井本喬作品集

唯野教授の私小説論

 私は以前から筒井康隆を、野暮な言い方ではあるが、「自然主義」的な作家であると見なしてきた。そして、伊藤整との類似性を、ばく然と感じていた。あいまいな概念で混乱させるつもりはないのだが、自然主義的という言葉を私は次のような文章に対して使っている。

  その間も、女は、その商品の宣伝の続きを、よどみなく、なめらかに喋っていた。種村恭助は平気でいようとした。その目の働きは明らかに商売用の、人を目でとらえて自分のまわりに引きとめようとする性質のものであった。それをいまこの女は、女客でなく、男の自分に対して使って、言葉よりも声の魅力の効果を確かめようとしている、と彼は思った。だが、種村恭助はそれが分っていながら、その女の貴族的に見えるよく張った鼻梁と、黒い大きく見開かれた目と、輝くような白い頬とを、どきっとするような効果で受け取ってしまった。彼の心はおさえるすべもなく動いた。この女を自分のものにし、この女を抱きしめ、この女の衣服をめくり、この女を‥‥と彼の感覚はすでに反応してしまった。そして彼は、自分のその動揺があらわに女の目に暴露されたことを感じた。しかも、その最後に、しかしおれにはそれをするだけの資格もなく、地位や容貌の魅力もなく、この女を左右する金もない、どこかの金持ちの中年男か、役者のような厭らしい気障な男にこの女は自由にされるのだ、という敗北の意識まで、その女に見て取られた、と彼は思った。

  彼はそこからエスカレーターの方へ歩いてゆくあいだ、女が自分の後姿を見ていることを感じた。あそこに、もう一人、私の魅力に心を乱された男が歩いて行く。もう四五年も毎日着ているよれよれになった合服を着、木綿の登山帽をかぶり、そして踵の形のイビツになった靴をはいて、全然そんな資格がないのに、私の裸の身体を撫でまわすような目つきをしてあの男は通っていった‥‥そう思っているにちがいない。種村恭助はやりきれなくなった。(『氾濫』)

 

  彼女の向い側の席にいる若い工員は、まだ七瀬の様子をうかがい続け、つけこむ隙を見つけ出そうと躍起になっていた。自分の餓えにぎらぎらした視線が彼女に嫌悪感をあたえるのではないかといったような心遣いは、その若い狼には無縁だった。狼にとって七瀬は餓えを満たす対象のひとつでしかなく、だいたいそれ以前に彼は、女に人格というものがあることなど想像したことさえないようだった。七瀬は何度も、彼に犯されている自分の姿を見せつけられていた。
 若い男たちが自分を見て心に浮べる想念を、七瀬はすでに無視できるようになっていた。むしろ、何とも思わない男に出会ったりするとかえって驚いて、逆にその男の意識を深く観察する気になったりした。当然のことだが、男たちはすべて色欲に関して貪欲だった。目前に迫った破産を案じ続けている男でさえ、七瀬を見ると心の中で彼女を裸にしはじめるのだ。七瀬はそういった男たちの非社会的、非道徳的な情意を最近ではある程度理解し、許せるようになっていた。男にとってなくてはならぬものと認めてもいた。しかしやはり、目の前にいる男が心の中で突然裸の自分に突拍子もない恰好をさせたりすると腹が立った。(『七瀬ふたたび』)

 伊藤整は心理分析をやっている(つもり)であり、筒井康隆は超能力を描いている(つもり)なのである。七瀬がエスパーでないとすれば、彼女の思念は色情的な妄想としか受け取られないだろう。いや、七瀬のテレパシ―は、種村恭助の場合と同様、むしろ男の(そして作者の)被害妄想的な思考の投影なのである。そしてこのような心理分析が、隠された(装われた言動の下の)本心―—真実を明らかにするというわけだ。
 だが、潔癖であることを自負しながら絶えず欲望に悩まされている思春期の人間のような反応を、だれもがするわけではない。

  女の人は連れの女中との話を其儘、打切って、今度は急に――寧ろ発作的に赤児の頬だの、首筋だのへ、ぶぶぶと口でお灸(とも少し異うが)日本流の接吻を無闇にした。赤児はくすぐったさうに身もだえをして笑った。女の人は美しい襟足を見せ、丸髷を傾けて、尚しつっこく咽の辺りにもそれをした。見て居た謙作は甘ったるいやうな変な気がして、今は真正面にそれを見てゐられなくなった。彼は何気なく首を廻らして窓外を眺めた。そして、此女の人は未だ甘ったれ方を知らぬ赤児よりも遥かに上手に甘ったれてゐると思った。

  若い父と、母との甘ったるい関係が、無意識に赤児対手に再現されて居るのだと思ふと、謙作は妙に羞かしくもなり、同時に餘りいい気持もしなかった。然し、精神にも筋肉にもたるみのない、そして、何となく軽快な感じのする此女の人を謙作は美しく感じた。彼は恐る々々自分の細君としてかう云ふ人の来る場合を想像して見た。それは非常な幸福に違ひなかった。一時は他に何物をも欲求しないほどの幸福を感じさうな気さへした。
「さあ、今度おんりするのよ。君やにおんぶしてエッチャエッチャって行くのよ」美しい細君は赤児を女中におぶせながらこんな事を云った。そして電車の停まるのを待って降りて行った。

  謙作は何と云う事なし、幸福を感じて居た。此幸福感は其人の印象と共に後まで、彼の心で尾をひいて居た。(『暗夜航路』)

 自然主義とロマン主義の対立を、類型として、非歴史的に使うとすれば、作家の資質に帰してみたくなる。伊藤整については、本多秋五が「自然主義的」という指摘をしている(『物語戦後文学史』)。彼の心境小説やマルクス主義文学への批判は、そのロマン主義的要素に対する自然主義的な反発であったともいえるのではないか。筒井康隆と伊藤整の類似もこの点にあり、自然主義的反発が自然主義文学への技術論的批判として表現されるという、錯倒した関係も共通である。

 私はここで(伊藤整を媒介とした)志賀直哉対筒井康隆という図式を検討してみたい。常識的には自然主義文学とSF文学という様々な意味での対照が予想されよう。しかし、対立は相違を極端にしてしまう。極端さはバランス感覚の欠如のゆえに足払いをかけやすい。私の目的はこの対立図式の常識をよろめかせてみることである。

 唯野仁は真田佐平という先駆者を持っている。これほど明らかなことを誰も言及していないのは不思議である。大学の内実を暴くような小説は珍しいものではない。大学だとて組織一般において見られる権力闘争や出世をめぐる争いから免れているはずもなく、教授たちだとて名誉や金銭や性に関心があるのは当然である。今どき大学に真理や正義を求めるような奇特な人はいないであろうから、その実態が世間一般の集団よりもみみっちく、それゆえ一層すさまじいものだとしても誰も驚くまい。したがって大学が舞台だというだけでは、両者の共通な性格としては弱いかもしれない。

 さらに、二人の立場はちょうど逆に(対称的に)なっている。唯野仁は早治大学文学部の教授でありながら小説を書く。真田佐平は三立化学の技師長兼任の取締役であるが、母校の大学院の講師になる。性格的には、唯野仁は自信家であり、真田佐平は内向的である(自信家であるから軽薄であるとは言えず、内向的であるからといって自負心がないわけではないだろうが。)唯野仁は独身であるが真田佐平には妻子がある、等々。

 しかし、二人の対称性は理論と実践において優れているという共通性から由来している。唯野仁は文学理論家であるとともに、書いた小説が芥○賞を受賞する。真田佐平はサナダイトの発明によって会社に利益をもたらしたという実績がある一方、「接着力の推計学的考察」という論文によって学問的にも有名である。

 作品の主人公に幾分なりとも作者の思い入れがあるのが当然だとすれば、理論と実践の統合ということこそ、共通な要素として取り出すことができるのではないか。筒井康隆も伊藤整も方法の意識の強い実作者である。筒井康隆は作家とは逆の立場の文学部教授唯野に、伊藤整は化学という別の分野の研究者である真田に、それぞれ自分を託して、理論に強い作者の像を提示している。

 文学における方法の意識は、リアリズムという強力な方法に対抗しようとする作家が持たざるをえないものである。方法の主張者は自然主義に対する批判者である。

 しかし、日本における自然主義批判は奇妙な形をとる。私小説に現われているような自然主義の日本的形態は自然主義の誤れる適用であるという批判がある一方、自然主義の時代的制約に対する批判もある。私小説は、自然主義の拙劣な適用と、自然主義という時代遅れの方法の信奉において、二重に批判される。言うまでもなく、二重否定は否定の強調ではなく、否定の否定つまり肯定である。私小説は非自然主義的な作品として、肯定的に捕らえられる視点があってもいいはずなのである。日本の自然主義はロマン主義の一形態であるという指摘は早くからなされている。日本的自然主義の批判者はリアリズムの擁護者になってしまうというねじれがそこに生じる。

 筒井康隆と伊藤整は自然主義作家であるというこの論の冒頭の私の感想は、少なくとも伊藤整の方法的主張と矛盾しない。彼の新しい方法とは、人間性に対する否定的な見方という自然主義的性向のより効果的な表現を目指したものであるからである。このことは、「調和型」に対する彼の反発によく見ることができる。

 今日重点をおかれている志賀的調和感は、外的に言えば階級や身分意識によって脅かされて居り、内的に言えば性の中にある邪悪で抑制できないもの、即ち精神分析学の開いたリアリズムや、潤一郎的な性に基づく人間危機感によって脅かされているのである。(「近代日本人の発想の諸形式」『小説の認識』)

 いみじくも彼はそれを「リアリズム」と言っている。一方、筒井康隆はあくまで現実とのつながりを断ち切ろうとしているようである。

 こうした(人間性の探究という――筆者補足)至上の命題のため、主流から追いやられた超現実主義、反自然主義の作家たちは何らかの形で自分たちの作品にも現実との有機的つながりがあるのだと強調せざるを得なかったのではないか。しかしシュールリアリズムや反自然主義の作品を、その作家たちが、別の現実、もうひとつの現実または現実の真なる部分の拡大であると、現実ということばを強調して主張しなければならない理由はどこにあったのだろう。なかったのではないのか。そうした作品にとって、より重要なのは美であった筈であり、そうした作家にとって必要なものは、現実ではなく現実にあり得ぬものさえ想像できるほどの想像力だったのではないだろうか。(『着想の技術』)

 筒井康隆のこの主張をよしとしなければならない。事実、評論家たちも自然主義への攻撃において、現実をよりどころとしがちなのである。リアリズムでは今日の複雑な現実を描けない、それをなしうるのは想像力であるといったふうに。想像力が現実認識の手段とされてしまうのである。リアリズムが現実を描いていないとすれば、それは想像以外の何に由来するというのか。

 しかし、筒井康隆も次のような後退した発言もしている。

 自然主義と超虚構性という手法の違いはあるが描こうとするところは共に自己の内なる宇宙であり、そう考えてみると自然主義と超虚構性の行きつく先は文学の極北、極南ではなく、円環構造の接点なのではないだろうか。想像力のみによる美の創造が内宇宙という円環上の接点から自然主義に回帰できるのであれば、それもまた常に自己の内なる小天地という現実を映し出す鏡になり得ているのだから、現実を重視するが故に超虚構性の小説に対して批判的な批評はすべて的はずれであると言うことができる。‥‥ニュー・ウエーヴSFでなくとも想像力によって書かれた作品はすべて、現実から遊離していればいるほど自己の内部に眼を向けている度合いが大きいことは「着想」の項で述べた通りである。(『着想の技術』)

 内宇宙というもうひとつの現実。虚構によって描かれるのは「心理」なのだ。ここで筒井康隆は、新心理主義を唱えた伊藤整と再び出会う(伊藤整は『ユリシーズ』の訳者でもある)。しかしながら、そのような方法意識によって描かれるのは、自然主義的人間観の吐露にすぎぬ心理分析でしかないのである。

 私事であるが、先年御岳に登った帰り、木曾福島に立ち寄った。行き当たりばったりに高瀬家を見学し、そこが『家』の舞台であることを知った。それがきっかけで、初めて『家』を読み、『夜明け前』を読んだ。多少なりとも文学に興味のある身でありながらそれまで私が藤村の代表作を読んだことがないのは、日本自然主義に対する悪評が行き渡っている証拠といえよう。

 藤村という奇妙な存在には、伊藤整もとまどったようである。伊藤整の虚構理論は、「仮面紳士」の概念に表現されるように、真実は醜いものであるから、それを描くことは自らと周囲の人々を傷つけることになるので、それを防ぐために、あるいはそのような配慮が真実を描くことを鈍らせないために、虚構が使われるというものであった。いわば世間体(社会)を重視する理論である。しかしながら藤村は、自らと周囲を描くことにおいて日本自然主義的方法への忠誠の範囲内にとどまる程度に正確を期し、しかも世間体を保つことに気を使い、そのことに成功した。

 嘘を言わないということは、真実を述べることの必要条件ではあるが、十分条件ではない。作家には、何を描き、何を描かないかの選択が残されている。日本自然主義の規範は隠すな、すなわち自分にとって不利と思われることは省略すべきではない、というものであった。藤村は年代記風に、作品の構成としては余計だと思えるようなことまで漏らさず書くことで、この要求に応えている。ただし伊藤整の言う「挨拶の文体」で、あいまいに。この「狡猾な偽善者」こそ「仮面紳士」の別名でありうるのではないか。

 藤村の存在が伊藤整の虚構理論を破産させるわけではない。伊藤整が描こうとする醜い真実とは、心理的なものである。心理の告白は、行為の記述より厳しい規準が要求され、この規準を満足させるために虚構が必要とされる。伊藤整に言わせれば、心理面において藤村はリアリズム的でないゆえに、虚構を必要としなかった。すなわち、伊藤整の虚構理論は心理の醜さが前提されている。このことの理論的根拠として、フロイトが援用されるのだ。

 しかしながら、伊藤整におけるフロイト理論の影響は共鳴的なものであって、厳密な対応が認められるものではない。まず、伊藤整には無意識という概念が欠けているし、欲動を抑圧する自我が見当たらない。彼の使うエゴという言葉は、むしろイドに当たる。性本能と自己保存本能、快楽原則と現実原則という、伊藤整にとって生産的であったはずの概念は見出されなかった。ましてや、心的構造論や死の本能論などが視野に入っていたはずがない。

 にもかかわらず、伊藤整の論理展開は精神分析的なのである。作家の「エゴ」(伊藤整の言う意味での)は社会に対して隠されなければならない。ちょうどイドがスーパーエゴを憚って抑圧されるように。イドとスーパーエゴの調整というエゴの機能が、作家の創作過程に相当する。そこで成立する「虚構」こそ防衛機制の産物に他ならない。むろん、伊藤整においては、これらの過程が無意識的ではなく意識的であり、心理的ではなく社会的なものになってはいるが。

 伊藤整の理論においては、スーパーエゴが内在化されておらず、社会の制裁という外在的なものに留まっている。しかし、時として彼自身がスーパーエゴとしての視線を対象に向けている。スーパーエゴの特質は、行為のみならず思念にも非難を向ける。彼の心理描写はスーパーエゴ的断罪に他ならない。いやそればかりではない。伊藤整の破壊的視線はエゴの調整作用にも向けられている。

 家族、友人、社会等の関係においても、若し人がこの認識を強烈に持つならば、一の笑い顔、一つの握手、一物の授受においても、人間はたがいに相手の肉を食い血をすすり合う動物の群れとしての姿を露呈して見えて来る。(中略)それを我々俗徒の目から隠しているものは、生殖や競争や生や死を蔽う儀式や礼節という人工の目かくしであり、また愛国心や友情や家族愛という名で擬装された攻守同盟である。(「我が秩序の認識」『小説の認識』)

 性本能も自己保存本能も、しょせんは同じ穴のムジナであり、その対立は生の本能(エロス)の中での内輪もめにすぎない。ここまでくれば、彼の批判的眼差しは攻撃的欲動であり、死の本能(タナトス)に由来するものだと解明されはしないか。深読みに過ぎるなら、そのことにはこだわらないでおこう。

 いずれにしろ、伊藤整に見られるのは、強すぎるスーパーエゴないし社会的規制、抑圧されながら常にうごめいているイド、両者にはさまれて狡猾に生き延びようとするエゴという図式である。彼も言うように、これは社会的特性と経済水準の低さによって特徴づけられる(かつての)日本の図式でもある。その後の日本の社会・経済の発展・変化により余り厳しくないスーパーエゴ、程々に満足させられるイド、そして負担の少なくなったエゴが、「調和型」の成立を一般的にしたであろうか。

 精神分析理論がアメリカで展開して自我の調整機能を重視する適応理論になったように伊藤理論による心理分析は社会変化によってリアリティを失うのか。

 では、筒井康隆においてはどうなのか。 筒井康隆がまとまった私小説批判をしているのを知らないので、「小説『私小説』」で代用する。志賀直哉を思わせる主人公は、明らかに白樺派をもじった「赤河馬派」という文学流派に属する私小説家である。身辺雑記を書いているが面白くないと批判されている。そこで若い女中にちょっかいを出して、そのてんまつを小説にする。「私小説の二律背反」理論や「生活演技説」を何の芸もなく使って見せた作品である。しかし、筒井康隆の批判の眼目はそれらの理論とは異なっている。彼があざけりを込めて描くのは、主人公が体裁を気にして事実をありのままに書かず、美化して偽ることなのだ。

 なるほど、と私達は思う、さすがに筒井康隆は鋭い。私小説の限界を実生活との関係という表面的な現象において捕らえるのではなく、事実を書くというその主張を理論面で批判しようとするのだ。事実をありのままに書くことなど「原理的に」出来ない、それは社会的心理的な反応とも、媒体の特性から来る限界とも違うものだ、と。しかし、そこから小説における虚構の機能を引き出し、リアリズム批判が展開されるのだろうという予想に反して、筒井康隆は醜い事実の隠蔽をとがめることに専念する。私小説家は心理的に、いやむしろ倫理的に批判されるのである。ここでも筒井康隆は自然主義的である。彼の態度は、同僚の告白の不徹底さを責める私小説家のものと同じなのだ。                  

 筒井康隆もフロイトの影響を自認している。『着想の技術』の記述では、芸術論的側面に興味の中心があったようで、影響は認識的というより技術的なものであったろうか。しかし、『続精神分析入門』からの引用がなされていることから、後期のフロイト理論(「自我とエス」の構造論や「快感原則を越えて」の死の本能論)も視野に入っていただろうと思われる。筒井康隆が自己の道徳的マゾヒズムを自覚しているかどうかは別として、彼はフロイト的暗鬱さを保持している。

 個性尊重の立場からはいずれも悲しむべきことなのだが、彼らがそれぞれ自分自身に統一的自我を望んだのだからしかたがあるまい。彼らはいずれも彼の如く自分の分裂した主体を愛し続ける気などなく、組織の中で、清濁併せ呑むものわかりのいい中間管理職、控えめに意見を述べるやり手の社員、地位相応の新型車を求める重役になりたがっているのだ。その意味では臨床的でないサイコドラマは日本においてアメリカ版の骨抜きされたフロイト主義に過ぎない。しかしそのお蔭でたとえば彼のように規範から逸脱しようという意志を持った人間などは容易に「治療」できないでいる。(『夢の木坂分岐点』)

 「規範から逸脱しようという意志を持った人間」は、アメリカナイズされつつある世界への違和感を抱きつつ、孤独な彷徨をやめない。しかし、もはや秩序はさほど堅牢でなく欲望は適度に満たされており、「規範」も「逸脱」も本来の意味づけを欠いている状況の中で、「分裂した自己を愛し続ける」ことがいつまでできるのだろうか。

 平野謙は、この論の最初に引用した『暗夜行路』の部分や『網走まで』などに言及して「そういう眼はこの作者のほとんど生得のものだが、それはこの作者が電車に乗っても汽車に乗っても、本来商談や通勤とは無関係だというところにも由来していよう。いわばいつでも無目的に、この作者は電車に乗ったり汽車に乗ったりしている。つまり、世俗的な覊絆から一切ときはなたれて、作者はこの現世という電車や汽車に乗りこむのである。」とその特殊性を指摘している。むろんその特殊性の重要な要素は経済的なものである。

 しかし、現世の覊絆からときはなたれているような男に、果たして普通の意味での生活が存在するだろうか、という疑問が当然うかんでくる。吉原の引手茶屋で知りあいになった藝者にもう一度逢うため、時任謙作は古本屋をよんで蔵書や銀時計を売りはらって、金をつくる。これは作者が読者のために遠慮した一回きりの世俗的会釈であって、もともと時任謙作は藝者となんど徹夜して遊ぼうが、毎晩「放蕩」しようが、あるいは思いたってとおく尾の道や京都に長期滞在しようが、そのための軍資金を心配しなければならぬような境遇にはいない男である。中野重治の適切な表現によれば「肩に腕があり、腕に手があり、手に具合よく指がついていて、飯食うにも鼻汁かむにも格別人がそれを意識せぬように、金はそこにあり、そこにあることにたいして持ち主が純粋に意識を動かさ」なくてもすむような境遇に、はじめから時任謙作はすわっているのだ。「ある意味で好き勝手なことをいつでもやれる生活の貨幣的基礎」をいわば天降り的に担っている男である。こういう気随息子としての主人公に、果して私どものような尋常の生活形態が許されるものかどうか。(『平野謙全集 第二巻』)

 当時の「私ども」は「豊かな社会」の到来を夢想だにしなかった。

 十九世紀から二十世紀前半までのヨーロッパのような社会構造を我々が持つだろうという見透しは殆ど成立しない。機械産業と原料産地なる植民地の支配、中位の資産を持つ市民の群生は、どういう条件からも日本では不可能だとすれば、それをプロトタイプとするヨーロッパ型の芸術作品をそのまま日本に夢想することは危い。(『小説の認識』)

 ご承知のように、私たちは豊かになっている。

 ‥‥かっての文学の主要テーマであったもの——現実との衝突、生活の辛酸、人生の凝視といったものが、まるで姿を見せないということだ。つまり、生活のための苦労は、文学にならなくなった。豊かな社会がやってきたのだ。このあたりは、怠惰な私が夢物語として読みとばしてきた一九五〇年頃のアメリカ社会学者の指摘——(生産から消費へ、人口増加から減少へと、社会の動向が変われば)現実の困難と闘って努力して人生を建設する、ということが、生の主たる目標とはならない、ということと一致する。「SF」が興味ある文学形式になるであろう、と予測されていた。(秋山駿「文芸時評」一九八八年一二月二〇日毎日新聞)

 このような感想は、高度成長に象徴される戦後日本の経済的繁栄の反映であるとともに特定の日付のある認知である。一九八八年一二月というのは、「日本経済がブラック・マンデーによる株価低落の結果蒙った巨額の株式評価損と、プラザ合意からはじまった円高ドル安過程のゴールによって蒙った為替差損というかって経験したことのない二重の経済困難に直面することになった一九八八年のはじめから、史上最高の株価を更新した一九八九年末までの二年間」(宮崎義一『複合不況』)というバブル膨張の第二局面のちょうど真ん中に当たる時期なのだ。したがってこのような感想を普遍化してしまうのは危険ではあるけれども、豊かさの実感は基本的には戦後日本社会で共有されているものであろう。

 豊かさは私たちを変えたか。もし志賀直哉の文学的特性の主要な部分がその経済的豊かさに由来するのであれば、今の私たちが持つことのできる文学に彼と共通する要素を見出すことができるのではないか。

 娘は全裸になる。岩の天井に直接ついている六十ワットほどの電球の下に湯気に囲まれた娘のレグホーン色の裸体がありそれは健康そうだ。娘は見られていたことに気づき首を傾げ気味にして何か言う。小さな声だったので流れの音に遮られてよくは聞こえなかったものの、自分を抱きたいかという意味のことを訪ねたらしい。湯気でよくはわからないが笑ってはいないようだ。そうすることが仕事なのかと訊ねると彼女は大きくかぶりを振る。あなたのような人が好きですから。うなずくと彼女もうなずく。(「エロチック街道」)

 感覚優先の生き方を、私は、世の常の生き方として主張しようとは思わない。自分の老齢の好みによって、生き方一般の規準を改変しようとは思わない。しかし私は、生命がいま、感覚としてのみ私に知覚されることを知っている。感覚的なものの追求を仕事として六十に近づいた男性の私には感覚の求めるものすべてを善としたいという激しい内密の願いがある。一月ごとに鈍化し、また摩滅してゆくことが感じられるその感覚の喜びを、拒否し拘束するこの世の約束ごとすべてに私は目をつぶりたいのだ。実に長い間、私の人生の大部分を、私は世の約束ごとを怖れ、それに服従して、自分を殺して生きてきた。もう沢山だ。私にこのあとしばらくは、思うとおりにさせてほしいものだ。(『變容』)

 小説の叙述を作者の主義主張と取り違えてしまう危険をあえて無視して言えば、日本経済の発展が、作家的安定、加齢などとあいまって、作家のリアリズム的体質を変化させたのではないだろうか。それはかっての期待のように近代的自我の確立に向かうのではなく個人的・感覚的なものの重視へ、志賀直哉が批判された地点(志賀直哉のいた地点とは限らないが)へ導かれていったのではないか。

 しかし、私はここでも資質を持ち出したくなる。人を取りまく環境が変わろうとも、変わらぬものはある。(もちろん変わるものもある。)私たちが性格という古臭い概念を捨て切れずにいるのはそれなりの根拠があるからだ。彼等の破壊的なまなざしは常に興味の中心である自己を見つめてやまない。そしてらっきょうの皮むきのような追及に自虐的な喜びを感じるのだ。

 そういうお前がおれは嫌いなんだがね。いや違う。そんな楽しみなど実はおれにとってはどうでもいいことだったのだ。飲食と同様日常生活での習慣的快楽に過ぎなかった。そんなものに執着していてなんでこんなところへ来るものか。なあにを言っている。また蒸し返すつもりか。こんな討論はこれでもう何度めかね。単純なもんですなあ。軽い軽いあんたは。その時右手の急坂の頂きに夢の木が見えた。それと同時に彼の中で反論していた彼からは切り離せぬ筈のもうひとりの彼がすいと彼から離れたようだ。(中略)ひとりになった彼はやや身軽になったと感じる。そら見ろ。だからあんたは軽いんだ。単純に自分を二分割しちまったぞ。もっと多くの人格がいた筈だがね。だからこそいくつもの居場所を求めたんだろ。おや。まだいたのか。まあいいや今のところはこれだけでもおれはずいぶん身軽になったと思うんだがね。(『夢の木坂分岐点』)

  そのあとの事はゆっくり考えよう。柾子(引用者注:語り手である主人公が引き取った身寄りのない少女、死んだその母親と主人公は複雑な関係にあった)がよい子で、よい婿を取って私を大事にしようが、また柾子が不良になって私に手を焼かせようが、どっちだって構わない。とにかく柾子を自分の子にしておきたい、というのが私の正直な気持ちであった。

  だが、と私は自分の心の中を見まわした。刑事がある家の中をさがすように、私は悪意をもって、自分の心の中に少しでもあやしいものの影がないかと探しまわった。そこには不審なものの影はなかった。しかしこのおれという人間が、全く清潔なことだけの衝動で、今度のような思い切ったことをするだろうか、という疑いを私は自分自身に対して持っていた。しばらくは姿を見せないとしても、このおれという人間は油断できないのだぞ、と私は自分に言った。そしてその心の扉をしめた。(『變容』)

 自足した伊藤整や筒井康隆など、もはや彼等自身ではなくなる。彼等に心境小説など書けやしないのだ。筒井康隆の提出するユートピア(むろん額面通りに受け取るわけにはいかず、むしろアンチユートピアなのかもしれないが)は、「みな、いい人ばかりであり、やさしい人ばかりなのだ。すばらしい世界に生きている我が身の幸福を、おれは讃えずにはいられなかった。」(『長編 美藝公』)という結構なものだが、そのような人間関係を成り立たせるのは「しかしそれは、たいへん難しいことでもあるのだ」し、「本当のやさしさには、実はたいへんな信念が必要なのさ。それに観察力もだ」という、いわば作為的なものであり自然なものではないのである。事実、この作品に出てくる人物たちは、気を使ってばかりいて、息苦しいほどだ。もろく壊れそうな世界を懸命に支えているという印象。

 筒井康隆が美藝公の世界に反措定する世界は、「残虐性、残酷さが幅をきかせる子供の社会と同じであり、女性の(引用者注:私が言っているのではない、筒井康隆が言っているのだ)底意地の悪さで成立している社会」である。つまり、筒井康隆の世界であり、私には美藝公の世界より居心地がよい。

 筒井康隆の『家』(「海」昭和四十六年六月号)は題名からしても自然主義文学のパロディのように私には思われる。別の見解も可能である。世界SF全集(早川書房)第26巻に伊藤典夫がバラードの解説を書いているので、引用してみる。

 六五年のプレイボーイ誌に載った「溺れた巨人」(SFマガジン六七年十月増刊号)では、イギリスの海岸にうちあげられた巨人の死体が、人びとの好奇の眼にさらされながら、しだいに腐敗し、持ち運びできる部分は切りとられ、見あげるような骨盤だけが人っ子ひとりいない浜辺に取り残されるまでが描かれる。普通のSF作家であれば、その巨人の生まれた世界(遠い惑星?)を推測するはずだし、もしかしたら最後で巨人族が死体を引き取りに空からおりてくるシーンをつけ加えるかもしれない。だがバラードには、そういったSF的センセーショナリズムは、いっさいない。彼が関心を持っているのは、一個の〈物〉と化した巨人とそれに群がる人間たちの反応でありまた白骨化してゆく巨人の死体と、空と海と砂浜で構成される超現実的な風景なのだ。小説の最後の行は、こんな文章でしめくくられている。「高く弧を描いた白骨は、砕ける波に打ち据えられて、かえりみる人もないが、夏になると、海に倦きたカモメに格好の停まり木を提供するのである」(浅倉久志訳)

 つまり、SFの新しい試みに呼応した作品と位置づけることも出来よう。しかし、この作品がもたらしたのはもっと個人的なものであった。筒井康隆にとって書きやすかったのである。この系統の作品は少なくない。その文体は、彼本来のものであり作為を働かせなければ、無理なく自然に紡ぎだされてくるものではないのだろうか。そこにお定まりの性描写や心理分析がなければ、抑制された好ましい文体である。そしていささか退屈だ。

 方法意識は何から芽生えてくるか。自己の才能の平凡さ(平準さ)は一つの大きな源泉である。

 伊藤整の方法意識については平野謙が仔細に分析している。平野謙は指摘していないが伊藤整が自分の資質をそのまま生かしていくだけでは文学的な成功はおぼつかないという見通しを、聡明にも持っていたであろうことは容易に想像がつく。処女作『雪明りの路』に見られるのは、繊細ではあるが常識的な情緒表現であり、才能のきらめきではない。伊藤整の作品全般に見られるのは、いわゆる「目高手低」、知的な興味は引くが感動に乏しい傾向である。ただ青春を書いた自伝的作品では彼はガードを下げ生地を見せている。

 作家がその時々の文学思潮に影響されるのは当然である。文学を志す者はそれによって書き方を学ぶといってもよいだろう。幸運な者は自分の資質を見出し、伸ばし、認めさせる。ある者は自分の資質とは異なる技術を身につける。それも才能だろう。

 伊藤整は文壇的な作家だといわれる。文壇の傾向に敏感であったのは、彼の作家としての生きる道がそこにしかなかったからであろう。しかし、彼が時勢に迎合していたわけではない。平野謙が示すように、伊藤整は主流であった私小説やマルクス主義文学に対抗しようとした。彼のよりどころとなったのは技法であった。それは彼の創作過程を反映したものであった。私小説もマルクス主義文学も技法の習熟という側面はある。技法だけでも創作は出来るだろう。しかし、技法だけで文学が成り立つと信じられるほど伊藤整は鈍感ではなかった。いや、技法は単に技法にとどまるかぎり、創作の秘密を明かしはしない。技法が目的となるとき、それは思想の輝きを持ち始める。自らの資質に頼ることができず技法という小手先の技術に頼らざるをえなかった伊藤整は、かえって技法を目的化することで、この窮地を切り開いていった。

 筒井康隆はSFという分野から出発したゆえに、伝統的な文学手法とは無縁であり、むしろ対立しているように見える。しかし、もともとサイエンス的側面は希薄であったし、プロットよりもストーリーに比重が置かれると、その文体はリアリズム的素地を現わす。さらにストーリーさえ放棄されると、残るのは文体だけとなる。           

 『家』などでの筒井康隆の意図は、リアリズムの文体で非リアリズム的な事象を描くということにあるのかもしれない。なぜなら、筒井康隆の文体に特徴的な心理描写が抑えられている。心理描写はリアリズムとは異なる手法とみなされているからであろう。さらには土俗的なものの取り上げ。日本自然主義――封建性――土俗的という連想の働き。筒井康隆は自分とは異質なものとしてこれらの作品を書いたかもしれないが、少なくともその文体に関しては彼の基質的な部分によっている。文体はリアリズム的であるが、書くべきリアリズム的な世界が手元にない。その自覚が筒井康隆にあるだろうか。

 志賀直哉は忘れ去られた作家となってしまっている。彼の作品は古典として祭り上げられ、敬して遠ざかるのが一般的な態度だ。彼の評価は定まり、誰もそれに異義をはさまない。

 一時期、饗庭孝男や高橋英夫が従来とは違った捕らえ方で志賀直哉論を展開したが、支配的な志賀直哉観を崩すまでにはいたらなかったようだ。今さら志賀直哉、という反応なのか。文学者でさえ、いや文学者であるからこそ、偏見に捕らわれてしまう。

 『范の犯罪』にしろ、『クローディアスの日記』にしろ、強い意志の表明ではなく、弱々しい弁明に過ぎない。心神喪失を理由に無罪を主張している弁護士の言い分と同じである。饗庭孝男は不合理を、高橋英夫は心理をそこに見出して、従来の倫理的な要素に、いわば実存的な要素を対置させた。

 私の目には、志賀直哉の作品は「自然」に対する現象学的な接近であって、倫理的な接近ではないように思われる。それを逆に読んだところに、彼を強い「自然人」とも「古代人」とも「生活者」とも見る眼が生じたのであろう。(饗庭孝男「志賀直哉その『自然』と『夢』」『近代の解体 知識人の文学』)

 優秀な性能の視覚によってものへと媒介される志賀直哉と、視覚と結びつかない志賀直哉がいたのである。後者はいわば目を瞑って人生、宇宙、生死などを思いこらす志賀直哉であり、そこに世間があまり注意を払わない彼の観念性、理智性がある。(高橋英夫「志賀直哉論 Ⅰ.不可知論とリアリズム」『元素としての「私」 私小説作家論』)

 ここまで来たなら、思想的作家としての志賀直哉像が提出されるのが当然であろう。ところが彼等は、虚構ないし思想の欠如(感覚的)という中村光夫の志賀直哉論の圏内にとどまったままである。

 このように考えてみれば志賀直哉が現実の生活における具体的な経済的・社会的条件をみたされていた分だけ、彼の生活は抽象的になり、そうなるかぎりにおいて生活の感覚は、彼の内部の「自然」がつきあげてくる欲求によって形づくられたのだと言うことができる。こうした形態は、ふつうの人間ならばとるだろう、その欲求を社会や秩序のなかに論理づけるための概念や観念に翻訳する手つづきと、その観念操作によって他者に接する態度を志賀の内部から欠落させたのであった。(饗庭前掲書)

 それでは志賀直哉の観念性、理智性の実質的内容は何であったのか。

 『クロ−ディアスの日記』以下、明治末年から大正初年にかけての一聯の知的作品は、「逆説的風景を明か」すという以上に、志賀直哉に体質的に根深く滲透して、ほとんど彼の肉体と化していた不可知論的思索の所産だったと思われる。不可知論が彼の思想であった(高橋前掲書)

 彼等は志賀直哉に「論理」「概念や観念」を認めようとせず、あるいはせっかく「観念性」「理智性」「知的作品」を見出しても、「肉体と化していた」と形容してその独立性を損なうのである。

 『剃刀』『濁った頭』『范の犯罪』において、志賀直哉は主張している。「気分」は殺人という重大事に拮抗しうるものである。世俗的には一顧だにされないこのような言い分に、文学的リアリティを持たせるのが作家である。

 志賀直哉にテーマやプロットを抱かせる頭を認めないという傲慢な態度をやめさえすれば、作品の構成はおのずと見えてくるが、一つの証拠を提出しよう。『剃刀』の草稿(『人間の行為〈A〉』『殺人』)には、被告と判事の問答という裁判の場面がある。『剃刀』の原形は『范の犯罪』と同じような構成であった。その題名からして思想小説的である草稿では、殺人の動機が痴情と推測され、被告はそれを否定する。「気分」による殺人、そして裁判。私はどうしても『異邦人』を連想せざるをえない。志賀直哉を実存主義的と形容したくなる。

 それゆえ、昭和二六年に広津和郎に対して『異邦人』を擁護した中村光夫が、どうして昭和二八年に否定的な志賀直哉論を書いたのか、私には理解できない。カミュについては感情・感覚から遊離せぬ思想をその特徴として認めながら、志賀直哉には感情・感覚から離脱した思想がないと非難するのはおかしい例えば、次の文章を比較せよ。

 すなはち彼にとって「不条理」とは時代の現実の中に実際生きたものとして「見出される」感覚、または感情なのであり、「哲学」であるまへに、時代の生活感覚の中に、彼自身の肉眼でとらへた「発見」なのです。(『カミュの「異邦人」について――廣津和郎氏に答ふ――』)

 彼にとって「気分」は彼自身の行動と直接につながる點で、思想よりはるかに上位にあるものであり、思想は「感情の底まで浸通った」気分になったとき、はじめて「本當」に彼の個性を形成するのです。(『志賀直哉論』)

 また、思想なき作家といわれていた谷崎潤一郎に、人間性認識においてその思想性を見出した伊藤整が、志賀直哉に倫理しか見なかったのも不思議である。

 その程度の主張を思想と呼ぶのはおこがましいという人もいるであろう。事実、志賀直哉における「気分」転換(思想転換)の結果はあっけない。

  或雨風の烈しい日だった。私は戸をたてきった薄暗い家の中で退屈し切ってゐた。蒸々として気分も悪くなる。午後到頭思ひきって、靴を穿き、ゴムマントを着、的もなく吹き降りの戸外へ出ていった。帰り同じ道を歩くのは厭だったから、私は汽車みちに添うて、次の湯町と云ふ駅まで顔を雨に打たし、我武者羅に歩いた。雨は骨まで透り、マントの間から湯気がたった。そして私の停滞した気分は血の循環と共にすっかり直った。(『濠端の住ひ』)

 志賀直哉個人においては、その変化は精神衛生上の方策に過ぎない。われわれが問題とすべきは、それが作品において措定されたときである。『暗夜行路』はその思想的表白なのである。

 感覚的・感情的であること、あるいはその克服と、感覚的・感情的であること、あるいはその克服を表現ないし主張することは異なる。語る者の姿を見ず、語られた内容の次元において語る者を論ずるというのは、私小説的な読み方であろう。

 虚構の有無を私小説のメルクマールにする必要はない、という議論もある。私小説の特質は人称や事実との関係にあるのではなく、客観性の欠如、自己分析の拒否、自己の絶対的肯定などその「主観性」に求められるというわけだ。また、この主観性が単に個人的なものではなく、文壇という下位社会、西欧に対比される日本、近代に対比される封建社会などの社会文化的背景と結びつけられ、近代的自我といった概念と関係づけられる。

 このような議論には私は興味がないし、あまり生産的ではないと思っている。過去の議論には後進国・敗戦国という劣等意識のバイアスがかかっていた。最近では近代的自我などという代物に恐れを抱く人は少なくなったけれど、ひところの圧倒的な威力は、この言葉に対する自らの位置を決めなければ文学について語ることも出来ないほどであったようだ。経済的発展という現実に助けられてその拘束力から脱すると、思想や哲学が何ほどのことがある、そんなものはむしろ感性を窒息させるだけだという反動も起こる。そのような文脈の中では、志賀直哉が再評価されてもよさそうに思うのだが。(ただし、私はこのような文脈自体を否定する。)

 「主観性」にこだわれば、伊藤整も筒井康隆も私小説家であるという議論も可能であろう。彼等の描写の自然主義的傾向がどれほどの客観性を持っているのかを問題にし得る。しかし、客観性に関する基準は結局のところ作品が受け入れられるかどうかにかかっている。独り善がりであるか、感動をもたらすかの結果によっている。文学作品は批評ほど偏狭ではない。私は、伊藤整や筒井康隆の作品も、志賀直哉の作品も愛読する者である。作品の優劣に主観性だとか虚構がどれだけの作用をするのか疑問に思っている。沢部ひとみ著『評論なんかこわくない』の中に、日本自然主義文学に関する次のような言及がある。

 ところが日本では、西欧の作家がめざした「科学的真実」より、「自然の一事実」の追求に力点がおかれ、作家が生活の中でいだく心境や実感などをありのままに告白する「私小説」(「心境小説」もほぼ同じ意味)が多く書かれました。つまり、外見は自然主義、中身は浪漫主義なのです。

 この本の解説書的性格から推察すると、このような見解(「外見は自然主義、中身は浪漫主義」)がもはや定説になっているようである。確かにこのような日本自然主義文学の性格規定はしばしばなされてきてはいるのだが、あまりに一般的すぎはしないのだろうかという疑問がわく。

 青春期のロマン的心情が、社会生活の現実に幻滅するというのは、個人史的に普通のことであり、そこから批判的精神が養われていくというのもありふれたコースである。批判の対象としての社会が、機構として認識されるか、それとも複数の感情・心理のもつれとして把握されるかの違いは生じるとしても。ロマン主義の尻尾はどこにでも見出しうる。

 唯野教授は、「絶世の美人」「しかも処女」榎本奈美子と、「はじめておれのマンションにやってきた日に、もう愛しあってしま」い、いろいろ紆余曲折のあった後、ラストシーンはこうである。

  サインペンで機械的にサインを続けながら、唯野はやっと作家としての気分を味わいはじめていた。次々とさし出される本を受けとり、含羞によって読者の顔を見あげることも出来ぬまま、黙ってサインし続ける唯野の胸には次第に幸福感が湧きあがってきた。おやおや。おかしなもんだな。作家としての気分の初体験がかくも幸福であるとは予想していなかったぞ。ただ作家になれたというだけで、擬似体験的には海千山千海のおれともあろうものがこれほど幸福になれる筈はないのだ。いったいなぜだろう。幸福だなあ。こんなに幸福であっていいのだろうか。おかしいな。なぜおれは今、こんなに幸福なのだろう。

  新たに前に立ち、白い手で本をさし出したその読者の顔を見ようとして、唯野は視線をあげた。

  榎本奈美子が立っていた。

 そればかりではない、唯野教授のスーパーマンぶりは、東堂太郎(大西巨人『神聖喜劇』)とどっこいどっこいである。彼等に対立している人間たちの卑劣ぶりが描かれれば描かれるほど、私は(古い話で申し訳ないが)中村武羅夫の『蟹工船』批判、「組織悪を描くよりも、個人悪しか描かれていない」を思い出してしまう。中村武羅夫は小林の描写を自然主義的と批判するのだが、唯野の正義漢ぶりからは、むしろ自然主義以前の臭いが漂ってくる。

 もっと混乱するのは、唯野仁は時任謙作に似ていると考えるときである。彼等は自恃が強く、愚かな他人を批判するが、美しい女には弱い。そして、その気持ちだけは反省的意識から逃れる。そこから、女性を対等の人格としてでなく、鑑賞の対象としての自然としか見ないという議論も成立させることも出来よう。

 筒井康隆の自然主義的傾向を明らかにし、次にそのロマン主義的な要素を見出す。「外見は自然主義、中身は浪漫主義」という条件に当てはまるから、彼は自然主義作家である。こんなことで何かが証明されたとは思えない。

 本来ならここから筒井康隆論を始めなければならないのだろう。しかし以上で私の答案は終り。唯野教授の採点や如何。

 

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