社会と私 ―伊藤整と江藤淳―
1
いかにも非文学的なことから始めさせてもらえば、1993年初頭のパイオニアの指名解雇のニュースは終身雇用制の崩壊の兆しであるかのようであり、平成不況の進行は企業が雇用保障を放棄しかねない様相を呈してきている。組織志向と特徴づけられた日本企業の性格は失われ、日本の経済システムは市場原理万能のアングロサクソン型に移行していくのだろうか。最後の砦であった企業からも集団への忠誠心というものが失われ、その終焉を私たちは目撃することになるのかもしれない。
ミーイズムの総仕上げ。
ある人々にとっては「自分の存在と仕事の社会的意味を問わずに済み、なにごとに対しても自分の快不快と幸不幸の基準に照らして判断すればこと足りる社会」「清潔に退廃しつつある社会」「荒涼たる爽快さに満ちたうつろな時代」(関川夏央『砂のように眠る』)の究極の姿に映るかもしれない。
あるいは、そのような繁栄ぼけを支えていた経済的基盤の集団的保障から放り出されて、少なくとも経済的には自己責任の比重が増す個人の時代の到来を告げているような気もする。
時代の変わり目にいるという意識は、はるか昔に文芸評論という場で発せられていた社会と個人の関係のあり様への問を思い出させた。そのような問の常として、むろん決着はつかず、いつの間にか忘れ去られてしまったのだ。だが今なら言うことができるのではないか。誰が時代という性悪女(これは差別語か)に愛され、あるいは裏切られたのかと。
2
日本文学論の一つのタイプとして、「社会化した私」論とでもいうものがある。(あるいは、あった。)その主張の趣旨をいささか乱暴に言い切ってしまうと、作家は市民でなければならない、というものだ。社会の一員として義務を果たし、反社会的行為は慎まねばならぬ。反抗とか逸脱とかいう、歴史的には時代遅れの、文化的には子供じみたロマン主義からは卒業しなければいけない。
これは日本のあらゆる分野で行なわれていた近代化論の文学版である。西欧のモデルと比べて遅れているか奇形化している日本型についての診断的批判。こういう議論はしつこく続いているものの、原理的には克服されているといってよい。
それだけのことなら、興味を引くようなものは何もない。しかし、「社会化した私」には、近代化論者には気がつかないもう一つの主張が込められている。それは精神的統合への希求である。資本主義が伝統社会を解体し、経済的利害という唯一の絆によってのみつながっている個人という単位に還元してしまう、そのように思える不安のときにあげられた警告の声なのである。
小林秀雄が「私小説論」を書いた時期は、近代日本社会の転換期の一つであり、それは敗戦後の状況と比しても重要さにおいて劣らぬといえよう。
第1次大戦終了後の1920年恐慌から始まった不況は、1923年の関東大震災と昭和初年の金融恐慌を経て、1930年の金解禁に伴う昭和恐慌へと展開する。この間、生糸価格などの国際的な価格下落もあって農家所得は半分以下に低下し、農村の窮乏は特に深刻であった。他方、金解禁に伴うデフレ政策と大恐慌による世界貿易の縮小の結果、製造業も大きな打撃を受け失業者が増加し、1929年度には帝国大学の新卒者さえ3割しか職がないという状況に陥った。市場経済システムへの失望と財閥など資本家に対する大衆の不満は、ロシア革命によって高揚しつつあった労働運動と、農村救済と財閥打倒を唱えるナショナリズムという二つの方向に吐け口を見いだした。(岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』)
1930年代以前の日本経済システムは、「基本的には欧米諸国と異ならないオーソドックスな資本主義的市場経済システムだった」(同)。資本主義が自生した社会では、経済システムに見合った文化・社会システムが形成されていく。伝統は継続する、あるいは新たな伝統が生まれる。だが経済システムだけが移植された社会では、経済と文化・社会は相克し、どちらかが相手を無効にしてしまう。経済が勝利するとき、なまじ社会的制約がないだけに、ウルトラ資本主義として経済学教科書通りの形態を取る。伝統的社会の崩壊と、むき出しの資本主義のもたらす階級対立は、社会の統合原理が失われたような感じを人に与える。
世界に共通な今日の社会的危機といふ事が言はれるが、かういふ事を考えてゐると日本の今の社会は余程格別な壊れ方をしてゐるのだとつくづく思はざるを得ない。‥‥私達は生れた国の性格的なものを失ひ個性的なものを失ひ、もうこれ以上何を奪はれる心配があらう。(小林秀雄「故郷を失った文学」)
こうした状況で求められてくるのが、ゲマインシャフト的な統合によって資本主義を克服しようとする試みである、社会主義もしくは国家社会主義である。「社会化した私」とは、そのような社会経済情勢の文学論的反映という性格を有している。
「社会化した私」は戦争遂行の過程において実現されたかに思えた。しかし、敗戦とその後の混乱は、それが幻想であったことを暴露した。
戦中の日本は全体主義と日本主義という二つの顔を持っていた。その顔が反資本主義の社会経済体制に必然的な相貌なのか、便宜的な仮面にすぎなかったのか、そのことが問われなければならなかったはずである。だが森を見るためには距離を置かねばならず、時間が必要だった。
3
日本と西欧というテーマは終戦直後は次のように明確であった。
併し果して文学といふものが現代、明示以後の日本に、存在しただらうか。敗北とか破産とかの名に値するだけのものを僕たちは復元し得るだらうか。(加藤周一・中村眞一郎・福永武彦『1946・文学的考察』)
何も知らされてゐなかったと云ふ程、拙劣な辯解はない。一片の理性があれば、三歳の童子といへども、太平洋戦争の結末を知り得たであらう。(同)
日本の精神は不合理な何ものかであり、文明は非人間的な何ものかである。(同)
日本には、独特の論理も、宗教も、法律も、経済も、なかったし、今でもないと云ふ明白な事実は、普く普及させて、信州の山の中にまで、徹底させなければならない。(同)
むろん、この表白のような傾向は、敗戦によって新たにもたらされたものではなく、明治以来の伝統の一バージョンにすぎないとも言える。
しかし、敗戦後の優劣論は、西欧資本主義社会とは異なる道(「近代の超克」)をとろうとした日本の実力不相応の驕慢さをつくものである。先生の教えに従わない弟子を正道に戻すという口振り。小林秀雄が「社会化された私」によって到達した地点より後退していることは否めない。
文学の社会規定性によって、日本文学も限界を画せられる。日本と西欧の社会・経済・文化的格差は歴然としており、したがって近代西欧文学に相当するようなものは日本に存在するはずがなかった。おこがましくも近代日本文学と称せられるものは、近代・文学とは関係のない別の「何ものか」である。この錯誤の泥沼に溺れている連中からすくい上げることができるのは、二葉亭、漱石、鴎外、荷風、龍之介ぐらいである。このような基本的認識が戦後の文学論には存在した。
では、そのような悲劇的状況をもたらした社会的経済的文化的な格差の根本原因は何であろうか。それは物質的生産力の差である、科学的思考法・技術力の差である、農耕民族にはない牧畜民族の積極さである、云々。そのようなものを作家個人が変えようがない。どこに作家の個人的責任を問えようか。自然主義文学をその皮相性、独善性において批判する中村光夫もその点は認めている。
しかし一方から考えれば、こうした小説を少数の読者のみを対象とした、一種の文学的実験の器具と化したことが、我国の作家に比較的同情のある理解者に囲まれて、意のままにさまざまの文学的な試みに身を委ねることを許したので、ことによればこれは半世紀以上もヨーロッパからおくれて、「近代」の世界に加わった我国の文学が、少なくも頭のなかだけでも外国と肩を並べて行くためにやむを得ず強いられた背のびであり、一般社会からの遊離もその反面に必須な悪徳であったかもしれません。(『風俗小説論』)
このような認識を継承して、江藤淳も日本における西欧的手法の無効性を言うが、彼は中村光夫より不寛容である。
実状は、僅々半世紀の間の日本の小説が、あらゆる美しい衣裳を、それが新しいものであるから、という極く素朴な理由で、流行に敏感なお洒落女の細心さで身にまとっているということにすぎない。‥‥こうして書かれていないのは日本の現実のみであり、更に、明治以後の近代日本文学は、熱心に輸入された十九世紀以来の西欧文学に対する一種の「脚註」であるかのような観を呈するにいたる。(『夏目漱石』)
敗戦という結果をもたらしたことについて、敗戦が明らかにした文学の貧困について、社会の責任論、個人の能力論、個人の責任論など、様々な見方がある。社会の遅れは社会の欠陥であるが、その欠陥が個人を限界づけているなら、個人を悪くは言えない。社会的規定性をあまりに強調することは、個人を免責してしまう。社会への批判が同時に個人への批判を可能にすることは可能であろうか。社会の欠陥が道徳的なものであるなら、個々人は「悪い」状態にあるであろう。社会的問題を個人的責任に結びつける安易な方法は、倫理を持ち出すことである。かくして「社会化した私」の矮小化された形として倫理が求められるのである。
戦局の悪化と窮乏化の進行の中で、倫理が重荷に、あるいは外部的な強圧として意識されるようになり、倫理的行為が喜びでなく苦痛に、あるいは保身のための処世術と化し、人々は自分の利害に敏感になり、他人の行為もそのような観点から理解する。さらに敗戦の価値転換は、山形県の山中の中学生にさえ根本的なものだと感じられた。
〈そのころ(昭和二十一年頃)から急に、「勝手だべ、勝手だべ。」という言葉がはやり出しました。お父さんの煙草入れなどいじくりプカプカ煙草などふかしたりしました。お父さんなどに見付けられてしかられると、「勝手だべ。」といって逃げていく子になってしまったのでした。先生から「掃除をしろ。」などといわれても、「勝手だべ。」といいて逃げていくのでした〉(『山びこ学校』、関川夏央『砂のように眠る』からの孫引き)
このような傾向を解放と捕らえた人もいる一方で、新たな統合原理が必要だと痛感するのも当然な傾向だろう。彼等はまず現状の否定的分析から始める。高度に倫理的な社会と思われていた戦前戦中の日本は、実はそうではなかった。日本社会の失敗は、倫理の失敗ではなく、倫理の欠如の失敗である、と彼等は見る。
近代市民社会は倫理的な社会であり、日本は近代市民社会ではなく、したがって倫理的な社会ではない、という彼等の見解の権威づけに大きな役割を果したと思われる著述がある。
アメリカ人がこの日本人の徳行を理解するに当たって、その理解を容易にする方法はたえずそれを経済取引と比較することを忘れず、その背後には、アメリカの財産取引の場合と同じように、債務不履行に対するいろいろの制裁があると考えることである。(中略)ところがわれわれは、愛国心や家族に対する愛情は、これとは全然異なったものと考えている。われわれにとっては、愛は心情の問題であって、何の約束もなく自由に与えられる愛が最上の愛である。(ルース・ベネディクト 長谷川松治訳『菊と刀―日本文化の型―』)
今日から見れば、『菊と刀』で興味深いのは、むしろベネディクトの自国文化の理解の方である。彼女の性格なり、出身階層・生活環境の特殊性を思わざるをえなくなる。あるいは彼女はアメリカの最良の部分を代表しているのかもしれない。それをアメリカそのものと見なしてしまったという相互の誤りの上に、この書の影響が広まった。
封建社会から近代市民社会(資本主義社会)への移行は、「身分から契約へ」あるいは「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」と表現されるように、法的には私法による市民的自治、経済的には市場経済という、公的道徳的な統合から私的利害的な統合への変化と常識的には見なされている。しかし、一方で資本主義社会にもそれなりの倫理はあるはずだ、それどころかそもそも資本主義が成立するためにはその倫理的基礎がなければならない、というウェーバーの異義申し立てもある。したがって、市民社会を道徳的な社会と捕え、社会の近代化に個人の人格化を対応させる論があってもおかしくない。そのような文脈においては、近代社会を単に封建的な束縛からの解放と見るのは、皮相的であるとされよう。
その際重視されるのはキリスト教である。キリスト教の根づかぬ日本は近代市民社会ではない。それどころか資本主義社会であるかどうかも怪しいものだ。江藤淳は言う。
元来、パスカル流の論理は古くから唯一神を所有している西欧人のものである。神の前で自己を否定出来たり、芸術家の進歩がself-sacrificeや絶えざるdepersonalizationによって達成出来る(T・S・エリオット)、などという芸当はこのような種族に特有なものでしかない。ぼくら日本人の特質は、究極に於てぼくらが彼等の神に無縁だという所にある。‥‥このような日本の社会には西欧的な意味での人間の対立関係や、人間と社会の関係は生れない。又西欧的な意味での近代的自我の如きものも存在しない。したがって、そのようなものの存在の上に成立している西欧的な小説の方法論を、日本に適用しようとすることは不可能である。
これらの論では統合が倫理的に行なわれるとされるから、倫理のない社会での人々の結びつきは、利害打算によるものか、権力による強制か、いずれにしろ外在的なものとならざるをえない。
友愛に支えられた(無償の)倫理と、エゴイズムが根底にある強制は、ヨコとタテになぞらえる。江藤淳は、西欧を「社会」、日本を「自然」と言い換えて、社会人の倫理は平面的倫理であり(「そして、倫理というものの本質はこのようなものなのである」)、社会人にとっては「他者は効用を持ち、被支配の可能性を含んだ家畜ではもはやない」、と説明する。自然人の倫理は垂直的であり、支配従属関係をもたらす。倫理といっても、支配従属関係をもたらす垂直的なものはエゴイズムである。それは日本にある。当然それは排斥されなければならない。
理想とする西欧が倫理的な社会としてイメ―ジされる一方、日本は封建社会というよりアノミー状態に近い社会とされてしまう。江藤淳の言う自然状態とは、公的規制を最小限にして、個人的欲求の追求を解放する自由放任の資本主義社会の弊害を描写しているように見える。
資本主義に対する全体主義と社会主義の挑戦の遂行の始まりと失敗の後で、すなわち戦中期をはさんだ前後で、社会の混乱は類似して受け止められた。むろんのこと江藤淳は小林秀雄にあった歴史意識を受け継ぐべくもなく、「社会化した私」は非歴史的概念に変じてしまったのではあるが。
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平野謙は『小説の方法』について次のようなエピソードを伝えている。
もう何年もまえのことだったか、あるパーティで丸谷才一とたまたま伊藤整の『小説の方法』について話しあったことがある。丸谷才一にいわせると、『小説の方法』ほど精緻巧妙な私小説擁護の書はないということだった。‥‥丸谷さんのような頭脳明敏な勉強ずきの文学者にも、『小説の方法』の性格がそう受取られている‥‥」(『平野謙全集第六巻』)
確かに、『小説の方法』の前半は、洋の東西を問わずエゴイズムこそが文学の源泉であり、その意味で私小説も、現象形態として特殊であっても、文学の普遍性にもとるものではないという、まさに私小説擁護の主張となっている。伊藤整がそのような観点を保持し続けたわけではない。日本の社会・文化の個別性(特殊性)の認識が文学の普遍性という見方を変えていく。しかし伊藤整はエゴイズム普遍論とでも言うべきものは堅持する。「社会化」論者と違って、伊藤整はエゴイズムを克服の対象とするのではなく、説明原理に近いものとして扱う。
このような伊藤整の態度は、花田清輝との類似を感じさせる。花田清輝はヒューマニズムとエゴという対立とは別の軸をめぐって発言する。それは心情と知性を対極とする軸と言えよう。知性の方向に重心を移すことによって、心情の行き過ぎにブレーキをかけ、均衡を保とうとするのが花田清輝の方法のようにも思える。花田清輝を「政治における情念を虚妄としてとして斥ける諷刺的知性によって、ロマン主義的思惟を全面的に否定」(『比較転向論論序説』)したと評価した磯田光一は、ヒュ―マニズム=形而下的要因=合理性=近代と、ロマン主義=形而上的要因=観念的=反近代という二系列を対立させる。しかし、彼のいうロマン主義的な態度(「ある目的意識によって自ら進んで生を統制」)は、むしろヒューマニズムと呼びたくなり、また彼のヒューマニズム(「私益優先」)とはエゴイズムと言えはしないか。だとすれば、エゴイズム(私益優先)が知性(合理性)と結びつき、ヒューマニズム(ロマン主義)が情念(非合理)と結びつくことになる。
伊藤整は普遍的原理としてのエゴイズムを認識することが知性的な態度であり、ヒューマニズムを追及する求道的な態度を心情的なものと見なした。つまり、主知主義的批判者としての花田清輝と伊藤整に共通するのは、倫理を心情的なものとして扱うことである。新心理主義を唱えたり、「認識者」の概念を打出すことになる伊藤整としては当然のことと言えよう。しかしそのような伊藤整でも戦争中は「‥‥ラジオで軍歌『敵は幾万ありとても』をやるとわくわくして涙ぐんでくる」「はじめて日本と日本人の姿の一つ一つの意味が現実感と限ないいとおしさで自分にわかってきた」「ぎりぎりの所まで来ると、自分の考が、古来からの日本人の『城を枕に一族揃って死ぬ』という古典的な考えかたになって来るのだ。」(『太平洋戦争日記』、『昭和史』からの孫引き)と記したのである。
この経験が伊藤整の倫理的情緒へのアレルギー体質を作ったのであろう。伊藤整の戦後の出発について、本多秋五は次のように証言している。
伊藤整のことを考えるとき、私がいつもまっ先に思い出すのは、彼が「近代文学」の出現を論評した「新人的なもの」(書評、四六・一二)という時評である。戦前からの文壇人のうちでは、おそらくわれわれのもっともよき理解者であろうと期待していた彼が、そこで高見の見物的というよりは冷やかし半分に、ヤユ的に「近代文学」を論評しているのをみて、私は意外でもあり、拍子ぬけの感じでもあり、失望した。‥‥さすがに鋭敏なアンテナを持つ伊藤整にも、文学の新しい胎動がよく読み取れなかったらしい。(『物語戦後文学史』)
しかし、伊藤整の立場は明確である。正義や倫理の名のもとになされる言動を疑え。その底には戦争遂行にコミットしたという苦々しい思いと、戦後の手のひらを返すような西欧礼賛・日本卑下の風潮への嫌悪感がある。戦争遂行の過程で動員されたのは倫理観への訴えであり、それに手も無く引っ掛かってしまった自分。自己を越えたものへの信仰はもううんざりである。醜き自己に固執せよ。それこそが一番確かなことではないか。
「政治と文学」論争の過程で「近代文学」派の小市民的性格の側面が明らかになると、伊藤整は彼等を、全面的ではないにせよ、容認する。伊藤整と「近代文学」を結びつけるのは、集団的規制への反発である。このことは、『1946・文学的考察』との関係を見るとはっきりする。「政治と文学」論争への加藤周一の反応(「IN EGOISTOS」)は、「近代文学」派に批判的であった。一方、伊藤整は既に『1946・文学的考察』に激しく反発していた。
「一九四六」の客観性、無疵さ、超越性、冷静さは、働きかけることも、働きかけられることもせず、文章によって罪悪を残す自由も持たなかった、見てだけ居る外なかった精神の生んだ畸形である。(中略)この書のひろがりの無抵抗さに、ある白痴的な、ほとんどいやらしいほどの、ぶよぶよ肉の、養分過剰と筋骨の貧困を感じた。(「病める時代」)
「社会」に対して「私」を強調した論客として、むしろ平野謙を伊藤整の代わりに代表とすべきかもしれない。磯田光一が「戦後という時代思潮を一身に具現していた」(『比較転向論序説』)と形容する平野謙を。党への忠誠も、国家・民族への献身も、「滅私奉公」という同じ態度であるとみなす(小林多喜二と火野葦平とを表裏一体にながめる)というのが、「政治と文学」論争における平野謙の主張である。「近代文学」派の転向とは、「滅私奉公」からエゴイズムへの価値転換である。
確かに、平野謙は国家なり共産党なりの押しつけには反対し、庶民的エゴイズムやプチブル的日和見を擁護する。しかし平野謙は組織の上下関係からくる管理的強制には反対しても、同志的連帯は否定しない。自己犠牲を強いてはならないのは、上から下へ、強きものから弱きものへの一方的な場合であって、双方的にであればかまわない。お互い様なのだ。だとすれば、女房子供が家庭のためといって夫に犠牲を強いるのはゆるされることになる。それが嫌なら、組織には属さぬことだ。私小説家が家や地域社会という組織の規範を脱しようとしたのであるならば、彼等が非難される点は、うかつにもそういう組織にいったんは属してしまったことだ。
しかし人間は一人では生きてはいけない。集団でくらす以上、何らかの組織に属していかねばならない。組織の束縛が強いとき、その拘束が耐えられない場合には、反抗するか組織を抜け出さねばならない。そういう悲劇を避けるためには、組織がより柔軟であり、個人を尊重するものになる必要がある。
しかし、伊藤整にとっては、どのような結びつきであれ、人間の集団に成立する秩序は抑圧的である。個人はエゴイズムにどうしようもなく捕らわれ、本質的に反秩序的性向を持っている。そういう個人を安定的な関係に組み入れるためには、エゴイズムを抑えつけなければならない。悪い秩序だけが抑圧的なのではなく、秩序の一般的性質として抑圧的なのだ。それは西欧社会においても変わらない。
一方、芸術家は秩序に対してエゴの拡張を主張し、本質的に反秩序的である。こういう芸術家と秩序の本質的関係は、社会的条件の差によって、西欧と日本で現象形態が違ってくる。失うものの多い西欧の芸術家は秩序と妥協し面従腹背の態度をとる(仮面紳士)が、失うものの少ない日本の芸術家は秩序に逆らう(逃亡奴隷)。市民と芸術家の両立としての「仮面紳士」に要求されるのは、仮面というごまかしであり、虚構という惑わしである。「社会化した私」は裏返った形で表現されている。
伊藤整にとっては、秩序とエゴは永遠の敵対関係にあり、歴史はその現象形態を変化させるに過ぎない。よりよき秩序というのは幻想で、秩序の抑圧的性格は消し去ることは出来ない。しかし、秩序は完全に抑圧的であることも出来ない。エゴは絶滅しえない。
伊藤整は秩序(社会)の敗北宣言をしているのだ。戦時の全体主義的社会も遂にはエゴイズムを解消しえなかった。だとすれば、「社会化した私」は社会と個人の妥協によってしか成り立ちえないに違いない。
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戦後二十年、磯田光一は、近代化が達成された、つまり「私的部分」が「公的部分」を駆逐したという認識のもとに、「戦後という時代思潮を一身に具現していた」「平野理論は二十年にわたる歴史的役割を完了した」(『比較転向論序説』)と総括した。
二十年たってみると、日本は「私的」社会となっていた。これが近代社会なら、近代社会は倫理的な社会であるというのは幻想であったのか、それとも日本の近代化というのが実は近代化ではなかったのか。
戦後二十年、江藤淳も磯田光一の見た社会を前にしている。『成熟と喪失 母の崩壊』は、社会化論と近代化論の分裂を見せている。依然として西欧をモデルにした近代化を目標にしている一方、急速に「私化」しつつある日本社会への嫌悪が近代化への疑問を生じさせているのだ。
『成熟と喪失』の最初の部分から予想されるのは、エリクソンの『幼年期と社会』が提示している「アメリカの冷たい母親」にヒントを得て、自然状態を象徴する母(母性原理)が崩壊して近代に一歩近づいた日本社会と文学についての記述である。社会=倫理を象徴する父(父性原理)がまだ現われていないので、いわば中途半端な近代化ではあるが、方向としては正しいことになる。
しかし一方で、「自然状態を社会の優位に置こうとする価値顛倒」(エゴイズムの優勢化)という傾向が指摘できる。日本の近代化は「『父』によって代表されていた倫理的な社会が、次第に『母』と『子』の肉感的な自然状態にとりかこまれて腐食していく」過程としても把握されるのである。
日本に「倫理的社会」がかってあったというのは、『夏目漱石』で抱かれていた「自然状態」という日本のイメージが逆転されている。事実、『決定版 夏目漱石』の第一・二部では近代の(不十分だが)体現者としての漱石像を提出しているが、第三部での漱石は道学者風な性格(反措定としての前近代)を与えられている。
日本の近代化の様相が二つになったため、前近代の日本のイメージも二つになる。なぜなら、前近代から近代への移行は「変化」でなければならず、したがって前近代は近代とは逆の性格を持たされるからである。つまり、日本の近代化には、
① 農耕文化=母性原理 → 母の崩壊
② 儒教倫理=父性原理 → 自然状態
という二つの過程が併存することになる。この矛盾の解消のために江藤淳は、日本の現状を「『父』もなければ『母』もない」ともいっている。むろん、そういう論理の進め方もできよう。父母両有原理から父母非在原理への移行というように。
実は、『幼年期と社会』はそれに近い論理を展開させているのだ。旧世界の優しい母と厳しい父の組み合わせと、新世界の冷たい母と厳しさの薄れた父という組み合わせを対照させて。江藤淳は西欧(アメリカ)と日本の相違を強調するあまり、日本にも適用できるこの理論を見損ねてしまったのである。
『幼年期と社会』を読み進んでいけば、西欧と日本という対照がいかに狭い視点をしか与えないかということが分かるはずである。エリクソンはアメリカインディアンの幼年期と社会についても語っている。「草原を往く狩人」であるスー族の母子関係は、江藤淳流にいえば「密着」しており、「鮭の来る河に沿って住む漁師たち」であるユーロク族のそれは「疎隔」している。スー族は狩猟民であり、ユーロク族は漁と採集によって定住している。農耕・定住と「母子密着」、遊牧と「母子疎隔」の結びつきというお定まりのパタ―ンには当てはまらないのである。(ただしエリクソンの理論展開については私は賛成しているわけではない。)
戦後日本に起こったことは、つまりは、家父長としての父親の権威の低下、妻・母の家ないし家父長に対する忠誠心の低下、子供の地位のより一層の上昇などが、母子連合の成立との相互作用によって、家庭の統合を緩めてしまったように見えるということであろうか。秩序が緩むこと、各自が自らの利益を優先させること、それが「社会化」論者としての江藤淳を反発させる。
以後、江藤淳は過去を規範にして現代に対するようになる。
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戦後の「私的」社会は、大衆社会でもある。大衆社会の特質をどこに求めるかは様々だが、人格的世界から機能的世界への移行という側面も指摘できよう。高度成長の前夜、伊藤整は「組織と人間」を書く。
それらの秩序の中心の動機は、たいてい口実として正義が掲げられているけれども、実は力である。たとえば、ジャーナリズムという組織の中では、それの下請職人である文士や、それの組立工である編集者等は公然とは文化的事業を良識によって行なっているものと認められている比較的良質の人間であるけれども、その組織の力の構造の中では、歯車(編集人)や材料(作家)にすぎない。‥‥現在の資本主義下の企業は、それ自体の生命によって動いているのであって、人間はそのシステムを保ち、それから出る蜜によって生きることを考えている蟻のようなものに過ぎない。それから離れては、彼等は生きられないし、彼等の道徳に従って良質の商品を作るよりも、大衆の好みに支配されて、それに合う商品をしか作ることができない。‥‥現代の第一流の国家の組織や、第一流の企業の組織が、このような独立した生命を持つようになったのは、商業や政治の分野において科学、すなわち分析と能率判断と効果の集中とから生れた自由競争の中に放たれた近代科学の方法の当然の帰結である。独立した自由な個人の力では出来ない高い能率、また自由な個人の連合(購買組合、同業組合等のもの)では出すことの出来ない高い能率を、それは発揮する。‥‥我々人類が十八九世紀に、封建組織をうちこわして、ロマンチシズム即ち個人のオリジナリティと努力と人格を作り出したときに持っていたと考えたあの自由はどこへ行ったのか。‥‥現代の人間は自由な生命と判断と意見とを持つ権利を失い、組織に従属する傾向を強く持っている。そして組織のみが、必要な人間を取り入れ、不要な人間を排除しながら、真の生命としてこの世に生きているように見える。
伊藤整のエゴイズム普遍論においては、秩序とエゴイズムは明確に対立しえた。国家であれ集団であれ、個人に献身を要求し、個人的利益の追求は放棄させられる。秩序はエゴイズムの占める割合を減少させようとし、出来れば無くすつもりである。むろんエゴイズムは滅びない。それは人間の存在そのものに根ざしているから。
しかし秩序=集団は単なる抑圧機構なのだろうか。伊藤整は一般論の中に見失いがちであるが、近代的な組織は人間のエゴイズムを取り込んでいく。「われわれにとっての自己確立はそのまま自己喪失である」。伊藤整の文明史的考察を、平野謙は時代的考証に述べ直す。
‥‥昭和初年代のプロレタリア文学運動の勃興と昭和十年代の戦時下のきびしい文化統制とは、いわば楯の両面として、文士という自由職業家をも否応なく巨大なメカニズムに組み入れようとし、事実組み入れおおせたのである。‥‥‥‥文壇とかジャーナリズムとかいうル―ズな組織体が、もはや逃亡奴隷のささやかな自由さえも許容せずに、巨大な力をもって個人の上にのしかかってきたのは、戦中から戦後へかけての新しい現象だと思う。(「戦後文学の一結論」)
資本主義は封建的な身分関係を打ち壊すとともに、ゲマインシャフト的な統合を喪失させ、社会的混乱をもたらした。その反発として、反資本主義的な二つの潮流、社会主義と国家社会主義が出現する。日本はその二つの主義を経験し、失敗する。全体のために個人に余りに犠牲を要求する体制は嫌われた。政治的には民主主義、経済的には資本主義が、戦後の混乱を乗り越えて新たな統合をもたらすように見えた。しかしその時、大衆社会という新たな展開が始まる。
実は、その萌芽は既に重化学工業化という産業構造の変化という形ですでに第一次大戦中から指摘しうるのであり、大きく見れば社会主義も国家社会主義もその段階への対応の一つであった。全体主義という超倫理的な――人間に生存の意味を与えるとともに、逆らう者を抑圧する――社会・思想への対応に専らであったため、それらが効力を失うまでその基盤にある大きな変化に気がつかなかったのである。
大衆社会は消費の面の自由度の拡大と、生産の面の組織化という二面性を持っている。「組織と人間」論は、むろん限られた視点ではあるが、生産面からの文学論であった。生産という面から見ると、戦後の日本社会は戦前戦中の反資本主義的な遂行を継続していたのである。
このように、現代日本の社会システムは、歴史的に見て比較的新しいものである。その多くは最終的に300万人以上の人命と国富の4分の1以上を犠牲にした日中戦争・太平洋戦争を遂行するために、資源を総力戦に動員することをめざした企画院などによって人為的に作られた統制システムを原形としている。この総力戦体制自体が、一党独裁の下で策定されたナチス・ドイツの戦時経済体制と、計画と指令によって重化学工業化と軍事大国化を目指したソ連の社会主義計画経済に範をとったものであった。‥‥いうまでもなく現在のわが国の経済・社会システムは、これらの戦時体制が無傷で残っているわけではない。‥‥とはいえ現代日本の経済システムは、戦時期に作られたシステム――官僚主導による経済計画を企業や企業グループを実行組織として実現するシステム――によって規定されていることを忘れるべきではない。(『現代日本経済システムの源流』)
社会と個人の関係は重層的である。時間的に見れば、秩序という一般的な次元、近代社会という文明史的次元、資本主義社会という長いスパンの歴史的次元、より短いスパンの大衆社会という次元。空間的な広がりからは全体社会、集団、小集団、具体的には国家、企業、家族など。私たちの能力が限られている以上、全てを把握することなど出来はしない。しかし、私たちは重層的世界の中で見、考え、発言している。「社会化した私」というのは文明史的な意味をになわされているけれども、時代的、空間的に限られた地点での言葉である。その時代的側面を一番よく見抜いていたのは平野謙であったと私は思う。時代性にこだわることによって、より普遍的な動きをも捕らえることが出来たように思う。
「社会化した私」の概念的有効性は、それに関わった誰をもの予想を超えて長く続いたのである。
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「ミネルバの梟は夕暮が近づいてきたときになって、やっと飛び始める。」一九二〇年代から続いてきた日本における反(ないし修正)資本主義的な遂行は消滅に向かいつつあるように見える。そのとき「社会化した私」という概念の有効性も失われたことを私たちは悟るであろう。それが初めて口に出されたときの特定の意味合いが失われてしまえば、この言葉は大したことを伝えはしない。人間が社会的動物である以上、いつでもどこでも「私」は「社会化」されているのだから。
「社会化した私」論の継承者たちは不実な戦後社会に空しくラブコールを送り続けたが、実は彼の背後にひっそりと立っていた理想の恋人に気づかなかった。ロナルド・ドーアによって「組織志向」と特徴づけられた日本企業は、「社会化した私」論の統合への希求を実現していたといえよう。
戦後の日本社会は家族においては「私化」し、企業においては「社会化」するという分裂社会であった。消費と生産、女子供と男が分裂した社会であった。
戦後の日本文学が消費=女子供と結びついて、「私化」していった、というふうに言えば、それなりに首尾一貫して面白そうであるが、ことはそう単純ではあるまい。
そもそも近代文学とは女子供のものではなかったか。あるいは文学とはしょせん少数者のものではないか。そういった言い方も出来よう。生産者文学の提唱なども面映い。だが、社会が変化しつつあるのは確かなようだ。はたして日本経済がアングロサクソン型市場経済化し、企業社会が「私化」するのだろうか。そのとき、1920年代の変革期に小林秀雄が「社会化した私」を掲げたように、文学と社会の関係を予言するものが誰かいるだろうか。