文学論者伊藤整
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伊藤整の三つのテーゼ、逃亡奴隷と仮面紳士、調和型と破滅型、求道者と認識者の相互関連を見てみよう。伊藤整は自らの理論を常に発展せしめようとし、いわば走り続けて後ろを振り返る余裕はなかったので、その軌跡を整理することはしていない。この三つのテ―ゼはより妥当性を増そうとして生み出されていったのだが、同時に彼の理論の発展ないし変質をも表わしている。そして、これらの相互関連の形の中に、彼の不易なる部分をも見せてくれる。
『小説の方法』の最初の二つの章(「小説への疑問」「理論と実作との距離」)において、伊藤整は小説の形態にとらわれてその本質を見失うことをいましめている。西欧の小説と日本の小説の形態がいかに違うかと述べ立ててみても、小説自体の理解に大したものをつけ加はしないであろう、と伊藤整は言う。
では日本と西欧とを問わず、小説を小説として成り立たせているのは何か。伊藤整は、少なくとも近代小説においては、告白の要素であるという。告白とは隠されていたことを述べることである。なぜ隠されていたかというと、社会ないし秩序と相容れないからである。小説の本質は反社会的・反秩序的であるというのが伊藤整の理論の立脚点なのである。この反社会的・反秩序的な告白が、装われた形でなされるか、ストレートな形でなされるかが、形態的な違いとして現われるにすぎない。その差異は作家を取りまく環境から由来する。
市民的秩序の中にいる西欧の作家は、ストレートな告白によって秩序と対立することを避け、仮装として虚構を用いた(仮面紳士)。それに対し、日本では市民的秩序はごく部分的にしか成立しておらず、作家は封建社会と尖鋭な対立をせざるをえなかった。作家は社会から孤立した文壇の中で生活し、文壇と文壇を取りまく少数の読者を対象として小説を書いた。その結果、文壇という特殊社会が、市民的秩序以上に告白を可能にした(逃亡奴隷)。
このような見解によれば、日本の小説こそ純粋培養された小説であり、小説の原形——むき出しにされた構造を現わすものとされる。この部分を取れば、『小説の方法』が私小説擁護の書といわれるのも当然である。しかし、伊藤整は虚構について、仮装という防御的な機能の他に、経験の一般化という積極的な機能も見いだす。つまり虚構の創作は、経験がいったん観念化・一般化された後、具体性をまとうという過程になる。経験の特異な性格よりも、その持つ一般性の認識が主となる。一般性の認識は実証的論理性と関連する。このように、伊藤整の虚構の評価は二面的である。ヨーロッパの作家にとっての造形とは、少くとも近代以後においては、なかばはこの実証的論理性の現われであり、なかばは作者のエゴを他者の仮面の中に封じ込める操作である。(「環境と創作」)虚構の持つ一般化機能は本質移転論に通じるものであるが、そのことはもっと後で検討しよう。
伊藤整の私小説擁護論は、戦後の日本的なるものの全否定、西欧的なるものへの手放しの礼賛に対する反発があったのであろう。本多秋五『物語戦後文学史』に次のようなくだりがある。「伊藤整のことを考えるとき、私がいつもまっ先に思い出すのは、彼が『近代文学』の出現を論評した『新人的なもの』(書評、四六・一二)という時評である。戦前からの文壇人のうちでは、おそらくわれわれのもっともよき理解者であろうと期待していた彼が、そこで高見の見物的というよりは冷やかし半分に、ヤユ的に『近代文学』を論評しているのをみて、私は意外でもあり、拍子ぬけの感じでもあり、失望した。」『近代文学』へのこのような態度は、「さすがに鋭敏なアンテナをもつ伊藤整にも、文学の新しい胎動がよく読み取れなかった」(同書)ばかりでなく、時代の風潮に対する不信が強かった。『1946・文学的考察』に対する激しい反発(「病める時代」)をみるとき、伊藤整が私小説の文学性を強力に主張した気持ちがよく分かる。
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告白が小説の基本的要素であるということは、作家が自己の体験による一般的認識を基にして書くということになる。書かれた具体的な事がらがどうであれ、そこには常に作家の体験による告白的認識が述べられている。したがって西欧の小説が虚構の介在によって作家の身辺以外に題材を取ることは何らさしつかえがない。
しかし、日本の作家が自己の身辺以外に題材を求める場合はどうなるのか。彼等には虚構という手段がないので、告白と描写を結びつけようがない。文壇棲息者でありながら文壇以外の生活を描いた作家たちを、伊藤整は説明しなければならない。「散文精神の性格」は、「放棄と調和」で秋声につけられた留保を展開する形で、答を提出する。
こういう様々な廣津和郎の言い方から、私はそこに一種の生活人、しかも実利的な社会の生活人でなく、生活の真実を見て取る探究の道とする精神、そしてそれを特定の観念によって歪めることなしに描く精神を見る。それは美とか詩的なアイデアによる人生の選択を拒む。散文芸術家という名のかげには、私が前に書いた文壇生活者、生活と描写とを合致させた所謂私小説家たちの、独立した心を持って、彼等が外の実社会を見たときの客観的冷徹さが想起されざるを得ない。それは苦行によって自己を鍛えた求道者が僧院の窓から外を見る目である。そしてそれは、そういうものとしての鋭さ、徹底さ、怖ろしい力を持っていた。それは例えば、徳田秋声、岩野泡鳴、正宗白鳥のような小説家が、その精神的な苦闘を経て統一した我をもって社会を見るときの姿勢として考えられる小説家の態度である。
この「小説家の態度」は私小説、マルクス主義文学にも共通するものとして、伊藤整は「実践的」と呼ぶ。そしてこの現実重視の文学に芸術重視の文学を対立させる。芸術重視とは虚構があるということだ。虚構は隠蔽の機能よりも一般化の機能で捕らえられる。つまり、伊藤整は環境による文学形態の決定を逆転して、態度(散文精神)による相違にしてしまう。
むろんその転換は完全なものではない。しかし彼の留保は「むしろ、この民族的文化的傾向をより十分に生かし訂正することの方が、日本の散文芸術の展開に有利であるかもしれないとすら考えるのだ。」というように「民族的文化的傾向」や「気質」に言及し始める。環境という普遍的なものを個別化する要因が、民族・文化・気質という質的なものへと変化していく。
虚構が文学と同一視されると、虚構のない私小説は文学ではなくなる。
しかし日本のような社会では、芸術にまで高められないものも十分に楽しかった。現世の窮屈な不合理な秩序から逃亡すること自体が喜びであり、それを芸術としてでなく事実の記録として読むことが十分に生命の味を読者に知らせた。
一方、虚構は芸術=技法=様式=社会構造という形で環境に対応すると伊藤整は言う。だとすると、虚構(芸術様式)のない私小説は、社会構造とどのように対応するのだろうか。
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調和型とは、本来、日本における西欧型(仮面紳士)を意味していた。「日本の場合」では、非(ないし不完全な)文壇棲息者として、二葉亭、蘆花、鴎外、藤村、漱石、武郎があげられている。「放棄と調和」で調和者としてあげられているのは鴎外、漱石、藤村、直哉である。
しかし「日本的人格美学」になると調和型は中間形態として独自の意味を持たされてくる。西欧においては、破滅型(遁走型、下降型)は十八世紀にロマンチシズムとして、調和型(上昇型)は十八世紀から十九世紀にかけてリアリズムとして主流であり、十九世紀末からは分析的芸術に変わったとされる。日本では、私小説を中心とする自然主義が破滅型であり、知的作家や白樺派が調和型である。分析的作品としてはわずかに「明暗」をあげることができるのみ。調和型の代表作は「暗夜行路」であり、「暗夜行路」に感動し「明暗」を敬遠する日本人は、まだ分析型を受け入れるまでにはいたっていない。
文学は破滅型、調和型、分析型という発展段階として捕らえられ、歴史と対応しつつ、進行の程度が優劣の評価となる。
さらに調和型が心境小説とは必ずしも一致しないことから、日本文化の特性という考えが認識されるようになる。「近代日本人の発想の諸形式」では、西欧の横形思考と日本の縦形思考が区別され、日本型は更に上昇型(死、または無による認識)と下降型(破滅型、遁走型)に分類される。ここでの上昇型と下降型は、社会発展に対応する上昇型・下降型とは当然異なってくる。文化型としての上昇型・下降型は日本独特のものであるが、社会発展の段階としての上昇型・下降型は、時間的な差異はあるものの西欧と日本に共通する。また調和型と社会発展段階としての上昇型は同一と見なされているが、文化型としての上昇型との関係は明確ではない。調和というのは、対社会的な態度であるのに対し、文化型としての上昇型は「発想の‥形式」であるからだ。
芸術と生活の関係を、伊藤整は、生活次元の相違が芸術次元にどのように反映されるかという観点で捕らえる。生活次元での相違を社会関係、歴史発展、文化の質と見方を変えるにしたがって、文学の類型も変化する。つまり
普遍的な心性の、社会関係を反映した表われ
↓
歴史発展段階に対応した主人公の性格と描き方
↓
文化的な発想形式による相違
という経過の中で、まず社会的普遍性が歴史的共通性に変化し、ついで文化的個別性に変わる。技法も隠蔽機能、一般化機能(純粋抽出機能)から分析機能へと観点が移る。このような変化は、戦後の様々な日本文化論の影響もあるだろうが、伊藤整の「文学=反社会」という本質規定の保持のための努力の過程でもある。
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伊藤整の文学本質規定は「反社会(=エゴイズム)」であった。仮面紳士は虚構によってそれを覆い隠し、逃亡奴隷はあからさまにするという、現象における違いはあるが、本質においては差異はない。仮面紳士の調和は、表面上のものである。
しかし、心からの調和というタイプの存在がこの規定の普遍性に疑問を生ぜしめた。伊藤整は日本文化の特性によって把握しようとしたが、文化の特異性による説明は文学理論の普遍性を弱める。伊藤整はやむをえず求道者という概念をこのタイプに与える。
私はある時代の正義感が芸の強い動機になることを知り、それに敬意を払いつづけ、芸の永続的本質を崩してまでそれに迎合しようとして、かなり苦しんだ。そして、正義を意識して芸を作る作家の内部の裏切りは私の関知することではないとして、ある時代を限って言へば、臨時的に正義は芸の強い源泉であることを認めざるをえなかった。人間は生命の持つバネを正義のバネだと認識することによって、正義を芸の中に持ち込み、生命のバネの後暗さから目をふさぐやうである。(「一つの感想」)
求道者というタイプは、「時代を限って」「臨時的に」成立するものであり、そしてそれは「作家の内部の裏切り」により「生命のバネの後暗さから目をふさぐ」という操作を必要とする。つまり、反社会=エゴイズムという本質規定からの逸脱と見えるのは、作家の自己認識における誤解ないし曲解にすぎないので、その変異性は現象的なものにすぎない。したがって伊藤理論の文学本質規定は守られる。
伊藤整のこの留保はとりあえず無視して、仮面紳士と逃亡奴隷、認識者と求道者の関係を考えてみよう。伊藤整は社会的行為としての逸脱(反社会)と心理的な不同調(エゴイズム)を同一視しているが、この要素を分けて考えると次のような配置となろう。
このように描いてみると、仮面紳士と逃亡奴隷の対比が社会的であったのに対し、求道者と認識者の対比が心理的なものだということになる。そして同じ私小説でも、破滅型(下降型)と同調型(上昇型)が全く正反対な性格のものになってしまう。また、マルクス主義文学を求道者と同一視することによって、いわゆる体制文学との差異を失わせる。
ところで、伊藤整が空白にしているカテゴリーがある。社会学者が革新あるいは創造的不同調と名づける態度である。常識的にはマルクス主義文学はこのカテゴリーに入れることができるはずなのだ。道徳的という意味でマルクス主義文学も体制文学も同一視することも出来る(平野謙のいう「小林多喜二と火野葦平とを表裏一体とながめ得る」)が、同調と逸脱という区別もなしうる。伊藤整はいかなる社会形態であろうとも、生命と秩序の対立は解決しえないという信念から、社会改革の有効性を認めない。したがって、体制的であろうと反体制的であろうと、道徳という秩序で他人を縛ろうとする点で同じだと見なしたのである。