贖罪の場所
1
足立春彦はいつものように機嫌よく面接室に入って来た。私は立ち上がって迎えた。あおぞら寮は業務の引き継ぎや食事の準備などであわただしかったが、面接室の中は別世界だった。
「ご足労かけてすいませんね」
「いや、まだ飯時まで時間はある。今日は個人的な頼みごとのようだな」
「分かりますか」
「君は今日は日勤だ。五時以降に私と会うことにしたのは、業務上の用事ではないからだ。君は几帳面だから、勤務時間内に個人的な用事をすることは嫌なんだ。それに、今日は酒を持ってきていない。個人的な用事で規則をやぶるような賄賂を使いたくないんだろう。最後に、今日の君はいつもより丁寧だからね」
「ふだんからぞんざいな態度を取らないようには気をつけているんですが」
「気にするな。慇懃無礼という言葉もある」
「手厳しいですね。あなたのおっしゃる通り、今日は個人的にお頼みするので謝礼をお渡しします。ちょっとした問題を解決してほしいんです。もちろん、解決できなくてもこの謝礼はお渡しします」
「私を侮辱するのか」
「え、何でです」
「第一に、私がカネで動く人間と思うか。第二に、私が解決できないかもしれないと思いながら、私に頼むのか。第三に、解決できなくてもカネを恵んでやるというのか」
「そうでした。いつもは仕事なので、あなたにお頼みするのが当たり前になってしまって、横柄でした。すいませんでした。では、改めてお願いします。あなたの助けが必要なのです」
「君の頼みだ、私で出来ることなら、何でもしよう。謝礼のことなど気にすることはない」
「でも、それでは」
「遠慮なく頂くということだよ。で、頼みというのは何だね」
「少し込み入っているんで説明が必要ですが、要は地名を見つけてほしいんです。どこから話しましょうか。私のいとこがある地方都市に住んでいましてね。それがどこかということはこの問題に関係がないですし、説明していくうちに分かりますが、都合の悪いこともあって、省略させて頂きます。地方都市と言っても県庁所在地で、大学もありまして、いとこはその大学の大学院で経済学を勉強しています。去年のことですが、彼の研究室が都市問題についての聞き取り調査で、大阪府下の市の市役所を十日間ばかりかけて集中的にまわったのです。彼も同行したのですが、何せその年に入学したばかりの新人ですから、ただ勉強のためについていくだけの雑用係で、調査の手配や内容など詳しいことは何も分かっていませんでした。ある市の市役所での聞き取り調査を終わって外へ出たときのことです。彼はばったりと中学時代のクラスメートに会ったのです。彼の名前も言わないでおきます。その事情は後で説明します。仮にKとしておきましょう。先生や先輩が一緒ですし、次の予定がつまっているので、大した話はできず、お互いにそこにいることの説明と——Kは何かの申請で仕事を休んで役所にきていたようです——詳しい話はまたいつか会ってしようということで別れました。Kはそこから見える高層の建物を指して、あのマンションに住んでいると教えたそうです。この『また、いつか』というのは『もう、二度と』というのと同じ意味で、決して実現しないものです。加えて、いとこの方はKに会いたいどころか、会うのも嫌だと思っていましたから、Kに会ったことすらすぐに忘れてしまいました」
「匿名の地方都市や、匿名のクラスメートの名前を当てろというのじゃないだろうね」
「すいません。これはいとこたちの恥をさらすような話なので、実名は避けたいのです。話を続けますが、ごく最近、いとこたちの通っていた中学校の校舎が建て替えられることになり、基礎工事で校庭を掘り返していたら、タイムカプセルが出てきたのです。それはいとこたちが卒業記念に埋めたものでした。だから九年ぐらい前になるわけです。タイムカプセルは二十年後に開けることになっていましたが、保存状態がよくなかったので、卒業生たちが集まって開けてみたのです。すると中から金鉱石がでてきました」
「おやおや、宝物探しの話なのか」
「話がややこしいのです。金鉱石と言っても大した値うちのあるものではないのです。いとこの住んでる地方には昔金山がありまして、この金鉱石はその名残りの記念物なのです。いとこのクラスメートの家に代々伝えられているもので、ていねいに磨かれ、木の台座に置かれていました。値うちはどうであれ、金の筋が見えていてきれいな石だそうです。この石はいとこたちが在学中の文化祭のときになくなってしまっていたのです。それが出てきたのです」
「だんだん分かってきたぞ。その石の紛失にKが絡んでいるのだな」
「そうです。その石は、文化祭の郷土の歴史についての展示のために、借り出されていたのです。文化祭の間は間違いなくありました。文化祭が終了して片付けているうちになくなってしまったのです」
「それで君のいとこたちはKを疑った。証拠もないのに」
「Kは地の人間ではなく、父親の勤務の関係でその地方へ移ってきていたのです。中学にはいとこたちと一緒に入学したので転校生ではないのですが、やはり異端視されているところがあったのでしょう。Kは鉱物採集が趣味だったので、その石に非常に興味を示し、石の持ち主であるクラスメートに譲ってくれるように熱心に頼んでいました。もちろん、家宝のようなものですから譲ってくれるわけはありません。そういうことがあったので、Kが疑われたのです」
「むろん、Kは否定した」
「そうです。物が物だけに、先生や父兄を巻き込んだ騒動になり、あやうく警察沙汰になりかけたのですが、生徒たちの将来を考えてということで、それは抑えたようです。Kはずいぶん嫌な思いをしたはずです。たぶんそのことが原因の一つになったと思われるのですが、Kの父親が転勤になり、一家はその地方を去っていきました。Kは家族が離れるよりも先に転校していきました。しばらくは親戚の家から中学に通うようなことになっていたようです。だから、Kはいとこの中学の卒業生にはならなかったのです」
「Kには卒業記念のタイムカプセルの中にその石を入れる機会はなかった。石を盗んだのはKではなかった」
「石を盗んだのはK以外のクラスメートの誰かです。あんな大騒動になってしまったので、名乗り出ることはもちろん、黙って石を返すことも出来なくなってしまった。かといって棄ててしまうこともできない。それで、ほとぼりがさめるまで隠しておこうと思ったのでしょう。二十年もたてば、事件も風化して、笑い話になる。そのときKの冤罪も晴れるし、石も元の持ち主に返る」
「誰が盗んだかは分からないのだな」
「いとこたちは、九年前の二の舞いはしたくないので、犯人は追求しないことにしました。しかし、Kにはこのことを知らせて謝罪しなければならないと思ったのです」
「そこで君のいとこは一年前にKと会ったことを思い出した。ところがそこがどこか憶えていない」
「なにしろ、いとこは大阪が初めてでしたからどこをどう回ったのかさっぱり分かっていなかった。むろん記録はあるのですが、一日に三、四か所はたずねていて、しかもどの日にKに会ったのかも忘れている。市役所の建物もみんな同じようなので、記憶の中でごっちゃになっている。先生や先輩に聞いても、いとこのことなど皆気にしていなかったから、いとこがKと話していたことなど誰も覚えていない」
「他に調べようがあるだろう。父親の勤務先に聞くとか、転校先の学校に聞くとか。たどっていけば分かるはずだ。文通していたクラスメートもいたはずだろう」
「最初の転居先は分かっていました。そこには今はKも家族の方も住んでいません。詳しく調べ回れば分かるでしょうが、いとこたちの恥をさらすようなものですから、あまりおおやけにしたくないそうです。もちろん、どうにもならなければ、専門家に頼むことも考えているようです。ですがその前に、私が大阪の近郊にいるので、ひょっとしたら分かるのではないかと、私に聞いてきたのです」
2
「それだけの材料ではどうにもならない。他に手がかりがあるんだね」
「そうです。いとこがたった一つ憶えているのは、その市の市役所に行くときに、車の中から道路標識の案内を見て、その市の名前が裁判のような名前だと思ったことです」
「裁判のような名前。どういうことだろう」
「具体的な内容は全然憶えていないらしいのですが、ただ裁判のようで面白い名前だったそうです。その後でKに会ったからその印象がさらに一層強められたことを憶えているので、その名前の市にKがいるのは間違いないそうです」
「大阪府下の市であることは確かなのか。これは『黒後家蜘蛛の会』のシチュエーションだな」
「なんですそれ」
「知らなければいいよ。大阪府下の市っていくつあるんだ」
「メモしてきました。今のところ、大阪、池田、和泉、泉大津、泉佐野、茨木、大阪狭山、貝塚、柏原、交野、門真、河内長野、岸和田、堺、四条畷、吹田、摂津、泉南、大東、高石、高槻、豊中、富田林、寝屋川、羽曳野、阪南、東大阪、枚方、藤井寺、松原、箕面、守口、八尾の三十三です。このうち、大阪市ではないことだけは憶えているそうです」
「残るは三十二か。この中に、裁判、判決、訴訟、弁護、検事、服役、執行猶予とかの字はなさそうだな」
「あ、いけない。いとこは字ではなくその読みが裁判のようだったと言ってました。普通の読み方ではなく、地名独特の読み方じゃないだろうかと」
「読み。ではその道路標識には仮名が振ってあったのか。その線から選んでみよう。この市名の中で、独特の読みをするのはどれかな」
「ええと、和泉(いずみ)、茨木(いばらぎ)、大阪狭山(おおさかさやま)、交野(かたの)、門真(かどま)、河内長野(かわちながの)、四条畷(しじょうなわて)、吹田(すいた)、富田林(とんだばやし)、寝屋川(ねやがわ)、羽曳野(はびきの)、枚方(ひらかた)、箕面(みのお)というところですか」
「あと、あえて入れるとすれば、柏原(かしわら)、岸和田(きしわだ)、高槻(たかつき)ぐらいか。この読みの中で裁判に関係するといったら、四条畷のナワぐらいだろうな。縄をつける、という使い方で」
「そうですね。私もそれは考えました。それで、いとこに確かめたのですが、どうも違うようです」
「そうだろうな。ナワから裁判を連想することは飛躍しすぎる」
「他に考えられませんか」
「私たちではお手上げだな。ここでヘンリーが出てくるところだが」
「誰ですか、ヘンリーというのは」
「横道にそれてしまうが、アシモフという多芸な作家がいて、彼の作品にさっき言った『黒後家蜘蛛の会』という短編連作がある。その中に給仕のヘンリーが出て来て難問を解決する。難問の中にはなぞなぞ遊びみたいなものもある。もっとも、アメリカの歴史や英語にまつわることが多くて、日本の読者には分かりにくいのだが。まてよ、君のいとこは大学院生だったな。専攻は経済学といったな。経済学の大学院生というのは洋書をよく読むのではないか」
「今の経済学はアメリカが本場ですから、しょっちゅう英語の論文を読まなければならないといつもこぼしていますよ」
「私たちは馬鹿だった。道路標識に仮名なんか振っていない。読みはローマ字で書いてある。アルファベットで考えなければならないんだ」
「そうか。そうですね。書いてみましょうか。IZUMI、IBARAGI、OSAKASAYAMA、KASIWARA、KATANO、KADOMA、KAWATINAGANO、KISIWADA、SIJONAWATE、SUITA、TAKATUKI、TONDABAYASI、NEYAGAWA、HABIKINO、HIRAKATA、MINOO。なるほど、分かりました」
「私は分からない。今回は君の勝ちだ」
「いいえ、今度もあなたが解いたのです。あなたの代わりに私が説明しましょう。私は英語が得意ではないですが、ときどき英語の論文を読んだりします。記憶する単語の数は相変わらず増えませんが、英語と日本語で違った使い方をされる単語などは注意するので憶えやすいですね。ところで日本語をアルファベット表記すると読みにくいので、英語の単語のように読んでしまうことがあります。いとこは走る自動車の中からチラっと見たため、『吹田』を英語として読んでしまったのでしょう。その言葉がよく出てくる論文を読んでいたのかもしれません。スーツというのは上下揃いの衣服などのことですが、訴訟という意味もあります。その綴りはSUITです」