入者が逃げてからは、白井が上のスイッチでつけたり消したりしたんだ。山田のいない間に侵入者が逃げてしまったとしたら、疑われるのは自分だからね。とっさに思いついたんだろう。つける時はスイッチの音を大きくし、消す時には音をたてないようにする。簡単にできるよ」

「んんん。だが、それは推測にすぎません。証拠はない」

「確かにね。しかし、侵入者が誰かは分かる」

「何ですって」

「白井のような女性が親しくなるのは、職場の男性に決まっているじゃないか。君たちは私達を対等の人間と見ることを忘れる時がある。だから、職員同士では隠すことでも、私達の前ではさらけだしてしまう。愛しあっている二人を見つけるのは私達には雑作もないことなのだよ」

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