井本喬作品集

伊藤整の視野を広げる 

 伊藤整のエゴイズム論は、統制の強い社会の経験を基礎にしている。それゆえ、彼の見解は時代に限定づけられていたと言えるかもしれない。ただし、どの著作家も時代に限定づけられているのは当然なのである。違いがあるとすれば、自己の見解を普遍的なものとみなすか、特殊性の描写とみなすかにあるのだろう。見ているものは同じであっても、そこに普遍的なものの具現を見るか、限られた時空の特殊な様相を見るかの違いである。

 しかし、伊藤整が生きたのは変革の時代であった。時代ないし社会が変わっていくように見えたとき、そこに普遍性の貫徹があるのか、あるいは、異なった質への転換が起こっているのかも、問われたのである。

 伊藤整は自らのエゴイズム論を普遍的なものとみなそうとした。エゴイズムは人間の普遍的な性質であり、そればかりか人間の本質を形成するものであり、消し去ったり是正したりできるものではない。社会は秩序維持のためにエゴイズムを制限し抑えようとするが、人間の生の実質はエゴイズムの中にあるので、そこに葛藤が生じる。芸術とは社会の抑圧の隙間から漏れ出たエゴイズムの発揮に他ならない。それが彼の主張であった。

 伊藤整はエゴイズムと社会の関係をあくまで抑圧・統制という観点から捕えようとする。彼の比喩を使えば、社会は枠のようなものであり、人間のエゴイズムを閉じ込めるものなのだ。しかし、その枠を作ったのも人間ではないのか。一体誰がそれを作ったというのだろうか。少数の支配者だろうか。伊藤整は「組織と人間」という形でその答えを得ようとしたが、そもそも組織が形成されるのはなぜなのかという疑問には答えていない。

 しかし、社会組織が人間によって形成されたものであるならば、単なる抑圧の機構ではないだろう。人間には知性や善性も備わっているのであり、エゴイズムだけが人間の本質とはいえない。エゴイズムが人間に備わっていることは否定し得ないとしても、それを抑え馴致するのは可能なはずだ。社会組織は人間が協調しあって生きていくための仕組みであり、ただ単に人々を抑圧するものではない。伊藤整の見方は一面的であり、悲観的過ぎる。そういう反論が当然あるだろう。

 俯瞰するなら、伊藤整は孤立していた。エゴイズムなど盲腸のようなものだと気楽に考える正統派と、あくまでエゴイズムを抑えつける対象としか見ない硬直した伝統派に挟撃されて、同感者をどこにも見出せなかった。

 伊藤整が有効な反撃方法を見出せなかったのは、彼に盲点があったからだ。エゴイズムこそが社会を組織化する原動力であるという見方もあるのだ。スミスがはるか以前に指摘していた経済分野だけに限らず、政治や社会をも含むより広い領域において、エゴイズムは基本的な原理として見直されている。

 そのことが露わになったのは、市場の発達と拡大により、統制の範囲がどんどん失われていき、利己的性向がその役割を代替するようになったという歴史的経過においてである。この現象が汎エゴイズムとでも言うべき見方に基礎を与えているのだ。伊藤整はネガティブにそれを捕らえたが、肯定的な見方の一つが市場主義である。交換のネットワーク・システムがうまく機能すれば、集団的統合の理念・統制なしで、社会は効果的に運行される、という見方である。

 統制的な考えからはそのような発想は出てこない。統制のない諸行動は社会の混乱と衰退をもたらすとしか考えられない。伊藤整もそこから脱却することはできなかった。

 ところで、ここでのエゴイズムやエゴイストという用語の使い方について述べておく必要があろう。厳密な定義をすれば、エゴイズムとは他者に何らかの損害を与えるにもかかわらず自らの利益を追求する態度であり、エゴイストとはそのような態度を常に取る人である。しかし、ここでは、自らのことを第一に考えるのがエゴイズム、そのような人をエゴイストと呼ぶことにする。つまり、自分が損失を被ってまでは他人の利益を図るということをしないというのが、ここでのエゴイズムなのだ。その意味で、エゴイストは利他的ではない。

 ただし、自分に利益があるのならば他者に対する損害をいとわないという態度は、他者の反撃を受ける可能性があるので、状況によって(総合的な損得勘定で)態度を決める方がよいのである。状況によって厳密な意味でのエゴイズムの採否を決める、それがここでのエゴイストである。合理的なエゴイストとも呼ぶ。

 社会・秩序・組織などが自生的なものであるならば、人間にとって何らかの好ましい要素があったに違いない。そこではエゴイズムも肯定的な役割を果たしているはずだ。さもなければそのようなものが作られ、永続するはずがない。そもそもなぜ私たちが集団を形成するかを考えてみる必要がある。人間が集まって生活するのは、単独で行動するよりも好まれたからであろう。強制的に人を集める理由はなかったはずだ。反抗したり逃げようとする者を集団に留めるために、生かしたまま捕らえておくことに大したメリットはない(そいつが金の卵を産むのでないかぎり)。捕虜に労働の代行をさせても、常に見張っていなければならないとしたら、捕虜の食い扶持のことを考えれば、自分でやった方が効率がいいだろう。強制力が高度に効率化されたなら他人にやらせることがペイするようになる。しかし、人類の初期には強制は協力よりも非効率であったはずだ。

 だとすれば、集団(社会)は個人にとってメリットがあるから、そしてメリットのある限りにおいて形成されるという社会契約説的な説明の方が妥当と思われる。そして、道徳は社会運営のルールとして合意されたものと考えることができよう。ルールが社会の維持に必要とされるなら、エゴイストであっても合理的な人間ならばそれを守るはずである。

 エゴイズムの抑圧機構としての社会ではなく、エゴイズムに基づく仕組みとしての社会の理論化の例として、ノージックの『アナーキズム・国家・ユートピア』(一九七四年)とロールズの『正義論』(一九七一年)を取り上げてみよう。社会の安定のためにはその成員が最大限の満足を得ることが望ましい。なぜなら、そのような社会を誰も壊そうとはしないからである。自由競争市場は最も効率的に人々の欲求を満足させるシステムである。ノージックはそのことを基礎に、そのシステムが安定するためにはどの程度の公権力が必要なのかを検討する。ノージックが公権力の必要性を認めるのは、暴力による権利侵害の防止などの最小限の分野である。それ以上の公権力の行使は個人の権利を侵害することになる。

 ノージックの描く社会は、不気味なことに、治安や教育などの行政サービスを私的に調達するゲートシティとして戯画的に実現している。住民以外の人間の立入を拒み、自分たち以外の人間のための負担を嫌って、居住地をフェンスで囲んでいるその姿は、貧者と関わりたくないという富める者の気持ちを露骨に表現している。だが、彼等が富を得たのは市場においてであり、富を使うのも市場であり、ノージックの主張するように、他人の権利を侵害してはいないし、誰からも収奪してはいない。

 一方、公権力による所得再分配を正義として理論化しようとしたのがロールズであった。ノージックと同様、ロールズは社会を個々の参加者が自己の状態を向上させることができる集合行為と捕らえる。そのような社会であれば、人々はエゴイストであっても自発的に参加する。ただし、社会が市場と異なるのは再分配の制度を備えていることだ。そのような制度はなぜ成立したのであろうか。通常、治安面の考慮とか、利他心のようなものが想定される。ところが、ロールズは分配の正義を合理性から導き出そうとした。

 社会が便利な道具にすぎないのなら、たとえ個人が利他的であるように見えても、自己と共に(同時に)他人に便益を与えているからにすぎない。共同行為が単独行為より効率的であるゆえに、いわば共存共栄を通じてのみ利他的であるのである。個人が自らの犠牲によって他人を助けるということは、彼の合理性からは起こりえない。合理的なエゴイストにとっての善と、再分配という社会正義を一致させるために、ロールズは「無知のヴェール」という将来の不確実性のようなものを使った。再分配はいわば保険のような機能を持たせられている。

 ノージックもロールズも、後に立場を変化させており、彼等の試みが十分に成功しているとは言い難い。しかし、エゴイズム(自己利益の追求という意味での)をここまでつきつめようとする態度は評価される。伊藤整にはそこまでの徹底はなく、私たちにもなさそうだ。彼等の探求心の基底には知性への信頼というものが感じられる。そこから合理性の可能性への興味が生まれてくるのだろう。

 伊藤整は道徳というものを信用しない。それは社会の枠として個人を縛るか、あるいは、偽りの外観で本心を隠すものである。道徳がエゴイズムを排除しようとするのなら、エゴイズムをその裏をかこうとする。いずれにせよ、道徳とは私たちの外にあるものとされている。

 道徳の名目は、他人の、あるいは共同体の利益のために、自己の利益を放棄する、ということであろう。なぜそういうことが人間に可能なのかについては、二つの答えが予想される。一つは、一時的には損失に思えても、結局は見返りを得られるから、というもの。もう一つは人間には道徳心があるから、というものである。伊藤の考えは前者に分類されよう。しかし、同じく前者に属してはいるものの、伊藤とは異なる考え方もある。合理的なエゴイストが社会を形成できるなら、道徳をも作り出すことができるのではないか。道徳を社会生活上のルールとみなせば、ルールを作り、それに従うことは、社会生活というゲームを円滑に運行させることになるだろう。

 協調と収奪の機会があって、収奪の方が利益が大きければ、エゴイストは必ず収奪を選ぶであろう。例えば、交換という相互利益の行為について考えてみよう。お互いの物を交換しようと交渉するとき、相手の物を受け取って自分の物を渡さないことが一番有利である。そのような場合であっても、このような主体が収奪よりも交換を選ぶことはありえるだろうか。このままの利得構造では改善は望めないのは明らかだ。そこで継続する複数の機会を考える。収奪が起これば機会はそれだけで消滅し、二度と起こらない。もし協調することができれば、これからもそのような機会が継続して起こる。継続する複数の機会での協調による利益が、一回の機会での収奪による利益よりも大きければ、エゴイストであっても収奪を避けようとするであろう。

 エゴイストが他の人間と関係を持つのは、その関係から利益を引き出すことができるときである。収奪は特定の人間にさらに利益を積みますことになるが、それを妨げているのは、相手の抵抗や反撃を抑えるコストの大きさもあるだろうが、関係を継続することの利益という長期的な視点である。相手に一方的な収奪を経験させたならば、相手は二度と交換に応じない。利益をもたらす関係を継続するためには、相手の利益を考慮することが必要になる。これだけで、エゴイズムから道徳心を引き出すに十分である、というわけだ。

 このようにして、将来のより大きな利益のために目の前の利益をあきらめるという合理的判断が、道徳性を生み出す。合理性はエゴイストを協調的にさせ、互恵的な関係を構築するという積極的な役割を付与することができる。

 ところで、道徳行為が報われぬ場合があることを、エゴイストはどう解釈するのか。そういう場合も無理やり互恵的に解釈することはできる。奉仕はいつかは報われることを期待してなされているとみなせばいい。その報いは、直接の援助の対象から期待できなくとも、周囲の人間が寄せてくれるだろう。それが物質的なものではなくとも、たとえば賞賛の言葉は大きな満足を与えてくれる。犠牲が多大であり、献身者が死ぬようなことになっても、天国で報われるのかもしれない。しかし、そのような不確かな期待がエゴイストを納得させることができるだろうか。

 人間関係において、道徳的であることが主体に有利であることがあるのは確かである。彼が道徳的であるという評判は、彼を信頼して互恵的な関係を結ぼうという人々を増やす。その道徳性を疑われる人は、人々に信頼されず、互恵的な関係から遠ざけられる。だとすれば、表面的に道徳的であっても、利益を得ることができるであろう。さらに、人々に知られるときだけ道徳的で、人々に知られないときには収奪を行うことが、もっと有利であろう。そうなると、人々に察知されない確率を的確に判断するということが、道徳についての考慮になってしまう。

 常に道徳的であることと、知られる限り道徳的であることに差はつけられないとしたら、両者は同じことであろうか。もし人々が全てを知ることができる能力を持っていたら、同じことになる。そうでないとしたら、常に道徳的であるようなお人好しは、機会主義的に道徳的である者に食い物にされて滅びてしまうであろう。その結果、存在するのは機会主義的道徳者、すなわち道徳者を装う者だけになってしまう。

 全員が道徳者を装っているにすぎないなら、道徳的に振る舞うことはおかしなことになりはしないか。しかし、お互いに本性を現して収奪に走れば協調から得られるものが失われてしまうことを彼等は知っている。お互いの監視の中で、彼等は協調する。しかし、彼等は収奪する機会を狙っているし、他人がそうであることも知っている。それゆえ、収奪の機会から他人を離そうとして、道徳的であることを要請し、非道徳的であることに対して非難することは割に合う。

 では、経済の分野と同様、社会においても合理性だけで十分であって、道徳というものは実態のないお飾りにすぎないのであろうか。時折見られる真に道徳的と思われる行為は、錯覚や錯誤などの合理的判断の失敗なのだろうか。私たちが住んでいるのは、邪悪な本心を隠して表面は道徳的に装い、信じてもいないくせに道徳の大事さを吹聴する、そういう人間ばかりの世界なのだろうか。それなら伊藤整の世界とそんなに違わない。合理的なエゴイストは偽善者でしかない。

 道徳のある部分はルールとして人為的に成立したとしても、全てがそうとは言えないであろう。エゴイズムが人間の性質とされるなら、道徳心だってそうであっておかしくはない。

 道徳とそれに伴う感情は人間の集団性に由来するものと考えられる。単独の行動で成果を得るよりも協働の成果を分配する方が有利であることが、このような性向を成立させた。

 交換においても、お互いに利益を得るという構造は、協働と同じなのである。相手と物やサービスをやりとりすることで、単独の行動よりも成果をあげる。ただし、協働とは違って分配の問題はなく、差し出す物と受け取る物の比較だけですむ。

 協働と交換の違いは、交換は個人的なコントロールが容易であるという点にある。協働は集団的な意思決定のプロセスが必要とされるため、各個人の意思決定がそのまま反映されることは困難である。交換おいては、意思決定の半分を個人が把握できる(後の半分は相手方にある)。交換が広範なネットワークで拡がるようになっても、この特質は保持されるのである。

 協働がうまくいくためには、いわゆる「ただ乗り(貢献はしないけれど利益は受けようとする行為)」を排除しなければならない。「ただ乗り」は有利であり、その機会は常にある。それゆえ協働においては道徳的非難の強さが必要とされる。交換においても「ただ乗り」に似た行動は可能である。受け取るだけで与えなければ利益は大きくなる。しかしそういう行動は即座に(個人的な決定で)排除しうる。次回の交換をしなければいいのである。

 交換の観点を利他的行動に持ち込めば、利他的行動の利己的解釈が可能となるかもしれない。他人が困っているときに、私は彼を助ける。私が困ったときには、彼が助けてくれることを期待して。もしそのときに彼が助けてくれなかったら、助け合いの連鎖は打ち切られる。このような貸借関係としての利他的行動解釈は、利他的性向などというものを想定しなくても、利己的な合理的計算のみで利他的行動を説明できるとする。

 だが、他人を助けようという私たちの気持ちは、合理的な計算によって生まれてくるだろうか。合理的な計算では、相手が返報してくれるかの確信が持てず、決して一方的な援助はできないだろう。相手が先に援助してくれて、私の態度次第では今後もそれが望めるなら、私は彼を助けようとするであろう。しかし、そんなことで援助が可能だろうか。私たちが他人を助けようと思う気持ちは、それだけで完結していて、見返りを期待しない。さもなければ、私たちは決して他人を助けることなどできない。

 道徳心の発生を集団選択によって説明する考えもあるが、これ対しては「ただ乗り」を防げないという有力な批判がある。しかし、集団を媒介にしない限り、道徳心は謎のままである。

 いずれにせよ、協働由来の道徳心と交換の互恵性とは区別すべきであろう。もちろん両者はからみあっている。協働が分業を含むとき(仕事の分担、能力の差などによって、両者はほぼ同時に発生するだろう)協働の中に交換が侵入する。交換によって個人的取引が可能になるので交換は協働を解体する危険をはらむ。人々が交換に魅せられながらもそれを嫌うのはそこに理由があるのかもしれない(多くの社会で商業に対するアンビバレンツが見られる)。論理的に考えれば、自発的な交換自体の中には道徳的非難を呼び起こす要素はないはずだ。嫌なら取引しなければいいのだから。取引をしてやらないというだけでは道徳的非難にはならない。取引をしろというのは道徳的非難になるだろうが、そのような要求の根拠は交換にはないだろう。しかし、公平・公正な取引という言い方には、強制や詐欺や独占などの攪乱要素以外に、分配的な配慮があるようでもある。

 協働はただ乗り(サボる)やモラルハザード(分配に反映しなければ能力の全てを発揮しない)を防ぐため、道徳的非難が必要となる。交換にも同じことが言えないだろうか。

 コミットメント問題というものがある。コミットメント問題とは、状況が変化しても行動を変化させないという約束を相手に信用させるにはどうすればいいかという問題である。機会主義的(短期的に合理的)な行動をしないことの証明の問題である。それが可能であれば協力関係を維持できるのである。例えば、愛情があれば相手をころころ変えないという信頼を得られる。怒りがあれば勝敗の見込みに関係なく反撃するという警告になって不当なことをされることへの予防になる。感情というものが人間に備わっていることに注目する必要があるようだ。

 金の卵を継続的に得るためには、それを生むガチョウを殺してはならない。このような利己的な解釈で道徳が説明できるのであるなら、金の卵を産まなくなったガチョウを殺して食べてしまうことを妨げるものは何もない。長期的な関係が終了すると分かったとき、あるいは長期的な関係は成立しないと分かっているとき、エゴイストは道徳を保てるだろうか。

 何ごとも永遠には続かない。継続的な交換関係もいつかは終わる日が来る。最後の交換において、エゴイストは収奪の機会を得る。もはや次の交換はないのであるから、相手の反発を気にすることはない。得るだけで与えないことが最適な選択となる。

 もし、交換の終了が予想されるなら、エゴイストは最後の交換で収奪することを考えるだろう。しかし、相手も同じことを考えているならば、収奪の機会を最後から一つ前の交換に繰り上げる必要がある。ところが相手もまた同じことを考えているなら、さらに繰り上げ、それが繰り返されて、遂には現に行われようとしている交換にまで遡及することになる。この交換が唯一の収奪の機会であり、交換当事者の両方がそう考えるなら、結局は交換は行われないことになる。

 にもかかわらず実際には交換は行われている。私たちがエゴイストであるならば、なぜそんなことをするのだろう。

 しかし、最近になって好奇心をそそる出来事が起こった。「個人にとってどんな利益があるのか?」という疑問に学問の基礎をおいてきた経済学が後退し始めたのである。近年の経済学的革新のほとんどが、人間は物質的自己利益以外の何かによって動機づけされているという経済学者の警告的な発見に基礎を置いている。いいかえれば、ちょうど生物学が集団主義という暑苦しいウールの衣を脱ぎ捨てて、個人主義というシャツを身につけたころ、経済学は逆の方向に進み始めたのである。なぜ人々は個人の利益に反することをするのか、その理由を説明するために。(マット・リドレー『徳の起源』岸由二監修、古川奈々子訳、翔泳社、2000年)

 研究者が見出したのは、どのような人間像だったのか。例えば、最後通牒ゲームの実験というのがある。合理性は長期的な視野を備えているから利他性を装うことができるというのであれば、状況を短期的なものに、極端には最初で最後の機会にしてしまえば露骨な姿を現すはずである。ゲームの参加者は初対面であり、ゲーム終了後は二度と会うことはない。ゲームは、ある金額を分け合う提案を一方がして、他方はその提案を受け入れて自分の取り分を得るか、提案を拒否して二人とも何も受け取らないかの選択をする、というものである。合理的な人間同士なら、提案する方が九十九パーセントを取り、他方はたかが一パーセントにすぎなくてもそれを受け入れるだろう。拒否すれば何も得られないが、受け入れればなにがしかは手に入るのであるから。しかし実験の結果では、五分五分か、提案者にやや有利な程度の提案がなされ、一方的な収奪はほとんど起こらない。たまに提案者があまりに自分に有利な提案をすると、もう一方はそれを拒否して、二人とも何も得られなくしてしまう。

 むろん、提案者が公平に近い分配を提案するのは、提案が拒否されて全てを失うことを回避するためのエゴイストとしての判断だとも解釈できる。しかし、その場合、提案者は相手が公平を求める性向を持っていることを知っているのである。不公平な分配を拒否する人は、なにがしかの報酬を放棄してでも、公平さを求める。この行動にエゴイストとしての側面があるとすれば、嫉妬や羨望の作用であろう。しかし、嫉妬や羨望が起こるのは、公平でないという判断があるからだ。単にエゴイストであるだけでは、そういう感情は引き起こせないし、あったとしたら無駄なだけである。

 面白いことに、「合理的」な行動を取る唯一のグループがあり、それは経済学の大学院生だった。経済学がそういうことを教えた結果なのか、そういう傾向を持っているから経済学を専攻しているのかは不明なのであるが。ただし、これから同じ実験をしても彼等は「合理的」には行動しないかもしれない。彼等は既にこの実験のことは知っていて、自分たちの評判を気にしているはずだから。

 この実験では、公平性は相手方の判断に牽制されて保たれているように見える。確かに他人の反応は重要である。しかし、自由な決定においても公平性は考慮される。さらに、私たちの公平性は、他人がより多く受け取ることに対してだけではなく、他人がより少なく受け取ることに対しても向けられる。多くの実例が示すように、見知らぬ人、しかも再び会うことはないと思われる人に対して、何の見返りもないのに犠牲を払って援助をする人は少なくない。相手の示す感謝の表現が返礼になっていると指摘されるかもしれないが、そのような報酬はあまりにも少なすぎる。むしろ、そのような些細な返礼が過大に評価されることが、他人を助けようという心情の証拠ではないのか。

 つまり、人間には道徳心組み込まれていて、それは真正に道徳的なのである。エゴイズムはそれと矛盾しない。なぜなら、エゴイズムが自分のことを第一に考えるということなら、自分の気持ちも尊重するだろう。自分の気持ちの中に道徳心があるならば、エゴイストがそれを無視するのはおかしなことである。

 ただし、自分の気持ち、あるいは動機にはいろいろな種類があって、道徳心もそれらと競わねばならない。人間は常に真の意味でのエゴイストではないけれども、常に道徳的であるわけでもないのだ。

 

 残された問題は、利他心が道徳心に含まれるか、ということである。そんなものは「利己的な遺伝子」が許すはずはない、という批判は強力である。利他心を道徳心に組み入れるには、ある種の集団選択論を使う必要があるが、それは可能だと私は思っている(詳細は別のところで展開しているので、ここでは省略する)。

 伊藤整に対して後世の理論展開をもって批判するのは公正とはいえない。しかし、それらを知ることで、私たちは伊藤整の理論特性を把握しやすくなる。

 エゴイズムは人間に喜びをもたらすものと伊藤整は考えていたはずだ。だとすれば、その対象や内容はどんなものでもいいことになるが、その指標となるのが欲望である。ただし、欲望は物理的制約や社会的制約によって制限される。制限されざるを得ない欲望を持つということが人間の本質であると伊藤整は考えた。

 しかし、欲望というものはエゴイズムを越えている。自ら滅ぼすほどの欲望はエゴイズムと言えるのか。そして、他人のためにつくすという欲望もあるのである。他人のためにつくすことが喜びであるのなら、それもエゴイズムと言えるのか。

 人間が欲望にしか従えない、あるいは喜びしか求められないとしても、その欲望なり喜びが他人を助けることにおいて得られるとしたら、それをエゴイズムと呼ぶことに何の意味があるだろうか。すべての行為はエゴイズムによると決めつけることは、すべての行為には動機があるというのと同じことになってしまう。

 人間が自分のことに特別な注意を払うのは、生物として当然のことである。そして、自分のことに特別に注意を払うからこそ、道徳的行為が可能なのだ。なぜなら、道徳的行為は喜びでありうるからだ。

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