井本喬作品集

エゴと知性 —― 伊藤整との対話

1 文学

私:なぜ、いま、あなたと対話する気になったのかというと、私自身が人生の終わりにさしかかったということが一番の理由だと思います。自分の人生を振り返ってみて、一番気になったのは、あなたのことでした。

伊藤:どういう意味においてだね。

私:正直に言いますと、あなたの著作は、いまは、ほとんど読まれていないでしょう。書店の本棚にはあなたの本は置いてありません。あなたの本を読むためには、図書館へ行かねばならないのです。

伊藤:それは仕方のないことだろう。私たちはみな時代の子なのだ。時代の要請に応えたからこそ読者を得たのであり、時代が変われば見捨てられていく。時代の制限を超えることができるのは、よっぽどの天才か、とてつもない幸運、もしかするとその両方が必要なのだろう。

私:そういう一般論とは別に、近代日本文学と呼ばれるものの運命に、あなたが深く関わっていることが、わたしの興味を引くのです。あなた個人というのではなく、あなたを含めた一群の文学者の、きつい言葉で言えば没落が、どういう意味を持つのか考えてみたいのです。私は最初に、あなたのことが一番気になる、と言いましたね。私の考えでは、あなたはユニークな存在でした。しかし、そのユニークさが理解されないままに終わってしまったことと、近代日本文学が後継のないまま消滅したことの間には、深い関連があると考えています。

伊藤:近代日本文学は消滅したのかね。

私:消滅というより終結と言った方が適切でしょうね。いわば一つの役割を終えたということでしょうか。近代日本文学は古典になったのです。それ自体完結した存在となり、直接的には現代とは関わらなくなったのです。

伊藤:別の文学流派に取って代わられたのか。

私:そうではありません。文学というもの自体が解体してしまったのです。あなたの生きていた頃からその兆候は見られたでしょうが、大衆化という現象がその原因です。出版を含めたエンターテインメント産業が、豊かになった大衆の有効需要に応えて大量消費を実現させたのです。一部のインテリの需要など何の効果も持ちません。もはやインテリによるインテリのための文学というものが成り立たなくなってしまっているのです。

伊藤:近代日本文学はインテリ文学に過ぎなかったと君は言うのかね。

私:そうです。経済発展後発国のインテリのキャッチアップ文化活動ですね。それが無意味だったというわけではありません。時代の要請でもありました。あなたの『日本文壇史』(1953年~1973年)に描かれている通りです。

伊藤:近代日本文学の狭隘性については、小林秀雄を先行者として、福田恒存や中村光男や平野謙などが指摘していた。彼らの批判を受けて、日本文学も変化の手探りをしていた。その努力は無駄になったのかね。

私:彼らの批判は主に二点あります。一つは文学インテリの民衆からの遊離。もう一つは日本の文学インテリが真の(つまり、西欧的な)インテリにはなり切れていないということ。後者は近代的自我の確立というようなトンチンカンな話なので、ここでは無視しましょう。前者の指摘は間違ってはいないのですが、それ以外のあり方は不可能だったということを見落としています。当時は、近代文学といった形態の出版物を需用できるような人は限られていました。限られた市場での需要開拓が文学活動だったのです。そういう構造で近代日本文学は成立し、それがなし崩しになったときに、終焉したのです。

伊藤:私には現状を知ることが出来ないので、君の言っていることが正しいのかどうかは分らない。大衆文化というのはいつの時代にもあったと思えるのだが、大衆が豊かになって文化そのものを乗っ取ったというのが事実なら、まったく新しい時代なのだろう。私にはそういうことは想像つかない。そこで、話を近代日本文学に絞ろう。近代日本文学のインテリ性というのは、具体的にはどういうことを言っているのかね。

私:ある意味、近代日本文学の究極の形があなたの小説だと言えます。それはあくまで知的であろうとする志向です。インテリのインテリたるゆえんはそこにあるのですからね。先覚者としての文学者、真理の探究者である文学者、既存の権威に疑問を呈する文学者、それらはいずれも知的であろうとする姿なのです。

伊藤:文学が知的な営みであることは当然ではないか。それが問題かね。

私:あなたの代表作は『氾濫』(1958年)でしょうけれど、あなたがこの作品に込めたメッセージは読者にはうまく伝わらなかったようです。私は興味深く読みました。私はたぶん特殊な読者なのでしょう。あなたの問題意識は近代日本文学の運命とは切り離して検討されるべきです。しかし、今度、『発掘』(1970年)と『變容』(1968年)を読み返してみて、あなたの作品が理屈っぽいことにいささかうんざりさせられました。『氾濫』を読んだときにはその理屈っぽさが私を惹きつけたのですが。文学の本質は「認識」にあるという理論を打ち出したあなたにすれば、理屈っぽさはやむを得ないものと思われたでしょう。むしろ、そのような理屈を欠いた作品は文学的に優れたものとは認めがたいと言いたいのでしょう。しかし、文学は評論や哲学とは違います。あなたの作品は、いわば近代日本文学の一つの究極な試みであり、文学の境界を越えてしまったのではないでしょうか。

伊藤:理屈っぽさというのは、人生いかに生きるべきか、ということの問題意識が文学に求められたことにもよるのだろう。文学において「正しさ」を手に入れようとすることもあった。だが、正しさというのは時代的地域的に限界づけられたものであり、永遠の真理とは言えない。では文学の役割とは何だろうか。それはやはり生きていることの意味を問うものではないだろうか。だとすれば、私たちが生きていることの形なり仕組みなりを知らないことには、その問いかけが有効にはならないだろう。

私:それは人間観察だけではだめなのですか。

伊藤:私小説を含めて、なぜその人間が描かれるのかについて、作家は何らかの意見を持っているはずだ。明確に自覚されたものではないかもしれないが、それがなければ、小説としての構成が不可能だ。優れた文学というのは、単なる観察(そういうものがあるとして)によってのみ描きだされたものではない。

私:でも、読者が文学に求めるものは様々ですね。

伊藤:読者に迎合するということは、そんなに簡単なことではないのだよ。むしろ、作家は自分を読者に押しつける方が書きやすいのだ。

私:作家がいろいろな意見を持っているとしたら、そのうちどれが正しいかを決めるのは、やはり読者ではないでしょうか。

伊藤:読者にもいろいろあるからね。

私:そうですね。私が読者の代表であるなどとは思いませんが、小説を読むということの中には普遍的な要素があって、それは私にもあるはずです。その立場から言わせてもらうなら、あなたの小説の中には感情移入できるような人物が見当たらないのです。なぜかというと、登場人物は、作家ないし一人称の主人公によって分析されてしまって、よそよそしい存在になってしまっているからです。しかも、あなたの視点では、うわべの下には常に自己利益の追求が原動力として見出されるのですから。そして、むろん主人公たちは自己分析に取りつかれています。いわば、あなたの主人公たちは「我を忘れる」ということができないのです。

伊藤:大衆小説的な波乱万丈を文学に求めるのかね。

私:物語の面白さよりも、感情性と言ったほうがいいでしょうね。知性というのは人間活動という分野のほんの一部にしか過ぎません。その他の広い領域で文化的な営みがなされているのです。近代日本文学は、その性格上、そこに進出することができなかったのです。

伊藤:文字を媒体にするのだから、知的であらざるを得ないのではないか。

私:映像や音を使う手もあります。でも、それを文学には求められないでしょうね。知的というのは、単なる知的な操作というのではなくて、そこにおける優位性のことです。かつては文字を使うことだけで知的な優位性を表すこともあったでしょう。いずれにせよ、知的であること=インテリであるということは、自己の優位性を意識することになります。自己にこだわらざるを得ないのです。

伊藤:それは日本に限ったことではあるまい。

私:そうですね。より普遍的な傾向かもしれません。しかし、他の文化のことはよく分かりませんから、近代日本文学に視野を制限しましょう。インテリである自己にこだわったのが近代日本文学であったとすれば、大衆社会の中で見捨てられてしまうのは当然だったでしょう。

伊藤:しかし、文学がその社会で果たす役割というものがあるだろう。近代日本文学がその役割を担えなくなったのなら、代わりに別の何かが生まれてくるはずだ。

私:それがいわゆる「純文学」である必要があるでしょうか。

伊藤:大衆文学というのは知的なレベルを低くすることだと言いたいのかね。

私:読者層の大きさがポイントだと思います。主要な読者層が何を求めているのか。ひとつ、たとえ話をさせてください。あなたはコンピュータをご存じですか。電子計算機と言った方が分かりやすいですかね。当初、コンピュータは馬鹿でかくて、費用的にも技術的にも一部の専門家にしか扱えなかった。それが、技術の発達で普通の個人でも使えるようになりました。パーソナル・コンピュータ、略してパソコンというものが生まれた。安価で操作も比較的簡単です。最初にパソコンを開発したのは、政府や大企業とは関係ない、ハッカーと呼ばれるマニアックな連中でした。彼らは、そういう大組織に支配されない独立した個人が、パソコンを使って創造性を高め、生活を豊かにするということを夢見ていました。パソコンはたちまち普及し、どんどん発達していきました。究極の形といえるのがスマートフォンです。これは個人が身につけて持ち運べる小さな機器ですが、電話機能やネット機能を備えています。インターネットについて説明すると長くなるのですが、ざっくり言えば、それを使えば世界中の情報に簡単にアクセスできるのです。スマホ(スマートフォンの略)は子どもでも持つほどに普及しました。さて、ハッカーたちの夢は実現したでしょうか。スマホが使われているのはほとんどゲームとゴシップです。ゲームもゴシップも、ある意味知的な営みですね。知能の架空的訓練であり、情報収集ですから。でも、それらは個人における知性の勝利を夢見た者たちにとっては堕落と見えるでしょう。

伊藤:そのたとえ話で何が言いたいのかね。近代日本文学が大衆の教化に失敗したとでも言いたいのか。

私:私はこの現状をむしろ喜ばしいことだと思っています。なにしろ、皆が豊かになったのですから。文化的にいえば、近代日本文学は社会の発展途上の一時期の文学形態だったのです。その歴史的役割は終わっていますが、それは欠くことのできない過程だったのでしょう。そういう文学の特徴の典型を、私はあなたに見ているのです。

伊藤:それが知的であることか。

私:知的な自己であることと言った方が適切でしょうね。あなたがあんなにエゴにこだわったのは、エゴの知的陶冶の困難性を知っていたからでしょう。しかしながら、あなた方には頼るものが知性しかなかった。それゆえ、エゴを知性的に分析することが文学的営為となった。

伊藤:他に道はあったのかな。

私:近代文学という規定の中では無理だったのでしょうね。

伊藤:話を戻そう。私の小説が知的すぎるということだが、もっと感情的、衝動的な登場人物が必要だったというのかね。

私:露骨にいえば、もっと知的でない人々ですね。はたしてあなたがそういう人々に興味を持てたでしょうか。というのは、面白おかしいことを書いたり、市井の人の生活を書いたりするのがあなた方の目的ではなかったはずです。というより、描く対象が何であれ、あなた方は描くことによって、新しい文学、新しい社会を作りつつあるのだという、自負と言っては強すぎるかもしれませんが、そういう意識があったはずです。単なるエンターテインメントやドキュメントではないという意識。錯覚だったかもしれませんが、そういうことが思える時代だったのですね。考えようによっては幸福な時代だったのです。

伊藤:君たちの時代はそうではないと言うのかね。

私:完成された時代といってもいいでしょうか。あるいは停滞した時代。小さな変化はあるとしても、大まかな構造は決まってしまった時代。『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ、1992年)という本が評判になったことがあります。ヘーゲル哲学を援用したりしていて、内容はあまり感心できませんが、一つの高原状態を表現するのには適切な比喩だったかもしれません。

伊藤:あとから見れば、違っているかもしれない。君たちが私たちの時代を離れて見るように。

私:そうかもしれません。ただ、私はあなたの作品をまだ古典とみなすだけの距離感はもてません。そのことをこれからお話ししたいと思います。

2 社会

私:ずっと不思議に思っていたのですが、あなたは経済学を学んでいながら、アダム・スミスの影響がほとんどないですね。というよりも、社会契約説的な思考が全然見られないのはなぜでしょうか。

伊藤:そうだろうか。人間がエゴを内に秘めながら、他人との交渉に腐心し、ときには妥協し、ときには欺き、あるいは欺かれ、それでも決定的な破たんを避けて生きていくというのは、社会契約説的な見解と融和的だと思うのだが。

私:あなたの考えの底には、社会はエゴを抑圧するものだという確信がありますね。他人がいなければ、エゴは自由であれるのに、他人とともに生活するためには、どうしてもエゴを抑えなければならない。しかし、一人きりでエゴを自由にしてみたところで、何が得られるでしょうか。性欲でさえ、相手がいなければ満たされることはない。オナニーだって、妄想の相手がなければやる気にはなれないでしょう。むしろ、他人は「エゴの充足」には不可欠なのです。

伊藤:社会というのは単なる他人ではないだろう。顔を合わせる身近な他人だけなら、個人は何とか対応できるかもしれない。しかし社会というのは、顔を見たこともない他人、地理的にも、時間的にも、身分的にもかけ離れた他人から影響を受けるという環境なのだ。

私:法とか、制度とか、慣習とか、組織とか、そういった個人を超えた存在が個人を支配するということですね。しかし、そういうものがあるおかげで争いごとを避けることができ、かえって「エゴの充足」がしやすくなるのではないでしょうか。そもそも人が集まって暮らすのは、単独で暮らすより便利で快適であるからでしょう。もし、単独生活の方が好ましいのであれば、人は集まったりしないはずです。確かに、他人と暮らすのは面倒でもあります。争いごとを調整する機能が必要となるでしょうし、ルールや規律が求められて、自由は束縛されてしまいます。それでも、人は集まって暮らす方を好むのです。

伊藤:社会というのはそれに属する個々人の幸福を目的として成り立っているのではないだろう。社会にはそれ自体の存続のための要件があり、個々人への配慮というのは二の次になってしまうに違いない。

私:社会は人間にとって自己疎外的であるというのですね。確かに、社会の性格というのは、それに属する個々人の思いの結集になっているわけではないでしょう。しかし、社会の公的な側面とは別に、私的な部分が拡大したのが資本主義社会ではないでしょうか。国家と市場、政治と経済、公的と私的という分野の対比、そのどちらを優先するかということが問題になってきています。

伊藤:国家権力の介入というのは、生易しいものじゃない。

私:大恐慌、戦争、そして戦後世界の形成という時代経過の中で、国家の役割を重視する見方が強まりました。あなたの生きた時代は民間の役割、その自立性などは視野にはなかったでしょうね。でも、その後の社会は、自由化、規制緩和、民間活力重視という方向へ大きく変わっていったのです。社会主義国家の破たん、経済のグローバル化などというのは、あなたには想像もつかなかったでしょうね。そういう時代を生きてきた私でさえ信じられないくらいですから。

伊藤:君が何を言っているのかよく分らんが、世界は大きく変わっているということか。

私:詳しいことは省きますが、アダム・スミスの「見えざる手」的思考が本流となっているのです。

伊藤:マルクス主義はどうなったのかね。

私:ソビエト連邦の崩壊したいまでは誰も見向きもしません。

伊藤:唯物論には幾分かの真実があったと思っていたが。

私:マルクス主義には、人間をエゴイストとみなす悲観的な歴史観と、人間をヒューマニストに祭り上げてしまう楽天的な未来展望の、二つの要素がありましたね。あなたがひかれたのはもちろん前者でしょう。でも、多くの人はマルクス主義の示す未来に希望を持ったのです。しかし、共産主義はおろか、社会主義でさえ、その実践は失敗に終わりました。マルクス主義は実践的であることを自らの特徴としていました。だから、実践が失敗すれば、当然なことに思想的にも破たんすることになります。

伊藤:ヒューマニズムでは社会は維持できないのだね。それは私にも理解できる。

私:ヒューマニズムがだめなら、残るのはエゴイズムだけということになります。

伊藤:エゴイズムを何とか抑え込もうとするのが社会だろう。だから、ヒューマニズムやエゴイズムといった個人の態度を超えた、非個人的なメカニズムが働いているのではないかね。

私:それは唯物論的な見方ですね。経済学ではマクロ的な見方ということになります。ケインズのことは聞いておられると思いますが、彼の考えもそうでした。いまの経済学の主流派は、逆に、個人の態度から出発して、つまりミクロ的な見地から、経済全体を説明しようとしています(その説明はあまりうまくはいっていないようですが)。その基礎になる個人の態度は、エゴイズムなのです。ただし、エゴイズムという言葉の使い方には注意が必要です。単に自分のことを優先して考えるだけではエゴイズムとは言えないのかもしれません。他人への影響を何ら顧慮することなく(結果的に他人に害を与えることになろうとも気にすることなく)自分のことを優先する場合にのみエゴイズムという言葉を使うべきなのでしょう。ここではそういう厳密な使い方はせず、単に自分のことを優先する態度をエゴイズムと言っておきます。

伊藤:アダム・スミスの言ったように、各自が自分の利益を追求すれば、結果的に社会はうまく回っていくということか。

私:結果がいいというだけではなく、各自が自分の利益を追求することを許されることが、道徳的に正しいとみなされるのです。むろん、他人を害してまでは、そのことは許されません。しかし、各自がそれぞれ自分の利益を追求しながら、利害の対立が生じないということがありえるのか、という疑問は残ります。その答えが自発的交換です。

伊藤:交換とは等価なもののやりとりだろう。形は違っても価値は等しくなければならない。そこから利益を得ようとすれば、交換は不等価になり、他方が損をする。利害対立の典型ではないのか。

私:経済学的には限界効用逓減法則などを使って説明するのですが、簡単に言えば、自発的に交換に応ずるのは、交換しないより得だからです。不利な取引ならしなければいいのですから。両者が自発的に交換するとすれば、両者とも得であるはずです。あまり好きな言い方ではないのですが、よく使われるのがWin・Winの関係という表現です。そこに不正義は何もない。したがって、自発的交換を基礎にしたシステムにも不正義はない。しかも、このシステムがうまく回れば、結果的に誰もが得をすることになる。

伊藤:それが資本主義社会か。ちょっと単純過ぎやしないか。

私:市場経済と言った方が無難かもしれません。もちろん、これは原理的な描写で、現実はもっと複雑でしょう。しかしとにかく、エゴイズムを基礎にしたシステムが成り立ち、しかもそれは少なくとも誰にも不利をもたらさない。いわゆるパレート最適を達成するのです。このシステムの政治的な表現がノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)です。私はこの本に衝撃を受けました。あなたがこれを読んだらどんな反応をしたのか、とても興味深いのです。

伊藤:残念ながら私にはもう読めない。どんな内容かを聞いても仕方がない。つまり、君が言いたいのは、エゴイズムは必ずしも反秩序的ではないということだね。しかし、エゴというのは物質的利益だけを充足の手段としているわけではない。そして、正義とかルールとかを制約とはみなしても、それを尊重しているわけではない。エゴの領域は広く、秩序がその全てを生かしきることはできないのだ。

私:正義とかルールを尊重することが「エゴの充足」になり得ることを、後で示したいのですが、とりあえずここでは置いておきましょう。あなたのご指摘はもっともです。ここで語られているエゴは非常に知性的なのです。計算高いのです。エゴの衝動的側面を重視するあなたには物足らないでしょうね。しかし、そういうエゴを扱いかねているあなたも、知性的であると言えるのではないですか。

伊藤:どういう意味かね。

私:あなたはエゴの衝動を全面的に肯定しているのではなく、衝動に押されながら何とか抑えようとし、またそういう衝動に負けてしまう自己を恥じている。あなたが描く人間たちは、衝動にどう対応しようかと悪戦苦闘する知性的な人間なのです。むろん、知性は衝動を全否定するのではありません。衝動をコントロールして、適切な形で満たすように、特に衝動によって社会関係を破壊しないように、気を配るだけなのです。そういう意味で、動機は衝動にあるのであって、知性にないことは確かです。知性は計算をしているだけなのです。経済学はその計算の様式に過ぎません。衝動は前提であり、その存在自体は手のつけようのないものです。ですから、私たちの知的興味は知性の計算に向けられます。同じように、あなたの人間描写は知性の計算高さに注目していて、衝動に流されてしまう人間などはそもそも描くに値しないと思っておられるようです。

伊藤:私の作品が知性的傾向に傾きがちだということはよく言われたよ。だが、近代小説というものが知性的な傾向を持っていることは否定できないだろう。

私:あなたは谷崎の小説にも知的な批判が見出せることを主張していましたからね。私はあなたがエゴの積極的・肯定的側面を捕え損ねていると言いました。しかし、あなたは「エゴの充足」に関わる知性の介在については非常に敏感なのです。いわばエゴ的知性の働きを認めるという点では、経済学者や社会契約説論者と共通していると言えましょう。それだからこそ、その知性を秩序形成に結び付けるような論法にまでなぜ至らなかったかと思ったわけです。しかし、最近、私は逆の方向についても考えるようになりました。経済学者や社会契約説論者の描くモデルは、はたしてどれくらい事実を説明しえているのかということです。それと並行して考えると、あなたの描く計算高い人間像が、はたして現実の人間として妥当な姿なのか。

伊藤:小説は記録とは違うなどと簡単には言えないだろうが、人間をどう捕えるかは作家に任せられているのだ。私の描く人間像が君に気に入らなくとも、それが私に対する批判になるのかね。

私:小説がどう評価されるかは、それが読者にどのような反応をもたらすかによるでしょう。むろん、読者によって異なってきます。私はあなたの作品に共感するところはありました。前にも言いましたが、たぶん、私は特異な読者の一人でしょう。あなたの知的な分析に惹かれたのです。しかし、小説としての完成度(この言葉には問題がありますが)としては物足りなさを感じています。

伊藤:それはどういう点かね。

私:人間みんながそんなに知性的ではない、ということです(知性的という言葉は合理的と言い換えてもいいでしょう)。それは二つの意味においてです。一つは、合理的であるためには幾分かリスク回避的になりがちになってしまうと思うのですが、ある人々はなぜかリスク選好的なのです。合理的な主体によって形成される市場経済のモデルは均衡を目指すいわば冷たいシステムです。しかし、現実の資本主義は熱いシステムです。それはリスク選好的な主体がいるからです。彼らの行動は合理的とは言えないでしょう。あなたにしても、文学者を目指すときは通常とは違ったリスクを引き受けたはずです。

伊藤:あのときはやむにやまれぬ思いだったからね。

私:第二には、合理的であるための能力に個人差があることです。経済学の想定する主体は、情報を広く正確に収集し、将来についての予測も立て、費用と収益の見込みをできる限り厳密に把握しようとします。むろん、情報収集や未来予測の費用が大きすぎないように制限はするでしょうが、それにしてもこれはかなりな負担になります。その負担を担うだけの能力が誰にでもあるというわけではありません。そういう能力の劣る人に、「自由と自己責任」を言ってみても仕方がないでしょう。たとえば、現今、電話による詐欺(「振り込め詐欺」と呼ばれています)が多く起こっています。簡単にいえば、身内や公的機関の職員であると偽って、金を騙し取る手口です。これが問題となって、マスコミなどで注意喚起しているにも関わらず、引っかかる人が絶えません。最初私は、こういう人たちは資産管理に不適格であって、この手の詐欺がこういう人たちの金を巻き上げることによって、社会がより合理的になるのではないか、とも考えました。金融における裁定取引によって市場がより合理的になるように。しかし、その考えは変えました。そういう人々を「自由と自己責任」ということで放っておくのではなく、何とかしてあげなければならない。ま、それは余談ですが、世の中には十分合理的であることができない人もいるのです。リスクの取り方と、合理性の程度によって、社会には格差が生じます。もちろん、出自の状況とか運もありますが、人間が同質的であるとみなすことはできないでしょう。

伊藤:それは差別的な見解ではないかね。

私:政治的には同質であるとみなすべきであっても、実態としての異質性は考慮せざるを得ないでしょう。あなたに対して私が何を言いたいかといいますと、インテリとは異質の人々をあなたは描かなかったということなのです。「エゴの充足」というのが人間の普遍的な望みであったとしても、そのやり方は決して合理的な範囲には収まりきれないのです。

伊藤:私がパッションに捕らわれた人間を描かなかったことを、君は批判するのか。

私:というより、読者のパッションに感応する物語ではないと言いたいのです。

伊藤:それは作家の性格によるのだろう。それを限界と言ってもいいのかもしれないが。

私:そうかもしれませんね。あなたにそれを求めることは適切ではないかもしれませんね。しかし、そういうことを指摘できるということだけは、言えると思います。

3 心理

私:人間は所詮はエゴイストだ、という見方はありふれたものと言えるでしょう。でも、そう言っている人の多くは、人間が常にエゴイストであるのではないということを信じているし、第一、自分自身が根っからのエゴイストとは思っていないでしょう。ところが、あなたは、人間はエゴイストであらざるを得ない、人間の持つ動機はエゴイズムでしかあり得ない、と主張されているのですね。

伊藤:自分自身を深く反省してみれば、そういう結論にならざるを得ないのではないか。多くの人はその認識の恐ろしさに耐えかねて、作り話で誤魔化しているのだ。

私:あなたの考えの背景には、フロイト理論とマルクス理論があるのですね。つまり、人間が思い描いている自我の姿は、真の自我の一部でしかなく、しかもゆがめられたものである、といった考えですね。

伊藤:確かに、それらの理論には理解を助けてもらった。それらの理論を知る前は、私自身の中にあるエゴイストにどう対処していいか分からなかったからね。

私:つまり、エゴイズムを個人の問題として捕らえるのではなく、社会という枠組みの中に位置づけるということですね。そもそもエゴイズムというのは他人がいなければ意味のないことですから。一人でいたときのロビンソン・クルーソーにはエゴイズムは問題にならなかったでしょうから。

伊藤:社会の中ではエゴイズムは抑制される。むきだしのエゴイズムは危険視され、抑圧できなければ社会から排除されてしまう。

私:しかし、生きることの実質は「エゴの充足」にある。だから、人は社会の目を盗み、欺き、何とかしてエゴを充足させようとする。文学もそのような試みの一つだとあなたは主張したのですね。しかし、ある時期に、人間は社会からそれほど自由にはなれない、という思いが次第に強くなっていったのではないですか。人間が自由にやっているつもりでも、実は何かに操られているのではないか、好むと好まざるにかかわらず、人のやることは決定づけられてしまっているのではないか、そういう風に思えてきたのではないですか。

伊藤:「組織と人間」という問題意識のことだね。

私:そうです。秩序というものはそんなに簡単にエゴのやることを見逃してはくれない、むしろ、エゴの動きさえ秩序の敷いたレールの上を走っているにすぎない。そういうことに人間は気がつかない。「エゴの充足」そのものが社会によって仕組まれているのなら、「エゴ」と「秩序」の対立なんてものは八百長にすぎない。そのことに気がつくのが「認識」であり、文学の役割はその「認識」を表現することだというのが、あなたの到達した結論ではなかったのですか。

伊藤:私の考えは常に変化していたから、定まった結論というものではなかった。

私:そうですね。エゴと秩序の対立という考えはずっと底流にあって、その現象形態についていろいろ考えておられたようですから。戦後世界の進展によって、秩序が弛緩していくように感ぜられたせいか、秩序に対する緊張感があなたから失われていったということを、平野謙が指摘していました。

伊藤:豊かさというのが、新たな秩序の形式として見えてきたのだよ。

私:豊かさが「エゴの充足」には直接つながらないということですね。『氾濫』以降のあなたの作品は、生活苦ということを気にする必要のない世界を対象にしています。そこでエゴが気にするのは、他人の思惑や、世評のようなもので、エゴは隠れてこそこそ「充足」を達成しようとします。その姿をあなたは世間に対する弁解や正当化の口調で描いています。エゴに正直に生きることは難しい、しかし、真の人生はそこにあるのだと、声高ではなく、呟くように、主張しているのです。エゴを抑えて生きるのは、他人によって強いられている偽りの生活であるから、他人の目を盗んででもエゴを充足させなさい、と。しかも、「エゴの充足」は性的な放縦によってのみ達成されるかのように描かれています。

伊藤:世間的に許された欲望充足ではエゴは満足できないのだよ。世間が厳しく禁じているのは性的放縦だ。そこに関心が向くのは作家として当然ではないかね。

私:性についてはまた後で語りましょう。エゴについてあなたはアンビバレントな評価をしておられる。むき出しのエゴの発露はお互いを傷つけあうことになってしまうから、安定的な社会生活においてはエゴを抑圧しなければならない。しかし、エゴは生命そのものであるのだから、抑圧されたままでは生きているという実感がない。とすれば、「エゴの充足」と抑圧のバランスをどこに求めるかが問題になってくるのでしょうけれど、そういうバランスそのものをあなたは否定しておられるようです。

伊藤:それが人間の宿命ではないのかね。

私:エゴには他人を配慮しないという利己的な側面があります。あなたがエゴを全面的に肯定できないのは、その側面ゆえでしょう。しかし、その側面を認識している自分自身はエゴから免れているという気持ちがあるのではありませんか。そのことを反省すると、厄介なことになります。自分がエゴから一歩身を引くことができていることに満足するのは、やはりエゴイズムではないのか。そういう気持ちを持つことを含めて、やはり人間は本質的にエゴイストなのだ。しかし、そういう認識を持つ自分は何なのだろう。やはりエゴから免れているという満足があるのではないか。そのように無限後退していくことになってしまいます。むしろ、そのような操作を欺瞞とみなしてしまったほうがすっきりするでしょう。他人を配慮するということは、他人からの反撃を避けるという利己的な対応にすぎない、とあっさり認めてしまうのです。そうすれば、利他的なエゴというものの存在が理解できるわけです。

伊藤:すべてがエゴのなせるわざ、というのは私の考えに近いのだが。つまり、真の利他性というものを人間が獲得できることには疑問を持っている。

私:すべてがエゴのなせるわざ、であるならば、エゴのなすことを善悪判断なしに、事実として容認すべきではないでしょうか。にもかかわらず、あなたは人間のエゴのいやらしさを暴かずにはいられないのですね。それはなぜでしょう。

伊藤:反逆の気持ちかな。世間の人はエゴの働きに気づいていない。自分のやっていることを道徳(それは習慣的なものに過ぎないのだが)にのっとったものとみなし、真の動機から目をそらしている。そういう心の動きをあからさまにして、人間の真の姿を気づかせたいのだ。

私:ですが、その姿が醜いと思われるのはなぜでしょうか。醜いと思うことこそが偽善であり、真の姿とは善悪以前のもののはずではないでしょうか。

伊藤:君は何を言いたのかね。ニーチェ流のニヒリズムかね。

私:あるいは、そう解釈できるかもしれません。ニーチェを進化論者とみなす人もいますから。

伊藤:進化論?弱肉強食の論理かね。

私:あなたが亡くなってから後に、進化論の新たな展開が起こりました。社会的ダーウィニズムは過去のものです。あなたが『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス、1976年)を読んだなら、喜んだのではないかと私は思っています。

伊藤:それはどういうものだね。

私:ごくごく大雑把に言いますと、人間は遺伝子によって操られており、遺伝子は利己的な存在なので、人間も利己的であらざるを得ない、という主張をしている本です。日本ではあまり反響がありませんでしたが、欧米では論争を巻き起こしました。

伊藤:遺伝子が利己的な存在であるというのはどういうことかね。

私:遺伝子は自らの複製を残します。複製を残すことができた遺伝子のみが、存続し続けることになります。結果として、自らの存続と複製にたけた遺伝子が選抜されるわけです。ということは、自らの利害を最優先にするような行動を取らせる遺伝子を備えた個体が生き残ることになります。利己的な遺伝子に操作される生物個体も当然利己的であらざるを得ないのです。

伊藤:それが弱肉強食理論とどう違うのかね。

私:一見利他的であるような行動も、利己的に解釈できることを示したのです。利他性を上辺だけのものとみなすのではありません。行動主体が意識的に利己性を追求しているのではなくとも、結果的に利己性の追求になっているというのです。

伊藤:よく分からないな。具体的な例で説明してくれ。

私:例えば、互恵的利他主義というものがあります。あるときに私が誰か他の人を助けたとしましょう。これは利他的な行動です。私には何の得にもなりません。しかし、後で私が困っているときにその人が私を助けてくれるなら、過去の私の損失は償われるわけです。

伊藤:お返しを期待して他人を助けるのは利他的とは言えまい。

私:その辺りは微妙なのです。具体的な返礼を期待しているのではありません。私が困ることがなければ、助力は必要とされません。しかし、困っているときには助力を期待するのです。「困ったときはお互いさま」というのがその心理状態を表しているのでしょう。いわば保険のようなものですね。

伊藤:保険に入ることは利他的とは言えまい。

私:こう考えてはどうでしょうか。保険制度というものは遺伝子が作ったけれど、人間はそれが何のためにあるのか分かっていなかった、と。ただし、これも解釈が微妙でして、加入者全員のためになるから保険制度があるとは主張されていないのです。集団選択という考え方があります。他の成員のために献身的になる成員が多い集団は、利己的な成員が多い集団よりも生き延びる機会は多くなる。したがって、集団間の競争を通じて利他的な行動が選択されるようになった、という考えです。最近の理論は集団選択を否定するのです。利他的な成員よりも利己的な成員の方が、集団の中で生き延びる機会が多いはずだ。なぜなら、他の成員の利他行動を享受しながら、自分自身は利他行動による損失を免れることができるから。それゆえ、集団はいずれ利己的な成員のみになってしまうであろう。

伊藤:やはり、純粋な利他主義は存在しないということだな。

私:何が純粋かということが問題ですね。利己的であると意識していれば確かに利己的と言えるでしょう。しかし利己的とは意識していなければ、結果として利己的であっても、利己的と決めつけることはできないでしょう。新しい理論は自己欺瞞ということでそこをクリアーしようとします。

伊藤:どういうことだね。

私:他人と応対するとき、下心があっては信用を得られません。いかに隠そうとしても、意図は現れてしまうものです。しかし、下心があることを本人が意識していなければ、つまり、その意図は表現されたままであると本気で思っているのであれば、相手も信用するでしょう。下心などないということを本人自身が思い込んでしまうといったように、自分で自分を欺く操作がなされるまで行動が進化したのではないかというのです。

伊藤:何か誤魔化しがあるように思うのだが。

私:そうですね。欺瞞という操作が意識にのぼらないのであれば、それを欺瞞という必要はないように思われます。私は単純に、生物は自分のしていることを知らないだけだと考えています。

伊藤:本能が全てとでもいうのかね。

私:本能と言ってしまうと、生物個体の統一性、一体性が強調され過ぎるでしょう。例えば、私たちはなぜ性行為をするかというと、それがしたいからです。生殖を直接の目的としているのではありません。結果的に生殖が達成されることから、私たちは性行為と生殖を結び付けようとしますが、生物個体にとっては性行為それ自体が目的なのです。

伊藤:それはそうかもしれないが、そのことを他の行動にまで一般化できるのか。

私:利他行動を考えてみましょう。先ほど言いましたように、最近の進化論は、利他行動などありえないから、それは利己的行動の擬態にすぎず、行動主体は自己欺瞞によってそのことを他人から隠すと考えています。しかし、利他行動が性行為と同様に単にしたいからするものだと考えてみましょう。利他行動の長期的結果が自分にとって有利かどうかは行動主体にとってはどうでもいいことなのです。極端に言えば、利他行動の対象になった人にとって結果がよいものかどうかも、行動主体にとってはどうでもいいことなのです。全ての行動は主体がしたいからなされるのであって、その意味では利己的なものです。ただ、その行動によって引き起こされる結果が、他人にとって有利であることもあり、不利であることもあって、様々でありえるのです。

伊藤:自分にとって不利であることも、したいと思えるというのかね。

私:そういう具体例はどこにでも見出すことができるではありませんか。ほとんどの人は、状況によって自己犠牲をいといません。彼らは、他人の称賛目当てとか、義務感とか、良心の勧めなどによって、そうしているのかもしれません。しかし、そうではなくて、単にそうしたいからしている場合もあるのです。

伊藤:そういう人間は衝動的、感情的であって、理性的とは言い難いのではないか。

私:理性は確かに現状を判断し、将来の予測を立てようとします。しかし、「したいからする」ということを否定するのではありません。いますぐするのではなくて、別の機会にする方が効果が大きく、危険も少ないと助言をするだけです。することを決めるのは理性ではありません。

伊藤:話が広がってしまったので整理してみよう。君はこう言うのだね。人間はしたいことをするという意味では利己的である。しかし、したいことの中には利他行動も含まれる。そういうことだね。

私:そうです。あなたの言うように、人間は「エゴの充足」を求めます。ただし、「エゴの充足」の中には、他人を思いやったり、他人を助けることも含まれるのです。もちろん、その思いやりや援助は当人の勝手な思い込みかもしれません、でも、その自己犠牲的性格は否定しえないのです。

伊藤:私はむしろ自己欺瞞という理論の方に惹かれるね。君の言い方では、自己犠牲がなぜ衝動や欲求に組み込まれるのかという説明が欠けている。

私:人間が博愛的存在であるとは私も思っていません。人間は基本的には自己保身的です。ただし、ある条件下において、人間は他人を助けようとするのです。なぜそのような行動が進化してきたかという理由はあるはずですが、わたしにもはっきりしたことは言えません。

伊藤:なるほど。限定的ではあるけれども、人間は利他的でありうるということだな。しかし、それは盾の半面だ。もう半面がある。人は他人から助けられることを重荷に感じる。つまり、利他行動は、行動主体を満足させるが、その対象となる人間を不快にさせるのだ。利他行動は利他的ではない。

私:さすがにあなたは鋭いですね。それはあなたの性格にもよるのでしょうが。あなたは独力で自分の人生を切り開いてきた。他人の助けを借りようとは思わなかった。それがあなたを縛り、また屈辱となるから。ところで、そういう性格を日本人独特のものだとみなしたのがベネディクトだったのはご存じですね。『菊と刀』(1946年)では、義理や恩などの分析によって、日本人が援助関係を交換関係とみなしているとしています。まるで金銭勘定のように。援助を受けることは負債を抱え込むことになり、負債を清算するために今度はこちらが援助をしなければならない。

伊藤:それが封建的な性格だと言うのかね。

私:いえいえ。ベネディクトが見損ねていたのは、そういう現象は日本独特のものではなく、時代的なものでもないということなのです。交換が規範とみなされるのは普遍的なのです。互恵的利他主義というのもこのような交換関係の一種と言えるでしょう。借りは返さなければならない。だからこそ、「情けは人のためならず」なのです。

伊藤:おやおや。だとすれば、君がさっき言っていた、いわば純粋な利他行動というのと矛盾しはしないかね。

私:そうではありません。確かに「借りを返す」ということからなされる援助は純粋な利他行動ではないでしょう。では、借りを生み出す、貸すという最初の行動はなぜなされるのでしょう。「貸しを作っておく」という保険的な動機も否定できません。しかし、そういう当てにならない返礼が期待できるでしょうか。むしろ、お返しなど期待しないのが援助の本質ではないでしょうか。

伊藤:貸すときは一方的利他行動だが、借りを返すのは交換的な利他行動というのかね。

私:そうですね。互恵的利他行動は返礼を期待したものとなっているのかもしれません。ただし、それとは別に、純粋な利他行動もありうるのです。それがなぜかというのは私たちには分かりません。遺伝子には正当な理由があるのでしょうが、私たちは、ただ他人を助けたいから助けるのと、いつか返礼してもらえることを期待して他人を援助するのと、いずれもそういう心性に従っているだけなのです。

伊藤:つまり、私には利他的な心性が欠けているということか。

私:そうではありません。利他行動は決して苦しいものではないのです。なぜなら、それはあなたの言う「エゴの充足」だからです。あなたは利他行動が道徳などによって社会から押し付けられるものだと考えているのでしょう。強制されることはエゴには苦痛です。だから、利他行動は「エゴの充足」に背くことになると思えるのです。私たちに利他性が生得的に備わっているのなら、社会とは関係なしに、利他的であり得るのです。あなたにはそういう視点が欠けている。

伊藤:人間は本来的にエゴイストであるわけではない、というのが真実だというのだな。

私:そうです。人間はやりたいことしかやらない(たとえ強制下であっても)という意味ではエゴイストですが、やりたいことの中に利他行動が含まれているのなら、単なるエゴイストではありません。

伊藤:「エゴの充足」は常になされているというのだな。

私:むろん、私たちは万能ではありませんから、さまざまな制限は受けています。その範囲内でという意味で、そうです。

伊藤:私には判断がつかないな。進化論の新しい展開というのは知らないわけだし、君の考えはあまりに楽観的すぎるような気がする。人間に利他性が本来的に備わっているなら、なぜこの世界に不幸が満ちているのかね。いまの時代はそうでないというのかね。

私:利他性を過大評価するつもりはありません。利他性が欲求であるなら、さまざまな欲求の一つでしかないのです。欲求の競合の中で、利他性が優位になることは、かなり難しい条件が必要とされるでしょう。利他性があるということと、利他性が支配的であるということは、同じではありません。しかしながら、利他性がなくとも秩序は形成できるという考えもあります。ただし、そこにもある種の規範や信頼性といったものが必要となるでしょう。それは利他性とは異なりますが、純粋のエゴイストに期待できないものです。要するに、エゴイストと決めつけてしまうには、人間は複雑すぎるのです。

伊藤:それで私を言い負かしたと思っているのかね。

私:いえ。誰にでも時代的制約はあります。私が残念に思うのは、あなたの見解が孤立したままで終わってしまったことです。もしあなたが進化論の新しい展開を知ることができたなら、もっと説得力を得られたでしょう。日本では進化論の展開はあまり注目されませんでした。人間のエゴ性を強調することは、日本では受け入れられないようです。新しい進化論に猛烈な反発が起こった国もありましたが、日本では無視されただけで、反発さえ起こらなかったのです。

伊藤:そのことは私も痛切に感じたね。日本人は他人のエゴイズムには猛烈に反発するくせに、自分自身のエゴイズムには気がつかない。

私:日本人論というのは怪しげな文化論になってしまうので嫌なのですが、あなたが十分に評価されないというのは、何かがあるのかもしれません。

4 性

私:あなたが性を取り上げるとき、抑圧されるものという側面を強調するのは、やはり「秩序とエゴ」という定式が意識されているからでしょうか。

伊藤:性というのは生命の最も激しい発露であるだろう。それを自由にしてしまえば、たぶん、社会は成り立たなくなる。だから、社会はそれを一定の枠にはめ込んで制限し、コントロールしようとする。だが、そういう枠に収まりきれなくて、生命の充実を求めてあがく人間がいるものだ。現実としてはそれは反社会的行為になってしまうが、芸術的表現ならば社会はある程度許容する。圧力弁のような作用なのだろう。

私:あなたの時代には『チャタレイ夫人の恋人』(D・H・ローレンス、1928年)は許容されませんでしたね。しかし、いま読んでみれば、なぜこれが発禁になったのか不思議ですね。ポルノ的要素などなくて、作者の思いが詰め込まれた、どちらかというと読みづらい本ですね。

伊藤:ポルノ的興味から読めば退屈な本だ。検察が個々の描写だけを取り上げて糾弾したのは滑稽なことだ。しかし、ローレンスの主張の反社会性に反応したのだとすれば、彼らは秩序の側として当然のことをしたのだ。

私:しかし、その秩序も緩んでしまいましたね。その背景には豊かさがあると思います。あなたの『氾濫』にも、戦後の高度経済成長がいくぶんか反映していますね。

伊藤:規範の緩みと豊かさには関係があるかも知れない。昔から上流階級の腐敗は指摘されてきたからね。

私:豊かさがいわゆる一般庶民までに行き渡るようになったのが戦後の特徴ではないでしょうか。大衆社会の到来が腐敗を一般化したと言えるのではないでしょうか。

伊藤:そういう面もあるだろう。しかし、限度がある。

私:確かに、スキャンダルに対するマスコミや大衆の反応は、道徳の堅固性を示しているようにも見えますね。しかし、あなたも認めているように、それが道徳を装った嫉妬や羨望、他人を攻撃することの心地よさでしかないとしたら、秩序こそがエゴ的ではありませんか。

伊藤:秩序というのは、そういうものを動員して、反秩序を抑え込むのだろう。

私:その問題は置いておくとして、性についてもっと考えてみましょう。性の反社会性は、不倫ということに最も鮮明に現われてきますね。婚姻制度を逸脱する男女関係が、性を原因にして起こる。むろん、性以外に、経済力とか社会的地位も絡んでくるでしょうが、その側面は捨象しましょう。そうすると、不倫というのは、正式な配偶者とは別の異性に、性的な魅力の優位性を認めるということではないでしょうか。

伊藤:配偶者によっては得られないものを求めるというのは、確かだね。

私:単なる一時的な「浮気」の場合は問題にしないでおきましょう。あなたの作品に描かれるのはそういうものが多いですが。隠れてこそこそする不道徳行為というのは、前述の圧力弁のようなもので、秩序も見逃しているのではないでしょうか。

伊藤:そういうものが積み重なって、秩序を崩壊させるのかもしれない。

私:あるいは秩序を変えるのかもしれませんね。その辺りのことは保留しておいて、婚姻関係を破壊してしまうほどの性の働きについて注目してみたいのです。これは『チャタレイ夫人の恋人』のテーマでしょう。

伊藤:性に関して正直であれ、というのがローレンスの考えだった。

私:『チャタレイ夫人の恋人』は、チャタレイ夫人が適切な性の相手を見出すという物語ですね。つまり、世の中には性的に満足し合える関係にあるカップルは稀であるという認識がその背景にあるわけですね。特に、女性の観点からはそうなのでしょう。

伊藤:ほとんどの男女はそれほど多くの異性と性経験を持てない。だから、配偶者によって得ている自分の満足が十分なのか不十分なのか判断はしにくい。この経験の少なさというのが、配偶者とは違った異性に出会った時の衝撃になるのだろう。性に相性というものがあるのなら、適切な相手に会うだけの経験を得ることは難しい。

私:そう考えると、性の問題は非常にテクニカルなものに還元できるのではないでしょうか。実は、『チャタレイ夫人の恋人』を読み返したとき、思いついて、遅まきながら渡辺淳一の『失楽園』(1997年)も読んでみたのです。この作品をあなたは当然知らないですね。中年の男女の不倫を描いた作品で、性描写のせいもあって評判になった作品です。比較するのがおかしいと言われそうですが、性の満足が生きることの中心になるという点では共通性があります。

伊藤:ローレンスは性を非常に精神的なものと捕えているのではないかな。

私:精神、心理、感情、感覚というものに区別はあるのでしょうか。そのことについては別に論じる必要がありますね。性行為が満足したものにならないというのは、確かに相性の問題とも言えます。しかし、相性とは何でしょうか。器官の形状ではないでしょう。性格は大きな要素ですが、やはり捨象しましょう。とするなら、問題はやはりテクニカルなものではないでしょうか。

伊藤:性を単なるテクニックとして捕えるのか。それはどうだろう。

私:性に関しての男と女のくい違いは二つの点にあると思われます。一つはそれぞれがオルガスムスに達する瞬間を合わせにくいということ。もう一つは、男は射精してしまえばそれで終わりですが、女は幾度でもオルガスムスを得ることができるということです。女の観点から見るならば、男が自分だけのオルガスムスを求めて、相手のことを配慮することなく、しゃにむに射精まで突っ走ってしまうのは、勝手なことに思えるでしょう。そういう関係に対する異議申し立てが、この二つの作品に共通するのではないでしょうか。ローレンスは男女が共にオルガスムスを得ることを重視していますね。さらに、渡辺淳一は、男が射精までの時間を引き延ばして、女がオルガスムスを得る機会を増やすことを、女に対する男の奉仕として描いています。

伊藤:男が女の性的快感にもっと気を配れば、男女関係がうまくいくということかね。

私:くだけて行ってしまえばそういうことでしょうね。しかし、彼らはまだ不十分だと思います。彼らも、ペニスの膣への挿入と射精を性行為の本質部分だと思い込んでいるからです。性行為が快感なのは(あるいは快感を予想させるのは)、繁殖をもたらすからです。繁殖という観点からは、個々の人間がどう感じるかが問題ではなく、膣内射精による受胎が達成されればいいのです。だが、人間は性行為と繁殖を切り離すことを覚えた。本来繁殖のための手段でしかない性的快感を、それ単独で求めようとするようになった。受胎を避けるためには避妊をする。だとすれば、膣内射精も不要なわけです。

伊藤:しかし、ペニスの挿入は性的快感の本質ではないのかね。

私:膣には性感帯はないようです。女にとっては、どんな形であれ、性的快感を得られればいいのです。膣挿入にこだわることはありません。

伊藤:だが、男にとっては、射精が必要だろう。

私:ペニスの相方は、手でも口でもいいのです。しかし、性的快感は感覚次元にとどまるのではありません。男は女が自分によって快感を得るのを見ることによっても興奮します。場合によっては、射精も必要ないかもしれません。これは高齢になると実感するのですが、男は勃起を維持しにくくなります。それでも女を快感させることはできます。そして、そのことで、男も性的快感を得ることができます。さらに、女も見られていることで興奮するのです。

伊藤:性に支配欲とか、そういう異質なものを取り入れるのか。

私:そこが、先ほど触れた、精神、心理、感情、感覚の関係に絡んでくるのです。男は、自分によって喜びを得ている女に、女は、喜びを与えてくれた男に、愛を感じるのではないでしょうか。必ずとは言えないでしょうが、そうなる妥当性は大きいと思われます。ローレンスや渡辺淳一は、そのような愛の力が秩序にぶつかっていくことを描きましたが、秩序の内部でもそのような愛は可能なはずです。それゆえ、テクニカルな問題だと私は言っているわけです。

伊藤:つまり、性に反秩序的性格を持たせる必要はない?

私:人間にとって、性の本質は喜びなのです。それが正当に得られるなら、なぜ反秩序になる必要があるでしょうか。生物個体にとっては、性は繁殖のためのものです。遺伝子も私たちにそうさせるようにしむけています。しかし、私たちは、生物の機能としては性の周辺でしかないものを、性の実質とすることができます。いわば遺伝子の仕事からかすめ取っているわけです。それをテクニカルな問題とすることで、もっと愛を開発することができるのではないでしょうか。下肢の麻痺したクリフォードでも、コンスタンツと性の関係を成り立たせることができたはずです。

伊藤:おいおい、伝道者じみてきたね。しかし、私にはやはり出会いの偶然性が左右する余地が大きいと思われるのだが。それと、愛の継続性の問題だね。性を中心とした結びつきは、いつかは飽きがこないだろうか。

私:愛が永遠である必要はないでしょう。継続性が問題となるのは婚姻関係においてであって、愛とは別の次元の話です。

伊藤:それが私の言う秩序ではないのかね。愛がエゴの求めるものなら、秩序がそれを妨げる。

私:そこに芸術が生まれる、とおっしゃりたいのかもしれませんが、婚姻制度も変化します。具体的には、離婚と再婚がしやすければ、秩序が愛を阻むことは少なくなるでしょう。『失楽園』では、主人公の二人は心中します。理由の一つは、いまが愛の状態の一番いい時期であり、これから先は下るしかなくなる、というものですが、これは納得しうるものではありません。なぜなら、未知の行程において、頂点であることは、そこから下りだしてから分るのであって、いまいるところが頂点かその手前かの区別は、下りだす前には区別がつかないからです。まあ、この辺の屁理屈は置くとして、二人が周囲の状況に追い詰められたことも描かれています。女は家を出るのですが、夫は離婚を承知せず、実家の母からは離縁を申し渡されます。男は職を失い、妻からは離婚をせまられ、やはり家を出ます。二人はマンションの小さな部屋を借りているのですが、周りから孤立して、死を考えるようになります。しかし、この設定は、心中に持っていくために無理に作られているように思えます。男の方は、「年収は額面で二千万円近いし、親から受け継いだ家が世田谷にあり、一人いる娘はすでに嫁いでいる。さらに妻は陶器のメーカーでアルバイトをしているから、かなりの小遣いを自由に費(つか)うことができる」ということですから、失職しても蓄財と退職金で経済的には余裕があるはずで、離婚手続きさえきちんとすれば、当面の生活には不安はないはずです。仕事だって見つかるかもしれない。女の方は書道の指導という仕事の可能性もある。そういう点からは、二人が一緒に暮らしていくための障害は、社会関係の縮小(孤立)や生活レベルの低下(高級ホテルや高級レストランを利用するのは難しくなるでしょう)といった程度であり、大したものではありません。むしろ、この物語は二人の幸福な出発としてもよかったはずです。しかし、悲劇的な結末が物語の質を高めると作者は思ったのでしょう。ある意味、時代錯誤ですね。

伊藤:作者はハッピーエンドが読者の反発を呼ぶことをおそれたのではないかね。そういう幸福の物語は読者にとっては縁遠いことであり、嫉妬と羨望を引き起こすだろう。

私:でも、ローレンスは『チャタレイ夫人』をハッピーエンドにしていますね。コンスタンス(チャタレイ夫人)の夫とメラーズの妻以外の周囲の人間は妙に理解があるし、コンスタンスには「母親からもらった二万ポンド」の財産があり、二人が新しい生活を始めることは可能なようです。むろん、「世間」の反発は予想されるでしょう。時代的な違いはありますが、二つの物語は同じような状況から違った結末を導きます。それはローレンスが性に大きな意義を認めていたからです。一方、渡辺淳一は、性の解放を主張しているようですが、それを思想までには高めていないのです。

伊藤:しかし、性の問題を単にテクニックに還元してしまうなら、思想性など必要ないではないか。君は性をテクニカルに捕えることで、何かを変えたいのだろう。だとすれば、それは単にテクニックの問題ではなくなるはずだ。

私:世界を変えていくのは、技術ではないでしょうか。思想はそれを追っかけて行くに過ぎないように思えます。思想が純粋に孤立して単独で生まれることはないでしょう。社会の変化が、あるいはその予感が、思想を呼び起こすのです。そして、社会の変化は技術によってもたらされるのです。

伊藤:その考えはマルクス主義的だな。生産力を技術と呼び変えただけだ。性のテクニックの変化が社会を変えるというのかね。

私:技術も単独で生まれることはないのでしょうね。他のいろいろな現象と関連しているはずです。だから、一方的な決定論を主張しているのではありません。性についても、家族制度や、生活水準や、愛情のあり方などとの相互関連の中で、変わっていくことになるでしょう。しかし、その方向は決められているわけではありません。思想がそこに影響を与えることはあり得ます。テクニックを強調することで、テクニックがもたらすものを促進することになるはずです。

伊藤:そこのところがあいまいだな。

私:確かに、まとまってはいませんね。こんなことを考えるのは、年齢のせいかもしれません。若者にとっては、性においてテクニックはさほど重要ではないでしょう。性の問題が深刻化するのは、中高年になってからです。あなたの作品も高齢者の性について取り上げていますね。

伊藤:私自身も、年齢を重ねるうちに、性に関して考えが変わってきたからね。

私:そうですね。その変化の特徴としては、性に対する罪悪感が薄れてきたことではないでしょうか。それまでは、性に対する罪悪感が、外からの社会的抑圧としてだけではなく、自分自身の内部にもありました。というより、性を描くことにおいて、そこに働くエゴイズムを指摘せずにはおれませんでした。性の喜びに純粋にひたるということはなかったのです。ところが、高齢者の性を描くようになって、ゆるされてもいいという気持ちが現れてきた。社会的には指弾されるような行為でも、個人的には容認する姿勢が出てきた。それを描くということは、エゴイズムは場合によってはゆるされるべきだということの主張ではないでしょうか。

伊藤:社会的束縛からある程度自由になるということかな。

私:そうですね。両性の(同性でもいいわけですが)の合意があれば、性という私的な領域は個人的判断にゆだねられてしかるべき、ということでしょうか。もちろん、別に配偶者やパートナーがいるときには、まさに社会的な問題になってしまうのですが、知られることがなければそれでいいのではないか。行きずりの恋というわけです。

伊藤:死の意識が働いているのかもしれない。

私:そうですね。後がないという切迫感から、取れるものは取っておこうというみみっちい意識ですね。だから、波風の立たないようにこそこそとする。

伊藤:そんな風に矮小化してほしくはないのだが。

私:性というものを、社会から私的な領域へと取り返して、そこで「エゴの充足」を得るということ、もっと声高に主張してもよかったのではないでしょうか。ローレンスのように。

伊藤:性というものを、そんなに明るいものとして受け取れなかったのだよ。性格もあるのだろうが。

私:性に対する欲望、それは幻想といってもいいと思いますが、それが強烈なのに対し、実際の性行為から得る満足はそれほどでもない。そこからいろいろ厄介なことが生じてくる。テクニックというのは、その問題を解決する大きな要素ではないでしょうか。むろん、愛し合う人間の出会いという偶然が大きな作用を及ぼすのではあるのですが、その機会を無駄なものにしないことにもなるはずなのです。

伊藤:君はそのことを思想として表現できるのかね。

私:ここで述べた以上のことは、まだ考えつけていません。ただ、「秩序とエゴ」というあなたの問題意識において、個人の役割について、あまりに悲観的すぎるというのが、私の思いなのです。さて、枚数も尽きたようです。とりあえずはお別れということにしましょう。あなたとじっくり話す機会が訪れるのは、それほど先のことではないでしょうから。

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