井本喬作品集

鎖骨

 山名が目をさましたとき、美枝子が足元に立っていた。

「手術は無事済みました」

「立ち会ってくれていたのか」

「終わる頃合を見計らってきました」

「立ち会うほどの手術じゃないからな。何かあったのか」

「やはり、心配でしたから」

「来るほどのことはなかったよ」

「起きてはだめです。今晩は安静にしなくては。導尿のカテーテルも入ってます」

 山名は頭をあげて毛布のかかった自分の下半身を疑わしげに見た。

「パジャマと下着の換えはありますか。洗濯しておきましょうか」

「コインランドリーがあるから洗濯は自分でできる」

「果物でも持って来ます。他に必要なものはないですか」

「果物はいいよ。病院の食事だけで満腹だ。きちんと三度食べられるし、ふだん食べているものよりはるかにましな食事だ」

「そういう患者もいることを知ったら、病院は喜ぶでしょうね」

「何か読むものが欲しいな。テレビはロクな番組はないし」

「ベッドでは文庫本がいいですね。探偵物でも見つくろってきましょう」

「探偵物は勘弁してくれ。金持ちの色男が薄幸の美女と結ばれる話がいいな。逆でもいいけど」

 医師が来て、レントゲン写真を見せながら、手術は成功だったと山名に告げた。山名は礼をいい、何かコメントしようかと迷っているうちに、医師は引き上げてしまった。看護師が来て点滴をセットし、酸素マスクをかぶせた。美枝子は帰った。酸素がすんでから寝て、目がさめると真夜中だった。寝られぬままに、山名は何度も繰り返した事件の経過の検討を、またやり始めた。

 気が進まぬ仕事はしない方がよかったのかもしれない。最初からあの依頼には腑に落ちないところがあった。電話で予約があって、横田という夫婦が事務所へ来た。依頼の内容は、横田夫人がストーカーにつきまとわれているので何とかしてほしいというものだった。あまりにしつこいので昨日警察に相談したが、具体的な危険がない状態では助言ぐらいしかできないと言われた。一応事情を聞いてみると、いやらしい内容の手紙がくる。相手は誰だか全く分からない。手紙の内容では、どこかで横田夫人を見かけて家まで後をつけたらしい。手紙は郵便で来るのではない。夜の間に郵便受けに入っている。それゆえ一層気味が悪い。

 横田氏は鞄の中から手紙の束を出した。何も書いていない白い封筒。中にはA4の白い紙にワープロで打った文字の手紙。山名はいくつか読んでみた。横田夫人の名前を書き、あなたのどこそこを何したいというような卑猥な言葉が書き連ねてある。横田夫人は三十前後、美人というより手頃という感じ。すぐ手に入りそうな気にさせるのだろう。本人の罪ではないが。

「郵便受けを見張ってみましたか」山名は聞いた。

「一晩やってみたが無駄だった。毎晩見張るのはきつい。それに、見つけたとしても、とがめれば逆に襲ってくるかもしれないだろう。それでやめた」横田氏は答えた。

「この手紙には、奥さんの行動について具体的な場所と時間が書いてあるのがありますね。これはデタラメではない」

 横田夫人はうなずいた。

「では、奥さんをつけていた。気がつきませんでしたか」

「いいえ、全然」

 山名は考えた。やりようによっては簡単な仕事だ。

「で、具体的には何を希望されます」

「こいつが誰かをつきとめてほしい。相手が分かれば何とでもできる」

「そうですね。手紙の指紋は調べてないですね」

「してない」

「大して役には立たないでしょう。お宅を見張るか、奥さんを見張るかですね」

「これはあまり外出しないようにしてる。手紙は三日に一度ぐらいくるんだ。今晩ぐらい来そうだ」

「では、郵便受けを見張って、見つけたら後をつけて身元を確かめる。それでいいですか。大体何時頃か分かりますか」

「はっきりしないが、深夜じゃないかな。二時か三時頃。少なくとも、十二時以降だよ。そのころ入ってなくて、翌朝入っていたことがある」

「料金をご了承いただければ、とりあえず今日から三晩、見張ってみましょう。明るいうちにお宅に寄せてもらって、近所の地理を確認しておきます。午後はご在宅ですか」

「俺は仕事だが、こいつはいるよ」

 横田夫妻は料金については文句をいわず帰った。彼らは美枝子の気に入らないようだった。

「あの旦那はヤクザっぽいですね。奥さんも食えない感じ」

「外見で判断してはいけない」

「旦那は何してるんですか」

「建築関係といってたな」

「あの旦那なら、奥さんにちょっかいかけるような奴を人任せにしておかないと思うんだがなあ」

「嫁さんほど気にしてないのだろう」

「ストーカーが誰か、本当に知らないのですかね」

「知っているかもしれない」

 それで山名は横田夫人を訪ねたのだった。ストーカーが見ず知らずということは稀である。たいていは過去何らかの形で接触があった人物だ。分れた夫とか恋人というのも多い。山名は横田氏のいないところで夫人に確かめたかったのだ。しかし、夫人は否定した。過去に付き合った男は何人かいるが、変な別れ方はしていない。

 山名は見張りの段取りをした。横田夫妻の家は小さな住宅が建て込んだ中の一軒。幸い向いに小さな駐車場があり、車の陰にひそむことができる。ストーカーが移動する経路を予想するために近所を歩いた。ストーカーが車で来ることを考えて、自分の車のとめておくところを探す。横田夫人に駐車場で見張ることを告げていったん引き上げた。

 念のため、十一時頃から見張りについた。昼間は車が五台ほどしかなかった駐車場は十数台の車で埋まっている。入口の横に停まっているミニバンとその横のセダンの間のすき間に入り込む。コンクリートの上に樹脂の敷物をしき、尻を置いた。三脚にカメラをセットする。玄関灯の明りで何とか写るだろう。カモフラージュと寒さよけの毛布をかぶる。携帯電話をマナーモードにする。後は待つだけだ。待つのはなれている。

 三時を過ぎても誰も現れない。さすがに眠くなってきた。それを待っていたかのように襲われたのだ。駐車場の入口からすっと入って来て、二三歩で傍まで寄られ、気がついたときには鉄パイプのようなものが振り下ろされていた。防ぎようがなく、体をひねるのが精一杯だった。左の肩にまともに当たった。息ができなくなり、力が抜けたが、次の攻撃を避けるため背後に倒れて足をあげ必死で蹴った。車の間が狭いため、狙いが定まらないらしく、ちゅうちょしているすきに、ミニバンの下へ転がり込んだ。大声で、どろぼう、と叫んだ。すぐに逃げたようだが、しばらく叫び続けた。

 駐車場に面した家の窓が開いた。山名は車の下からはい出した。左手が上がらない。左肩を右手で探ると皮膚の下に何か突き出ている。山名は開いた窓に向かって、ケガをしたので救急車を呼んでくれるように頼んだ。横田の家のドアを叩いて開けさせ、襲われたことを話し、警察に事情を説明することの了解を得た。カメラなどを預けた。携帯電話で美枝子に連絡し、車のことを頼んだ。救急車が来たのでおおまかなことを話し、病院に搬送してもらう。救急搬送された病院で鎖骨骨折と診断され、即入院となった。救急車から連絡が入り、警察が事情聴取に来た。

 手術をしたのは入院後五日たってからだった。病院に運ばれるまでも、病院で手術を待つ間も、傷の痛みはなかった。痛んだのは、探偵としてのプライドだった。

 山名はベッドにすわって、美枝子の報告を聞いた。

「萩原さんから依頼の奥さんの素行調査は今のところ収穫なし。永沼さんの娘さんの居所調査は、友人からの有力な情報があって当たっています。案外簡単に見つかるかもしれません。身上調査の依頼が二件ほどありましたが断りました。手が回らないし、そういうのは出来るだけやりたくないですから。岸本弁護士から依頼のあった件は、結局断られてしまいました。時間がないということでしたが、私では不安だったようです」

「断った分は、丁寧にしてくれただろうな。好き嫌いで仕事ができる身分ではないし、誰かの紹介だったら、商売に差し支える」

「ご心配なく。相手が信用できないのなら、結婚も雇用もする資格なし、なんて怒鳴りつけるようなことはしませんでしたから」

「すまない。君にとやかく言う資格は俺にはない。君にまかせること自体、すべきことではなかった。君に無理をさせてしまっている」

「謝ることはないです。そのうち、事務所の名前が変わっているかもしれませんから。ああ、それと、平野さんという女性の方から電話がありました。よく分からなかったのですが、調査の結果がどうだとか」

「あの認知症の婆さんか。一度相手をしてやったら、俺のことを妙に信頼して、いろいろ言ってくるんだ。こっちは、老人福祉のつもりで、いいかげんにあしらっているんだが」

「報告することはそれぐらいですね」

 看護師が蒸したタオルを三本ビニール袋に入れて持ってきた。

「体を拭きましょうか」

「ありがとうございます。私がやりますわ」

 美枝子は看護師からタオルをうけとり、ベッドを囲むカーテンを閉めた。

「体を拭いてもらってるんですか」

「背中だけ。あとは自分で拭く」

「脱ぎましょう」

 美枝子は山名がパジャマの上衣を脱ぐのを手伝った。

「うまいな」

「昔、ホームヘルパーの講習を受けたことがあるんです。脱ぐときは健側から、着るときは患側から」

 美枝子はベッドにすわった山名の背中を拭き、次に胸をふいた。

「これが跡ですか」

「穴をあけて鉄棒を通したから、傷は小さい。こっちのは皮膚の上から骨をつかんだときにできたらしい」

 美枝子は山名の両腕を拭いてからパジャマを着せた。

「横になって下さい。ズボンとパンツを脱ぎましょう」

「何するんだい。いいよ、後は自分でやるから」

「片手じゃやりにくいでしょう。恥ずかしがらなくてもいいですよ。事務的にやりますから」

「いいったら。外にいてくれ。すぐ済ます」

 美枝子はニヤリと笑ってカーテンの外へ出た。ろうばいした自分に腹を立てながら、山名は手早く下半身を拭いた。

 山名は美枝子を病院内の喫茶室へ連れて行った。退屈な病院暮しをまぎらわせてくれる美枝子の訪問はありがたい。

「どうもストーカーが犯人だとは思えない」

「でも、あの場所で所長を襲うのは、ストーカーしか考えられないでしょう」

「俺を襲って何の得がある。そいつの狙いが横田夫人なら、警察沙汰を引き起こしてしまうのは避けたいはずだ」

「ストーカーというのはカッとなりやすいたちが多いんじゃないですか」

「そうかもしれない。しかし、もしストーカーが俺を襲ったというなら、俺が横田の家を見張っていたことが分かったということだ。俺が駐車場にいることがどうして分かったんだろう。たとえ俺に気づいたとしても、俺が横田の家を見張っていることがなぜ分かったのか」

「そういえばそうですね」

「考えられるのは、俺が横田の家を訪問したときから見られていたということだ。そして俺が駐車場に入るのも見られていた。ストーカーはずっと横田の家を見張っていた。でも、そんなことができるか」

「近所に住んでいれば」

「まあ、そういう奴がいたとしよう。しかし、そういう辛抱強い奴なら、俺を襲うかな。俺の裏をかくことなどいくらでもできるはずだ。カッとなって俺を襲ったりしまい」

「では、他に誰が」

「俺が駐車場にいたことを知っているのは横田夫婦だけだ」

「まさか。彼らが何でそんなことするんです」

「ストーカーが実在することを示すために。もし横田夫人が殺されたりしたら、犯人はストーカーということになるだろう。しかし、ストーカーなんていないのかもしれない」

「では、横田氏が犯人なのですか」

「あるいは横田夫人。殺されるのは横田氏かもしれない」

「所長を襲ったのは男でしょう」

「女の可能性もある。男だとしても、横田夫人の情夫ということも考えられる」

「あの二人なら、やるかもしれませんね」

「だが、俺の憶測にすぎない。他の可能性としては、俺を襲うのが目的だったとも考えられる。俺を事務所からつけていれば、俺が駐車場にいることは分かる。つけられたとは思えないんだが」

「心当たりはあるのですか」

「この商売は恨みを買うことは多いからね」

「いま手がけている件とは関係ないですか」

「それも考えた。しかし、俺が手を引いても、代わりを雇えばすむことだ。それに、人を殺したり傷つけたりしてまでの案件ではないよ。不倫の証拠探しと家出娘の捜索だろ」

「岸本弁護士の件は」

「まだ具体的なことを聞いてもいなかった」

「平野さんというお婆さんは」

「あれは、認知症の症状で被害妄想なんだ。しょっちゅうカネを取られたと言っている。子供がいなくて、甥が面倒見てるんだが、手を焼いているよ」

「では、やっぱりストーカーじゃないですか。たまたま所長を見つけて、見張ってると気づいたのでしょう。それでやっぱりカッとなって見境もなく」

「俺はそんなへぼ探偵なのか」

 山名が本を読んでいると、横田夫人が見舞いに来た。山名が読んでいたのは美枝子が差し入れてくれたミステリで、他にすることがないので仕方なく読んでいたのである。横田夫人は果物のカゴを見せ、左腕を三角巾でつっている山名に対し精一杯同情の表情を作った。

「遅くなってすみません。手術が済んでからと思って」

「恐れ入ります。こちらがご迷惑をかけてしまったのに」

 山名はベッドの背を上げ、横田夫人に椅子を勧めた。

「警察は動いてくれてますか」

「なにせ相手が誰か分からないので手の打ちようがないみたい。ときどき見回りには来てくれているようだけど」

「手紙はどうですか」

「あれ以来ぷっつりと来なくなったわ。やはりあなたのことが懲りたみたい」

「それならいいのですが。少しはお役に立ったかもしれませんね。しかし、気をつけて下さい。今は様子を見ているが、ほとぼりがさめたら再開することも考えられます。それに、私を襲ったやつが、奥さんを狙っていたストーカーとは限りませんから。」

「それ、どういうこと」

「あんなに攻撃的な奴なら、とっくに奥さんに何かをしていませんか。こそこそ手紙を出すようなタイプじゃない」

「ストーカーというのは何をやるかわからない。邪魔されたのでカッとなってあなたを襲ったんだわ。やってしまった後で、後悔してるんでしょ」

「いずれにしろ、用心にこしたことはありません。もしストーカーが犯人なら、凶暴な奴ですから。警察だけで不安なら、同業者を紹介してもいいです」

「こんなことお願いしにくいんだけど、傷が直ったら、もう一度私たちのために仕事を引き受けてくれません」

「有り難いお申し出ですね。このまま引き下がっては名折れになりますし、商売にも差し支えます。しかし、完全に直るまでには半年はかかるようです。それまで待ってもらうわけにはいきません。私のことには気を使っていただくなくて結構ですよ」

「半年もかかるの」

「左手が元のように使えるようになるまではですが」

「ご不自由ね。患側が左手なのが不幸中の幸いね」

「デスクワークなら今でもできますし、歩くことには全く支障ありません。一週間もしたら退院します。」

「退院したら、仕事はされるの」

「できる仕事は。荒っぽいのは当分駄目ですが」

「あなたの仕事はみんな荒っぽいんでしょう」

「中にはそうでないものもあります」

「そう。それで少し安心した。私のために長期間仕事ができなくなってしまったら、申し訳なくて。何か紹介できるようなお仕事はない。大したことはできないけど、何かあれば」

「そんなに気になさらなくて結構ですよ。」

「電話をするわ。携帯だったら病院にいてもつながるわね」

「携帯は病院では禁止です。何かあったら事務所に連絡して下さい。事務員がいますから。私も明日にでも外出許可をもらって、事務所に顔出しするつもりです」

「そう。おちおち休んではいられないわけね。あなたの助けを必要としている人がたくさんいる」

「たくさんはいませんけどね。一人気になるお年寄りがいるので」

「ますます申し訳ないわ。私のために、そういう人たちにも迷惑をかけたことになって」

 山名は横田夫人が彼から何か請求されることを心配しているのかと考えた。そういう心配は無用のことだと言ってもいいが、言うと逆に請求しているようになってしまうので黙っていた。横田夫人はまだ何か言いそうだったが、山名が黙っているので、ようやく腰をあげた。

 来るとすぐ美枝子は不平を言った。

「ナイトキャップなんてどこにも売ってないですよ。だいたい、そんなものが日本にあるんですか。外国だって、『クリスマスキャロル』か何かの時代でしかお目にかかれない代物でしょう」

「何でもいいんだよ。頭にかぶれれば。」

「何でそんなものかぶるんです。寒いってことはないはずでしょう」

「俺もそろそろ薄くなってきたからね。寝てるときにおつむのてっぺんを見られたくはないんだよ。これかい。」

「ちょっと派手ですが、こんなものしかなかったんです」

「結構、結構。どうだい、似合うかい」

「コメントは差し控えます」

「謙虚だな。では、詰所に行って、看護師たちに見せてこよう。」

 夜の十時頃、夜間出入り口に、帽子を目深にかぶり、大きなマスクをしたパジャマ姿の入院患者が来た。窓口の守衛に手に持った手紙を見せながらポストに入れてくると言って外へ出ていった。しばらくして患者は帰ってきて、軽く頭を下げて病室へ戻って行った。あんなに頭を隠しているのは、よっぽどひどい傷を負ったに違いないと守衛は同情した。

 深夜の巡回、看護師は患者のベッドのカーテンをそっと少しだけ開けて様子を伺う。山名のベッドでは、毛布を頭までかぶり、帽子をのぞかせていた。なんであんな変な帽子をかぶって寝るのだろう、看護師は笑いをこらえながらカーテンを閉じた。翌朝、山名のベッドは空だった。

 山名は警察の車で病院に戻ってきた。警察から電話を入れ事情を説明しておいたのだが、それでも看護師に叱られ、医師に叱られた。レントゲン写真を撮って異常がないのを確認してから、ようやく放免された。病室には美枝子が待っていた。

「大丈夫ですか」

「のどがいがらっぽいのと、髪の毛が焼けたぐらいかな。肩は異常なし。君はどうしてた」

「所長が帰ってこないから、しかたなくパジャマのまま逃げ出しました」

「空振りだったら朝までに帰るつもりだったんだ」

「一体どういうことだったんです」

「君を替え玉にして病院を抜け出して、平野の婆さんのところへ行った。家の前で見張ってたんだ。そしたら案の定、横田夫婦が来た。こそこそと玄関から入っていった。鍵を持ってたんだ。どうしようかと迷ったんだが、案外早く出て来た。彼らが行ってしまってから、家へ近づいて様子をうかがったら、こげくさいにおいがする。あわてて窓をぶち破って入った。ストーブが燃え上がって火が壁や天井まで移っている。婆さんはふとんの中で動かない。婆さんを右手だけで玄関まで引きずって、外へ出た。婆さんは死んではいなかった。眠剤をのまされていたようだ。後は警察と消防にまかせたよ」

「何で横田夫婦が平野さんを殺そうとしたんですか。所長はなぜそれが分かったんです」

「まあ待て、順番に説明しよう。警察の調べが進めば分かってくるだろうが、いまのところ俺の推測の部分もある。平野の婆さんは結構カネがあったんだ。子供がなくて、ご主人がそこそこの稼ぎがあったんで、貯えていたんだ。家は持ち家、生活費は遺族年金があるから、ためたカネを使うことはない。ご主人が亡くなってから、全部銀行預金にしていたようだ。それを甥に狙われたんだ。銀行預金がペイオフになるというのを幸い、甥はそれまで一つだった預け先を分割するように勧めて、婆さんの通帳を複数にした。そしていまどき利息は変わらないし安全だからと定期を普通にした。そのとき、婆さんには内緒でキャッシュカードを作った。それを使って少しずつ預金を引き出していた。婆さんは預金のカネを使うことはないから、カネを引き出したことは通帳には記帳されない。甥は念のため通帳は預かって、ときどき婆さんに残高を見せていた。ところが婆さんはだんだん被害妄想が出てきて、通帳を取られたと言うようになった。甥がなだめるんだが納得しない。婆さんはどこで聞いたか、俺のところへ電話して、通帳のことを調べてほしいと依頼してきた。俺は婆さんのところへ行き、甥も訪ねて事情を聞いた。婆さんは認知症だったから、俺はすっかり甥を信用した。通帳も見せてくれたよ。そのとき俺の言ったことが奴を慌てさせたんだろう。通帳は記帳していないから利子が記入されていなかった。俺は利子を記帳しておいた方が年寄りが安心するんじゃないかと言ったんだ。その後も平野の婆さんは甥に俺のことを言うもんだから、危ないと思ったんだな。実は、横田の妻はホームヘルパーをしていたことがあって、平野の婆さんのところへも行っていた。横田と甥がどう結びついたかはまだ分からないんだが、横田が脅していたんではないかな。横田の妻と甥の間に男女関係ができたのか、あるいは横田の妻が甥が婆さんのカネをちょろまかしているのをかぎ付けたのかもしれない。甥は横田夫婦を抱き込み、横田夫婦はストーカーの話をでっちあげて、俺を襲ったんだ。襲ったのはたぶん横田だろう。俺を殺そうとしたのか、傷つけるだけだったのかは分からない。いずれにしろ、俺を平野の婆さんから遠ざけたかった。婆さんもいずれ片付けるつもりだったんだろうが、俺の傷が意外に軽いので、あわてて実行したんだ」

「横田の妻が見舞いに来たのは、所長の状態を探るためだったんですね」

「俺はわざと翌日外出すると言って、奴らをあせらせた」

「でも、なぜ横田夫婦が平野さんとつながりがあるのが分かったんですか」

「君のおかげだよ。君はホームヘルパーの講習を受けたことがあると言ってたね。横田の妻が『患側』と言ったのを聞いたとき、君と同じ言葉を使っていると思った。そういう言葉を普通は使わない。横田の妻も半身麻痺の人の介助を仕事としていたことがあると推測した。俺の関わっている件で、高齢者といえば平野の婆さんだけだ。そう考えると、彼女の態度の不自然さが納得いった。だから、罠をかけてみたんだ。あいつらが俺を罠にかけたみたいに」

[ 一覧に戻る ]