山名探偵事務所
1
風は海から吹いていた。真正面からの強い風なので、初心者のウインドサーファーは浜から出るのに苦労していた。浜辺にはセールを倒したボードが並び、ウェットスーツを着たボードの持主たちは砂の上にすわって海を眺めていた。その背後には、車高の高い4WDトラックやジープやワゴン車。そして女の子たち。
ちょっとしたウェストコーストだな、と山名は苦笑した。娘たちのショートパンツや水着から出た足、Tシャツやタンクトップの下の胸に目がいくが、彼女らのことは平らな腹をした青年たちにまかせておこう。スーツ姿の彼は場違いだ。靴の中に砂が入らぬように気をつけて歩くのだが無駄だった。上着やズボンの裾が風にはためく。
むろんここは陽光の降り注ぐリゾート地ではない。海の水は黒く濁り、かすかに臭う。浜の両側は埋立てが続いていて、狭い人工の入江を形作っている。
違うのはそれだけではない。カルフォルニアでは、探偵は富豪やその美しい娘たちのお相手をしてればいい。お得意を失わぬためにヘイコラせずにすむし、警察はトンマな悪役になってくれる。富の集中の少ないこの国では(もっとも最近では皆が成金の様相を呈してきているけれども)、探偵を遊ばせておくほどの余裕はない。ゴミ溜め漁りのような下らぬ仕事でもあるだけましなのだ。
浜の端にヨット用の桟橋があった。本来は港の中にヨットハーバーがあるのだが、埋立てに伴う改修工事のため、港外の突堤の陰に臨時に桟橋が作られ、船はそこへ移されていた。小さな駐車場の横にプレハブの仮屋のクラブハウスが建てられている。桟橋の入口には柵が設けられてあるが、鍵はかかっていなかった。山名が入っていくとカモメが手すりから飛び立った。金属製の手すりも床もカモメの糞で白く汚れている。
桟橋に直角に取りつけられた浮桟橋の両側に船がもやってある。浮桟橋は数本の大きな杭につなぎ止められている。風に吹かれたハリヤードがマストに当たり、短い金属音を立てていた。
山名は浮桟橋をゆっくりと歩いて、ハルの船名を一つ一つ確かめていく。凝ったり、しゃれたり、ふざけたり、野郎自大の趣味の悪さが鼻につく。
「金性」
それがめざす船の名だった。黄色いハルに白いデッキ。少し古びてはいるが、姿のよい船だ。外見には異常はない。山名はデッキに登ろうとした。
「土足のまま上がってはいけませんよ」
Tシャツ、ショートパンツにデッキシューズというお定まりの服装に、キャップをかぶりサングラスをかけた男が少し離れたところに立ち、山名を見ていた。荒々しくはないが部外者をとがめる声だ。山名は何か言い返そうとしたが、思い直して靴を脱いだ。
三十フィートもない小さな船だ。狭いコックピット。ハッチには錠がかかっていた。小さいが真鍮の丈夫そうな錠だ。山名は持っていた紙袋の中からやすりを取り出し、錠を切り始めた。この程度の錠をあけるのならもっとスマートな方法があるのだろうが、あいにくと彼はそれに習熟していなかった。うんざりするほどの時間をかけて錠を外し、海に投げ捨てた。
スライディングハッチを開け、中を覗き込む。キャビンの両側に椅子代りのバース、真ん中に折りたたみの机、フォクスルとの間はドアで遮られている。きちんと片付いていて殺風景なくらいだ。ハッチの縦仕切り板をはずし、山名はキャビンの中に入った。痛んだところはなく、荒らされている様子もない。ドアを開けてフォクスルを見た。
全裸の女が寝ていた。山名はしばらく女を見ていた。女は寝ているのではなかった。横たわっているのは死体だった。
山名は外へ出た。前部のハッチは閉まっていた。考えてみたが、この窮地を逃れるわけにはいかないようだった。ハッチを閉め、新しい錠をした。死体が逃げ去るのを恐れるかのように。それから靴をはいて電話をかけた。
2
警察はおのれの仕事を、少なくとも時間的には、第一義のものと考えている。それは交通違反でも殺人事件でも同じだ。彼等は当方の都合など斟酌する気は全くない。犯罪の摘発こそ、物事を中断させ、いかなる場所をも公開させずにはおかない魔法の言葉なのだ。
その尊大さにもまして耐えられないのは、彼等の作る調書である。すべてを平板に叙述しようとすると、なぜこのように冗長に、またかえって不明瞭になってしまうのだろう。ステロタイプの文体によって奇妙にゆがめられ、全く異なった次元で成立してしまう、こっけいであり異様でもある物語。
警察官の勝手な推測にできるかぎり異義をはさまないようにして、やっと出来た調書に署名捺印し、山名が開放されたのは夜だった。浜辺から持ってきて警察の駐車場に停めておいた車に乗った。事務所へ寄るかそのまま家へ帰るか迷ったが、とりあえずどこかで食事をすることにした。気になったので事務所に連絡してみた。美枝子はまだ事務所にいた。心配するなと言っておいたのに。
いきさつを聞くまでは帰らないと美枝子が言い張るので、山名は一緒に食事をすることにした。夜の街を見ながらビールを飲んでいると、気分が晴れてきた。美枝子はしんぼう強く山名が喋り出すのを待っている。
「岸本は何と言ってた」
「所長の伝言を伝えたら、分かった、すぐに手を打つ、と言っただけ。」
「少なくとも、彼は嘘はつかない」
岸本弁護士は、山名がなぜ死体を発見するような羽目になったか、皮肉でない言い方をするならなぜ他人のヨットをわざわざ係留地まで見に行ったかを警察に説明してくれたのは間違いない。同じように確かであうが、彼は山名が勝手に船に乗り込み、鍵を壊して中へ入ろうとしたことは理解できないと言っただろう。
「岸本の事前説明はこうだった。バブルの崩壊のあおりをくった男が債務を残して逃げ出した。そいつのヨットが残っているが、係船料がとどこうって債権者が増えそうだ。そこでヨットを売り出すことになったので様子を見てきてほしい」
山名はにやりと笑った。
「むろんそれだけの仕事ならこっちに依頼が来やしない。ヨットを譲られたと言う人間がいたりして、権利関係がややこしくなっているらしい。おまけに鍵が不明になっている。そこで岸本が俺に期待したのは、買いたい者が自由に船を見られる状態にすることだ」
「つまり、鍵をぶっ壊す」
「そう露骨には言わないがね」
ビールと食事と美枝子の効果で、疲労が薄らいでくる。頭もそれなりの働きを回復してきたようだ。
「殺されていたのは誰だか分かった」
「裸だったから当然のことだが、身元を証明するものは何も持ってなかった。しかし、身体の破損はなかったから、すぐ分かるだろう」
「犯人については」
「容疑者としてまずあげられるのは俺だろうな」
「第一発見者だから。でも、鍵がかかってたんでしょう」
「はずした鍵は海に捨ててしまった」
「死亡推定時刻はいつなんです。所長が岸本さんからこの仕事のことを聞いたのは昨日でしょう。それ以前に殺されていたなら、所長はヨットのことなど知らなかったんだし、疑われることはないでしょう」
「殺された時間と死体が遺棄された時間が同じとは限らないよ。何かの必要があって、第一発見者になるために死体を運び込んだかもしれない。あるいは、死体を隠した場所に仕事をしにいくはめになるという恐ろしい偶然だって考えられる」
「まさか。そんな馬鹿なことを警察は考えているんですか」
「心配するな。警察は俺が海に投げ込んだ錠を見つけた。犯人はその錠をかけた奴さ。ヨットの所有者か、鍵を借りた人間」
「合鍵とか、道具を使って開けることは出来るでしょう」
「単純な錠だから、開けようと思えば鍵なしでも簡単に開けられるだろう。しかし、わざわざそんなことをして開けてから、また同じ錠をかけたりするかい。錠をかけたのは鍵を持っている奴さ」
「では、単純な事件なのね」
当初の緊張から開放されて、美枝子はいたずらっぽく笑っている。頭のいい子だ。就職情報誌の募集に応じて彼女が事務所へ現れたときの自分の驚きを山名は思いだす。美枝子は冒険とロマンを夢見る娘で、彼女の興味をつなぎとめるために、山名は従来とは異なった努力を(苦笑しつつも)するようになった。
「警察の鼻を明かすようなチャンスは、われわれにはなさそうだな」
3
二人の刑事が山名を訪ねてきた。警察との協力関係を損なうつもりはないので、山名は快く彼等を迎え入れた。山名の事務所は一室きりで、二つの机(山名のと美枝子のと)と応接セットで一杯だ。面白みのなさそうな刑事たちはおとなしくソファにすわった。フロアで共通になっている炊事場でいれたお茶を運んできた後、美枝子は机に坐って何か書く振りをしながら聞き耳を立てている。刑事の口調はくだけていた。
「被害者は山の手のお嬢さんだ。死体が発見された前日、テニスクラブから一人で車で帰ったが、家には着かなかった」
「新聞で読みましたよ。死因は絞殺だそうですね。テニスクラブを出てそんなに時間がたたないうちに殺された。乱暴された痕跡あったんですか」
「おいおい、事情を聞くのはこっちだぜ。あんたの事件当日の、死体発見の前の日の行動は」
「アリバイですか。前にも言いましたが」
「もう一度聞かせてほしい」
「残念ながら、私のアリバイを証明してくれる人はいません。あの日は、調査が一件あって一日外出してました」
「調査というのは、身元調査かね。だとしたら、誰かに会ったろう」
「あいにく、見張りでしてね。しかも目指す訪問者はなかった」
刑事は開いた手帳を持ったまま黙って山名を見た。言うことを考えているのか、山名に何か言わせたいのか。もう一人の刑事は、その刑事を見ていた。
「私が疑われているんですか。鍵のことはどうなんです」
「鍵はヨットの共同所有者が一つ持っていた。確かに、海の中にあった錠の鍵だった。彼にはアリバイがある。もう一人の持ち主は失踪したままだ」
「ヨットの所有者と被害者の関係は調べたんですか」
「テニスクラブはヨットハーバーの近くだ。二人が知り合いだった可能性はあるが、確認は取れていない」
「私が犯人だとしたら、動機は何なんです。あのヨットハーバーに行ったのは初めてだったんですよ。テニスクラブなんて、場所も知らない」
「事務所は、はやっているかね」
「見てのとおりですよ。おやおや、営利誘拐の線を考えているんですか。脅迫電話でもあったんですか」
「そう思うかね」
「私の意見が聞きたいのですか」
「言いたければね」
「被害者の車はどうなったんです」
「見つけたよ」
「何か分かりました」
「今調べているところだ」
刑事が帰った後、山名に対する容疑者扱いを、美枝子はののしった。
「そう怒るな。彼等にしてみれば当然のことをやっているにすぎない」
「それにしても、第一発見者を疑うなんて安易すぎるわ」
「警察はもっと情報を持っているが、俺には教えようとはしない」
「独自に調査してみましょう」
「金にはならない」
「事件を解決したら、有名になって、依頼が多くなる。それに、疑われたままじっとしているのは探偵の名折れです」
「けしかけるね。ちょっと気になることもあるから、やってみようか」
4
アルミのドアを開けて娘が入ってきたとき、部屋には誰もいなかった。娘は黙ったまま、部屋の中を検討するように見回した。
長机二つと折りたたみの椅子六脚。スチールのロッカーとキャビネット。ロープや滑車が乱雑に入れられている段ボール箱。机の上には新聞と雑誌、灰皿が二つ。壁にはレースの予定の掲示。隅に円筒形のゴミ箱。
娘はゆっくりとキャビネットに近づき、ガラスの引き戸に手をかけた。
「何か用ですか。」
娘はびっくりして振り返り、奥のドアから入ってきた男を見つめた。
「どうしてそんな勝手なまねをしたんだ」
「怒らないで下さい。とにかくうまくいったんだから」
美枝子は持ったノートを掲げた。
「失敗してたらどうなる。相手は警戒して、ひどく難しくなったろう」
「そこまでは考えていませんでした。所長がとても欲しがっていたものですから」
「まともなやり方では相手にしてくれないだろうから、岸本の線で手配していたんだ。でも、案外簡単に教えてくれたんだな」
山名は自分の怒りが、しないでもいい警戒をして、やれば出来たことをしなかったという、プロとしての面子を失ったことから来ているのが分かっていた。素直に美枝子の手柄をほめるべきだったと後悔した。
「そんなに簡単ではなかったんです。仕方がないから『真実』を述べたわ」
山名はとまどい、美枝子が続けるのを待った。
「実は、第一発見者である私の恋人が犯人と疑われている。無実を証明する証人をぜひとも探さなければならない。――そこで目に一杯涙をためてみせる」
「全然嘘というわけではないな」
「とどめは彼等の功利心が良心を説得する手助け。早く事件を解決してクラブからスキャンダルをぬぐい去るために、いかなる努力をも惜しまないのが諸君らの義務である。提督訓示終り」
「君がそれほど役者だとは知らなかったな」
山名は美枝子のノートを見た。ノートには彼が死体を発見した日に入出港した船の船名とオーナーの名、住所が写されてある。
「そんなに多くはないな」
「まだシーズンには早いから、出艇数は少ないそうよ」
「ありがとう。助かったよ」
「役に立ちそう。でも、警察も調べているんでしょう」
「俺の調査の焦点は、警察とは違ったところにあるんだ。当たってるかどうか分からないがね」
5
ビジネス街のビルの間の道の端に車をとめて、山名は前後を見渡した。いかにも駐車違反であげられそうな道だ。他にもとめてある車はあるにはあるが、心もとない。出来るだけ早く切り上げて戻ることにしよう。
ビルの入り口を入るとガードマンが小さな机に手をのせてすわっている。山名はエレベーターの前へ歩いていった。3基あるエレベーターの右横に、このビルに入居している企業のリストの表があった。彼の目指す企業を探し当てると、ガードマンの注意を引かぬように、さりげなくエレベーターを待つ。彼等が探偵稼業に理解を示すはずがない。
エレベーターに一緒に乗ったキャリアウーマン風の女は山名を完全に無視した。彼は仕方なく女の後ろ姿を見ていた。
オフィスの中へ入った山名に誰も注意を払わない。入り口近くにすわっている娘に声をかけ、目指す相手に取次を頼む。娘は伸び上がって首だけを回し、名前を大声で呼び来客を告げると、再び自分の仕事に没頭した。何人かがこっちを見たので、山名は目を天井に向けた。
名を呼ばれた男が近寄ってきた。背が高くほっそりとして日に焼けた若い男だ。山名はぼそぼそと来訪の目的を話した。男は応接用の囲いの一つに山名を誘った。
「あの事件は犯人が分かったんでしょう」
「一応容疑者はいるんですが、第一発見者の私への嫌疑が晴れたわけではないんです。それで、目撃者とかいろいろ調べて潔白の証拠集めをしているんですがね」
「事件が起こったのは――というか死体が発見されたときは、僕らはもう出艇してましたよ」
「ええ、そのようですね。クラブの記録もそうなっています。マリーナで何か気づきませんでしたか。変わったことはありませんでしたか」
「いつもと同じですよ。特に何もなかったなあ」
「他にも出艇したか、しようとした船を覚えていますか。それと、帰港したとき先に帰っていたり、後から帰ってきた船を」
「サザンクロスが出かかっていましたよ。それとジャンジャンの連中もいたなあ。帰りはアビーロードと一緒になった」
「あなたの艇のクルーの名前を教えて頂けませんか。たしか八名でしたね」
「何でそんな必要があるんです」
「一応全員に当たっておきたいんですよ。誰かが何かを思い出してくれるかもしれない」
「本当に事件が起こったのは、前日のことでしょう。僕らが何も見るわけないじゃありませんか」
「私が知りたいのは、私の無実を証明してくれる何かです。あの日私を見かけた人がいてくれれば助かるのですよ」
「あなたが犯人じゃないとしたら、そんなに心配することはないと思いますがね」
「冤罪の起こる可能性は常にあります。私の立場はかなり不利なんです」
「犯人を見つけることが先決でしょう。警察はどう動いているんですか」
「私も容疑者の一人ですからね、手の内を見せないんでよく分からないのですが、たぶんテニスクラブとヨットクラブの接点を見つけようとしているんでしょう。犯人は被害者がテニスクラブに所属しているのを知っており、しかもあのヨットが使われないまま係留されていることも知っていた。二つのクラブは地理的に近いですから、どちらかのクラブの会員か、その関係者である可能性は高い。被害者の交友関係からは、今のところ何も出てきていないようですがね」
「容疑者がいて、失踪中なんでしょう」
「ええ、あのヨットの所有者。でも、どうやら彼は関係ないらしい。警察が今一番疑っているのは私なんですよ。私と二つのクラブの関わりについて裏づけを取ろうとしてるようなんですが、そんなものはありゃしない。もっとよく調べてくれれば、別の線も出てくると思うんですが」
「クルーの皆に会うつもりですか」
「ええ、そうしたいですね。オーナーの了承も取ってあります」
「早く犯人が見つかって、こんな面倒を終らせたいもんですね」
男はクルーのリストを作ってくれた。こんなふうに協力してくれるのはありがたい。
表に出ると、車はレッカーで持ち去られることなく無事残っていた。ビルを見上げたが、いま訪ねたオフィスの窓はどれか分からなかった。窓から覗いている人間がいても、外からは見えない。山名は車に乗り、発進させた。
6
もしもし、ミーちゃんか。ああ、ようやく電話だけは許されてね。まだ当分帰してもらえそうもない。岸本弁護士とは連絡が取れたよ。ありがとう。心配しなくていい。
まだ逮捕されてはいない。重要参考人の段階だ。
警察としては当然だろうな。目撃者が出たんだから。
車を見たというんだ。事件当日、俺の車がテニスクラブの近くにとめてあるのを見かけたという届出があったらしい。俺自身を見たというのではない、車だけだ。ナンバーまではおぼえていなかったようだ。
目撃者はカーマニアではないけれども、あんなに古い車は珍しいからよくおぼえていたそうだ。あのへんで見かけるのは高級車でしかも新車ばかりだからな。最近の若い連中は車に詳しいから車種まで特定したそうだ。
そう。取調べの刑事が口を滑らしたんだが、目撃者は「若い連中」らしい。匿名の電話か手紙などではなく、名乗り出ている。むろん、どこの誰かは教えてくれないが。
刑事にも言ったんだが、そいつらが俺を陥れようとするのは、犯人かその周辺の人間だからだ。ただし、俺が犯人でないと前提したらだがね。
もちろん俺は犯人じゃないさ。だが警察はそのことを知らないからね。警察も目撃者の証言を鵜呑にしたわけではなく、一応調べてはみたようだ。彼等は被害者とも関係がないし、俺の名前すら知らない。新聞に出たというのに。彼等が目撃証言をしたって、得することは何もない。犯人に頼まれて嘘をつくような人間とも思えないそうだ。もっとも、犯罪捜査においては印象で人を判断するわけにはいかないのは警察も承知しているがね。
もし彼等が犯人なり、犯人の関係者であるとしたら、でっちあげのためにわざわざ名乗り出てくるのは拙劣な方法だと、俺も思う。その可能性がないとはいえない。犯人がひどく脅威を感じていて、後先のことを考えずに彼の出来る限りの手を打とうとしているのかもしれない。例えば犯人が、ヨットハーバーやテニスコートに出入りする生活を、何としても守ろうとするときのように。
問題は、なぜ犯人がそんな手を打たねばならぬほど脅威を感じたかということだ。
そうだ、俺の動きに関係あると思う。俺がヨットクラブに所属する艇のクルーを訪ね歩いたのが、犯人を脅かしたのだ。俺を犯人にでっち上げるのは、捜査の目をそらすと同時に、俺の動きを封じることも狙いだったのだろう。
犯人が教えなければ、目撃者が俺の車を特定出来るわけがない。俺が訪ねたときに、犯人は俺の車を見、識別しやすいことを利用したんだ。
犯人は訪問先リストの中にいる。
もちろん警察を説得してはいる。だが、やつらは君ほど俺を信頼出来ないらしい。
だいたい、俺は車が目撃された場所も知らないんだ。警察はその場所を俺の口から言わそうとしているがね。
動機かい。しがない貧乏探偵が一獲千金を狙ったと見てくれればいい方だよ。俺を抑圧の強い変質者のように扱いやがる。俺のセックスの悩みは、人を殺すほど大きくはないぜ。
錠のことかい。警察は、俺があの錠を壊したのはもっと前ではないかと疑っている。腐食の状況からみて、もっと長時間海水に漬かっていたらしいというんだ。もっとも、海水中にあると腐食の進行が遅く、微妙な時間的な差まで判別し難いようだが。
つまり、俺は前もって錠を壊し、死体をヨットの中に入れておく。心配ならば新しい錠をかける。むろん新しい錠は壊す必要はないから鍵で開け、死体を発見したふりをし、古い方の錠がかかっていたと主張する。密室のトリックだというのさ。
そんなことをして何の得があるかって。警察の言うのはこうだ。俺は被害者を殺すつもりはなかった。ところが手違いで殺してしまった。ちょうど所有権がはっきりせず使われぬまま係留されているヨットの話を聞いたところだ。場合によっては監禁場所として考えていたのかもしれぬ。死体を運び込み、錠のかかった中にある死体の発見者となって、嫌疑を免れようとした。一応筋は通っている。
怒ったってしょうがない。大丈夫さ、今のところ決め手は車の目撃証言だけだし、たとえそれが認められたとしても、殺人に関する直接的な証拠ではない。俺が自白でもしない限り起訴は出来まいと岸本弁護士も言っていた。
いけない、何もしちゃいけない。犯人は追いつめられた獣のような気になっている。何をするか分からない。拘留期限がくれば釈放せざるをえないんだから、待つんだ。
いいね、分かったね。
よし、いい子だ。
7
グレーのBMWを駐車場に入れた若者は、それまで海の方を見ていた娘が羨望と賛美の視線を彼と彼の車に向けたのに気が付いた。ショートパンツにタンクトップ(ブラはつけていない)、長い髪を後ろで止め、きれいな額の線を見せている。もちろん、自分が美人で、身体の線も魅力的であるあることは心得ている。車に鍵をかけ、バッグを持って歩き出した若者に、娘はほほえみかけた。若者は立ち止った。
「ヨットに乗るの」
「そうだよ」
「うらやましいわ」
「乗せてほしいかい」
「いいの」
「かまわないさ」
(また山中がうるさいことをいうかもしれないが、気にする必要はない。あいつのヨットではないんだ。)
「名はなんていうの」
「ミエよ」
「俺はケン。ほかの奴に紹介するから、今知りあったばかりだということは内緒だぜ」
「アイアイサー」
(デッキシューズを履いてる。初めからヨットに乗るつもりだったのか。)
二人が桟橋を歩いていくと、出航準備中のヨットの前で、山中が立っていた。
「遅いぞ」
「すまん、出がけにごたごたしてね」
(由美の奴が今になって行きたくないとごねやがって、結局説得出来なかった。)
ミエに続いて乗り込もうとするケンを山中が引き止めた。
「あの女、駐車場にいたぞ」
「待ち合わせていたんだよ」
(あいつ山中にも声をかけたのか。)
「大丈夫だろうな」
「保証するよ」
(いや、山中はこずえと一緒だ。いくらヌケていてもアベックに声はかけまい。)
ヨットは機走で港を出る。出航の騒がしさに紛れて、唐突さへの違和感を残しながらもミエは皆に受け入れられた。差し当たり何もすることがなさそうなケンとともに、ミエはへさきに座った。
「あの人に何か言われたの」
「大したことじゃない、何かにつけうるさいんだよあいつは。自分で仕切ってるつもりなんだから」
「これからどこへ行くの」
「一時間ばかり走ったら、島がある。島陰に止めて、食べたり、飲んだり、泳いだりする」
「楽しみね」
「もっと楽しいこともある」
「こんな狭いとこで。皆の見てる前ではいやよ」
(この娘は勘違いしている。もっとも、あれしだしたら気にはしなくなるが。)
ケンはミエの肩に回した手を脇の下に入れふくらみの端をもんだ。
「帆ははらないの」
「風の向きが悪い。時間がもったいないからエンジンで走らせている」
「私何か手伝うわ」
ミエはケンの手を静かにはずし、手すりにつかまりながらキャビンの方へ歩きだした。
「手伝うことなんかないよ。飲み物をもらってきてくれ」
ミエはライフジャッケトをつけ、もう一枚に片袖を通し、缶ビールを持って、あぶなかしげに戻ってきた。
「ここで飲むならライジャケをつけろって」
「山中のやつか」
ケンはいまいましそうにともの方を見たが、ライフジャケットははおった。
「君の分は」
「あっちで飲んできたから」
かすかに雲のある青空、少しうねる海、エンジンの振動を伝えながら着実に進むヨット、髪をなびかせる風。ケンはビールの酔いもあっていい気分になってきた。
(由美のやつ、ざまあみろだ。せっかく誘ってやったのに断わりやがって。あいつなんぞよりこの娘の方がよっぽどいい。)
「さっきお楽しみって言ったろう」
「飲んで、食べて、泳ぐ以外の」
「そうさ。グラスやったことあるか」
「グラス」
「そう、マリファナ」
「ないわ。むかしシンナーはやったけど。それと、薬は少し」
「比べものにならないよ」
「持ってるの」
「ルートがあるんだ。だけどヤバイからね。おかではやらない。船でやる」
「この船で」
「そうさ。本当は一泊できればいいんだが、今日は日帰りだ」
(ああ楽しみだ、グラスとこの娘と。)
島が見えてきたので船はスピードをおとし、慎重に近づく。航路とは反対側に回り込み、錨を下ろす。島は無人島らしく、海から切り立った崖がそそり立ち、上陸は出来そうもない。崖の足もとは岩場になっている。
サンドイッチやおむすびの弁当、スナック菓子、ビールで腹ごしらえをし、海に飛び込んだり突き落としたりしてひとしきり騒いだのち、彼等はキャビンにこもった。壁の隙間から取り出した包みを中山が慎重に開ける。葉巻に似た乾燥して巻いた草に火をつけ、回しのみする。
「ゆっくりと、ふかーく吸い込むんだ。」
ケンはミエに教えたが、ミエはせきこんでしまった。しかし、もう誰も他人のことなど気にしない。それぞれの幻想の中で漂っている。
ミエはデッキへ出た。前部のハッチから山中が出てきた。やせて背の高い体に敵意を漏れ出させながら。
「グラスは気に入らないかい」
「気分が悪くなったの。船酔いかもね」
「それは残念だ。グラスは初めて」
「ええ」
「ケンからは聞いていたんだろう」
「ええ」
「ケンとはいつごろからつきあってる」
「最近」
「具体的にはどのくらい。一か月、一週間、それとも三時間くらいか」
「何が言いたいの」
「駐車場でケンをひっかけたんだろう。何が目的だ」
「ヨットに乗せてもらいたかったのよ」
「この船にか」
「どれでもよかったのよ。別にこの船でなくとも」
「嘘つけ。警察ではなさそうだ。誰かに雇われたのか」
「馬脚を現わすって言葉知ってる。そんなに気にするところを見ると、私の狙いは当たっていたようね。私は、あんたらが陥れた探偵の助手よ。やはりあんたらが犯人だったのね」
「何のことだ」
「いまさらしらばくれてもだめよ。とりあえずはマリファナで警察に告発できる。殺人についてはそれからじっくり調べればいい」
「言っとくがね、飛び込んであの島に逃げてもだめだよ。あれは無人島だし、第一、あの崖は登れない」
「私が殺されたり、いなくなったりしたら、犯人は誰か分かるようになっているわ」
「そんなのが何の保障になる。お前なんか知らない、船に乗ってなどいなかったと言えばすむ。最悪の場合でも事故ですませるかもしれない。証拠はないんだからな」
ミエは海に飛び込んだ。山中は呆然とした。ミエは島の方へ泳いでいく。山中はどうするか迷った。放っておけばいいのかもしれない。ここは航路から外れている。断崖の下の岩場では何日も生きてはいけまい。
山中はミエが泳いでいくのを見ていた。ミエは何かだいだい色の筒のようなものを抱えている。山中は絶望の叫びを上げた。
「あの野郎、衛星イーハブを持っていきやがった」
「危ないことをしたもんだな。よくやったとほめてやりたいが、今度は幸運だったんだ。下手すると、沖で海の中に放り込まれていたぞ」
「まさか最初に乗った船であんな大当たりするとは思わなかったから。何か手がかりがつかめればいいとぐらいに考えていたの。もちろん、私の行動については書き残しておいたし、もし危なくなったら、彼等にそのことは言うつもりでした」
「一人でやっては駄目だ。事故とか、そもそもそんな人間は知らないと強弁することも彼等には出来た。衛星イーハブにしたって、誤信号が多いから、君を始末して、誤作動だったと言い抜けることもできる」
「分かってます。無謀だったのは。でも、私の出来ることはそれぐらいしかなかったんです」
「感謝しているよ。それほど僕のことを心配してくれて。でも、よく衛星イーハブを使って遭難信号を出すことを思いついたな」
「少しは勉強しましたからね。で、事件のことどの程度分かりました」
「僕を陥れたのはやつらだということが分かった。でも、その理由は、僕が調べ回ってマリファナ航海のことがバレるのを恐れたからだ」
「殺人に関しては、彼等は関係なかったのね」
「振り出しに戻ったわけだ。しかし、今度の事件では君に助けられてばかりだ。僕も少しは得点をあげなくてはな」
8
こんな浅いところなら、シュノーケリングでも十分だろう。だが、水が濁って視界がきかない。ヘドロの底をはいずりまわるにはエアボンベが必要だ。水はさほど冷たくないが、長時間つかる必要があるのでウエットスーツを着た。
装備をつけた山名は浮桟橋の端から海へ入った。幸い波はない。係留されている船の位置から見当つけて潜る。五十センチ先も見えない。暗闇の手探りと同じだ。すぐに自分の位置が分からなくなる。何度も水面に顔を出し、正しい場所を確認する。「金性」の黄色いハルが目印だ。水面からでは、船や桟橋に誰かいるのかは分からない。
こんなことを昨日からやっているのだ。獲物は依然としてない。長くなりそうだ。うんざりする。
そろそろ休憩しようかと思いながら水面に浮かび上がると、「金性」のエンジンがかかりスクリューが回った。二つのハルにはさまれる寸前、山名は水中に逃れた。凶暴なスクリューが左右に動き、「金性」は他の船や桟橋にぶつかりはね返る。
山名は浮桟橋の下を潜って反対側に出た。左足を打ったが、大した痛みはない。桟橋にはい上がり、すばやく装備をはずした。「金性」を動かした男は船の上から水面をうかがっていた。
「逃げられないぞ」
男は山名を見てたじろぎ、桟橋へ飛び降り逃げようとした。山名は飛び掛かり、押し倒した。しばらくもみ合ったが、山名は男を押さえつけ、手をねじ上げた。
美枝子が飛んで来た。
「大丈夫ですか」
「見てのとおりさ」
「こいつがバッテリーとガソリンを持って乗り込み、ブイのもやいをはずしたので合図を送ったんですけど、見えませんでした」
「気を抜いていたんで注意していなかった。危ういとこだったよ」
全てがすんで警察を出てから、山名は美枝子を行きつけのバーへ連れてって謎解きをした。
「犯人が別にいるかもしれないという考えのネックになったのはあの錠だ。俺が壊して海に捨て、警察が海から拾い上げたあの錠さ。あの錠があるかぎり、錠の鍵を持っている人間が犯人ということになる。そうでなければキャビンは密室になってしまう。しかし、俺の捨てた錠と、警察の拾った錠が同じものでなかったら、話は全く別だ」
「発想の転換」
「よく考えれば、それほど突飛なことではない。あの船を利用する奴が、俺と同じこと、つまり錠を壊して海へ放り込み、新しい錠をかけるのは当然ではないかな。そしてその新しい錠を俺が壊して海へ放り込む」
「海の中には二つの錠があった」
「そう。そして警察が見つけたのは後から俺の投げ込んだ錠ではなく、先に捨てられた錠だったんだ」
「偶然錠は同じ種類だった」
「偶然ではないよ。犯人がそろえたのさ。同じ型の、同じように古びた錠を。よくある種類の錠だから難しくはない。犯人は錠を変えたのを気づかれるのが心配だったんだ」
「犯人がヨットハーバーの近くにいる人間だとにらんだのはどうして」
「確たる根拠があったわけではないんだ。俺が死体を発見したとき、土足で船に上がるのを注意したお節介がいてね。そいつのことが気になっていたんだ。だから、あの日に出艇した船のクルーに当たってみたが、その中にはいなかった」
「様子を見に来た犯人だったのね」
「さぞかしびっくりしたろうな。まさか錠を壊してキャビンの中へ入る奴がいるなんて思いもよらなかっただろう」
「犯人はヨットハーバーには出入りしてたの」
「クラブの所属艇のクルーをしたこともあるようだ。近くに住んでいるからね、事情はよく知っていて、『金性』に目をつけた。身代金目当てに被害者を狙ったのも、テニスクラブ近辺でよく見かけたのがきっかけのようだ。誘拐した被害者を、ヨットの中に閉じ込めておくつもりだったが、抵抗されて殺してしまったと言っている。見つからないために、夜にヨットまで死体を泳いで運んだ。死体はいずれ埋め立て中の海の中に沈めるつもりだったようだ。初めから殺してしまう計画だったんだろう」
「単純な事件だったのね」
「奴にとっては幸運なことに、海の中の鍵が取り違えられた。それで事件が複雑になってしまった。しかし奴は誰かがそのことに気づくんじゃないかと恐れていた」
「それで所長が錠を探そうとしているのを見て逆上してしまったのね」
「あの汚い水の中に潜るのはまいったよ。とっくに錠は見つけたけれど、奴をおびき出すために探すふりを続けなくちゃならなかったからね」