井本喬作品集

空の箱

「養護老人ホームというのを知ってますか」

 私は足立春彦に聞いた。場所はいつもの面接室だ。部屋の外は初夏の空の下うきうきするような景色が展開しているはずだが、すりガラスの窓は見せてくれない。春彦は物憂げに答えた。

「老人ホームなら知ってるよ。ただし、実際に中を見たことはない」

「老人ホームにもいろいろありましてね。一番よく知られているのは特別養護老人ホーム、いわゆる特養というやつで、どこにでもあります。田舎に大きくてきれいな建物があれば、ほぼ特養だと思って間違いないです。でも、養護老人ホームはそれとは別です。全国にあることはあるのですが、数は少ない」

「どう違うんだね」

「対象者が違います。特養は身体的な介護が必要な人のための施設ですが、養護老人ホームへ入るのは、経済的な理由で自立ができないなどの理由からです」

「うちと似たようなところかな」

「そうも言えますね。ただし、養護老人ホームは高齢者施設ですから65歳以上でないと入れません。それと、ちょっとややこしいのですが、養護老人ホームは措置施設ですから、生活保護は二重受給ということになってしまうので適用されません」

「俺をそこへ移そうとしても、年齢不足だぜ」

「60歳以上なら例外的に認められることもあるのですが、今日の話はそういうことではないのです。この市にも養護老人ホームがあるのですが、そこで働いている職員の中に仕事の上で面識がある人がいます。その人からの相談事なのですよ」

「おいおい、探偵事務所でも開く気かい。面倒事はごめんだぜ」

「そうは言わないでまあ聞いて下さいよ。いろいろあって、頼まれると断れなくて」

 春彦はずるそうな顔つきになって言った。

「その知人は女性というわけだ」

 私はあわて気味に弁解した。

「そうですけど、それだからというわけではないのです」

「まあいいだろう。君の恋の手助けになるなら、一肌脱ぐさ。言ってみな」

「そうじゃないのですけど、でも、まあ、助かります。長くなりますが、順を追って説明します。その老人ホームは新築の4階建てで、全室個室になっています。こことは違って、うらやましいですね」

「ここは建て替えの予定はないのか」

「聞いていません。予算が手当てできないのでしょう。ええと、話を戻しますと、その施設のエレベーターが問題になっているのです」

「台数が不足しているのか」

「エレベーターは二台だけですが、事務室、食堂、浴場、トイレなどは各階にあり、階の間の移動の必要は少ないですから、その点は問題はないようです。ご存知のように、エレベーターは自動ですので、乗降に際して声の案内が出ます。『上へあがります』とか『何階です』とか『扉が開きます』とか」

「それはうちでも同じだな」

「空いた扉が閉まる時には『扉が閉まります。ご注意ください』と言います。扉が閉まる前ですから、この声が結構外に響くのです。特に夜間は」

「騒音が問題になっているのか」

「相変わらず察しがいいですね。エレベーターが着いて一定の時間がたつと、人が乗っていようがなかろうが、扉は自動的に閉まり、このアナウンスの声が出ます。エレベーターの前にも居室があって、そこの居住者から苦情が出たのです。夜中にうるさい、と」

「夜中でも利用する人がいるのか」

「禁止はしていないのですが、夜間に利用するのは緊急時ぐらいだそうです」

「職員はどうだ」

「職員は原則として階段を使うことになっているそうです」

「では誰が何のために夜中にエレベーターを使っているのだ」

「それが分からないから、困っているのです」

「当然、調べたんだろうな」

「時間帯はだいたい決まっているようでしたので、巡回をしてみたそうです。しかし、エレベーターは動かなかった」

「巡回しているのを気づかれたんだな。隠れて見張ってみてはどうかな」

「それもやってみたそうです。苦情の出た部屋は二階ですが、その部屋はエレベーターを見るには死角になっているので、斜め向かいの部屋の住人に一時的に他の部屋に移ってもらって、その部屋から見張ることにしたそうです」

「それでどうだったのだね」

「早速その晩にエレベーターが動きました。一階に停めてあったエレベーターが四階まで上がり、二階に下りてきました。しかし、それには誰も乗っていませんでした」

「空で動いたのか」

「たぶん、エレベーターを動かした人間は、行き先のボタンを押してから、扉が閉まる前に下りたのでしょう」

「確かめたのか」

「四階まで行ってみたけれど、誰も見つけられなかったそうです」

「何でそんなことをするのだろうな」

「それが知りたいのですよ」

 足立春彦はしばらく考えてから言った。

「以前にこういうことをしたことがあった。発車する車両の網棚に荷物を載せて人は下り、車両が着いた駅で別の人間が網棚から荷物を取る。荷物の運送費や運搬する人間の運賃を節約するために。今じゃ不審物と見とがめられてしまうから、こんなことはできないがね」

「エレベーターの中には何も載っていませんでした。それは職員が確認しています」

「では、空の箱だけが動いたというのか」

「そうです」

 再び足立晴彦は考え込んだ。しかし適当な解釈を見出すことはできなかったらしく、投げやりな口調で言った。

「運んでいたのは空気かな」

「空気って、目に見えないし、触ることもできないのではないですか」

「特別な空気かもしれない。熱いとか、湿っているとか、匂いがするとか」

「匂いを届けるのですか。何のために?」

「匂いにだっていろんなことに使えるじゃないか。異性を惹きつけるとか、縄張りを主張するとか‥‥そうか、情報か」

「そうですね、ヒトとかモノを運搬するのでなければ、情報を伝えているのではないか。それは彼等も考えたようです。何かの合図かもしれない、と」

「考えることは同じか。で、何か分かったのか」

「誰が誰に伝えているのかが分からなければ、お手上げですね。思いつくことはいろいろあったようですが、思い当ることはなかったようです」

「じゃあ、誰がエレベーターを動かしているのかを調べた方が早道だな」

「それもしたのです。エレベーターを呼んだのは四階の住人でしょう。四階でもエレベーターを見張ったのですが、それ以降は夜中にエレベーターが動くことはなくなりました」

「だったら、それでいいじゃないか」

「彼等にしてみれば気になるのですよ。原因が分からなければ気持ち悪いじゃないですか。それに、いつまた再開するかもしれないし」

「しかし、事情をよく知る施設職員に分からないことが、俺に分かるわけはないだろう」

「そこを何とか考えてみて下さいな」

「無理を言う」

 足立晴彦はお手上げだというようにすわったまま背伸びして目をつぶった。私は待った。しばらくして彼は眼を開け、姿勢を戻した。

「待てよ、なぜそのときにエレベーターが動いたんだろう。見張っている者に見せつけるように。職員が見張っていることを知っているのは職員だけだったのかね」

「そうです。しかも全員ではなく、一部の者だけです」

「苦情を出した入居者は知っていたのかな」

「たぶん知らせていたでしょう。エレベーターを動かした人間に警戒されないように、静かにしていてもらう必要がありますから」

「それと、もちろん、見張りに使った部屋の住人だな。どんな人間なんだ」

「詳しくは聞きませんでしたが、信頼の置ける人間で、秘密は守ってくれたはずだと言っていましたが」

「なるほどね。そういう人間なら頭は回るから、職員の考えを誤った方に導くことはできそうだな。問題になるまではエレベーターは本来の目的で使われていたんだろう。つまり人が乗って二階で降りたんだ。そのことを隠すには、エレベーターが別の用途で使われたように見せかければよい。情報理論などに踊らされた職員が勝手に理由を考えてくれる」

「なぜそんなことをするのです」

「エレベーターに乗ってきた人間は内緒で二階の部屋を訪ねていた。その施設でも他人の部屋に入ることは禁止されているのだろう?」

「そうですけど、夜中に何をしに行くんです」

「鈍い奴だな。夜這いだよ」

「でも、高齢者ですよ」

「施設職員のくせに差別的なことを言うね。恋愛に歳は関係ない」

 私はこんがらかった頭を整理しようとした。

「つまり、そんなことをしている人間を、部屋を提供した人がかばおうとしたのですか」

「違うさ。当の本人が仕組んだのさ。職員が見張っていることを知っていたのは、騒音を訴えた人間と、部屋を提供した人間だけだろう?だとすれば、部屋を提供した人間が犯人だ。そいつのところに四階から誰かが夜這に来ていたんだ。うまい具合に職員がそいつの部屋で見張ることになったので、これ幸いと誤魔化すことを考えた」

「でもその部屋の住人は男ですよ」

「じゃあ、女性が来たんだ」

「そんなことがあるでしょうか」

「年寄りだからといって馬鹿にしちゃあいけない。女が積極的になることはめずらしいことじゃないだろ」

「じゃあ、職員が見張っているときにエレベーターを動かしたのはその女だと言うんですか」

「そうだ。職員が見張ることを知った男が、事前に女と打ち合わせておいたんだろう。女はエレベーターを四階まで呼び、二階のボタンを押して、乗らずに空のまま行かせたんだ」

「でも、ええと、逢引ですかね、それを内緒にしておきたいのなら、なぜ目立つエレベーターを使ったのでしょう。階段も使えるのに。」

「当り前のことさ。年寄りは足腰が弱い。楽をしたいからだよ」

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